魔法使いのお留守番 第三話

三 時間旅行
終島は小さな島だ。島の端をぐるりと歩いて回っても、三十分ほどで一周できてしまう。
ヒマワリがこの島へやってきてまず真っ先にしたことは、島唯一の建造物である広大な古城の探検であった。
蔦の這った陰鬱な灰色の城は地下二階地上四階建て、そこに尖塔がいくつか突き出している。そのうちのひとつ、北の塔はクロのねぐらである。城内には数えきれないほどの部屋が並び、盛大なパーティーが開催できそうな大広間や、膨大な書物がひしめく書庫、遊戯室に武器庫など、今は使われずに閉ざされている部屋も多い。
そのひとつひとつを覗き込んでは、かつてそこに生きた人物の痕跡に想像を巡らせたり、幽霊はいないのかと薄暗い物置や古箪笥の奥を探ったりした。
特に、三階にあるロングギャラリーはお気に入りだ。絵画や彫刻がずらりと飾られた広い通路は、走り回るのにうってつけである。そしてなにより、魔法使いの城に飾られた美術品は、ただの美術品とは限らない。
『また来たのか小僧。お前にこのギャラリーの素晴らしさがわかるのか? 知識と教養のない愚か者は、とっとと帰れ!』
通路の入り口に置かれた胸像が、ヒマワリをあざ笑った。
それは巻き毛の青年で、ここにある美術品の管理者を自負している。普段は完全にただの石膏像だが、人がやってくると目を覚まして悪態をついた。とにかく誰に対しても上から目線で、アオによるとシロガネに対しても同じような態度だったらしい。あまり会話は成り立たず、すぐにぶつぶつと美術品の蘊蓄を語り始めてしまうので、「こんにちは」と挨拶だけして素通りする。
長い通路の左側には大きな窓が並び、明るい光を取り込んでいる。右側には天井までびっしりと壁を覆い尽くす絵画が、所狭しとひしめいていた。
そのうちのいくつかは、ただの絵ではない。
ヒマワリは、ある大きな絵の前で足を止めた。
優雅に踊る男女が描かれている。女性の白いドレスが美しい。
途端に、絵の向こうから風が吹き付け、溢れんばかりの花びらが幾重にもヒマワリに向かって押し寄せてきた。ざざざ、と音を立てながら、それが視界いっぱいに広がる。
花びらが通り過ぎていくと、ヒマワリの目の前には、先ほど絵の中に描かれていた男女が立っていた。
そこは煌びやかな宴の場で、輝くシャンデリアが無数の人々を照らし出している。彼らはいずれも、生身の人間にしか見えなかった。互いを熱く見つめ合い華麗なステップを踏んでいる男女は、心底幸せそうに微笑み合っている。
これは魔法画というのだと、アオに教えてもらった。
魔法をかけた画材で魔法使いが描く、特別な絵。見る者を絵の中に招き入れ、まるでそれが本物の世界のように見せてくれる。
周囲で踊る人々に交じって、ヒマワリもくるくると踊りながら笑い声を上げた。
やがて、ふっと闇が落ち、その風景は消え去る。
気がつくとそこは額縁の前で、ヒマワリは城のロングギャラリーに立っている。
絵の中に入り込めるのは、ほんのわずかな時間だけなのだ。
魔法画はほかにもいくつかあって、ひとつひとつ絵の前に立ってみては魔法画か普通の絵画かを確認し、魔法画を見つけると様々な景色の中に飛び込んだ。ここにいるだけで、見知らぬ美しい街も、深い緑の森も、薄暗い誰かの寝室も訪れることができた。
そんなふうに遊び回りながら、やがて城のほとんどを探検し尽くしたヒマワリだったが、決して入ってはいけないと言われている部屋がいくつかあった。
例えば、シロガネの研究室がそのひとつだ。
入ってはいけないと説明するアオに対して、クロが呆れたように言ったものだ。
「馬鹿お前、前振りにしかなってないぞ。見るなと言ったら見る、開けるなと言ったら開ける、押すなよって言ったら押すのが人間なんだ」
その通りだ、とヒマワリは思った。
研究室には鍵がかかっていた。ただの鍵ではなく、シロガネがつけた魔法の鍵だ。そう簡単には開かない。
ヒマワリは毎日、鍵を開ける方法を探して魔法書を読みふけり、いくつもの方法を試みた。そうして散々に試行錯誤した結果、ニカ月かけてようやく扉を開けることに成功したのだった。
城の東側に位置するその部屋は、思った以上に天井が高かった。曲線を描くドーム型の天井には、星図が広がっている。南に張り出した部分の天窓から光が差し込み、机や棚に積もった埃を白々と照らしていた。
部屋の中央はせり上がった円形の段差があり、足下には美しい幾何学模様のタイルがびっしりとはめ込まれていた。その上に据えられた大きな作業台が、この部屋の中心だ。脇には、大きな鍋がかけられたままの煤けた竈。
窓辺に置かれた書き物机には、羽根ペンの刺さった壺、古い本や書類、標本などがごちゃごちゃ折り重なっており、その頭上では銀色の鳥のモビールが微かに揺れて光を放っていた。ひとつひとつラベルのついた小さな引き出しがびっしりと並んだ棚の上には、動物の頭蓋骨や硝子容器に入った標本――植物、虫、爬虫類など――が整然と置かれている。天井まで伸びる作りつけの本棚は圧巻で、埃をかぶった本が静かにひしめきあっていた。
