魔法使いのお留守番 第五話

シロガネの帰還
「ねぇ、クロ今日は帰ってくる?」
クロがモチヅキとともに島を離れてから、ヒマワリは毎日アオに尋ねた。
アオはその度に、
「もうしばらくかかるかもしれませんね」
とか、
「そろそろかもしれませんねぇ」
などと律儀に返答する。
この日も、朝食の席でヒマワリは焦れたように尋ねた。
「今日はクロ、帰ってくるかなぁ?」
ミルクをコップに注ぎながら、アオは「そうですねぇ」と答える。
「行きは船ですが、帰りは魔法の道を通ってくるはずです。モチヅキさんのおうちにさえ辿り着けば、すぐ帰ってくると思いますよ」
「うさぎの子ども、早く見せたいね」
「そうですね」
島に住んでいるうさぎが、一週間前に子どもを五羽産んだのだ。最初はどの子うさぎも毛が生えていないことにびっくりしたヒマワリだったが、今ではだんだんと産毛も生え、その様子を嬉しそうに毎日観察していた。小さくて可愛い子うさぎたちを、クロにも早く見せたくて仕方ない。
「チョコレート、ちゃんと買ってきてくれるかな」
「大丈夫ですよ。クロさん、そういうところ律儀です」
「あのチョコ美味しかったなぁ~。ねぇ、アオは本当に全然食べないの?」
「はい。俺の身体は、食物を摂取するようにはできていません」
「味は? わからないの?」
「味覚は備わっています。こうして料理などをしたり、毒を検知したりできるようにですね」
「お腹空かない?」
「俺のエネルギー源は別にあるので……」
突然アオの表情が、いつになくさっと強張った。
硬質な瞳が、見えないなにかを捉えたようだった。
「――来客? いや、違う……これは」
そう呟いて、ぱっと身を翻す。
「アオ? どうしたの?」
「ヒマワリさんはここにいてください! 絶対に出てこないように! いいですね?」
部屋を出て行くアオを、ヒマワリは思わず追いかけた。
「アオ!」
「来てはだめです、気配を悟られないように隠れて! 相手は五人……すでに島の中に……いいえ、もう城の前にいます!」
ヒマワリは驚いた。
アオは何者かの侵入を察知したらしい。島の周囲にかけられた魔法によって、訪問者は容易には中へ入ることができないはずだ。それが、すでに城の前にまでやってきているという。
(もしかして、モチヅキみたいに魔法を無効化できる人?)
ヒマワリは言いつけに背き、足音を立てないようにしてそっと玄関へと向かった。何かあった時、魔法が使える自分にもできることがあるかもしれない。
玄関の扉を叩く音が、鋭く響いた。
決して大きな音ではなかったが、それはなんだか妙に威圧的に轟き、ヒマワリを不安な気持ちにさせた。
アオが扉の前に立ち、警戒しながら、
「どちら様ですか」
と問う。
低く陰鬱な声が、扉の向こうで返答した。
「――我らは魔法の塔より遣わされた審問官である」
ヒマワリはぎくりとする。
(魔法の塔……?)
「扉を開けよ」
アオは用心しつつも、取っ手に手をかける。
扉の向こうに立っていたのは、異様な風体の五人組だった。
揃いの灰色のローブを纏った彼らは、石膏像のようにこちらもお揃いの表情のない顔を並べている。
「シロガネ殿へお取次ぎを」
「シロガネは留守にしています」
勝手に島に入り込んだ彼らに対し、アオの声はいつになく険しい。
ヒマワリは彼らをこっそりと観察した。噂に聞く魔法の塔が、実体として目の前に現れたのだ。気にならないはずがない。
五人組のローブの胸元には、同じ形の真鍮のブローチが留められていた。
その意匠は、どこかで見たことがあるものだ。
(魔法書によく出てくるやつだ)
中心に杖が一本、その背後には太陽が、そしてその太陽の放つ光を囲むように一頭の怪物が、己の尾を嚙んで環を作っている。魔女の紋章だ。ただ、知っている紋章とは少し違って、その中央には天秤の意匠が加えられている。
五人の中央に立つ、ひっつめ髪で細面の男がわずかに眉を寄せ、薄い唇を開いた。
「では、やはりヒムカ国にいるのか」
「ヒムカ国?」
「現在ヒムカ国において、魔法使いシロガネの捕縛命令が出されている。魔法の塔へも知らせがあった。事実を確認するため、我らが遣わされたのだ」
「シロガネの、捕縛命令ですって?」
アオが困惑したように声を上げる。
「ここひと月ほどの間、シロガネ殿はヒムカ国の都において数々の問題を起こしている。だが先日、忽然と姿を消した」
「シロガネが……?」
アオが微かに、揺れ始める。
「シロガネが、戻ってきたんですか?」
その声音には、驚きとともに喜びが滲んでいた。
対照的に、ヒマワリは密やかに息を呑んだ。
(シロガネが、戻ってきた……?)
死んだはずのシロガネ。
本当に、戻ってきたのか。
「シロガネ殿が、使用人と思しき男とともに行動していることもわかっている。黒髪の男だ。心当たりがあるな?」
アオは驚いて、言葉が出ないようだった。
黒髪の男とは、クロのことか。
クロは今、モチヅキと一緒にいるはずではないのか。
(じゃあそのヒムカ国っていう国に、モチヅキの家があるってこと? そこに、シロガネもいる?)
