子羊たちの冒険(著:乙一)

1
何年か前に亡くなった祖母は、ヨーロッパから日本に移住してきた女性で、もしかしたら魔女の血を引いていたのかもしれないと親戚の人たちは噂する。彼女は猫と話をすることができたし、タロットカードで人の運命を見ることができたからだ。
亡くなる直前、祖母は私に美しい水晶の振り子をくれた。
「あなたにはダウジングの才能があるみたい。だから、これをあげる」
繊細な銀色の鎖の先端に、円錐を逆さまにした形の水晶がぶら下がっていた。無色透明なので、光がその内側を通り抜ける時、色に染まることはない。鎖の端を指先でつまんでたらすと、何かが私の中で嚙みあう感覚があった。
ダウジングって何だろう?
首をかしげている私に祖母が説明してくれた。
昔の人々が地中の水脈や鉱脈を探す時に行っていた占いのようなものだという。例えば何もない荒野の真ん中を、振り子を動かしながら歩く。振り子の揺れ方が微妙に変化する場所を探し、そこを掘ってみると、高確率で真下に水源があり井戸水が湧き出てくるという。
「ダウジングにはいろいろなやり方があって、Y字の木の枝を使う方法や、L字の金属棒を使う方法もあるのよ」
「私、井戸水なんて掘らないよ?」
「失くした物を探すことだってできるの。おおまかな方角しかわからないけどね。とっても便利なのよ」
祖母にやり方を教わって、私はすぐにダウジングの才能を開花させた。
テレビのリモコンが見当たらない時、心の中でリモコンのことを思い浮かべながら振り子を揺らす。
円錐形の水晶は爪と同じくらいの大きさで、ほとんど重さを感じさせないのだが、ぐるぐると回転させるように揺らしていると、ある一点の方向で、ぐいっと引っ張られるように重たくなる。その方角を探してみると、リモコンがソファーの下から見つかった。確かにこれは探し物をする時に便利だ。
ダウジングに科学的な根拠はないらしい。神秘の範疇で語られるものだ。そのため科学全盛の時代になると廃れてしまった手法らしいのだが、私がやると百発百中で探し物が見つかるので家族や友人にありがたがられた。ちなみに私以外の人が水晶の振り子を揺らしても、ぐいっと引っ張られるような手応えは感じないらしい。
「ねえ、羊、お母さんの眼鏡ケースが見つからないんだけど。探してくれない?」
羊というのは私の名前である。
フルネームは新山羊。
苗字と名前を続けて書くと、山羊なのか羊なのか迷わせることでおなじみだ。
母の眼鏡ケースは車の助手席の下に落ちていた。
「定期入れがないよ! たすけて!」
友人が困っていた。放課後にぐるぐると水晶の振り子を回転させ、銀色の鎖が引っ張られる方にむかって私と友人は歩いてみる。水晶の振り子が教えてくれるのは方角だけだ。目標まで何メートルの距離があるのかはわからない。町のいろんな場所でダウジングを行い、その範囲をせばめていく。友人の定期入れは、通学路の途中にある排水口の隙間に落ちていた。ダウジングがなければ決して見つからなかったような場所だった。
「……もしかしてだけど、そのやり方で、運命の相手を探しちゃえばいいんじゃない? ねえ、羊、私の恋人を探して!」
教室で親友の一人がそんなことを言い出す。強くお願いされるので断れなかった。
ある日の休憩時間、教室でダウジングを行った。親友の運命の相手という曖昧なイメージを心の中に思い浮かべ、ぐるぐると水晶の振り子を回転させる。しばらくやっているうちに、教室の出入り口の方角にむかって、鎖が引っ張られるような感覚があった。
「うーん、あっちにいるみたいだね」
私がそちらの方角を指さしたタイミングで、クラスメイトの男子が扉を開けて入ってきた。親友は、はっとした表情で口もとを両手で隠す。親友が以前からひそかに想いをよせている男子だったらしい。後日、私のダウジングが背中を押す形となり、親友は想いを告白して二人はカップルになった。うらやましい。学校の廊下を仲よさそうに歩いている二人を見て、私はため息をつく。
実は私もダウジングを覚えたての時に、自分の運命の相手とやらを探したことがあった。自分の部屋でどきどきしながら振り子を回転させてみたのだが、円錐の水晶はどの方角も指すことなく、すん、と揺れがおさまってしまったのである。
「探し物がこの世に存在しない場合はね、どこも指し示すことなく振り子の回転が止まってしまうの。その場合、あきらめた方がいいかもね」
ダウジングを教えてくれた時、祖母が言った。
私には運命の相手がいない。つまりそういうことなのだろう。
一生を独り身で過ごすのも、それはそれでいいんじゃないのと今は思っている。
そういう人生もありだ。すこしショックだったけど。
私のダウジングはよく当たる。気付かないうちにそのような噂が広まっていた。夏休みが終わり、二学期に入って間もない時期、同じ学年の男子生徒が私に声をかけてきた。海原ワタル。眼鏡をかけた男子生徒だ。成績優秀で家柄も良く、私とはおよそ接点のない少年である。
「新山さん、ダウジングで探し物ができるって本当?」
「まあね」
「人探しもできる?」
彼は教師からの評判が良い学級委員長タイプだ。
一方、私はいわゆるギャルよりの属性で成績はいつも赤点すれすれである。
こんな機会でもなければ交流はしなかっただろう。
「だれを探してほしいの?」
「自分を産んでくれた女性を探してるんだけど、できる?」
眼鏡の奥の目は真剣そのものだ。私に断られたらどうしようかという切実さが感じられた。
2
放課後、私のいる教室に海原君が来てダウジングをすることになった。私は自分の席に座り、彼は近くの男子の席を借りた。窓から見える空は次第にオレンジ色をおびはじめ、遠くからブラスバンド部が練習しているような楽器の音色が聞こえてくる。
私たちが暮らしている愛知県豊橋市は中部地方の東端に位置する都市である。海原君の家はこの町に古くからある大地主の名家だった。いわゆるお金持ちである。日本庭園を持つ広い家屋に、お手伝いさんたちにお世話をされながら暮らしているらしい。海原君の所作からは育ちの良さがうかがえた。がさつな男子とは違って品がある。ほっそりとした顔に形の良い目。肌はきめ細かく、髪の毛はさらさらで、どんなに高価なシャンプーを使えばそんな光沢になるのかと問いただしたいほどだ。
「昨年、父が亡くなったんだ」
海原君の親族は複数の企業を経営していたが、彼の父親はその中核を占める会社の社長という立場にあったらしい。重い病気が発覚して会社経営を親族に引き継がせた後、入院して半年で息を引き取ったそうだ。
「父は僕にとって、唯一の家族だった」
「お母さんとは住んでなかったの?」
「彼女について質問することは、僕の家ではタブーだった。生きているのか死んでいるのかも教えてもらえなかった。もちろん、写真を見たこともない。婆やに聞いても、何も答えてくれないし」
「ちょっとまって、婆やってなに? さりげなく言ったけど」
「ずっと僕の世話をしてくれていた年配の使用人だよ。もうすぐ八十歳になる」
「その方が海原君のお母さん代わりだったわけだね」
「うん。僕を産んでくれた女性については、知る方法が何もなかった。家の中を探してみたけど、彼女の素性を想像させるものは何もなかった。市役所に行って公的な書類も確認したんだけど、名前すら記載されていなかった」
「そういうことってあるんだね」
「だけど、父が死ぬ間際、病室でうわごとのようにくり返していた。すまない、って……。薬で意識をもうろうとさせながら謝罪していた。だれに対して言っているのか最初はわからなかったけど、何となく、僕を産んだ女性に謝っていたんじゃないかという気がしたんだ」
「それはどうして?」
「……直感かな」
海原君は逡巡をはさんだ後に言った。父親の言葉と母親とを結びつける確固とした証拠はない。だけど私も同意見だ。死ぬ間際に、例えば仕事で迷惑をかけた相手を思い浮かべながら謝罪のうわごとなんて口にするだろうか。
「私もそう思う。お母さんに対して言ったんじゃないかって」
海原君が私を見る。
私はにこりと笑顔を作ってうなずいた。
「じゃあ、ひとまず、報酬の話に移ろうか」