入って右手には階段があり、研究室を見下ろすことのできる中二階の空間に繋がっていた。仮眠用だろうか、小さなベッドが据えられ、いつかのシロガネが使ったまま放置されているのか、上掛けが無造作に払いのけられた状態で時間を止めていた。その周囲には飲みかけの酒瓶やら、脱ぎ捨てたままの上着やら、ほかにもがらくたにしか見えないものが散らばり、シロガネという人は結構ずぼらそうだな、とヒマワリは思った。
鍵を開けたことは、アオとクロにはもちろん秘密にしている。
自分は魔法使いらしい。しかし、魔法使いというものをよく知らない。
魔法について、魔法使いについて知識に飢えていたヒマワリは、度々この部屋をこっそりと訪れては、シロガネの直筆ノートや蔵書を読み漁るようになった。
もう一つ、入ってはいけないと言われている場所があった。地下二階の暗い廊下の突き当たりにある、赤い扉の部屋である。
灯りを手に近づいていくと石畳が陰鬱な足音を響かせる、いかにも不気味でおどろおどろしい場所だった。手前には鉄格子が降りた牢が並んでいて、もちろん中には誰も入っていないのだがこれがまた大層薄気味悪い。
赤い扉には鍵がかかっていたが、こちらはあくまで一般的な鍵だったので、シロガネの部屋に入るために探し出した開錠の魔法のひとつを使い、容易に開けることができた。
最初に部屋の中へ足を踏み入れた際、ヒマワリは思わず甲高い悲鳴を上げた。
誰もいないと思っていたのに、目の前に人影が現れたのだ。
しかしよくよく見れば、それは人ではなかった。人の顔がついた黒い棺桶のような箱が、中央にどんと鎮座していたのだ。不気味に黒光りするその顔は、どうやら女性を象っているらしかった。
灯りを高く掲げて、内部を見回す。置かれているのは、拘束具のついた木製の大きな椅子、丸い穴の開いた板が上部に据えられた台などだ。その背後には、何に使うのかよくわからない個性的な形をした金属製の器具たちが、まるで厨房にあるフライ返しやお玉のようにずらりと壁に下がっていた。
最初人の形に見えた箱には扉がついていて、内側には棘がいくつも突き出している。その中には、人が一人ちょうど入れるくらいの空間があった。
中を覗き込んだヒマワリには、箱に入り蓋を閉めれば中の人間がどうなるのか、容易に想像がついた。
鋭利な棘の先が、そういえば妙に黒ずんでいるような気がする。足下に血の跡はないかと、恐る恐る見回した。
初日は思わず走って逃げ出したが、なんだかんだでそのスリルがちょっとした快感となり、この拷問部屋も時々一人で訪れては肝試しを楽しんでいる。
そんなふうにして一人遊びがまったく苦ではないのも幸いし、島に来てから五か月経った今でも、ヒマワリは毎日退屈することなく過ごしていた。
その日もヒマワリは、うきうきと城の中を歩きまわっていた。
今日は五百年前にこの島へやってきた海賊が隠した宝――というのはヒマワリが妄想しただけでそんなものはないのだが――を探す探検隊になって――一人だけれど――、あちこち部屋に出入りしては、引き出しやら箱やらを片っ端から開け放っていった。
クロは居間でごろごろしているし、アオは風呂でメンテナンス中だ。
彼らに気づかれないよう、密やかに足音を忍ばせて無人の厨房に入り込む。
「探検隊諸君、きっとここにお宝が隠されているぞ!」
目には見えない仲間たちを先導し、ヒマワリは大きな音を立てないように注意しながら、あちこちの棚を開け始める。
引き出しの中からビスケットの入った缶を見つけると、にんまりと笑みを浮かべた。
「これは妖精が隠したビスケットだ! 食べると体力が回復する!」
一枚だけ取り出し、ポケットに忍ばせる。これくらいなら、なくなっても気づかれないだろう。
次に、食材の保存庫に手をかける。物を冷やす魔法がかけられていて、長期保存が可能だ。
扉を開くと、大きなクグロフ型のゼリーが現れた。カラフルなフルーツが詰まったエメラルド色のそれは、まるで宝石のようにツヤツヤと輝いている。アオがクロのために作った、特別仕様のゼリーだった。クロは食べ物もキラキラが好きなのである。
ゼリーはその四分の一が、すでに切り取られてなくなっていた。昨夜、クロが大きなお皿片手に食べていたのを思い出す。ヒマワリが一口食べたいと言っても、頑としてくれなかった。
「ついにお宝を発見した! 竜が持つ、巨大なエメラルドだ!」
ヒマワリは嬉々としてスプーンを取り出し、切り口に沿って慎重にゼリーを薄く掬った。ばれたらクロが怒るのは明白なので、減っていることに気づかれない程度にしておく。
ふるふると震えるゼリーを、あーんと口に運ぶ。
そのおいしさに、ふにゃりと頬を緩ませた。
(もう一口……)
もうちょっとだけ、とさらにスプーンをつける。
しかしそうするとまた、あと少しだけ、もうちょっとだけ、と手が止まらない。そうしてはっと我に返った時には、すでに全体の半分が消えていた。
「…………」
見なかったことにして、そっと扉を閉める。
探検隊は解散して、厨房からの脱出を図った。ドアの向こうに誰もいないことを確認して二階まで上ると、ほっと息をついた。