ヒマワリは、弾かれたように駆け出した。
裏口に回り、真っ直ぐに古井戸へと向かう。
だめだ、と思った。
(クロが、シロガネに会ったら……)
シロガネがこの島へ、帰ってきてしまう。
アオもクロも、シロガネに取られてしまう。
(シロガネが……この島へ戻ってくる前に)
ヒマワリは、古井戸の魔法の道へと飛びこんだ。
「行き先、ヒムカ国の都!」
目の前に光が溢れ、包み込まれていく。
(シロガネを――殺さなくちゃ)
ヒマワリの姿は、島から完全に消え去った。
「魔法使いシロガネには、殺人の疑いがかかっている」
イチイと名乗ったヒムカ国の将軍は、クロにそう告げた。
信じがたい罪状に、クロは一瞬言葉を失った。
「は……?」
「一か月前、シロガネは突然我が国に現れた。そして不老不死の秘薬を、貴族や裕福な商人たちに売り始めたのだ。やがてシロガネは、ある貴族の屋敷に招かれそこに住み着いていた。当然王宮にもその噂は届き、シロガネを陛下に謁見させ、薬を献上させよとの声が高まってな。だが、シロガネはこれを拒否した。これだけでも不敬罪にあたるのだが、三日前に事が起きた。シロガネが滞在していた屋敷の主が、明らかに他殺の状態で死亡しているのが見つかったのだ。使用人の話では、その前日にシロガネが主と言い争っていたという。しかもその日以来、シロガネは忽然と姿を消してしまった」
「シロガネがその貴族を殺して、逃げたっていうのか?」
「シロガネの傍にはいつも従者がついていたという。なんでも、黒髪の若い男だと……」
こちらにいくらか疑いの目を向けるイチイを、クロはぎろりと睨みつけた。
「ああ?」
イチイは、そのひと睨みにぶるりと震えて後退った。
一国の将軍らしく堂々たる偉丈夫であるイチイだが、竜となった彼の恐ろしさを体感しているので、強く出られないらしい。
「い、いや……その男も、シロガネとともに行方不明だ。魔法の塔にも問い合わせて、居場所を探しているところで――」
突然胸倉を摑まれ、イチイは声を詰まらせた。
その足が、地面からゆっくりと離れていく。周囲の兵たちがざわめいた。
自分より一回り大きな体の将軍――しかも重量のある甲冑に身を包んでいる――を片手で持ち上げながら、クロは切り裂きそうな目を向けた。人型をとっている時、竜であるクロは通常の人間よりも腕力が数倍強い。
「その貴族の屋敷ってのは、どこだ?」
青ざめたイチイは、がくがくと震えていた。
(シロガネが、戻ってきた……?)
ざわざわと胸が震える。
――戻ってくるよ。
懐かしい声。シロガネは約束通り、戻ってきたのだ。
だが、それなら何故、自分たちのいる島へ帰ってこないのか。
しかも、不老不死の秘薬を売る、人を殺して逃亡する――聞いた話はいずれも、クロの知るシロガネという男が取るとは思えない行動だ。
(戻ってきたシロガネが、以前のシロガネと同じとは、限らないのかもしれない)
シロガネは死んだ。
それが何らかの方法で蘇ったというなら、かつての彼とは異なる存在となっていても不思議ではない。
もしや、アオとクロのことを覚えていない、ということもあるのだろうか。だから島には戻ってこなかったのだろうか。
(確かめれば、わかる)
クロは屋敷の場所を聞き出すと、イチイを放り出してその場を後にした。
主を失ったその屋敷では、粛々と葬儀の準備が進められていた。
大層古く歴史を刻んできたであろう館ではあったが、寂れた門構えといい、あちこち傷んで補修もされていない様子といい、あまり力のある貴族ではなかったのだろう。
忙しく動き回る使用人たちは、主を失ったばかりの悲しみに包まれているというよりは、困惑と不安を抱えているようだった。これから一体自分たちはどうなるのか、と暗い顔をしている。心から主に忠誠を捧げていた者など、恐らくいない。
クロは彼らに一人ずつ声をかけ、金を渡して、ここに滞在していたというシロガネについて話を聞いて回った。
主が替われば職を失う可能性もある彼らは、クロの差し出す金を喜んで受け取った。使用人たちというのは、どこの世界も抜け目がないものだ。
「ええ、噂通りの銀髪の御仁でした。もうかなりのお歳のはずなのに、二十代くらいにしか見えませんでしたね。あれが不老不死の大魔法使いかと、私たちの間でもその話題でもちきりでしたよ」
「たまに、私たちにも魔法を見せてくださいました。さすが大魔法使い様、そりゃあ見事なもので。とっても茶目っ気のある魔法で、楽しかったですよ。旦那様の馬をカエルに変えてみたり、庭一面に花を咲かせたり……」
「面白い方でしたよ。旦那様がシロガネ様をもてなすパーティーを何度も開かれたんですが、いつも皆の輪の中心でね、人を楽しませるのが得意な方で。特に御婦人方に取り囲まれてましたねぇ。ここだけの話、シロガネ様がとある貴婦人と二人で庭に消えていくのを、私見たんですよ……」
「あの従者は、正直いけ好かなかったね。シロガネ様が旦那様に気に入られているのを笠に着て、俺たちにも偉そうで」
シロガネと一緒にいた男とは、一体誰なのだろう。
(なんで俺やアオじゃなく、ほかのやつといるんだよ)
それが一番、気に食わない。
「シロガネやその従者と、特に親しくしていた人などはいなかったんですか?」
そう尋ねると、使用人たちは首を横に振った。
「パーティーの時以外、シロガネ様は大抵部屋に籠もってましたからねぇ。何かの研究をなさっているとかで」
そんな中、従者を夜によく見かけた、と語る下僕を見つけた。
「あの従者は夜になると、いつも外に遊びに出かけてたよ」
「どこへ行っていたか、わかりますか?」
「そこの角を曲がって坂を下っていくと、ミクリ通りに出る。おおかた、そこに気に入った店があったんだろ」
あんたも行ってみたら、と下僕は含みのある笑いを浮かべた。
手がかりを求めて、話に出たミクリ通りへと向かう。
昼間だというのに妙に薄暗く、閑散としていた。ずらりと並んだ店は、まだどこも開いていない。
二階の窓がひとつ開いて、女が顔を出した。ひどく薄着で、胸元も露なしどけない恰好だ。気だるげに欠伸をしていた女は、クロに気がつくと、あだっぽく微笑み誘うように手を振った。どう見ても素人ではない。
それでクロは、従者が夜な夜な遊びに行っていたという意味を理解した。
