迷子の迷子の吸血鬼ちゃん 第四回

発見
鳥の鳴く声で目が覚める。
これこそ、理想の暮らしだ!
六十才の定年を過ぎても、さらに十年以上働き続けた大原は、この山奥の一軒家に越して来て、三か月になる。
女房も子供もいるし、孫もいるが、誰もこんな不便な山奥の村に住みたいとは言わなかった。
大原も、一人で好きなように生活することを選んだのだ。
好きなときに寝て、好きなときに起きる。――鳥のさえずりで起こされるのは、快適だった。
ベッドを出て、着替えたときだった。
浴室で水のはねる音がした。――何だ?
この一軒家には自分一人しかいないはずだ。
「おい。まさか……」
熊でも入って来たんじゃあるまいな……。
しかし、水音はまだ聞こえている。やはり何かがいるのだ。
浴室のすりガラスの戸の外から、
「誰かいるのか?」
と、大原は声をかけた。
「いるのなら『いる』、いないのなら『いない』と言え」
大原もやや緊張していたようだ。
「開けるぞ」
戸をガラッと開けると……。
大原は、そこに湯舟に浸かっている男と女を見て、啞然とした。
もちろん、風呂の中は水になっているはずで、どうしてそんな所に……。
「――何してる?」
と、大原は訊いた。
一人は背広を着た中年男。もう一人は、どう見ても十代の女の子だった。
二人はちょっと大原の方へ会釈して、男が、
「どうも……」
と言った。
「ここ……どこですか?」
女の子が、冷たい水に浸かって、
「クシュン!」
と、大きなクシャミをした。
「大騒ぎだの」
と、クロロックが新聞を広げて言った。
新聞には、
〈行方不明の二人が遠方で発見!〉
〈謎の空間移動!〉
〈宇宙人か、それとも神の手か?〉
と、様々な見出しが躍っている。
「どういうこと? あの観覧車から、そんな山の中の一軒家に」
「しかも、湯舟の中だったとはな」
「二人とも風邪ひいてるそうよ」
朝食のトーストが、バターの香りをテーブルに漂わせている。
「そんなことより、早く食べて」
と、涼子が言った。
「虎ちゃんと出かけるんだから」
「でも、二人がとんでもない有様で発見されたので、中野さんって人も、奥さんに責められずにすんだそうよ」
と、エリカは言った。
「どんな状況だったか、聞いてみたいものだな」
「そうね。今ならあの奥さんも、わけが分からなくて、ボーッとしてるかも」
エリカのスマホが鳴った。
「石坂沙代だ。――もしもし」
「エリカ、ごめんね。朝っぱらから」
「いいけど。何かあったの?」
と訊いたのは、沙代の声が上ずって、普通じゃなかったからだ。
「あのね、伯父さんが……」
「伯父さんって――行方不明の、三枝さんだっけ?」
「そう! 友哉伯父さんが見付かったの!」
「それは良かったじゃない。どこで見付かったの?」
エリカも、三枝友哉が姿を消した件で、沙代に連絡しようと思っていたところだ。
「それがね、小さな町で小学校の手伝いをしてたんですって。だけど、自分じゃどうしてそこにいるのか、何も憶えてないそうよ」
と、沙代は言った。
「それじゃ、どうして――」
「いつの間にか、その町の広場で寝てたんだって。で、自分の名前も生まれた所も憶えてなくて、仕方なく〈中村〉って名前で、ちょうど人手の足りなかった小学校で働くことになったって」
「でも、今は思い出したのね?」
「ほら、行方不明になってた二人が、突然遠い所で見付かったじゃない。あのニュースをTVで見てて、パッと思い出したそうよ」
「そう。――ともかく良かったね。その伯父さんに会える?」
「私は電話で話しただけ。でも今すぐ小学校をやめるわけにいかないって」
「なるほどね。どこの小学校? 私、行ってみるわ」
「エリカがどうして?」
「人間の瞬間移動とか、天狗にさらわれるとかいう話が好きなの」
と、エリカは言った。
電話を聞いていたクロロックは、
「三枝に会うのか」
と言った。
「うん。だって、どうやって姿を消したのか、もしかしたら、同じ霧が――」
「まあ、確かめてみろ。――それより、このマンションの外が大変なことになっとるぞ」
「どうして? ――そうか! 中野さんはここの住人だったよね」
「マスコミが押し寄せとるのだろうな」
「じゃ、ゆっくり話を聞くどころじゃないね」
エリカは大学に行くことにした。――一応。
「何があったのか……。さっぱり分かりません」
と、中野広吉は頼りなげに首を振って言った。
マスコミの騒ぎも、やっと一段落しつつあった。各TV局が「合同記者会見」を開くことになって、やはり中野が、「分かりません」をくり返したことで、みんなが飽き始めた。
特に、女子高校生と一緒だったというので、中野は逮捕されかねない状況だったが、当の女の子が、
「楽しい話のできるおじさんだった」
と証言して、中野は勤め先もクビにならずにすんだのである。
クロロックとエリカは、中野を招んで、話を聞くことになった。
「あそこにおられたんですか」
と、中野はお茶を飲んで、
「いや、会社を休んでまで、あの女の子と付き合ったのは、私の考え違いでした。しかし、あのゴンドラで何があったのか……」
「そのときの様子を話してくれんか」
