魔法使いのお留守番 第二話

呪いを継ぐ者
真白いシーツが、青空の下はたはたと揺れている。
城の南側にある物干し場で、ヒマワリはその様子を見上げていた。
アオが皺を伸ばしながら、一枚ずつ丁寧に干した洗濯ものが、祭りの旗のように列をなしている。
籠から次に干すシーツを取り出して、ヒマワリはアオに「はい」と渡す。
「ありがとうございます」
優しく微笑んで、アオはシーツを受け取った。
青銅人形のアオは、自然に表情が変わるということがない。だからこれは、意図的に『微笑む』という形状を作っているのだ。ヒマワリに対しては、出来得る限り優しい顔を向けるように努力しているらしい。
最近はよく、ヒマワリの表情をじっと観察しては、人間らしさを習得しようと頑張っているようだった。しかしそうして作った顔はどこか歪だったりするので、ヒマワリはついつい笑ってしまう。笑ったヒマワリを見てさらにそれを真似しようとするから、もっとおかしくて笑いが止まらなくなることもしばしばだ。
今日は城中のシーツをすべて洗うというので、ヒマワリは自分のベッドのシーツを剝がし、小さな身体にのしかかるそれを両手に抱えてリネン室へと運んだ。
それだけでアオは、
「おお、なんと。とても助かります。ありがとうございます」
と大袈裟に褒めてくれる。
「ヒマワリさんは偉いですね。クロさんなんて、何度言っても自分では持ってきてくれないので、俺が無理やり引き剝がしに行くんですよ」
「クロ、どうして持ってこないの?」
「面倒くさいとか、別に洗わなくていいとか言うんです。万年床のしっとりした感じがいいんだとかなんとか……まったくもって不衛生です。ヒマワリさんを見習ってほしいものですね」
「僕、持ってこようか?」
「いえいえ、それには及びません。さきほど、まだ寝ているクロさんを転がして剝いできましたので。ですが、次回からはお願いするかもしれませんね」
そしてアオは、「別のお手伝いをしてくれますか?」と洗った洗濯物を外に運び出すと、籠からひとつずつ出して自分に渡してほしいと指示したのだった。
だからヒマワリは、ちょっと誇らしげに洗濯物を取り出しては、アオに手渡す、を繰り返している。それだけなのに、自分も役に立っているのだと思えて嬉しい。
アオは大きなシーツを広げて、「こちらの端を持っていてください」と促した。ヒマワリがめいっぱい両手を広げてシーツの端を持つと、反対側を持ったアオがバサバサと上下に振る。わずかに残っていた水滴が弾けるように舞って、太陽に透かされキラキラと輝いた。
「ではいきますよ、せーの」
二人で息を合わせて、ひらりと物干し紐にかけてやる。
洗濯ばさみで留めたシーツが、ふわふわと空気を孕んでヒマワリの頬を撫でた。
「ありがとうございました。おかげではかどりましたよ。あとはお昼まで遊んでいらっしゃい」
アオが籠を置いて庭の草むしりを始めたので、ヒマワリは一人、物干し台の間を歩き始めた。
小さなヒマワリにとっては、空高く視界を覆うように垂れ下がるシーツが左右にずらりと並ぶ様は、まるで迷宮への入り口のようだ。おばけのように揺れるその垂れ幕を掻き分けて、隣の列に飛び込んでみる。さらにその向こうへ、今度は反対側へ。あるいはシーツの内側に入り込み、身を隠して顔だけ出してみる。
ヒマワリはふと、風を起こす魔法を使ってみようと思い立った。このシーツたちが一斉に大きく揺れたら、きっと派手で面白いに違いない。
魔法を使ってはいけない、とアオとクロには言われているけれど、風が吹くのは自然なことだから、ばれない程度にやればいい。
風を起こす魔法は、本では読んだけれど試したことはない。それでも、できるという確信があった。見たこともない、誰に教わったわけではないけれど、まるで身に沁みついた動作のように感覚で摑むことができる。本には細かい理論が書いてあったけれど、正直そちらはよくわからなかった。ただ、こうすればいいのではないかという直感が、確かにある。
しいて言えばそれは、編む、ようなものだった。
例えば風なら、緑の紐に白い紐を掛け合わせて、絡ませており重ねて、ゆるやかな文様を描いていく――そんなふうに、目に見えない魔力を編んでいくのだ。
やがて、ひゅうひゅうと風が降りてきた。
その風を誘導し、洗濯物の間を勢いよく突っ切らせる。シーツが順繰りに上下に煽られ、鐘が鳴り響くようにはためく音がいくつも重なった。
ヒマワリは歓声を上げながら風を追いかけ、洗濯物の間を駆け回る。
急に強くなった風に違和感を覚えたのか、草むしりをしていたアオが顔を上げた。
「これは――」
きゃっきゃと走り回っているヒマワリに、アオは慌てて声をかけた。
「ヒマワリさん、もしかして魔法を使いましたか?」
ぎくりとして、ぱっと風を止める。
踊っていたシーツたちは、一斉に力尽きたようにへなっと項垂れ、静かになった。
ヒマワリは思わず、シーツの陰に隠れるように身を縮めた。
「ヒマワリさーん?」
洗濯物を掻き分け掻き分け、アオがヒマワリを探し回る。怒られる、と思いぐっと身構えていると、ついにヒマワリの隠れたシーツをまくり上げたアオは、腰を落として目線を合わせた。
「その発想は、ありませんでした」
「――え?」
「魔法で風を起こせば、洗濯物が早く乾きますね!」
得心したようなアオに、ヒマワリは戸惑って目をぱちぱちとさせる。
「ですがヒマワリさん。魔法は使わないと、約束したはずです」
「……ごめんなさい」
「俺もクロさんも魔法は使えません。使い方のわからないものをおもちゃにされては、危険なことがあった時に正しく対応することができません。ヒマワリさんがもし魔法を制御できなくなったとしても、止めることもできないでしょう。ですから、やめてください。危ないことのないように」
「……うん」
アオはやれやれというように立ち上がり、干し終わったシーツたちを眺める。
「今日は手伝っていただきありがとうございました。おやつはヒマワリさんの好きなものを作りましょう。何がいいですか?」
「!」
ヒマワリはぱっと顔を上げた。
「この間の、白くてぷるぷるしたやつ!」
「ブラマンジェですね。では、そうしましょう」
先ほどまでのしょげた顔から一気に喜色満面になったヒマワリは、飛び跳ねながら城へと駆け込んだ。
居間のソファに寝転んでまどろんでいたクロは、駆け込んできたヒマワリが突然のしかかってきて、現実に引き戻された。
極上の黄金を思わせる髪が、目の前で揺れる。
「ねぇクロ、なんでシーツ持ってこなかったの?」
「…………」
寝起きに耳元で大きな声を出されて、ひどく不愉快である。クロは目を閉じると盛大に顔をしかめた。
「僕ねー、アオを手伝ったんだよ」
「……もっと手伝ってこい」
「おやつはね、ぶらんまじぇだよ」
「……あっそう」
「ねークロ、外行こう。遊ぼうよー」
「……好きに跳ね回ってろ」
まとわりついてくる少年を引き剝がし、クロはのそりと起き上がった。
「クロ、ねぇ、次いつ竜になる?」
「さぁな」
「次は乗せて」
「やだ」
「乗りたい乗りたいー」
「だめだ」
「一回だけ!」
「俺が、人間を、乗せて飛ぶことは、ない!」
言い聞かせるように、一言ずつ切って言い放つ。
これまでも何度もせがまれたが、クロは断固として受け入れなかった。
竜は誇り高い一族だ。かつては人間と同じように自分たちの国を治め、力を誇った。竜は人から崇拝すらされる存在であり、人を背に乗せることなどしない。それでは牛馬と同じである。乗り物扱いされるのはごめんだった。
「お願いお願い、一生のお願い!」
「一生のお願いという言葉ほど軽いものはこの世にない! それにお前、魔法使いなんだから、空飛ぶ魔法覚えれば好きなだけびゅんびゅん飛べるだろうよ!」
「魔法使っちゃだめって言ったじゃん」
やぶへびになってしまった。
「……今はだめだって言ってるだけだ。いつか、大人になったらその時に……」
魔法使いは通常、幼い頃から先輩魔法使いに弟子入りして魔法を学ぶという。いずれヒマワリがここを出て、きちんとした教育を受けられるようになれば、その時には空飛ぶ魔法だって使えるだろう。
ただ、それがいつになるかはわからない。
この記憶喪失の少年の父親は、ヒムカ国の王だという。
魔法使いは決して国の統治者にはならないという掟があるから、恐らくヒマワリの母親が魔法使いの血筋なのだろう。
その母親は今どうしているのだろう、とクロは考えた。息子が傷だらけでこの島に漂着したことを、彼女は知っているのだろうか。あるいはすでに、この世にはいないのかもしれない。呪われた子、と呼ばれる息子を産んだとなれば、母であるためにその命を奪われていてもおかしくはない。
そうした一切を忘れてしまったヒマワリは、この島で波風のない生活を静かに送っていた。いまだに記憶が戻る気配はない。
平穏すぎる生活は、幼い少年には少々退屈なのかもしれない。時折こうして、竜に乗りたいなどと思い出したようにせがんでくる。
「やだ、今がいいよ!」
シャツの端を引っ張りながらごねる。クロは舌打ちしたいのを堪えた。
すっかり育児書を読み込むようになったアオによれば、こうして我が儘を言えるようになったことはよいことなのだという。それだけここでの生活に馴染んだ証だ、と。
確かに一緒に暮らし始めた頃は、もう少し控えめな態度だったと思うし、遠慮している素振りもあった。
(くそっ、アオが甘やかすからどんどん我が儘に……!)
