【最終選考作品】フモンカンの日(著:琵楼渓水)
「おい、フモンカン、取り壊されるって」
遅番の小川が最悪のニュースを連れて出勤した。
「やばいじゃん」
「やばいよ」
「死ぬじゃん」
「え、死ぬの?」
「死なないけど」
「それは、そう」
「でも、潰れるよね」
「それは、そう」
多分ね、と小川は付け加えたが私の耳には入ってこない。私は本日、小川大河という一社員から、近いうち職を失うことを告げられた。
「何すか、フモンカンて」
増井千晶は悲運なことに、この春入ったばかりのバイトで、まだ「フモンカンの日」を知らない。
「毎年秋に、吹奏楽の全国大会があんだよ。普門館で」
「へぇ、近いんですか? ここから」
「いや。東京」
「遠っ」
「それが意外と高速に乗ったら四十分」
「近っ」
「でも……老朽化で、取り壊し」
小川が私の方をチラリと見る。
「そう、だから潰れるのよ。こんなフモンカンの前日にしか埋まらないホテルは」
東京都杉並区にある「普門館」で毎年開催される全国大会のために、文字通り「全国」から吹奏楽部が集まる。このホテル『飛翔』は、関西代表の出場校御用達のホテルだ。
「毎年同じ高校が来るんですか?」
「ここ二、三年は同じ。大阪の有名なガッコ。なんで毎年ウチなんだろうな、あの高校」
小川が制服に着替えながら言う。
「百五十人、みたいなアホみたいな人数、確実に抑えられる東京近郊のホテルなんて、ウチくらいでしょ」
「百五十人も? 吹奏楽部だけで?」
私と小川が深く頷く。年によって差はあれど、強豪校ともなるとどこの学校も部員が百人を超えるのは当たり前だ。
「やべー。その日シフト入りたくねー」
増井は制服を脱ぎながら言った。
「でもフモンカンの日はいいぞ、クラリネット持ったかわいい女子高生がな、館内をウロウロするんだ。俺はその日のために一年間、働いてるね」
「小川さんキモいっすね」
うん、うん、と私も増井の言葉に頷いた。だが、小川の不純なモチベーションはさておき、こんな辺境のホテルにとって、大口団体客が貴重な収入源であることは確かだった。
普門館が取り壊されるなんて。最悪。
重要文化財にして国で保護しろよ。東京のバカ。
そんな私の不機嫌の甲斐も無く、それから半年ほど経った夏の頃に、普門館の正式な取り壊し日が確定した。
そのニュースはこのホテルにとっての分水嶺になるというのに、今日もホテルは閑散としていて、私も小川もいつもと同じく暇を持て余している。
「今年の普門館の日、いつ?」
私は小川に尋ねる。芸能人の熱愛から、社内ゴシップまで、この世の大体の情報は小川に聞けば手に入る。
「十一月二日」
「ふうん。まだ先だね」
「次のコンクーラーで最後かなあ」
「そうだね。え?コンクーラー? 何それ」
「コンクールに出る人。コンクーラー」
「なんかキモい。語感が。去年もそんなこと言ってた?」
「去年は言ってない。今、思いついたから」
「なんで最後の年に、新語つくるかな」
「でも普門館は潰れても、このホテルが潰れるかはわかんないじゃん?」
「いや、潰れるでしょ」
小川は食堂を見渡して「それは、そう」と呟いた。
世間は夏休みだというのに、広い食堂には四、五組しかおらず、バイキングに使用されるはずの長机は隅に追いやられている。あの机が使用され、バイキング用の大食器が設営されるのは、「フモンカンの日」だけだ。
「私、宴会場の掃除行ってくる」
「どっち? 菖蒲の間? 藤の間? 多分どっちも鍵締まってるよ」
小川にそう聞かれて、さらに気落ちする。
「そっか、二つもあったんだ」
滅多に使う機会が無いので、どっちがどっちか最早わからない。「広い方」と伝えると、小川はポケットにじゃらりと付いた鍵の束から一つを切り離して貸してくれた。
「こっちが菖蒲だったか」
かつては結婚式の披露宴会場としても使われたことがあるらしい菖蒲の間は、埃っぽく、片隅にグランドピアノだけが置かれている。
私が、二十二歳まで使っていたピアノだ。
