【佳作】女優の門出(著:かささぎかづる)
自動音声が『七十三階に到着しました』と淡々と告げ、エレベーターの銀の扉が涼やかな音を立てて開いた。りん。
降りたフロアは一面の硝子張りだ。初夏の陽が煌めく下には、緩やかに蛇行する柳眉江と、薄暮市の棒グラフのような摩天楼が広がっている。
「やあ、黎明座の座長殿! よく来てくれたね。随分と暑かったろ? 電解質補給スムージーを持ってきたよ! さあ座って」
聞き慣れたその声に、橄欖は、無精髭の散った頬を微かに緩めた。長袍の上に白衣をはおった細身の中年男性が、若い女性の人花を連れてこちらへ向かって歩いてくる。
彼の名は橘火。橄欖が黎明座の座長になる前──つまり、流しの貧乏役者として生計を立てていた頃からの知り合いで、現在は、柳眉江の中州に建つこの超高層総合病院こと朔陽会病院の副院長でもあった。
橘火が壁に取り付けられた制御盤を操作すると、平らだった床の一部分が迫り出してサイドテーブル付のスツールに変わる。橄欖は遠慮なく腰を下ろした。
「どうも。近年は暑気に弱いもんで、助かるよ」
生花手術を受けていない者の当然の定めとして、四十を過ぎてからの橄欖は、肉体の劣化に伴う体力の低下が著しい。エレベーターの中では、立っているのがやっとだった。
人花から電解質補給スムージーをひょいと取り上げ、橄欖に向かって差し出すと、橘火はもう片方の手を振った。
「それじゃあ先に、彼女の話から始めようか。僕としては、不本意だけどね!」
人花がフロアのブラインドを下ろす。スライド画面が投影され、ある女性の3Dモデルが現れた。
橄欖は、電解質補給スムージーを一口飲んだ。滋味と塩味の自由律が舌を撫でた。
「悪いな。……それで一体、もってあとどれくらいだ?」
◇
人花。それは生花手術を受け、アンドロイドパーツを体内に組み込んだ人間である。
四十年近く前まで、薄暮市は深刻な労働力不足の中にあった。医療技術の目覚ましい進歩により高齢者人口は増加し続け、相対的に若者人口は減少した。逆ピラミッド型の人口グラフに危機感を抱いた薄暮市長は、潤沢な資金を持つ朔陽会病院と連携し、ある画期的な政策を導入する。
──市民全員を対象とした、生花手術の無償化。
生花手術は、個々人が生まれ持った組織および器官の一部を、人工細胞を用いて作られたアンドロイドのパーツに置き換え、同化させる医療行為だ。朔陽会病院が独自に開発した技法であり、当初は、臓器移植ドナーが見つからない患者が第二の治療法として選択できるようにすることが目的だった。
優れた恒常性を持つアンドロイドと同化すれば、三時間以上の睡眠は不要となる。日中の活動時間が拡大できるほか、加齢による肉体の虚弱化も大幅に緩和され、認知症や病を患うこともない。要介護人口の減少を見込んだ市は、公的年金制度を廃止した。
朔陽会病院は積極的にプロバガンダをおこなった。『手に入れよう 持続可能な健康体』『あなたの脳神経系に、高水準の知能と精確な記憶力を!』、そんな文言でラッピングされたバスやトラックが日々セントラルを走行し、コマーシャルが朝な夕な茶の間に流れた。
宣伝の甲斐あってか、薄暮市民における人花の割合はじわじわと増え続けた。そして今や、その人数は人口の七割に達しようとしている。
◇
「中央区四丁目、黎明座まで」
黒い長袍の裾を持ち上げて乗り込んだ橄欖が告げると、自動運転式タクシーは『了解です。シートベルトの装着を確認』と呟いてロータリーを出発した。青空をバックにした白亜の超高層病院と、その正面玄関でぶんぶんと手を振る橘火が遠ざかる。
リバーブリッジに差し掛かると、対岸にずらりと並んだ摩天楼がまるで夏の怪物のようだった。橄欖はにわかに疲労を覚えて、座席に身を沈ませた。
橘火もまた橄欖と同様、生花手術を受けていない人間だ。その優秀さでもって異例の若さで副院長になった彼は、『僕ほどの天才的頭脳が、アンドロイドごときの知能に置換されてしまうなんて! もったいなくて施術を受ける気になれないよ』と豪語している。
