魔法使いのお留守番 第一回

魔法使いシロガネ


 その島に住む魔法使いは、不老不死の秘術を得たという。‌
 大陸の最果て、南に広がる(あお)い海の向こうに小さな島が浮かんでいる。(はて)(じま)と呼ばれるこの島は、四方に反り返った断崖絶壁が高く(そび)え、訪れる者を拒絶するように波を弾き返していた。その上に、(つた)(おお)われた古城がぽつんと建っている。‌
 それがかの魔法使い、シロガネの(すみ)()である。‌
 『大魔法使い』と()(けい)を込めて呼ばれるシロガネの名を知らぬ者は、この大陸にはいない。‌
 その輝かしい活躍(たん)は人々を魅了し、魔法使いたちは彼の記した魔法書を(むさぼ)り読んだ。一方で、彼の名は恐れられてもいる。東西南北を(つかさど)る四大魔法使いが束になっても、彼には(かな)わないという噂だった。そんな大魔法使いはある時から、一人孤島で暮らし始め、以来その姿を見た者はほとんどいない。‌
 そのシロガネが、これまでどんな偉大な魔法使いでもついぞ得ることのできなかった、幻の力を得たという。不老不死だ。‌
 噂を聞きつけて、大陸中の王侯貴族が色めき立った。その秘術の恩恵に浴そうと、彼の住む離れ小島へ向け、(あま)()の船が港を出航していった。‌
 しかし(なん)(ぴと)も、不老不死を手にすることはできなかった。‌
 帰還した使者たちは、島に入ることすらできなかったと平身低頭で報告し、主人から重い罰を受けた。まれに、島に入れたという者が戻ってくることもあった。しかし不思議なことに、彼らはそこで何があったのかを語ることができなかった。語ろうとすれば気がふれ、(ごう)(もん)によって口を割らせようとすれば、その場で心の臓が止まり事切れた。‌
 呪いだ、と人々は噂した。シロガネは不老不死の秘術を決して外部に漏らさぬように、彼らに呪いをかけたのだ。‌
 (あきら)められない者たちは、幾度となく使者を派遣した。そしてその度に、同じ失望を味わうことになった。軍艦を率いて(みずか)ら攻め込んだある国の王は、やがてぼろぼろの木片に(つか)まって命からがら戻ってきた。軍艦の姿は(きり)のように消え、海のどこにも見当たらなかった。‌
 そうして彼らは泣く泣く諦め、皆失意のうちに天寿を全うしたという。‌
 それでも時折、不老不死を求める者がまた、その島を目指して船を出す。‌
 今、小さな船の上で島を見上げる男もその一人だった。‌
 彼の(あるじ)は、小さいが一国の王である。王は病にかかっており、何が何でも不老不死の妙薬を手に入れるようにと彼に厳命したのだった。‌
 島にはほんの一か所、猫の(ひたい)ほどの砂浜があった。双眼鏡を(のぞ)き込むと、その砂浜から岩壁に穿(うが)たれた急な階段が上へ上へと続いている。恐らくこの島の住人は、そこから出入りしているのだ。‌
 彼が率いてきたのは、五人の兵士と記録係一人。大軍勢で攻め込んでもシロガネの前では無意味であることは先達の有様から知れたことだし、交渉するにも高圧的な態度に出るべきではないと考えていた。‌
「ここで待っていろ」‌
 兵士たちに告げると、船を下りた。‌
 足を踏み入れる時、彼は用心深く周囲を見回した。‌
 当然シロガネは、不老不死を求めて訪ねてくる者たちを警戒しているだろう。どんな罠が仕掛けられているかわからない。‌
 恐る恐る、砂浜に降り立つ。‌
 矢が飛んでくる気配はない。ふう、と小さく(あん)()の息をついた。‌
どちら様でしょうか」‌
 頭上から、声が響いた。‌
 ぎくりとして見上げると、崖の上から青年が一人、こちらを見下ろしている。黒い髪が日の光を受けて妙に(にび)色に(つや)めいて見えた。‌
 彼がシロガネだろうか。‌
 シロガネはすでに相当な高齢であるはずだが、不老不死を手にしたのなら今も若々しい(よう)(ぼう)をしていて不思議ではない。青年の白い面は大層(うるわ)しく、思わず()()れてしまいそうだった。‌
 しかし聞くところでは、伝説の大魔法使いはその名の通り、銀髪の持ち主であるという。‌
「大魔法使いシロガネ殿にお会いしたくやってまいりました。私はイクメ王に仕える、タジマと申します」‌
「魔法使いは、留守にしております」‌
 やはり彼はシロガネではないのだ。一人でこの島に引きこもったというが、使用人がいて当然だろう。‌
「お戻りはいつ頃でしょうか」‌
「わかりかねます。お引き取りください」‌
 青年は冷たく言い放つと、背を向けて行ってしまう。‌
「お待ちください! お戻りまで、待たせていただきたいのですが」‌
「お帰りください」‌
 突き放すような声だけが響いた。‌
 ここで帰れば子どもの使いだ。追いかけようと、階段に足をかけた。‌
 途端に、階段は砂となって崩れ落ちてしまった。侵入者を(はば)む魔法がかけられているのだ。見上げれば、すでに先ほどの青年の気配はない。‌
 仕方なく、タジマは船の上で待つことにした。‌
 それから数日、彼はひたすら待った。日が暮れ、夜が満ち、また朝が訪れる。‌
 毎日昼になると、砂浜に降りて声を張り上げる。‌
「シロガネ殿はお戻りでしょうか!」‌
 彼が外出先から船で帰ってくるのか、空を飛んでくるのか、はたまた世界中へ移動できるなんらかの魔法を使うのかは不明だった。少なくともこの唯一の出入口である砂浜に、人影は一向に現れない。‌
「留守にしております」‌
 (たず)ねる度、黒髪の青年が無情に答える声だけが跳ね返ってくる。‌
 五日目の夜が過ぎようという頃、これはただの居留守なのではないか、と彼は考え始めた。‌
 仕掛けられた魔法は来訪者に対する試練であり、これをくぐりぬけて城に辿(たど)り着いた者だけに大魔法使いと会う資格が与えられる、ということなのではないか。‌
 彼は翌朝砂浜へ下りると、兵士たちに命じて崖の(ずい)(しょ)(くい)を打ち込ませることにした。‌
 こうなれば人力で上るしかない。‌
 息を切らし汗だくになりながら、彼は杭に摑まり足をかけ、兵士たちとともにじりじりとよじ登った。‌
 途中、幾度か転落するのを余儀なくされた。突然目の前に大蛇が現れ襲い掛かってきたり、ひんやりした手が足を引っ張ったり、ようやく登り切ったと思うとその上にさらに崖が現れたりしたのだ。いずれも魔法が見せる幻に違いなかった。‌
 それでも彼は諦めなかった。病床の王のことを思えば、この程度のことでくじけるわけにはいかない。彼は自らが仕える王を心から尊敬し、(すう)(はい)していた。かつてはあれほど剛健であった主君の、あのやせ細った手。なんとしてでも、不老不死の薬を王のもとへ持ち帰らなくてはならない。‌