音大在学中、覚えめでたいコンクールに名を刻むことができなかった私は、卒業して早い段階で、ピアノを生業にして生きていくのは無理だと悟った。
弾かないピアノがそう広くない実家の一部屋をいつまでも占拠しているのが申し訳なくて、私が先に家を出た。高級車が優に買える程の学費を支払ってきた母は恨めしそうな顔をしていたが、そんな母の顔を毎日見ずに済むと思うだけで気が軽くなった。
ホテルラウンジのピアノ奏者はいつの時代も人気職で、求人さえ碌に出ない。
七社目の不採用通知を受け取って、ピアニストとして就職するよりも、ホテルスタッフとして働いた方が就職口が遙かに多いことに気が付いた。音大で鎬を削った四年間、いや、幼少期からの音楽経歴を入れると私の人生のほぼ全てが、あまりにも空虚なものに思えた。
「あんた次はどこいくの?」
そう言って、ピアノの屋根をなでた。そもそもこのピアノは、母が中古で買ってきたものだ。どこから来たのかも、幾つかもわからない。
飛翔の採用面接で特技を聞かれ、捻り出すような声でピアノが弾けると答えたら、『でも、ウチにはピアノないんだよね』と社長が申し訳なさそうに笑ったので、
『私、実家のピアノ連れてこれます』
と言うとみんな大爆笑。
ピアノとともに、就職先が決まった。
「ここ、多分潰れるよ。私たち、また路頭に迷うことになる。お母さんも、実家のアンタの部屋、もう自分の趣味部屋にしたって」
ピアノの椅子にゆっくり腰掛ける。
胃のあたりが、キュッと痛くなる。
目の前の真っ黒な物体は、冷たく、何も答えない。コンクールの前の、重い空気が未だに背中にのしかかる。
一緒に就職して五年半、働いたのは私だけで、結婚式も宴会もないこのホテルでは彼女は黙ったままだった。唯一、「フモンカンの日」は、彼女の周りに音楽があふれる。
楽曲によっては部員に使用もしてもらえた。
「次は連れて行けないよ。さすがに」
重く分厚い鍵盤の蓋を、今日も私は開けることができない。弾きたい曲も、弾くべき曲も、聞いてくれる人さえいないのだから。
「大丈夫、あと二ヶ月もしたら、弾いてくれる人が来るから」
そう言って、乾いた雑巾で彼女の身体を拭いてあげた。
*
音楽以外の就職口を探していたとき、ピアノがないと自分には何もないと思い知らされた。音大を卒業するまでの間、私の指も爪も、耳の鼓膜も、眼球も、まつげの一本に至るまで、全てがピアノを弾くために存在していた。鍵盤を弾く理由がない今、私本体は何をしていいかわからない。
「伽藍堂だ」
今日も客入りの悪い食堂を眺めながら、呟く。
「なんですか? それ」
「潰れるんだよ。こんな伽藍堂のホテル」
「またそれですか。そんなに好きでした? この仕事」
早番の増井は暇なはずなのに忙しさを装って何度も同じ食器を拭いている。きっと客室の清掃や巡回に行くよりも、クーラーの効いた食堂で時間を食い潰していたいのだろう。
ホテルの仕事は、やることが兎に角沢山あって終わりがない。清掃、フロント業務、食事の配膳、片付け、ベルサービス……早番がそれらの仕事を終えると、遅番とバトンタッチし、また同じことを繰り返す。
それはまるでピアノのスケール練習のように、毎日同じことを、何度も何度も繰り返す。
今日も粛々と、仕事が巡る。
客が来ようと、来まいと。
必要とされようと、されまいと。
「増井君はさ、どうするの? 副業の方、頑張るの?」
「いや僕、本業が芸人ですからね。こっちが副業」
入社して早々、小川の調べにより増井が芸人であることが触れ広められた。週四で早番勤務に勤しんでいる所をみると、彼の存在はまだ世に広まっていないらしい。
「だって増井君がテレビ出てるの見たことないよ」
「テレビに出ることだけが、芸人じゃないんすよ」
「漫才してるとこも、見たことないよ」
「漫才することだけが、芸人じゃないんすよ」
「M‒1とか、獲らないの?」
「M‒1のMは、漫才のMですからね」
「本当に芸人なの?」
「なんなん、そのM‒1獲らないと、芸人として認めへん、みたいな感じ。古っ」