「報酬?」
「ボランティアじゃないんだよ、こっちは」
「報酬をとられるとは思ってなかった」
本当はとるつもりなんてなかったし、これまでダウジングで商売なんてやってなかったけど、彼はお金持ちらしいので、そう言っておけば何か謝礼をくれるんじゃないかという気がしたのである。
「報酬って、金銭のやり取りってことじゃないよね」
「いや、むしろお金でOKだよ」
「学校の規則で、生徒間でお金を貸し借りするのも、授与するのも禁止されている。生徒手帳にそう書いてある」
「生徒手帳を暗記してるの?」
「まあね」
「じゃあ、他の何かでいいよ。そうだ、次の試験の問題がいいな。成績がやばくってさ」
「問題用紙を盗んでくることはできないけど、どういう問題が出るか、という予想くらいなら教えてあげられるかもしれない」
「それでいいよ」
話はまとまったので、さっそくダウジングに取りかかる。
席に座ったまま銀色の鎖をつまんで、机の天板からちょっと浮かせたあたりに振り子をたらした。
窓から差しこむオレンジ色の光線が、水晶を通り抜け、屈折して光の集まりをつくる。くるくると振り子を回転させるように揺らし始めると、その輝きは踊るように私と海原君の間でめまぐるしく動いた。ダウジングの最中、探し物のことを心の中で思い浮かべていなくちゃならない。それが自分の持ち物だったらイメージするのは簡単だけど、会ったこともない人を探す時はむずかしい。だけど不可能じゃない。友人の運命の相手を見つけられたのだから。
「海原君、手を出して」
差し出された彼の手を、私は左手で握りしめる。探している存在とつながりのあるものが、私の手の中にある方がいい。彼の手はすこしだけ熱をおびていた。その熱が左手から流れこんできて、私の中を通り抜け、右手の指先でつまんでいる銀色の鎖を伝わり、夕日に輝いている水晶へと集まっていく。母親の情報はほとんど無いけれど、海原君の肉体はその人の体から生まれてきたものだ。彼の血と肉の半分は母親と同じものであり、それは他の何にも替えがたいつながりなのだ。
振り子を回転させている指先に、かすかな重みが感じられた。
水晶の振り子が、北東の方角を通過する時だけ磁力で引っ張られるような感覚がある。見た目にはわからないが、鎖をつまんでいる私の指先にとっては明瞭だ。
「わかったよ」
「え、ほんとうに? こんなすぐ?」
「どうやら、あっちの方角にいるみたいだね」
私はダウジングを終えて、北東の方角を指で示す。
「距離はわからないけどね」
「ちょっとまって」
海原君はスマートフォンを取りだして地図のアプリを起動させ、私の指先の方向と画面を交互に見くらべる。
「場所を変えて、もう何回かお願いしていい?」
「いいよ。友だちと探し物をする時、いつもそうしてるし」
私たちは一緒に校舎を出て町を歩いた。よく話をする男の子はクラスに何人かいるけれど、こうして二人きりで学校を後にすることは滅多にない。海原君は私よりも背が高かった。歩きながら気を利かせていろいろな質問をしてみたけれど、彼は思い詰めた表情で返事がそっけない。会話をする気分じゃないらしい。無理もないかと思う。顔も名前もわからない、会ったことのなかった母親の居場所の手がかりが見つかりそうなのだから。
「ひとまずよかったね。水晶がどこかの方角を指し示すってことは、海原君のお母さんは、この世に存在しているってことだから。もしもすでに亡くなっていたら、水晶の振り子はどの方角も指すことはなかったと思うよ」
「ああ、そういえば、そうだね。ありがとう」
海原君の表情がすこしだけやわらいだ。
彼の提案でバスに乗って数キロほど移動してみる。夕焼けの公園で二度目のダウジングを行った。しかし、一度目とほとんど変わらない方角を振り子は指し示す。三度目のダウジングはさらに距離を離してみた。電車に乗って数駅を移動した先で試す。しかし、結果は変わらない。
「全部同じ方角ってことはだよ、たぶん、ずっと遠くの方で海原君のお母さんは暮らしているんだと思う。探し物が離れた場所にあると、こういう結果になるんだ」
「夜空の星の位置が変わらないのと同じ理由だね」
「そうなの?」
「地球が太陽のまわりを公転する時、半径およそ一億五千万キロメートルの楕円を描くけど、星座の位置は変化しないよね。星座を構成する星々が、途方もないくらい遠くにあるから、地球がどれだけ動いても星の位置が変わらないんだよ」
「海原君、星とか詳しいの?」
「中学で習わなかった?」
「習ったかもね。授業中、寝ていたのかも」
見上げると豊橋市の上空に夏の星空が広がっていた。駅前のペデストリアンデッキを会社帰りの人々が忙しそうに歩いている。海原君の母親は、夜空の星と同じように、遠いところで人生を送っているのだ。そんなイメージを抱いた。海原君は駅前の書店で紙の地図を購入し、ベンチに広げ、定規とマーカーで線を引いた。豊橋市を起点とし、水晶の振り子が指し示した方角にむかってまっすぐな線を。
「静岡、神奈川、東京、千葉……」
彼はつぶやく。地図に引かれた直線はそれらの県を通過していた。
そのどこかで、彼のお母さんは暮らしているのだ。
3
今度の土曜日、一緒に新幹線で遠出をしてくれないかと、私のスマートフォンあてに海原君からメッセージが届いた。母親探しの続きを行うためである。新幹線のチケット代や昼食の代金は彼が出してくれるそうだ。次回の試験について彼の協力を取り付けるため、その申し出を受け入れることにした。
「人口の多さをかんがえると、僕を産んだ女性は東京で暮らしている可能性が高い。だからひとまず東京駅までの新幹線の切符を買うつもり」
「それは別にいいけど、自分のお母さんのことを、【僕を産んだ女性】って表現するの、何とかならない? 母親とかお母さんでいいじゃん」
「呼びなれてないから恥ずかしい」
土曜日の午前九時頃、豊橋駅前に集合して私たちは新幹線に乗りこんだ。自由席に隣りあって座り、私は窓からの景色をたのしむ。彼はシンプルで清潔感のある服装だ。スニーカーの靴紐の蝶々結びの形がとても綺麗で、きっと几帳面な性格なんだろうなと想像した。ちなみに私はそれなりに時間をかけておしゃれをしてきたわけだが、ファッションについての感想は一言もなかった。期待してなかったから別にいいけど。
「もしも東京に着いてお母さん探しが速攻で終わったら池袋に行ってもいい?」
「いいよ、なんで?」
「アニメのグッズを売ってる巨大なビルがあるんだよ。そこで推しのアクキーを買い漁るつもり」
黒色のリュックにぶら下げたキーホルダーを彼に見せる。私の好きなアニメキャラが印刷されたアクリルキーホルダーだ。私はアニメが好きなギャルなのである。海原君がもしもアニメ好きの男子だったら一緒に語り合おうと思っていたのだが、残念ながら興味がないらしく、「そうなんだね」の一言で終了となった。
「海原君は? 趣味とかある? 推しはいる?」
「趣味か……」
彼は腕組みをして遠くを見つめる。
眼鏡の細いフレームの横から、形の良いすっきりとした目元が覗く。
「ロシアがソビエト連邦だった頃の映画が好きなんだ。アンドレイ・タルコフスキーっていう映画監督が、僕にとっての推しってことになるのかな」
「人それぞれ、いろんな推しの形があるんだねえ」
その後、どことなくそわそわした雰囲気で海原君が旧ソ連の映画の魅力について語りたがっているのがわかった。ごめんだけど興味ないので、私は耳にイヤフォンをはめて音楽を聴くことにした。好きなアニメ作品のオープニングとエンディングの曲をエンドレスで再生する。
豊橋駅を出発した新幹線はすさまじいスピードで移動した。天気は快晴。田園風景や緑色の山々がめまぐるしく窓の向こうを過ぎ去った。指定席ではなく自由席のチケットだったのは、海原君がお金をけちったわけではない。途中の停車駅で一度、ホームに降りて新幹線を乗りかえる予定だったから、臨機応変に対応できるように座席は決めないことにしたのだ。
「そろそろ静岡駅につくよ。ここら辺で一度、ダウジングをお願いできる?」
「了解」