 日が暮れる頃、彼らはついに崖を登り切ることに成功した。‌
 ぐったりと地面に体を横たえ、肩で息をする。しばらくは動くことができなかった。‌
 目の前には、背の高い木々が集まった林が広がっていた。その生い茂った緑の向こうに、遠目に姿を(とら)えていた古城が(いん)(うつ)な雰囲気で鎮座している。‌
 やがて日は完全に落ち、あたりは薄暗い(やみ)に包まれた。城の中から漏れる明かりが、窓越しにぼんやりと浮かび上がっている。‌
 明かりの(とも)った窓は二つ。そのいずれかに、大魔法使いシロガネがいるのだろうか。‌
 ここから先に、どんな罠が張り巡らされているかわからない。‌
 恐る恐る(くさむら)から様子を(うかが)い、やがて意を決して足を踏み出した。‌
侵入者です」‌
 無機質な声が響いた。‌
 ぎくりとして振り返ると、いつの間にか背後に見知らぬ男が一人(たたず)んでいる。‌
「侵入者です。排除します」‌
 あの黒髪の青年ではなかった。同じく若いが、その髪は月の光を浴びてなんとも不思議な青緑色に見える。‌
 唐突に伸びてきた手が、がしりと彼の太い首を摑んだ。一瞬で足が地面から離れる。‌
「うっぐぅ!」‌
 (のど)を締め上げられ、息が詰まった。足をばたつかせもがいたが、びくともしない。兵士たちが剣を抜く音が響いた。彼らが青年を取り囲む。‌
 片手で軽々と大の男を持ち上げる青年は、動じる様子もなく無表情にその様子を眺めた。‌
 世界が回った。‌
 気がつくと、彼は()を描いて崖の外に放り出されていた。放物線を描いて海に落下する。勢いよく、高い水しぶきが上がった。‌
 もがきながら海面に顔を出すと、その頭上に黒い影がいくつも降り注いできたので、彼はあんぐりと口を開いた。‌
 彼と同様に、海に放り出された兵士たちだった。‌


「帰ったか?」‌
 朝日が差し込む城の一室で、クロはコーヒーカップを片手に新聞に目を落としながら尋ねた。‌
「ようやく船を出したようです」‌
 アオが無感動な口調で返す。‌
 昨夜クロが寝支度をしていると、城の外から悲鳴が聞こえた気がした。恐らくアオが侵入者を放り出したのだろうと思い、気にせずベッドに入ってぐっすり眠らせてもらった。どうせあの押しかけてきたどこかの王の使いが、城に忍び込もうとしたのだろう。‌
 アオは朝食をテーブルに並べながら、少し不思議そうに言った。‌
「皆さん、飽きもせずよくいらっしゃいますね。不老不死とはそんなに魅力的なものなんでしょうか」‌
「甘いもの食べたら、次はしょっぱいもの食べたくなる、みたいなもんだろ」‌
? その心は」‌
「欲望は無限ループ。富と名声と権力を手に入れたら、もっと何かが欲しくなる。やつらにとって、手に入らないものといえば、残るは不老不死くらいなのさ」‌
 クロは読み終わった新聞を脇に置くと、こんがりと焼き色のついたパンに手を伸ばす。テーブルにはそのほかにもサラダにスープ、オムレツ、カリカリのベーコン、ヨーグルト、それから果物の盛られた皿が並ぶ。食事は一人分しか用意されていない。アオは食事というものをする必要がないのだ。‌
 アオは人間ではなく、青銅人形である。‌
 この島を守るために作られた古代兵器であり、地下で眠っていたところをシロガネが掘り返して再起動させた。以来、島の守護と城の管理を役目としながらここで暮らしている。見た目は見事に人間そのものだが、食事はしないし、血も涙も流さない。‌
 しかし彼は、人と同じように感情を持っている。本人(いわ)く、「ほかの青銅人形には感情というものがなかったが、自分は異端で、失敗作だと言われた」とのことである。それが理由で廃棄処分になり、地下に埋められたという。‌
 現代において、青銅人形は現存せず神話上の存在だと思われている。およそ千年前の世界大戦で、すべての青銅人形は破壊され消え去ったといわれていた。地中でスリープ状態だったためにその争いに巻き込まれなかった無傷のアオが、結果的に唯一の生き残りとしてここに実在している。‌
 なお、アオという名前はシロガネがつけたものだ。‌
 理由は単純に、「青銅だから」。‌
「シロガネはいつ帰ってくるんでしょうね」‌
 珈琲(コーヒー)を注ぎながら、アオが言った。‌
「不在だと言って毎回お客様を追い返すのも、少しばかり申し訳ないというものです」‌
「気分屋だからな。そのうちひょっこり戻ってくるだろ」‌
 スープにパンを浸しながら、クロは肩を(すく)めた。‌
 シロガネは長いこと、この城を空けている。だからクロとアオはいつも、彼に会いに来るというか不老不死を求めてやって来る客の対応をしなくてはならない。何が何でも不老不死を得ようとする大軍に攻め込まれることもあるので、留守番も楽ではなかった。‌
あ」‌
 アオがぴくりと顔を上げた。‌
「来客です」‌
 青銅人形の彼には、島に近づく者を感知する機能が備わっている。そんな時の彼の目は、ひどく金属質な光を放った。‌
 またか、とクロはため息をついた。‌
「先に飯を食わせてくれ」‌
 来客の一次対応は、クロの仕事だ。‌
 ベーコンをかじりながら、窓の向こうに目を向けた。‌
 海は静かだ。大軍勢がやってきたわけではないらしい。島の周りには、階段のトラップ以外にも侵入者を阻む魔法がいくつもかけられているので、そう簡単には入り込めない。クロはのんびりと行くことにした。‌
 朝食を平らげると、気乗りせずぶらぶらと外に出た。‌
 島の西にある岬の先端まで辿り着くと、上着のポケットに手を突っ込みながら崖の上に立ち、足下を見下ろした。狭い砂浜の一角に、小舟が乗り上げているのが目に入る。‌
 その中に、人影が横たわっている。‌
 見る限り、一人。‌
 身動きする気配もないので、おやと思った。漂流者の死体が流れ着いたのかもしれない。‌
 軽快な足取りで階段を下り、砂浜へと下りていく。近づくにつれ、その人影は子どもだとわかった。‌
 舟の中を覗き込む。‌
 (とし)の頃は十歳に満たないだろう、()せた少年だった。(まぶた)を固く閉じた青白い顔には生気がない。対照的に、金の髪が光を浴びてきらきらと輝いている。それが()(れい)だったので、死んでいるならこの髪だけ切ってもらってしまおうかな、と考えた。‌
 脈を()る。‌
「ちっ。なんだ、生きてるな」‌
 (かっ)(こう)はみすぼらしく、ぼろぼろの衣服にはあちこちに血がこびりついている。靴は()いておらず、()き出しの足は血豆ができて潰れていた。‌