増井は一通り芸人らしいツッコミを披露した後、「M‒1がなんぼのもんじゃ」と言い、
「でも、実際M‒1獲れへんくて辞める人多いですけどね」とも言った。
どこの世界にも、覚えめでたいコンクールはあるらしい。
「辞めるって……引退とかあるの?」
素朴な疑問が、頭をよぎった。デビューや解散、活動休止、芸能界引退、はよく目にするが、芸人引退というのは聞き慣れない。
「確かに。引退試合とかはないかも。イツノマニカ引退なんじゃないですか?」
「イツノマニカ引退?」
増井が「あっというま劇場」みたいなイントネーションで言うので、深刻さが薄れる。
「ま! 僕は、一生人笑かしてたいんで、一生現役ですけどね!」
「……面白いね」
「ちょっとくらい笑って?」
一生現役、と言った増井の瞳はまだ輝きを宿していて、眩しくて直視できなかった。
ピアノに触れなくなってから、もう五年と半年が経つ。かつて腱鞘炎に悩まされた手首も、爪が割れ、血が出ていた指先も、すっかり治ってしまった。私はいつの間にか引退をしたのかもしれない、デビューもしていないのに。そのことが、やけに滑稽に思えた。
世の中の夏休みが終わろうとしている頃、私たちが日本吹奏楽コンクール関西大会の結果を知る前にホテルの電話が鳴った。
「はい……あっ普門館……おめでとうございます! はい……十一月一日の午前にバスで……二日は、早朝で……はい……」
電話を取った小川の口ぶりから、普門館に駒を進めた団体からの予約だとわかった。
「いよいよ『フモンカンの日』ですね」
増井も一年に一度の大イベントに心躍らせているようだった。私も、小川の電話が切れるのを、今か今かと待っていた。
受話器を置くやいなや、小川は「やばい」と声を漏らした。
「京都でヤバい五十人」
小川はいつになくテンパっていた。こんなテンパりは炊きたての白米十合をこけてひっくり返した時以来だ。
「なに? なんて?」
私はニヤけながら小川に聞き返した。
「京都の高校が全国で、五十人しか来ない」
小川の声ががらんとしたロビーに響いた。
「え、何。どういうこと? いつもの高校じゃないの? 大阪の私立の」
「違う」
「奈良は? 奈良の県立の。ホラ、四年前に来た」
「違う。今年は京都。十年ぶりらしい」
吹奏楽のことは何も知らなかったが、今年のコンクールが波乱だったことは容易に想像できた。
「十年ぶりの全国進出? めでたいですね」
増井だけはまだ喜々とした顔をしていた。
「五十人かあ……教員も入れて?」
「教員入れたら五十三」
小川の顔は死んでいた。
「ごじゅう……さん。今年は寂しいね……」
今年は、と言った後で、来年がもう来ないことに気付いた。小川も同じことを思ったのか、二人で目を合わせたが、その先に言葉を続けることはなかった。
それでも、団体客が来ることに変わりはない。私たちはホテルスタッフとして、ゲストをもてなさなければならない。
「本当にここ使うんですか?」
増井が宴会場「菖蒲の間」を掃除しながら言った。今日は朝から大浴場、食堂とはじまり、ここが三つめの大モノだ。増井の声に疲れが滲むのも仕方がない。
「使っても、使わなくても、準備するの」
「てかここ、ピアノあったんですね」
「弾ける?」
やや食い気味に聞いてしまったので、増井は引いていたかもしれない。
「いや弾けないです。先輩は?」
「……弾けない」
なんとなく後ろめたくなって、増井と彼女を直視できなかった。
「あ、でも俺ギターは弾けますよ。リズム芸人なんで」
「器用だね。確かに、たまにギター背負って出勤してるよね」
「仕事帰りとかに、バーで弾いてます」
「へえ、ギターにもそういうのあるんだ」
「バーじゃ誰も聞いてないですけどね、僕の演奏」
わかるよ、と言いかけて口をつぐんだ。彼女を棄てようとしている私に音楽を語る資格はない。
「でも楽しいですよ」
「え?」
「え。だから、ギター弾くの。楽しいっす」
「そ……それは、そう」
あまりにも驚いたので、小川の口癖をつい口走ってしまった。
音楽が、楽しい?