新幹線が速度を落として静岡駅のホームに停車すると、私と海原君は荷物を持って外に出た。青い空の下、残暑の風がホームに吹いている。東京方面に向かう人たちが乗りこむのを待って、新幹線が発車した。
私たちはホームの端の方に寄り、手をつないでダウジングを行う。新幹線の中は意外に揺れるので、ダウジングをするには一度、車両を降りた方がいいという判断だった。もしも新幹線が、海原君のお母さんの住んでいる地域をすでに通りすぎていたなら、この時点で水晶の振り子は西側を示すはずである。
陽光を反射させながら、水晶の振り子は私と海原君の間でぐるぐると回転する。屈折によって凝集した光の点が動く様は、まるで妖精が飛び回っているかのようだ。
「方向に変化はないみたい。振り子は向こうを指してる」
線路がまっすぐに続いている先を私は指さす。さきほど新幹線が遠ざかった方角だった。
ホームのベンチに座って二十分ほど待ち、次にやってきた新幹線に乗りこんだ。
同じことを新横浜駅のホームでもやったけれど、結果は変わらなかった。水晶の振り子は北東の方角を告げた。
「ほんのすこしだけ角度が変化したような気もするけど」
「僕を産んだ女性の居場所に近づいているのかもしれない。近づけば近づくほど、振り子が指す方位に変化が見られるはずだから」
「それよりさ、手をつないだままこんな風に話してたら、カップルだって誤解されちゃうかもね」
気恥ずかしそうに海原君は手を離す。
新横浜駅のホームは人が多く行き交っていた。景色から田園が消えて住宅地ばかりになり、ビルの存在が目立つようになる。新横浜駅で行ったダウジングが変わらずに北東を示したので、このまま東京駅まで移動してしまおうと彼は言った。途中で品川駅にも停車するけれど、東京駅との距離が近いため、わざわざ降りてダウジングをするほどでもないという判断だ。
海原君はダウジングの結果を地図に書きこんでいた。新横浜駅を起点として引かれた直線は、ほぼ東京駅の上を通過し、千葉県を通り抜け、太平洋へとのびている。もしも千葉県の東端でダウジングをしても結果が変わらなければ、彼女は太平洋を越えたカナダあたりに住んでいるのかもしれない。
新横浜駅から乗った新幹線は混雑していたので、私と海原君は車両間のデッキに立つことにした。
背中を壁にくっつけて、並んで揺られながら私たちは話をする。
「お母さんの居場所をつきとめたら、どうするつもり?」
「名前と住所を知ることができたら、ひとまず今回の目的は達成かな」
「遠くから姿を見たり、話しかけたりしないの?」
「後で手紙を送ってみようとは思ってる。何度か手紙のやり取りをしてみて、文面の雰囲気を確認しながら、場合によっては会うことになるのかもしれない」
「慎重に事を進めるタイプなんだね」
窓の外をビルが横切るたびに、デッキに差しこむ光が暗くなったり明るくなったりする。
「父がどうして死ぬ間際に謝っていたのか、理由を教えてもらえるといいんだけど。父が彼女に対して不義理なことをしたのなら、代わりに僕が謝りたいと思ってる」
「お父さんのことは、好きだった?」
「うん。でも、あんまり家族らしい会話をしたことなかったんだ。亡くなってから後悔してる。僕はもっと父の人生について知るべきだった。父がいつも何をかんがえ、どんな後悔をしていたのかを」
海原君はお母さんを探している最中だけど、同時にお父さんの人生についても知ろうとしているのだ。この年齢になって、あらためて両親の存在について考えてしまうのは、きっと私たちが大人に近づいているからだろう。幼かった頃とは違い、父親や母親にもまた、自分たちと同じような人生があり、悩みや葛藤があったのだと理解できる年頃になった。私たちは子どもと大人の中間にいる。
「新山さんの家族は? どんな家に育ったの?」
「うちは極めて普通だよ。お父さんとお母さんと私の三人家族。どこにでもあるような平凡な暮らしだよ」
「それって、僕にとってはファンタジーだけどね」
銀座のビルが窓の外を横切り、新幹線がついに東京駅へと到着した。私は家族と年に一回くらいの頻度で東京へ遊びに来るけれど、毎回、東京駅の人口密度におどろかされる。大勢の人が構内を行き交い、それほど背が高くない私は人間の波に埋もれてしまいそうになる。海原君と離ればなれにならないように注意しながら、心を落ち着けてダウジングができそうな空間を探した。
エスカレーターで階を移動し、コインロッカーが並ぶ奥まった通路の端で、私たちは手を重ねてダウジングを行った。彼の母親をイメージしながら水晶の振り子をぐるぐると回転させると、特定の方位にむかって鎖が引っ張られる感覚があった。その方向を私は指で彼に教える。東京駅構内を歩き回ったので、今、自分がどの方位を向いているのかわからない。海原君がスマートフォンのコンパスのアプリで、ダウジングの結果を確認する。
「南西だ。どうやら通りすぎたらしい」
「南西?」
私が指さした方角は、今さっき新幹線で移動してきた方向だった。
海原君は地図を出し、その方角にむかって東京駅を起点とした直線を引く。その線はちょうど新横浜駅の上を通過していた。
新横浜駅でダウジングをした時に引いた直線と、ほぼ重なっている。
「これってどういうこと?」
「僕を産んだ女性は、新横浜駅と東京駅の二点間を結ぶ直線上のどこかで暮らしているってことだよ」
「なんだか数学みたい。点Pを求めよ、みたいな」
「点Pはペアレントの頭文字だったのかもしれないな」
「なるほど、おもしろい考察だね。ところで、ペアレントってなに?」
ビジネス用語でも使ったのかなと思って聞き返したけれど、どうやら、親(parent)という意味の英単語だったらしく、海原君にあきれられてしまった。
「今、そんなことも知らないのか、って思ったでしょう」
「思ってないよ。それより今後のことを相談しよう。直線上の特定の位置を求めるには、一度、直線から距離をおいた場所でダウジングを行ったほうがいい」
「いろんな場所でダウジングをやろう。直線が交差したところに海原君のお母さんがいるってことだから」
彼女の居場所を求めるには、角度のついた線を引く必要があった。私たちは地図をながめ、ひとまず世田谷美術館あたりを目指すことにする。なぜその場所を選んだのか? 新横浜駅と東京駅とを結んだ直線から、遠すぎず、近すぎず、ちょうどいい場所に思えたのだ。世田谷という地名は聞きなじみがあるし、近くに大きな公園もあるみたいだし、ついでに美術館を見学できるかもしれない。
正午を過ぎていたので、東京駅周辺で食事をすることにした。人は多いけれど、飲食店の数も豊富にあり、さほど並ばずに蕎麦の店に入ることができた。お腹が満たされた後、不慣れな地下鉄の路線を利用して世田谷美術館を目指し移動する。用賀駅に到着し、まるで外国の町のように整えられたおしゃれな道を歩く。石畳の舗道に沿って足首くらいの浅い水路が通っており、小さな子どもを連れたお母さんたちがそこで子どもたちを遊ばせていた。
「うーん……」
「これは……」
私たちは腕組みをして地図を見る。世田谷美術館にたどり着く前だったが、おしゃれな舗道のベンチで休憩しながら、ついでにダウジングを試みた。しかし水晶の振り子は想定外の方位を指し示したのである。
私たちのいる場所を起点として地図に引いた直線は、北西にむかって突き進んでいた。
つまり、地図の左上にむかって伸びる直線である。
新横浜駅と東京駅を結ぶ直線とは正反対の方角だ。
点Pを求めることはできなかった。
4
それまでのダウジングで得られていた結果は、彼女が自宅にいる時のものだったのではないか。私たちはそのような推理をする。海原君のお母さんは、午後から出かけなければならない用事があった。そのため、何らかの交通手段を用いてここから北西にあるエリアへと移動したのだ。土曜日でも働かなくてはならない仕事についているのかもしれない。あるいは、友人とお出かけのために外出をしたのかもしれない。
「さて、どうしようか」
彼女が動き回っているのなら、ダウジングで居場所を特定するのが困難になる。大まかな方位を確認し、そこへ私たちがむかっても、彼女はさらにまた別の場所へ移動しているかもしれない。地図に直線を引いて交差する点を探そうとしても無駄だ。ばらばらな方向へ伸びた直線は、見当違いの場所で交わるに違いない。