ポケットからビスケットを取り出してぽりぽりと齧りながら、階段の手すりから身を乗り出す。一階の玄関ホールに繋がる大階段の手すりは重厚な貫禄のマホガニーで、細かな彫刻があちこちに施されており、アオの手によって常につやつやのつるつるに磨き上げられている。建築愛好家なら見とれてしまうかもしれない見事な曲線を描くそれは、ヒマワリにとっては最高の滑り台であった。
ビスケットを平らげてしまうと、ヒマワリはひょいと身を躍らせ、手すりを跨いだ。
そのまま勢いをつけ、躊躇うことなく一気に滑り降りる。
頬を紅潮させ、思わず歓声を上げた。
金の髪をなびかせながら緩い曲がり角に差し掛かると、身体を傾けてうまく重心を取る。
ぐんぐんと一階が近づいてくる。着地は華々しく決めてやろうと、ヒマワリは身を乗り出した。
手すりの先がすぐそこに迫った、その瞬間。
眼前に、忽然と人影が現れた。
「――わぁ!?」
「え?」
人影はきょとんとこちらを振り向いたが、避けることはできなかった。ヒマワリは勢いそのままに滑り切って空中に飛び出し、容赦なくその人物に激突してしまう。
二人は折り重なるように、音を立てて倒れこんだ。
床の上に転がったヒマワリは、自分が滑り落りてきた手すりと階段が逆さまに目に映るのを、ぼんやりと眺めた。
やがて、手をついてゆっくりと上体を起こす。衝撃で、ちょっとくらくらした。
「うー……」
邪魔をしたのは誰だ、とヒマワリは少し不機嫌だった。二回転して着地できたら新記録だったのに。
起き上がって頭を摩りながら、自分がその相手をすっかり下敷きにしていたことに気がついた。
仰向けに倒れているその人は、アオでもクロでもない。
見たこともない青年が、苦しそうに呻いている。
ヒマワリは目を丸くした。
「…………だれ?」
「なんの音ですか!?」
髪を濡らしたまま薄着のアオがタオル片手にばたばたと駆けてきて、転がっているヒマワリたちの姿に驚き足を止めた。
「これは……」
「あのねアオ、いきなりこの人が――」
言いかけた時、青年が頭を抱えながらむくりと起き上がった。おもむろに、ヒマワリの肩をがしっと両手で摑む。
「ヒマワリ! お前~! 危ないから手すりを滑るのは禁止だって、言っただろうが!」
見知らぬ人物に名前を呼ばれ、さらには叱責されたヒマワリは、思わず固まってしまった。
怖くなり、ぱっとその手を振り払ってアオにしがみつく。
しかしアオは、親し気に青年に話しかけた。
「おや、ミライさん。来てたんですか」
ミルクティーのような薄い茶色の髪に、柔らかな茶色の目を持つ青年は、クロやアオより少し年下くらいに見えた。痛そうに顔をしかめ、首を摩りながら立ち上がる。
「知ってる人なの?」
ヒマワリが疑わしそうに尋ねる。
「ああ、ヒマワリさんは初めて会うんでしたね。こちらはミライさん。時々未来からいらっしゃる、未来人です」
ヒマワリはぽかんとした。
アオのあっけらかんとした説明が、まったく頭に入ってこない。
「……未来人? ミライ??」
すると、当のミライ青年は怪訝そうな表情を浮かべた。
「初めて会う? 今日が? え、そうなの?」
「はい。ヒマワリさんがこの島へやってきてからの数か月、ミライさんはお見かけしませんでしたからね」
するとミライは、じろじろとヒマワリを眺めまわした。
「へーえ、じゃあこれがヒマワリとの初対面記念日ってことかぁ。俺は先週も会ってるから、変な感じ」
「???」
ヒマワリは首を捻る。
どんなに思い返しても、先週彼に会った覚えなどない。
困惑するヒマワリにはおかまいなしに、ミライはアオににじり寄った。
「おい、アオ。ヒマワリが階段の手すりで滑って遊んでんだよ。ぶつかってひっくり返ったぞ。危ないから、やめさせろ。この先も絶対やるからな、俺が見ただけでもあと二回はやる。その度に注意してんのに、こいつ……いや、つまりあれは今より先の出来事だから、今日の時点では俺の注意はまだ聞いてなかったわけだが……ああややこしい! とにかく、ちゃんと叱っておけ!」
「おお、それは危険です。二人とも、怪我はありませんか?」
「ちょっと痛いけど、まぁ大丈夫そう。ヒマワリは?」
「え、えーと、平気」
「ヒマワリさん、階段の手すりを滑って遊んではいけません。遊び場ではないですよ。今回は二人とも無事でしたが、大けがに繋がることもあります。首の骨を折って死んでしまうかもしれません」
拗ねたようにヒマワリが唇を尖らせると、アオはこれではいけない、と思ったのか少ししかめ面を作ってみせた。
「ヒマワリさん、約束を。もうやらない、と約束してください」
「……はぁい」
「それと、ミライさんに言うことがあるのではありませんか?」
促され、ヒマワリはおずおずと小声で、「ごめんなさい」と謝った。
ミライは怒っているわけではなさそうで、「おう、怪我なくてよかったな」とヒマワリの頭をわしゃりと撫でた。
「そろそろお茶の時間にしようと思っていたんです。ミライさんもどうですか?」
「腹減ってるから、軽く食べる物ある?」
「では、サンドイッチでも作りましょう」
「その前に髪乾かせよ」
「おっと、失礼しました」
アオは忘れていた、というように濡れた髪の水分をタオルで拭き取り始める。慣れた様子で連れ立っていく二人の後に続きながら、ヒマワリはこの新たに登場した人物をよくよく観察しようと見上げた。
(未来から来た? この人が?)
