魔法使いのかたち(著:今野緒雪)

その訪問者は、突然現れて言った。
「初めまして。魔法使いです」
菫
「……………………」
私は口をぽかんと開け、五秒くらい間を置いてからやっとのことで一音絞り出した。
「え?」
はい、初めまして。ご用件は何でしょう? ――なんてウエルカムにご挨拶できるほど、やわらかい頭は持ち合わせていないんで。
「そりゃそうです。魔法使いを見たの、初めてですもんね」
自称「魔法使い」は腕を自分の胸の前で組んで、うんうんとうなずく。
「何かのお間違いでは」
怪しげな呪文を唱えた覚えはないし、ここ最近「神様仏様」と願った記憶もない。ましてや、魔法使いなんて。
「小羽菫さん。都内大学に通う二十歳。女性。本籍地現住所ともにここ。ご両親と三人でお住まい。どこか訂正する箇所は」
「……ないです」
なるほど。
「夢か」
そういうことか。ならわかる。この、説得力のない、支離滅裂な状況も。
「やっぱりほっぺたつねるんですねー、ベタですねー」
言われて私は、顔にのばしかけた右手を下ろす。でもって、そのままこっそり左手の甲を小さくつねってみた。ちっ、痛い。
「それでも信じていただけませんか」
「信じられるわけないじゃん」
深夜に突然自室に現れて、魔法使いと名乗られても。
「インターホン鳴らして、玄関から入ったら良かった、と? あ、それも違う?」
「……っく、だって」
夢落ちという便利な解決方法を否定された上は、最初からずっと引っかかっていたある一点について指摘しなければなるまい。
「魔法使いって、普通そんな形していないもん」
人差し指を向けて指摘しながら、ついに「ぷっ」と噴き出す。そうしたら、それをきっかけにお腹がよじれてよじれて、もう笑いが止まらない。
そうなのだ。
イルカのような顔、頭にはキリンのような角が三本ついていて、身体は鳥獣戯画のカエルもしくはゴジラのような二足歩行。皮膚なのか全身タイツかは知らないが、全体が黄緑色で大きなピンクの水玉模様。身長は、一メートルちょっとくらいか。
「あははっ。魔法使いじゃなくて、子供番組のキャラクターでしょ」
初めましてルカピロロンです、ってほうがしっくりくるってば。それなら、可愛くなくもない。
「菫さん、あなた昔話に引きずられすぎですよ」
ルカッピ、じゃなかった、魔法使いは冷ややかに言った。
「過去の魔法使いは、その時代に受け入れやすくするために選んだスタイルで現れているだけで。そう。言わば変装です。あ、ちなみにシンデレラも人魚姫も眠り姫もフィクションですけどね」
「じゃ、なんであなたはこの時代に合わせて変装してこなかったの」
「えっ。見知らぬスーツ姿の男性が突然自分の部屋に現れたら、悲鳴上げちゃいません?」
「……だね」
変質者とか強盗。そうでなくても幽霊とか。
「なら、そのスタイルは、私に騒がれないようにファンタジーでくるんだ、ってわけ?」
「いえ、単に楽だからです。形変えるの、結構エネルギー使うんで」
これが、この魔法使いさんの素の姿なわけか。
「ちなみに、とんがり帽子や黒マントとかは無縁でした。所属が日本支部ですので」
「日本支部⁉」
「ええ。変装するなら、仙人とか観音様とかですかね。大概はそれで受け入れてくれるものですよ。それでは、おわかりいただけたところで本題に入っていいですか」
いやいや。まだ決して。しかし、魔法使いは構わず話し始めた。
「あなたの願い事を一つ叶えて差し上げます」
げっ。ここで、定番のセリフ言う?
「どうです。あなたがお望みの、ベタな展開」
「私、何か良いことした? それとも、哀れまれるほど不幸? 違うよね」
魔法使いが何か願いを叶えてくれる、っていうのはさ、大抵は何か理由があってのことじゃないの。ああ、この理屈もベタなのか。
「それとも、見返りに何か差し出せ、とか?」
私は、魔法使いの胸ぐらをつかんで揺さぶった。あ、実体はある。触った質感は布っぽい。ぬいぐるみ感全開だ。
「あなたのこれまでとこれからの人生に問題があったわけではないし、見返りを求めてもいませんから」
あっぷあっぷ。まるで溺れかけたように、魔法使いはバタバタと手足を動かした。
「じゃ何で」
一旦魔法使いを解放し、改めて首を傾げた。私はどこかで、そうとは知らずにランプを擦ってしまっていたのだろうか。
「これはギフトです」
魔法使いは息を整える。
「ギフト?」
「たとえば、ですよ? 人にはそれぞれ、目に見えないポイントカードがあるとします。誰かのためになることをすると、一つポイントのスタンプが押されると思ってください」
誰かのためになること?
「お年寄りに席を譲ったり、とか?」
「そのお年寄りがありがたいと思ったら、そこで一ポイントつきます。要するに、感謝の気持ちがポイントとして蓄積していく、と」
「ふうん」
「で、ある方のポイントがこの度いっぱいになりまして、それをあなたへ譲渡されたわけです。言わばカタログギフトのようなもので」
ポイントカード? カタログギフト?
「何、それ」
言葉はおなじみだけど、言っている意味はまったく頭に入ってこない。魔法使いは、わざとらしくため息を吐いた。
「これでも、この時代のアイテムを選んでかみ砕いてたとえ話しているんですけどねぇ」
なんか、上からの物言い。嫌な感じ。
「この時代じゃなければ、どう言うのよ」
「ポイントペコロキンがファッブルルしたのでカカランギフトを送られた。今から八十年から九十年くらい後だとそう説明します」
「ふん」
何がポイントペコロキンだ。テキトーな言葉並べているだけじゃないの?