(このあたりは、どれも娼館か)
さらに進み、一軒の酒場を見つけて中に声をかけた。不愛想な店主が顔を出し、「開けるのは日が暮れてからだよ」と迷惑そうに追い払おうとする。
「少し聞きたいんだが、このあたりで魔法使いシロガネとその従者を見たことはあるか?」
「シロガネ? ああ、追われてるらしいな。あんた、兵士かい? 面倒はごめんだよ」
「いいや。俺の主が、不老不死の薬を欲しがってるんだ。ところが魔法使いは姿を消したっていうじゃないか。どこへ行ったのか探しているんだ。知っていることがあれば、なんでもいいから教えてほしい」
いくらか金を握らせると、店主は少し考えるようにして口を開いた。
「従者のほうは、よく見かけた。うちでも何度か飲んでいったよ」
「その従者が、誰かと会っている様子は?」
「俺はシロガネの従者だ、っていつも自慢していたから、自然と周りに人だかりができていたけどね」
「特に懇意にしている相手は、いなかったか?」
「そりゃあ、いたさ」
「誰だ?」
店主は可笑しそうに笑った。
「このあたりで仲良くするなら、女に決まってるだろ。この先にある『女神の館』って娼館に、売れっ子がいてね。一番高いその女を、金にあかせて独り占めしてるって、散々自慢してた。うちで飲んだ後、その足で店にしけこんでたよ」
それ以上何の情報も得られず、クロは酒場を後にした。
(つまりそいつは、夜の街で酒を飲んでは己の自慢話をして優越感に浸り、あとは女と遊んでいただけってことか……)
シロガネの居場所を知りたいというのに、何の手がかりにもならない情報だった、とクロは苛々と髪を搔きまわした。
それでも念のため、『女神の館』へと足を向けた。毎日のようにともに夜を過ごしたであろう娼婦に対し、何がしかシロガネのことを漏らしていないとも限らない。
この時間、当然店はまだ閉まっていたので裏口に回った。うらびれた細い路地に面した扉を叩くと、女中らしき女が顔を覗かせる。
「主人はいるか」
「……どちら様で?」
怪訝そうな女中の後ろを、いかにも娼婦という風情の女が横切っていった。薄いガウンを羽織っただけの恰好で、目元のほくろが艶っぽい。彼女はクロに気づくと、つと足を止めた。
「あらぁ……」
娼婦はわずかに息を呑んだ。
上から下までクロを眺めまわすと、うふふと笑う。こちらへやってきたと思うと、女中を「下がってな」と邪魔そうに追い立てた。
「まだ店は開いてないのよ。でもお兄さんなら、特別に私の部屋に入れてあげてもいいわぁ」
しなだれかかってきた女を、クロは鬱陶しそうに引き剝がす。
「主人に話を聞きたいだけだ」
「あら、どんなお話? もしかして、誰かを身請けしたいとか?」
「ここに最近、魔法使いシロガネの従者がこの店に通っていたと聞いた。見たことは?」
「どうかしら……」
女の白い手が、意味ありげにクロの肩にかかる。そのまま、つつ、と首筋を撫でた。
「部屋で二人きりになったら、思い出すかも」
手を引こうとするので、クロは舌打ちする。
「おい――」
「何してんだい! 勝手に客をとるんじゃないよ!」
奥から出てきた人影が、娼婦を叱りつけた。
この店の女将だろう。かつては自身も娼婦であったことは間違いなく、歳を取ってもなお退廃的な色香を漂わせている中年の女だった。ただしその身体はでっぷりと太って、色気より重みを感じさせる。
「お話し相手をしていただけよう」
「下がってな!」
「お兄さぁん、また遊びに来てね」
娼婦は残念そうにクロに流し目を送ってから、言われた通りに姿を消した。
「まだ営業前だよ。夜に来ておくれ」
「客じゃない。人を探してるんだ。魔法使いシロガネの従者が、この店に来ていただろう。どの女が相手を?」
「女が欲しいなら、開店してから金を持っておいで」
「話が聞きたいだけだ」
女将は含みのある笑みを浮かべ、わからない子どもに言い聞かせるようにむっちりとした腕を組む。
「あのねぇ、兄さん。うちの子たちの身体は、ただじゃないんだよ。大切な商品だ。話を聞くだけだろうが、服を脱がせようが、それはお客の自由だ。ただしそれは、店が開いてる時間に、金を払えばの話なんだよ。――さぁ、出直してきな」
容赦なくぴしゃりと追い出され、クロはため息をついた。揉めて目立つのも本意ではないので、仕方なく、日が暮れるのを待つことにする。
やがて夕闇が迫り、『女神の館』の入り口に明かりが灯された頃、今度は正面から客として足を踏み入れた。
「これで文句はないだろ」
むすっとして金を出すクロに、迎えた女将は可笑しそうに笑った。しかしこちらの求めるものはきちんと覚えていたようで、
「うちの一番の売れっ子がご所望ね?」
と部屋に案内してくれた。かなり多めに金を積んだのも、効果があったに違いない。
通されたのは、ベッドと椅子が置かれただけの小さな部屋だった。目的の明確な場所である。
しばらく待つと、ナナという娼婦が現れた。売れっ子というのも頷ける美人で、その豊満な身体もさぞ男を満たすだろうと思われたが、服を脱がそうと伸びてきた手をクロは容赦なく払った。
「最初に言っておくが、俺は話が聞きたいだけだ。すぐに帰る」
女は目を丸くしたが、そういう遊びなのかと思ったのか、笑って「いいわ」とベッドにしどけなく腰掛けた。
シロガネの従者のことを尋ねると、ナナは誘うように足を組んで、クロに微笑みかけた。
「ああ、あの人ね。この間まで、毎日のように来てたわ。金払いのいい客だったけど、それだけよ」
「行きそうな場所に心当たりは?」
「そんなの、わかんないわ」
肩を竦めて、ベッドの脇にある香炉に火をつける。甘い香りが、狭い部屋の中に一気に溢れて広がった。
「じゃあ何か、屋敷の主について、あるいは魔法使いについて話していたことはないか?」
「魔法使い……ああ、シロガネ様ね。私もシロガネ様に不老不死の薬が欲しいって頼んでみたけど、だめだったわ。とても数が少なくて、ものすごーく高いんですって」
クロは思わず身を乗り出す。
「シロガネに会ったのか!?」
「一度だけね。二人で連れ立ってきて、女を四人指名して朝までお楽しみだったわよ。大魔法使いといっても、ただの男よねぇ」
ナナは長い金髪を搔き上げながら、くすくすと愉快そうに肩を揺らす。
(シロガネが娼婦を……?)