 これが実は不老不死の秘術を狙う工作員ということはないだろうか、とクロは念のため警戒した。魔法で姿を変え、油断させて城に入り込もうとしているのかもしれない。‌
 クロは魔法が使えない。‌
魔法使いとは、(いにしえ)から続く特殊な血を引く一族のことだ。その血脈以外では魔法を発現することはない。だからもし変身魔法などを使われていても、クロやアオには見抜くこともできないし、魔法を解いて正体を暴くこともできない。‌
 少年が(かす)かに身じろぐ。‌
 うっすらと開いた瞼の下から、ヘーゼルの瞳が現れた。ぼんやりとしたその目が、こちらを見上げる。その瞳は陽光に照らされ、()(でん)のような複雑な色合いを(ひらめ)かせた。(どう)(こう)を囲む(こう)(さい)は黄色味を帯びて花弁のように広がっており、瞳の奥に向日葵(ひまわり)が咲いているようだった。‌
 血の気の引いた唇が、何か言おうと震えたように見えた。‌
 しかし、少年はまたすぐに目を閉じ、動かなくなった。‌
 クロは少し考えて、少年を両手で抱え上げた。‌
 判別しようがないし、もしこれが本当に(ひん)()の子どもなら、見捨てると寝覚めが悪い。万が一の時は捕まえて放り出せばいいだけだ。シロガネが不在である以上、盗める魔法はここにはないのだから。‌
「どうしたんですか、そのお土産(みやげ)」‌
 クロが少年を抱えて城に戻ると、アオが銀色の目を丸くした。‌
「拾った」‌
「犬や猫とは違いますよ」‌
「客間、使っていいか」‌
「どうぞ」‌
 城に客を泊めるなど、記憶にある限りここ最近まったくなかったが、それでもアオは城中を常に綺麗に掃除することを(おこた)らない。長い間使っていない二階の客間には(ほこり)っぽさなど欠片(かけら)もなく、ベッドのシーツも清潔に整えられていた。少年を寝かせて、汚れた衣服を脱がせてやる。‌
 クロはわずかに眉を寄せた。‌
 小さな背中には、明らかに剣で()られたであろう傷が大きく斜めに走っており、腕にも足にも無数の(きず)(あと)が見えた。命に関わるほどの深い傷ではないが、どうやら釣りに出て波に流されたといった偶然の事故ではなさそうだった。(ずい)(ぶん)と物騒な世の中である。‌
 沸かした湯と薬箱を持ってきたアオが、その傷を見て考え込むような顔をした。‌
「これは、きっとあれですね」‌
「あれ?」‌
 アオは人差し指を立てた。‌
「ずばり、追われてきた王子様!」‌
 わくわくしたように声を上げるアオに、クロは(あき)れた。‌
「王子がこんな襤褸(ぼろ)着てんのか」‌
「変装ですよ、変装! この間読んだ『薔薇(ばら)騎士物語』にまさにそんなエピソードが!」‌
 興奮しながら、アオが少年を覗き込む。‌
 青銅人形であるがゆえに感情表現が人間のようにはいかず、興奮しても顔が赤らむわけでもない。妙にゆらゆらと身体(からだ)が揺れ、目をかっと見開いている。それがわくわくそわそわしている時の表情であるとわかるのは、今のところクロとシロガネだけである。‌
 『薔薇騎士物語』は最近アオがハマっている小説のタイトルだ。シリーズもので、新刊が出る度にいそいそと大陸まで買いに出かける。彼は人間というものに大層興味があり、研究に余念がない。しかしこの島では人に出会うことはそうそうないので、書物の世界にその手段を見出したのだった。‌
(まま)(はは)の策略により無実の罪で城を追われたトリスタン王子が、何度も暗殺されそうになりながら仲間と一緒に困難を乗り越えるんです。ある時、農夫の恰好をして敵の目を(あざむ)こうとするんですが、ついに矢に射られて王子が崖から転落! そこへヒロインのアデライード姫が現れて、川に流され傷ついた彼を助けて介抱するわけなんですが、そこからがもう()(とう)の展開で息つく暇もね、そっくりな状況でしょう?」‌
「誰が姫だ」‌
「なんにせよ、きっと訳ありですよ」‌
 アオはてきぱきと手当てを終えると、水差しからボウルに水を注いで念入りに手を洗った。タオルを手に取ると、指の間から爪の先まで、一本一本神経質なほど丁寧に水滴をふき取っていく。そうすると、彼の(かっ)(しょく)の肌が少し輝きを増したように見えた。‌
 子ども用の服はないので、クロは自分の寝間着を持ってきて少年に着せてやる。‌
 すると、少年がぼんやりと目を開けた。‌
「あ、目が覚めましたか」‌
?」‌
 戸惑ったように目を泳がせている。‌
 少年は身体を起こそうとして、痛みが走ったのか顔をしかめた。‌
「寝てろ。身体中傷だらけなんだ」‌
 すると少年は、一瞬ぽかんとして目を見開くと、眉を寄せた。そしてずりずりとベッドの上で(あと)退(ずさ)りながら、警戒するようにこちらの様子を窺った。‌
「誰」‌
 困惑したように周囲を見回す。‌
「ここは魔法使いシロガネの城だ。お前は舟で流されてきて、死にかけていたところを俺が助けてやったんだぞ。感謝しろ」‌
「魔法使い?」‌
「一体何があった? どこから来たんだ」‌
 少年は(うめ)くような声を小さく上げた。両手で頭を抱え、(ぼう)(ぜん)としながら(うつむ)く。‌
「おい、大丈夫か? 気分が悪いのか?」‌
 クロが手を伸ばすと、少年は「触るな!」と悲鳴のように叫んで、その手を弾いた。‌
「どうしてなんだこれ」‌
 うわ言のように(つぶや)き、青ざめた顔を上げた。‌
 何か信じられないものを見たような表情だった。‌
 クロは肩を竦める。随分と警戒されているらしい。‌
 なんとか会話を成り立たせようと、クロは「お前、名前は?」と尋ねる。‌
名前」‌
「俺はクロ。こいつはアオだ。お前は?」‌
 少年はくしゃりと、泣き出しそうな()(ぜい)で顔を(ゆが)めた。‌
わから、ない」‌
「は?」‌
「覚えてない」‌
 震えながら見開かれた瞳が、驚きと戸惑いの色を(たた)えている。‌
何も思い出せない」‌
 クロとアオは顔を見合わせる。‌
 (すが)るように、少年が言った。‌
「あなたたちは、僕の家族?」‌


 とりあえず少年を寝かしつけ、二人は書斎で顔を突き合わせていた。‌
 アオがそわそわしながら、本棚から本を一冊取り出す。‌
「記憶喪失! まさに『アヴァロンの果ては青い』です!」‌
彼が掲げた『アヴァロンの果ては青い』も、やはりお気に入りの小説のひとつである。クロは読んだことがないが、多分記憶を失った人物の話なのだろう。話し始めたら長くて面倒くさそうなので、そこには触れないでおいた。‌
