【最終選考作品】何も持たずに行こう(著:谷地雪)


 そうだ、終点まで行ってみよう。

 ある日突然思いついたその案を実行すべく、俺は早朝、(しな)(がわ)駅に立っていた。
 俺の自宅の最寄り駅は()(ぐろ)駅。目黒駅から出ている路線は、JR山手(やまのて)線、(とう)(きゅう)目黒線、東京メトロ(なん)(ぼく)線、都営()()線。
 山手線は環状運転だし、それ以外の三つは終点まで一時間ほどで行けることを知っている。近くで複数路線が乗り入れている駅はどこだろうと調べて、二駅先の(しぶ)()駅か、三駅先の品川駅を候補に挙げた。どちらにしようと考えて、渋谷駅はダンジョンと言われていることから、品川駅にした。
 こういうところが、俺の良いところでもあり、悪いところでもある。
 何をするにも、保守的なところがある。思い切ったチャレンジができない。そのおかげで、大きな失敗はしたことがない。高望みしなかったので、受験も全部第一志望に合格できているし、中堅企業に就職もできて、目黒というなかなか好立地な場所に家も借りられている。ついでに彼女もいる。
 足りないものはない。なのに、妙な空虚さがある。
 だから、旅に出てみようと思った。でも仕事は休めないし、土日の片方は彼女と会わないといけないし、使えるのは一日だけ。日帰りでできること。そう考えて、日曜日、俺は「どこかの路線の終点まで行く」計画を実行することにした。
 こういう時、行動力のある男なら、財布一つで寝台列車とか乗って、どこか遠くの地で温泉に入ったりするんだろう。でも、俺にそこまでの思い切りはない。知らない土地に下調べをせずに行く。それだけでも、俺にとっては大冒険だ。
 品川駅のコンコースでぐるりと周囲を見回すと、大きな垂れ幕が見えた。
(けい)(きゅう)線のりかえ専用改札』。
 出口ではありません、とかの注意書きがたくさんしてある。間違える人が多いんだろう。
(赤いと三倍速い、とか言われてたやつだっけ)
 ちょうどホームに停まっていた電車は、確かに赤かった。京急線は、東京・神奈川間を走る路線だったはずだ。下手(へた)にJRの特急などに乗ってしまうと、プチではない旅行の距離になってしまう。このくらいがちょうどいいか、と俺は京急線の改札を潜った。
(さて、どれに乗るか)
 電光掲示板に表示されている行き先は三つ。急行・(はね)()空港行、快特・()(さき)(ぐち)行、普通・(うら)()行。空港には行っても仕方ないので除外。三崎口は、確か(まぐろ)美味(おい)しいところだったか。テレビで見たことがある。端まで行って、海鮮丼でも食べて、海でも見て帰るか。
 そう考えて、頭を振った。何をするか決めて行くんじゃ、意味がない。何があるかわからないところへ行くのが目的なのに。そうなると、残るは浦賀行のみ。鈍行ならほどよく時間もかかることだろう。電車が到着すると、俺はがらがらの車両に乗り込んだ。ホームは混雑していたが、人が多いのは空港行の列だった。鈍行が停まるような駅に用がある人間は少ないのだろう。
 赤いシートに座って、俺はぼうっと窓の外を眺めていた。三駅くらい進んだところで、スマホで乗車時間を調べる。いつまで乗っているのかわからない、というのは、地味にストレスだということに気づいた。せっかく鈍行を選んだのに。心にゆとりがないようで、嫌になる。
 品川駅から浦賀駅までは、普通列車で二時間ほど。だいたい想定通りでほっとした。意外だったのは、浦賀駅が「京急本線」だということだ。特急や快特が出ている三崎口駅は「京急()()(はま)線」。途中の(ほり)()(うち)駅で(ぶん)()している。本線なのに、特急も停まらないなんて。不遇な駅だ。いったいどんな場所なのか。とんでもない田舎(いなか)じゃないといいな、と思いながら、俺は時間を潰すために持っていた文庫本を読み始めた。

「終点、浦賀ー、浦賀
 (しゃ)(しょう)のアナウンスを聞いて、はっと顔を上げる。どうやら終点に着いたらしい。
