ネコではない、✕✕である。【前編】
リイン(株)サポート室の怪しい日常
東京駅のすぐそば、再開発の進む八重洲の一等地を見下ろす高層フロアにて、御堂小夏は呆然としていた。
はめ込み窓の外には、日本屈指のビル街が広がっている。摩天楼が列をなし、燦然とそびえ立っている。ここは間違いなく、世界的総合玩具メーカー・リイングループの中枢も中枢、最重要フロア。の、はずなのだが。
スタイリッシュな内装は、見渡す限りほっこりとした無垢材のフローリングと腰壁に覆われてしまっている。並ぶ家具も、場違い感の溢れるパステルなソファやクッションばかり。極めつけには大木を模した、いやにメルヘンな構造物が部屋の中央に鎮座していて、枝のごとき足場を四方八方に伸ばしている。
そのひとつを、長毛の白猫がのんびりと渡っていた。
そう、猫である。
見間違いか、夢か。小夏は顔をしかめた。さすがに夢だろう、これは。
残念ながら、どれだけ目を擦っても現実は変わらない。猫がいる。オフィスを闊歩している。
恐ろしいことに、くつろぐ猫は一匹だけではなかった。窓際の空色のソファの上に、サビ猫が寝そべっている。茶トラなど腹まで見せている。アメショーが追いかけるボールを虎視眈々と狙うのは、大木の麓で香箱座りした黒猫だ。我関せずとクッションの上で明後日の方向を見つめるハチワレ、キャットウォークをのそりと行きかうメインクーンに三毛。
絶句していると、
「なかなかの設備だろう?」
隣に立った男がにこやかに喋りはじめて、小夏はびくりとした。
「彼らのストレス軽減のため、様々な工夫がしてある。大木の裏には静かに休める小部屋があるし、隣の食事部屋とも専用の小ドアで行き来自由。昨年リノベーションしたばかりなんだ」
鍛えた長身をえらく仕立てのよいスーツで包んだ、映画スターみたいな容姿の三十前後の男が鷹揚に微笑んでいる。なんと余裕を感じさせる佇まい。ノーブルにポケットに突っこまれた両腕の、スーツの皺までさまになっている。
だからこそ、なんと答えればいいのか本気でわからなくて、小夏はぎごちなく口の端を持ちあげた。
「あの、念のため確認させてください。こちら、わたしが本日付で転属になった、『事業・福利厚生サポート室』で本当に合っておりますでしょうか」
まさかどこぞのネコカフェに紛れこんじゃったわけではないですよね?
「間違いない」
と男は笑顔で小首をちょっと傾げた。「そして間違いなく僕が室長の齋明寺廻だ。敬語は使わなくていいし、できれば名前で呼んでくれると嬉しい。齋明寺ではオリジナリティがないから」
できるわけがあるかと思いつつ、小夏はかろうじて愛想笑いを保った。なんにせよ、やはりこちらの愉快なオフィスが新たな職場らしい。そしてこの、わけのわからぬ男こそが上司。齋明寺廻。
リイングループの創業者一族の御曹司で、頭脳と容姿と太すぎる実家という、人類がほしがるおおよそを持っていて、人当たりもすこぶる良くて、それでいて信じがたいくらいマイペース、自分勝手、常識知らずだと噂される男。『金遣いの荒さにかけては世界一』だの『やりたい放題貴族』だの『会社私物化の第一人者』だの散々な評価は聞いていたが、まさかオフィスをネコカフェにリノベしてしまうとは思ってもみなかった。越えてはいけない一線を悠々と越えすぎではないか。
などとドン引きしている場合ではない。腹に力を入れて、猫まみれの場に着てくるなど正気の沙汰とは思えない高級スーツを見あげる。
「室長、わたしがこちらに配属になった理由はご存じでしょうか」
「もちろん知っているよ。サポート室の予算をどうにか削減したい、そんな経営陣の思惑によってだろう? かわいそうに君は、『齋明寺一族の御曹司に意見して、経費削減を推し進める』という面倒な役を押しつけられたんだ」
押しつけられたかはさておいて、言うとおりではあった。
のんびりとくつろぐ猫たち。仕事場らしい家具など、肩身が狭そうに隅に並んだデスク四台のみ。
そう、小夏はこのあまりにも常軌を逸した状況を、わずかなりとも改善するよう命じられたのである。この両肩に、リイングループ三千人の期待が乗っているといっても過言ではない。
「よかった、ご存じなのですね。でしたらさっそくお尋ねします」
「どうぞ?」
「拝見したところ、この部屋には猫ちゃん関連の設備や備品が多数見受けられますが、さすがにこれらは室長が個人的に購入されたものなのですよね?」
いや、と齋明寺はハリウッドスターのように両手を軽く持ちあげた。
「基本的には違う。物品は会社の金で購入している。リノベもだ」
「……だとしたら、まずはそこにいくつか削減ポイントがあるのではないでしょうか。猫ちゃん関連品は業務と直接の関連がないはずですし」
ここがなんの部署だとしても、猫を可愛がるのが仕事のわけはないはずだ。
「御堂さんだったか」
しかし齋明寺はまったく悪びれず、むしろ眦の皺を深くして小夏に向かい合った。
「どうやら君は大きな誤解をしているらしい。まずひとつ。うちの部署に経費削減は不可能だ。かつかつだからな」
かつかつ。いったいどのあたりが。
「そしてもうひとつ。この場にいる、いかにも猫に見えるものらについてだが」
「見えるというか、間違いなく猫ちゃんですよね」
「これらは実のところ、生物学的な猫ではない」
「……ではなんなのでしょう。犬ですか、それともタヌキ」
笑顔も限界に近づいてきた小夏をよそに、上司はにこやかに言い放つ。
「どちらでもないし、動物ですらない。怪異なんだ」
何度か小夏は瞬いて、それから盛大に口の端を引きつらせた。
いやいやいや、なにを言ってるのだこのひとは。怪異。すなわち妖怪や幽霊、化け猫、怨霊、都市伝説、不可思議な現象や物体。つまりこの上司は、目の前の可愛らしい猫ちゃんたちを化け物だと言いたいのか? さすがに冗談がきつい。新入りをからかっているつもりか。
そう喉元まで出かかったのに、踏ん切りがつかなかった。齋明寺はあまりにも堂々としている。呆れかえっている部下の視線をものともとせず、胸を張っている。
「……まじですか?」
「むろん、まじに決まっている」
だめ押しのごとくいい声が返ってきて、小夏はあんぐりと口をあけた。
とんでもないところに、来てしまった。
思い返せば異動の打診を受けたのは、ちょうど一ヶ月ほどまえ、人生のどん底にあったときだった。