「頭に(こぶ)があったから、どこかで強く打ったんでしょう。それで記憶が飛んでいるのか、あるいは魔法で記憶を消されたのか」‌
「傷だらけでやってきて、都合よく記憶喪失? 怪しすぎる」‌
「そういうこともよくありますよ」‌
「それはお前の好きなフィクションの世界! 現実は違う」‌
 アオは不満そうに頬を(ふく)らませた。それが人間が不満を表すポーズだと最近覚えたらしく、機会があるごとにわざとらしくやってみせる。‌
「むかつくわーその顔」‌
「人間っぽいです?」‌
 クロは両手で勢いよく彼の頬を潰してやった。‌
「とにかく、シロガネがいない今、面倒ごとをここに持ち込みたくない。明日になったら井戸に入って、どこかの孤児院に預けよう」‌
 井戸とは、城の裏にある古い枯れ井戸のことである。‌
 シロガネが魔法をかけ、中に入れば大陸に瞬時に移動できるように通路を開いてある。シロガネ曰く、通路を開くには門となる場が必要なのだそうで、魔法使いによってそれは扉であったり煙突であったり、潜り抜けることさえできればなんでもいいのだという。シロガネがこの井戸を選んだのは、「不気味な雰囲気がわくわくして、中に入ってみたかったから」だった。‌
「おや、しばらくここで面倒を見るものと思ってました。怪我もしているし、記憶だってそのうち戻るかも」‌
「絶対にいわくつきだ。関わらないほうがいい」‌
「ええー、クロさんはあの子に何があったのか気にならないんですか?」‌
「どうせお前、間近で人間を観察できるからって面白がってるんだろ。揺れてるぞ」‌
 興奮した時の自分の癖に気づいて、アオははっとしたように動きを止めた。‌
「だって、子どもと接する機会などそうそうありませんから! この島にやってくるのは、大抵おじさんばかりじゃありませんか。この間買い出しに大陸まで行った時に、子どもたちが遊んでいたので眺めていたら変質者扱いされて参りましたよ。女性を見る時は、だいたい向こうから(うれ)しそうに寄ってきて話しかけてくれるんですけどねぇ。難しいものです」‌
「犬を飼うんじゃないんだぞ。だめだだめだ!」‌
「拾ってきたのはクロさんです」‌
「よって俺が責任をもって対処する」‌
 アオは肩を落とし、がっかり、という表現をしてみせる。‌
「だめですか。ああ、シロガネがいれば記憶を戻せたかもしれないのに、残念です」‌
「あいつを待ってたらいつになるかわからん」‌
 話を打ち切って、クロは書斎を出た。‌
 クロの部屋は城の最上階、高く突き出た(せん)(とう)の上にある。‌
 延々と続く()(せん)階段を上り、ようやく到着した部屋は薄暗い。しかし、窓から差し込むわずかな明かりに照らされて、そこここで月夜の海のように輝くものがあった。‌
 棚の上、あるいは床の上にも、宝石、硝子(ガラス)、鉱石が雑多に積み重なっている。そのどれもがひんやりと(あや)しい光を放って、暗い室内をぼんやりと浮かび上がらせていた。クロはベッドにごろりと横たわると、枕元にあった硝子の(びん)を手に取った。中には色とりどりのジェリービーンズが詰まっている。‌
 ひとつ、口の中に放り込む。宣言通り、明日になったら早々に、あの子どもをここから追い出すつもりだった。以前に比べ、最近はシロガネを訪ねてくる者も随分と少なくなった。それでもまれに、突然大砲を撃ち込まれることもある。こんなところに子どもを置いておくべきではない。‌
 天井から吊り下がった鈴が、チリンチリン、と音を立てる。‌
なんだよ」‌
『あの子が部屋から出たようです』‌
 鈴の向こうから聞こえたのは、アオの声だった。この鈴は、離れた部屋にいても会話ができるようにとシロガネが作ったものだ。‌
「連れ戻せ」‌
『俺、メンテナンス中なので今は動けなくて』‌
 アオのメンテナンスとは、風呂のことである。青銅製であるために潮風に当たって()びるのを極度に恐れているので、毎日隅々(すみずみ)まで洗って自分を磨き上げ、濡れたままにならないよう確実に乾かすことに余念がない。だからアオの風呂は長い。‌
ちっ」‌
 仕方なく起き上がり、窓から外を見下ろす。‌
 小さな島だ。この塔からはそのすべてが見渡せる。‌
 庭に白い影を見つけた。‌
 ため息をついて、さっき上がってきた階段を下る。‌
 少年は城の庭を出て、島の南端までふらふらと歩いていった。足を止めると、崖の上から海を見下ろし、その恰好のまま動かなくなった。‌
「その先は海しかないぞ」‌
 クロが声をかけると、少年は困ったように振り向いた。‌
 小さな裸足(はだし)の足が、暗い崖の(ふち)にかかっている。飛び降りて死ぬ気だろうか、とクロは思った。‌
「死ぬ気がないならこっちへ来い。そこは危ないんだ」‌
「僕、早く帰らないと」‌
 声が震えていた。‌
「家を思い出したのか?」‌
 しかし、少年は悔しそうに首を横に振った。‌
「どこかに行こうとしてたんだそんな気がする。なのに、それがどこなのかわからない」‌
 (うな)()れる少年に、クロはやれやれと肩を竦めた。そして彼の前に後ろ向きに屈みこむ。‌
「乗れ」‌
「え?」‌
「裸足で歩き回るな。余計に傷が増えるぞ」‌
 しばらく(しゅん)(じゅん)してから、少年は諦めたように小さな体をクロに預けた。‌
 彼を背負って歩きながら、クロは少し懐かしさを覚えた。人の肌の温かさを感じるのは久しぶりだ。アオは見た目こそ人型だが、触れると金属らしくひんやりしているのだ。‌
「ここ、どこなの」‌
「世界の端っこだ」‌
「ほかに、人はいないの?」‌
「住んでいるのは、俺とアオだけ。お前は大陸から流されてきたんだろうから、近くの港に送り届けてやる。家族か、身元を知ってるやつが現れるかもしれないだろ」‌
 城に入り、薄暗い階段を上って客間に辿り着く。‌
 ベッドに寝かせると、少年は不安そうな表情を浮かべた。‌
「部屋から出るなよ。ここで寝てろ」‌
眠れない」‌
「寝れなくても、横になっておけ」‌
「この部屋、広くて怖い」‌
 クロは眉を寄せた。‌
 一緒に寝ろとでも言うつもりか、と内心で毒づく。子守りなどしたことがない。‌
ちょっと待ってろ」‌
 ため息をついて部屋を出ると、クロは左手に酒の入った瓶、右手にグラスを二つ持って戻ってきた。‌
「強めの酒だから、子どもなら一口飲めばすぐ眠くなるだろ」‌
 ほら、とグラスに注いで渡してやる。‌
 少年は恐々(こわごわ)受け取ると、不安そうに匂いを()いだ。やがて口をつけると、顔をしかめて()き込んだ。‌
「苦い」‌