するとその視線に気づいたのか、ミライがぱっと肩越しに振り返った。
目が合って、ヒマワリはびくりとする。
ミライはいたずらっぽく笑いかけた。
「そう警戒するなよ、ヒマワリ。お前はまだ知らないだろうけど、もう長い付き合いなんだぜ、俺たち。――あー、つまり、お前からしたらこれから、長い付き合いになるってこと!」
天気がいいから、と庭先にテーブルを用意したアオが、真っ白なクロスを敷いて食器を並べていく。
椅子に座って足をぷらぷらさせていたヒマワリは、向かいに座ったミライを興味津々に眺めていた。
ミライは居間に置いてあった新聞を持ってきて、気軽な調子で読み始めた。ひどく慣れた様子で、ここへ何度も来ているというのも本当かもしれなかった。
「ねぇ、本当に、未来から来たの?」
「そうだよー」
なんだかひどく適当な返事である。
胡散臭そうに見つめるヒマワリに気づいたのか、ミライは新聞から視線を外してこちらを向くと、口の端をにいと上げた。
「初対面らしいから、改めて自己紹介するか。俺は未来でこの城に住んでる、未来人だ。ここではミライって呼ばれてる。もちろん、本名じゃないぞ。シロガネが、未来から来たならミライだ、って呼び始めただけ」
「じゃあ、本当はなんていう名前なの?」
「秘密でーす」
ミライはにっこりと笑みを浮かべる。
「未来から来るって、どうやって? そんな魔法があるの?」
「いいや、これは魔法じゃない。俺は魔法使いの血なんて引いてないよ。――うちの家系は代々、タイムトラベラーの遺伝子を受け継いでるんだ」
「いでんし……?」
聞いたことのない単語である。
「そっか、遺伝子の概念はこの時代にはまだないよな……。ええと、つまり、魔法使いはその血によって力を受け継ぐだろ? それと同じで、俺も血によって時を越える力を受け継いでるんだ。俺の場合、自分の意志とは関係なく、ふとした瞬間何かに引っ張られるようにして過去に遡ってしまう。残念ながらいつの時代に飛ぶのかは、自分では選べない。ただ、滞在時間は六時間と決まっていて、時間が経つと勝手に未来へ身体が引き戻される。今日は二階に上ろうとした途端に突然ここに飛ばされて、しかもお前が突っ込んでくるんだもんな~。ついてないわ」
「ミライさんは、こうして時々いらっしゃるんですよ。ヒマワリさんがここへ来てからは、初めてですね」
そう言いながら、アオはミライには紅茶とサンドイッチを、ヒマワリにはジュースと苺のケーキを運んでくる。
ミライは礼を言って、早速カップに口をつけた。
「俺はもう、何度もお前に会ってるんだけどなぁ。――えーと、つまり、今より少し先の、未来のお前と」
ケーキを食べ始めていたヒマワリはひくんとわずかに喉をならし、クリームを口の周りにつけたまま身を乗り出した。
「何度も?」
「うん」
「じゃあ未来の僕も、ここにいるの? ずっと?」
期待を込めた声は自然と弾んだ。
しかしミライは、にやりと意地悪く笑う。
「さー、どうかなぁ」
「ねぇ、未来のこと教えて! 僕、大きくなったらどんな感じ?」
「それは、教えられない」
なんで、とヒマワリは駄々をこねる。
「やっぱり未来から来たなんて、本当は嘘なんだ!」
ミライはサンドイッチに齧り付きながら、肩を竦めた。
「あのなぁ、未来のことを俺が誰かに喋ったら、未来が変わっちゃうかもしれないだろ? 口にした瞬間、もしかしたら俺の存在自体がぱっと消えるかもしれない。そんなのはごめんだから、俺は一切、未来については語らないことにしてる」
「さっき、僕が手すりでまた遊ぶって、未来のこと話してたよ」
「それは間違いなく変わったほうがいい未来だ」
「なんかずるーい」
「何事も状況と必要性に応じて、臨機応変に判断するもんさ」
「じゃあ、どれくらい未来から来たの? 百年後? 二百年後?」
「だめでーす、なにも答えませーん」
「ええー」
「シロガネも最初の頃はミライさんに、よくあれこれ尋ねてましたよね。でもミライさん、絶対答えないんです。なんとか聞き出そうとしてシロガネもあの手この手を使ってましたが、徹底して口を開かないので、さすがにシロガネも最後は諦めてました」
(あの手この手で聞き出そうと……)
ふと思い浮かべたのは、地下の拷問部屋だ。
もしかしたらシロガネは、あそこでミライに恐ろしい責め苦を与えて、口を割らせようとしたのだろうか。
ヒマワリは若干の憐れみと同情の目をミライに向けた。
「シロガネにとっては、俺も研究対象のうちだったからなぁ。初めて会った頃なんて目の色変えて近寄ってくるんだもん、なかなか怖かったよ」
「……どの道具だったの?」
こそっと小声で尋ねる。
「ん? 道具?」
「串刺しのやつ?」
「何て?」
そこへ突然、クロの声が響いた。
「ヒマワリ!」
ヒマワリははっとした。
これは明らかに、怒っている声だ。
「ヒマワリ、どこだ!」
