迷子の迷子の吸血鬼ちゃん 最終回

心の迷子
「おじさん」
その声に、中野はハッとした。
朝、駅へ向かうバスの中だ。昔ほどではないものの、バスの中はかなり混雑している。
それが自分に呼びかけられたものか、中野には分からなかった。
もちろん、そんなはずはない。
こんな時間に、こんなバスの中に、あの子がいるわけは……。
しかし、立っている乗客の間をすり抜けて、中野のすぐそばへやって来たのは、「あの子」だった。
「おはよう」
と、明石さゆりは言った。
「君――大丈夫なのか、こんな所で」
と、中野が言ったのは、さゆりが制服は着ているものの、鞄を持っていなかったからだ。
「いいの」
と、さゆりは言って、
「どうしても、おじさんに会って、謝っとかなきゃ、って思ったから」
「謝るって……どうして?」
と話しながら、中野はバスの周囲の乗客たちに聞こえるのを気にして、
「ちょっと降りようか」
と言った。
二人は次のバス停で降りた。
出勤時で、乗って来る客は大勢いるが、降りる客はほとんどいない。
駅まではまだバス停四つある。
ただ、目立つ所にコーヒーショップのチェーン店があって、もう開いていた。
そこへ入って、二人でコーヒーを飲んだ。
「奥さんに叱られた?」
と、さゆりは訊いた。
「まあね。しかし当たり前だしな。それに、叱られるのには慣れてるよ」
「でも――会社の方は? クビになってないかと心配しちゃった」
「ありがとう」
と、中野は苦笑して、
「もともと、仕事のできる方じゃないしね。その代わり、うちの社は人手不足で、クビにできないんだ」
「じゃ、大丈夫だったのね! 良かった」
と、さゆりはホッとした様子だった。
少し間があって、さゆりが、
「それにしても……妙だったね。一体どうしてあんなことが?」
「僕にも分からないよ。あのとき、君は何か見るか聞くか、した?」
「ううん。何も。ただ暗い所に浮かんでる記憶しかない」
「そうか」
「おじさんは? 何かあのとき――」
「いや、僕も見てないよ」
と、中野は急いで首を振ったが、
「――本当はね」
と、声が小さくなった。
「何か分かったの?」
「いや、あのときは気付かなかった。だけど、クロロックさんと話した後になって、何だか思い出して来たんだ」
「私たちのこと、見かけた人ね? 同じマンションにいる」
「うん。ふしぎな人でね。見たところ、映画の吸血鬼みたいな人なんだけど、人の心の中を見透かしてるようなところがある」
「へえ。会ってみたいな、私」
と、さゆりは言った。
「いや、何も君がそこまで――」
「どうして? あのとき、何が起こったのか知りたいわ、私」
さゆりがそう言う気持ちも分かった。
中野は少し迷ったが、その場でクロロックに電話を入れてみた。
話を聞くと、クロロックは、
「分かった。その子にも会ってみたい」
と、即座に言った。
「それはどうも」
「今、二人でいるのだな? どこにいる?」
「はあ。今は出勤する途中でして……」
「早い方がいい。そちらへ行く。その近くに、林のような場所はないか」
二人の通話を聞いていたさゆりが、
「この近くに、公園があるわ」
と言った。
しかし――中野は本当に会社をクビになるかもしれない、と思った。
「こんな所があったなんて、知らなかったよ」
と、中野は言って、周りを見回した。
「そう? 池も木もあって、広いのよ。私、小学生のとき、遠足で来たことある」
と、さゆりは言った。
林というほどでもないが、木立ちが散歩道を囲んでいる。ベビーカーを押す母親がすれ違って行ったが、ヒョイと顔を出したのは赤ちゃんでなく、トイプードルの子犬だった。
二人は顔を見合わせて笑ってしまった……。
「――あ、クロロックさん」
少し先のベンチに、クロロックが腰かけていた。
「あの日のことが知りたいのだな」
と、クロロックはさゆりに言った。
「ええ、そうです」
「中野さんが知っておる」
「え? 私は一向に――」
「自覚していないだけだ。あんたは、自分の内に抱えた深い森の中へ入って行く必要がある」
「しかし、森などこんな所には――」
と言いかけて、中野はいつの間にか自分が暗い森の中に立っていることに気付いた。
「これは……」
どういうことですか、と訊こうとしたが、中野は一人だけだった。――クロロックは? さゆりは?
途方にくれていると、突然、小さな女の子の、「キャッキャ」という弾けるような笑い声が聞こえた。
あの笑い声は……。
木々の間を、小さな女の子がスカートをひるがえしながら駆けて来た。
あの子だ! ――中野は思い出した。
あの日、一緒に遊んでいた。名前も忘れてしまったが、
「マイちゃん」
と呼んでいた。
追いかけて来たのは――中野だった。十才のころ。息を切らして、
「ねえ、待ってよ、マイちゃん!」
と、足を止めた。
「遅いよ、コウちゃん」
そうだ。マイちゃんは中野広吉のことを、「コウちゃん」と呼んでいた。
「だって……。僕、走るの苦手なんだ」
「男の子のくせに。女の子より遅いなんて、だめね」
小柄で身軽な「マイ」はかけっこが速かった。それに比べると、中野は少し太っていたせいもあって、走るとすぐ息を切らしていたのだ。
「だめってことないだろ」
中野も少し腹を立てた。――女の子に馬鹿にされるなんて!