「話を戻していいですか」
はいはい。ある方とやらのポイントカードがいっぱいになった、だっけ。魔法使いを全面的に信用したわけではないが、とにかく一通り話を聞くことにした。
「でもさ、ある方、って誰? 知らない人から、ギフトなんてもらえないんだけど」
うまい話には裏があるものだ。ただより高いものはない。
「会ったことはなくても、正真正銘お身内の方です」
「曾祖父さんの兄弟が遺産を残してくれた、とか。そういう話?」
それならわかる。
「ご先祖ではなく……」
魔法使いは少し上を向いて、「うーんうーん」と思案し、やがて結論が出たのか私の目を見て答えた。
「ぶっちゃけ、ご子孫のほうで」
「ご子孫⁉」
まだ結婚もしていないし、それどころか現在彼氏すらいない私に、子孫⁉
「お身内ですので、安心して受け取ってもらえますね」
魔法使いはこれで解決、と手を一つ叩いた。
「いらない」
「は?」
「だーかーら、いらない、って言ってるの。そのカタログギフトとやらを持って、次の人のところに行っちゃってよ」
「次の人、なんていませんって。小羽菫さん宛てのギフトなんですから。カタログギフトの宛名、勝手に変えられないですよね? あなたに願ってもらえないと困るんですぅ」
ベッドと壁の間にできた隙間に背中を向けてはまって、泣き真似をする魔法使い。あーやだやだ、早く帰ってくれないかな。
「帰りませんよ。あなたが願い事を言ってくれるまで」
魔法使いは、振り向いて怖いことを言った。
「……わかった」
こうなったら仕方ない、適当な願い事をして、早々にお引き取りいただこう。
「あ。でも。現金一万円ちょうだい、とかはダメですよ」
「えっ、そうなの」
当たり前じゃないですか、と右指から伸びた指し棒をチッチとリズミカルに動かす。
「この地球上にある現金は増やせませんからね。あなたに一万円渡したら、どこかで一万円の不足が生じるわけです」
それじゃ、百万円とか全然無理か。言わなくて良かった。
「なるほど。その理屈からすると、宝石とかもNGってことか」
「泥棒はできません。え。宝石、欲しいんですか」
「いらないけど。言ってみただけ」
けれど、困ったな。そうなると、食べ物も駄目ってことか。
「まあ、高級スーパーのメロンとかはそうですけど。所有者が誰だかわからない山奥に自生しているみかんがあって、このままだと鳥にも食べられないままただ腐るのを待つだけ、みたいな状況でしたらギリご用意できなくもない、かもしれませんが――」
「わかりました」
私は魔法使いの言葉を遮った。そうまでしてみかんが食べたいわけじゃないし。
「名誉や不死身の身体とかも望めません」
「じゃ、逆に聞くけど。何ならいいわけ?」
イライラと尋ねると、よくぞ聞いてくれましたという表情で魔法使いは言った。
「吾輩の得意分野は恋愛なんです」
「……吾輩」
猫か。
「特別、夏目漱石が好きというわけじゃないです。別に嫌いでもないですけどね」
なんて、魔法使いは私にとってはどうでもいい自分の情報を挟んでから。「恋愛、どうです?」と、畳みかけてきた。
「恋人、いりませんか」
端から、私には恋人がいないと決めつけてるわけだ。
「でもさっき、現在彼氏すらいない私、って」
言ったっけ? そりゃ失礼。
「でもさ」
恋愛って言われても。相手があるものだし。高級スーパーのメロンや、宝石とどこが違うっていうの。手に入るものが生身の人間ってなると、もっとハードルが高くないか。
「もちろん、お相手が既婚者だったりしたらお手伝いしません。先方も、チャンスさえあれば恋人が欲しいと思っている、フリーの男性限定で。男性でいいんですよね。恋愛対象は」
「……うん」
うなずきながら、ちょっぴり前のめりになっている自分がいる。
「魔法使いが選んだフリーの男性を紹介してくれる、ってこと?」
「それもできますし。もし意中の人がいるなら、仲よくなるようにお膳立てすることも」
意中、と言われて、私の脳内はポンと一つの画像を思い描いてしまう。
「――少し考えても」
「どうぞどうぞ。一晩じっくり考えてください。また明日の朝伺いますので」
言うないなや、自称魔法使いのぬいぐるみ妖怪は「どろん」と発して姿を消した。
何だったんだ、あれ。
布団の中でまどろみながら、考える。明日の朝、約束通り魔法使いが現れたら。
スマホを向けて、証拠写真をとってやるんだから。
ポ…ポ…ポポ…ポポポというやさしい電子音を左手で消してから、私は布団から這い出た。六時半だ。
いつもの朝。カーテンを開けてみたけれど、朝日が入って物の輪郭がはっきりした部屋の中に、件の魔法使いの姿はなかった。
寝間着のままご飯を食べるのは病気の時だけという我が家のルールに従って、Tシャツとデニムパンツに着替えてから一階へ。キッチンでは、母ができたてのウインナーエッグを皿によそっているところだった。
「おはよーございます」
「あ、おはよう。相変わらず、自分で起きられてえらいわね」
というのは、高校の時はいくらでも眠っていたくて、毎朝母にたたき起こされて、口に朝食詰め込まれて、眠気を吹き飛ばすくらいのスピードでバス停まで走っていたから。
「まあね」
私はダイニングの椅子に腰掛ける。いつもはこの時間、コーヒーを飲んでいるはずの父の姿がない。
「なんか、持っていく資料を忘れたから一旦会社に寄ってから取引先に行かなきゃならなくなった、とかでバタバタ出ていったの」
「ご飯食べずに?」
「そう。一個残っていたみかん持っていった」
お腹の足しになんかならないだろうけどね、と母は首をすくめた。
「ふうん」
誰も足を踏み込まない山奥の木に、一個だけ残ったみかん。そんな映像が、私の脳裏に映し出された。何だっけ、この話。でも。
オーブントースターがチンと鳴り、パンが焼けたので、私は考えることを手放した。
部屋着のTシャツからシンプルな水色のカットソーに着替えて、ボトムスはそのまま、すっぴんかってくらい薄化粧した私は、七時五十分にはいつものバス停に立っていた。