足音と声が、どんどん近づいてくる。
ヒマワリは慌てて椅子から飛び降りると、身を隠す場所を探した。
「ヒマワリ!」
庭に飛び出してきたクロは、庭先でティータイム中のアオとミライの姿を捉え立ち止まった。
「やっほー、クロ」
ミライがにこやかに手を振る。
「来てたのか、ミライ」
「うん、ついさっき」
クロはつかつかと近づいていって、アオの前で仁王立ちになる。
「……それで隠れたつもりか、ヒマワリ?」
アオの背後に回り、彼のシャツに頭を突っ込んでいるヒマワリに、クロは冷ややかな声をかけた。
頭だけはシャツに隠れているが、あとは丸見えである。
「クロさん、どうしたんですか?」
「取っておいた俺のゼリーが、明らかに減っている。――犯人はお前だな?」
引っ張り出そうと手をかけるクロから逃れようと、ヒマワリはアオの腰に必死にしがみついた。
「うにゃぁ~」
「観念しろ!」
二人の攻防の間に挟まれたアオは、クロをまぁまぁと制した。
「クロさん、落ち着いて。また作りますから」
「お前がそうやって甘やかすから、こいつがまったく反省しないんだ!」
アオを盾に逃げまわるヒマワリと、それをイライラと追いかけるクロ。その様子を眺めていたミライが、天を仰いでけらけらと笑い声を上げた。
「冷蔵庫のプリンを食べた食べないで喧嘩する兄弟かよ! いつの時代も変わらない、普遍的な光景だな」
「クロさん、ひとまず残っている分で我慢してください。ね? ヒマワリさん、ほら、ちゃんと謝って」
のろのろとアオの背から顔を出したヒマワリは、
「だって、クロ、分けてって言ってもくれないんだもん」
と唇を尖らせる。
「あれは俺専用だ! 二度と手を出すな! 呪うぞ!」
「うわーん!」
泣き出したヒマワリに、アオがおろおろとする。
「クロさん! 大人げないですよ!」
クロは頭を掻きむしる。
「ミライ、なんとか言ってくれ! アオのやつ、いつもヒマワリの肩ばっかりもちやがって!」
「確実にクロが大人げないでしょ。いくつだよ。二百歳だっけ?」
「竜の世界じゃ二百歳なんて、まだまだ若いんだよ!」
そう吐き捨てると、どすんと椅子に腰を下ろす。
アオが皿に盛ってきた残りのゼリーを食べながら、それからクロは一切ヒマワリを見ようとしなかった。
一方のヒマワリは、涙目でケーキを頬張りながら俯いている。
険悪な雰囲気に、アオが困ったようにおろおろとしていた。
見かねたように、食事を終えたミライがヒマワリに声をかける。
「ヒマワリ、食べ終わったらゲームでもしようぜ」
「ゲーム?」
「何にするかー。チェス? バックギャモン?」
「……やったことない」
「あれ、そうなの? この間なんて俺、お前に負かされたんだけどな。……つまり、何か。俺が今からお前に教えてやるってことか? はぁーん」
ぶつぶつ言いながら、まぁいいか、と立ち上がる。
ヒマワリはその場にいるのも気まずいので、黙ってミライについていった。ちらと振り返っても、クロはつんと顔を背けてこちらを気にする様子もない。
ミライは勝手知ったる様子でどこからか白黒の盤面と駒を持ってくると、それを居間のテーブルに広げてチェスのルールを説明してくれた。最初は落ち込んであまり乗り気ではなかったヒマワリだったが、だんだんと勝負の面白さがわかってくると、いつの間にかのめりこんでしまった。
「ほい、チェックメイト!」
「ああー!」
負けると悔しくて、ヒマワリは地団太を踏んだ。
「もう一回! もう一回!」
「いや、もう今日は終わりにしようぜ。何回目だよ……」
「やだ!」
「次会う時まで、よく練習しておくんだな」
ちらりと時計を確認する。
「未来に戻るまで、あと一時間ってとこか。ちょっと外、散歩してくる」
「僕も行く!」
不機嫌なクロとまだ顔を合わせたくなかったので、ヒマワリはミライにくっついていくことにした。それに、もしかしたらミライが未来へと戻る瞬間が見られるかもしれない。
玄関を出ると、ミライは慣れた足取りで丘へと向かった。
はぐれないようヒマワリが反射的に手を摑むと、ミライは何も言わずにそのまま握り返してくれた。
「ねぇ、こうしてたら、僕も一緒に未来に飛んでいける?」
「それはない。俺以外のものは人であれ物質であれ、時を越えることはできない。例外は、俺が未来から持ってきたものだけだ。例えば、今着ているこの服とかな」
改めて見ると、ミライが着ている服は、ヒマワリたちが纏っているものとは随分と異質なものに思えた。上はベージュ色の着心地のよさそうな柔らかい生地でできていて、チュニックともシャツとも言い難い風情のゆったりとしたシルエットだ。下は黒のズボンだがこちらも見たことのない質感で、硬そうでいながらしなやかに見える。特に不思議なのは靴で、革のようにも見えるが驚くほど真っ白だし、靴底は弾力がありそうだった。