文字通り。事理明白、当たり前。音を楽しむと書いて、音楽ですからね。
でもどうしてか、私は思い出せない。
音楽が楽しかった日々を、思い出せない。
*
京都洛上高校吹奏楽部のバスがホテルに到着したのは、十一月一日の朝七時だった。ホテルスタッフは入り口に並び、一年に一度の有り難い団体様をお迎えする。
「小川さん、これ早朝手当つきますよね」
増井が眠そうな声で言った。十一月の朝は十分寒く、増井は早くロビーの中へ入りたそうだった。
「たりめーだろ。女子高生と深夜手当がないと、こんな過酷な日に出勤しねーわ」
「え? 深夜も何かすることあるんすか?」
「深夜というか、早朝な。俺ら明日は朝三時起き。『フモンカンの日』は長いぞ。ガンバレヨ新人」
「それ明日っていうか、もはや今日……」
バスから部員達が降りてくる。例年とは比べものにならない程の人数の少なさに、本当にこの人数で全ての楽器を賄えているのかしら、と要らぬ心配をしてしまう。
「おいおい、きいてないぞ」
「何? どうかした?」
「男子校じゃん」
小川の声には憎しみが滲んでいた。
「はい! ホテルの方に礼! 本日から二日間、よろしくお願いいたしぁっす!」
機敏な動きで全員が集合し、横一列に角刈りが並んだ。吹奏楽部というより、野球部と言われた方がしっくりくる。
「よろしくお願いしぁす! 部長の松本泰三です! クラリネットです!」
増井が小川の方をみてクスッと笑った。私の位置から小川の顔は見えなかったが、死んだ小川の顔を想像すると、少し笑えた。
角刈り頭のクラリネットの少年は、小気味よくホテルのスタッフ全員に挨拶をして回った。
「ようこそ飛翔へ」と言った私に、
「普門館最後の年に、ここに来れて嬉しいです」
と松本君は晴れ晴れとした表情で答えた。
「集合! スケジュール言うで。トラックから荷物積み下ろし、宴会場に運び込み、合奏室を作ります。手際よぉ進めること!」
「ハイ!」
目が覚めるような部員の声で、私たちも背筋を伸ばす。
「今日は夕飯まで合奏です! 明日は朝五時からミーティング、その他行動は各パートリーダーに従うように! では離散!」
「ハイ!」
松本君の見事なマネジメント力に、私と小川は舌を巻いた。禽獣角逐の戦いを制してきた高校の部長だ。只者ではないだろう。そんな松本君が常人の二倍はある歩幅とスピードで私の元へ駆け寄ってきたので、思わず後ずさりした。
「あのっ、宴会場の鍵、貸してほしいです」
「あ……えっと」
テンパっていると、小川が助けてくれた。
「どっち? 菖蒲の間? 藤の間? どっちも使えるけど」
「人数少ないんで、小さい方で構いません」
「あ、大きい方で!」
つい、口を挟んでしまった。
「ピアノ使いますよね? なら、菖蒲の方が」
「使いません!」
「えっ、使わないの?」
「はい! 使いません!」
あまりにもハッキリとした返答に、心が負けそうになる。
「いや……でも! 今まで吹奏楽部の皆様には菖蒲を使ってもらってるので」
「大丈夫です! 僕たち人数少ないんで!」
そう言うと松本君は小川から藤の間の鍵を受け取り、足早に去って行ってしまった。
楽器の積み下ろしと合奏室の設営は、松本君の怒気を含んだ的確な指示の下、おそろしいほどのスピードで完了した。
結局、私のピアノがある菖蒲の間は使われなかった。