いつも島に籠もっていたから女っ気の欠片もなかったため、ひどく意外に思えた。それでも時折一人で大陸へ出かけることはあったから、クロが知らないだけで、もしかしたらこうした場所で遊んでいたこともあったのかもしれない。
「どんなふうに遊んでいったか、教えてあげましょうか」
女がにじり寄ってきて、クロの胸元に手を添わせた。クロは顔をしかめ、両手を摑んで引き剝がす。
「二人はどんなことを話してた?」
残念そうな女の目には、ただ職業柄誘惑してやろうという以外の、確かな陶酔と情欲の色が浮かんでいる。
竜族が人型を取る時、多くの人間はその美しさに惑わされたという。
クロは自分の姿が女を惑わしていると自覚しながらも、それが厭わしくて仕方がなかった。
「そうねぇ……」
うっとりとクロを見返しながら、ナナは口を開く。
「次はどこへ行こうか、って話してたけど。そう長くここにいるつもりはなかったみたいね」
「具体的に、どこへ行くかは?」
「さぁ、決まってはいなかったみたいよ。とにかくずっと退屈な島に籠もっていたから、しばらく羽を伸ばしたいってぼやいてた」
「…………」
「ねぇ、あとは服を脱いでお話ししない……?」
迫ってきた女の赤い唇を避け、クロは身を翻した。
無言で部屋を出ていくクロに、ナナは「本当にもう帰るの?」と追いすがったが、クロはすげなく彼女の手を振り払った。
(退屈な島……)
娼館を飛び出して路地を足早に抜けながら、クロは鋭く舌打ちした。
シロガネは、戻ってきたら真っ先に自分たちのもとへやってくるものだと思っていた。そうしてまた、ともに暮らすのだと。
「……シロガネの馬鹿野郎」
(あんな女たちと遊んでいるほうがいいのかよ。くそっ、誰がお前の留守を守ってやってると思ってんだ!)
今度会ったら、絶対にぶん殴ってやろうと思う。
シロガネはもうとっくに、この国を出たのかもしれなかった。魔法を使えば一瞬だろう。
(どこに行ったんだ、くそっ……)
ふと、クロは足を止めた。
警戒し、わずかに身を緊張させる。
誰かに見られている。
クロはポケットに手を突っ込み、何気ない様子を装って歩き始めた。すると少し間隔を開けて、誰かが後をついてくるのを感じる。
間違いなく、つけられている。
発せられている剣呑な雰囲気は、明らかにこちらに対して害意を抱いていることが窺えた。
徐々に足音が近づいてくる。物盗りか、とわずかに身構えた時、突然目の前に人影が現れた。
途端に見えない力に翻弄され、クロの身体は宙を舞った。壁に背中から叩きつけられ、クロは息を詰める。
(魔法……!)
倒れこんだクロは相手の顔を見ようとしたが、後ろから強い力で押さえつけられた。今度は魔法ではなく、武骨な手だ。
ぐっと顎を摑まれると、クロを覗き込んだ男が声を上げた。
「やっぱりだ、こいつ、終島にいたあの男だ!」
クロを押さえつけているのは、黒髪の若い男。
そしてクロに魔法を向けた人影が、じっと彼を見下ろしている。大きなフード付きのローブに身を包んだ魔法使いと思しき人物は、低い声で問いかけた。
「――シロガネの使用人だな?」
クロは、シロガネの使用人と呼ばれるのが嫌いである。一緒に暮らしてはいたが、決してシロガネに従属していたわけではないし、仕えてもいない。
「……雇われた覚えはねぇ」
「絶対そうだ。忘れねぇよ、この顔! 馬鹿にしたみたいにこっちを見下ろして、『魔法使いは留守にしております』の一点張りだったやつだ!」
男が、吐き捨てるように言った。
その口ぶりからするに、どうやら終島に来たことがあるらしい。しかし、迷惑な来訪者たちの顔などいちいち覚えていないので、記憶にまったくない。
「シロガネはどこだ?」
魔法使いが、クロに問いかける。
顔の見えない相手を睨みつけたまま、クロは口を噤んだ。
(何者だ? どうして魔法使いがシロガネを探す?)