橄欖は橘火と違い凡人だが、演劇を愛する心がゆえに人花にならないことを選んだ。
そもそも舞台芸術従事者自体、生花手術を受けることを三十年前に禁じられた。古典芸能である演劇は、脚本の多くが人花の誕生以前に書かれている。生花手術によってアンドロイドパーツと置換される部位には表現力と感受性を司る神経系の一部も含まれており、市は演劇のクオリティを一定以上に担保するため、舞台に立つのは純正の人間に限ると通達を出した。
セントラルに進入したタクシーが右折待ちレーンで停止すると、銀色のオフィス街からぞろぞろ出てくる人花が見えた。ちょうど、昼食時だった。
誰も彼も心なしか平淡な表情で、無個性な髪形と服装をし、市民食各種を製造する工場『鮮烈加工』の直営店に吸い込まれていく。栄養補給バーとビタミン錠のセットを手に取る様子まで目に浮かぶようだ。
生花手術を受けた人花は、趣味嗜好や感性の大部分の裁量をアンドロイドに明け渡すことになる。彼らにとって、衣服は寒暖を調節する原始的な方法の一つに過ぎず、食事はエネルギーを得るための行為以上のものではない。その事実を認識する時、橄欖の心はほんの微かに苦くなる。
「お帰りなさい、座長。──白光が戻っていますよ」
低い声が耳に届き、橄欖ははたと我に返った。知的な顔立ちの男性が、窓越しに橄欖を見下ろしている。黎明座の役者で副座長の山荷葉である。
いつの間にか、自動走行式タクシーは裏路地に佇む小さな劇場に到着しており『目的地に到着しました』と繰り返し告げていた。
「白光が?」
にわかに頭痛が襲ってきて、橄欖は額を押さえた。
何故、と思った。彼女は何故、そうしたのだろう?
真っ白なワンピースを着て麦わら帽をかぶった若い女性が、劇場の裏口から飛び出してきた。人花では有り得ない、朗らかな動作。彼女が、ほかでもない白光である。
「そうよ、わたしよ! 悪い? パパ。ここはわたしの家でもあるわ。帰ってきたって良いじゃない!」
大輪の向日葵のように笑う白光に、橄欖は微かに目を眇めた。もちろん良いに決まっているが、半年以上も音信不通だったのだから驚いた。
咄嗟に何も言えずにいると、白光が口を開いた。
「それでね、パパ。あのね、わたし結婚するの。亭午市にお嫁に行くわ。だから女優は引退する。最後に、引退公演をさせてちょうだい!」
突然の宣言であると見え、自動走行式タクシーの精算をしていた山荷葉が固まった。橄欖の頭痛は、悪化していくばかりだ。亭午市は、薄暮市郊外に広がる大森林を越えた先にある。そこに住まう誰かと将来を共にする約束を交わしたと、彼女は本気で言っているのか?
けれども白光の澄んだ眼差しを見つめているうち、それならそれで構わないかという気になった。自由奔放な彼女らしい。なにより白光は二十二歳。橄欖がとやかく言える年齢でもない。
「そうかよ。良かったな、幸せになれよ。演目はなにがいいんだ?」
白光は、口の端を持ち上げた。黎明座の看板女優を張ってきた美しい顔が、その一瞬だけ、泣きそうに歪んで見えた。
◇
白光は、橄欖が薄暮市郊外の大森林で拾ってきた娘である。その時橄欖は二十代の後半で、白光は十にも満たない子どもだった。
その日は夏至で、時刻は十九時をまわっていたが、空は十分明るかった。
橄欖が蕃兪の実を集めるために街道を進んでいると、小さな影がリグの果実を摘み採りながら、向こう側からやってくるのが目に付いた。
人影は、明らかに浮浪児だった。髪は脂ぎっているがボロボロで、裸の足は黒ずんで、身体中から汗と垢の匂いがしていた。
アンドロイドパーツへの抵抗感から生花手術を受けないことを選択した高齢者を抱える世帯は、薄暮市が公的年金制度を廃止して以降生活費を賄いきれずに困窮し、借金を重ねに重ねて住居を追われるケースも頻発していた。だから、橄欖が立ち止まって片眉を跳ね上げたのは、人影の風体が珍しかったせいではない。
『お前、一体どうしてリグの果実なんぞを摘んでいる?』
リグの果実は、実のところ瑞々しく甘酸っぱいが、一般的な薄暮市民は見向きもしない代物だ。枯葉に似た茶色の皮が果実を隠しているため、食べられるとは思われない。