トートバッグの内ポケットからスマホを出して操作する。バス会社のアプリは、私の乗る予定の私鉄駅行きのバスの情報を教えてくれる。二分遅れで発車予定時間は七時五十三分。三つ前の停留所を通過した、と。
確認した後、私は大通りを挟んだあちら側を見る。ルーティーンのように。そうでもしないと、自然に視線を移せないから。
いた。
私の乗るバスとは逆方向の、JR線駅行きのバス停に彼の姿を見つける。今朝は四人の列の三番目に並んでいる。
いかにも「サラリーマンです」といった無難なスーツを着て、背は170センチ前後、太っても痩せてもいなくて、眼鏡をかけている。多分二十代後半から三十歳くらいのごくごく普通の青年だ。片側二車線の道路を挟んで見た裸眼0・7の知り得る情報といったらそれくらいが限度。左手に指輪をしているかどうかまでは、未だ見極められていない。
最初に気になったのは、半年くらい前。杖をついたお爺ちゃんの帽子が突風で飛ばされたのを、ダッシュで追いかけたのが彼。帽子は地面に落ちてからコロコロ、七~八メートルくらいは転がって、やっと拾い上げてお爺ちゃんに渡すと、何事もなかったみたいにちょうど来たバスの中に消えていった。
それから意識するようになったんだけれど、散歩中のゴールデンレトリバーに飛びつかれて顔をベロベロ舐められたり。ズボンの片方だけ折り上げられているのを気づいていなくて、靴下が剥き出しだったり。マフラーがほどけて落ちそうになっていたり。そういった、遠巻きに見る小さな一つ一つのエピソードの積み重ねで、私は彼を「いいな」と思うようになった。
「彼でいいですか」
突然、私の後ろから声がした。
「えっ」
驚いて振り返る。こっち側のバス待ちの客は、現在私一人だったはず。すると。
「おはようございます。魔法使いです」
昨夜夢に出てきたあのぬいぐるみモドキの自称魔法使いが、笑いながら挨拶してきた。
(今だ)
私はスマホをカメラに切り替え、魔法使いに向けてパシャリとシャッターをきった。不意打ちだったが、魔法使いは慌てるどころか、哀れみに満ちた表情で首をすくめた。
「あー残念。吾輩はカメラに写りません」
「えっ」
確かに、スマホのフォトアルバムを開いてみれば、ただバス停の背後にある生け垣が写っているだけだ。
「どうしてっ⁉」
私は魔法使いの身体を荒々しくさすった。昨日同様、触った感覚はある。ぬいぐるみみたいなあの手触り。魔法使いは「うひゃひゃ」と身をよじった。
「でも、デジタルになって便利になりましたな。フィルムが主流の時代は、現像してみるまでわからなかったので、無駄にお金と時間がかかってましたよ」
魔法使いは、私に触られてひしゃげた部分をポンポンと叩いて直す。
「このコンタクトは、小羽菫さん専用のチャンネルを使っているんです。あなたにだけ、吾輩の実体が存在しているんですな。なのでカメラには写らない。カメラはあなたじゃないんで」
おわかりですか、と、まるで幼稚園児と会話しているみたいにやさしげに微笑む。
「でも」
魔法使いは続けた。
「あなたの動きや声には制限を設けていないので、言動には気をつけられたほうが」
「どういう意味?」
「つまり、さっき吾輩をさすってましたけど、客観的に見たらあなたは、独り言を言いながらただ空気をかき混ぜていた変な人、です」
「――」
最悪だ。急ぎ私は、向こう側のバス停を見た。この意味不明のパフォーマンス、はたして見られてしまっただろうか。しかし、すでにバス停に彼の姿はなかった。
「彼でいいですか」
こちらがこんなにダメージをくらっているというのに、無邪気に話を進めてくるわけだ。
「悪いけど、帰って。今ちょっと頭回らない」
そうだ。冷静さを失っている時に、重大な決断をするものではない。
「いつならいいですか」
「わからない。でもこれから大学だから」
「大学が終わったらいいですか」
「その後バイトだし」
「バイトが終わったらいいですか」
しつこい。でも、この調子だと「いつ」と約束しない限り退散してくれそうにない。
「今晩、夕飯の後」
バスが来たので、吐き捨てるように言い置いて、開いた乗車口のステップに足をかけた。
「わかりました。じゃ、その頃伺います」
魔法使いは、バスの中までは追いかけてこなかった。時刻表の前で手を振る姿が小さくなっていく。それは、私だけにしか見えていない風景だった。
「こんばんは、魔法使いです」
「はい、こんばんは」
もう三回目になると、こっちにも余裕が生まれてきて、私は普通に挨拶を返していた。時間決めていたしね。大学行って、バイト行って、帰ってきて晩ご飯食べて、朝のあのダメージから何時間も経ってしまうと、もう開き直って受け入れちゃうってものだ。
「よろしければ、どーぞ」
私は両手のひらを上にしてローテーブルの上にかざした。そこには、六本のペットボトルが置いてある。ブラックコーヒー、ミルクティー、緑茶、オレンジジュース、サイダー、水。バイトの帰りに、駅前のコンビニで買ってきたもの。魔法使いの好みなんてわからなかったから、いろいろ取りそろえる形になった。正直、相当重かった。
「どれがいい? それとも飲めない感じ?」
規則的に、もしくはシステム的に。
「……ではお水をいただきます」
「OK」
魔法使いは常に左手に指し棒を持っているので、私がキャップを外して手渡した。
「ごちそうさまです」
一口飲んでから、ペットボトルはローテーブルに戻される。
「で、本題ですが」
「うん」
「バス停の彼。あの人でよければ、仲よくなるお手伝いをさせていただきます」
「でもさ」
私はミルクティーのペットボトルを開けて、ゴクゴクと二口飲んだ。
「こっちはよくても、先方はどう思っているかわからないじゃん」
そもそも。週に三日、朝、向かいのバス停にたたずむ女の子のことなんて気づいているかどうかも怪しい。
「お相手の気持ちとか一々気遣っていたら、恋なんて始められませんよ」