「シロガネの居場所を教えろ。おとなしくしていれば、これ以上傷つけるつもりはない」
「……シロガネを見つけて、どうするつもりだ。捕らえて罪に問うのか?」
すると男は、とんでもないというように両手を広げた。
「まさか。俺は、彼の理解者だよ」
「理解者?」
「不老不死を追い求めた彼の気持ちが、俺にはわかる。俺は誰より、彼のよきパートナーとなれるんだ。ところが、彼はなかなか人前に姿を見せない。島を訪ねた者たちも門前払い……彼の隣に並ぶには、普通のやり方じゃだめなんだ。だがこれが彼が課す試練だというなら、俺はそれを乗り越えよう。彼に会いたいんだよ。だから協力してほしい。――シロガネはどこにいる?」
クロを押さえ込む男の手が、首にぎりぎりと食い込んだ。
何が協力だ、とクロは勢いよく身を捻り、男に肘打ちを喰らわせてやる。相手が怯んだ隙に体勢を入れ替え、さらに一発殴りつけた。男は仰け反って倒れこむ。
魔法使いが、さっと杖をクロへと向けた。突然、クロの身体は自由が利かなくなり、がくりと膝をついてしまう。
(くそ、魔法使いが相手じゃ分が悪い……)
人間の姿では限界があった。しかし、ここで竜に変化すれば人目につきすぎる。不特定多数に目撃されれば、呪いをかけて口を封じるのも不可能だ。
「シロガネに会いたいんだ。俺を、シロガネのところへ連れていってくれればいい」
「お前みたいな下の下の魔法使いに、シロガネが会うもんかよ」
顔めがけて、思い切り蹴りつけられた。
口の中に血の味が滲む。
こういう時に魔法ではなく自分の手足を使うあたりが、この魔法使いの品性の程度を感じさせた。
黒髪の男が恨めし気に起き上がって、動けないクロをさらに蹴りつけた。いきりたって興奮している男を宥めて、魔法使いはクロに語りかけた。
「気は変わったか?」
「…………」
クロは相手を睨んだまま、何も答えない。
魔法使いは小さく舌打ちして、傍らの男に言った。
「……まぁいい。こいつを餌に使おう」
「餌?」
「こいつの命と引き換えに、シロガネをおびき出すのさ」
クロは思わず声を上げた。
「はぁ? ふざけんな!」
「シロガネは、必ず近くにいるはずだ。絶対に来る」
冗談じゃない、とクロは毒づいた。
自分が捕らわれたことでシロガネが誘い出されるなんて、さらに言えば、それで万が一シロガネに助け出されるなんてみっともない真似は、絶対にごめんだった。
「くっそ、絶対嫌だ! そんなことになったら、あいつがどんだけドヤ顔すると思ってんだ! 向こう何年もそのネタでいじられる……!」
クロはじたばたと身を捩ったが、手も足も自分の意志では動かない。
魔法使いは「こいつを運べ」と指示すると、その場から立ち去ろうとする。黒髪の男が、クロに手をかけた。
ところが、男の身体は突然突風にあおられたように、背後の壁に向けて吹き飛んだ。
「!?」
壁に跳ね返り、血を吐いて倒れる。魔法使いはぎょっとして後退った。
身体が動かず首だけめぐらせたクロは、見慣れた小さな人影が路地の向こうに立っていることに気がついた。
金の髪の少年が、いつになく硬く暗い表情を浮かべている。
底冷えするような冷酷な目で、ヒマワリは魔法使いを睨みつけた。チカチカとした光の粒がその身体の周囲に溢れ出し、弾けては瞬く。彼の身の内に滾った魔力が、目に見える形で噴き出しているのだ。金の髪がその光を受けて、一層輝きを放ち生き物のごとく揺れている。
悲鳴が上がった。魔法使いの右腕が、突如として粘土のごとくぐにゃりとねじ曲がったのだ。彼は杖を取り落とし、絶叫して痛みに悶絶する。
すると今度は、その身体がぐんぐんと宙へと浮きあがっていった。悲鳴を上げながら一気に突き上げられたと思うと、今度は急に引き寄せられるように恐ろしいスピードで落下した。轟音を上げて地面に叩きつけられた身体が、毬のように反動で跳ね上がる。
魔法使いは勢いのままごろごろと転がり、そのまま動かなくなった。
人気のない路地は元通り、暗がりの中でしんと静まり返った。
「クロ!」
駆け寄ってきたヒマワリが、クロに飛びつく。
小さな手が触れた途端、見えない鎖で縛められていた身体が、ふっと楽になる。かけられていた魔法が解けたのだ。
確かめるように手足を動かし、自由になった身体を起こす。困惑しながら、自分に抱きついたヒマワリを見下ろした。
「お前なんでここに……アオは? 一緒か?」
ヒマワリはクロにぎゅっとしがみついたまま、小さく頭を振った。
先ほど魔法使いが落下した地点は、穿たれたように深い窪みができていた。血まみれの二人は、壊れた人形のように倒れ伏したままだ。
クロはその惨状を改めて確認し、ぐっと息を詰めた。
(ヒマワリがやったのか? 今のを、全部?)
ひやりとした。
ついこの間魔法を覚えたばかり、しかも独学でまともに修業もしていない子どもに、これほどのことができるのか。
生まれ持った才覚なのか、あるいはモチヅキが魔法についての知識や情報を与えたことで理解度が深まり、能力がさらに引き上げられたということかもしれない。
「ねぇ、あれがシロガネ?」
ヒマワリの視線の先には、先ほど彼が容赦なくぶちのめした魔法使いが襤褸雑巾のように転がっている。仰向けになって白目を剝いている彼は、被っていたフードが外れて顔が露になっていた。
零れ落ちるように地面に散った髪は、銀髪。
だが、キラキラしたものに目がないクロには一目でわかる。それは、明らかに染めたものであって、地毛ではなかった。
「違う。全然知らないやつ」
「じゃあ、シロガネは? この国にいるんでしょ?」
「お前、なんでそんなこと知ってんだ?」
「島に来た魔法の塔のシンモンカン、って人たちが言ってた。この国で、シロガネが悪さしてるって」
「審問官だと……?」
審問官は、魔法の塔に所属する職員のことだ。彼らもまた魔法使いであり、同族である魔法使いを審議し裁く、特殊な権限を持つ連中である。
「すごく怖い感じの人たち。いきなり玄関まで入って来たんだよ」
「シロガネを裁くつもりなのか?」
「事実を確認するためだ、って。それで、クロがシロガネと一緒にいるって、そいつらが話しているのを聞いたんだ。だから、だから僕……」
ヒマワリは口籠もって俯く。
「俺が一緒?」
「使用人の、黒髪の男が一緒だって言ってた」
クロは呻いた。
「俺じゃねぇよ! くっそ、紛らわしいことしやがって! 髪の色ひとつで勘違いされたらたまったもんじゃ……」
言いながらふと、倒れている二人の姿に目が吸い寄せられた。
(銀髪の魔法使いに、黒髪の従者……?)