当時、リイングループの数ある関連企業の端の端、キラキラゲームズという小さなゲーム会社で働いていた小夏が作っていたのは、超有名インフルエンサーを大々的にフィーチャーしたクイズゲームだった。競合他社との拝み倒し競争に打ち勝ってインフルエンサーの助力を取りつけられたとき、社内は沸きに沸いた。小夏も同僚と手を取り合って喜んで、必ず大ヒットゲームにすると決意したものだった。インフルエンサーとの折衝担当だって、喜び勇んで引き受けた。
だがゲーム制作が進むにつれて、暗雲が立ちこめた。実のところ件のインフルエンサーはかなり厄介な人物だったのである。外面があまりにもよいのでなかなか気づかれないのだが、実際はわがままで自分勝手、さらには絶妙なラインを狙ったセクハラ発言をくり返す、言ってみればクズだった。
それでも小夏は文句を押しこめ、笑顔を保って折衝の仕事を続けた。彼の影響力とクイズの才能は何物にも代えがたかったし、なにより彼の機嫌を損なえば、企画が頓挫してしまうのはわかりきっている。仕事なのだ、耐えきってみせろ。
だがある日、あまりにしつこいセクハラ発言にとうとう我慢しきれなくなって、一言「やめてください」と言いかえしてしまった。
とたん、思い出すだに恐ろしい大炎上がはじまった。彼は小夏を「勘違い女」となじり、インフルエンサーらしくSNSを駆使してあることないこと非難した。小夏や上司が平謝りしようと説得しようと、降りると言って聞かず、害悪を撒き散らしたあげくにプロジェクトを放りだし、そっぽを向いた。
当然の帰結として、彼ありきのゲームは発売日を目前に頓挫した。同時に小夏は、仲間の労力と会社の好感度、多大な資金を失わせた元凶となってしまった。
もちろん小夏に非があったとは言い切れないことは、社内の誰もが理解していた。インフルエンサーの増長に社としてしっかり対峙しなかったのは、会社の責任である。とはいえ一大プロジェクトを小夏の一言で潰されてしまった同僚たちに思うところがないわけもなく、プロジェクトが解散したあと、小夏は腫れ物のように扱われた。
腫れ物で当然だと、小夏自身も思っていた。地の底まで落ちこんで、毎日のようにあらゆる逃げ道を思い浮かべて、それでも会社へ与えた損害をすこしでも補填せねばという責任感から、袋小路の日々を過ごしていた、そんなある日のことだった。
呼びだされて会議室に赴くと、とんでもなく偉い人が座っていたのである。
齋明寺昇。リイングループの創業者・齋明寺理市の孫であり、若くして齋明寺財団の総裁を務め、アイドルみたいな眩しい容姿の男。
それが開口一番言った。
「御堂小夏さん。君に本社持株会社、リイン・ホールディングスへの異動を打診したい」
あまりに唐突で、にわかには信じがたくて、小夏は内心つぶやいてしまった。冗談ですよね?
買収でグループ入りしたよそ者かつ新参者のキラキラゲームズに、齋明寺一族が来社すること自体がそもそも珍しいのだ。なのに針の筵の小夏に直接異動を打診、しかも異動先はグループ全体を統轄するリイン・ホールディングス、まさしく雲の上の世界。たちの悪い冗談としか思えない。
むろん昇は、ドッキリだよとは言わなかった。
「実はとあるポジションに嵌まってくれる人間を探しているんだ。君は最適なんじゃないかと思っていて」
いったいどんな人材を探しているのか。小さな会社のヒラの企画職にすぎない小夏に、お鉢が回ってくるとも思えないが。
「僕の従兄弟を知っているかな? 齋明寺廻。リイン・ホールディングスの『事業・福利厚生サポート室』ってところの室長を務めている」
「お名前だけは」
当然ながら、お名前以上の噂だって知っている。
昇と廻。偉大な創業者・齋明寺理市の孫であるふたりは、さまざまな意味で対照的な従兄弟で、口さがない人々には『正しい齋明寺、間違ってる齋明寺』と呼ばれている。もちろん『正しい』ほうがこちらの昇だ。彼は齋明寺家の豊富な資産を運用する財団のトップを務めていて、社会貢献家としても名高い。幼少時から頭角を現していたからこそ、世襲をやめたリイン本社にははじめから入社せず、一族のために新たな道を切りひらいたのだとか。
いっぽうの廻は、相当の自由人かつ変人だという話だった。経営を学ぶだとか新事業に足がかりをつけるだとかいったリインや一族のための研鑽はなぜかいっさい積まず、大学時代は遊び暮らし、その後二年ほど無職でふらふらしていたとか。どこまで事実か定かではないが、もし本当だとすればなんとも羨ましいご身分である。
であるから、彼が現在率いているという本社の『事業・福利厚生サポート室』も、仕事の実態はほぼなく、彼にそれらしい役職を与えるために設立されたお飾り部署だ――というのが、関連会社社員のあいだの定説だった。
「サポート室はその名のとおり、全社をサポートするのが仕事なんだけどね。実は廻、とある変わった事業に入れこんでいて、たいして利益にもならないのに会社の金をじゃんじゃん投入して経営陣も扱いに困ってるみたいなんだ。だから僕のほうでひとり、経費削減を断行する権限を持った人員を彼の部署に押しこむことにした。いくら廻でも、僕の意向を無下にはできないからね。それで君に声をかけたわけなんだ」
なるほど。お飾り部署に盛大に金を注ぎこんでいる従兄弟の見張り役としてごり押しで社員を送りこんで、すこしでも無駄遣いを減らそうという魂胆か。従兄弟の尻ぬぐいをせねばならないなんて、創業者一族もたいへんである。
だとしても疑問は膨らむ。
「わたし、管理部門での勤務経験なんてないですし、経費削減のやり方だって知りません。務まるのでしょうか」
創業者一族の御曹司を制御するなんて極めて難しい仕事が、なぜ小夏に回ってくるのだろう。そもそも廻が入れこんでいるらしき『変わった事業』とはなんだ。
「詳しいことは廻自身から訊いてほしいんだけど、大丈夫、はじめからどうにかしようなんて思わなくていい。彼に信頼されて、懐に潜りこめるかこそが重要なんだし」
それに、と昇はにっこりとした。
「経費削減への決意の強さで選ぶなら、君は誰より適任だろう? いろいろあったから」
胸に刃を差しこまれたようになって、小夏は反射的に頭を下げた。
「その節は、たいへん申し訳ありませんでした」
小夏の引き起こした騒動は、キラキラゲームズのみならずリイングループ全体の好感度、ひいては売上に大きな打撃を与えてしまった。小夏はグループ社員すべてのために、負債返上の努力をしなければならない。そうでなければ、許されない。
「君の責任というわけではないんだけどね。この件で一番苦しんだのは君だろうし。まあ、だからこそ、さすがの廻も君の受け入れを断れないはずだ」
そうか、だからわたしを選んだのか。ますます小夏は落ちこんだ。