ひとまず世田谷美術館方面に歩いた。すでにその場所からダウジングをしなければならない積極的な理由はなかったけれど、何となくここまできたのだから立ち寄っておくことにした。世田谷美術館は砧公園の敷地内にあった。夏の暑さがすこしだけやわらぎはじめた気持ちのいい季節の午後だ。たくさんの家族連れやカップルが公園内を歩いている。前衛的な建築物の美術館に入り、展示物を眺めながら私と海原君は今後の方針について囁くような小声で相談する。
「この後、海原君のお母さんがどこか一箇所にとどまってくれているようだったら、そこを目指して突撃してみるのもありだね」
「もしも一箇所にとどまっていなかったら?」
「その時は、お母さんが用事をすませて自宅にもどるのを待つしかないね。帰宅して就寝してくれたなら、次の日まで動かないはずだし」
海原君が腕組みをしてむずかしい表情になる。私たちの目の前の壁には、絵の具をぶちまけたようなスタイルの現代美術作品が展示してあり、それが理解できずに眉間に皺を寄せているようにも見えた。
「彼女が自宅へもどるのは夕方以降になるかも」
「場合によっては夜遅い時間かもね」
「東京駅発の豊橋行きの新幹線の最終時刻は、確か二十二時三分だ。それに間に合う時間までねばってみようか」
「わかった。新幹線の最終時刻まで把握ずみなのキモいね。漫画に登場するデータキャラみたい」
私たちの声が意外に響いてしまったのか、すこし離れた場所に座っていた美術館職員の方が迷惑そうにこちらを見ていた。私は海原君の上着の袖をつまんで引っ張ってその場から移動する。海原君の様子がすこしおかしいので気になって横顔を見つめた。
「どうかした?」
「だれかに、キモいと言われたのは、はじめてで」
「ほんとうに気持ち悪いって思ったわけじゃないよ。むしろ褒め言葉みたいなものだから」
地味にショックをうけていたらしい。これからは発言に気をつけよう。
私たちの今後の方針が決まった。定期的にダウジングを行い、海原君のお母さんのいる方角を常に把握する。彼女が自宅へもどり動かなくなったらその住所を突き止め、そして東京を離れる。二十二時三分発の新幹線がタイムリミットで、それを過ぎたら私たちは故郷にもどる方法を失い、どこかで野宿しなければならないというわけだ。
ちなみに私は両親に、今日は友だちと遊んでくるとしか話していない。まさか男の子と東京に来ているとは想像もしていないだろう。
5
私たちはバスと電車を乗り継いで池袋駅へ移動した。アニメや漫画やゲーム関連のグッズばかりを売っている巨大なビルへむかっていると、イベントでもやっているのか、コスプレをしている女の子たちを見かける。有名なゲームキャラクターの衣装だ。地元でこんな格好をしていたら周囲から怪訝な目で見られるだろう。しかしここではだれも振り返ってまじまじと見つめない。
あまりの人の多さに、海原君と離ればなれになってしまったが、私は冷静に振り子を取りだして彼のことを思いながらダウジングを行った。回転する円錐の先端は、彼が存在している方位を通りすぎる時、ぐいっと私を引っ張るように重くなる。彼は人混みの中で心配そうな顔で私を探していた。私の姿を見つけると、ほっとした様子で眼鏡の奥の目がほそめられた。
目的地に到着し、推しキャラのアクリルキーホルダーを売っている階へ移動する。フロア一面に棚がずらりと並び、様々なグッズが販売されている。あまりの品揃えの多さに、どこに何が売られているのかわからず、普通だったら途方にくれてしまうところだ。しかし私にはダウジングがある。水晶の振り子を揺らして、推しキャラの顔を思い浮かべると、欲しかった商品の棚をすぐさま見つけ出してくれた。
「新山さんのダウジングの有用性にはおそれいるよ」
「スマホの地図アプリの進化版って感じだよね。迷える子羊っていうフレーズがあるじゃない? 私、名前が羊なのに迷子とは無縁なんだ」
「僕にもそういう特技があったらいいのに」
「海原君はその眼鏡があるじゃない」
「眼鏡は特技とは違うでしょ」
歩き疲れたのでカフェで休もうとしたが、どこも混んでいた。ダウジングを利用して、今すぐゆっくり座れるような空いているカフェを探してみたところ、水晶の振り子が導いた先にレトロな喫茶店があった。私は甘いココアを注文し、彼は紅茶を頼んだ。窓際のテーブルで私たちは向かい合って座っていた。ココアと紅茶が運ばれてくるまでの間に、彼の母親の位置をダウジングで調べてみる。テーブルの上で私たちは手を重ね、空いている方の手で水晶の振り子を揺らした。池袋からおおまかに西南西の方角にいるようだが、まだ自宅にもどってはいないようだ。地図に直線を引いてみたが、新横浜駅と東京駅を結ぶ直線とは交わらなかった。
飲み物が運ばれて、私はさきほど購入したアクリルキーホルダーを取りだして眺める。
「海原君、ネットでゲーム配信とか見る?」
「ゲーム配信? 囲碁や将棋の配信なら見るけど」
「渋いね。そういうんじゃなくて、VTuberって知らない?」
「ごめん、わからない」
私はVTuberという存在について説明した後、自分は将来、VTuberになってゲーム配信をしながら生計をたてて暮らしたいのだという夢を語った。
「そうなれたらいいな。ゲーム配信なら、今住んでるマンションの自分の部屋から一歩も外へ出なくてもいいじゃない。そういう引きこもり生活をしたいんだ」
「ダウジングが持っている可能性をまったく無視した夢を持ってるんだね。お金儲けに悪用するつもりがないみたいで、ほっとしたよ。そういえば、マンション住まいなんだね」
「そうだよ。一階が学習塾になってるマンションなんだ」
大通りに面した建物で、大手の学習塾が一階に入っているため、小中学生がマンションの周辺をよく歩いている。その話をしたところ、偶然にも小学生時代、海原君がその塾に通っていたことが判明した。私たちはもしかしたらその頃、どこかですれ違っていたかもしれない。
「いくつも習い事をさせられていたんだ。いろんな塾に通わされたし、習字や茶道やピアノもやった」
「跡取りとして英才教育を受けていたんだね」
「でも本当は、家の事業を継がずに、何かまったく別のことをやれたらいいなって思ってる。それが何かは、まだわからないけど」
彼は窓の外に視線を向ける。喫茶店の横の通りを人が行き交っていた。きっと全員が東京で生まれ育ったわけではなく、地方からやってきた人も大勢いるのだろう。私たちと同じ豊橋市出身の人だって。
なんだかお腹がすいてきたので、喫茶店のメニューからカレーを注文する。運ばれてきたカレーにはゆでたウズラの卵が載っていたので、私はうれしくなる。日本で使われるウズラの卵の半分以上は豊橋市で産まれ、出荷されたものなのだ。カレーに載っていたものがそうだとはかぎらないけれど、同郷の存在に出会えたような気がした。
しばらく時間をおいて彼の母親のいる方角を調べたけれど、まだ自宅にもどる気配はなさそうだ。私たちは彼女について推測した。仕事で出かけているのだろうか。いや、お友だちに会いに外出しているのかもしれない。今、何歳くらいだろう。家族がいるかもしれない。子どもがいるかもしれない。土曜日だし、家族連れで遊園地みたいなところに出かけている可能性もある。
「海原君が現れることで、彼女の幸福な家庭が壊れたりして」
「やめてくれるかな、わざわざ悪い想像をするのは」
「最悪の状況を想定しておくのがいいよ」
「僕が現れることで気まずくなるなら、手紙を出すのもあきらめようと思う」
海原君の母親は、かつて自分が男の子を出産したことを、どう思いながらこの十六年間を過ごしてきたのだろう。およそ十ヶ月間お腹にいた子どものことを、さすがに忘れることなんかないとは思うけど。
喫茶店内が混んできた。入り口に人が並びはじめたので、長居をするのは迷惑になると思い、店を出ることにした。池袋から新宿へ移動する。雑居ビルの六階にあるネットカフェで時間をつぶすことに決めた。読みたかった漫画があったのだ。せっかくだから東京観光をした方が良かったのかもしれないが、人の多さにあてられて、くたびれていた。