シャツを摑んだ手をふりほどき、クロはびしりと言った。
「しつこいぞ、諦めろ!」
「でもクロさん、シロガネのことは乗せてあげたじゃないですか」
掃除道具を詰め込んだバケツを手に、アオがやってきて口を挟む。
「一度だけでしたけど」
「あれは……例外だ、例外! 仕方なくだ! もう二度と乗せねーって、あいつにもはっきり言っておいたし」
シロガネが乗ったなら自分も乗せろ、とヒマワリが言い出したら面倒である。余計なことを、とアオを睨みつける。
「……シロガネは、乗ったの?」
ヒマワリがぽつりと呟いた。
いつになく小さく、そして暗い声だった。
その表情が、ひどく翳っていることに気がつく。
「? ヒマワリ?」
俯いて、なんだか泣き出しそうな顔をするヒマワリに、わけがわからずクロは困惑した。そこへ助け舟を出すように、アオが言った。
「竜にはならずとも、クロさんにどこか連れていってもらうのはどうでしょう? 大陸まで買い物にでも一緒に行ってみては?」
ヒマワリはぱっと顔を上げた。
この島に来て以来、ヒマワリが島の外に出たのは自分の服や靴を買いにアオと出かけた一度だけだ。その時は大層喜んではしゃいで出て行き、帰ってからも興奮気味にあれこれとクロにこんなことがあったあんなことがあったと喋り続けていた。
「クロとおでかけ?」
「クロさん、そろそろ注文したシャツと上着を取りに行く頃では? ヒマワリさんと一緒に行ってきてはどうでしょう」
「またあの井戸入れるの!?」
「そうですよ」
島からの移動には、城の裏手にある古井戸を使う。中に入れば、目的地まで一瞬で移動できるシロガネの魔法がかけられているのだ。ヒマワリはこの井戸を相当に気に入ったらしい。
すっかり機嫌が直ったヒマワリだったが、勝手に話が進んでしまいクロは渋い顔になった。こんな騒がしい生き物を連れて歩くなんて、一体どれほど疲れるのだろうか。
「おい、勝手に決め……」
その時、アオが、はたと動きを止めた。
「――あ」
そして、どこか遠くを見つめるような目をする。
「来客です」
その報告に、クロはため息をついた。
不老不死を求める者たちは相変わらず、この終島へ惹きつけられるようにやってくる。永遠に止むことのない人間の欲深さには、呆れを通り越してもはやただただ面倒くさいという感情しか湧かない。
「行ってくる」
「お願いします」
クロは億劫そうに城を出て、ゆっくりとした足取りで砂浜を見下ろす岬へと向かった。
哀願めいた男の声が響いてくる。
「大魔法使いシロガネ様はいらっしゃいますでしょうか!」
クロは崖の上に立つと、うんざりしながら足下に広がるこの島唯一の砂浜を見下ろした。
「魔法使いは留守にしております」
猫の額ほどの砂浜には、人影が三つ。――いや、四つだ、とクロは認識を改める。
壮年の男とその妻らしき女、年若い青年。それと、彼に抱えられた少女。
不老不死を求めてやってくる輩は様々だったが、これはあまり見かけない組み合わせだった。家族だろうか。少し離れた場所には、古びた中型の船が一艘浮かんでいる。ヒマワリの時のように軍隊を引き連れてきた、ということはなさそうだ。
「いつ頃お戻りでしょう?」
「わかりかねます。お帰りください」
「お戻りになるまで待たせていただきたい! どうしてもシロガネ様にお会いしたいのです!」
「お帰りを」
立ち去ろうとするクロに、男の妻が悲鳴のような声を上げた。
「お願いです! どうか、どうか娘を助けてください! このままでは、この子は死んでしまいます……!」
話は読めた、とクロは冷たい視線を彼らに向けた。なんらかの病にかかった娘の命を助けるために、不老不死の力を求めているのだろう。
娘とは、青年に抱えられて俯いているあの少女に違いない。確かにずっと俯いたままで、ぐったりしているように見える。
「お力はなれません。どうぞお帰りください」
憐れみの色ひとつない様子で立ち去ろうとするクロに、彼らは縋るようにこちらに手を伸ばした。
「そんな……」
「待ってくれ! ここが最後の望みなんだ!」
「もう他に手立てがないのです! この竜の呪いを解けるのは、大魔法使いシロガネ様しか……!」
思いがけない言葉に、クロは足を止めた。
思わず振り返る。
(竜の、呪い?)
十代半ばと思しき少女は、わずかに顔を上げて、どこか恨めし気にこちらを見上げた。
クロは、わずかに息を呑んだ。
その顔の右半分は、竜の鱗にびっしりと覆われていた。
「これは、わが一族が受けた呪いなのです」
応接間に通された男は、ナグモと名乗った。
身に着けた上等な衣や佇まいからして、それなりの身分にある立場の人間だろう、とクロは見当を付ける。彼の隣に座った妻は、アオが茶を振る舞うと遠慮がちに礼を言った。少女は青年の手で、一人掛けの安楽椅子に細心の注意を払って丁寧に座らされていた。青年は使用人らしく、アオが椅子を勧めても固辞し、彼らの後ろに一歩下がって立っていた。
クロが四人を連れて城に戻ってきた時にはさすがにアオも驚いていたが、「とりあえずお茶でも」と客として迎え入れた。ただ、アオがずっと警戒しているのがわかる。この島を守る青銅人形として、その使命は意志とは別に本能として刷り込まれているのだ。
クロ自身、どうしてこんなことをしてしまったのかと、内心自分でも驚いていた。いつもなら、どんな泣き落としも意に介さず追い返してしまうのに。
(でも――)
椅子に座っているというより、置物のように据えられた少女の肌を覆う、鈍色の鱗。
それは確かに竜の鱗――クロの同族による呪いに違いなかった。
竜が滅んだと言われて以後、仲間の痕跡をこんなふうに目の当たりにしたのは初めてだ。
たった一人で生き延びたクロは、ずっと探していたのだ。同じように生き残り、息を潜めている仲間が世界のどこかにいるのではないかと。この呪いをかけたのは、その誰かかもしれない。
そんな儚い希望に、クロはわずかに動揺していた。
ヒマワリは部屋に入るようにと、早々にこの場からは追い出した。外から来た人間に、彼の存在はできる限り秘するべきだ。何かの拍子に彼の故国に存在が漏れ伝わっては、大事になりかねない。
クロはそんなことをぐるぐると考えながらも、出来得る限り平静を保って尋ねた。
「一体何をしでかして、そんな呪いを受けたのです?」
ナグモは暗い表情で口を開く。
「二百年前、疫病により恐ろしいほどの死者が世界中で出たことは、ご存じでしょう。当時我が祖先は、どんな病も治すという竜の血を求め、ある竜を殺めたのです」
ひくり、とクロの喉が微かな音を立てた。
気づいたアオがちらりとこちらに視線だけ向けたが、何も言わない。
「死の淵で、その竜は先祖に呪いをかけました。『お前の一族に、死よりも重い苦しみを永遠に味合わせてやる』と。――やがて一族の中に、竜の鱗が生える奇病が現れるようになったのです」
痛ましそうに、娘の姿に目を向けた。
「鱗は徐々に体中に広がり、やがては手足が動かなくなり、最後は内臓にまで及び……ついには、心の臓を止めてしまうのです」
少女は父の話などまるで他人事のように、ぼんやりと窓の外を見つめていた。彼女の足は、この島へ来てから一度も動いていない。
「不思議なことに、この病は同時に複数人には発症しません。一族の中でたった一人だけが発症し、やがてその者が死ねば、新たに別の者が発症します。三年前までは、私の弟が病にかかっておりました。ですが弟が亡くなった翌日、娘のセナに症状が出始めて……」
ナグモの妻が、勇気づけるように夫の手を握りしめた。
「最初は、足にわずかな鱗が出たのです。それがやがて、背中に、腕にと広がっていきました。今年に入って、ついに顔にまで……」
辛そうに表情を歪め、ナグモは片手で顔を覆う。
「我々は、なんとかセナが助かる方法はないかと探し回りました。ですが、どんな医者も匙を投げ、どんな魔法使いも呪いを解くことはできませんでした。最後の望みをかけて、こちらをお訪ねしたのです」
お願いします、と頭を下げた。
「シロガネ様のお力を貸していただきたいのです。もはやほかに、望みはありません」
クロはふうと息を吐いた。
それは、馬鹿な望みを抱いた己への戒めだった。
(やっぱり竜はすべて殺されたんだ。俺以外は)
竜の呪いは、呪いをかけた本人にしか解くことは叶わない。
その本人は間違いなく死んでいるのだから、もはやこの一族にかけられた呪いは永遠のものだった。
(当然の報いだな)
「残念ですが、申し上げた通り魔法使いシロガネは留守です。お力にはなれません」
「いくらでも待ちます! どうか……」
「お嬢様の具合が悪そうですので、今晩はここに泊まっていただいて結構です。ですが、明日にはお引き取りを」
ナグモとその妻は、絶望したように嘆いて顔を見合わせる。
「ああ、そんな……」
「どうしたら……」
クロはアオに声をかけた。
「アオ、客室の準備を」
「承知しました」
しかしナグモは、土気色の顔をしながら食い下がる。
「お待ちを……! それでは、あの、せめて……もしやシロガネ様は、竜の血をお持ちではないでしょうか?」
クロの表情がぴしりと凍り付いた。
「――は?」
「竜は絶滅しました。しかし、その血はすべてを使い切ったわけではなく、いくらか保存され恐ろしいほどの値で取引されたと聞いています! 今もまだ、わずかながらこの世のどこかにはあるのではないかと……。不老不死を得たというシロガネ様ならば、もしやその血を手に入れてはおられませんか? 竜の血はあらゆる病を治すもの。この呪いの病にも、効くやもしれません! もし、もしもあるならば、どうかわずかでもお譲りいただけないでしょうか!」