「いい酒なんだぞ、(ぜい)(たく)者め」‌
 そう言って、クロも自分用に酒を注いだグラスを傾ける。(ほう)(じゅん)な香りを吸いこんで、満足げに息をついた。‌
「さぁ、寝ろ。横になれ」‌
 渋々と布団に潜り込んだ少年は、クロをじっと見上げた。‌
名前」‌
「ん?」‌
「あなたの名前、なんていうんだっけ」‌
クロ」‌
「クロ」‌
 何か言いたげな目をする。クロは先手を打った。‌
「犬みたいとか言うなよ! 俺だってこんな名前は不本意なんだ。それなのにシロガネが!」‌
 クロという名もアオ同様、シロガネが命名したものだった。残念なことにシロガネのネーミングセンスは、ただ相手を見たままに表すだけという貧弱なものなのだ。‌
「違うよ。ぴったりだな、と思っただけ」‌
 少年は、肩まである自分の金髪を指に巻いて、くるくると(もてあそ)んだ。‌
僕は、なんていう名前だろう」‌
 小さく欠伸(あくび)をする。‌
 やがて、重たそうに瞼を閉じた。‌
 寝息が聞こえてきて、クロはその寝顔をしばらく見守ると、音を立てないように部屋を出た。‌


 翌朝、少年のいる客間に朝食を運んでいったアオが、ぱたぱたと駆け足で戻ってきた。オムレツを口に運んでいたクロは、もしやまたあの子どもが外に出たのかと表情を(くも)らせる。‌
「クロさん、来客です」‌
「早起きだなー」‌
「島が囲まれています」‌
 クロは弾かれたように立ち上がって、庭に面したテラスに出た。‌
 海上に浮かぶ、黒々とした軍艦の群れが目に入る。‌
どうしたの?」‌
 異様な雰囲気を感じ取ったのか、アオの後をついてきたらしい少年が、不安そうに顔を覗かせた。‌
「お前は部屋に戻ってろ。外には絶対に出るなよ! 行くぞ、アオ」‌
 二人は城を飛び出し、砂浜を見下ろす崖の上に辿り着いた。‌
 小舟が近づいてくる。舟の上には(かい)を操る男が一人、それと(よろい)(まと)い、重量を感じさせる大きな剣を腰に提げた男が()(おう)立ちしていた。‌
 こちらに気づいた鎧の男は、確認するように目を細めた。‌
「この島は、大魔法使いシロガネ殿の住まいと聞いている。相違ないか?」‌
 よく響く、野太い声だった。‌
「魔法使いは留守にしております。お帰りください」‌
 クロが取りつく島もない、冷たい口調で返す。‌
「俺はヒムカ国王の命で、人を探している」‌
 男は砂浜に降り立つと、そこに置き去りになっていた小舟に目を向けた。昨日、少年が乗ってきたものだ。‌
「金の髪の少年がここにいるはずだ。連れてきてもらおう」‌
()()その少年をお探しなのか、お聞きしても?」‌
「我が国の罪人だ。逃亡したので追跡し、ここまで辿り着いた」‌
 男の背後には、巨大な軍艦が五(せき)。‌
 たかが子ども一人を追うために、これほどの船団が遣わされるのは異常だ。よほどの理由でなければ、こんな真似はしないだろう。‌
「もしかしてお前の想像、当たってるんじゃねーの」‌
 げんなりしながら、(かたわ)らのアオに向かって小さく(ささや)く。‌
「王子様?」‌
「これ、捕まったら絶対殺されるやつだろ」‌
「やっぱり現実にもあるんですねぇ」‌
 クロは考えるように腕を組んで、声を上げる。‌
「随分と物々しいですね。それほどの重罪人ですか?」‌
「危険人物だ。すぐに引き渡せ。身柄さえ確保できれば、我々はすぐに引き上げる」‌
「ご存じの通り、この島は魔法使いシロガネのもの。彼はどの国にも属さず、またその多大なる功績により、彼の領域内における治外法権が認められています」‌
「つまり、拒否すると?」‌
「我々は権利を行使するだけです」‌
「俺はヒムカ国王より全権を委譲されている。罪人を(かくま)う者があれば、これもすべて同罪であるとのお達しである」‌
 重苦しい音が海の上に響いた。五つの軍艦に積まれた大砲すべてが、島に向けて照準を合わせるのが見える。‌
 それを確認したアオが「行ってきます」とだけ言い残して、その場を離れた。‌
「もう一度言う。罪人の身柄さえ確保できれば、我々はすぐに引き上げよう」‌
「今すぐ引き上げていただけると嬉しいのですが」‌
「あの罪人の正体を知った上でそう申すか。子どもだと思って甘く見ると」‌
「いえ、あなたの口の利き方が気に入らないので」‌
 男は一瞬、何を言われたのかよくわからないという顔をした。‌
「なんだと?」‌
「初対面の相手にどうしてそんなに偉そうなのでしょう不愉快ですさっさと消えていただきたいですお帰りください」‌
 淡々(たんたん)とまくしたてると、相手は(ちょう)(しょう)するように唇を曲げた。‌
「魔法使いの使用人ごときが偉そうに。俺がこの手を上げれば、すべての船から砲弾がこの島に降り注」‌
 途端に、彼の背後にどん、と天まで届きそうな水柱が上がった。‌
 驚いて目を剝いた先に立ちふさがっていたのは、先ほどまでは影も形もなかった、巨大な人型のゴーレムだった。男はぽかんと大きく口を開けた。‌
 山のような巨体に浴びた海水をぼたぼたと垂れ流しながら、重々しい足取りで一隻の軍艦に近づいていく。動く度に金属質な重低音が響き渡り、波が大きくうねった。‌
 ゴーレムはおもむろに軍艦に手をかけ、両手で抱え上げた。軽々と頭上まで持ち上げると、磨き上げられた輝く太い腕で船首と船尾双方から挟むように力を込める。ギギギ、と断末魔のような音が響いた。‌
 ぐしゃり、と潰れた船の破片が四方に飛び散って、音を立てて波間へと落下していく。‌
「青銅人形⁉ ()鹿()な、あれは神話の中の」‌
 男は青ざめた顔で叫んだ。‌
 青銅人形としての本来の姿に戻ったアオは、さらにもう一隻、軍艦を摑み上げて真っ二つに引き裂いた。‌
 残りの船が(あわ)ててこの巨人に照準を合わせ、砲弾を撃ち込み始める。そのうちのひとつがドォンと音を立ててアオの肩に命中した。衝撃でのけぞり、肩の部分が大きくへこむ。‌
 クロはそれを見て、舌打ちした。‌
 古代技術を駆使した驚くほど頑丈な金属青銅人形と呼ばれてはいるが、ただの青銅とは明らかに違うでできているアオの身体は、大抵の攻撃ならなんなく跳ね返す。しかしいつの間にか、大陸における現代文明も随分と進歩したらしかった。‌
 次々と砲火にさらされ、アオはわずかに後退した。致命的なダメージはないようだが、身動きが取れないらしい。‌
「撃て! もっと撃ち込め!」‌
 砲撃の合間に、男が叫んでいるのが聞こえた。‌
 クロは「しょうがねぇなぁ」と呟くと、(ちゅう)(ちょ)なくその身を崖から(おど)らせた。‌