ネットカフェも人気らしく、カップル席しか空いていなかった。仕切りで囲まれた薄暗い空間に、二人並んで腰かけられる小さなソファーがある。ドリンクバーのグラスにジュースを注ぎ、漫画をどっさりと持ちこんで、私と海原君は体が触れない程度に距離を保ちながら座った。しかし、気をつけていても、身動きする時に肘が体に当たったりして、すこしだけ気まずくなる。
近くに座ってみると、彼が着ているシャツの袖口から、糸が一本、のびているのがわかった。生地がほつれているのだ。私が無言でそれを引っ張ると、糸は切れずにどんどん伸びて、途切れる気配はない。私の行動に気付いて海原君が戸惑っていた。
「え、何?」
「糸が出てるよ。どこまで伸びるの、この糸」
「知らないけど、やめてよ」
「このまま引っ張り続けたら、海原君の服、ほつれて分解して裸になっちゃったりして」
その様子を想像してほほえましくなる。結局、糸は彼が切ってしまい、どこまで伸びるのかを確認することはできなかった。
トイレに行く時、ネットカフェが入っている雑居ビルの窓から、夕焼けの新宿の雑踏が見えた。すぐ近くに隣のビルの壁があって視界は悪かったけれど、行き交う人々の黒い影が地面に長く伸びていた。
薄暗い空間で小声で漫画の感想を話しているうちに日没の時間が過ぎる。もうあきらめて帰るべきかを私たちは検討しはじめた。今から東京駅にむかえば今日中に間違いなく新幹線で豊橋市に帰り着くことができるはずだ。もう何回かダウジングをやって、彼女が家にもどる気配がなければ、私たちも今回はあきらめることにしようか。水晶の振り子を取りだしてぐるぐると回転させる。カップル席に備え付けられているデスクライトの光を乱反射させ、私たちの顔や服の胸元や仕切りの壁に、光の粒がおどった。
「彼女は今、あっちの方角にいるみたい」
私が指さす方向を確認し、海原君がスマートフォンのコンパスアプリで方位を調べながら地図に線を引いた。なんと、彼女の位置が前に調べた時にくらべて大きく変化しているではないか。電車などの交通手段を使って家にもどっている最中なのかもしれない。彼女は南下していた。さらにすこしだけ時間をおいて、もう一度、ダウジングを試してみる。彼女の位置が南へ移動しているのがわかった。
「このまま南下を続けたら、この場所から彼女にむかって引いた直線が、新横浜駅と東京駅を結ぶ直線と交差するはずだ」
「どうする?」
「移動しよう。最終の新幹線前に自宅を突き止められるかもしれない」
ネットカフェを出ることにした。彼が料金を支払い、エレベーターで地上に下りる。外はもう暗い。日が暮れた新宿の町は、様々な色のネオンが夜空に輝いている。立ち止まっていると後ろからやってくる人たちにぶつかりそうなほど、大勢の人で溢れていた。ビルの隙間の吹きだまりのような場所に私たちは一時的に避難して話をする。
「地下鉄に乗って点Pの近くまで移動しよう」
「それって、どのあたり?」
「さっきのダウジングの雰囲気からすると、なんとなく自由が丘駅とか、田園調布駅とか、その周辺なんじゃないかって気がする。根拠ならあるよ。ダウジングの合間の時間と、彼女の方位の角度変化と、平均的な電車の速度から大まかに計算してみたんだ。彼女のいる地点がもっと西側の地域だと仮定した場合、南下する彼女の移動距離が長くなりすぎて、電車の平均速度を大幅に上回ってしまう。地図を見た感じ、西側の離れた地域になると、南北に移動する路線も見当たらないし。だから、この辺りなんじゃないかって推測できるわけだ」
海原君は地図アプリを起動し、東海道新幹線の線路と多摩川とが交差しているエリアを表示させる。なるほどね。完全に理解した(ほんとうはわかってない)。ともかく私たちはその辺りを目指すことにする。副都心線という地下鉄の路線を使うことで、私たちのいる現在地からそのエリアまで直行できるらしい。
地下通路を移動して改札に向かった。行き交う人に何度もぶつかってしまう。東京の人たちはみんな、どこかへむかって急ぎ足だ。何度目かに人とぶつかった時、大きな衝撃をうけて、よろめいてしまった。咄嗟に彼が手を伸ばして、私の腕をつかみ、支えてくれた。
「大丈夫?」
「うん」
心配そうにのぞきこむ海原君の目。私はすこしだけ気恥ずかしくなり視線をそらす。スマートフォンに入れた交通系ICカードのアプリで改札を抜けた。ホームで電車を待っている時、異変に気付く。いつも無意識にポケットの中で握りしめていた感触が、なかった。
「……ねえ、海原君」
「なに?」
「振り子がないみたい。どうしよう」
6
もしかしたら、さきほど通行人にぶつかった時、衝撃でポケットから出てしまったのかもしれない。私たちは改札を出て地下鉄乗り場周辺を探してみることにした。駅員さんにも事情を説明し、【円錐形の水晶に銀色の鎖がついたもの】が落とし物として届いていないかどうかを確認した。結果はだめだった。今のところだれにも拾われておらず、どこかにひっそりと落ちているのかもしれないし、あるいは、拾った人がそのまま持ち帰ってしまったのかもしれない。水晶の部分が美しかったので、高級なアクセサリーのようにも見えたから、発見した人が何食わぬ顔で自分のポケットに入れてしまうことは充分にかんがえられた。
「どうしよう。おばあちゃんからもらった、大事なものなんだ」
「もっとよく探してみよう」
海原君は地下鉄副都心線の新宿三丁目駅の改札周辺を隅々まで探してくれた。私も通行人にぶつからないように、壁際に沿って腰を折り曲げた格好で足下を観察する。地下鉄の通路と言っても周辺は明るくおしゃれな雰囲気があった。近くに新宿伊勢丹の地下一階への入り口に通じる短いエスカレーターがあり、白い照明で発光しているようにも見える壁面が未来的だ。ガラス越しにディスプレイされた有名チョコレートブランドの広告や、壁に展示されたアート作品などがある。海外から観光に来た人々や、東京で休日を満喫している人たちが、改札の周辺に押し寄せては通りすぎていく。
「見当たらないな」
「ごめんね、海原君。時間がないのに」
「しょうがないよ。新山さんのせいじゃない」
しばらく探した後、私たちは壁際で途方にくれていた。こんな時なのにいらついたり怒ったりしない彼は大人だ。むしろ、へこんでいる私を心配そうに気づかってくれているのがわかる。彼は三十分おきに駅員に話しかけ、落とし物として届いていないかを確認してくれた。それにしても、いろいろな人の失くし物を見つけてきたこの私が、まさか失くし物をする側にまわってしまうなんて。
あらためて自覚するのだが、ダウジングのできない私は、役立たずだ。私は何者でもない新山羊であり、特別な力を持たない平凡な人間である。ただのオタク系ギャルである。不安でしかたがなかった。海原君がいたから、がまんできたけど、一人だったら泣いていたかもしれない。
「ねえ、海原君、木の枝やL字型の金属棒、どこかに落ちてないかな?」
「どうして?」
「おばあちゃんが言ってたんだけど、ダウジングにはいろいろなやり方があるらしいよ。木の枝を使ったり、L字型の金属棒を使ったりする人もいるんだって。もしかしたら、私にもできるかも」
「どちらも東京の地下には落ちてなさそうだね。でも、ちょっとまって。もう一個、別の振り子を作ってみたらどうかな。その振り子を使って、水晶の振り子の位置を特定できない?」
通行人の邪魔にならない片隅で私たちは身を寄せ合い相談する。即席の振り子になりそうなものを私たちは探した。池袋で買ったアクリルキーホルダーで代用できないだろうか。だめだ。鎖の部分が短すぎる。海原君が、はっとした表情でポケットから糸を取りだした。ネットカフェにいた時、服の袖口から一本だけ生地がほつれて出ていた糸だ。切った後、捨てずにポケットに入れていたらしい。彼は財布から五円玉を取り出し、穴に糸を通してぶら下げた。
「なんで五円玉なの?」
「五円玉は縁起がいいんだよ。昔から言うでしょう、【ご縁がある】って」