一理ある。ちょっと心に響いた。やだ。こんな、ぬいぐるみモドキの言葉なんかに説き伏せられて、私は「それなら」とうなずいてしまった。
ゴホンと咳払いをしてから、魔法使いは語り出す。指し棒を振ってご機嫌だ。
「吾輩は、あなたと彼とが仲よくなるためのきっかけをお作りするだけです。その先はご自分で努力してください」
「きっかけ、って? 何してくれるの?」
「それは内緒です。事前に知っていると、対応が不自然になりますからね。でも、その時になったら『これだ』って絶対わかります」
「ふうん」
そんなものなのかなぁ、と思う。
「出会ってすぐではうまくいくかわからないので、トライアル期間を設けさせていただきます。恋に発展したと我が輩が判断しましたら満願成就。合図として、鈴の音が鳴り」
魔法使いはそこで一度目を閉じ、ゆっくり開けた。
「吾輩と、吾輩の施した魔法の記憶がすべて消えます」
「え?」
「あなたと彼とは、偶然のきっかけから親しくなって、その結果おつき合いを始めたことになるんです」
「魔法じゃなくて?」
「魔法じゃなくて」
ああ、そうそう。魔法使いは続けた。
「吾輩の痕跡を残そうとしても無駄なので、やめてくださいね。記憶が消える前に魔法を記録に残そうとすると、こっちの世界で言うところのAIが察知して自動的に消してしまうんです。魔法Gメンみたいなものが存在する、とでも言いましょうか」
たとえ話が多いな。
「日記に書くな、的な?」
「そうです。肝心なところが抜けるので、支離滅裂な日記になっちゃいます。寝ぼけて書いたやつ、みたいな」
「まあ、私は日記とかやってないし」
「そりゃよかったですね、お互いに」
魔法使いは、サンタクロースのようにフォッフォッフォと笑った。
それが、月曜日の夜のこと。
明けて火曜日。
大学はあるけれど、一限目の授業がないので七時五十一分のバスには乗らない。
だから、何も起こらなかった。
まあそうだろうな、と思いつつも、いつどこで『これだ』が訪れるかわからないので、ちょっとだけそわそわして過ごした。
そして、水曜日。
私は、一日のスタートからやっちまった。
「行ってきます」
というかすかな声と、それに続く玄関ドアの開閉音を耳にして、一瞬「ん?」と首を傾げた。それは、いつもだったら歯磨きタイムに聞こえてくるはずのノイズ。しかし今、私はベッドの上で掛け布団に包まっている。
「何時⁉」
目覚まし時計を手にしてガバッと起きる。
七時二十分。
寝坊した。
寝る前にアラームをセットしなかったのか、はたまたちゃんと仕事をした目覚ましを止めた上で二度寝をしてしまったか。とにかく、自分のミス。自分が悪い。
家訓を破って、パジャマのまま一階のダイニングに雪崩れ込む。母はトーストを口に運びながら「おや?」と目を丸くした。
「寝坊した」
「えっ、今日休講って言ってなかったっけ⁉」
「休講は三限目!」
「久々、高校時代の朝の再来だわ」
言いながら母は、食べかけのトーストとサラダとスクランブルエッグで即席ロールサンドを作って私の口に入れてくれた。親って本当にありがたい。
いろいろ端折りながら身支度をして、いつもの時間より十数分遅れで家を出ることができた。二台くらい後のバスになるだろうけれど、授業には間に合うはず。ただし。今朝はあの人に会えない、それだけだ。
住宅地の入り組んだ道を抜けて大通りが見えてきたところで、私鉄駅行きのバスが、目の前を左から右に走り去るのが見えた。
やっと着いたバス停の前には、いるはずのない人が立っていた。いや、たぶん数分前には向かいのバス停に立っていたであろう人。
私たちはお互いの顔を見て、「あ」と声を発した。バス停には、他に人はいなかった。
「どうしたんですか」
つい口をついて出た。私にとっては、いつもと違うバス停にいる彼に違和感を感じたわけだが、言われた方は驚いたかもしれない。
「二つ前のバス停付近で、JR線駅行きのバスが事故に遭ったそうなんです」
「事故⁉」
「はい」
その人はため息をついてから、ここにいる事情について説明してくれた。彼はいつものようにバスを待っていたそうなのだが、なかなか来ない。代わりに徒歩でやって来た人が、バスが来ない理由を教えてくれた。いつもあのバス停で降りる人だったらしい。
「大した事故ではなかったようですが」
乗っていた客は全員降ろされた。今頃は現場検証が行われているだろう、とのことだ。
それを聞いていたバス停に並んでいた人たちは、通りかかった一台のタクシーを停め、我も我もと相乗りで行ってしまったらしい。
「要領悪くって」
彼は苦笑した。
「それで、アプリでタクシーを呼ぼうかと思ったんですけど、こんな時なんでなかなか車がつかまらなくて。だったら私鉄の方に一旦出て、違うルートで会社に向かおうと」
なるほど。
「あの。でも、こっちのバスは五分も待てば来ますが、向かう先の途中には事故現場がありますよね? 渋滞になっているかも」
私はスマホを出してアプリを開いた。まだ事故の影響は反映されていないが、普通に考えて路線バスが片側にずっと駐まっていたらスムーズに車が流れるとは思えない。それに、二つ先のバス停付近っていったら、ここより狭い片側一車線。かなりヤバい。
「あ、そうか。盲点だった」
さて、どうしよう。彼もそうだが、私も大学に行かないと。思案しながらもスマホをいじる。あれ、何ていう名前だったかな。あやふやな記憶を頼りに、バス会社のアプリにバス停の名前を打ち込み、検索をかけてみる。
「あ」
いける。私は顔を上げた。
「あの、JR線に出られれば、どこの駅でもいいですか」
「え? はい」
さっきは私鉄でもいいと妥協していた人間は、当然うなずく。私は早口で続ける。
「ここから住宅地をどんどん西に進むと、別の大通りに出るのご存じですか」
東西にほぼ平行に走る私鉄線とJR線。それをつなぐように、この地域の路線バスは南北に走っている。本来目指していた駅の隣の駅行きになるけれど、西の大通りに出ればバスでJR線の駅に行くルートはある。