 海に向かって落ちていくクロの身体が、ぐにゃりと変形する。‌
 次の瞬間、質量が一気に膨れ上がり、何かが爆発するような音が響き渡った。‌
 空に向かって闇色の翼が大きく広がり、(しっ)(ぷう)を巻き起こす。‌
 姿を現したのは、鈍色に光る黒い(うろこ)を持つ巨大な竜であった。‌
 砂浜の男も、船の上の兵士たちも、翼を羽ばたかせ身をくねらせる竜を呆然と見上げている。‌
「りゅ、竜?」‌
「まさかそんな」‌
「竜は絶滅したはずだろう!」‌
 その身を竜に変化させたクロは、おもむろに牙を剝き出しにし、口を大きく開いた。‌
 勢いよく業火が放出され、一隻の軍艦に浴びせられた。船は瞬時に燃え上がり、黒々とした炭になって波間に引きずり込まれていく。‌
 約二百年前、竜の一族は滅びたといわれている。原因は、人間による竜の乱獲だった。竜の血には傷や病を治す効力がある。人類の三分の一が命を落としたとされる(えき)(びょう)が世界中に(まん)(えん)した際、その血を求めて、人々はそれまで隣人として共存していた竜たちを(ぎゃく)(さつ)したのだ。‌
 クロは、その唯一の生き残りだった。‌
 この竜の姿を見たシロガネが、彼にクロという名をつけた。センスがない、と思う。‌
 いくつかの砲弾が硬い鱗に当たったが、クロはうるさいというように首を振って、自分を撃った船に向かってさらに火を吐いた。‌
 その間にアオが残りの一隻を粉々にし、海に放り投げる。‌
 (ごう)(おん)が鳴り響いていた海に、やがて静寂が戻った。‌
 砂浜で呆然と立ちすくむ男は震えながら、壁のように立ちはだかるゴーレムと、空を悠々と旋回する黒竜の姿を見上げていた。小舟の()ぎ手も、がたがたと震えて(うずくま)っている。‌
 黒竜がゆっくりと降りてきて、男の頭上を覆うように翼を広げた。‌
「あの子どもの罪とはなんだ?」‌
 人型をしている時のクロとはまったく違う、海すらその振動で震わせる恐ろしい声だった。‌
 男は「ひぃっ!」と引きつった悲鳴を上げた。‌
「答えろ」‌
「あ、あ、あ、あれは、我が国を滅ぼすと! そう予言されたのだ! 呪われた子だと! 父である王を殺すと予言された! だから、だから赤子の時に殺したはずだったが、生きていて」‌
 先ほどまでとは打って変わって、震えて()き消えてしまいそうなほど小さい、情けない声だった。‌
 クロがおもむろに鋭い牙を剝き出しにしてみせると、彼は「ひっ」と頭を抱えて蹲る。‌
お前たちは、ここで見聞きしたことを誰にも話すことができない」‌
 竜に魔法は使えない。‌
 しかし、呪いをかけることはできる。‌
「もし一言でも話そうとすれば、お前たちの心臓は止まるだろう。このままおとなしく国へ戻り、罪人は死んだと報告しろ。そして二度とここへは来ないいいな?」‌
 言い終えた途端、二人の胸に黒い(くさび)が打ち込まれる。‌
 それは、人には見えない楔だ。呪いを受けた証拠であるそれは、もしもいつか彼らが約束を(たが)えた時、その心の臓を一瞬で貫くことになる。‌
 二人は、青ざめながらこくこくと(うなず)いた。そして慌てて舟を漕ぎ出し、やがてその姿は水平線の向こうに見えなくなった。‌
 後には、静かな海だけが残った。‌


 人型に戻ると、当然ながら先ほどまで着ていた服は千切れて消え去っている。うっかり女性の前で変身するといろいろ大変なのだが、そういう事態はこの島にいると基本的に起こらないので、その点は気が楽だ。‌
 また一着だめにしてしまった、と残念に思いながら、クロは着替えを済ませて部屋を出た。彼はなかなかの着道楽なので、気に入っていたシルクのシャツが海の()(くず)になったことが大層惜しかった。今度、また大陸に仕立てに行かなくてはならない。‌
 同様に今日一着の服を失ったアオは、浴室に()もっている。海水にすっかり浸かったので、隅から隅まで洗って念入りにメンテナンスしているのだ。アオ曰く「錆びついて全身青緑になるのは絶対に嫌」らしい。‌
「はー」‌
 深々と息をつき、マントルピースの鎮座する居間の大きなソファにどさりと身を預ける。竜型になったのは久しぶりだった。アオだけで対応できないほどの事態は、そうそう起きないのだ。‌
 ふと視線を感じて、顔を上げる。‌
 薄く開いたドアの(すき)()から、例の少年がこちらの様子をじっと窺っていた。‌
なんだよ」‌
 少年はびくりとして、おずおずと顔をひっこめた。‌
 しかし再び顔を出すと、クロの傍に寄ってきた。上から下まで彼を眺めまわし、興味津々(しんしん)(てい)で、‌
「ねぇ、竜なの?」‌
 と尋ねた。‌
「見てたのか? 部屋にいろって言っただろ」‌
「ちゃんと部屋にいたよ。窓から見えたの」‌
 少年は言いつけを守ったことを主張し、唇を(とが)らせた。‌
「ねぇ、竜なの?」‌
 わくわくしたように再度尋ねる。クロは肩を竦めた。‌
うん、そう」‌
 瞳がぱあっと輝いた。‌
「かっこいい!」‌
 (せん)(ぼう)(まな)()しに、悪い気はしなかった。‌
「ふふん、そうかよ」‌
「ねぇ、竜になるとどんな感じ? 火を噴いて口は熱くないの?」‌
「熱かったら真っ先に俺が丸()げになってんだろうが」‌
「いいなぁ、かっこいいなぁ!」‌
 かっこいい、を連呼され、クロは悦に入った。‌
「竜に乗ってみたい!」‌
 目を輝かせてはしゃぐ姿は、いたって普通の子どもだ。‌
「ふざけんな」‌
「えー」‌
「俺は乗り物じゃねぇ」‌
 シロガネも出会った頃、背中に乗りたいとせがんだものだと思い出す。当然断ったが。‌
「そんなことより、お前をどうするかだな」‌
 ごろりとソファに横になり、頭の後ろで手を組んだ。‌
 死んだと伝えろと命じて呪いをかけたものの、万が一何かのきっかけでこの少年が生きていることが伝われば、彼らは再び軍事力を行使するだろう。その場合、今回同様に周囲の被害など考えずに攻めてくることは想像に難くない。最初はどこぞの孤児院に預けようと考えていたが、これでは預けた先が(だい)(さん)()になる可能性もある。‌
「お前聞いてたか?」‌
「え?」‌
「俺とあの男の話だよ」‌
「? ううん。遠くてよく聞こえなかった」‌
 少し胸を撫でおろす。自分が呪われた子と呼ばれている、などという話を聞いて、いい気分がするわけがない。想像するに、どうせ予言者とやらの後ろに黒幕がいてアオの語った物語のように、継母かもしれない適当なことを言ってこの少年を追放しようとしたのだろう。‌
「やっぱり、その子にはしばらくここにいてもらうのがいいと思うんですが」‌