がたん、と音を立て、クロは勢いよく立ち上がった。
その剣呑な様子に、ナグモは驚いて口を噤む。
クロはそのまま、大股で彼らの前を横切り無言で部屋を出た。
こっそりとドアの前で盗み聞きしていたらしいヒマワリが、弾かれたように飛び退ってクロを見上げた。
「ク、クロ――」
彼を無視して、暗い廊下をつかつかと突っ切っていく。
憤りが収まらず、そのまま外へ飛び出した。暗い海の向こうから、島の岩壁に打ち付ける波の音だけが響いてくる。
思わず、苦い笑みを浮かべた。
竜を殺し呪いを受けておきながら、反省する素振りもなくまたもや竜の血を求める人間。
彼らの目の前にいるのがその竜だと知れば、なんのためらいもなく血を搾り取ろうとするだろう。
自らの手を、顔の前にかざす。そこに浮かび上がる、己の血潮の流れを感じる。
それは確かに、万病の薬となるものだ。
クロは目を閉じた。
思い出すのは、あの夜のことだ。
人間たちが攻めてきたあの夜、血を流した同胞たち、そして、必死に自分を逃がした姉の後ろ姿――。
クロはそれきり部屋に籠もり、ナグモたちの顔を見ようともしなかった。
翌朝、いつもよりわざと遅く起きて塔を下りると、二階から食器を下げてくるアオに出くわした。わざわざ客間まで、朝食を運んでやったらしい。
「そこまで至れり尽くせりにする必要ねぇだろ」
「あのお嬢さんに階段を上り下りさせるのは、酷ですから。使用人の彼も何度も抱えるのは大変でしょう。普段は車椅子に乗っているそうですよ。船に置いてきたそうで、さっきご両親が取りに向かいました」
「おい、帰る気ないのか、あいつらは」
「クロさん、一応お尋ねしますが、あの呪いをクロさんが解くことはできるんですか?」
「不可能だ」
きっぱりと言い放つ。
「やっぱり、そうですよねぇ。竜の呪いというのは、かけた本人にしか解除できないと言われていますからね」
アオは少し考えて、では、と質問を重ねる。
「これも念のためお伺いしますが、竜の血で本当にあの病気は治るんでしょうか?」
「さぁな」
クロは顔を背ける。
「一族の中の誰かに発症するという呪い自体は、解くことができないからそのまま続くかもな。でも、血を飲んだ本人の病は……治るかもしれない」
「なるほど。あのお嬢さんが治ったとしても、また新たに呪いにかかる人が、一族から出現し続けるということですね。――血、あげたりしないですよね?」
「当たり前だろ」
「シロガネが欲しがった時も、あんなに全力で抵抗していましたものねぇ」
シロガネが、竜の血の秘密を探り出すために一滴でいいから血液を採取させてもらえないかと懇願した時、クロは断固として拒否した。人間の前で、この身から血を流すつもりは一生なかった。
シロガネは相当に食い下がったが、結局は諦めて、それきり二度と血が欲しいと言い出すことはなかった。
ただ、一度だけシロガネに、自分の血を飲ませようと思ったことがある。
彼が床に臥せるようになり、命の火が消えそうになったあの時に。
――だめだよ。
とシロガネは言った。
口元に血の滴った指を差し出したクロに、悲しそうに唇を引き結んで微笑んでいた。
結局、シロガネは血を飲まず、やがて死んだ。
今でも時折、悔やむことがある。
あの時無理やりにでも、血を飲ませればよかった。あるいは、シロガネがクロの血を研究していたら、彼は不死の魔法を得て、今も生きていただろうか。
(シロガネにならまだしも、あんなやつらに、誰がこの血をやるかよ)
朝食の席で、クロは向かいに座ったヒマワリに釘を刺した。
「あいつらに、俺が竜だってことは絶対に言うなよ」
「そんなの、わかってるもん」
心外だとでもいうように、ヒマワリは眉をひそめて頬を膨らませた。
「僕、言わないよ」
「そうしてくれ」
「本当だよ!」
「わかったわかった」
「ねぇ、あの人たちもう帰っちゃうの?」
「ああ」
「僕、一緒に遊びたかったのに」
三人しかいない小さな島で暮らしているから、どうしたって余所の人間が珍しいだろう。しかも今回やってきたセナは、年若い少女だ。ヒマワリにしてみれば、遊び相手として認定されるお姉さんなのかもしれない。
「あいつらには、絶対近づくな」
ヒマワリは少しむくれている。
「ねぇ、じゃあどこか連れていって!」
「ああ?」
「お洋服取りに行くんでしょ?」
確かに、もう仕上がっているはずだ。最近島の外に出ていないし、今回の訪問者のせいで気分も悪い。気分転換に大陸まで出かけるのも、悪くないだろう。
ヒマワリを連れていくのは正直気が進まないが、これで竜に乗りたいなどとせがまなくなるなら、我慢しようかとも思う。
「そうだな……あいつらが出て行ったら、出かけるか」
「やったー!」
目を輝かせたヒマワリが、オレンジジュースの入ったグラスを勢いよく倒した。胸のあたりがびしょびしょに濡れそぼり、アオが慌てて拭いてやる。
「ヒマワリさん、服を脱いでください。染み抜きしますから」
「ごめん……」
「食事の席で騒ぐな、ヒマワリ」
「はぁい」
「ほら、着替えていらっしゃい」
椅子からぴょいと降りると、ヒマワリは小走りに自分の部屋へと戻っていった。
「では今日はお出かけですか。夕食はいりますか?」
「それまでには帰る」
「ヒマワリさん、嬉しそうでしたねぇ」
するとアオが、「おや」と首を傾げた。そして窓の外を確認し、クロさん、と呼んだ。
「外に停泊していた船が、どんどん遠ざかっていくのですが……」
「おー、出て行ったか」
「いえ、あの、二階にまだお二人いらっしゃいますけど」
クロとアオは互いに、顔を見合わせて黙り込む。
「……はぁ!?」
クロは飲みかけのコーヒーカップをテーブルに叩きつけ、勢いよく外へと飛び出す。
海の彼方に、北へ向かって小さくなっていく船の姿が見えた。砂浜を見下ろすと彼らの乗りつけた小舟は消えていて、代わりに木製の車椅子がぽつんと置き土産のように放置されていた。
すぐにとって返し、客間のある二階に駆けあがった。追いかけてきたアオも、それに続く。
ちょうどそこに着替えを終えたヒマワリが下りてきて、二人の様子に「どうしたの?」と驚いて足を止めた。
「部屋に戻ってろ!」
わけがわからないという顔のヒマワリをそのままに、クロは乱暴にドアを開けて客間へと飛び込んだ。ノックもせずに入ってきたクロに、使用人の青年は驚いて立ち上がる。そしてすぐに、椅子に座っている少女を背にして守るようにした。
「一体なんです? 失礼じゃ――」
「どういうつもりだ!」
昨日までは一応外面として丁寧な対応をしていたが、もはや普段通りの口の悪さが出てしまっている。
「何故船が出て行く!」
「船……? え……?」
「お前たちの乗ってきた船だ! 帰るなら一緒に帰れ! くそっ、無理やり居残って粘るつもりかよ、性質悪いぜ!」
青年は目を白黒させている。
「え? 一緒にって……え?」
「外を見てみろ!」
彼は息を呑み、ぱっと窓に飛びついた。
その顔に、じわじわと驚愕の色が浮かぶ。
「セナお嬢様! 船が……船が島を離れていきます! ど、どうして……旦那様と奥様は!? さっき、お嬢様の車椅子を取ってくると仰っていたのに……」
「あの船の上だろうよ。ちなみに車椅子なら、砂浜に置いてあったぞ」
「そんな……!」
何も知らなかったらしい青年は、頭を抱えた。
すると、忍びやかな笑い声がくすくすと漏れ聞こえてくる。
セナが肩を揺らして笑っているのだ。
同時に、細かい編み込みの入った彼女の髪も微かに揺らめく。その長いブラウンの髪は妙に冷たい色味で、彼女の冷めきった緑の瞳と合わさって、全体的にこの少女に硬質な印象を与えていた。
「わからないの、ムカイ。捨てられたのよ、私」
クロは眉を寄せる。
「何?」
「この呪いを消せないなら、あの人たちにとっては要らない人間ってことよ。だから、ここに捨てていかれたんだわ」
「お嬢様! そんなはず……」
「お前も知ってるでしょ。来月までに私が治らなければ、あの人たちはおしまいなんだから」
「お嬢様……!」
アオが首を傾げた。
「どういうことです? 来月、何かあるんですか?」
セナは皮肉っぽく、唇をつり上げた。
「我が国の王太子殿下が、私を妻にとご所望なの。来月、結婚式があるのよ。私の顔にまだ鱗が生える以前、この身体が病に蝕まれていることを知らず、私を見てお気に召したんですって。今も、彼は私がこんなご面相になっているとは知らないわ。両親が隠したの。だから必死なのよ、なんとかして病を治して嫁がせないと、って」
「お嬢様、それはきっかけに過ぎず――」
「馬鹿じゃないの。お父様とお母様は私に鱗が生えた途端、私を見ようともしなくなったわ。代わりに妹に期待をかけて、あの子ばかり可愛がった。いいえ、それだけじゃない。あの人たちはね、一族の人間が新たに病にかからないように、私ができるだけこの病のまま長生きすることを願っていたのよ。それが殿下からの求婚があって以来、手のひらを返したように血眼になって病を治す方法を探し始めたわ。――馬鹿みたい」
セナの表情にも声にも、怒りや悲しみは見えなかった。本当にただ、馬鹿馬鹿しいと感じているといったふうに、静かに淡々と語っている。
「結婚式までに、なんとか私を治そうというわけよ。で、ここまでやってきたけれど大魔法使いシロガネはいないし、もはや万策尽きた。それであの人たちは、急いで帰らないといけないんだわ。私の代わりに妹を殿下に差し出すために、あれこれ工作する必要があるんだもの」