私は一人、誰もいない宴会場に赴き、グランドピアノと向き合って座った。
「どうしようか」
私と彼女の間にひどく長い沈黙が続く。
「あの」
と言う声に驚いて、私は我に返った。ピアノの対岸からぬるっと現れたのは、学生服に身を包んだ角刈りの少年。
クラリネットを片手に持った松本君だった。
「驚かせてすんません。練習時間押してて、夕食の開始、遅らしてもらえませんか?」
松本君にそう言われ、腕時計を見てぎょっとした。すっかり食事準備をサボってしまった私は、あとで小川と増井にうんと怒られるだろう。
「あ、はい……大丈夫ですよ。多分」
「ありがとうございます。……あの~。もしかしてピアノ、弾くんですか?」
「あー……いや、弾けないの」
「へぇ……」
男子高校生に気を遣わせてしまい、情けなくなった。
「僕、ピアノ弾けるんです。ちょっと、寄せてもろてええですか?」
聞き慣れない京都弁を咀嚼している間に、松本君は私の隣に座った。本来一人用のベンチを、背が百八十近くある男子高校生と分け合う。気恥ずかしくなって慌てて立ち上がった。松本君は何も気にしない様子で、クラリネットを譜面台の脇に置き、鍵盤に被さる黒い蓋をひょいと開けた。
五年間、私に閉ざされ続けていた蓋は、あまりにも軽々と開いてしまった。久しぶりに見た鍵盤は私の記憶よりも少し黄ばんでいて、松本君が、その野球部のような外見からは想像もつかない程長くて細い綺麗な指を、鍵盤の上にふわっとのせた。
「何弾いてほしいですか?」
「え?」
「リクエスト。好きな曲、なんでもいいですよ」
今まで、ピアノは自分で全て弾けたので誰かにリクエストしたことなんてなかった。
改めて言われると、すぐに曲名が出てこなくて難しい。
「えっと……じゃあ、『月の光』とか?」
「あ、知らないっす」
「あ、難しいよね、いきなりだし……じゃあ、ショパンとか? 何でもいいよ、弾けるやつ」
「余計無理っす」
「えーっと……キラキラ星とか? あ、でもあれ本家は難しくて……」
「知らないっす、申し訳ないっす」
松本君は苦悶の表情を浮かべている割には、溌剌とした声で、全く悪びれていない。
「……何が弾ける? 逆に」
「米津とかでいいすか?」
「是非それで」
そう言うと彼は、ヨネヅを弾き始める。
私より一回り以上大きい手が、私の見知った鍵盤を撫でるように触る。彼女から聞いたこともないような、可愛らしい音がする。
初めてのデートのような、初々しい甘酸っぱい音だ。私は妙な居心地の悪さを感じながら、初めて聞く楽曲に耳を傾けた。
「どうです?」
「あぁ、うん。ヨネヅ……わかんないけど、弾いてくれてありがとう」
「わからんのかーい」
と言って、松本君は笑った。その後も何曲か「これは?」と松本君は弾いてくれたが、どれも知らない曲だった。あまりに私が知らないので、しまいには二人して笑っていた。
「何にも知らないじゃないですか!」
「ごめんごめん、ポップス知らなくて」
あはは、とつい笑ってしまった自分の声が、鮮明に耳に届く。ピアノを前にして笑い声を出してしまったことに、ばつの悪さを感じて私はすぐに表情筋を引き締めた。
「あ、そろそろ休憩終わりや」
「最後の合奏? かな」
「僕以外は、最後の合奏ですね」
「僕以外って?」
「僕、音大進むんです。だから、僕はまだ合奏とかあると思います」
「へぇ……そうなんだ……大変だね」