 風呂から上がって身支度を整えたアオが、乾かし漏れはないかと髪を撫でつけながらやってきた。‌
「大丈夫か。大砲見事にくらってたけど」‌
「少し(あざ)になってますけど、平気です」‌
 ゴーレムの肩は(へこ)んでいたように見えたが、それは痣程度らしい。‌
「その子のことですけど、シロガネが帰ってきたら魔法で記憶を戻してもらえるでしょうし、それまでの間だけ、ということでどうですか?」‌
」‌
 クロは眉を寄せたまま黙り込む。‌
 少年は少し戸惑った様子で二人を見守っている。‌
 ゆっくり身体を起こすと、クロは少年に向き直った。‌
しょうがねーな」‌
 大きく息を吐く。‌
「そうと決まったら、いろいろ用意しなくては。子ども用の服と、部屋とあ、なにか育児書も買ってきましょうか」‌
「おい、育児までするつもりはねぇぞ。記憶が戻るまでだ、しばらく預かるってだけで」‌
「困ったときのために、あって損はないですよ。なにしろ未知の領域です。さて、クロさんは朝食を食べそこなっていますし、もうお昼なので何か用意しますね。君はベッドに戻って」‌
 アオが少し困ったように首を(かし)げた。‌
「ここで暮らすなら、名前がないと不便ではないですか?」‌
「名前」‌
 しかし、本人は覚えていないのだ。さっきあの男に聞いておけばよかった、と(じゃっ)(かん)後悔した。‌
 適当に名付けるしかない。‌
 クロは少年の瞳を覗き込んだ。竜としての習性できらきらと輝くものが好きな彼は、その(きら)めく髪や瞳につい目が引き寄せられてしまう。‌
ヒマワリ、かな」‌
「え?」‌
 少年がぽかんとしている。‌
「お前の名前。ヒマワリにしよう」‌
「ヒマワリ?」‌
「だってお前、目の中に向日葵が咲いてるだろ」‌
 言われて気づいたというように、アオが顔を覗き込む。‌
「おう、本当ですね。向日葵だ」‌
 少年は不思議そうに自分の目を触り、マントルピースの上に()めこまれた鏡を見つけると、ぱたぱたと駆け寄って覗き込んだ。彼には鏡の位置が高かったので、つま先立ちになっている。‌
 クロは自信ありげに胸を張る。‌
「シロガネに名前つけられるより断然ましだぞ。あいつだったら、間違いなく『キンキラ』とかセンスない名前つけたに決まってる!」‌
「じゃあ、ヒマワリさん。部屋に戻りましょうか」‌
 名を呼ばれ、少年はまだそれが自分のものだという実感がなさそうにアオを見返した。‌
うん」‌
 アオに手を引かれて、名無しの少年ことヒマワリが部屋を出て行くと、クロは再びソファにごろりと横になった。‌
 久しぶりに竜として盛大に身体を動かしたので、少し疲れた。そのまま瞼を閉じると、心地のよい()(だる)さに身を任せて、すぐに眠りに落ちていった。‌


 どれくらい()ったのか、「クロさん」とアオに揺り起こされる。‌
「クロさん、ヒマワリさんがまた外に出てしまったようです。ちょっと今、(ちゅう)(ぼう)を離れられないので見てきてください」‌
むぅ」‌
 欠伸をして、渋々起き上がる。‌
 どうしてじっとしていられないのだ。‌
 これだから子どもは面倒だ、と仕方なくテラスに出た。‌
 庭を見渡したが、人影はない。‌
 ぼやきながら、城の裏手に回った。大陸に(つな)がる古井戸を通り過ぎると、小高い丘に出る。この島で、一番見晴らしのいい場所だ。‌
 ヒマワリがその上に座り込んで、ぼんやりと海を眺めている。‌
「おい、勝手にうろうろするな」‌
 振り向いたヒマワリは、「ごめんなさい」と立ち上がった。‌
「じっとしてるより、何か思い出せるかと思って」‌
 記憶が戻るまで、と言ったことを気にしているのだろうか。焦らせるつもりはなかったのだが。‌
いや、ゆっくり思い出せばいいんだし」‌
 言い方には気をつけたほうがいいのだなと学んで、クロは頭を掻いた。‌
「今は、休め。とにかく怪我を治せよ」‌
「うん」‌
「お前の靴、買わないとなぁ」‌
 裸足のままのヒマワリを見て、クロは呟いた。‌
 ここまで来るのも痛かったはずだ。‌
「ほら、戻るぞ」‌
 小さな体をひょいと抱え上げる。ヒマワリはおとなしく、クロの首にぶら下がるように腕を回した。‌
 すると、その肩越しに何かを見つけ、声を上げる。‌
「あれは、お墓?」‌
 クロは振り返った。‌
 丘を越えて下っていった島の北東の端に、海を見つめるような白い石板の墓標が立っている。‌
「ああ」‌
「誰の?」‌
魔法使いの墓だよ」‌


 シロガネが息を引き取ったのは、十年ほど前のことだ。‌
 不老不死を得たと言われた彼は確かに、いくつになっても二十代にしか見えない容貌だった。クロが彼に出会って傍にいた十五年間、老いた様子など欠片ほどもなかった。‌
 彼が実際に何歳だったのかは知らない。数々の伝説を年表にして考えてみれば、出会った時点でそれなりに高齢であったことだけは想像できる。‌
 本人に尋ねても、‌
「人に歳を聞くなんて、デリカシーないよっ」‌
 と顔をしかめてどこかへ行ってしまう。‌
 妙に子どもっぽいところが、余計に年齢不詳だった。‌
 彼は大抵自分の研究室に籠もって、研究に没頭していた。時々、大陸から客がやってきて彼に何事か依頼することもあった。シロガネは実際世界最高の魔法使いであり、誰に対しても常に偉そうで自信満々な態度だった。‌
 新しい魔法を編み出してそれを世間に発表することもあったが、そんな時は妙に青白い顔をして研究室に引き籠もった。食事も喉を通らず、不安そうに何度も出来栄えを確認し続ける。しかしそれが一通り済んでしまえば、それまでのストレスを発散するかのようによく食べてよく遊んだ。‌
 そうして気が抜けて、機嫌がいい時は「ふにゃらら~ん、てってろり~、むむにゃむ~ん」などと変な歌を口ずさむのが常だが、どうやら本人は無意識らしく、指摘すると驚いて「そんな天才的な歌を僕が作ってた?」と首を傾げていた。評価や人目は気にするくせに、クロとアオの前ではひどく()(とん)(ちゃく)な男だった。‌
 シロガネ曰く、若さを保つ魔法は彼の研究の副産物だという。‌
 人々は彼が不老不死の研究に没頭していたと信じていたが、実際のところシロガネが追い求めていたものは、不老不死などではないようだった。‌
 そんなシロガネが体調を崩し始めてしばらく経った頃、彼はベッドの上で身体を起こし、クロとアオを呼んだ。‌
そろそろ、僕にも終わりが来るらしい」‌
 死期が迫ったことへの焦りや失望は、どこにもなかった。微笑を浮かべながら、淡々とした口調でそう告げた。‌