ムカイと呼ばれた青年は、暗い表情で項垂れた。もう反論できないほど、それは彼にとっても納得のいく真実であったらしい。
「で、ですが、ここで待っていればシロガネ様がいずれ戻られて……」
「もういいわ」
少女が冷めた口調で言った。
「無駄よ。どんな魔法使いにだって無理なのよ」
「お嬢様」
「もう死ぬのよ、私。それでいいじゃないの」
それはすっかり、諦めきった声だった。硝子玉のような目をして、セナは窓の外を見つめていた。
(また僕だけ、のけ者……)
開きっぱなしのドアの脇で彼らの会話に耳をそばだてながら、ヒマワリは膝を抱えていた。
無意識に、唇を尖らせる。
きっとシロガネだったら、いつだって何か事が起きたら彼らと一緒に行動するのだろう。
かつてこの島に住んでいたという大魔法使い、シロガネ。
クロとアオが、ずっとその帰りを待ち望んでいる彼は、すでに死んでいる。その証拠に、島には彼の墓標もある。
それでも二人は、いつか彼が戻ってくると信じて待っているのだ。
クロは、シロガネには竜の背に乗ることを許したという。それほど彼にとってシロガネの存在は特別で、そして自分は――そうではない。
いらいらとして金の髪を指に絡ませ、ぐるぐるといじり倒す。
部屋から人が出てくる気配を感じると、ヒマワリはぱっと立ち上がって、逃げるように階段を駆け上がった。
三階に上がったところで、階下からの声が聞こえた。
「家のために無理やり好きでもない男と結婚させられる……まるで『薔薇騎士物語』に出てくるマチルダのようです!」
「知らねーよマチルダ!」
「マチルダはとっても勝気な女の子でして、親の決めた結婚を嫌がって家を飛び出してしまうんですよ。それで男装して旅に出るんですが――」
「聞いてねーし! それより、早くあいつらを追い出すぞ」
「えー、もう少し詳しいお話を聞きたいんですが」
「だめだ、井戸に押し込んでさよならだ」
「そうですか。残念ですねぇ……」
「――あの、すみません!」
使用人の青年、ムカイの声が追いかけてくる。
ヒマワリは踊り場から身を乗り出し、階下の様子をこっそり覗き込んだ。
「本当に申し訳ないのですが、しばらくこちらに置いていただけませんか。ご迷惑なのは重々承知しておりますが、あの、僕、なんでもします! 雑用でもなんでも」
「間に合ってる」
「お願いします! お嬢様は体調がよくないんです。ここまでの旅で余計に弱ってしまっていて……しばらく安静が必要なんです。その間に僕が手紙を書いて、旦那様に迎えにきてもらえるよう頼んでみますので、どうかそれまで……」
「しばらくなら、いいのでは? クロさん」
「だめだ」
「でも、本当に具合が悪そうでしたよ。顔色も悪くて」
「だめだ! さっさと出て行け!」
さらにアオに何事か低い声で告げてから、足早にクロが階段を下りていく音が響いた。困惑した様子のムカイが部屋に戻り、アオもまたその場を去っていく。
ヒマワリがそろそろと一階へ下りていくと、ちょうどクロが外へ出て行くのが見えた。
後を追って、玄関扉を押し開ける。
クロは昨日から、ずっと機嫌が悪い。
セナが来たからだ。竜の呪いを受けた、あの少女が。
(クロはきっと見ていたくないんだ、あの子を)
城の裏手に回ったクロが、古井戸に手をかけるのが見えた。
彼がひょいと中に飛び込んでしまったので、ヒマワリはあっと声を上げた。
「クロ!?」
中からわずかに光が漏れ出し、やがて消える。
ヒマワリが慌てて飛びつくと、そこには深く暗い穴が開いているだけだった。
これは魔法の井戸だ。飛び込めばどこへでも移動することができる。ヒマワリも一度、アオと一緒にここに入って、大陸へと連れていってもらったことがあった。
しかし、道はもう閉ざされてしまった。行き先がわからなければ、後を追うこともできない。
「アオ、ねぇ、クロが井戸でどこかへ行っちゃった!」
城に戻ると、食器を洗っていたアオに飛びつく。
アオは、ああ、と声を上げた。
「注文していたシャツを取りに行くと言ってましたよ」
「え」
ヒマワリは目を瞠る。
「僕と一緒に行くって、言ったのに」
「あ……そうでしたね」
「一緒に行くって、言った……」
置いていかれた。
すっかり忘れられていたのだ。
それほどに自分は、どうでもいい些末な存在なのか。
そう思ったら、ひどく情けない気分だった。
涙を滲ませるヒマワリに、アオがおろおろとする。
「また今度、連れていってもらいましょう。あ、それともまた俺と買い出しに行きますか?」
ヒマワリはぶんぶんと首を横に振った。
「クロと一緒がいいの!」
思い切り否定されて、アオはショックを受けたようだった。がん、と動きが止まり、微かにかたかたと身体が揺れる。
固まっているアオにぷいと背を向け、ヒマワリは駆け出した。
一緒に出かけるのを、本当に楽しみにしていたのだ。
(クロの馬鹿。約束したのに……)
じわりと滲んだ涙を拭って、鼻をすする。
むくれながら、居間のソファにどすんと沈み込んだ。
クッションを摑むと、怒りに任せて壁に向かってぽんと投げつけてやる。しかし、そんなことで気は晴れなかった。
窓の外には、色とりどりの花が咲き乱れる庭が覗いている。その間を抜ける煉瓦の小道に、車椅子を押すムカイの姿が見えた。
しかし車椅子の上に収まったセナは、花など目に入っている様子はない。無感動な表情で、ぼんやりとしていた。ムカイは必死に何かを話しかけているようだが、反応はない。
城の中は、静まり返っている。
ヒマワリは立ち上がると、廊下を突っ切って、突き当たりにある小さな扉に手をかけた。覗き込めばそこには螺旋階段が渦巻いて、どこまでも高く伸びている。北の塔へと通じる唯一の階段だ。
ヒマワリは薄暗い階段に足をかけ、一歩ずつ上っていった。永遠に続く同じ景色とくるくると回り続ける感覚に、目が回りそうである。
息を切らして登り切ると、扉が現れた。
塔の上のこの一室が、クロの部屋である。
これまでも何度か来たことはあるが、それはいつもクロが部屋にいる時だった。勝手に入ると怒られるのだ。
けれど、今日はまだ当分、クロは戻ってこないだろう。
ヒマワリはそれでも少しの後ろめたさから、足音を忍ばせた。
主のいない部屋は薄暗く、静まり返っていた。窓から差し込む光が、決して広くはない部屋の陰影をうっすら浮かび上がらせている。
竜はその習性として、キラキラと輝くものに心惹かれるのだという。クロの部屋は、まさにキラキラのピカピカで溢れていた。輝く薄紫色の鉱石、じゃらじゃらと豪華な黄金の首飾り、精緻な細工が施された美しい香水瓶……。
しかしいずれもひどく雑多に置かれていて、あちこちで山になって崩れ落ちそうである。キラキラしていればいいというだけで、ひとつひとつを愛でるつもりはないらしい。
クロは日によって異なるピアスを左耳にだけつけているが、それすら棚の上にぶちまけられたようにぐちゃぐちゃと重なり合っていた。
ただし一つだけ、例外があるのをヒマワリは知っている。
それは窓辺に据えられた机の上で、美しい硝子箱にきちんと収められていた。
ヒマワリは背後を振り返り、誰もいないのを改めて確認してから、意を決してその箱に手を伸ばした。
蓋を開け、収められていたピアスをそっと取り出した。
高く持ち上げて、光に透かしてみる。
ほっそりとしたチェーンが伸び、その先には美しく繊細なカットが施されたクリスタルが揺れていた。それは淡い海のような色合いだ。しかし眺めているうち、その色はさざ波のごとく現れては消え、また閃いては消え、を繰り返す。
このピアスには、魔法がかけられているのだ。
(魔法をかけたのは、きっとシロガネだ)
魔法について、ヒマワリに教えてくれる人は誰もいないし、限られた本で得た知識しかない。
それでも魔法に触れれば、ぼんやりとその質感を捉えることができた。
だから、わかった。
この島のあちこちに残された魔法と、同じ肌触りがする。
(シロガネが、クロにあげたんだ)
クロはこのピアスを、大切にしまいこんでいる。ほかのものとは明らかに、異なる扱いで。
ヒマワリは、ぎゅっと手の中にピアスを握りこんだ。
クロが戻ってきたのは夜、ヒマワリが夕食を終えようという頃だった。アオが、おかえりなさいと声をかける。
「クロさん、夕飯は?」
「いらない。食べてきた。――あいつらは? まだいるのか?」
「ええ、お部屋に」
「ちっ」
不愉快そうに、クロは自室へと上がっていった。
しかししばらくすると、ひどく慌てた様子で駆け戻ってくる足音が聞こえた。ヒマワリはわずかに、身を固くする。
「アオ! 俺の部屋に入ったか?」
「今日ですか? いいえ」
「ピアスがない!」
「ピアスですか? 整理しないからですよ。あんなにごちゃごちゃ置いて……どこかに埋もれているのでは?」
「違う、シロガネのピアスだ! 満月の月明かりに夜の海の波を注いで、あいつが作ったやつ! 箱ごとないんだよ!」
「よく探しましたか? 別の場所に置いたとか」
「部屋中探したし、動かしたりしない!」
こんなに動揺しているクロを見るのは、初めてだ。
(そんなに、あれが大事なんだ)
シロガネにもらったものだから。
胸の中で、どろどろとしたものが溢れ出す。ヒマワリは目を伏せ、皿の上に残った子羊のロースの最後の一切れを口に運んだ。
落ち着かない様子で部屋の中を行ったり来たりしていたクロは、ふと足を止めた。
「――ヒマワリ」
ごくり、と肉を飲み込む。