ダジャレかよと思ったけど、失くし物との縁を結んでくれるかもしれない。五円玉をぶら下げた糸を、指でつまんでたらしてみる。その時の感覚が水晶の振り子に似ていた。これならできるかも。私はさっそく、即席の振り子を回転させはじめる。
「なんだか、あれだね。『魔女の宅急便』のアニメで、キキがホウキの代わりにデッキブラシを使った時みたい」
「よけいなことをかんがえずに集中しなよ」
私は目を閉じて指先の感覚に神経を研ぎ澄ませる。五円玉の振り子は、水晶の振り子ほど明確に方向を示してはくれないみたいだ。どれだけ回転させても、特定の方角にむかって重たくなる様子がない。やっぱりだめかな? そう思いかけた時、ほんのかすかに、雰囲気が感じられた。私の意思の力が糸と五円玉にようやく浸透し、神経が接続され、錆び付いていた機械が動き出すように、あるいはサナギから出てきた蝶が羽根を広げるみたいに、何かが始まるのを感じた。目を開けて五円玉を見つめる。海原君が財布から出した五円玉は製造年が新しく、黄金色に照明の光を反射させながら、裏表を高速で入れかえて円を描いている。ある方位を通過する時、五円玉の重みが微妙に変化した。
「あ、わかったかも」
その手応えが気のせいではないことを慎重に確認する。その方位を通過する時だけ、五円玉の振り子が、何か引っかかりのようなものを確かに感じるのだ。糸をつまんでいる指が引っ張られた。神様が見えない手で私をそちらの方へ導くみたいに。
ダウジングを中断してそちらにむかって私は歩き出す。通行人を避けながら進むと、下りの階段があり、他の地下鉄駅入り口へ向かう通路がさらに遠くまで伸びていた。海原君が無言で私の後をついてくる。
壁際の目立たない位置に、水晶の振り子が落ちていた。私たちが探していた場所からずいぶん離れた位置だ。きっと、行き交う大勢の人の靴で、何度も蹴られてここまで移動してきたのだろう。私はそれを拾い上げると、大事に手の中に包み込む。
時間を確認すると、すでに二十二時を過ぎていた。
故郷へ帰るための新幹線はもうない。
7
深夜の住宅地を移動しながらダウジングをくり返す。探すのは海原君の母親の自宅だけではない。深夜のパトロールをしているお巡りさんの現在地を確認し、それを避けるように私たちは進まなくてはいけなかった。もしも鉢合わせしたら、こんな時間に何をしているのかと問い詰められ、補導されてしまうかもしれない。
多摩川を越えて東京都から神奈川県まで歩いてきたせいでくたびれていたけれど、眠けを感じないのは気分がたかぶっていたせいだろう。都会の夜空が明るくて星の数がすくなかった。非常に明るい数個の星が空で瞬いているのみで、故郷ならば見えるはずの星々はどこかに消えていた。地元では輝いて見える人たちも、東京のような大都会に来ればくすんでしまうのだろうか。
最終の新幹線に乗れず、都会で一晩を過ごさなくてはならないと理解した私たちは、どうしよう、と頭を抱えた後、それぞれの自宅に電話をかけて友人の家に泊まるという噓をついた。私はこういう突発的な外泊がはじめてではなかったので、またか、という反応だったけれど、海原君の方は説得に時間がかかったようだ。
新宿から乗った地下鉄には酔っ払いの男子大学生の集団がいて、ろれつのまわらない口調で私は声をかけられたが、海原君が私と大学生集団の間に入って助けてくれた。自由が丘駅に移動した頃、零時を過ぎて日付が変わっていた。海原君のお母さんの住んでいるエリアはこの辺りではないかと彼は予測したけれど、ダウジングをくり返しながら探索した結果、実際は多摩川をはさんだ川崎市の辺りに彼女の家はあるらしいとわかった。新宿から見た場合、その違いはほとんど誤差のようなものだったから仕方がない。多摩川のこちら側か、あちら側かという話である。
私たちは気持ちを切り替えて夜の散歩をたのしむことにした。橋を渡り、東京から神奈川へ移動する。自宅で就寝しているはずの彼女は、その位置を変化させないため、ダウジングごとに地図へ追加される直線はある一点で交差した。そこに彼女の家があるはずだった。
「お母さんを探す時、五円玉の振り子を使った方が感度が良いみたい。海原君の服の糸を使ってるおかげかなあ」
運動公園の敷地を私たちは移動する。鬱蒼とした茂みがあり、深夜に歩くのはすこし怖い。スタジアムの巨大な影を見上げながら、私たちは振り子の指し示す方向へと歩き続けた。
やがて住宅地の一画に煉瓦造りの古い洋風の家を発見する。他の家は真新しい建売住宅なのに、その家だけ時代の流れから切り離されたようなたたずまいだ。路地と敷地の境界は黒色の鉄製の柵になっており植物の蔦が絡みついていた。【桜井】という表札が門に設置してあり、旧型の玄関チャイムのボタンがその下にある。
「桜井さんか……」
海原君がつぶやいた。
私のダウジングは、その家の中心を指し示している。ここが彼のお母さんの家だ。間違いない。地図に引かれた複数の直線が、その住所で交わっていた。窓は暗い。彼女は眠っているのだろう。閉じられた門扉越しに玄関先が見える。
傘立てが玄関の外側に置かれていた。女性用の傘が一本だけささっている。そのことに私は注目した。例えば小さな子どもが使うような明るい色の傘は見当たらない。男性用の大人の傘もない。もしも彼女が結婚して子どものいる家庭で暮らしているのなら、玄関周りはもっと雑然としているのではないか。小さな子のいる家だったら、子どものプラスチック製のおもちゃや、逆さにして乾かしている小さな黄色い長靴や、三輪車なんかが置いてあってもいい。海原君もそのことを察したに違いない。
「どうする?」
「ひとまず、どこかで休もう」
その家の住所を書きとめて私たちは一度、住宅地から離れることにした。駅前に行けば、休憩できそうな二十四時間営業のファミレスやネットカフェは見つかるだろうか。でも、高校生の深夜の利用は断られるかもしれない。多摩川の河川敷のベンチで私たちは朝を待つことにした。夏と秋の中間の時期だから、凍死することはないだろう。
ベンチで足を休ませ、背もたれに体を預けて頭上を見る。神奈川県と東京都を結ぶ巨大な橋のシルエットが夜空を横切っていた。隣に座っている海原君の横顔を見ると、何か考えごとをしているような目で地面の一点に視線を向けている。
「せっかくだし、お母さんに会ったら?」
私は彼に提案した。お母さんの家の住所が判明した時点で彼の目的は達せられている。後は電車の始発を待って東京駅に移動し、新幹線で故郷へもどるだけだ。でも、挨拶だけでもしていけばいいのに、と思ったのだ。
「きみはそう言うけどね。場合によっては、一生のトラウマになるかもしれないんだ」
「例えば?」
「僕を産んだことを彼女が後悔していて、【産まなければよかった】とか言われるかもしれない。【あなたのことは思い出したくなかった】【もう二度と来ないで】とか。面とむかってそう言われたくないから、まずは手紙を出して、向こうの雰囲気を確かめたいわけ」
「まだるっこしいな。じゃあ、私が聞いてきてあげるよ。何かひどいことを言われたら、私がオブラートに包んで、海原君におしえてあげる。それならいいでしょう?」
「それも嫌だ」
「なんで?」
「男らしくない」
「海原君もそういうこと思うんだね、男らしくないとか。今、そういうのは関係ないんだよ。朝日がのぼるまであと数時間あるから、しばらく悩むといいよ」
多摩川沿いに土手があり、河川敷のベンチは土手を下りたあたりの何もない場所にあった。近くに野球の練習ができるような空き地があり、サイクリングロードが遠くまで続いている。多摩川の水の流れはゆったりとして深い暗闇が広がっていた。時折、ダウジングを行い、私たちに危害を与えるような存在が近くにいないかどうかを確かめた。不良の集団や暴漢に襲われることを私は危惧していたのだ。幸い、ダウジングにそれらの反応はなかった。
眠けが強くなり、気付くと私たちは寄り添い合って眠っていた。服の生地越しに伝わってくる彼の体温が心地よかった。お風呂に入ってないから、臭いと思われたらどうしよう。一日中、歩き回って汗をかいたのに、シャワーを浴びてないんだけど。そんな心配がよぎったけれど、眠けには勝てなかった。