厄介な人物がトップを務める部署に、好き好んで異動する社員などいない。苦労するとわかりきっている。しかし追いつめられた小夏には、『はい』と答える以外の道などないし、行き場のないグループ社員を突っぱねるほど廻も冷血ではない。どちらにしても都合がいい。
それで小夏が選ばれた。なにもスキルや能力が必要とされたわけではなかった。
もちろんそんなこと、昇の顔を見たときからわかっていたわけである。だからなんだ、仕事を斡旋してもらえるだけでありがたや。
それにはじめから決めていたじゃないか。次は逃げるわけにはいかない、と。
というわけで「喜んでお引き受けします」と頭をさげると、「じゃあ決まりだ」と昇は嬉しそうに立ちあがった。
「最初は驚くと思うけどね、どうか彼と仲良くなってほしい。心配ないよ、少なくともパワハラやセクハラとは無縁な男だから」
わかりました、と小夏はうなずいた。
そう、充分わかっているつもりだったのだ。覚悟もしていた。だから今日、『事業・福利厚生サポート室』と書かれたドアの前で齋明寺廻にはじめて会ったとき、思っていたよりはるかにまともっぽい男だなと安堵すら覚えた。見目よい御曹司なのに、若いヒラ社員の小夏を軽んじたような雰囲気はいっさい漂わせず、気さくでありながら年相応に落ち着いた笑顔を向けてくる彼に、魅力さえ感じたくらいである。ネコカフェと化したオフィスにはさすがに度肝を抜かれたが、予想の範疇でもあった。経営陣も実の従兄弟も制御できない男なら、会社の金でリノベして猫も飼うだろう。
だが小夏の想像力など、しょせんはその程度だった。
「――現代日本では、幽霊や妖怪の類いはすべて妄想の産物と考えられている。どれほど恐ろしい怪異も呪いも、実際には存在しないのだと。それは実のところ半分正しくて、半分間違っている」
啞然呆然として突っ立っている小夏の目の前で、上司となる男は楽しそうに手振りを交えて説いている。
「なぜならこの世に存在している怪異とはただ一種、君の目の前で猫に擬態している霊的怪異生物――通称ネコダマだけだからだ」
怪異。
このかわいい猫たちが、化け物?
「彼らは人の感情や記憶を喰らう怪異でね、その名のとおり、猫のふりをして往来を闊歩している。昔はタヌキや狐、犬なんかにも擬態例があったらしいが、今は滅多に聞かないな。都市に潜み、人に近づくには猫の形態が最適なんだろう。というわけでみな気づいていないが、実はこの怪異生物はそこらじゅうにいる。そして放置していると、見境なく人の記憶や感情を喰らい厄介な事件を起こす。よって適切に保護して、しかるべき場所と時に『門』から常世へ送りだすのが、古よりの習わしなんだ。そういう生業をネコダマ業という」
「はあ」
「なにを隠そう我が『事業・福利厚生サポート室』も、まさにそのネコダマ業に従事していてね。このオフィスも、保護したネコダマたちにのびのびと過ごしてもらうためにリノベーションを施されているんだ」
どこから突っこめばいいのだろう。悩んでいると、齋明寺は映画スターみたいに肩をすくめて苦笑した。
「まったく信じられないという顔だな」
「……お尋ねしますが、そんなけったいな話が信じられると思いますか?」
上司だとか御曹司だとか、身構えていたのがアホらしくなってきて、小夏は普通に言いかえした。なにもかもがうさんくさい。
「怪異、ネコダマ、ネコダマ業。この猫たちが唯一実在する怪異で、それを保護して世話をするのがこの部署の仕事。本気で仰ってるんですか」
「本気も本気なんだが。逆に、どうしたら信じてくれる?」
「せめて証拠を見せていただかないことには」
猫ちゃんたちが生物学的な猫じゃない確証。まあ、そんなものがあるとも思えないが。
「いいだろう」
齋明寺はあっさりとうなずいた。
「一匹、腕に抱いて連れてきてくれないか。どのネコでもいいから」
本気ですか。というかまだそのノリ続けるんですか。新入りのヒラ社員をからかっているつもりか。自部署の経費削減を企てた会社の手先への意趣返しかもしれない。
それでも小夏は、「わかりました」と同意した。思考を止めて、この御曹司の気が済むまで付き合うしかない。ここで不興を買っては同じ過ちを繰り返すだけだ。
興味深げにこちらを眺めていた黒猫を、もこもこのソファから抱きあげる。目がくりっとしたかわいいやつ。どうみても猫である。ため息をかみころして齋明寺に向かい合う。
「連れてきました」
「そうしたら抱きあげたまま、君が過去にひどく恐怖を催した瞬間を思い出してほしい。悪いがなるべく強く、詳細に、鮮やかに思い返せるものを」
小夏は眉を寄せたものの従った。ひどい恐怖なんて簡単に思い出せる。あのインフルエンサーのあげつらうような声が鮮やかに聞こえてくる。
――なにがやめろだよ。俺に誘われるの、待ってたくせに。
――お前の仕事、めちゃくちゃにしてやるからな。
胸が詰まる。眉間に皺が寄り、動悸が激しくなっていく。
「なるほど」
齋明寺がつぶやいた。そして見計らったように、小夏の抱いた黒猫へ声をかける。
「今だけ契約を解除する。喰いついていいよ」
喰いつく? どこに。
脳裏を疑問がよぎるより早く、腕の中の黒い毛並みがぶわりと逆立った。
なに、と見下ろしたときには、『それ』は猫の姿を保ったまま熊ほどの大きさまで膨れあがり、覆い被さるように爪を立てて小夏の両肩を押さえこんでいた。
小夏はただ呆然と、爛々と輝く金色の瞳を眺めていた。思考がついていかない。なにが起こっているのかわからない。きっと夢だ、幻だ。だってこんなこと起こるわけがない。
黒い化け物は舌なめずりをしている。ざらりとした真っ赤な舌が蠢いている。すんと鼻を動かし、大きく口をひらいた。ぬめった腔内と尖った牙が視界いっぱいに広がって、やっと小夏は悟った。
あ、わたし、喰われるんだ――。
「ほら、こちらのほうが美味いぞ」
背後で至極落ち着いた声がした。
とたん、今にも小夏を頭から喰らいかけていた化け猫は小夏に興味を失った。そっぽを向くやジェット風船のように齋明寺の腕に飛びついて、がつがつとむさぼりはじめる。
「さ、え……齋明寺さん!」
慌てふためき駆け寄ったものの、上司はどこ吹く風だった。
「できれば名前で呼んでほしいんだがな」
それどころではないでしょうと返しかけて、小夏は気がついた。喰われているのは齋明寺ではなく、齋明寺が手にした細長い袋状のもの――猫用ピューレではないか。ゼリー状の中身をちろちろと舐めている『それ』も、いつのまにかどこから見てもかわいらしい黒猫の姿に戻っている。