味がわからない。
「お前、俺の部屋入ったか?」
「入ってない」
ヒマワリは椅子を降り、「ごちそうさま」とアオの傍を通り抜け出て行こうとする。
「待て、ヒマワリ!」
ヒマワリは思わず、びくりと肩を震わせた。
怒気を孕んだクロの声は、まるで刃物のように鋭い。普段、邪険にされることも面倒くさそうに扱われることもあったが、そんな時の声が懐かしく思えるほど、いつもと違う厳しい声音だった。
「俺のピアス、どこへやった」
「知らない」
「お前の部屋を探すぞ」
「やめてよ!」
「じゃあ言え」
「知らないってば」
「ヒマワリ、俺の顔を見て言えよ」
ヒマワリはさっきからずっと、クロと目を合わすことができずにいた。
嘘をついているのがばれないように。
それに何より、怒ったクロを見るのが怖かった。自分のことを責める目をしたクロを、見たくない。
心配そうに、アオが割って入る。
「クロさん、疑ってかかるのはよくないです」
アオはヒマワリの前に屈みこみ、優しく声をかけた。
「ヒマワリさん。クロさんのピアスについて、何か知っていますか?」
「…………」
「ヒマワリさん?」
しかしヒマワリは答えず、ぱっと身を翻した。そのまま部屋を飛び出すと、階段を駆け上がって自室へと駆け込んだ。
すぐに、鍵をかけたドアの向こうからドンドンドン! と強く叩く音が響き渡る。
「ヒマワリ、開けろ!」
ヒマワリは答えず、ベッドにもぐりこんだ。頭から布団を被って丸くなる。
ひくひくと嗚咽が漏れ始め、涙がせり上がってきた。しゃくりあげながら、ヒマワリは声を上げて泣いた。
クロはしばらく怒鳴っていたが、やがてアオがやってきて「落ち着くまでしばらくそっとしておきましょう」という声が聞こえると、やがて二人分の足音が遠ざかっていった。
ひどく、みじめな気分だった。
散々泣いたヒマワリは、すっかり夜も更けた頃にもぞもぞとベッドから這い出した。
とても眠れそうにない。
恐る恐るドアを開けて廊下を覗き込んだが、誰の姿もない。城はしんと静まり返っている。クロはもう寝ただろうか。
足音を立てないよう階段を下りると、厨房からほんのり明かりが漏れているのが見えた。きっとアオだ。青銅人形のアオは、夜も眠らない。代わりにわずかな時間、しばらく動作を止めて休止状態に入ることがあるが、それは必ずクロが起きている昼間に行うと決めている。恐らく、明日の仕込みでもしているのだろう。
気づかれないよう、息を殺して玄関に向かう。扉が音を立てないようゆっくりゆっくり開け、するりと外へ抜け出した。
波の音が、闇の向こうから耳に迫ってくる。少し湿った風が金の髪を揺らした。
クロの部屋からピアスの入った箱を持ち出したのは、確かにヒマワリだ。
衝動的に持ち出して、今は書斎の一番奥の本棚の陰に隠してある。
隠したピアスの姿が、脳裏をよぎった。
光を浴びることなく暗い夜に蠢く天の川のようなあのピアスは、きっとクロによく似あうだろう。シロガネがそう思って彼に贈ったことは、手に取るようにわかった。
(シロガネはずるい)
きゅっと唇を嚙んだ。
大魔法使いとして魔法を自在に操って、名声をほしいままにして、この島でクロとアオと一緒に気ままに暮らして――彼はなんだって持っている。
(僕には、何もないのに)
自分に、家族はいたのだろうか。
いたのなら、今どうしているのだろう。
(僕のこと、探しているのかな)
自分の身体についた無数の傷痕は、誰かに殺意を向けられた事実だけを残している。
何もない自分に、ヒマワリという名前をくれたのはクロだ。その名前があるから、ここにいてもいいと思えた。
(あんなこと、しなければよかった……)
ひどく焦ったクロの表情を思い出す。
心の底から怒っているとわかる、厳しいどなり声。
きっとクロは、まだ怒っている。もうすっかり、嫌われてしまったに違いない。このままずっと、ヒマワリのことを許さないかもしれない。
そうしたら自分は、ここを追い出されてしまうだろうか。
明日になったら、今すぐ出て行けと裏の井戸に放り込まれるのかもしれなかった。
(どうしよう……)
また泣きそうになって、目をごしごしと擦る。
気がつくと丘を越え、シロガネの墓までやってきていた。
月明かりを弾くその白い墓石は、ただの石のくせに、いつだって妙な存在感を湛えている。
ヒマワリは近くに落ちていた石を拾い上げると、おもむろに投げつけた。
それはこつん、と墓石に跳ね返って落下する。まるで呼応するように月が翳り、墓石が暗い影に沈んだ。思わず、ぱっと逃げ出した。
この小さな島で、行く場所など限られる。ぐるりと一周して林の手前に差しかかった時、ふと足を止めた。
ギギ、ギギ……
何かが軋むような音が、微かに聞こえた気がした。
(何の音?)
きょろきょろと音の源を探し、耳を澄ます。
ギギ、ギギギ……
音を辿って、ハーブ園に入り込んだ。バジル、ミント、フェンネル、セージにカモミール……アオが作っている一面のハーブの香りが夜気の中に漂い出す中、雲間から顔を出した月がゆっくりと進む車椅子のシルエットを青白く照らした。
竜の呪いを受けた女の子、セナだ。
車椅子の車輪を自ら回しながら、彼女はじりじりとハーブ園を抜けていく。その傍に、使用人であるムカイの姿はない。
竜の鱗に覆われた細い手が重たそうに車輪を回す様子は、なんだかひどく痛々しく思われた。車椅子は、庭を抜けてそのまま島の際まで進んでいく。
海を見下ろす絶壁の縁で、セナはようやく車椅子を止めた。
そのまま、身動きもせず、暗く黒い波の果てを見つめている。
ヒマワリは不安になった。
なんだか、少し前の自分を見ているようだった。
この島へ来た頃、どこかへ行かなくては、帰らなくてはと焦って、ああやって海を見下ろして――あの時は、クロが追いかけてきてくれた。
セナが、ぐっと両手に力を込めた。
車椅子が、じりりと前に進む。その先にあるのは、海だけだ。
ヒマワリは思わず声を上げた。
「危ない!」
同時に、浮遊の魔法を発動させた。
一気に魔力を編み上げる――崖下に真っ逆さまに落下しようとしていた車椅子の周囲に、大きな網を広げるように。
その網で車椅子を受け止めると、優しく包み込んで引っ張り上げ、セナごと宙に浮き上がらせた。そろそろと自分の目の前まで移動させて、慎重に地面に着地させる。
ほっと息をついた。
こんなに重量のあるものを浮かせたのは、初めてだった。
椅子の上のセナは驚いた様子で、
「魔法使い……?」
と呟く。
「あなた、まさかシロガネ?」
「違うよ。僕はヒマワリ。大丈夫? 今、ムカイさんを呼ぶから待ってて――」
「余計なこと、しないでよ!」
セナは苛立たし気に、椅子のひじ掛けを拳で叩いた。
驚いたヒマワリは、そのあまりの剣幕に固まってしまう。
「もう少しで死ねたのに!」
「し、死ねた……?」
「これ以上生きていてもしょうがないのよ! もう、全部終わらせたいの!」
切迫した表情で喚く姿に、ヒマワリは目を瞬かせた。
島へ現れて以来、こんなに感情的な彼女は初めて見る。
「私はもう治らないのよ! 死ぬのを待つだけ! どんどん身体も動かなくなって、死ぬまでずっと苦しみ続ける! そんな地獄はもう嫌なの!」
必死に車輪を押し、再び海に向かおうとする。ヒマワリは慌てて車椅子に飛びついた。
「ま、待って! シロガネなら、治せるかも! シロガネが、帰ってきたら……」
帰ってきてほしくないと願っているのに、なんて矛盾したことを言うんだろう、と我ながら思う。
しかしセナは、激しく頭を振った。
「治りたくなんかないのよ!」
「そんな、そんなこと――」
「治ったら私は、あの男と結婚させられる――あの横暴で残忍で、最低の男と! 私が不幸になるとわかっているのに、お父様やお母様はそれを望むわ! それで一族は安泰なんだって……冗談じゃない! ただでさえこの呪いを背負って苦しんだのに、まだ苦しめっていうの!」
吐き出すように、セナは叫んだ。
「私が死ねば、一族のうちの誰かがまた新たにこの呪いを受けるわ。今、私のことを厭わしく避けている、あいつらの中の誰かが! そうなればいいのよ! みんなずっと、未来永劫この呪いに怯えて暮らせばいい!」
だから、とセナの手がヒマワリの肩を摑む。
「お願い、死なせて……! この病がさらに進めば、自ら命を絶つ力さえなくなってしまう。今しかないのよ。監視の目がない、今しか……!」
セナの瞳には、溢れる涙が浮かんでいた。
縋るようにヒマワリを摑む彼女の手は、微かに震えている。
ヒマワリはその鱗に覆われた手を、そっと握った。
するとセナがびくりと震えたので、ヒマワリははっとした。
「ごめん、痛いの?」
竜の鱗が生え、死に至る呪い。鱗の部分は、触れたら痛むのだろうか。
セナは一瞬息を呑み、そして逃げるようにぱっと手を引く。
「――痛く、ないわ」
隠すように両手を重ね合わせ、視線を彷徨わせた。
「気持ち悪いって思ったんでしょう」
「思わないよ」
セナは皮肉っぽく唇を歪ませる。
「みんな、口ではそう言って目を逸らすんだから」
ヒマワリはむっとして、彼女の手を両手でぎゅっと握った。
「思わないったら! 竜ってね、すごくかっこいいんだよ!」
セナは驚いたように目を瞠る。
「かっこいい?」
「そうだよ! 大きくて、強くて、それにすごく綺麗で……」
「まるで、見てきたように言うのね」
ヒマワリははっとして、もごもごと口籠った。
実際に見たことがある、とは言えない。クロが竜であることは、秘密なのだ。
「……ねぇ、部屋に戻ろうよ」