薄暮市の飲食店は、人花の割合が市民の五割を超えた頃にほとんどが閉店した。
美食に関心を示さない人花たちは、味気なくとも効率的にエネルギーを摂取できる『鮮烈加工』の市民食を重宝し、人間が調理して食卓で湯気を立てるような家庭的なメニュー類はすっかり廃れ、過去の文化と成り果てたのだ。
食材に関する知識の衰退は言うに及ばず。市民の過半数未満となった純正な人間は、人花のニーズに迎合した。
浮浪児は、膿んだ双眸で橄欖を見上げた。暗渠から人間を観察する、陰鬱な蛇のようだった。
『聞いても、盗ったり奪ったりしない?』
『理由がねぇよ。生憎俺には、今のところ生きていける程度の金はある』
『……食べられるんだよ。この実。それに、甘いの』
声をひそめて打ち明けられた言葉を聞いて、思わず橄欖は口笛を吹いた。途端、浮浪児は警戒した様子で束の間身を強張らせた。
『……昔、セントラルで見た一座がやってて、それで知った。異国のお姫さまがリグの果実の料理を食べて、あまりの美味しさにびっくりする劇』
その劇には、心当たりがあった。橄欖も何度か出演したことがある、『おいでませ美しい国』という喜劇だ。リグの果実が食べられると橄欖が知ったのは、脚本を読んだから。
ストーリーの序盤、主役の姫が乗った船は、嵐に見舞われ遭難する。流れ着いたのは文化があまりに異なる国。迎えが来るまでの間、姫は戸惑いながらも積極的に新たな生活様式を習得するが、その過程を役者がコミカルに展開する。リグの果実は、姫が晩餐で供されるスープの具だった。
座組の長は継続的に演劇研究をおこなうよう、市によって義務付けられている。その一環で、橄欖は、小道具の鍋や俎板を用いてリグの果実のスープを再現できないものかと、常々頭の隅で考えていた。そして今日、それを実行に移すべく、同じく材料の一つとして目される蕃兪の実を採取するため、大森林に分け入ったのだ。
『奇遇だな。お前、俺と一緒に来るか? 作ってやるよ、その料理』
あれからいくつもの歳月が過ぎ、今、劇場の客席に座った橄欖は、一座の俳優たちと舞台上で通し稽古に臨むかつての浮浪児、白光を眺めている。大森林で泥にまみれていた幼い子どもは、蛹が蝶へと羽化するように見事なまでの変貌を遂げた。
彼女が引退公演の演目に選んだのは、あの喜劇『おいでませ美しい国』だった。白光は主演の姫に扮し、召使い役の役者に向かっておっとりと首を傾げる。
──おや、明々! ここにいたのね、この飲み物はなぁに?
──お待ちください、春蘭さま! 炭酸の入ったボトルは、そのように振り回してよいものではありません!
スピーカーからサウンドエフェクト。白光の掌で泡が弾ける。
「やあ、驚いたなぁ。まさかあの名女優、黎明座の白光が引退するなんて」
橄欖のすぐ隣で、電子新聞社のベテラン記者、巽仁が一眼レフを構えながら低い声で呟いた。
彼は、芸能部に長いこと在籍しており、黎明座とも十年近くの付き合いがある。今日のように、稽古取材にやってくることも少なくない。
「僕はてっきり、彼女はあなたの跡を継ぎ、座長になるものと思っていたよ。ニューラルネットワークの治療効果も抜群だもの。彼女が演じた役柄はこの世に実在し、あたかも掛け替えのないただ一つの人生を送っているかに感じたものだ」
人花である巽仁は、千穐楽の数日後に朔陽会病院が提供するニューラルネットワークのデータをもとに、アンドロイド的思考でもって公演の成果を分析するのが常套手段。つまり、口にするほど感傷的な心境は味わっていないに違いない。
けれども、彼にそのような言葉選びをさせたという点に白光の魅力があった。
「そうだな。……あいつはつくづく、演劇を愛していた」
橄欖は、唇だけで微かに笑んだ。より正確に言うなれば白光は、劇中に挿入された従前の食文化を愛していた。
古典芸能である演劇の随所に登場する、食にまつわるシーンの数々。それは、演劇の重要な要素の一つだった。歌唱や殺陣と同じように。