「あまり本数はないんですけれど、今から十三分後にバスが来ます。サクサク歩けば間に合うと思います。そっちのバス通りなら事故の影響は受けないかと」
「この先、ですか」
知らない道を前に躊躇しているようだったので、「ご案内しますから」と私は先頭立って歩き始めた。
「助かります」
彼は素直についてくる。
戸建てが立ち並ぶ四メートル道路を、二人は並んで歩いた。いつもは使わない道を歩くのは心躍る。いや、心躍るのは気になっている人と一緒だからかもしれない。見知らぬ家の塀から飛び出す高木の枝には、今年出た葉っぱがキラキラ光っている。別の家の門柱の前に置いてある横長のプランターに見えるのは、色とりどりの花の寄せ植え。マンホールの蓋の小さな穴から顔を出した雑草さえ、はつらつと葉を伸ばしている。春だ。
「こんな道知らなかった」
「私も忘れていました。昔はたまにこっちの方にも来ていたんですけど――」
どうして来なくなったのだったか。
「僕は引っ越してきて、八ヶ月……九ヶ月かな。だから、この辺りに不案内で」
そして彼は、今は姉夫婦のマンションに住んでいるのだと言った。
「姉夫婦が新築マンションを買った直後に海外転勤になって、そこを超格安の三万円で住めることになったんで」
その代わり、姉夫婦はかなりの荷物を置いていったので、自由に使える部屋は一室で、ファミリータイプの間取りなのに1LDKに住んでいるようなものだと笑った。でも、この辺りの新築マンションで1LDKなら、三万円は破格の家賃だ。普通その三倍はする。
道なりに進むと、メゾネットタイプの集合住宅が現れた。この辺りは、たしか以前は畑だった。そしてその先は、そうだ――。
「思い出した」
「何ですか」
「この道」
両側に高木が茂った薄暗い道に、私は人差し指を向けた。
「私が中学の頃、変質者が出て。それで両親にこの道は絶対に通ってはいけない、って言われたんです」
だから、こっちの大通りには近づかなくなった。ああ、それなのに。
「通っちゃうことに」
「すみません。人助けということで、お目こぼししてもらえないでしょうか。もしご両親に咎められたら、僕が説明しますので」
「その時はよろしくお願いします」
「はい」
二人は小さく笑い合って、それから背の高い木々の間の道を足早に通り過ぎた。
そうしてまた家々の間をぬって、西の大通りに出た。
JR線駅行きのバス停を見つけると、そのすぐ側に可愛らしい木造の建物があった。クリーム色の壁にはアイビーが蔓を伸ばし、臙脂の屋根はとんがっていて、地面はアンティークレンガ、重厚な木の扉は閉まっている。見逃しそうな小さな看板が見えたから、お店のようだけれど。
「喫茶店かな。それともレストラン」
昔はなかった。本当に、数年で町の景色はずいぶん変わるものだ。
「まだ開店前みたいですね」
彼も覗き込む。
「気になりますか」
「はい。外観はすごくタイプです」
私は両手でグーを作って主張した。二人の前に、バスがなめらかに停まった。スマホで時間を確認すると、ほぼ時間通りだった。
「いってらっしゃい」
私は手を振って、乗り込む彼を見送った。
「あ、そうか」
定期券を運賃箱にかざしてから振り返って、彼は私に深々と頭を下げた。バスが無事出発したので、私は一度戻る形で横断歩道を渡り、向かい合うバス停に並んだ。程なく、私鉄駅行きのバスも来た。
つり革に摑まり揺られながら、「ああ、これか」と思った。
「魔法使い!」
その日の夕飯の後、私は自室で呼びかけた。
「聞きたいことがあるの」
「何です。彼とおしゃべりできてよかったじゃないですか」
魔法使いは、相変わらずの風体で現れた。
「それはそうだけど」
そこは認める。でも。でも。
「どこまでがあなたの仕業なの⁉ まさか、私のためにバスの事故まで起こしたの⁉」
胸ぐらを摑んで問い詰める。いくら私の望みを叶えるためとはいえ、やっていいことと悪いことがある。
「ちゃいますちゃいます」
逃げるのが上手くなった魔法使いは、身をよじって私の手から放れた。
「じゃ、偶然ってこと?」
「偶然っていうか、バスの事故が起きることを知っていたので、そこに合わせてあなたを寝坊させたわけで」
ベッドに腰掛けて、足をブラブラ。
「つまり」
「吾輩は、魔法を使ってあなたの目覚まし時計のアラームをオフにしただけ」
え。そりゃいくらなんでも、魔法の無駄遣いなんじゃ。
「でも、これでもう知らない仲ではなくなったでしょ。次会ったら、バス停のあっちとこっちで、会釈くらいはしますわなぁ。そうだ、明後日少し早めに家を出て、彼の待っているほうのバス停で立ち話とかしたらどうです。あの後どうされましたかぁ、遅刻せずにすみましたかぁ、なんて。いーですなぁ」
「……」
「他にご質問がなければ、これで失礼しますよ。吾輩も忙しいので。それでは、また」
魔法使いは自らの手を胸に置いて、丁寧なお辞儀をしてから消えた。
「がんばってくださいね」
余韻のように残った言葉に、少しだけ憂鬱になる。明後日の朝、道路を挟んで会釈ぐらいはできるかもしれないけれど、あちら側のバス停まで行って積極的におしゃべりするなんて、とてもじゃないができそうもなかった。
と思って家を出た私は、バス停に着く手前で目をパチクリさせた。
「あ、おはようございます」
彼の方が、こっちのバス停の前で私を迎えてくれたから。
「……おはようございます」
「先日はありがとうございました。お蔭さまで始業時間に間に合いました」
「それはよかったです」
「大学は?」
「少し渋滞があって、授業が始まるギリギリに着いたんですけれど、担当の教授が来なくて休講になりました。その教授も、この路線バス使っていたみたいで。初耳でした」
「それじゃ、答え合わせできましたね。西の大通りに出たほうが早く着いた、って」
「そうなんです」
魔法使いが提案した「更にお近づきになる会話」が、努力なしにすいすい進んでいく。