あさい眠りとまどろみを何度も行き来しているうちに空がすこしずつ明るくなる。河川敷はさえぎるものがなく、空の全部が頭上に広がり、朝がダイナミックに東側から押し寄せてくる様を眺めることができた。多摩川をはさんだ対岸の建築物を縁取りながら、清浄な朝日が私たちのベンチを輝かせる。海原君が起きてあくびをしながら言った。
「決めた。この後、僕を産んだ女性の家を訪ねてみようと思う」
「私も行っていい? いやだったら、どこかで待ってるけど」
「来てくれてもかまわないよ」
「もしもひどいことを言われたら、私が海原君の代わりに怒ってあげるよ」
ベンチから立ち上がり、背伸びをして硬くなった体をほぐす。朝焼けが、ストレッチする私の影を、斜めに長く地面に伸ばしていた。
コンビニに移動して朝食のパンを買い、運動公園の水が出ていない噴水のそばに腰かけて二人で食べた。人々の生活がはじまって、ジョギングする人や、犬の散歩をする人たちを見かけるようになる。あまりに早い時間に海原君のお母さんの家を訪ねるのも非常識だろう。しばらく時間をつぶしてから来訪することにした。公園のトイレの鏡で私はメイクを直した。海原君は気付いてないかもしれないけど私は薄くメイクをしており、一晩を経てぼろぼろの状態だったのだ。まあどうせ彼は私の運命の相手ってわけではないので顔なんてどうでもいいだろう。そんなことをかんがえていたら、むなしくなって泣きそうになる。
日曜日の午前九時。
私たちは再び住宅地に入り、桜井という表札の掲げられた煉瓦造りの家の前に立った。
緊張の面もちで海原君は玄関チャイムのボタンを押す。屋内で音が鳴っているのが聞こえてきた。マイクもスピーカーもない、ただチャイムを鳴らすだけのボタンだ。待っている間、私と海原君は一度だけ視線を交錯させる。
ほどなくして、玄関扉が開かれ、美しい女性が怪訝そうな表情で顔を出した。中年というほどではない。まだ充分に若く見える。細身で、海原君と同じタイプの銀縁眼鏡をかけた髪の長い女性だった。海原君の顔立ちによく似ている。
ああ、この人だ。
彼女がこの家の主で、海原君を十六年前に出産した人だ。
確信は数分後に覆されるわけだけど、その瞬間はそんな風に思った。
海原君は彼女を数秒ほど見つめた後、名前を名乗り、深々と会釈をして来訪の意図を告げた。
8
私たちは庭の見える客室に通されて温かい紅茶をいただいた。市販のよくある紅茶の香りとはすこし違う、なんだか高そうな種類の茶葉だった。海原君は細い指でティーカップの取っ手を持ち、感慨深い表情で湯気を見つめている。庭の木々は手入れされており、日曜日の日差しで緑色が映えていた。
「どう思う?」
「さあ、どうだろうね」
私は質問し、彼は首を横にふった。客室には私たち二人だけがのこされ、この家の主は一時的に席を外している。
玄関扉を開けた女性は桜井涼子と名乗った。来訪の意図を告げた海原君に対し、おどろいた表情を浮かべながら、彼女は言ったのだ。
「以前、私の姉が、ある男性の子どもを出産したんです。疎遠だった時期なので、身重の状態を見ていたわけではなかったのですが……。その時に出産した男の子が、おそらく、あなたなのでしょう」
彼女は現在、一人暮らしをしているが、数年前までお姉さんとこの家に住んでいたらしい。お姉さんは重い病気を患って他界したが、その人こそ海原君のお母さんなのだと、桜井涼子さんは主張する。でも、本当にそうなのだろうか。私と海原君は疑いを抱いたまま客室に案内され、こうして庭を眺めながら紅茶をいただいているのだった。
探している相手がこの世に存在しない時、ダウジングはどの方角も指さないはずだ。でも、確かに水晶の振り子や五円玉の振り子は何かにむかって引っ張られていた。海原君を出産した女性が、すでに故人となっているとは思えない。
庭の木々に鳥が来て、また翼をはためかせながら空へ消える。部屋の外から足音が聞こえ、桜井さんが扉を開けて客室にもどってきた。彼女の手には数枚の写真がある。
「これが、姉の写真です」
彼女は私たちの向かいの席に座って、持っていた写真をテーブルに置いた。彼女の所作はすべて美しく、洗練されている。座っている状態の時、背中から頭まで一本の柱でも入っているかのようにまっすぐだ。綺麗な人だなと思う。彼女の視線は、私の隣の海原君に注がれていた。
写真に写っていたのはどこかの病室で、頰のこけた妙齢の女性がベッドで休んでいる。桜井さんと顔立ちが似ており、海原君とも目の作りに共通点がある。亡くなるすこし前に撮影されたものだと説明を受けた。他の写真には姉妹で並んでいるものや、病気を患う前の健康な時に撮影された姿が記録されている。
海原君は無言で一枚ずつ写真を眺め、桜井さんはその間も彼から目を離さない。長い睫毛だなと思っていたら、憂いを秘めた彼女の瞳が私にむけられて目が合う。私はぎこちなく会釈をして彼女に言った。
「ちなみに、私、彼とつきあっているとかではないですよ。念のために言っておきますが」
「あら、そうなんですか」
「人探しを手伝っていただけなんです。私、そういうのが得意なんで」
海原君が写真から顔をあげる。
「この女性……、僕を産んだ女性の名前を教えてください」
「美緒です。桜井美緒。それが姉の名前です」
「彼女が僕の母親、というわけですか」
「ええ、そうです。あなたを産んだ時のことは、後から聞いて知りました。やむを得ない状況で、赤ん坊を引き取るのはあきらめたと、姉から告白されたの」
写真がのこされているということは、彼女に姉がいたというのは本当のことだろう。でも、すべてを真実として受け入れることはできない。ダウジングの結果と矛盾する。しかし、彼女の噓を追及することに意味を感じなかった。海原君もきっと同じように思っているのだろう。だから私たちは何も言わずに話を聞いていたのだ。
「姉は大学時代にあなたのお父様と知りあい、おつきあいをしていたようです。生前に語ってくれました。婚約をするところまで関係は進み、あなたのお父様のご実家にもご挨拶へうかがったようです。でも、姉には夢がありました」
子どもの頃から、とある業界で働くことを望んでいたという。そのために勉強し、大学に通い、目標だった会社の内定もとりつけた。夢を実現する一歩手前だった。しかし、海原君の家の親戚たちは、彼女が働くことを望んでいなかったという。結婚した後、主婦として家で夫の帰りを待っているべきという考え方の人たちばかりだったそうだ。海原君の家は、大叔父や大叔母といった老人たちの支配が非常に強く、彼らの意思に反することはできなかった。婚姻関係を結んだら主婦として海原家に入らなくてはならず、東京で働くことはあきらめなくてはならない。
「姉は、あなたのお父様と寄り添う未来ではなく、自分の夢を選択したの」
二人の婚約は取りやめになった。
しかし、そのタイミングで彼女の妊娠が判明したという。
「姉は迷ったようです。産むべきか、産まないべきか……。そんなある日、あなたのお父様のご実家から打診があったのです。姉の妊娠のことを、どこからか聞いたのでしょう。もしもお腹の子が男の子だったら、跡継ぎとして譲ってほしいと」
彼女は莫大な金額を提示された。まるで人身売買だ。しかし、海原一族の老人たちにとって、長男という存在はそれほど特別なものだったのだろう。お願いされて性別が判明する週数まで待ち、検査の結果、お腹の子は男児だと判明した。その報告をすると、豊橋市から海原家の親戚たちが何人も交渉にやってきたという。赤ん坊を寄越せと、強気で迫る老人もいたらしい。
「そのような時、父の経営していた会社が不渡りを出したのです。会社を建て直すには大きな金額が必要でしたが、金融機関に融資を断られたようです。それらの状況もすべて、海原家が裏で手を回してお膳立てしたものだとは思っていません。偶然、そのような状況が重なったのでしょう。私は、すべてが終わった後、姉から話を聞きました」