白光にとって食文化とは、その社会に生きる人々の精神的な豊かさの鏡だった。食を自由に選ぶことが未来の可能性を広げることに繋がると、彼女は信じた。
『あのね、パパ。食事の選択って要するに、人生の選択じゃないかなってと思うの』
それは数年ほど前に、白光が楽屋でぱらぱらと台本をめくりながら呟いた台詞。
『なにを美味しいと感じて、その味覚をいつ誰と共有するか。選択を繰り返していく中で良くも悪くも、心の持ち様や出会う人、体験する出来事も変わっていく気がするわ』
演劇には、そのさまが表れている。だからわたしは、こんなにも舞台に惹かれるの──……白光は、だからきっと女優になった。
巽仁の一眼レフから、立て続けにフラッシュが飛んだ。焼けつくような閃光は、なだらかに傾斜して舞台下へ続く客席の背もたれを浮き上がらせる。波を模して白光たちの足元で揺れ動く青いライトの中に吸い込まれ、消えていく。
「そう言えば、座長。白光はここ半年ほど、黎明座を離れておられたそうじゃないか。差し支えなければ、理由をお聞かせ願えるかな? 引退準備? それとも」
「……さあな。旅にでも出ていたんじゃねぇか」
人花らしい理知的な口調で、巽仁が質問を投げかけるのを適当にいなして、橄欖は立ち上がった。舞台に背を向け、まるで夜の海に拓かれた小道のような客席の階段を長袍の裾を捌きながらゆっくり登る。
巽仁が、レンズから顔を離した気配がした。
「座長? まだ、通し稽古の途中では?」
「今回の公演の采配は、山荷葉に任せてある。俺が居ずとも構わんさ」
ずっしりと重たい防音ドアを肩で押し開けるようにして、橄欖は、ソファーが並ぶ二階のロビーによろめき出た。沁みるようにひりひりと、胸が痛んだ。
窓の外には、淡いグレーの曇り空が広がっている。絹糸を思わせる優しい雨が降り注ぎ、アスファルトの歩道を滲ませていくのが見えた。
◇
人花の脳神経系は、人間が生まれ持った脳神経系の一部を、人工細胞で合成したアンドロイドのニューラルネットワークに置換したものである。人間本来の神経回路は、完全に抹消されるわけではないが、大きな抑圧を受けることになる。それは他のアンドロイドパーツを身体に馴染ませるための、必要不可欠な処置だった。
三十年前。薄暮市内の全人花に組み込まれたアンドロイドパーツを管理する朔陽会病院のサーバーシステム〈牡丹〉が、複数の人花の脳で不具合が検出された旨を報告する。
医師が解析したところ、人間純正の神経系とニューラルネットワークとの間で刺激がうまく伝達されず、感情バグが発生していた。市内には、興奮状態が収まらない、あるいは塞ぎ込んで泣き止まないなどの異常をきたした人花たちが続出していた。
朔陽会病院は原因究明を試みたが、結局のところメカニズムは不明に終わる。しかし代わりに、作業療法の一種とでも言うべき治療法が有益であると判明した。
──人間の多様な感情を表した古典芸能、演劇の鑑賞。
その理論こそ今も定かでないものの、感情バグが生じた人花は公演を観ることで精神状態が落ち着き、純正の神経系とニューラルネットワークの刺激伝達が正常に戻った。その報告を受けて以来、市は、定期的な演劇鑑賞を人花に対して推奨している。飲食店が潰れても、黎明座が生き残っている所以である。
薄暮市の最高気温が、日に日にその年一番の暑さを更新していく夏の盛り。
白光の、引退公演が始まる前夜。橄欖は、劇場の上階にある座長のための小さな住まいで、いくつかの食材と小道具をダイニングテーブルに並べていた。
細く開いた硝子窓と鉄窓花の隙間から、ミンミンと鳴く蝉の声が聞こえた。白光は風呂に入っているところだ。つい先ほどゲネプロが終了し、照明直下で数時間主役を演じ続けた看板女優は、滝のような汗を流して、舞台メイクもそのままに浴室に駆け込んだ。
換気扇から流れ込むぬるい夜気に瞼を撫でられ、橄欖は『鮮烈加工』の合成肉のキューブ、それから蕃兪の実を手に取った。フライパンに入れ、IHコンロに掛ける。