「ねぇ、ミライ。これ何でできてるの?」
服を引っ張りながら尋ねると、ミライは肩を竦めた。
「この時代にはまだない素材だな。それ以上は言えない」
徹底して、未来の情報は漏らさないつもりらしい。
「じゃあ、過去のことなら聞いていい?」
「過去?」
「ミライは、シロガネとも何度も会ったの?」
「そりゃあ、今よりもさらに過去に行ったことあるからな。俺は時を遡ることはできるけど、場所を移動することはないんだ。つまりこの島にいる以上は、過去のこの島に必ず辿り着く。ここで出会う人間なんて、限られるだろ」
話を聞きながら、ヒマワリはわずかな希望と落胆を抱えた。
彼が本当に時間を越えられる未来人で、これから何度もここで出会うというのが本当ならば、自分はこれからも長い間、この島で暮らしていくということではないのか。
もしかしたら、ずっと。
(そうだったら、いいのに……)
「あのね、シロガネって、どんな人だった?」
ミライは不思議そうに足を止める。
「なんでそんなことを聞く?」
「だって、クロもアオも、いつもシロガネのこと話してる。向こうにお墓があるのに、生きてる人みたいに話すんだよ。でも、死んでるんでしょう?」
「ああ、シロガネは死んだよ」
二人はゆっくり、丘を登っていく。そこからは、あの白い墓石が見えた。
「俺は臨終の場には居合わせなかったけど、墓に埋葬するところは立ち会ったからな。大魔法使いシロガネは、確かに死んでる」
「二人とも、いつかシロガネは戻ってくるんだって言ってるけど、そんなこと本当にできるのかな? ミライは未来で、戻ってきたシロガネに会えた?」
「だから、未来のことは言わないって」
「会ってないでしょ? ねぇ、戻ってこないよね?」
不安そうに尋ねるヒマワリに、ミライはくすりと笑った。
「まるで、戻ってきてほしくないみたいな言い方だな」
ヒマワリは俯く。
「なんで? シロガネが戻ってきたら嫌か?」
そう尋ねるミライの口調は、決してヒマワリを非難するものではなかった。むしろどこか優しげで、ヒマワリは素直な言葉を口にする。
「……やだ」
ぼそりと答え、視線を落とした。
(だってシロガネが戻ってきたら、きっとクロもアオも、シロガネのことが一番になるに決まってる……)
そうしたら、ヒマワリのことなどどうでもよくなってしまうだろう。
自分にとって、ここが唯一の居場所なのに。
シロガネが戻ってきたら、全部奪われてしまう。ここを追い出されてしまうかもしれない。
「へーえ。なるほどねぇ」
ミライが感心したように呟いた。
「ヒマワリは、クロとアオのことが好きなんだな」
「うん!」
間髪容れずに答えるヒマワリに、ミライは噴き出す。
「そっかー。そうだよなぁ」
そう言ってヒマワリの頭をわしゃわしゃと撫でると、ふらふらと先を歩いて行ってしまう。
ヒマワリはわけがわからず、早足で彼を追いかけた。
海を眺めながら、ミライはいつか会ったシロガネのことを思い出していた。
あれは、シロガネが息を引き取る、二日前のことだ。
過去へ飛ぶ際、どの時代に戻るかは選べない。しかしミライが旅する先は不思議と、シロガネの生きた前後の時代がほとんどだった。ただし時系列はばらばらで、ある時はヒマワリがいる時代、ある時はシロガネがこの島へ来たばかりの頃、と行ったり来たりする。
いつものように突然過去に引きずり込まれたミライは、見たこともないほど暗い顔をしたクロとアオの様子から、シロガネがもう長くないことを悟った。
前回ここへ来た時は、シロガネはまだいたって元気な時分であったから、今日唐突にシロガネが危篤だと言われるとひどく不思議な気分になる。
タイムトラベルをしていると、いつもこんなふうだった。長い付き合いではあっても、自分だけはどこか、蚊帳の外にいる感覚に陥ってしまう。
そっと寝室を訪ねると、大きなベッドに沈み込むように、シロガネが力なく横たわっていた。
「やぁ、シロガネ」
声をかけると、ああ、と淡く吐息のような声を出して、シロガネが視線だけこちらに向けた。
「ミライ……」
「気分はどう?」
「今日は、いいほうかな」
そう言うシロガネは、明らかに以前よりやつれ、痩せていた。
それでも不老の魔法によって、その姿は実年齢とは程遠い若者のままである。出会って以来、彼の月光のように麗しい風貌はまったく変わっていない。
「来てくれてよかった、ミライ。死ぬ前に、もう一度会いたいと思ってたんだ」
「俺も、今日来れてよかったよ」
「でも君はきっと、また来月にでも僕に会うんだろ? 今よりも過去に遡って、昔の僕に」
ミライは肩を竦めてみせる。
「多分ね。いつどこに遡るかは選べないから、確実じゃないけど、まぁきっと会うんじゃない?」
ふふ、とシロガネは微笑む。
「なんだか、いいな。それって、終わりのない、永遠の時を生きるみたいだね」
「永遠か。言い得て妙だな」