「嫌よ」
「でも……死んだら嫌だよ」
「なんでよ。赤の他人じゃない。私がどうなろうが関係ないでしょう」
「それでも、嫌だよ……」
引き留めるように、強く彼女の手を握りしめる。
泣きだしそうになるヒマワリに、セナは少し戸惑ったように俯いた。
「……わかったわ」
「本当?」
「代わりに、お願いをきいてくれる?」
「お願い?」
「あなた、魔法使いなんでしょう」
「うん」
「私を、ここから逃がしてほしいの」
「逃げる?」
「ここにいたら、いつかまたあの家に連れ戻される。そんなの絶対嫌なの」
「どこへ行くの?」
「どこだっていい、自由になれるなら。お金ならあるから、なんとかなるわ。――確か砂浜に、小さな舟があったわよね」
それはかつてヒマワリが乗ってきた舟で、今も砂浜に打ち上げられたまま放置されていた。
「あの舟に私を乗せて。そして、一番近い港まで進むように魔法をかけてよ」
「だ、だめだよそんなの」
「お願いよ、早く! ムカイが気づいて、起きてくる前に!」
魔法で舟を進ませる――やったことはないが、きっとできるだろうとヒマワリは思った。物を動かす魔法を、舟にかけてやればいいはずだ。
そう考えて、ヒマワリはあることを思いついた。
「うん……わかった」
頷くと、セナはぱっと身を乗り出した。
「本当?」
「僕も一緒に行く」
「え?」
「それならいいよ。僕、もうここにはいられないの。ここを出て、どこかで一緒に暮らそうよ。だってこの先、車椅子を押す人が必要でしょ?」
(追い出されるくらいなら、自分で出て行くんだ)
世間知らずの二人の家出には、なんの計画性もなかった。それでも、互いにここにはいられないという強い思いが、狂おしくその背を押していた。
ヒマワリはセナを再び浮遊させ一緒に砂浜まで降り立つと、舟に彼女を乗せてやり、車椅子もその横に積み込んだ。
風が出てきていた。それでも、波はさほど高くはない。
ヒマワリは魔法で舟を動かし始める。思った通り、それは難なく成功した。二人を乗せた小舟は、風に押されたようにするすると暗い海原へ滑り出していく。
空はいつの間にか雲に覆われ、月はすっかり隠れてしまう。星もない夜の海の上で、二人は北を目指した。大陸のあるほうへ。それ以上の具体的な行き先などわからないが、それでもよかった。前に進んでいるという高揚感が、二人を満たしていた。
「――私に呪いが移る前はね、私の叔父様が呪われていたの」
島から舟が離れて順調に進み始めた頃、セナがぽつりと語り出した。動かない足を投げ出して、舟の縁に背を預けている。
「私が幼い頃から、叔父様の身体には鱗が生えていたわ。みんな怖がって近寄らなかったし、私もいつも遠巻きにしてた。やっぱり、怖かったもの。でも叔父様はなんとか運命を変えようとして、呪いを解く方法を探しに、よく旅に出ていたのよ。……でもどんどん身体が動かなくなって、最後は寝たきりになってしまった。私、窓の外から少しだけ、そんな叔父様を覗き見たことがあるの。怖がっている割に、好奇心だけはあったのよ。最低よね。……その頃の叔父様はもう、人には見えなかった。身体中、びっしりと鱗に覆われて……息をするのも苦しそうだった」
思い出しているのだろう、ぶるりと身体を震わせた。
「叔父様は、庭から覗いている私に気づいたの。目だけが微かに動いたから、わかったわ。そして、かすれた声で言ったの。『ごめん』って」
「……どうして謝るの?」
「『呪いを解く方法が、見つからなかった。僕が死ねば、また誰かが苦しみを抱えることになる』――苦しそうに、そう言ってるのが聞こえた。私、怖くてすぐに逃げ出してしまったの。その翌日、叔父様は亡くなったわ。そして……今度は、私の身体に鱗が生えた」
じっと、自分の手を見下ろす。
「叔父様は、優しい方だったわ。化け物扱いして、怖がって近寄ろうともしなかった私なんかのことまで、心配してくれていた。彼が呪いを解く方法を探していたのは、ただ自分のためだけじゃなかったんだわ。自分の次に犠牲になる誰かを、もう出したくなかったのよ。……この呪いをかけた竜は、人の心をよく知っていたのね。こんなの、どんな復讐よりも効果的で恐ろしいじゃない? 永遠に逃れられない恐怖を、私たちに突きつけ続けるのよ。これからまた、幾世代も、何百年も、何千年も……終わりなく、永遠に繰り返すものほど残酷なことはない。こんなことなら、疫病で一族が全滅しているほうが何倍もマシだった……」
ヒマワリは、ぎゅっとセナの手を握った。
「……ねぇ、ヒマワリは、魔法使いシロガネの弟子なの?」
「違うよ。僕、シロガネには会ったことないもの」
「会ったことがない? 魔法使いはいつから不在なの?」
「僕が島へ来たのは、四か月前だよ。でもシロガネはその間、ずっと帰ってきてない」
「そんなに長く? ……それなら、やっぱり待っていても無駄だったのよね。みんな、本当に馬鹿みたい……」
もう、島影は豆粒のように小さい。
その光景を目にした途端、これは現実なのだという実感に襲われた。
城に灯る明かりは針の孔程度の微かなものになり、かろうじてその目に映るだけだった。遠ざかるその光の中に、もう二度と入ることはできないのだ。
唐突に、心細さが募った。その寄る辺のなさが身を竦ませ、座っていることすら覚束ない気分になってくる。
セナも同じなのかもしれない。暗い海の上で、二人はだんだんと言葉少なになり、身を寄せ合うように舟の中に蹲った。
ランプを持ってくるべきだった、と後悔する。どうして光を灯す魔法を覚えておかなかったのだろう。
それに、寒いし、お腹も空いてきた。
「……ムカイに、ちゃんとお別れを言えばよかったわ」
セナからは、舟を出させるまでの激しい剣幕はすっかり消え去っていた。怯えたような表情は、彼女をひどく幼く見せている。
「あんまりよね、私のせいで一緒に置き去りにされて。ムカイはね、子どもの頃からうちの家に仕えているの。母親もうちの使用人だったけれど死んでしまって、今は一人。これまでずっと、誰もやりたがらない私の世話を押し付けられてたの」
セナは自分の髪を、辿るように撫でた。
「毎朝、髪を編んでくれたわ。最初は下手だったけれど、私が気に入るまで、何度もやり直して……」
今はほどいて梳かしただけの髪は、さらさらと風に揺れている。
「でも、これでようやくムカイも自由よ。好きに生きたらいい」
「大陸に着いたら、手紙を書こう。元気だって知らせれば、安心するよ」
ヒマワリは自分を勇気づけるように、わざと明るい声で言った。
「そうね……」
セナの頬に、ぽつり、と水滴が跳ねた。
波がかかったのかと思ったが、そうではなかった。
セナが怪訝そうに視線を上げた。
「――雨?」
つられるように、ヒマワリも天を仰ぐ。
雨粒は最初、ぽつぽつと落ちてくる程度だった。しかしそれは瞬く間に、強い勢いで海面に降り注ぎ始めた。
風が激しく吹き寄せている。荒れた海はうねり、大きな波が幾重にも立って舟を取り囲んでいた。小さな舟は、突き上げられるように大きく揺れる。
セナが悲鳴を上げた。
真っ直ぐ進めと魔法をかけても、舟は圧倒的な波の力に抗うことができなかった。木の葉のように翻弄され、二人とも必死に舟縁に摑まって身を縮める。
いっそ、舟ごと海面から浮かせてしまおうか。宙に浮かせたまま、大陸まで運べば――だがそんなに長い時間、魔法を使い続けることができるだろうか。何しろ、やったことがない。それにこの強風の中を、魔法で突っ切ることができるのか。そもそも、大陸まであとどれくらいの距離があるかもわからないのに。
突然、世界が回った。
大きく傾いだ舟から、ヒマワリの身体がぽんと放り出されてしまったのだ。
「ヒマワリ!」
風と波の音の向こうに、セナの声が聞こえた気がした。
渦のような波に呑まれたヒマワリは、暗い底なしの闇の中に引きずり込まれる。
必死に両手足を動かしてもがいた。海水が、口から鼻から流れ込んでくる。
なんとか海面から顔を出した。激しく咳き込みながら、乗っていた舟を探す。その間にも絶え間なく波が頭上から覆いかぶさり、沈んでは浮上することを繰り返した。
頭上を覆う暗い空、冷たい雨の感触。
波間に垣間見えた舟は、ひどく遠い。
微かに見えたセナの顔は、真っ蒼だった。ヒマワリ! と呼んでいるのがわかったが、雨と波の音に消されてほとんど聞こえない。
何度も波に押し戻されながらようやく舟まで辿り着き、縁に手をかけた。セナがぎこちない動きで、必死にその身体を引っ張り上げようとする。
水を吸った服が、余計に自分の身体を重く感じさせた。セナの長い髪は濡れそぼり、彼女のほっそりした頬に張り付いている。不思議なことに、冷たく思えたその色も目も、これまで見たことがないほど生気に溢れ輝いて見えた。
ようやく舟に這い上がると、ヒマワリは肩で息をしながら蹲った。
「ヒマワリ!」
「あ……ありがとう……セナ」
セナがヒマワリの背中をさすってくれる。
二人ともずぶ濡れだった。
体温がどんどん奪われていくのがわかる。
雨も風も、止む気配はない。舟は荒波に翻弄されるばかりで、なすすべもない。
じわりと目に涙が浮かんでくる。
(こんなこと、するんじゃなかった。しかも、セナを巻き込んで……)
「ヒマワリ、あなただけでも魔法で島に戻れる?」
驚いて、ヒマワリは顔を上げた。
「できるならそうして。私はどうせ死ぬんだから、今ここで死んでも同じだわ」
「だめだよ! ……それに、どっちにしても無理なんだ。僕はまだ魔法を勉強し始めたばかりで、島まで飛んだりするのはできなくて……」