「つまるところ、わたしに恐怖を感じさせて、それにその、喰らいつかせたんですね、化け猫ちゃんを」
わざと本性を現すように仕向けたわけだ。
「少々手荒かったのは謝罪しよう」と齋明寺は肩をすくめた。「ただこれが一番、わかりやすい方法だったんだ」
謝罪のつもりなのか、手ずから温かいレモネードを淹れてくれる。感謝していいのか怒ったほうがいいのか決めかねて、小夏は小さく頭を下げて受けとった。
なんせ喰われかけたのだ、化け猫に。
「もちろん今のはただのデモンストレーションで、君が実際に喰われる可能性はほぼなかった。この場のネコダマは僕と安全契約済みの家ネコだし、言うまでもなく業務中は万全に対策している。労災発生は僕だって困る」
「労災」
「とにかくこれで、ネコダマなるものが実在するとわかってくれただろう。サポート室の職務についても、納得してもらえたんじゃないか」
「それは、なんとか」
小夏は肩をつぼめ、ネコダマたちが飛びかかってこないか横目で確認しつつレモネードを口に運んだ。
「確かにネコダマが実在することは、受け入れます」
残念ながら信じざるをえない。怪異は実在して、今も小夏の前でくつろいでいる。
「だとすれば、それを保護し世話して送りだすことを生業とする人々も、実際に存在するんでしょう。ネコダマが人の記憶や感情を食べてしまう化け物だというのなら、ちゃんと誰かが制御しなければなりませんし」
「そのとおりだ」
「ですが、根本的なところが解せません」
「どうぞ、なんでも訊いてくれ」
齋明寺は片手をさしだした。九割の日本人がやったらキザに過ぎる仕草だが、信じられないくらい自然で板についている。
「そんな特殊な業務を、なぜ我々、リイングループが扱っているんでしょう。うち、おもちゃ会社ですよね」
メーカーであり商社であり、なにより営利企業だ。開発や営業といった利益に直結する業務は当然のこと、社会貢献活動にいたるまで、すべての業務や活動が会社の利益になんらかの貢献をしている。貢献しなくては存在できないのだ。小夏たち社員がそうであるように。
だがこのネコダマ業なるものの実在を受け入れるとして、グループに利益をもたらしているかというと、だいぶ怪しい気がした。怪異の保護やら世話やらなんてまったくおもちゃと結びつかないし、そもそも儲かるような仕事ではないんじゃないだろうか。なんせ経費削減のために小夏をねじこまねばならないくらい、収支のバランスが崩壊している。
なぜそんな金にならない上、お門違いの仕事がリインの一部署として認められているのだろう。いくら御曹司の齋明寺廻が入れこんでいたとしても、ゼロから社内に立ち上げるのは不可能に思えるが。
「いい質問だな。実は祖父理市がこのサポート室を作ったのは、ネコダマのある性質の利用を画策したからなんだよ」
「ここ、理市前会長が創設された部署なんですか?」
リインを一代で世界的企業に押しあげた、あの敏腕経営者自らがはじめたのか。
「そう。別に僕のわがままやごり押しで創設された部署というわけじゃあない」
齋明寺が軽妙に笑うので、小夏は気まずくなった。
「そもそもネコダマ業は古くから商売と深い関わりがあってね。ネコダマはしばらくこの世に滞在したあと、『門』を通って常世へ帰っていくんだが、その際世話をした我々に、幸運や運気を置き土産として残してくれるんだ」
「幸運や運気、というのは」
「たとえば景気やニーズの先読みが当たったり、絶好のタイミングに広告宣伝をかけられたり、社員が調子を崩しづらくなったりといった、目に見えないプラスの効果だよ。ネコダマが去ったのち数カ月から一年ほど効果が現れると言われている」
「……会社に強運を残してくれるってことですか。このネコダマちゃんたちが」
ただの化け物ではなかったのだ。
「では会社にとっても、ネコダマを世話することには大きな利益があるんですね。この部署も、事実、事業や社員の福利厚生をサポートしている」
「一応そういうことになっている」
「……申し訳ありません、正直、室長が趣味ではじめられたものとばかり……」
すっかり恐縮していると、齋明寺は苦笑を返してきた。
「まあ趣味というのもあながち間違いではないんだ。残念ながら、運気上昇による効果も現代ではほとんど顧みられなくなっているし」
「どうしてです」
「たとえばネコダマの世話によって得た運気が、会社に大打撃を与える偶発的なアクシデントを未然に防いだとする。でも起こるまえに芽を潰されたアクシデントなんて、誰も存在にすら気づかないだろう? それが防がれたのか、もとから存在しなかったのか、区別をつけられない。ネコダマのおかげと証明できない。証明できないのなら、ないのと同じ」
営利企業は数字がすべて。エビデンスがなければ切り捨てられる。
「明治時代あたりまでは多くの商店や企業が験担ぎを兼ねてネコダマ業にいそしんでいたらしいが、今はどこも手を引いている。ネコダマの保護や世話は非常に金がかかる。おおっぴらにできないから、企業の好感度をあげるための社会貢献活動としても意味をなさない。コスパが悪すぎる」
「不採算部門として整理されていったと」
めまいがしそうだ。化け猫の話をしているのか、会社経営の話をしているのか。
「にしてもなぜそんな不採算がわかりきっている事業に手を出したんですか、理市前会長ともあろう方が」
齋明寺理市の伝説を社内で知らぬ人はいない。なかでも、『手を出したすべての事業に意味があった』という逸話は有名だ。黒字化できなかった事業も、次の事業の糧として着実に役に立てたのだという。それだけ先見の明がある人だったのだ。
「シンプルだよ。理市にとっては、採算を度外視した趣味だったんだ」
「……冗談ですよね?」
けむに巻かれている気がする。
「もちろん周囲は、資金をえらく消費するわりに目に見える成果を生みださないサポート室を潰したがっていた。現経営陣だって同じだろう?」
思わせぶりに視線を向けられ、小夏はつい目を逸らした。
「わたしはなにも聞いていません」
事実、上層部の意向など知らない。言われたとおりにするだけだ。とはいえ経営陣の最終目標がこの部署の廃止だろうことは、会社員としての肌感覚で理解している。
「まあ、彼らがなんと言おうと理市は廃止を許さなかったし、僕も昇や社長の意見がどうあろうとも廃止はさせないよ。予算についても同様。そもそもかつかつで、削減できるものなんてないわけだし」
とはいえ、と齋明寺は深い笑みを広げた。