「あの、これ」
彼は私に、小さな手提げの紙袋を差し出した。シロツメクサの花冠の中に、あの可愛い建物が描かれているイラスト。
「これ、あのお店のですか」
「はい。お礼っていうのかな……」
覗くと、透明なビニール袋に入ったクッキーが見えた。
「おいしかったです。ぜひ」
彼はあの日の夕方、仕事帰りにお店に立ち寄ったらしい。人にプレゼントするのだから、と、自分の分も買って、味を確かめたという。
私はお礼を言って、ありがたく受け取った。
「喫茶店でしたよ」
「そうですか!」
そうだったらいいな、と思っていたのですごく嬉しい。
「チーズケーキとアップルパイが人気らしいんですが、生菓子は日持ちがしないので」
「ケーキ?」
あの素敵な建物の中で味わう、チーズケーキ。アップルパイ。どんな形でどんな味なんだろう。
「あ、よろしければポイントカードもらったので差し上げます」
言いながら、ごそごそとポケットから紙片を取り出す。紙袋と同じイラストの、折りたたまれて名刺大のカード。来店ごとに枠にスタンプを押していくという、レトロな方式。スタンプがいっぱいになったら、お好きなお菓子と交換できる、と書いてあった。
「お友達とでも」
「あのっ」
私は勇気を振り絞った。ここまで彼が歩み寄ってくれているのだ、次は私が頑張る番だ。
「一緒に行っていただけませんか」
「え」
「あ、無理にとは言いませんが。クッキーおいしかった、っておっしゃってたし。甘い物お好きかも、って。もちろん割り勘で」
あくまで、スイーツ愛好家の集まりという形に寄せた。デートじゃないから、たとえ断られてもダメージは少なくなるように。けれど、彼は即諾した。
「行きましょう。僕もあの店のケーキは食べたいと思っていたので、嬉しいです」
私の乗る予定のバスが来て、手前の赤信号で停まっている間に、私たちは急いでLINEで連絡先を交換し、慌ただしく別れた。
今日は、私が乗ったバスを彼が見送る。
どうだ、魔法使い。私は、頑張れたぞ。
それで、早くも次の日。
土曜日で二人ともスケジュールが空いていたので、私たちはいつもの大通りの、彼が乗る方のバス停で十時に待ち合わせた。現地集合という案は彼が却下。あのうっそうとした道を一人で歩かせるわけにはいかない、と、紳士的なことを言った。
もう、名前も知らない「彼」ではなくなった。橘田芳彦さんという。都内の食品会社に勤めている。二十六歳だから私より六つ年上だけれど、明るい色のポロシャツにチノパン姿だともうちょっと若く見えた。
私は、昨夜迷って迷って、白いブラウスにデニムのフレアスカートを合わせた。あのお店に敬意を表して花柄のワンピースとも考えたが、ご近所だし、あまり気合いが入りすぎて引かれちゃったら嫌だし。でも、並んで歩くと、これが正解、って思えた。
喫茶店の名前は、「しろつめ荘」。土曜日の午前中、駅からは遠く離れた場所なのに席はまあまあ埋まっていて、それでも待つこともなく空いていたテーブルに収まった。店内は、外観から想像していたより広く感じられた。四人座りのテーブル席が十ほどある。
チーズケーキとブレンドコーヒー。二人とも同じ物を頼んだ。別のケーキを頼んだところで、「一口ちょうだい」にはまだ早い。それより、「次の機会」のためにアップルパイはとっておきたい。カードのポイントを押す欄は十枠。今日を含めて残り九個も、橘田さんと来て押してもらいたい。
「小羽さん、バイトって何しているんですか」
「文房具屋さんです。週三くらいでレジ打ちとか、商品の補充とか、暇な時はオーナー店長の話し相手とか」
「へえ……」
「いや、逆ですね。店長にいろいろ相談させてもらっているの、私の方かも」
大学に入ってすぐ、私は駅の近くの文房具屋さんの店先で長時間立っていた。和紙でできている綺麗な小箱に見とれて動くのを忘れていたのだ。
「そんなに好きになってもらえるなんて、この箱も喜んでいるわよ」
米寿も越えたお婆ちゃんが背後から声をかけてきて、もし買ってくれるつもりがあるなら、店頭から下げて取っておく、と言ってくれた。それが店長との出会い。それで私は、壁に貼ってあったポスターのバイト募集にその場で応募して、最初のバイト代で小箱を買った。葉書より一回り大きいサイズのそれは、何を入れるかすら決まっていなかったけれど、手に入れただけで本当に幸せな気分になった。店長が「その箱に入れたいと思った物を収集するのはどう?」と微笑んだので、それ以来実践している。大学の友達にもらったお菓子の包み紙とか、新聞の切り抜きとか、歯医者さんから届いた予約確認葉書に貼られていた珍しい切手とか。そうそう、昨日は橘田さんからもらったクッキーの、ビニール袋を封していたシールも新加入した。統一感はないが厳選しているから、私だけの宝箱になっている。このポイントカードもコレクションに加えたいけれど、今はいつも持ち歩いているカードケースに収めている。
「私、店長みたいなお婆ちゃんになるのが目標なんです」
橘田さんは、目を細めて静かに私の話を聞いてくれた。私たちはチーズケーキを待っている間も、チーズケーキとコーヒーを味わっている間も、食べ終わってちょっとの間も取り留めのない話をした。私はその時間がすごく楽しくて、橘田さんも同じ気持ちだったらいいと思った。
ランチタイムの時間が近づき店が混んできたので、私たちは割り勘で会計をして外に出た。ポイントカードに、二つ目のスタンプ。
今日会う名目が「ケーキを食べる」であったので、二人は元来た道を引き返す。名残惜しいのは、私だけなんだろうか。
スタート地点のバス停まで戻った時、橘田さんは言った。
「次はあの店でランチをしませんか。デザートにアップルパイを食べる、っていうのは」
言い終わる前に、私は「はい」と即諾していた。多分、今度のはデートって呼んじゃっていいかもしれない。
二人は、それから毎週土曜日はしろつめ荘に通うようになった。たまに遊園地とか、美術館とか、ショッピングとか行くこともあったけれど、帰りには必ずしろつめ荘に寄る。お店にある定番のケーキはあらかた制覇し、二巡目に突入した。