稲妻が一瞬、世界を照らし出した。腹の底まで響く雷鳴に、二人は互いに手を握って身を竦める。
どす黒い海面が、陰影を持って蠢きながら光の中に浮かび上がった。
そのどこにも、陸の影はない。
この広い海原の中で力なく彷徨っている孤独に、ヒマワリは泣き出しそうだった。
(帰りたい、島に――アオとクロのところに)
再び閃光が走り、天と海の間に幾筋もの線を刻んだ。
光の中に、大きな影が映りこむ。
ヒマワリは雨粒を受けながら、滲む視界に目を凝らした。
幾度も鳴り響く轟音。
その果てから、雨風をもろともしない黒い翼が悠然と、空を掻き風を切り、近づいてくる。
見間違いだろうかと、ヒマワリは濡れた目をごしごしと擦った。
その視線を追って、セナも硬直する。
彼女の声は、震えていた。
「……竜」
空から舞い降りた漆黒の竜は、木の葉のように揺れている舟の真上までやってくると、その鎌首をもたげて二人を見下ろした。
稲妻が、その姿を露にする。雨に濡れた鱗が眩く輝き、まるで黄金の彫刻を見ているようだった。
濡れた頬に雷光を映しながら、セナは魅入られたようにその姿を見上げている。
そしてぽつりと、
「私を、殺しに来たの……?」
と言った。
「いいわ、殺して」
両手を竜に向け、促すように差し出す。
「殺していい。だからもう終わりにして。終わりにしてよ……!」
悲鳴のように叫ぶセナに、竜が大きく口を開き、牙を剝き出しにした。
覚悟を決めたようにぐっと目を瞑ったセナだったが、しかしその牙が彼女に届くことはなかった。
竜はおもむろに前脚を持ち上げると、セナの身体をがしりと摑み上げた。
「きゃあっ!」
そのまま竜は、頭を舟に寄せる。
そして、
「さっさと乗れ!」
とヒマワリに向けて叫んだ。
いつものクロとは似ても似つかない、地の底まで響きそうな恐ろしい声。
だがその口調は、あまりにクロだった。
びくりと身体を震わせ、ヒマワリは無我夢中で竜の頭に飛びついた。そこから首をつたって、背中にしがみつく。
「振り落とされるなよ」
言うや否や、大きく羽ばたき高く舞い上がる。
ぐんぐんと上昇しながら、眼下では二人が乗っていた小舟がひっくり返り、黒い波の狭間に呑み込まれ沈んでいくのが見えた。肩越しにそれを確認して青ざめると、ヒマワリはぎゅっと竜の背に縋りついた。
セナは身体を二つに折るようにしてクロの前脚に摑まれたまま、ただただ呆然としているようで、一言も発さなかった。
雨を受けながら風を切って進む竜は、その重量感からは想像もできないほど軽やかに飛んでゆく。
「クロ……!」
雨風の音に負けないよう、ヒマワリは大きな声で叫んだ。
「ごめんね、ごめんねクロ!」
その背を抱くように、両手に力を込める。
「……嫌だったのか?」
「え?」
「出て行きたいくらい俺たちと暮らすのが嫌だったなら、そう言え! どこか大陸でお前が暮らせる場所をちゃんと用意する。だから、こんなふうに勝手に出て行くのは――」
「違うよ!」
慌ててヒマワリは声を上げた。
「だって、クロがすごく怒ってたから! 僕のこと、嫌いになっちゃったと思ったから……」
鱗に覆われた背中に、ひしと必死に抱きつく。
「クロとアオと一緒にいたいよ! あの島で、三人で暮らしたい!」
竜はそれきり、大きな口を噤んだ。
ヒマワリは改めて、海原を見渡した。荒れ狂う海面は遥か遠く、あれほど翻弄された高波もひどく小さく見える。
空高く、風を切って進む感覚は、これまで経験したことのないものだった。
今、自分は竜の背に乗っている。
(すごい――)
大きく羽ばたく羽の躍動を、肌で感じる。
その度に盛り上がる筋肉、触れた鱗の艶やかな感触――竜という存在はなんて美しく、かっこいいのだろう。
あんなに、背中に乗せるのを嫌がっていたのに。
「ありがとう、クロ……」
呟いたヒマワリの声は、風にさらわれてクロに聞こえなかったかもしれない。返事はなかった。
灰色の雨の帳の向こうに、終島が見えてきた。
城の前で、小さな明かりが揺れている。
レインコートを羽織って傘とランプを手にしたアオが、心配そうに空を見上げていた。
その隣では、真っ青な顔をしたムカイが右往左往している。彼は近づいてくる竜の姿に気づくと、驚愕して動きを止めた。
「……嘘だろ……竜……?」
しかしその前脚に摑まれているセナに気づいた途端、「お嬢様!」と声を上げて駆け寄ってきた。
クロはゆっくりと降下して、セナをそっと地面に下ろしてやる。自らも音を立てて着地すると、ぶっきらぼうに「降りろ」とヒマワリに命令した。
「お嬢様! お嬢様、お怪我は!?」
ムカイは泣き出しそうな顔で、セナの肩に手をかける。
しかしセナは、無言のまま傍らの竜を見つめていた。
黒竜の声が響き渡る。
「俺の血が欲しいか?」
ムカイが、はっと息を呑んだ。
竜の血には、どんな病をも治す効能がある。
目の前にいるこの竜の血をセナが飲めば呪いを克服できるかもしれない、という希望が彼の瞳に宿ったのがわかった。
だがセナは、真っ直ぐに竜を見据えて言った。
「いらない」
きっぱりとした口調だった。
「お嬢様……!?」
「そんなことして、新たな呪いをかけられるのはごめんよ」
怯む様子もなく、セナは力強い眼差しを黒竜に向ける。
すると意を決したように、ムカイが竜の前に進み出た。
「……それなら、僕が呪いを受けます!」
「ムカイ?」
ぎょっとしたようにセナが声を上げる。
「だからどうか、血をほんの少し、お嬢様に分けてはいただけませんか!? 代わりに、どんな呪いも僕が引き受けますから!」
「馬鹿なこと言わないで! 私が死ねば、お前だって自由になれるのに! ずっと私の世話を押し付けられたせいで、皆怖がって誰もお前に近づこうともしないじゃないの! お前は何も、悪くないのに……」
ムカイは泣き出しそうな顔で、縋りつくようにセナの手を握りしめた。
「生きてください、お嬢様……! お願いです!」
そのままむせび泣くムカイに、セナは困惑しているようだった。
ヒマワリは目をぱちくりとさせる。
「ムカイは、セナのことが好きなの?」
するとムカイの顔が、みるみるうちに赤く染まった。
「ムカイ……?」
セナは目を見開き、戸惑っているようだった。
ムカイは紅潮した顔を隠すように俯くと、恐々と身を離す。
「身分違いであることは、心得ております。ですから、決して分不相応な望みなど抱いておりません。僕が望むのは、ただ、お嬢様が生きることなんです。――母が死んだ時、自分は何もできませんでした。もっと早く不調に気づいてあげられたら、何かいい薬を手に入れることができていたらと、何度も考えました。もう、あんなふうに後悔するのは嫌なんです……!」
竜が微かに目を細め、ムカイを見下ろす。
「だからお願いです。僕にできることがあるなら、させてほしいんです。それで、お嬢様が助かるなら」
「……お前、この姿を、おぞましいと思わないの」
信じられない、というようにセナが呟く。
ムカイは、ゆっくりと顔を上げた。
「何をいまさら。毎日、こうしてお顔を見て、いつもお傍にいるというのに」
鱗に覆われたセナの頬に、ムカイの掌が優しく触れた。その仕草に、遠慮はあっても恐れや躊躇いは微塵も見えなかった。
アオが、かたかたと揺れ始める。
どうやら目の前で本物の愛の告白を見たことで、かなり感動しているらしかった。
「――お前たちは、ここで見聞きしたことを誰にも話すことができない」
クロが、大きな牙を剝き出しにして言葉を紡いだ。
竜の呪いだ。
二人ははっとして、自分たちに呪いの言葉を向ける竜を振り仰ぐ。
「もし一言でも話そうとすれば、お前たちの心臓は止まるだろう。そして二度とここへ来ることはない」
揺れていたアオが気を取り直したように軒先に走り、予め用意していたらしいバスローブを手に取って戻ってきた。
巨大な黒竜は一瞬その姿をぐにゃりと歪ませ、急に影を縮ませた。その姿が掻き消えたと思うと、その場には黒髪の青年だけが佇んでいる。
何も身に着けていないクロに、アオがぱっとバスローブを羽織らせてやった。女性のセナがいるので、気を遣ったらしい。
目の前で竜があのクロに変化した様に、ムカイとセナは驚いている。
「あなた……あなたが、竜だったの?」
「死ぬならよそでやってくれ。俺たちを巻き込むな」
クロは雨に濡れた髪をかき上げ、面倒くさそうに言った。
二人を一瞥すると、さっさと城の中に入っていく。
取り残されたびしょ濡れの三人に、
「とりあえず、中へ入りませんか」
とアオが促した。
クロが自分の部屋で着替えていると、控えめにノックする音が響いた。
「……クロ、入っていい?」
細く開いたドアの向こうから、おずおずと顔を出すヒマワリの姿が見えた。風呂に入ったらしく、寝間着に着替えている。
背を向けて、「ああ」とだけ返事をした。
そっと入ってきたヒマワリは、クロの後ろに立って、しばらく躊躇しているようだった。
「クロ、ごめんなさい。これ……」
振り向くと、ヒマワリが両手で小さな箱を差し出していた。
中には、あのピアスが輝いている。
「なんでだ?」
「え?」
「なんでそれ、持っていった。欲しかったのか?」
「……ううん。違う」
「じゃあ、俺への嫌がらせか」
「違う。シロガネが……」
「シロガネ?」
「これ、シロガネがクロにあげたんでしょ」
確かにそれは、シロガネからの贈り物だった。
――君の人生は長いから。でも、いつか僕が死んでも、これを身に着ける時くらいは思い出してくれるだろう?