「君にも承った仕事があるだろうから、実態調査くらいはしてくれていい。まずはネコダマたちと触れあってみてはどうかな? 君は猫が好きだろう。そういう目をしている」
話は終わりと言わんばかりに背を向けられる。
齋明寺はネコダマたちの遊具兼本棚から『ネコダマシイ!』なる猫写真投稿誌を抜き取ると、小脇に抱えて出ていってしまった。
とりつく島もないな。
もっともいっさい触れるなと言われるよりはましだった。齋明寺がなんと言おうと、任された仕事を諦めるつもりはない。正直『かつかつ』という言にはまったくもって賛同できないし、なにより簡単に引き下がったら、それこそ逃げたようなものではないか。
というわけで、小夏はネコダマの世話なるものにおっかなびっくり挑戦してみることにした。だが、実際どうしたらよいものか。ネコダマ、見た目は紛うことなく猫ちゃんなのだが、喰われかけたときの衝撃映像がどうしても脳裏をよぎってなかなか手が出せない。
思い思いに過ごすネコダマをまえに途方に暮れていると、さいわい、救世主が現れた。
「あんた、新しく配属された社員さん? どうも、俺、バイトの三上雄馬っす」
ざっくりと声をかけてくれたのは、赤い髪をウルフカットにした、ちょっと目つきの悪い若者だった。
「ネコダマと触れあうなんて簡単すよ。猫好きなら同じようにすりゃあいいんです。放っておいてほしそうなら放っておけばいいし、撫でてほしそうなら撫でてやる」
深く腰を割ってしゃがみこんだ三上は、木製の汽車をひょいと取って地面を転がした。転がすたびに運転手の人形が車体から飛びだしたり引っこんだりするのが面白いのか、周りに数匹集まって、興味津々で眺めはじめる。その背を三上はわしゃわしゃと撫でてやる。
そういう感じの付き合いでいいのか。小夏はちょっと安心した。触れあってみれば確かにネコダマは、まるで猫そのもののようにふてぶてしく、マイペースで、可愛らしい。
だからこそ、次第になんとも言えない苦い気分になっていった。
「どうです、慣れましたか」
ソファに香箱座りしている黒ネコダマの顎を撫でていたところを三上に話しかけられて、小夏は顔をあげた。
「おかげさまで」
黒ネコは、さきほどの化け物ぶりなど嘘のように喉を鳴らしている。
「こうして見るとネコダマって可愛いね。本物の猫みたいっていうと語弊があるけど、でもおんなじように憎めないというか」
三上という男も同じく。見た目こそ近寄りがたいが、猫じゃらしを振り回したり、ネコダマの背を撫でたりする手つきはやさしい。ちょっとぶっきらぼうだが、気のいい若者なのである。
「ネコダマはみんな可愛いやつらっすよ。こいつらをかわいがるだけでバイト代もらえるんですから、ほんと最高の仕事です。俺、雇ってもらえてラッキーだと思ってますよ」
「そうだね」
と小夏は苦笑した。なんと答えればいいだろう。三上は、サポート室で保護しているネコダマの世話をほとんど担っているらしい。バイトながら、小夏以上に報酬をもらっているようだった。当然その給料は、サポート室の予算から出ているはず。
彼が手にしていた木製の汽車にしても、リイングループで取り扱っている高級輸入玩具だ。社内価格でいくらか安く手に入っているのだろうが、おもちゃとしては破格の値段だった気がする。
他にもこの部屋には、『ネコダマを楽しませるため』という名目で、リイングループの販売する各種おもちゃが驚くほど潤沢に揃っていた。それもボールや鼠の人形といった猫好きのする鉄板おもちゃだけではなく、とてもネコダマには扱えないはずの絵本やパズル、各種ビデオゲームまである。
三上にはまだ、経費削減のために来たとは黙っている。それでもさすがに、『ネコダマはビデオゲームを楽しめるのかな』なんて尋ねてしまった。楽しむわけもない、無駄遣いに決まっている。
三上の答えは限りなく純粋だった。
『あいつら、ゲームをやってみせると喜ぶんすよ。目をきらきらさせて寄ってきて』
小夏はなんとも返せなかった。もちろん悪いのは三上ではない。すべては管理者である齋明寺の責任である。
「そろそろ飯を作らなきゃな」
三上が壁の時計を見あげた。周囲のネコダマも釣られたように顔をあげる。十一時。なるほどお昼時か――と納得しかけて、小夏は首を傾げた。
「飯ってネコダマ用の? 人間の感情と記憶しか食べないって聞いたけど」
いかにも怪異らしいものが主食だと齋明寺は言っていたが。
「そうなんですけどね、実はこいつら、人間の食べる美味いもんの匂いも大好きなんですよ。美味いもんの匂いを嗅ぐと、幸せそうな顔をするんすよね」
「そうなんだ……」
「ちな今日のメニューは三元豚のひれカツカレーです」
「匂いだけのために贅沢にすぎない?」
「そこは廻さん、ネコダマを満足させるためには妥協しないすから」
ほら、と三上は誇らしげにドア脇の掲示板に貼ってある紙を指差す。『今期の目標 ネコダマ満足度百パーセント』
「それにネコダマどもが匂いを堪能したあとの飯は、俺らが頂くことになってるんで。俺、けっこう料理得意なんで、期待していいすよ」
小夏は強ばった笑いを返した。三上が無邪気だからこそ、事態は深刻である。美味しい食事にありつけるのはありがたいが、その高級食材も会社の金で購入されているわけだ。
これ、間違いなく無駄遣いではないか。どこが『かつかつ』なのか。
「あれ、もしかしてカレー、苦手だったりします?」
「全然! 大好きだよ!」
急いで誤魔化し笑いを振りまいた。「ただなにからなにまで初めて聞くことばかりで、いろいろ驚いちゃってて。怪異だとか人の感情や記憶を食べるとか、なんにも知らないで来たから」
「ああ、そうなんすか。じゃあびっくりしたでしょ」
「三上くんは、はじめから大丈夫だった? ネコダマちゃん、怖くなかったの?」
そもそも、なぜこんなけったいなバイトをはじめたのだ。
「全然ですよ。なんつってもここは、廻さんのシマですから」
「シマ」
「ここは廻さんが直々に管理してる『門』って意味です。廻さん、ネコダマにはガチですから。こいつらに金を使うからって、給料ほとんどもらってないらしいですし」
「……そうなの?」
「だからここに集まっている家ネコ、すげえ満たされてるでしょ。こんだけ満たされてると、まず悪さなんてしないです。そのへんをほっつき歩いてる野良ネコダマは人間襲って記憶や感情をばりばり喰いますけど、ここのはなんの心配もないっすよ」
思いのほか御曹司を信奉しているんだな、などと考えていると、三上は突拍子もないことを言いだした。
「それに俺、そもそも恐怖を感じない欠陥人間なんすよ」
「……本当にまったく感じないの?」