 階段を下りて改札から外に出ると、そこそこのどかな光景が広がっていた。背の高いビルが全然ない。(へい)で全景は見えないが、右手にはスーパー、左手には地上階に下りるためのエレベーターと階段。観光案内所もありそうにないので、俺は駅員のいる案内所に入った。
「すみません、いいですか」
「はい、なんでしょう」
「観光に来たんですけど、この近く、何がありますか」
「観光」
 駅員がびっくりしたように繰り返した。なんだ、そんなに観光客が珍しいのか。日曜なのに。
「ええと、そうですねぇ。一応、パンフレットはあるんですけど」
 駅員は、(めっ)()に出すことがなさそうな様子で、俺にパンフレットを差し出した。ぺらりと開くと、なんか神社くらいしかなさそうな中身の薄い情報が書かれていた。
「観光って言うと、どこか目的の場所が?」
「いえ、ちょっと終点まで来てみたくて。どこ行くかは何も」
「へえ、奇特な方ですねぇ。うーん、このあたり、何もないんですよねぇ」
 駅員がそれを言っていいのか、と思いつつ、本当にそうっぽいので苦笑する。
「ドックは見学日が決まっていて入れないし。あとは女性はだいたい(かのう)神社に行きますねぇ」
「叶神社」
「地図の、こことここですね」
「二か所あるんですか?」
「そう。西で勾玉(まがたま)買って、東で売ってるお守り袋に入れるの。そうすると縁結びのお守りになるんだって」
「なるほど、女の子が好きそうですね」
「でしょう。まーお兄さんは興味ないかもしれないけど、そのくらいかねぇ」
「ありがとうございます。そこ行ってみます」
 そこくらいしかないと言うなら、とりあえず行ってみようとまずは目的地を設定。おっと、その前に。
「どこか朝食食べれそうなとこあります?」
「うーんまだ十時前だしなぁ
 これも駅員を悩ませる質問だったようだ。朝食を出しているカフェとかはないのだろうか。
「なければチェーン店とかでも全然」
「いやいや、チェーン店なんかないよ。コンビニしか」
「えっ」
 コーヒーショップ一つないのか。快特で乗り継げば東京から一時間の距離なのに。なんという田舎。
「ああ、パン屋ならありますよ。ちょっとは名前の知れたとこらしいから、行ってみては? 中では食べられないんですけど」
「じゃあそこ行ってみます」
「叶あんパンってのがあってねー。甘いもの大丈夫だったら、あれ僕は結構好きですよ」
 言いながら、駅員がパンフレットの地図に場所を書き込んでくれる。
「ま、時間余ったら、(しお)(いり)まで戻るといいですよ。あっちなら米軍基地とか、ヴェルニー公園とか、まだ観光客が行くとこあるんで。駅前にでかいショッピングモールもあるし。若い人なら、スカジャンとかお土産(みやげ)に買ってくみたいですよ」
「ああ、スカジャン。見たことあります。なんか派手な()(しゅう)のジャケット」
「お兄さんなら、虎でも竜でも似合うと思いますよ」
「はは
 それはお世辞(せじ)なんだろうか。とてもじゃないが、自分みたいなぼんやりした男に似合うとは思えなかった。
 書き込みを終えたパンフレットを受け取り、駅員にお礼を言って、俺は左手に進み階段を下りた。
「うわ
 駅から外に出て改めて周辺を眺めると、田んぼが広がっているような田舎ではないけど、プチ田舎、とでも言えばいいのか。駅の裏には山が広がっていて、目の前は小学校。大通りには、何枚かの大きな絵が飾ってあった。小学校の生徒が、ペリー来航を描いたものらしい。
 パンフレットは(もら)ったものの、こういった地図は見づらいので、俺はスマホで地図アプリを起動した。悪いがGPSという素晴らしい発明に、紙は勝てない。
 大通りの商店街を進み、まずはパン屋へ向かう。
 並んでいる店を眺めてみるが、中華屋、日用品店、居酒屋、定食屋、ドラッグストアなどなど。商店街だというのに、肉屋も魚屋も八百屋もないのか。なんか中途半端だ。
 小さな交番を曲がって、行政センターを過ぎると、ちんまりとしたパン屋があった。看板には『大正三年創業 パン市場はまだぶんてん ソフトフランスパン(はっ)(しょう)の店』と書かれている。どうやら古い店らしい。発祥の店というからには、こだわりのあるパンを焼いているのだろう。多少期待して、俺は店に入った。