「じゃ、ここからうちまで走って帰ろ。どっちが速いか」
「そんなの――」
「いやならいいのよ。どうせ私に勝てないもんね」
「勝てるさ! 見てろよ」
と、中野はつい言ってしまった。
「じゃ、コウちゃん、先に走ってっていいよ。三つ数えてから、私、駆け出すから」
「よし。それじゃ行くぞ!」
森の中を、中野は駆け出した。しかし、十メートルも行かない内に、木の根っこにつまずいて転んでしまった。
これじゃ、すぐ追いつかれる!
中野は立ち上がると、いつも通っている小径から外れて、茂みの中をかき分けて行った。かなり近いはずだ。
しかし、そのとき、
「コウちゃん! ずるいよ!」
と、マイの声がした。
構うもんか! 先に着けばいいんだろ!
中野は体が大きい分、茂みの中を抜けて行くのは得意だった。マイは小柄なので先が見えにくいだろう。
少し行くと――後ろで、何か妙な音がした。板の割れるような音だった。
「え? 何だろ?」
と、一瞬足を止めた。
しかし、マイに追いつかれることの方が心配だった。もう一度、茂みをかき分けて駆け出す。
「――やった!」
マイの家の前まで、先に着いたのだった。
ところが、そこでバッタリと自分のお母さんと会ってしまった。
「何を息切らしてるの?」
と、お母さんが顔をしかめて、
「帰るわよ! もうじき夕ご飯よ」
と、中野の腕をつかんだ。
「うん……」
マイに「バイバイ」も言わずに帰るのはちょっと気になったが、どうせ明日も会うことだし。
「汗かいて! 帰ったら着替えなさい」
と、お母さんに言われた。
――そうだった。
家へ帰って、お風呂のぬるくなった水をかぶって汗を流し、着替えた。――そうする内に、マイのこと、あの森の中で聞いた妙な「音」のことなど忘れていった。
あのとき――足を止めて、
「どうしたの?」
と、声をかけていたら。
マイは助かったかもしれない。
でも、夜になって、マイがいなくなったと大騒ぎになったとき、中野はマイとかけっこしていたことも、あの音のことも言わなかった。
「忘れていたんだ」
と、中野は言った。
「本当だ。――すっかり忘れてた」
いつの間にか、中野は元の公園の中に戻っていた。
「クロロックさん……」
「あんたの隠れた記憶に触れてみただけだ」
と、クロロックは言った。
「私は――私があの子を死なせてしまったんですね」
中野は呆然と立ちつくした。
「それは誰にも分からんことだ。ただ、あんたの記憶の底に、ずっとその日のことが引っかかっていたのだな」
クロロックは、キョトンとしているさゆりの方へ目をやって、
「あの子と二人になったとき、記憶の中の女の子を呼びさましたのだ。そして、過去につながるトンネルに迷い込んで行った」
「でも、思い出しませんでした。私はひどい奴でした!」
「今は思い出しておる。それで充分だろう。亡くなった子の墓に手を合わせに行くのはどうかな」
「ええ。――行きます。今もあの家があるかどうか分かりませんが……。必ず見付け出します」
中野はさゆりの方へ、
「怖い思いをさせてしまったね」
と、詫びた。
「凄く珍しい経験したもの。少しも怒ってないよ」
さゆりは中野の手を握った。
クロロックとエリカは、中野とさゆりが手をつないで立ち去るのを見送った。
「次元を超えた、っていうこと?」
「時を超えた、と言うべきかな。しかし、どこへ出るか分からなかったろう。とんでもない砂漠の真ん中などでなくて良かった」
「冷めたお風呂の中っていうのも、あんまり楽しくなさそうだね」
と、エリカは言った。
「そういえば、お前が会って来た三枝という男はどうした?」
二人は帰り道、並んで歩きながら、話していた。
「会って来たけど……」
「どうした?」
「逮捕された」
クロロックがびっくりしていると、
「消えたわけじゃなかったの。沙代の家から現金を盗み、こっそり家を出て、他の商店からもお金を盗んで逃げてたんだって」
「何だ、ただの泥棒だったのか」
「そう。それで名前を変えて女の人と暮らしてたんだけど、あの中野さんたちの話をニュースで聞いて、自分もそれで記憶も失ってたことにしようと思い付いたんだって。警察の手が伸びてきてると分かってたらしい」
「消えてしまったことにして、またどこかへ逃げるつもりだったのかもしれんな」
「刑事さんの方が早かったよ」
と、エリカは言って、
「沙代はショックだろうな。三枝のこと、信じてたからね」
「人間は変わるものだ。いつまでも純粋なままではいられん」
「特にお金が絡むとね」
「そうだな」
と、クロロックは肯いて、
「時間や次元のトンネルよりも、金が一番強力なトンネルの入口かもしれん」
【おわり】