「ガチっす。ガキのときに俺、三日くらい行方不明になったんです。表向きには不審者に連れ回されたってことになってますけど、実は飢えた野良ネコダマに捕まってひたすら頭をかじられてたらしくて」
小夏はぎょっとして、ネコを撫でる手をとめた。
「ま、かじられたっつってもあいつら喰うの感情と記憶だけなんで、怪我したわけでもないんですけどね。でも頭ん中の恐怖を感じる部分がおかしくなっちゃったらしくて、なにがあっても恐怖だけは感じないんすよ」
あっけらかんと明かされて、黒ネコに添えたままの手にじっとりと汗が滲む。ネコダマに捕まって喰われた? 後遺症でいっさいの恐怖を感じなくなった? 大事故ではないか。
「あ、深刻っぽく聞こえました? 全然すよ、そんとき記憶も喰われちゃったおかげで俺自身はなにも覚えてなくて、トラウマみたいのもないです。だから今も、俺をおかしくした元凶のネコダマの世話なんて喜んでしてるわけで」
「それってむしろ心配になるよ。なんというか、自分を積極的に傷つけてるみたいで」
「おもしろ、廻さんとおんなじこと言うんすね」
と三上は笑い飛ばした。「バイトをはじめるときも廻さんに散々心配されましたけど、病的なんじゃないです。詳細は省きますけど、俺は望んでネコダマと関わってますから。家ネコとして甘えてきてくれるこいつらが大好きで、可愛がってやりたい。だからここで働けて本当にラッキーだし、幸せですよ。廻さんには感謝してもしきれない」
エプロンをつけながら部屋を出ていく三上を、小夏は複雑な気分で見送った。可愛いなりをしていても、怪異は怪異ということか。三上の『ここで働けてラッキー』という一言にも、思わぬ重い過去が隠されていた。彼には幸せになってほしい。
にしても齋明寺である。自身の給料まで注ぎこんでネコダマを満足させようとしているとは。なぜこの仕事に、そこまで入れこむのだろう。
と、背後からいい声がした。
「削減できるところなんてなかっただろう」
振り向けばいつからいたのか、齋明寺が足を組んでドアにもたれかかっている。口の端を小さくもちあげて、読めない笑みを浮かべている。
「いくらでもありますよ」
と小夏は目を逸らした。「ここにいるネコダマの生態は、ほぼ猫なんですよね? 猫ちゃんが喜ぶもので喜ぶって仰ってましたよね」
「そのとおり」
「だったらビデオゲームは明らかに過剰ですよね。三元豚のヒレカツも、国産豚のロースカツくらいまでは簡単にランクを落とせます」
「それはできないな」と齋明寺はさっぱりと返す。「ネコダマには旅立つその日まで、最高の生活をしてほしい。満足してほしい。各種おもちゃも三元豚も、彼らのリクエストの結果用意されたもの。勝手にサービスを低下させられない」
「少々のサービスの低下が、部署の業績に大きく影響するんですか? ネコダマの満足度が下がると、会社に還元される運気も減少するんですか?」
「すこし相関はあると思うが、わからないな。なんせ運気を直接測る方法はないから。ネコダマの満足度百パーセントを目指すのはただ、ネコダマが満ち足りていてほしい、そういう僕の信念だ」
「趣味ですよね」
「そうとも言う」
と齋明寺は笑って足を組み変える。
「だが仮に趣味だとしても、意義はあるとは思っているよ。理市が不採算だと衝きあげられても、『門』株をけっして売り渡そうとはしなかったのは、ネコダマ業を社会貢献活動と考えてもいたからだ。三上の話を聞いただろう? ネコダマは放置すると非常に危険になりえる。そういう兆候を示すまえに手厚く保護するのは、社会にとっても大切だ」
「でもついさきほど、室長自身が仰ってましたよね。この仕事は、企業の社会貢献活動としては意味をなさない。ネコダマなんて誰も知らないんだから、どれだけ頑張ったところで自社のアピールにはならないと」
「そもそもだ、『自社のアピールにならない社会貢献活動はする意味がない』というのは、ちょっと傲慢じゃないか?」
それは、と小夏は言いよどんだ。
確かに社会貢献活動でございと胸を張りつつ、実のところ自社の好感度上昇を狙う企業の姿勢は美しくないかもしれない。だが営利企業としてはまっとうな金の使い方だし、経営陣が、ネコダマ業に苦い顔をするのも当然だ。経営者だった理市の『趣味』なら百歩譲って許容されるだろうが、今は違う。
「では室長も、社会貢献活動としてこのネコちゃんたちに入れこんでいらっしゃるんですか? ご自身の給料まで注ぎこんで」
「僕は理市ではないからね。経営者でもない。社会貢献活動だからと、決まっている予算規模では足りないぶんまで増額しろと言うほど傲慢でもない」
またしても小夏は口ごもる。自由人なんて言われて好き勝手をしているくせに、齋明寺は妙に機微に聡い。小夏が言わなかったことも、ほぼ正確に読み取ってくる。
「実際のところ、君が削ろうとしている予算でさえ、安定運営には少々心許ないんだ。だから自分の給料を削って、投入しているわけだよ。正直に言えば、僕は一円ももらわなくたっていいんだ。働かずとも生きていける」
「でしたら会社の一部署としてではなく、個人的に取り組まれたらいかがでしょう」
資産家が自己資産を費やし社会貢献するのなら、誰も文句はない。素直に立派な男だとみなされるだけだ。なのになぜこの御曹司は、会社の金を使おうとする。自分のやりたいことを貫ける立場も地位も、金だってあるはずなのに。
「君はなかなか理詰めでくるタイプだな」
と齋明寺はおもしろがった。「むろんこういう形を取っているのは、僕が個人的に取り組むのでは会社に貢献できないからだよ。僕にとってはこの会社も、社員たちの生活も大切だから、なるべく還元したい」
「……矛盾してませんか」
「まったくもって。というのも僕がリインに所属して、社員としてネコダマ業に従事しているからこそ、得た運気を会社に還元できるんだ。だから経営陣がなんといおうと、僕はリインの社員としてネコダマ業に従事する。ネコダマ由来の運気は、すでに人知れず会社を救っているかもしれない。これから救うかもしれないしね」
齋明寺は会社をまるきり軽んじているわけではないのか。小夏は心のどこかで安堵した。
「でしたら尚のこと、わたしに仕事をさせてくださいませんか」
「言っただろう。経費削減はしないんだ、一円だって減らせない」
「うまく削減できたらむしろ、経営陣から理解を得るチャンスのはずです」
「チャンス?」