「いらっしゃいませー」
 中に入ると、小さいながらも、パンの種類はそこそこあった。ボリュームのありそうな肉系サンドもあって目移りする。とりあえず、初めての店では当たりがわからないので店員に聞く。
「すみません、おすすめってありますか」
「一番人気はフィッシュサンドですね。うちの息子はハンバーグが好きだけど」
「んじゃそれにします」
 フィッシュサンドと、ハンバーグサンド。それから、駅員におすすめされた叶あんパン。叶、と焼印が入っていてすぐにわかった。
 会計に向かうと、さっきおすすめを教えてくれた店員が対応した。
「お客さん、来るの初めて?」
「はい。今日は観光で来てて」
「観光? 何しに?」
「えあの、観光で
「ああ、ごめんなさいね。こんな何もないとこに、何見に来たんだろうと思ってね」
 駅員も言っていたけど、そんなに何もないのか。早くも不安になってきた。
「これから叶神社に向かう予定です」
「そう、こっちから行くなら、まず西よね。向かう途中、海沿いにベンチあるから。天気もいいし、そこで食べるといいですよ」
「ありがとうございます」
 パンを袋に入れてもらって、俺は店を出た。歩きながら食べたいところだけど、せっかく教えてもらったし、もう少し我慢。
 大通りに戻って、そこからは地図アプリの案内に従って、ほぼまっすぐ。途中浦賀ドックの前を通ったが、駅員が言っていた通り、中に入れるわけではないらしいので素通りした。
 ぼけっと海を眺めながら、ぼてぼて歩く。
(海
 海を挟んだ対岸にも町はあるが、後ろは全部山だ。住民が何もない、と言うのも(うなず)ける。
 何もない。マジで。
 視界の情報がなさ過ぎて、脳がほとんど動いていない気がする。
 ベンチが見えたので、途中のコンビニでコーヒーを買って、海辺のベンチに座る。パンの入った袋を(あさ)って、まずはフィッシュサンドから。
「え、うま」
 タルタルソースがたっぷりと入った、ざくざくの白身魚のフライ。それらを包むふわふわのパン。空腹にしみる。あっと言う間に食べ終えて、ハンバーグサンドへ。これも美味(うま)い。ハンバーグが肉厚ででかい。食べ応えある。なるほど、息子さんが好きなわけだ。男子は絶対こっち。最後は叶あんパン。一度コーヒーで口内をリセットしてから(かじ)ると。
「お、クリーム?」
 中身はあんこだけではなかった。バターが香るクリームが一緒に入っていて、こしあんのなめらかさとマッチしている。ありがとう駅員さん、これ俺も好きだわ。
 腹が満たされると、なんとなく気持ちも落ち着く。時間はたっぷりあるし、急ぐことはない、と俺はコーヒーをすすりながらぼけっと海を眺めていた。
(暇
 波の音だけが耳に入る。目には青。何もないその光景が、俺は嫌ではなかった。
 東京にはものが(あふ)れている。どこかでぼうっとしようにも、まず場所がない。ベンチはだいたい埋まっているし、男がひとりで長時間(ほう)けていたらちょっと不審だし。場所があっても、周囲の情報量が多くて、目からも、耳からも、大量の情報が飛び込んでくる。脳は自動的にそれらを処理しようとする。家でぼうっとしようとすると、すぐスマホに手が伸びてしまう。だって、天井だけ眺めていたって、なんか(みじ)めだ。何かをしろと、誰かが責め立てる。だから取り残されないように、最新の情報を常に追っている。何もかもが目まぐるしく変わっていく東京では、ものに囲まれていないと、安心できない。予定が埋まっていないと、不安になる。
 俺は恵まれている。だいたいのものは持っている。都内の一軒家で生まれ育って。両親は普通で。受験も就職も一度も(つまず)かず。収入もそこそこいいし、友達の紹介で出会った彼女とも順調だ。(じゅん)(ぷう)(まん)(ぱん)。これは、俺が、正解だと思うルートを選んできたから。失敗しないように。間違わないように。世の中が、正解だと言うルートを、選択してきたから。
 俺が今手にしているものは、どれ一つ、俺が欲しくて手に入れたものじゃない。
「にーちゃん、コーヒー落とすなよぉ」