相手の呼び方は「橘田さん」「小羽さん」から「芳彦さん」「菫ちゃん」に変化し、先日はめでたくキスをした。例の薄暗い道の、大きな木の陰で。
幸せで幸せで。でも、その幸せが成長するに従って、心に芽吹いた小さな不安もまた徐々に大きくなっていくのを私は感じていた。
私は、魔法の力に頼って幸せを手に入れた。
拭えない負い目が、私を不安にさせていく。魔法使いは、きっかけを作るだけと言っていたけれど、そのきっかけがなかったら、私たちは今だって道路を挟んだあちら側とこちら側にいる二人だった。芳彦さんは優しくて素敵な人だから、私とつき合っていなかったら、今頃合コンとかで知り合った綺麗な人と恋人関係になっていたんじゃないだろうか。
しばらく魔法使いは姿を現していない。なんだか怖くて、私も呼び出していない。
でも、こんなにデートを重ねているのに、例の鈴の音も聞こえてこないし、魔法使いの記憶もまだ残っている。トライアル期間が長引いているのは、もしかしてこの恋に明るい未来がないからなのではないか。
芳彦さんはこんなに楽しそうなのに、私は心から笑えなくなった。
「別れてください」
しろつめ荘の窓際のテーブル席で、私はついに切り出してしまった。もう限界だった。
「どうして」
もちろん、芳彦さんは目を丸くして聞き返した。今にも雨になりそうな午後だった。
「私」
ぽろぽろと涙がこぼれる。こんなに好きなのに、どうして自分から別れを告げなければならないのか。
「つらくて」
「つらい?」
「あなたに申し訳なくて」
「僕に何かした、っていうの?」
私は下を向いて首を横に振った。これじゃ、肯定とも否定ともとれないだろう。
「何でも言ってみて。二人で解決できるかもしれない」
「信じてもらえない」
それどころか、本当のことを打ち明けたら変な女の子だと思われるに決まっている。でも、もういいのか。どうせ別れることになるのなら。
「信じるから」
促されて、私は口を開いた。
「実は私とあなたが付き合えたのは、魔法の力を借りたからなの。私あなたを騙してたのがつらくて、もう耐えられなくて」
芳彦さんは真顔で話を聞いてくれた。途中、茶化したり否定したりは、一切なかった。
「わかった」
そう言って、うなずく。
「驚かないの?」
拍子抜けして、私は尋ねた。すると彼は。
「うん。だって」
私の予想を上回る、とんでもない言葉を発したのだ。
「僕のところにも来たから。魔法使い」
「え――――っ⁉」
どういうこと。待て、ちゃんと整理しよう。
芳彦さんのところへも来た、って言った? 魔法使いが?
「何でっ⁉」
私の涙は、一気に引っ込んだ。
「急に現れて。願い事を叶えてくれる、って」
同じだ!
「それって、イルカみたいなキリンみたいな、カエルみたいなヤツ? 一見、子供番組のぬいぐるみみたいな」
「うーん」
芳彦さんは微妙な顔をした。
「ぬいぐるみの印象は確かにあるけど。アザラシみたいな顔で、フォークみたいな角が一本生えていて、ペンギンみたいな胴体で、手の指の一本が猿のアイアイみたいな細長い棒状なんだ」
「あれ指し棒じゃないの⁉」
「手の先に直にくっついていたよ」
芳彦さんは、持っていたメモ帳をピリピリと破った。ボールペンで描かれていく彼の「魔法使い」を、私は逆さに眺める。
「色は? 黄緑色にピンクの水玉模様?」
「黄緑色かなぁ。どちらかと言えば地は水色で、模様はついていたけど水玉じゃなくてレモンみたいな形だった。オレンジ色の」
あれ。じゃ、別の個体なのだろうか。日本支部とやらに何人の魔法使いが在籍しているか知らないけれど、こんなに狭い範囲に二人もいるのか。描きながら、芳彦さんが言った。
「で。一人称が『吾輩』なんだ」
「それ!」
確信に変わった。絶対にヤツだ。
「ちょっと貸して」
私は奪うようにボールペンを手にすると、芳彦さんの絵の横に私の見た「魔法使い」の姿を描き加えた。
「あれ? ……何か違うような」
頭に思い浮かべた映像を形にするのって、すごく難しい。描いているうちに、記憶していたはずのものもほろほろと崩れていく。芳彦さんも同じようで、制作者二人は、己の画力に絶望し肩を落とした。自分が見たヤツは、絶対にこんな形じゃないのだ。
でも、本当に知りたいことは別にある。魔法使いの人数なんて、どうでもいいのだ。
「ねえ、芳彦さん」
私は魔法使いの絵を折りたたんで、バッグのポケットにしまった。
「魔法使いに何をお願いしたの?」
尋ねると、芳彦さんは背筋を伸ばした。そして、真っ直ぐに私を見る。
「月水金の朝、向かい側のバス停に並んでいる、大学生っぽいセミロングの女の子と仲よくできますように、って」
「え?」
私が発した一音は、どちらの耳にも届かなかった。
天使のささやきのような、それはそれは美しい鈴の音が、かき消してしまったから。
鎖
全身黒ずくめの母が、子供部屋を尋ねてきたのは夕方だった。
「ああ、疲れた」
他人(子供だけど)のベッドに勝手にごろっと転がって、まあ親戚の愚痴を一通り。未だスネかじりの身としては、辛抱強く聞かせていただく。先方から「お宅の鎖ちゃんは、……ねえ」なんて嫌みの一つや二つ、いや八つくらいは言われてきたと想像すれば、申し訳ないと心の中で土下座するしかない。母の従姉妹連中は、どうしてあんなに性格に難がある人たちばかりなんだろう。先日亡くなった曾お祖母ちゃんや、去年亡くなった曾お祖父ちゃんの血を引いてるとは到底信じられない。
「あ、そうだ。これ」
母は身を起こして、自分と一緒にベッドに転がっていた黒いナイロン製の手提げ袋に手を入れ、何やら取り出した。
「もらえたんだ」
見覚えあるそれは、和紙でできた小箱だ。
「そりゃね。箱をマスキングテープでぐるぐる巻きにして、そこに『鎖にあげる』って書かれていたんだもの。お祖母ちゃんの直筆で。誰も文句は言えないでしょ」