クロは銀髪の男に近づくと、「おい」と声をかけた。しかし反応はない。
仕方なく、肩に手をかけ身体を揺すった。
「おい、起きろ」
「……うう……」
「起きろ!」
面倒くさくなり、胸倉を摑み上げ思い切り頰を引っぱたいてやる。
「おいこら! この国に現れた大魔法使いシロガネってのは、もしかしてお前のことか!?」
その後、意識が朦朧とする男をなんとか喋らせて聞き取った内容は、こうである。
どうにかして不老不死の秘術を手に入れ、自らも名を挙げたいと野心を滾らせていたこの魔法使いは、以前終島へ行ったことがあるという傭兵崩れの男と偶然出会い、手を組んだ。
シロガネは島から滅多に出歩かず姿も見せないため、近づくことは容易ではない。そう聞いた彼は、逆にシロガネをおびき出すことを考えたのだった。
自ら髪を銀髪に染めてシロガネを騙り、適当に煎じた薬を不老不死の秘薬と偽って金持ちたちに売り捌く。そのうちに、薬が偽物だということは必ず発覚するだろう。そうしてこの噂が広まれば、信用を失い不利益を被る本物のシロガネが黙ってはいないはず、必ず姿を現すだろうと踏んだのだ。
計画は順調に進んだ。シロガネの顔を知る者は、滅多にいない。それらしく振る舞えば、皆あっけないほど簡単に大魔法使いと信じこんだという。
何より、不老不死の秘薬という魅惑の代物に、誰もが惑わされたのだ。
そうして人々を騙し莫大な金品を受け取るようになると、二人は有頂天になった。それまで見たこともないような大金だ。もはや本来の目的は、だいぶ霞んできていた。
だがそんな中、問題が起きた。
彼をシロガネだと信じて屋敷に招いた例の貴族が、二人がこの企てについて話しているのを偶然聞いてしまったのだ。自分が招き入れたシロガネが偽者と知った彼は、二人を責め立て、すぐに訴え出ようとした。
二人は仕方なくその口を封じ、慌てて身を隠した。
彼らの逃亡に協力したのは、娼婦の女であった。どうやら先ほどクロが訪れた娼館にその女はいたらしく――恐らく、昼間に出会った目元にほくろのある娼婦だ――彼らについて話を聞きに来た怪しい男がいる、と知らされたという。
何者なのかと警戒し密かにクロの後をつけたところ、それが終島にいた男だと気づいた――と、そういうことらしい。
「何が大魔法使いだ……不老不死の魔法を編み出したなら、その知識を広く共有すべきじゃないか。だがやつは独占して手放そうとしない。どうせ裏で、一部の金持ちに高値で売りつけているに決まってる……!」
魔法使いは血反吐を吐きながら、憎々し気に喚いた。
「あーそうかよ」
クロはさっきやられた仕返しに、思い切り顔を蹴りつけてやった。
偽シロガネはそのまま、再び意識を失った。
シロガネ捜索の指揮を執っていたイチイは、意識を失った血まみれの男二人を引きずって突然現れたクロに驚愕した。
この二人こそが件の殺人事件の犯人であり、シロガネを騙った詐欺師であると説明すると、彼は首を捻った。
「偽者だと? では、本物のシロガネではないというのか」
「似ても似つかねぇな。髪は染めてるだけだ。水ぶっかけて洗ってみろよ」
「しかし、本当にこの者たちが犯人に間違いないのか?」
「犯行は自白した。面は屋敷の使用人に確認すればいい」
イチイはすぐに使用人たちを呼びにやって、「確かにお屋敷に滞在していたシロガネ様とその従者です」という証言を得た。
「こいつは魔法使いだから、魔法の塔に照会すれば身許は割れるだろ」
「では、シロガネが売り捌いていたという不老不死の秘薬というのは」
「適当に煎じたものらしいから、飲まないほうがいいぜ」
「なんと……買い取った者たちにすぐ注意喚起しなければ」
部下に指示を出したイチイは、いまだ恐々とした面持ちながらもクロに向き合った。
「感謝する、ええと……」
何と呼べばいいのか、と戸惑っているらしい。
そういえば、名前を名乗ったことがなかった。
「……クロだ」
名乗る度に、犬のようだと思われる気がして少し躊躇う。
しかしイチイは、笑うことはなかった。
「クロ殿。この件は陛下に報告し、必ず恩賞を――」
「やめろ。俺の存在は絶対に口にするな。こいつらはあんたが捕まえたことにしておけ」
「しかし、それでは」
「あんた、子どもはいるのか?」
「む? ああ、息子と娘がいるが?」
何故そんなことを、と言いたげだ。
「じゃあ、お前が俺のことを誰かに告げたら、その時はお前の子どもたちが死ぬことになる。――わかったな?」
呪いの言葉を吐く。
将軍はぞっとしたように青ざめた。
「子どもは、関係ないだろう……!」
「じゃあな」
「ま、待ってくれ!」
去ろうとするクロに追いすがって、イチイは尋ねた。
「その……あの方は……まだ島に?」
ぎろりとクロが睨みつけると、彼は固まって震えた。
「お前の探す相手は死んだ。――だろう?」
こくこくと頷く将軍を置いて、クロはその場を離れた。
少し離れた建物の陰で待たせていたヒマワリは、クロの姿を見るとぱっと表情を明るくした。念のため頭からクロの上着を被せて、顔を隠してある。
「帰るぞ」
「うん!」
駆け寄ってきて、嬉しそうにぎゅっとクロの手を握る。
クロはため息をついた。今ここにヒマワリがいると知ったら、あの将軍はどんな顔をするだろう。
(早くこんな国、ずらかろう)
「もう二度とこんなことするんじゃねぇぞ。黙って島から出るな。今頃アオのやつ、相当心配してるんじゃねーか」
「うん、ごめんなさい」
「それと、外では絶対に魔法は使うな」
魔法使いの血筋とわかれば、そこから遡って身許が割れる可能性もある。何より、誰の弟子にもならず放置されている魔法使いの存在が知れれば、魔法の塔が黙っていないだろう。
「誰かに見られたら、もうあの島にはいられなくなるかもしれないぞ」
ヒマワリはさっと顔色を変えた。
「やだ!」