ある時突然、そう言って笑いながら差し出してきたので、驚いたのを覚えている。その場で、シロガネが手ずからクロの耳につけてくれた。
それからしばらくして、シロガネに死期が迫っていると聞かされた。それをわかっていて、わざわざ用意したのだろう。
シロガネから贈られたピアスは、しかしシロガネが死んで以来、一度も身に着けていない。
それをつけて彼を偲ぶ真似は、まるでシロガネがもう二度と帰ってこないと思っているようだったから。
「クロもアオも、シロガネのことばっかりだから……だから……」
ヒマワリはもじもじと俯きながら、小さくなっている。
要するに、シロガネにやきもちを焼いているということなのか。
クロは両手を腰に当て、ふうーと大きく息をついた。
「人の物を盗むのは、絶対にやってはならないことだ。これは俺にとって大事なものだから、無くなって――悲しかった。すごくな」
「……うん」
「二度とするな」
「……うん」
「それと、もう二度と勝手に島を出るような真似はするな。アオが大変だったんだぞ、お前たちが島から離れたみたいだって、ガタガタ震えて駆け込んできて……」
向日葵が咲く瞳が、不安そうにクロを見上げた。
「僕のこと、嫌いになった?」
「…………なってない」
クロはその金の髪を、わしゃわしゃと掻きまわすように頭を撫でてやった。しかし、そこからどうしていいかわからず、視線を彷徨わせた。
(育児書、読んでおけばよかったか……)
「ほら、戻って寝ろ」
「ここで一緒に寝ちゃだめ?」
「…………」
クロは黙って、ランプの明かりを消した。
何も言わずにベッドに入ったクロに、それが肯定だと判断したらしいヒマワリは、そろそろと布団の中に潜り込んできた。
クロはごろりと横になり、ヒマワリに背中を向ける。子どもの体温が、その背中にぴたりと擦り寄ってきたのを感じた。
「ねぇ、シロガネもこんなふうに一緒に寝たことある?」
「……気持ちの悪いこと言ってんじゃねぇ。あるわけねーだろうが」
ぞっとして、思わずぶるりと震えた。
するとヒマワリは何故か嬉しそうに、
「へへー」
と笑って、さらにぴたりと抱きついてきた。
「なんだよ」
「ううん。おやすみなさい」
ヒマワリは、やがて規則的な寝息を立て始めた。
しばらくしてヒマワリが自室にいないことに気づいたアオが心配してやってきたが、クロと一緒に寝ている姿を見てほっとしたようだった。
小声でそっとクロに話しかける。
「クロさん、俺も一緒に寝ていいですか」
「ふざけんな」
しゅんとして、アオは扉の向こうに顔を引っ込めた。
セナとムカイはそれから六日間、島に滞在した。
自分を置き去りにした両親のもとへは絶対に帰らない、とセナが断固拒否したので、今後のことを相談する時間が欲しいとムカイが頼み込んだのだった。
そして今日、二人は魔法の古井戸を通って大陸へと帰る。
セナが言った通り、彼女の懐は相当暖かいらしく(両親が去る時に、償いのつもりなのかそれなりの金を置いていってくれたらしい)、国元へは戻らず、どこか田舎に家を買って暮らすつもりだという。それはつまり、セナの命が尽きるのを静かに待つ場所、ということだ。
出発当日、朝食の席でセナは淡々とサラダを口に運び、ムカイはずっと暗い表情をしてパンをちぎっていた。
当初はアオが毎回食事を部屋まで運んでいたのだが、ヒマワリがセナと一緒に食べたいと言って、それ以来同じテーブルを囲んでいる。
一方でクロは頑なに彼らとの同席を拒み、わざわざ時間をずらして下りてくるようになった。それだけでなく、セナとの接触を可能な限り避けていて、最近ではほとんど塔に籠もっていた。一度、庭に出ていたセナと鉢合わせした時も、クロは無言で踵を返してしまった。
ところがこの日、朝食の場にクロが姿を見せたので、ヒマワリは目を丸くした。
飲み物を運んできたアオと一緒に現れたクロは、無言で席につく。その様子を、セナもムカイも驚いた様子で目で追った。
クロの正体を知ったムカイは、まだ竜の血を諦めきれないようだ。向かいに座ったクロを、もの言いたげにちらちらと見ている。クロは気づかないふりをして、慣れた手つきでナプキンを広げた。
クロの横でスープを飲んでいたヒマワリは、落ち着かなかった。
このままセナは、呪いのせいで死んでしまうのだろうか。
「セナ、僕魔法をたくさん勉強するから。それで、いつか呪いを解く方法を絶対探し出す――ううん、僕がきっと方法を編み出すよ。だから、それまで待っていて」
意気込むヒマワリに、セナはくすりと笑った。
ここ数日で、彼女はこんなふうに時折笑顔を見せるようになった。きっと呪いが発症するまでは、普通に笑う女の子だったに違いない。
「ありがとう、ヒマワリ。でも、いいのよ」
窓から差し込む朝日に向けて、セナは自分の掌をかざした。
「竜の鱗って、綺麗だわ」
そうでしょう、と言いたげに、クロに視線を投げる。
クロは何も言わず、黙々とパンにマーマレードを塗っている。セナは反応がないことがわかっていたように、少しだけ苦笑するような表情を浮かべた。
「セナさん、お茶をどうぞ」
アオが銀のトレイからポットを取り上げる。
「ありがとう。ああ、いい香り」
カップに注ぐと、ハーブの香りが立ち上った。セナはアオが庭のハーブで作ったオリジナルのハーブティーをすっかり気に入って、毎日愛飲していた。
「今日のは少し変わった味ね」
「ええ、セナさんがむくみが気になると仰っていたので、少し配合を変えてみたんです。――はい、ヒマワリさんはミルク。ムカイさんとクロさんは珈琲ですね」
それぞれの嗜好に合わせて、てきぱきと給仕していく。結局ムカイは何も言わなかったし、クロも澄ました顔で食事を済ませた。
朝食が済むと、二人は荷物をまとめて裏の井戸へと回った。
車椅子は海に沈んでしまったので、ムカイがセナを抱きかかえ、荷物はアオが持ってやる。
「お世話になりました」
ムカイが頭を下げた。
見送りにやってきたヒマワリは、少し離れた場所に立っているクロをちらりと振り返った。結局この六日間、彼は一度もセナと口をきいていない。
「ヒマワリ」
セナが手招きして、ヒマワリを呼んだ。
「本当に、ありがとう。会えてよかった」
「また会おうね、セナ。手紙ちょうだい。僕、シロガネよりすごい魔法使いになって会いに行くから!」
セナは微笑んだ。
「きっとよ。楽しみにしてるわ」
「では、俺は二人を送ってきます。――行き先、港町ミツハ」
アオは古井戸に手をかけると、底に向かって声をかけた。目的地を述べることで、魔法の道の行き先を設定したのだ。
「さぁムカイさん、この中へ飛び込んでください」
「……本当に、大丈夫なんですか、これ?」
薄暗い井戸の中を、恐る恐る覗き込む。
「怖かったら、目を瞑っていてください。一瞬ですから」
「ほらムカイ、さっさとして」
セナに叱咤され、ムカイは覚悟を決めて井戸の淵に足をかけた。
「では、行きますよ」
三人が井戸に飛び込む。
煌々とした光が井戸の底から湧き上がり、そして、淡雪のように消えた。
井戸を通り抜けると、三人は本当に一瞬で大陸南端の港町へと辿り着いていた。
その魔法の力に、ムカイは心底感嘆してしまう。同時に、こんなことができてしまう魔法の力でも、セナにかけられた呪いは解くことができないのかと思うと、やりきれない気持ちにもなった。
アオはすぐに島へと帰っていったので、ムカイはセナを抱えて、ひとまず近くの宿へと入った。広くはないが清潔な部屋に落ち着くと、セナを椅子に座らせてやる。
ほっと息をついた。
そして、少し緊張した。
これからは、本当に二人きりなのだ。
「どこかで、車椅子を調達しないといけませんね」
そう言いながら、荷物を広げ始める。
セナは窓の向こうに広がる海を、ぼんやりと眺めていた。その様子に、少し不安になってくる。
彼女は、後悔してはいないだろうか。
「……お嬢様、本当によかったんですか?」
「何が?」
「これから僕と、一緒に、……二人で暮らすという……」
セナは呆れたように、ムカイに向き直る。
「その話は何度もしたじゃないの。ここまで来てまだ言うの?」
「だってお嬢様は、本当なら一国の王妃になられる方なんですよ。それが……」
「むしろ私の台詞よ。本当にいいの、ムカイ? 私は遠くないうちに死ぬのよ。全身、鱗だらけになって……」
セナは自分の鱗に覆われた手を、そっと撫でる。
「私の世話をするだけの数年が終わって、その後には何も残らないのよ。それでいいの?」
「お嬢様!」
ムカイは膝をつき、両手でその手を包み込む。
「その話も、何度もしたじゃありませんか。それに、治らないと決まったわけではありません。きっとどこかに、方法があります」
「ムカイ……」
「大丈夫ですよ。――そうだ、四大魔法使いの一人、西の魔法使いを訪ねてみませんか?」
「四大魔法使いには、以前も頼ったけれどだめだったわ」
セナの両親は北の魔法使いに助けを求めたが、なすすべがないとすげなく追い返されたのだった。
「それで、最後の望みとしてシロガネを訪ねたのに」
「でも西の魔法使いは大層評判が良い方で、病に効く魔法を多く編み出しているという噂です。北の魔法使いとは違って、何か方法を考えてくださるかもしれません」
「……もういいのよ、本当に」
宥めるように、セナがムカイの手を優しく叩く。
「心穏やかに暮らして、最期の時を迎えられたら、それでいいわ」
「お嬢様……」
「ねぇ、お嬢様ってやめてちょうだい」
「え」
「セナって呼んでよ」
「で、ですが」
「私、今までみたいにあなたと使用人と主人として暮らすつもりはないわよ」
「…………!」
ムカイは息を呑み、セナは少し気恥ずかしそうに横を向いた。
「え、ええと……せ、セナ…………様」
それが限界だった。
セナは可笑しそうに、くすくす笑っている。
ムカイはしばし、その笑顔に見惚れた。彼女は元来、いつだってこんなふうに笑う、明るくて心優しい少女だったのだ。
そしてそんな彼女を、ムカイはいつも遠くから見つめていた。
ムカイはセナに背を向け、あたふたと荷解きを始めた。顔が熱い。きっと今の自分は、茹でだこのようになっているに違いない。
「え、えーと、お昼は何を召し上がりますか? さっき見かけた、魚料理の店がよさそうでしたよね! それとも、お肉のほうがいいですか? あ、でもここに持ってこられるものがいいですね。片づけたら、ちょっと出てきます。ついでに車椅子を調達できる店がないか、探してきますよ。お嬢様……じゃ、ない、セ、セナ様は、少しお休みになっていてください。ほかに何か欲しいものはありますか? あ、香油が切れそうですね、探してきます。ええと、あとは――」
照れ隠しにぺらぺらと一人で喋り続けたムカイは、セナが何も答えないので不安になった。
「おじょ……セナ様? あの」
ムカイは恐る恐る、ゆっくりと振り返る。
そして、それ以上喋ることができなくなった。
椅子から立ち上がったセナが、呆然と彼を見つめている。
彼女の二本の足が、しっかりと床をとらえていた。
その頬から、一枚の鱗がはらりと剝がれ落ちるのを、ムカイは夢の中のことのように見つめた。
「――あれ? クロ、その指どうしたの?」
セナたちを見送り城へと戻ったヒマワリは、ソファに座って新聞を読んでいるクロの横に座っていた。
クロの指は長くて綺麗だ。
しかしその左の人差し指の先にナイフで切ったような跡があり、滲んだ血が凝固し始めていた。
クロは、
「……新聞で、切った」
と所在なさげに紙面に視線を落とす。
開けたままになっていたドアの向こうを、朝食で使った皿やポットを乗せたワゴンを押すアオが、静かに通り過ぎていった。
【つづく】