食品市場を席巻した市民食により、自炊の文化が廃れて以来、調味料は出回らなくなった。ゆえに橄欖は、劇中食を再現するにあたっては、演劇研究書や脚本を頼りに代用品を大森林などから採取した。瘤のように枝に生る、油分の豊富な蕃兪の実もその一つだ。
「パパ、なに作ってるの? いい匂いね。それになんだか、懐かしい……」
白光の声がして、橄欖は背後を向いた。濡れ髪をタオルで拭きつつダイニングに入ってきた白光は、冷蔵庫から取り出したアルカリイオン水を美味しそうに嚥下する。
彼女の姿が眩しくて、橄欖はしみじみ目を眇めた。
白光の双眸は活き活きとした光を宿し、充足感に満ちていた。いつだってそうなのだ。彼女はあらゆる公演を全力で駆け抜けて、全力で楽しんだ。
今、彼女は、最後の公演のテープを切るために走り出さんとしている。
「……お前、本当に女優を辞めるんだなぁ」
「なぁに、今になって止める気なの? 最初に引退するって言った時、流したくせに」
わたしの決心は変わらないわよ、そう言っておどけたふうに肩を竦めた白光は、ふと寂しげに目を伏せた。
「……でも、パパはなにも聞かないのね。結婚も。この半年間、あったことも」
橄欖は微かに笑い、電解質補給スムージーを溶いた水を小鍋に注いだ。
「まさか。お前の人生だからな。それに、よくよく悩んで決めたんだろう」
白光は、虚を突かれたようだった。一度、二度、瞬きを繰り返し、なにかを言おうと口を開きかけて再び閉じて、それからくしゃりと大きく顔を歪めた。
噛み締めるように、彼女は告げた。
「ええ、そうよ。わたしが決めた。女優として生きて、舞台の上で演じてきた感情のすべてを二度と知ることができないとしても、それを選ぶことにしたのよ」
「名残惜しいか?」
「当たり前よ。演劇を続けられたらどんなに良いか。でも、決めたの」
小鍋の水が沸騰する。橄欖は、そこに炒めた合成肉のキューブを加え、ダイニングテーブルからステンレス製のバットを取った。バットには、真っ赤なゼリーを透明な膜で包んで丸めたような、小指の先ほどの大きさの果実が並んでいる。橄欖は、それを小鍋に入れた。
橄欖が作っている料理に見当が付いたのか、白光が喉の奥で息を呑む気配がした。
──彼女が、黎明座にやって来た日に食べた、リグの果実を使ったスープ。
橄欖は、滋味と塩味が混ざった電解質補給スムージーを薄めて、スープの出汁をまかなった。通常は冷やして飲む透明なスムージーは、熱すると半透明に白濁し、腹の底にしみじみ沁みる味となる。
合成タンパク質から成る人口挽肉を乾燥させた合成肉キューブは、炒めることでホロホロとした味に仕上げた。甘酸っぱいリグの果実は、スープと一緒にひと煮立ちさせて風味を馴染ませる。果実を歯で割った時、じゅわりと広がる清涼な果実とスープが奏でるハーモニーは絶品だ。
昔、夏至の夜に大森林で出会った浮浪児は、橄欖が考案したレシピに沿って試作したスープを一口啜り、美味しいと呟いてぽろぽろと涙を零したものだ。
鉄窓花に切り取られた薄暮市の夜景は、宝石を散りばめたように美しい。それらを映してたゆたう柳眉江の向こう側、朔陽会病院のLED文字が翡翠色に光っている。
橄欖は、深さのある広口の皿に湯気を立てるリグの果実のスープを盛った。
浮浪児から女優になり、そして今、橄欖のもとを離れていこうとしている白光は、やはり睫毛の先からぱたりと透明な雫を零した。
「……ああ、もう。かなわないなぁ、パパには。あのね、本当はわたし、パパが作ったリグの果実のスープが食べたくて戻って来たの。願掛けよ。門出の食事にこれを食べることができたなら、新天地でも、ずっと幸せに生きていける気がしたの」
だって、食事の選択は人生の選択だから。
橄欖は、白光の涙を拭った。もう二度とできないと分かっていたからこそ、そうせずにはいられなかった。
◇
軽やかな通知音が鳴り響き、タブレット端末に、今日の電子新聞の一面記事が表示された。躍る見出しは、『惜しまれながらついに引退 黎明座の看板女優』。すぐ下に、向日葵の花束を抱えて涙ぐむ若い女性の写真が載っている。