「じゃあ、約束しろ。外で魔法は使わないな?」
「うん」
「代わりに島の中に限っては、ある程度魔法を使うことを許す」
「! 本当?」
「ただし、俺かアオの目の前でだけだ。いいな?」
無理に抑え込もうとしても、もはや勝手に覚えて使い始めるに違いなかった。それならば、目の届く場所でやらせるほうがマシだ。
「うん!」
(いつまでもこいつを島の中に隠しておくことは、できないかもしれない……)
シロガネが帰ってくれば、ヒマワリを弟子にしてはどうかと頼むつもりだった。しかし、それもいつになるかわからない。
魔法使いには魔法使いの世界がある。その枠組みから外れれば、生きにくいに違いない。なにより、独学で魔法を振り回し続ければどんな危険があるかわからない。教え導く者は、必ず必要になるだろう。
ヒマワリはうきうきとした足取りで、クロの腕にぶら下がるように歩いていた。なんの躊躇もなく人を二人血祭りにあげた冷酷さが嘘だったように、その姿は子どもらしくあどけない。
「ねぇ、モチヅキ大丈夫だった?」
「待遇は改善されたはずだ。もう肩身の狭い思いはしないと思うぜ」
「本当!? よかったー」
ほっとしたように、ヒマワリが眉を下げる。
こうやって人を思いやるところは、ちゃんとあるのだ。そのことに、クロは密かに安堵する。
人を傷つける魔法など、できる限り使ってほしくはなかった。
「アオにお土産買って帰ろうよ」
「土産なぁ……」
「あ、チョコは!? 僕のチョコ!」
すっかり忘れていた。クロは顔をしかめる。
「しっかり覚えてんだな、そういうのは。わかったよ、買いに行くか」
「あのね、僕ね、キャラメルのと、苺のがいい!」
「本屋にも寄ってくか。アオには売れ筋の小説をいくつか見繕ってけば、喜ぶだろ」
買い物中、ヒマワリはいつになく上機嫌であった。
本屋では率先してアオに買っていく本を選び、ちゃっかりと自分用の絵本もその間に滑り込ませた。件のチョコレート店には想像以上の種類が溢れていて、ヒマワリはあれもこれもと散々悩んで、十種類の味が楽しめるという触れ込みの詰め合わせの大箱と、すぐに食べる用にとばら売りのチョコレートをいくつか籠に入れる。
店を出るとヒマワリは早速、赤い包み紙を開いて苺味のチョコレートを食べ始めた。
「食べ過ぎるなよ。夕飯入らなくなるぞ」
「クロ、あれすごいよ!」
こちらの話を聞いているのかいないのか、いきなり駆け出す。
目の前には石畳の広場が広がっていて、巨大な噴水が盛大に水しぶきを上げていた。周囲では人々や荷車がせわしなく行き交い、子どもたちが噴水の近くで楽しそうに駆けまわっている。
ヒマワリは噴水の縁に飛びつくと、手を差し出して水に触れたり、弾いたりした。その度に、きゃっきゃと楽しそうな声が上がる。
飛び散る水が、陽光に触れて七色に瞬いた。
「ヒマワリ、もう帰るぞ」
「待ってー! もうちょっと!」
近くで遊んでいた子どもたちの輪にあっさり加わると、ヒマワリは一緒になって身を乗り出しては噴水の中を覗き込み、何やら可笑しそうに笑い合っている。
クロはため息をついて、近くにあったベンチに腰掛けた。どっさり買いこんだチョコレートや本の入った袋を傍らに置くと、足を投げ出してふうと息をつく。
なんだか妙に、気が抜けてしまっていた。
(結局、シロガネはいなかった……)
シロガネが現れたと聞いて、我ながら随分と期待していたらしい。
その分だけ、失望も大きかった。
結局見つけたのは、しょうもない偽者だけだ。
(いつになったら、帰ってくるんだよ)
クロの寿命は長いし、アオも故障しない限りは稼働し続けるだろう。だから二人とも、数百年単位で待つことだって厭わない。
それでも、できることなら、早く戻ってきてほしいのだ。
「……俺たちが長生きだからって、ちんたらしてんじゃねーよ」
思わず、小さく呟いた。
荷物を抱えた人夫が、汗をかきながら目の前を通り過ぎていく。次いで、どこかの使用人らしい女が横切り、馬車が行き過ぎた後には年若い青年が四人、肩を並べて笑いさざめき颯爽と連れ立っていった。立ち止まって話し込んでいる初老の男たち、従者を伴った貴族、幼い少女を連れた幸せそうな一家――。
数えきれないほどの人間が目まぐるしく交錯し、喧騒がさざ波のように耳に響き続ける。
こんなに多くの人がいるのに、そこに、シロガネはいないのだ。
あと何年、何十年、何百年待てばいいだろうか。
その間に、人は死んで、また新たに生まれてくる。
そうして、ここで通り過ぎる人々を眺めているように、行き過ぎる人々を見送り続けるのだろう。自分はずっと、同じ場所から動かぬままで、置いていかれるのだ。
(いつまで、待てば……)
ふと気がつくと、いつの間にか目の前にヒマワリが立っていた。
心配そうな顔で、クロの顔を覗き込んでいる。
こちらを見つめるヒマワリの瞳には、やっぱり向日葵が咲いている。真夏の明るい日差しを思わせるその美しい花弁のような輝きは、金の髪と相まっていつだってこの少年をキラキラと彩っていた。
その瞳の奥に、泣きだしそうな顔の自分が映っているのに気がついた。
恥ずかしくなってぱっと俯き、目を擦った。
するとヒマワリは、何も言わずに隣に腰掛ける。
ふと、頭に温かなものが触れた。
小さな手が、クロの頭を撫でている。
なんだろうこれは、と思う。
何故だかさらに、涙腺が緩みそうになった。俯いたまま、顔を上げることができない。
「クロ、これあげる」
そう言ってヒマワリは、緑色のチョコレートの包みをひとつ、クロの手に乗せた。
「これね、キラキラしてるの」
緑の包装紙は確かに、太陽の光を反射してキラキラと輝いている。
クロが輝くものが好きだから、これを見れば喜ぶと思ったらしい。
ヒマワリもひとつ、ポケットから取り出したチョコレートを口に放り込む。途端に蕩けるような顔をして、足をぷらぷらさせた。