「数字や実績が伴わなくては結局趣味なのは、室長が仰るとおりです。失礼ながらサポート室は、室長が理市前会長の孫だからこそ生きながらえているにすぎないわけですよね。ですが同じく孫でいらっしゃる昇さんが事態の打開に乗りだしてきた以上、このまま経費削減に応じなければ、強硬手段を取られる可能性だってあります」
「まあそうだろう」
「逆にここである程度削減に応じれば、先方も様子を見るのではないですか?」
「……驚いたな。君は僕らの心配をしてくれているのか」
「どちらの味方というわけではありません。争いを避ける方法を画策しているだけです」
「なるほど、優秀な折衝役じゃないか」
齋明寺は両手をあげて称賛した。声に嘘はなさそうだったが、かといって小夏に仕事をさせる気もないのも滲みだしている。
「ありがたいが、理解なんて今さらいらないし、リイングループに紐づいた『門』株を僕が管理している以上、昇にもこの部署は潰せない。予算も理市が決めた年額を動かすことなんてできないだろう。つまり現状維持で充分なんだ」
「ですけど」
「君は本当にかわいそうだな」
急に齋明寺はつぶやいた。「君みたいな真面目な人間が割を食う世の中どうかしてる」
「……からかっていらっしゃいますか?」
そうとしか思えなかった。突拍子もなく憐れまれる理由もわからない。
「心から思っているんだ。君はもっとシンプルに、自分のために生きたらいい」
「なんの話でしょう」
「僕は子どものころ、自分に約束したんだ。誰かに強いられ、納得できないままに流され生きることはけっしてしない。己の道は、必ず己で選ぶと」
なにを言っているのか、この男は。
「失礼ながら、室長が恵まれたお立場ゆえに可能だったのではないでしょうか」
人が羨むほぼすべてを持ち合わせているから。他人を従わせられる権力を生まれながらに約束されているから。
「そう見えるのなら光栄だな」と齋明寺は軽く肩をすくめた。「だが僕は、誰もが自分のために生きるべきだと思っているよ。君だってそうだ。誰かにやれと言われたからって無理して全うする必要はない」
どういう意味だ。小夏は後ずさった。わたしが無理をしている? やれと言われたから無理してやりきろうとしている? 突然なにを言いだすのか。なにを根拠に。
「廻室長、危険度2の野良ネコダマの保護依頼が入りました」
部屋の隅から若い女性のクールな声が飛んできて、小夏は飛びあがった。部屋に自分と齋明寺以外の人間がいるとは考えてもみなかったのである。
慌ててこぢんまりとしたデスクコーナーに目を向けたところで思い出した。そういえば部署には三上の他にももうひとり、事務のバイトも入っていて、ちゃんと十時から出社していたのだった。馬淵杏菜という、二十代半ばくらいの小柄な女性である。リインでは誰も着ていないはずの事務員制服の上に猫耳のついたパーカーを羽織るという、奇抜なのかコンサバなのかわからぬ出で立ちをしているこの馬淵はしかし、出社してからこのかた小夏どころか齋明寺すら一顧だにせず、ひとつも興味がないように黙々とパソコンで作業していたので、今の今まで存在を忘れていた。
齋明寺は息をつき、切り替えたように馬淵へ笑顔を向けた。
「お疲れさま、馬淵さん。依頼は協会からだろうか。それとも『事件屋』から?」
「『事件屋』さんからです。場所はP市、擬態対象は人型のち不詳。摂取感情は恐怖と見られています」
「必要人数は?」
「最低二名。おひとりでいらっしゃる場合、先方で補助人員を用意できるとのことです」
プリントアウトした紙面を渡された齋明寺は、少々考えこんだ。ちらと視線を向けられて、小夏は胸の前で両手を小さく振った。
「あの、どうぞ、わたしに構わず行ってきてください」
なんの仕事が飛びこんだのかはまったくもって謎だが、ちょうどいい。一度休憩したい、いろんな意味で。
齋明寺はうんともすんとも言わず黙っていたかと思うと、突如にっこりと馬淵に告げた。
「『事件屋』には昼食後に向かうと伝えてくれ」
「補助人員を頼みますか」
「いらない、御堂さんを連れていくから」
「誰ですかそれ」
「こちらの女性だよ。今日からうちの所属になった」
馬淵は小夏に目を向ける。一瞥するやパソコンに視線を戻した。「伝えておきます」
「というわけで御堂さん、カレーをいただいたら出かけようか」
「どちらにゆかれるんです」
「危険度二の野良ネコダマが出たらしい。その保護に行くんだ」
「……もしかして、三上君を食べちゃったのと同じような怖いのですか?」
ここで遊んでいる可愛らしいネコダマではなく、恐ろしいほうか。三上の恐怖と記憶を喰らいつくしたあげく、後遺症まで残していった怪異のような。
「そう。ネコダマは飢えると人の感情欲しさに危険な怪異に変じることがあって、それを危険度2の野良ネコダマと呼ぶんだ。人に敵対的に動くから、下手に近づくと捕食される恐れもある」
「そんな危ないものを捕まえに?」
「僕は慣れているからそう危険には陥らないよ。ついてきてくれると助かるんだが」
小夏は視線を惑わせた。無理だ、絶対無理。
よっぽどそう返したかったが、言えるわけもない。だからといって『行きます』と宣言もできずにいると、名刺サイズのカードを渡された。
「外に出ているあいだは、これを必ず携帯してくれ」
カードには、猫情報誌『ネコダマシイ!』のポップなロゴが大きく描かれている。なぜか日付と名前を記入する欄もあった。
「……なんでしょう、これ」
雑誌の販促品にしか見えないが。
「ネコダマ取扱者の一時仮免許だよ」
「この仕事って、免許が必要なんですか?」
「特殊な生業だからね。ちなみに僕は一級免許を持っている」
自身の免許証を見せてくれた。運転免許証にも似たそれには『第一級霊的怪異生物(ネコダマ)取扱者免許証』とあって、朗らかな齋明寺の写真が添えられている。
「ネコダマと関わるには、どれほど一時的であっても仮免許が必要だ。ネコダマは、自分たち自身に関係する記憶をとくに好んで喰らう性質でね。君は今、無防備に知識を吸収した状態だから、仮免なしで外に出たら一時間もしないうちに、あたりを徘徊している野良ネコの格好の餌食となって今日の記憶を丸ごと喰われるだろう」
「え」
「仮免許さえ所持していれば心配ないよ、対ネコダマの護符にもなっているから。ああ、日付と名前を入れるのだけは忘れないでくれ。日付なしではただの紙だ」
小夏は慌ててペン差しからフェルトペンを摑み取った。というか護符なのか、これ。
立派な社用車で外出するのかと思いきや、齋明寺は電車移動を選んだ。曰く、移動手段に注ぎこむ金はないのだという。空の猫用キャリーケースを抱えて、小夏はおそるおそる駅まで齋明寺について移動した。