 突然かけられた声にはっとして、手に力を入れる。(つか)む力が(ゆる)んで、カップにはぎりぎり指がかかる程度になっていた。ほっとして声の方に顔を向けると、いかにも地元民みたいなラフな格好のおじいさんが立っていた。
「おれの散歩道、汚されたらかなわん」
 おじいさんはやれやれとでも言いたげに、少し間を()けて俺と同じベンチに座る。
「日曜の朝からぼけーっとしやがって。家からおんだされたか」
「えいや、俺は」
「嫁さんの機嫌は早いとこ直せぇ。年くってからだと取り返しつかねぇぞ」
「いえ、俺独身なんで」
「なんだぁ、独り身か。そんなら、こんなところで何しよる」
「観光に来たんですよ。さっきパン買ったんで、ここで朝飯食べてただけです」
「観光ぉ? こんななんもないとこに?」
 またか。浦賀の住民ってあんまり地元愛ないんだろうか。観光客にネガキャンしていいのか。
「えぇとそれ皆さん言うんですけど、そんなに何もないですか、浦賀」
「なんもねぇな」
「それは住んでて、不便とか、つまらないとか、ないですか」
「なぁんも。若いのにゃぁつまらんかもしれんが、住むには十分だ。海も山もあっし、魚もとれっし、がっこもあって子どももおるし。うちの娘もなぁ、東京に嫁に行ったのに、結局離婚して子ども連れてこっち戻ってきよった。出戻りが多いんだ、この辺は」
 なるほど。多分、家を追い出されたのはこのおじいさんなのだ。奥さんと娘さんに()(ごと)でも言われて、耐え切れずに出てきたのだろう。でも、一度東京に住んでいた女性がこんな田舎(いなか)に戻ってくるとは、意外だ。女性は東京の方が生きやすいと言うし、あんなに何もかもがある場所から、こんなに何もない場所に来たんじゃ、苦労するんじゃないだろうか。
「娘さん、東京に帰りたがったりしないですか?」
「たまになぁ。テレビ見ながら、あれが食べたいこれが食べたいって(こぼ)しちゃいるが、そんくらいかね。ほんとに行きたい時ゃ、うちのに子ども預けて行っちまうし。気楽なもんだよ」
 口では(あき)れているが、なんだかんだ愛情が(にじ)んでいる。娘に頼ってもらえるのが嬉しいのだろう。実家にいれば、自分の親に子どもを見てもらえるから、そういう利点はあるのか。プチ田舎とはいえ、京急線で一時間も乗れば品川まで出られるわけだし。ちょっと遠いが、十分日帰りできる距離だ。東京に(こだわ)らなければ、その手前には(よこ)(はま)もある。
(住むには、十分)
 おじいさんの言葉を胸中で繰り返し、俺は目の前に広がる海に視線を移した。
 俺は、なんで目黒に住んだんだっけ。そうだ、確か、彼女に言われて。
 住む場所すら、俺が自分の意思で選んだんじゃない。誰かの望んだ正解を、選択しただけ。
「にーちゃん、東京の人か?」
「ええ、まあ」
「そんなら、こんなとこつまらんだろ」
「そうでもないですよ。パンも美味しいし、海きれいだし」
「海くらいしかないわなぁ。このあと、どこ行くか決めとんのか」
「叶神社に行ってみるつもりです」
「すぐそこの?」
「はい。西に行ってから、向こう渡って東にも」
「ほーん。そんなら、東行ったら、上登ってみ」
「上?」
「浦賀城跡があっから。上からも海、見えるぞ」
 正直、もう十分過ぎるほど海は見たが。特に行く場所もないし、せっかくの地元民からの提案だ。行ってみよう、と俺はベンチから立ち上がった。
「お話、ありがとうございました。奥さんと娘さんと仲良くしてくださいね」
「余計な世話だ」
 ひらひらと手を振って、俺はおじいさんと別れた。
 海側から大通りを渡って住宅街の方に入ると、すぐに西叶神社が見えた。神社というのはどこも特に変わりはないので、本殿にお参りをしてから、なんとなく建物や由来を眺めて、駅員に聞いた通り(しゃ)()(しょ)で勾玉を買う。色は透明、ピンク、緑の三種類。俺は緑にした。社務所の人が言うには、()(すい)らしい。勾玉を財布に入れて、また海側の大通りに出る。そして渡し舟乗り場へ。パンフレットによると、この渡し舟で対岸の東叶神社に行けるらしい。時刻表はないが、ブザーを押すと来るそうな。試しに押してみると、ややあって、対岸にいた船がこちらに来た。船は小さいが、黒と朱色でちょっとかっこいい。