今日は曾祖母の四十九日。長生きした曾祖父母にはもう子供たちはおらず、母を含めた孫たち九人とその配偶者が集まり、法要の後形見分けを行ったのだ。大人数になるので、曾孫たちは遠慮するようお達しがあった。意地悪な親戚になんて会いたくないので、こちらとしては願ったりだ。
「みんなの前で蓋を開けさせられたわ。嫌な感じ」
「金目の物が入っているかも、とか思ったのかな」
「ま、鎖はお祖母ちゃんに可愛がられていたからね」
でも、出てきたのはお菓子の包み紙とか、紙でできたカードとか、落書きとか、リボンとか、シールとかだったから、無事持ち帰ってこれたわけだ。この箱は、生前曾祖母からもらう約束をしていたものだった。
「お祖母ちゃんが生きている間は仕方なくつき合ってきたけど、相続放棄してきたし、もうあの人たちとは関わらなくていいかなー。あなたのお父さんも、気疲れしてソファでダウンよ」
母は伸びをして、「さて」と立ち上がった。
「じゃ、確かに渡したから。夕飯、出前でいい?」
「いい。諸々ありがとう」
スカートのホックを外しながら、やれやれと母は出ていった。ドアが閉じる音に被って。
「こんにちは」
誰もいるはずがない背後から、声がした。振り返ると、何だかわからないぼやけた物体がベッドにいる。
「魔法使いです」
「ふうん」
顎をしゃくってから、プラボトルに入ったミント味の粒ガムを、二つ口に放った。
「驚かないんですね」
「いや、驚いているけど。吾輩の精神状態が、ついにここまで追い詰められたか、って」
幻視。幻聴。その類いは初めてだった。
「吾輩? いーですねー。その一人称」
「何か用?」
「はい。願いをね、一つ叶えて差し上げようとやって来ました」
「いらない」
自分が作り出した幻相手に願い事するなんて、不毛もいいとこ。
「そう言わず」
「それじゃ」
「お金とかは無理です」
まだ言っていないのに。
「なら」
「仕事の斡旋もしていません」
「他に、頼みたいことなんてないよ」
ある程度のまとまったお金があったら、親も老後の、そして子供の行く末の心配をしなくてよくなると思ったのに。
「それなら、あなたの曾祖父母の結婚を願ってもらえませんか」
「結婚しているじゃん」
「それはあなたが願ったから叶ったんです」
「順序逆じゃない?」
「時間の流れが一方通行なんて信じているの、地球上の人類だけですよ」
「意味わかんない」
「理解できないのは、頭蓋骨が邪魔をして脳が大きくなれなかったからです」
「あ、そ」
「お願いですから、願ってください。でないと、あなたがこの世に存在しなくなります」
「それはそれで仕方ないね」
「だめなんです。あなたは未来の人類の宝なんですから」
笑ってしまう。大学出て数年、働きもせずに親に養ってもらっている身が、いつか人類の宝になるなんて何の冗談か。自分に都合いい夢をみているにしても、図々しすぎる。
(鎖は大器晩成なのよ)
曾祖母はそう言って励ましてくれたけれど――。戯れに小箱の中身をかき混ぜてみる。すると、吸い付くように何かが飛び出した。
「ポイントカードと……何だこれ?」
いたずら書きか。変なキャラクターが二体、ぎこちない線で描かれていた。
「ふう」
声がしたのでそちらに目を向けると、さっきの自称「魔法使い」のぐじゃぐじゃが、もっとはっきりした輪郭に変わっていた。それは、まさに変なキャラクター二体を足して二で割ったような形なのだ。
「貴様はこれか」
色はない。強いて言うなら、黄ばんだ紙の色。
「とにかく、未来のあなたは、ある功績でたくさんの人たちから感謝されて、ポイントカードがいっぱいになって。それでカタログギフトに交換できて」
魔法使いは、いろいろ端折って説明してきた。なにか焦っているようにも見えた。
「ポイントペコロキンがファッブルルしたのでカカランギフトとして使える、ってこと?」
「そうです、そうです。話が早くて結構。その上で。願ってください、曾お祖父さんと曾お祖母さんの結婚を」
「何で、今? 未来の、偉くなった吾輩のところに行けばいいじゃん」
「それは」
「正直に白状したら、願うよ」
すると、しばしの沈黙の後。
「その紙」
二体のキャラクターが描かれた紙を、指さす魔法使い。
「その紙が久々に動いたから。表に出たから。それであなたのところに来たんです。あの二人。あまりに絵が下手すぎて、魔法界のAIが消せなかったんです。でも、二体合わせると間違いなく吾輩なんです、証拠残しちゃいけないのに。しくじりました。それが存在していると考えただけで、枕を高くして眠れません。あ、枕使って寝ないですけど」
じめじめと泣く魔法使い。タオルを差し出すと「ペットボトルの水なんで大丈夫です」と意味不明のことを言った。
「絵なんて魔法で消せばいいじゃん」
「システム上できないんですってば。さあ、話しましたよ。願ってください」
「え、その紙はそのままでいいの?」
「いいです」
ほらほらと急かすので、仕方なく願った。
「芳彦さんと菫さんが結婚しますように」
「ありがとうございます」
感謝の言葉とともに、魔法使いは姿を消した。
天国に降る雪のようなキラキラ光る音が、聞こえた気がした。
顔を上げると、代わり映えしないいつもの自室。椅子に座ったまま、うたた寝してしまったのだろうか。ベッドの上には、先ほど母が置いていった曾祖母の形見の小箱。
机の下に、紙切れが落ちていた。
「ポイントカード」
どうしてこんなところに。首を傾げてから、それを拾って小箱に戻す。花輪の中に可愛い家が描かれているこれは、曾お祖母ちゃんと曾お祖父ちゃんが初めてデートしたお店のものだ。ポイントがいっぱいになったのにお菓子と交換しなかったのは、このカードを手放したくなかったから、と言っていたっけ。
もう一つ。何も描かれていない、二つ折りの黄ばんだ紙が落ちていた。
「――――――?」
吾輩は、口に入っていたもう味のしなくなったガムをその紙に包んで、ゴミ箱に捨てた。
【おわり】