「僕も、また会いたいな、みんなに……」
疲れたように、シロガネは瞼を閉じる。
「アオと、クロに……また会いたい。もっと一緒にいたかった……もっと……」
ミライは首を傾げる。
「魔法の力で、なんとかならないもんなのか? それこそ不老不死は結局、不可能ってことか?」
大魔法使いシロガネは、不老不死を得た。
世間ではそう言われているが、目の前の男は明らかに死にかけている。不老は叶っても、不死には至らなかったらしい。
シロガネは悲しそうな、淡い笑みを浮かべる。
「魔法でなんでもできたら、いいんだけどね……。魔法は決して、万能なわけじゃない。特に、命に関しての魔法は」
その笑顔が今にも吹き飛びそうな儚さで、ミライはなんとも言えない気分になった。命が消えかかっている者特有の気配が、明らかにそこにはあった。
(本当に、死ぬんだな――)
確かに、ミライはまたシロガネには会えるかもしれない。しかし、死を前にしたシロガネに会うのは、きっとこれが最後だ。
ふっと、息をつく。
「……死ぬ人間になら、いいか」
小さく呟いた。
「え?」
「今のお前に話したところで、未来が変わることはまずないだろ」
シロガネは不思議そうに、ミライを見上げた。
「ミライ?」
「知りたがってただろ、未来のこと」
シロガネの菫色の瞳が、はっと見開かれる。
これまでどんなに懇願されても脅迫されてもなだめすかされても、決してミライは未来のことを語ろうとはしなかった。
未来のことは、決して口にしない。それがミライの流儀だったし、これまでずっと突き通してきた姿勢だ。
その信念を今、曲げようとしている。そのことにシロガネも気づいたのだろう。
ミライはそっと屈みこみ、シロガネの耳元に顔を寄せた。
そして、声を潜める。
「――お前、また会えるぜ。あいつらに」
ミライは知っている。
いずれこの島には、記憶を失った金の髪の少年がやってくる。
そして、その少年が、何者であるのかを。
魔法は、万能ではないという。ならばあの少年が存在する未来は、ひたすらにただ、願いが生んだ奇跡なのだろうか。
沈んでいたシロガネの瞳に、じわりと小さな光が浮かんだ。
死の色を映したまま、最後に閃いた星の煌めきのようなその輝きは、彼の抱いた希望であったかもしれない。
ミライはいつもの調子で、悪戯っぽく微笑みかける。
「俺はもう、結構何度も会ってるよ、未来のシロガネに。生まれ変わってもお前は相変わらず好き勝手してて、クロはよく怒ってるし、アオは甲斐甲斐しく面倒見てる」
「……そう……」
シロガネが、ほうっと息をつく。薄くなった胸が、わずかに上下した。
「会えるんだね、また……」
削げた頬を、透明で儚い涙が一筋伝った。
シロガネが泣くのを見るのは、初めてかもしれない。
記憶の中の彼は、いつだって笑顔だった。
(いや、違う。あの時は笑ってなかった)
シロガネが初めて、ミライに会った日。
未来から時を越えてきたと説明するミライに、シロガネは恐ろしいほど思いつめた形相で摑みかかった。
――僕を、過去に連れていくことはできる?
ミライにはほかの誰かを一緒に過去へ運ぶ力はないし、そもそも自分の意志で行き先を決めることもできない。
そう説明すると、シロガネはひどく落胆したようだった。
過去に戻れたとしてどうするのかと尋ねると、彼は答えた。
――ずっと、後悔している一日があるんだ。
それからシロガネは、時を越える魔法を編み出そうと必死になっていたし、そのためにミライは研究に使いたいと求められて、自分の血まで分けてやった。
だが結局、その魔法は実現しなかったようだし、いつの頃からかシロガネは時を遡ることを望まなくなったようだった。
それは多分、アオとクロと、三人での暮らしがすっかり馴染んだ頃のことだったように思う。
「お前は、本当にあいつらが好きなんだなぁ」
ミライが嘆息すると、シロガネは何を当たり前のこと、というようににっこり笑った。
「大好きだよ。僕の大事な家族だ」
それに、と細い手をゆるゆると伸ばし、ミライの手を握る。
「ミライのことも大好きだよ。君に会えて、よかった」
こんなふうに臆面もなく好きだと言われると、ちょっと照れる。
それでも、そんな態度がこの男には似合うのだった。
「そうだな。俺も、ここに来れて、皆に出会えてよかった。――俺も、向こうじゃ一人なんで」
未来でこの城にいる自分は、孤独だ。
この広い城に、小さな島に、まるで閉じ込められるように暮らしている。だからこの時間旅行は、彼にとって唯一の自由への扉でもあった。
どうしてなのだろう、とは思う。
自分が過去へ飛ばされる度、シロガネにまつわる時代ばかりにやってくるのは。
ミライの一族は代々この力を受け継いできた。だが、こんなふうに一定の時代に限定されたタイムトラベルをする者は、かつていなかったという。
(まるで、呼ばれているみたいだ)