八重洲や日本橋に野良猫なんてそれほどいない。だがその日はなぜかビルの隙間や植えこみに、猫のきらりと光る瞳が見え隠れしている気がした。本物の猫なのか、小夏の記憶を狙うネコダマかは定かではないが。
「そこまで怖がる必要はないよ」
アタッシュケースを手にした齋明寺は、背筋を伸ばしてゆったりと歩いていく。「野良ネコダマのほとんどはおとなしい危険度1タイプで、少々人の記憶や感情を喰って凌ぐことがあっても、積極的に襲いかかってきはしない」
「喰って凌いでるじゃないですか……」
「実のところ、人間なんて気づかないうちに頻繁にネコダマに喰われているんだ。その証拠に、君は今までネコダマなんてものをまったく知らなかっただろう? それは耳にしたことが一度もなかったわけではなく、ネコダマの話を聞いたという記憶ごと、喰われて忘れてしまっているだけなんだ」
「……ではわたし、人生で何度もネコダマの噂を聞いて、何度も記憶を食べられているかもしれないんですね」
「そういうこと」
なにそれ、怖い。
さいわい仮免許の効能はあらたかで、なにごともなく秋葉原まで出て、つくばエクスプレスに乗り換えられた。平日昼間の車内は空いていて、どうみても富裕層の齋明寺は悪目立ちしている。注目の的となって気まずくなっているのは小夏だけで、齋明寺はオフィスにいるときとまったく変わらず堂々としていた。うらやましい、これが持つ者の余裕というやつなのか。
「それで齋明寺室長」
「できれば名前で呼んでほしいんだが」
「……廻室長、危険度2の野良ネコちゃんの保護って、どんな仕事なんでしょう。危険な仕事だと仰ってましたが」
「概要から説明しようか。『事件屋』によると、件の個体はP市郊外の公園に出るらしい」
「出る、というのは」
「そのままの意味だよ。見ればわかる」
齋明寺はスマートフォンを取りだして、動画を再生した。『令X第XXXXX号案件調査資料』とお役所的なものものしいテロップが流れたのち、新興住宅街のはずれにある公園を、おそらくアクションカメラで映している映像に切り替わる。
そこそこ大きな公園だった。全面に芝生が張られていて、北側は樹木が繁る自然ゾーン、南側はブランコや滑り台、小柄なジャングルジムが点在する遊具ゾーンになっている。遊具は古いが全体としては明るく、整備が行き届いている印象だ。地域のこどものために作られた、なかなか素敵な場所である。
そこへ撮影者の若い男はへらへらと入りこんで、夕日に照らされた遊具のあいだを行ったり来たりしていた。どうやら撮影者は動画配信者で、この公園に『出る』という噂をネットで見つけて、『調査』に来たらしい。なるほどそういうタイプの動画かと納得しかけて、あれ、と小夏は眉を寄せる。ネコダマについての記憶は、免許保持者以外は速攻喰われて一時間も保持できないと、ついさっき齋明寺が言っていたではないか。当然ネット上で噂話が盛りあがるわけもないはずだが――なんて考えていた矢先だった。
『ねえ、おじさん。追いかけっこしない?』
突如撮影者の背後から甲高い声が響いて、小夏は飛びあがりそうになった。驚いたのはカメラの持ち主も同じらしく、すごい速さで振り向きにかかり、映像もブレまくる。
ようやく揺れが落ち着いたとき画面に映っていたのは、にっこりと微笑む小学生低学年くらいの女の子だった。
『おじさんが逃げるほう、わたしが鬼。どう?』
両手を後ろ手で組み、右に左に微かに揺れている。いたく線の細い女の子である。公園に遊びに来た近所の子だろうか。
いや、違う。小夏は画面から離れるようにのけぞった。画面越しですらわかる。女の子の瞳孔は猫の目のように細く鋭くなっている。
これは人間じゃない。
当然気がついているだろうに、撮影者は驚いた様子もない。むしろ興奮したようにカメラを女の子に寄せていく。
『出ました、出たよ! どうする、遊ぶ? 断る? ネットには断るとヤバいって書いてあったけど、けど!』
小声で独り言をまくしたててから、上ずった声で女の子に告げる。
『追いかけっこか。うーん、そうだな……やめておくわ! お断り!』
笑って叫んで背を向けて、敷地の外を目指して駆けだした。
『撮れ高確保! よし逃げろ逃げろ!』
またしても画面はしっちゃかめっちゃか揺れはじめる。
しかし、数歩もいかないうちにぴたりと止まった。
『え、なにこれ、動けないんだけど。え、え?』
画面外から聞こえる撮影者の声にも焦りが滲みはじめる。
『ちょっと待って、まじで? どうしよう、ほんとに足が動かない。嘘でしょ』
男の声が、さきほどとはまったく別の調子で上ずっていく。景色が小刻みに震えはじめる。
どこからか、笑いを嚙みころしたような声がした。
つーかまえた
撮影者は悲鳴をあげてカメラを振った。背後の映像。誰もいない。
だが小夏は、はっきり見てしまった。画面の隅に映りこんだ、撮影者の足元から伸びる影。夕日に照らされた長い影。それが勝手に動いている。両手を持ちあげピースをしている。わたしの勝ち、と見せつけるように。
まずいよ。そう伝えたいのに伝えられない。撮影者は気づいていない。画面を揺らし、必死に女の子の姿を探している。
影の中央に、ぼんやりと白く輝く三日月のようなものが現れる。ニタニタと笑う口だ。尖った口の端が吊りあがって裂けていく。
顎が大きくひらくと同時、影は地面を離れて撮影者に襲いかかった。悲鳴とともに激しく画面が揺れ、叩きつけられたようにノイズが走る。
直後、映像は途切れた。
「終わりのようだな」
齋明寺はなんてことのない顔で、動画の再生アプリを消した。
「……さっきの人はどうなったんです」
「添付の説明文によると、脳しんとうを起こして倒れているところを見つかったとか。検査したところ、数日分の記憶がまるごと飛んでしまっているらしい」
「動画に映っていたアレに捕まったせいですか」
「結構長いあいだ記憶と恐怖を喰われ続けたんだろうな」
そんな。小夏は青ざめた。
「ちなみに撮影者は怪奇現象を実況する動画配信者で、ネット上で話題の噂を見て公園にやってきたようだ。その噂というのはこれらしい」
齋明寺はスマートフォンで文章を見せてくれる。
【P市公園の女児の幽霊】
黄昏時にひとりでたむろしていると遊ぼうと声をかけてきて、いいよと答えれば恐ろしい姿に変じて追いかけてくる。嫌だと答えると、もっと恐ろしい姿で追いかけてくる。
公園外まで逃げれば消えるが、影を踏まれてしまうと動きを封じられ、贄として骨の髄まで喰われてしまう。
生きて帰ったものはいない。
【つづく】