「どうぞー」
 船が岸につくと、船頭が案内してくれる。料金を支払って、俺は船に乗り込む。
「出発しまーす」
 ゆっくりと船が動き出す。(さえぎ)るものがないので、海風が直接当たって心地いい。海面に太陽の光が反射して、きらきらと輝いていた。
「あー、あそこアジの群れいますね」
「え? アジ?」
「見えます? きらきらしてるあたり」
 マジか。波に光が当たってるんだと思ってたけど、アジなのか。目を()らしてみたけど、俺にはアジの群れとやらがわからなかった。だって全体きらきらしてね? しかしアジがいるということは、この辺は釣りができるのだ。いいな、ちょっとやってみたい。
 そんなことを考えていると、あっという間に対岸についた。本当にあっと言う間だった。渡し舟の乗船時間、約三分らしい。短い船旅だった。
 少し歩くと、すぐに東叶神社に着く。ここでもまずお参りをして、それから社務所でお守り袋を買った。そして先ほど西叶神社で買った翡翠の勾玉を中に入れる。何の縁かはわからないが、良縁を結んでくれますように。
「お、猫」
 (けい)(だい)に転がっている猫は、この辺の地域猫なのだろう。首輪はしていないが、毛並みがきれいだった。猫は好きだ。日光で温められてふわふわの毛並みを(たん)(のう)していると、何やら視線を感じた。振り返ると、子どもが(うらや)ましそうにこちらを見ている。その手は母親に(つな)がれていて、「もういい?」と言わんばかりに母親の方をちらちら見ては手を引いている。順番待ちをさせていたことに気づいた俺は、慌てて猫から離れた。
「すみません、どうぞ」
「あら、ごめんなさい。良かったわね、お兄さんにお礼言って」
「ありがとー」
 素直に母親の言うことを聞いた子どもは、一目散に猫のところへ行き、()で繰り回していた。俺はその様子を微笑(ほほえ)ましく眺めながら、母親に話しかけた。
「あの、俺今日、観光で浦賀に来てて。このあたりに住んでる方ですか?」
「え? ええ、まあ
 驚いたような顔は、俺を不審に思ったのか、また何もない場所への観光に驚いているのか。怖がらせないよう距離をたもったまま、俺は話を続けた。
「さっき、住民の方と話して、ちょっと興味を持ちまして。浦賀、住みやすいですか?」
「住みやすいどうでしょう。私は、この町以外に住んだことがないので」
 なるほど、比較対象がないと、回答しづらいかもしれない。田舎から出ないで暮らせる人っているんだな、と失礼にも俺は感心していた。若者は、一度は田舎に嫌気がさして都会に出ていくものだと思っていたから。
「なんか、皆さん口々に何もない場所って言うので」
「ああ、そうですね。確かに、何もないですね。でも、コンビニもスーパーもあるし、暮らすのに不便はないですよ。カフェも増えて、ママ友とお茶する場所にも困らないし。公園も多いので、遊ばせる場所もあるし。今時町内会もちゃんと機能してるし」
 田舎ならではというか、地域住民との交流はあるんだろう。それが嫌で田舎を出ていく人も多いから、相性の問題でしかないが。見た感じ老人多そうだし、孤独死が防げそうなのはいいかもしれない。
「それに私、海が好きなので。家で嫌なことがあっても、子育てで疲れても、ちょっと歩いてすぐ波の音を聞いていられるのは、良いところですね。気持ちが落ち着くので」
「ああそれは、わかります」
 俺も、あの音は好きだ。波の音が日常にあるのは、いいかもしれない。
 満足した子どもが戻ってきたので、俺は親子と別れて、おじいさんに勧められた浦賀城跡に登ることにした。

「いや階段きっつ!」
 東叶神社の拝殿横に階段があり、そこから上がれるのだが、結構ちゃんと登る。軽い登山気分。頂上に辿(たど)り着く頃には、俺はすっかり息切れしていた。運動不足を痛感する。
 城跡って言っても、なんかよくある(せき)()っぽいものが建ってるくらいで、特に目玉らしいものは見当たらない。
「ええと、海が見えるってあっちか」