それは、なんのためだろう。
二人はそれからしばし、最後の会話を交わした。
やがて、疲れたようにシロガネが言った。
「――ミライ、二人を呼んでくれる? 最後に話がしたいんだ。きっと、終わりはもうすぐだと思うから……」
「わかった。呼んでくる」
部屋を出ようとした時、シロガネの声が聞こえた。
「ありがとう、ミライ。ありがとう……」
ミライは振り向かず、軽く手を振った。
それが、シロガネとの別れだった。
シロガネが呼んでいると伝えると、アオとクロは慌てて彼の寝室へと駆けていった。
彼らの姿を見送って、ミライはその場を立ち去った。
「戻ってくるよ」
半分開いたままの、寝室のドア。その向こうでシロガネが二人に語る声を、ミライは聞いた。
「……必ず、戻ってくるから」
散歩を終えた二人が城に戻ると、アオがヒマワリを呼んだ。
「ヒマワリさん、ちょっと厨房へ来てください」
ヒマワリはぎくりとした。ビスケットを一枚食べたこともばれたのだろうか。
恐る恐る厨房へ下りていくと、そこにはクロがいて、シャツの袖をまくり上げている。
「ヒマワリ、さっさと準備しろ」
「……準備?」
もう、怒ってはいないのだろうか。
「ゼリーを作るんですよ」
そう言ってアオが、ヒマワリにエプロンを着せてくれる。
「え?」
ぶっきらぼうに、クロがボウルをこちらに押し出した。
「二人分のゼリー作るんだよ。お前はこれ混ぜろ。俺は果物を切る」
「喧嘩しないように、たくさん作りましょうね」
ヒマワリはびっくりして、クロを見上げた。
少しばつの悪そうな顔をしているが、怒っていないとわかる。
思わず、ぱっとクロに抱きついた。
「なんだよ」
「あのね、勝手に食べてごめん」
「……今度からは、二等分にしてやる」
そんな二人を、アオが感動したように拳を握りしめて見つめている。
「ああ、なんて尊い和解でしょう! ねぇミライさん?」
「完全に小学生の仲直りだな……」
「? 小学生、とは?」
「いや、なんでもない」
するとヒマワリは、クロの腰に埋めていた顔をくいっと上げた。
「でも僕、今プリンが食べたいな」
「おい、クソガキ」
ぴきっと引きつったクロに、ヒマワリは笑い声を上げた。
「嘘だよ! ゼリーがいい!」
「プリン食ってろ!」
「ゼリー作る! 食べきれないくらいの大きなやつ!」
「はい、じゃあお湯を沸かしましょう」
「ミライも一緒に作ろうよ!」
「いや、俺はそろそろ、時間切れ――」
そう言いかけたミライの姿が、ぐにゃりと歪む。
「え……」
驚くヒマワリの前で、ミライの姿は空間に溶け込むように、ふいに掻き消えてしまった。
「ミライ!?」
「未来に戻られたんですよ。いつも結構唐突です」
慣れた様子で、アオが言った。
「……また会える?」
「会えると思いますよ。ミライさんが言っていたじゃないですか。ヒマワリさんとは何度も会っていて、長い付き合いだと」
「うん……」
突然消えてしまうのは、なんだか寂しい。
さっきまでそこにあったミライの気配が、ぽっかり穴のようにその場に沈んでいる。
(次に会うまでに、チェスの練習しておこう)
そこからは、三人ともゼリー作りに精を出した。
とにかく大きくしたいというヒマワリの要望に、クグロフ型より大きな型がないと言ってアオが持ってきたのは、未使用のバケツであった。そこに苺、ブルーベリー、葡萄にオレンジなどの切った果物と、ゼラチン、砂糖、果汁を沸騰した水に溶かしたものを入れ、冷蔵用の保存庫で固まるのを待つ。
しばらく経ってバケツを取り出すと、ヒマワリは目を輝かせて覗き込んだ。
「固まってる!」
「そーっと出すぞ、そーっと」
湯煎したバケツを逆さにし、つるりと綺麗に取り出すことに成功すると、三人は揃って歓声を上げた。
「よし、あとはこれを二等分に切れば平等だ。文句ないな?」
「僕切る!」
「だめだ、俺がやる」
「僕がやりたい」
「絶っ対真っ直ぐ切れないだろ、お前」
「ヒマワリさん、包丁は危ないですから、今回はクロさんに切ってもらいましょう」
ヒマワリはちょっと不服だったがまた揉めるのは嫌だと思い、ここは大人しく引き下がることにした。そんな自分は、少し成長したと思う。
包丁を手にしたクロは、ゼリーの上で慎重に切っ先を当てる位置と角度を調整している。
「おい、今、絶対触るなよ」
「早くー」
「押したりすんなよ。曲がったら困る――」
途端にどんと背中を押されたクロの手は、ゼリーに斜めに突っ込んだ。
息を呑んだクロは、無言で手元を見下ろす。
包丁の切っ先は、等分とはほど遠い位置にめり込んでいる。
ゆらり、と背後を振り返った。
クロの背を押したアオは、何食わぬ顔をして立っていた。
「アオ……お前」
恨めし気に睨みつけるクロに、アオは首を傾げる。
「え? 押すなと言ったら、押すのが人間なのですよね? どうです、人間っぽいです?」
【つづく】