彼女の姉は、父親の会社を建て直すための援助を海原家にお願いした。お腹の男児と引き替えに。その後、豊橋市の病院で男の赤ん坊を出産した。数ヶ月間を一緒に暮らした後、その子を海原家に託したという。
「お別れをする時、姉は念書を書かされたそうです。今後一切、海原家とは関わりをもたないこと。手紙などのやり取りも禁止。母親として名乗り出てはならない。成長した子どもが訪ねてきても無関係を主張すること。禁止事項を破った時、父の会社に援助してもらった資金をすべて返済しなくてはならないそうです。姉は、自分が産んだ男の子が、どのように成長したのかをいつも気にしていました。でも、心のどこかに、罪悪感があったのでしょう。一緒に暮らす未来を選択せず、自分の夢を追いかけたことに対し、負い目を感じながら生きていたのです」
海原君のお父さんもまた、彼女に対して罪の意識を抱いていたのだ。だから死ぬ間際、うわごとで謝罪をくり返していた。彼もまた一族の老人たちから念書を書かされていたのかもしれない。彼女と連絡を取ってはならない、息子を会わせてはならない、などと。海原君のお父さんが亡くなったことは、すでに桜井さんには伝えていた。私たちと向かい合って、姉から聞いた話をする桜井さんの顔には、寂しそうな影が落ちている。話を終えた後、客室には沈黙が続いた。外からのんきな鳥のさえずりが聞こえてきた。私はおそるおそる口を開く。
「あの、私の勝手な意見ですが、お姉さんは海原家に嫁がなくて正解だったと思いますよ。家父長制度っていうんでしたっけ? 赤ん坊が男の子だったら跡継ぎとして引き取る、だなんてひどいですよ。女の子だったら、いらないってことですよね? そんな考え方をする老人たちがいるなんて、主婦になってたら、絶対にひどいめにあっていましたよ。そんな家、絶対だめです。ほろんでしまえばいい」
「そんな家……」
私の横で海原君がひそかに傷ついていた。
「あ、ごめんね。海原君は悪くないんだよ」
「わかってる」
「ほろんでしまえばいい、というのは言い過ぎだった」
「まあ、ぐさりと刺さったよね。僕の家のことだから」
桜井さんは、私の話にすこしだけおどろいていたけれど、その後の私と海原君のやり取りを聞いているうちに、やわらいだ表情に変化する。なんだか眩しいものを見るように目をほそめていた。それから二時間ほど話をした後、桜井家を後にすることになった。別れ際、玄関先で海原君と桜井さんは握手を交わした。手の指の細さ、爪の形などが、二人とも似ていた。彼女の目元にはすこしだけ涙があった。はたして彼女はどんな人生を送ったのだろう、と私は思う。
彼女は最後まで、自分があなたを産んだのだとは言わなかった。
海原君の方も、あなたが僕の母親なんでしょう、と追及しなかった。
「今度、手紙を送ります。……親戚の老人たちは、もう歳をとりすぎていて、昔ほどの力はありません。大昔の念書なんて、どこにあるのかも、忘れてしまっているでしょう。だから、僕のお母さんも、心が自由になっていいはずです」
そう言うと、海原君は深々と頭を下げた。
彼女もまた、頭を下げながら言った。
「ありがとう、海原ワタル君」
住宅地の曲がり角で見えなくなるまで、彼女は煉瓦造りの家の前に立ち、私たちを見送ってくれていた。
電車を乗り継いで私たちは東京駅へ移動する。
日曜日だからか、電車内には子ども連れの家族の姿が多かった。
「きみの言うとおり、会ってみて良かった」
「ダウジングが指してたの、あの人だったよね、たぶん」
「うん、僕もそう思う」
「昨日、どういう用事で出かけていたのか、聞くのを忘れたね」
「まあ、特に重要ではないからいいよ。それよりも、さっき、紅茶を出してもらったでしょう、アールグレイの」
「アールグレイっていうんだね、あの紅茶」
「たぶんだけど、父がいつも飲んでいたブランドの茶葉だったと思う」
「ずいぶん詳しいね」
「紅茶にはうるさいんだ」
「偶然、アールグレイだったのかな? それとも、わざと?」
「さあね」
もしかしたら、彼女にとって無言のメッセージだったのかもしれない。
あなたの父親が好きだった紅茶の銘柄を憶えていますよ、と。
そうだったらいいな、と私は思う。
海原君が、愛されてこの世に生まれた人間だと確信できるから。
「それはそれとして、私は無事に海原君の依頼をやり遂げたわけだし、次の試験勉強はよろしくたのむよ」
「わかってる。新山さん、本当にありがとう。感謝してる」
彼が清々しい顔をしていたので、私は満足してうなずいた。
東京駅に到着すると、豊橋駅までの新幹線の切符を購入した。改札を抜けて出発の時間を待つ間、私はトイレでメイクを直し、いい香りのするスプレーをシュッとやった。海原君は二人分の駅弁を買ってくれていたらしい。ホームに移動すると乗り場に人が列を作っている。指定席のチケットを買っていたので並ぶ必要はなかったけれど、何となく私たちもその最後尾に連なって新幹線を待つことにした。丸の内のビルが新幹線乗り場から見える。東京で同い年の男の子と一晩を過ごして帰るなんて、すごい冒険だったなと感慨深い。それと同時に、旅が終わることが、すこしだけ寂しかった。帰ったらまたいつもの日常が続くのだ。
「新山さん、どっちの弁当がいい?」
さきほど売店で購入した二種類の駅弁を見せて海原君が質問する。
野菜が多めのやつと、肉が多めのやつだ。それを、右手と左手にそれぞれ持っている。
どっちでもいいな。正直、どっちでもいい。
でも、せっかくだから、ダウジングで選ぶことにしよう。
私は水晶の振り子をポケットから出して回転させる。
私の心が欲しているのは、どれ?
光が水晶を通り抜け、屈折し、海原君の右手と左手がそれぞれ持っている駅弁の上を通過する。
不思議なタイミングで、振り子につながった鎖が、私の指を引っ張った。
ダウジングが指し示したのは、ちょうど中間だ。
二つの駅弁の真ん中の部分を通る時、ぐいっと引っ張る感覚があった。
ようするに駅弁ではなく、それを持っている海原君にむかって振り子が私を導いている。
「どっちだった?」
「あー、ちょっと、わかんなかったなー」
動揺を隠しながらもう一度、ダウジングを試みた。すこしだけ質問をアレンジしてみようか。
私の心が望んでいるのはどれ?
結果は同じだった。駅弁ではなく、海原君にむかって振り子は引っ張られる。
新幹線がホームに入ってきて私たちの前に停車した。扉が開いてたくさんの人が降りる。そしてまた、扉は閉まってしまう。車内清掃の時間だ。列に並んでいる人々は、扉が開くまでの数分間をじっと待つ。私は、自分の頰が火照っているのではないかと心配し、海原君に背中を向けて考える。
小学生の時、私は、運命の相手をダウジングで探したけれど、振り子はどの方角も指さなかった。真下を指した状態で停止したのだ。だから、自分には運命の相手なんかいないのだとあきらめた。でも、そんなことはどうでも良かったのかもしれない。問題は、私の心がどうしたがっているか、なのだろう。例え運命の相手なんかじゃなかったとしても、私がだれかのことを選びたいと思ったのなら、私は私の心に従えばいいのだ。彼のお母さんが自分の夢を追いかけたように。
「どうしたの、新山さん?」
「ちょっと考え事してるんで、今は困ります」
「なんで敬語? どっちの駅弁にするかが、そんなに重要なのか……」
「違うんで、すこし黙っててください」
ひとつの可能性が、頭をよぎった。
小学生の時にやった、運命の相手をめぐるダウジングのことで、私が思い違いをしていたという可能性だ。
例えば、私の自宅はマンションにあるのだが、その一階部分に入っている塾に彼は通っていたという。私がダウジングをしたあの時間、海原君が一階の塾で勉強をしていたのだとしたら。水晶の振り子は、どの方角も指さなかったのではない。真下に位置する彼のことをはっきりと指していたのかもしれない。ああ、でも、そんな辻褄あわせなんか、どうでもいいんだ。重要なのは、私がどうしたいのか。
私は私の心に従えばいい。これ以上、かんがえるのは、やめにしよう。
その時、車内清掃が終わり、音をたてて扉が開いた。
私と海原君は視線を交わし、列に続いて新幹線に乗りこんだ。
故郷へ。景色が流れはじめる。
了