クロも無言で、包みを開いた。つやつやとした丸い粒をひとつ、手に取る。口に含むと、チョコレートの濃厚な甘みが口いっぱいに広がった。
「おいしいね!」
舌の上で溶けていくチョコレートを感じながら、行き交う人々を眺めた。
「……そうだな」
不思議ともう、置いていかれる、とは思わなかった。
「この井戸でいいか」
クロとヒマワリは人気の少ない路地裏の井戸の前に立ち、中を覗き込んだ。
来る時は船で長い道のりだったが、戻りは魔法で一瞬である。
クロがポケットから取り出したのは、小さな白い石。終島の石だ。
それを井戸の中に投げ入れてやると、光が溢れた。
これで、島の古井戸との道が繋がったのだ。魔法使いであればこんなことはせずとも道を開くことができるのだが、アオやクロが魔法の道を戻るには来た時と同じ形状のものを潜り抜け、なおかつもといた場所にゆかりの何かをそこへ放り込まなくてはならない。
「行くぞ、ヒマワリ。手ぇ放すなよ」
「うん!」
繋いだ手に、ぎゅっと力が籠もるのを感じる。
二人は井戸の縁に足を乗せると、一気に身を躍らせた。
光が視界いっぱいに溢れる。その光に身体が包まれる――と思った次の瞬間には、ぽんと井戸の外に弾き出された。
慣れているクロはひらりと着地したが、ヒマワリはバランスを崩して倒れそうになる。それを受け止めて支えてやり、やれやれ、と見慣れた古城を仰いだ。
彼らの島に、帰ってきたのだ。
すでに太陽は水平線の果てへと没し残光が薄暗い空に濃淡を描いていたが、窓に灯った明かりは彼らを待っているかのように、温かな光をくっきりと湛えていた。
「ただいまー」
二人が城へと入ると、雄叫びのような声がこだました。
「ひ、ひ、ひ、ヒマワリさん~~~~~~!」
居間を飛び出してきたアオが、全速力で駆けてくる。
「アオ……」
ヒマワリをがばりと抱きしめる。その力があまりに強すぎたので、ヒマワリはぐえっと変な声を上げた。
「ご無事でしたか、ヒマワリさん~~! あああ、突然いなくなってしまって心配したんですよ!」
アオの身体はがくがくと震えていた。感情が迸ると揺れ動く彼だが、ここまで激しいのは珍しい。
するとアオの後ろから、ひょいとミライが顔を出した。
「ミライ、来てたのか」
「もうさぁ、大変だったよ。アオがずっとこの調子で。いつオーバーヒートして止まっちゃうかと思うくらいガッタガタ揺れまくって……」
呆れたようにミライが肩を竦める。
するとアオが、ぴたりと動きを止めた。
そしてきゅっと表情を作り、眉を吊り上げる。
「――ヒマワリさん、俺は怒っているのです」
怒っていると言われ、ヒマワリはひくっと身を硬くした。
「黙って出て行くなんて、いけないことです。危ないめにあったり、怪我をしたり、何より……戻ってこれなくなったらどうするんですか!」
いつもはヒマワリに甘いアオの、こんな険しい顔も、こんな厳しい声も初めてだった。
本当に怒っているらしい。
「いいですか、二度とこんなことをしてはいけませんよ」
「……ごめんなさい」
ヒマワリはしゅんとして俯く。
アオはもう一度、ヒマワリを抱きしめた。
今度は先ほどとは違い、優しく愛おしむように腕を回す。
「無事で、本当によかったです」
ヒマワリはぎゅっとアオに抱きついた。
ようやく身を離すと、アオはいつもの優しそうな微笑みを浮かべてみせる。
「さて、お腹空いてませんか? 何か作りましょうか」
「あのね、アオにお土産あるんだよ」
「俺に?」
「僕が選んだの!」
チョコやら本やらを両手に提げたクロは、
「とりあえず中入るぞ」
と疲れたように促す。
「そうだ、クロさん! シロガネが現れたと、魔法の塔から審問官の方々がいらっしゃいまして……」
「ガセだ」
「え?」
「偽者だ、偽者。シロガネを騙った詐欺師だ。今頃牢の中だよ」
「ああ、やはりそうでしたか」
「なんだ、驚かないんだな」
「だって、おかしいじゃないですか。シロガネが戻ってくるなら、ここに現れるはずなのに。ここがシロガネの家なんですから。だからきっと何かの間違いだと思ってましたし、審問官の皆さんにもそのようにお伝えしてお帰りいただきました」
その確信のこもった言葉に、クロは苦笑した。
「そうだよなぁ……」
シロガネは必ず、ここへ帰ってくるだろう。
アオとクロが待つ、この島に。
「なぁなぁ、何があったんだ? 面白そうだから話聞かせてよ。俺、あと四時間あるからじっくりと!」
ミライが興味津々といった様子で尋ねる。
「わかったから、とりあえず荷物下ろさせてくれ」
「おっ、美味そうなチョコじゃーん」
「覗くな」
「アオにはね、本買ってきたの」
「本当ですか?」
「うん。えーとね、『グレンツェの指輪』。薔薇騎士書いた人の新作だって」
「なんですって! マダラメ先生の新作が出たんですか……!」
四人はわいわいと騒ぎながら、暖かな明かりの灯った部屋に吸い込まれていった。
「ふにゃらら~ん、てってろり~、むむにゃむ~ん」
この夜、ヒマワリはずっとはしゃいでいた。
なにかとクロとアオにまとわりついて甘えるので、ミライに「赤ちゃん返りか?」とちゃかされたが、そんなからかいも気にしない。生まれたての子うさぎたちをクロの肩や頭に載せては、クロが変な顔で動けずにいる様子に笑い声を上げた。
ベッドに入ってもなかなか寝付けず、買ってきた絵本を読んでほしいとアオにせがんだ。アオはヒマワリ不在で心配した反動か、いつも以上に優しくて、ヒマワリが眠るまでずっと隣で本を読んで聞かせてくれた。
ベッドの中で、ヒマワリは満ち足りていた。
シロガネは、どこにもいなかった。
これからもこの島で、アオとクロと一緒に暮らすことができる。
それが、何より嬉しい。
そうして幸せな笑みを浮かべたまま、やがて安らかな寝息を立てたのだった。
【つづく】