 木々が途切れている場所を見つけ、そちらに近寄っていく。山の端の方、(さく)が取り付けてある開けた場所があった。
「うわ
 海だ。目の前、一面海。
 おじいさんが登ってみろと言ったのも(うなず)ける。高い山から眺める海は、水平線がくっきり見えた。視界が広い。いつの間にか、ビルとビルの(すき)()から見える、狭い景色が俺のデフォルトになっていた。
 (しばら)く風に当たると、俺はその光景をスマホで撮影して、彼女に送った。すぐに既読がついて、彼女から通話がかかってきた。
「もしもし? (あい)()?」
『もしもし? (ゆう)()? 今どこにいるの?』
「浦賀」
『浦和? 埼玉にいるの?』
「違う違う、浦賀。神奈川だよ。埼玉海ないし」
 馬鹿にされたと思ったのか、愛華がむっとした。普段はこういうとこ面倒くさいな、と思うけど、今の俺の気持ちは()いでいた。
「浦賀、思ったよりいいとこだよ。なんもないけど、海がきれい」
『ふうん。そんな何もないとこ行くくらい暇なら、今日も会ってくれれば良かったのに』
「今から来る? まだ昼だよ」
『やだよ、何もないんでしょ。今日はあたし夜ライブだから、このあとネイル行くし』
 知人のバンドの応援に行くのだろう。こういう会話をしていると、愛華は都会から出たら退屈で死んでしまうだろうな、と思う。
「なあ、愛華。もし、俺が浦賀に移住して、カフェ始めたいって言ったら、どうする?」
『は? 正気?』
「もしもの話。ついてくる? (えん)(れん)する? 遠恋ってほど、遠くもないけど」
『そんなの、別れるに決まってるじゃん』
「じゃ、別れよっか」
 さらりと告げた俺に、スマホの向こうが静かになった。どんな顔をしているのか、想像に難くない。
「愛華が好きなのってさ。何でも持ってる俺だよね」
何それ。自慢?』
「そうかも。それなりの大学出てて、そこそこの企業に就職してて、収入もあっていいとこ住んでて。そういう俺が好きなんでしょ。だから、一つでも欠けたら、もう好きじゃない」
『そんなことない』
「でも、住む場所が変わって、仕事も変わったら、もう付き合いたくないんでしょ。それって、俺が好きなんじゃなくて、俺に付属しているものが好きってことじゃん」
『学歴も、収入も、その人の努力の結果でしょ。どれか一つとってそんな風に言うの、()()(くつ)だよ。丸ごとひっくるめて優斗なんじゃない。その努力の結果を簡単に投げ捨てるような人は嫌だって言ってるの』
 語気を強めた愛華に、俺は笑った。確かに、愛華の言っていることの方が、筋は通っているかもしれない。でももう、決めてしまったから。
「俺は、今まで、色んなもの大事に積み上げてきたつもりだよ。でもそれが、ちょっと苦しくなったから。一回全部、放り投げてもいいかなって。それでもついてきてくれるなら、一生大事にする覚悟だったけど。そうじゃないなら、付き合わせるの悪いからさ。愛華は愛華の好きに生きてよ」
人のこと放り投げようとしてるのに、そうやって最後にいい人ぶるの、最低』
「お互いさまでしょ。愛華だって、ずっと俺のこと利用してたじゃん」
『そうだよ。あたしは、あたしの夢を叶えるために東京に出てきたの。毎日オシャレして、毎週イベント行って、友達に自慢できる彼氏連れて、ゆくゆくはタワマンに住むの。そのために優斗と付き合ってたの。でも優斗は、そういうあたしのことわかってたじゃん。わかってて付き合ってたじゃん。だから好きだったのに』
「俺も、愛華のそういうはっきりしたとこ、好きだったよ。さっきだって、嘘でもいいから『ついていく』って言えば、俺を手放さずに済んだのに。そういうずるさは、ないんだよな」
『だって、無理なものは、無理』
「うん。だから」
 すすり泣くような気配がする。でもそれだって、多分、俺を失う悲しみじゃないんだ。泣いて(すが)るような女じゃない。
わかった。ばいばい』
「ばいばい」
 ほら、な。
 あっさりと切られた通話に苦笑して、俺はスマホをしまった。
 改めて、海を眺めて、大きく深呼吸をする。
「さーてと」
 何も持たない俺は、これからどこへ行こうか。

【おわり】