つい、本音がこぼれた。
「そうですね、みんなに止められました。ピアノとかヴァイオリンならまだしも。クラリネットて! しかも僕みたいな坊主なんて見栄えも聴き映えもせんし、将来食っていくの大変やぞって」
坊主は今だけだろう、と思ったが、彼を励ます言葉がうまく出てこない。
「でも、行くんだね」
「はい。行きます」
彼の強い覚悟と希望、そして不安に満ちた眼差しに既視感と、懐かしさを覚える。
「頑張って……頑張ってね!」
「ハイ!」
私は知っている、音楽の道が途方もなく辛く、地味で、地道で、それでいて救いがないことを。
私は知っている、それでも夢を見ずにはいられないことを。
松本君が去ってしばらくして、遠くから、チューニング音が聞こえてくる。松本君たちの最後の合奏が始まろうとしていた。
「最後だね」
私はピアノにそう語りかけ、椅子や鍵盤の蓋を元の位置に戻す。いい加減仕事に戻らなくては、そろそろ小川が怒鳴り込んで来そうな気がした。
チューニング音が次第に止み、緊張感を持った静寂が菖蒲の間に広がる。私とピアノを取り巻く空間が神聖さを取り戻した。
彼らの演奏が始まった時、私の心臓はどくんと脈打った。防音扉でもなんでもない宴会場のドアから漏れる音は、嫌でも耳に入ってくる。
「パガニーニ……」
京都洛上高校自由曲
『パガニーニの主題による狂詩曲』
S・ラフマニノフ作
剣呑でリズミカルな連符から始まるその曲は、私が小学生最後の年にコンクールで優勝した曲。
ピアノを楽しみ、愛していた頃の懐かしい記憶、神童と謳われ、自分の才能を妄信した純粋無垢な香りが私の脳裏を駆け巡る。
クラリネットの優雅なソロが聞こえてくる。松本君の音色だろうか。
あぁ、圧倒的強者の音……。
私は耳を塞ぎたくなった。群雄割拠を打ち負かし京都から此処にやって来た、たった五十人が掲げる錦の御旗が見える。彼らの奏でる音の規律に、ただただ首を垂れるしかない私のなんと惨めなことか。
その時、尊敬と羨望、狂おしいほどの嫉悪が私の中でぐつぐつと湧き出すのを感じた。
私は覚えている、大好きで、大嫌いな音楽に身悶えた日々を。
私の指はまだ覚えている、鍵盤に全てを捧げたあの情動を。
世界一美しいといわれるラフマニノフのセレナーデが遠くで鳴っている。
松本君が弾いた、可愛い音色のピアノを思い出す。
「……そんなんじゃない」
私は鍵盤の蓋に手をかけ、開けた。
私のピアノは私に弾かれるのを待っていたかのように、八十八鍵の両手を広げて私を迎えた。鍵盤に指をかけ、私の音を重ねる。
五年ぶりに駆け上る白と黒の階段は、思っていた以上に軽く、指が空回る。
音楽への執着と厭悪を含んだやぶれかぶれの私のセレナーデは、宴会場を愛憎渦巻く修羅の場に変えた。
私は彼らの合奏が途絶えた後も、堰を切ったように弾き続けた。途中、食堂へ移動する松本君が興奮しながら何かを話しかけてきたが、何も聞こえなかった。
五十人の男子高生が食い散らかす食堂にあっさり音を上げた増井が私を見つけ出し、
「先輩、ピアノめっちゃ弾けますやん」
という関西弁と笑い声が聞こえて、やっと手が止まった。
「そう、じつは現役なの」
息切れしながら、私は笑った。
近い将来、普門館は取り壊される。でも、このホテルが潰れるその日まで、私はここで弾き続ける。このホテル最後のコンクーラーは、わたしである。
【おわり】