と、クロロックが言った。
「はあ。――ゴンドラが一番高い所に来たときだったと思います。急に周囲が真っ白になり……。いくら何でもこんな所に雲はあるまいと思ったのですが。突然白い霧のようなものがゴンドラの中に流れ込んで来て、たちまち何も見えなくなってしまったのです。女の子は怯えて私にしがみついて来ました。でも――そのまま私は気が遠くなって何も分からなくなってしまったのです」
「それで、気が付いたときは――」
「水に浸かって、凍えそうになっていました。あの風呂場に女の子と二人でいたのです」
「その間のことは何も憶えていないのだな?」
「ええ。ただ――何だか長い夢を見ているようでした。暗いトンネルの中をひたすら歩き続けているかのようで……。でも、それ以上は何も……」
「そうか」
と、クロロックは肯いて、
「ともかく無事に戻って良かった」
「はあ。ただ――家内には冷たくされています。それも当然のことで、おとなしくしていますが」
「女子高校生の方は、あまりマスコミに追い回されずにすんだようだな」
「ええ。私もホッとしています。責任は私にありますから。――あの子が何ともなくて、本当に良かったです」
気弱な中年男ではあるが、自分が世間の関心を引き受けて、女の子をかばう形になった。
「あんたには、何か過去に忘れたい大きな出来事があったかな?」
と、クロロックが訊いた。
中野はギクリとした様子で、
「どうしてそんなことを……」
と、口ごもった。
「いや、あんたには、どこか暗い影が見てとれる。私は少々長生きしとるのでな。人間のそういう背負っているものが感じ取れるのだ」
クロロックの穏やかな口調は、中野の心にしみたようで、やがて深く息をつくと、
「実は……おっしゃる通りで。子供のころ――やっと十才になるかどうかというころでしたが、仲の良かった女の子がいまして。もちろん、まだ男も女もなく、家の裏山を駆け回っていました。ある日、急にその女の子が見えなくなり、私は捜し回ったのですが、見付かりませんでした。大方、家へ帰ってしまったのだろうと思い、そのまま夕食の時間になっていたので、私も家へ帰りました。ところが、夜になって、その子の親ごさんがやって来て、女の子がいないと……」
中野は辛そうな表情になると、
「私はそのときになって、その子がいなくなったことを話して――大騒ぎになったのです」
「で、その女の子は見付かったのかな?」
「はい。三日後に、茂みに覆われて見えなかった古い井戸に落ちて死んでいたのです。すぐに捜していれば、もしかすると助かったかも……」
「それがずっとあんたの心の傷となっているのだな」
「一緒に遊園地へ行った女の子は、あの十才のときの女の子と、どことなく似ていたのです。もちろん十才と十六才では大違いですが、ただ受ける印象が……」
「よく分かった」
クロロックは肯いて、
「もう忘れることだ。人は自分の意志でもなく、間違ったことをするものだ」
クロロックの言葉に、中野はやや安堵した様子で帰って行った。
「――お父さん、今の話って?」
「何かあるな、と分かっていただけだ」
「それが霧と何か関係が?」
「おそらくな。――ともかく無事で良かった」
「私、沙代の伯父さんという人に会って来るよ」
と、エリカは言った。
「もしかすると、同じように……」
「そうなんです」
三枝友哉は、エリカの質問に答えて、
「私もさっぱり分からなかったんです。どうして自分がこんな所にいるんだろう、と。――しかも、自分の名前や家のこともすっかり忘れていました」
「それが、あの二人が消えた事件で――」
「ええ。TVニュースで知って、フッと思い出したんです。自分の名前や、白い霧にまぎれてしまったことも」
今どき、こんな学校があるの? ――エリカがびっくりした、古い木造校舎。
そこの応接室で、エリカは三枝と会っていた。
行方不明になってから七年もたっているので、三枝も五十代。髪も白くなり、大分老けて見える。
「いや、妹の美佐江や沙代たちに、ずいぶん心配をかけてしまった。ここの仕事もあるので、少し落ちついたら会いに行こうと思っています」
と、三枝は恐縮している様子で言った。
「沙代ちゃんが心配してますから、一度電話でもしてあげて下さい」
と、エリカは言った。
「はい、もちろん」
と、三枝は肯いて、
「しかし、本当にふしぎなことがあるものですね」
と、息をついた。
すると、ドアが開いて、
「あなた、ここだったの」
と、中年の女性が顔を出して、
「お客様?」
「ああ、話はもうすんだ」
と、三枝は言った。
「神代さん、私が二年前から一緒に暮らしている敏子です」
「どうも……。中村敏子です」
中村は、三枝がここで過ごしている間、名のっていた姓だった。
「では、これで失礼します」
エリカは立ち上がった。
その古い小学校を出ると、エリカはバスで駅へ出ることにした。今日中に戻れるだろう。
駅前でバスを降りて、列車の時刻を確かめていると、
「失礼」
と、声をかけて来た男性がいた。
「ちょっとお話を伺いたい」
エリカは、男がポケットから覗かせた警察手帳を見て、面食らった。
【つづく】