──昨夜、およそ八年にわたって黎明座の花形と謳われた女優、白光(二十二)の引退公演が千穐楽を迎えた。五日間の来場者は七万五千人を突破。公演後の囲み取材で、白光は、今後の活動については明言せず──……
インターホンが鳴ったので、橘火はスツールを回転させ、診察室の白いドアを振り向いた。人花特有の平坦な口調で、看護師が告げる。
「副院長。生花手術でご予約の患者さまがお見えです」
「ああ、どうぞ! 通してくれて構わないよ」
音もなくスライドするドア。一人の女性が、診察室に入ってきた。その顔は、電子新聞の一面に向日葵と一緒に収まっている黎明座の看板女優──否、元女優のまさにそれで。
橘火の向かいにあるスツールに腰掛けると、白光は微笑んだ。
「こんにちは。お久しぶりです、副院長先生。本日は、どうぞよろしく」
橘火は、黙って目を眇めた。正直なところ、この女優が生花手術を受けるかどうかは五分五分だと思っていた。
『──喉に、違和感があるんです』
そう言って彼女が朔陽会病院を受診したのは、半年以上も前のことだ。
『台詞の響きが悪い気がするの。慣れ親しんだ劇場だもの、すぐに分かるわ』
やや曖昧な主訴だったが、橘火は、速やかに精密検査をおこなった。経験上、こういった主張をする患者が重大な疾患を抱えているケースは珍しくなかったからだ。
案の定というべきか、スキャンされた体内断面画像を確認すると、彼女の声帯には悪性腫瘍が確認された。そしてそれは、最悪の結果を伴っていた。
『腫瘍自体は切除可能だ。だが、腫瘍の原因となった細胞が胸腔部に転移している。その細胞は除去できない──きみが、純正の人間である限りは』
橘火は、断腸の思いで告げたのだ。彼女のように演劇を愛する人間にとっては、死刑宣告にも等しかろうと思いながら。
『しかしきみが生花手術を受け、あらゆる組織と器官をアンドロイドパーツに置き換えさえるのなら、話は別だ。細胞は、人工細胞では増殖できずに消滅する』
凍り付いたように白い顔で、白光は、橘火が示した画像を凝視していた。
『もし、人花にならなければ──……わたしの身体は、どうなりますか』
もって二年半だった。ゆえに、橘火にはそう答えた。
黎明座の看板女優は長いこと黙り込み、『考えてから、また来ます』と告げた後、診察室を退出した。以来、なんの音沙汰もなかったものだから、つい先月、彼女の名前で生花手術の予約が入った際、橘火は大いに驚いたのだ。
橘火は、慎重に尋ねてみた。
「何故、手術を受けると決めたのか、理由を聞いても?」
白光は存外に穏やかな眼差しで、橘火の後ろの硝子張りの壁を見つめた。今日も薄暮市の空は青い。銀色の摩天楼には盛夏の陽射しが降り注ぎ、外気温は三十六度。
「……旅を、して来たんです。薄暮市を出て、色んな市を訪れた。美しいものも汚いものも見て、聞いて、味わって、それで決めたの。最後まで人間として舞台に立つより、この世界で生き続けていたいと思った」
なるほどね、と呟いて、橘火は束の間目を閉じた。彼女は、彼女を育てた男とは、まるで真逆の選択をした。まだ、朔陽会病院の職員しか知らないことだ。
橄欖は、最早この世にいない。
今日の早朝、彼は、朔陽会病院の一室でその息を引き取った。
数年前から病に身体を蝕まれていた橄欖は、橘火が渡した強い薬でもって激痛を抑え込み、平静を装ってはいたが、ここ数ヶ月は相当につらかったはずだ。けれども彼は病状を隠し通し、最期まで舞台人であり続け、娘の引退公演を見届けた。
橘火は、良識ある医師として守秘義務を守っていた。薬のために通院していた橄欖が、エントランスで白光を見掛けたのは不可抗力というより他ない。黒歴史を質にとられて、数ヶ月の攻防の末、洗いざらい吐く羽目になった。
「手術を終えたら、遠くへ行くわ。薄暮市に住み続けて、脳をメンテナンスするために黎明座の公演を見に行かなければならないなんて、ごめんだもの」
橘火は、ゆっくりと瞼を開く。行く末を決めて旅立っていく者たちが眩しくて、哀しくて仕方がない。
それから彼は、手術室に向かうために席を立つことにしたのだった。
【おわり】