 腰まである長い銀の髪を、指でくるくるといじっている。考え事をする時の癖だ。‌
「永遠に変わらないものはない。すべてに等しく、終わりはやってくる。でも、変わることで永遠になるのかもしれないね」‌
 彼の研究が本来どのようなものであったのか、クロもアオも知らない。だが彼が、『永遠の何か』を探し求めていたのは確かだと、クロは思っている。‌
 アオを掘り起こしたのは、動力さえ確保できれば動き続ける青銅人形の仕組みを探るため。行き場のないクロを傍に置いたのは、千年生きる竜の生命の(みなもと)を探るため。いわば、クロもアオも彼の研究材料だった。‌
 しかし二人とも、そうは思っていなかった。‌
 シロガネは彼らを、家族として愛してくれたから。‌
「シロガネ、いなくなるんですか?」‌
 アオが尋ねた。‌
「うん。身体は、海が見えるところに埋めてほしいな」‌
」‌
 目を大きく見開き、カクカクと身を揺らしている。人間だったら恐らく、泣いている状態だ。‌
「ちゃんと日の光を浴びてね、アオ。太陽の光が君を動かしているんだから。それと、錆びないようにメンテナンスは自分でするんだよ。もう僕は磨いてやれない」‌
 さらに激しく、ガタガタと身体を揺らす。‌
 クロは、彼が死んだらどうしようかと考えた。‌
 竜が次々に死に絶え、自分だけが生き残った時のことを思い出した。また、自分の居場所も、生きる意味も見出せなくなる。‌
「クロ。美しい竜が存在する世界って素晴らしいから、これからも生きてね」‌
 見透かしたように、シロガネはそう言って微笑(ほほえ)む。‌
「あと八百年もすれば俺も死ぬ。そうしたら、地上から竜は完全に消える」‌
「うん、そうだね。でも、だからこそ、美しいんだよ」‌
遺言は口頭じゃなく書面で残してくれ」‌
 泣きそうになるのを(こら)えて、()()()すように可愛(かわい)げのないことを言った。‌
「うん。そこの箱に遺言書と、権利書の(たぐい)はまとめてあるから、あとで確認してね」‌
 シロガネの顔色はいつになく悪く、頬も少しこけてきたように思えた。‌
「今まで、ありがとう。もうちょっと君たちと、一緒にいたかったな。もっと一緒に、過ごせたらよかったな」‌
 それでも、シロガネは普段通りに笑っていた。‌
 その二日後、シロガネは死んだ。‌
「戻ってくるよ」‌
 最期の時、見守るクロとアオに向かって彼は言った。‌
 苦しそうな様子はなかった。静かに、彼の命の炎が消えていくのを感じた。‌
 隣で、アオがまた、ガタガタしている。‌
 シロガネは、ゆっくりと目を閉じた。‌
必ず、戻ってくるから」‌
 クロはきらきらとしたものが好きだ。あらゆる宝飾品や鉱石をコレクションしている。‌
 シロガネの美しい銀の髪が好きだった。月の光で輝く絹糸のような煌めきが好きだった。‌
 しかし、その髪を切って手元に残すことはしなかった。‌
 意味がないと思ったのだ。‌
 シロガネがそこにいないのなら、あれほど美しくは見えないのだから。‌


 ヒマワリは一人、丘の上に腰を下ろしていた。‌
 彼がこの島に流れ着いて、三か月になる。‌
 傷は()え、ヒマワリという自分の名も生まれた時からそうだったような気すらしている。‌
 記憶は、まだ戻らない。‌
 今日はぽかぽかとした陽気で気持ちがいい。彼の傍らでは、灰色のうさぎが草を()んでいた。‌
 色とりどりの花が鮮やかに咲き乱れる中、寝転がって手にした分厚い魔法書を読み解いていく。かつてこの島にいたという、大魔法使いの残した本だ。‌
 先日、面白がってそこに書かれた簡単な魔法を試してみた。物を浮遊させる魔法だった。‌
 テーブルの上に置かれたスプーンがふわりと浮いたのを見て、クロもアオも驚いた。魔法は、普通の人間には使えないのだそうだ。‌
「つまりお前は、魔法使いの一族の血を引いてるってことかぁああ、もう本当にいろいろ面倒くさそう」‌
 クロはそう言って頭を抱えていた。‌
 よくわからなかったが、ともかく魔法というものは面白いものだと思い、最近は片っ端から城にある魔法書を読み漁っている。‌
「えーと変身魔法」‌
 ページをめくりながら、肩まである金髪をくるくると指に巻いた。‌
 隣で食事中のうさぎを観察する。このうさぎに魔法をかけてみようか。‌
 大きな動物がいい。馬はどうだろう。クロはどんなにせがんでも、竜になって背中に乗せてはくれないのだ。‌
「また読んでるのか?」‌
 開いたページを黒い影が覆った。見上げると、いつの間にかクロが立っていた。‌
「クロ」‌
「勝手に魔法を試すのは禁止だと言っただろ」‌
「読んでるだけだよ」‌
 ヒマワリは口を尖らせる。‌
「それ、シロガネもやってたな」‌
「え?」‌
「そうやって、髪いじるんだよ。何か考えてる時とかに」‌
 言われてようやく、自分が髪を指に巻き付けていたことに気がついた。‌
 クロとアオは時々、シロガネという魔法使いの話をする。‌
 丘の向こうにある墓に眠っている人で、そのうち帰ってくるのだと二人は言った。魔法使いとは、死んでもまた戻ってくるものなのだろうか、と少し不思議に思った。‌
 ただ時折、この島にはシロガネに会いに来る訪問者があった。ならばその魔法使いは二人が言うとおり、そのうち姿を現すのかもしれない。‌
 クロとアオにとって、シロガネというのは大事な人らしい。時折懐かしそうに、そして(いと)おしそうに彼の話をする。‌
 それが、ちょっと気に入らない。‌
 ヒマワリは金の髪から手を放すと、少し頬を膨らませた。‌
髪切ろうかな」‌
「どうしたいきなり」‌
「長いと、邪魔だし」‌
 そうすれば無意識に触ってしまうこともないだろう。‌
 するとクロが手を伸ばし、ヒマワリの髪に触れる。‌
「こんなに綺麗なのに?」‌
 ヒマワリは目を(しばたた)かせた。‌
「綺麗?」‌
「キラキラして綺麗だろ。俺は長いほうが好きだけど」‌
 くしゃり、と大きな手が頭を撫でる。‌
じゃあ、切らない」‌
 さっきまでの嫌な気分は、すっかり消えてしまった。‌
「クロさーん」‌
 アオの声がした。丘の(ふもと)に彼の姿を見つける。‌
「来客ですー」‌
 クロはため息をついた。‌
「行ってくる。中入ってろ」‌
「うん」‌
 丘を下っていくクロの後ろ姿を見送る。‌
 城へ戻ろうと思い、ふと、ヒマワリは振り返った。‌
 海を見下ろす墓には、いつも新しい花が供えられていた。朝、アオが花を持って丘を下るのを見たことがある。‌
 あの魔法使いが戻ってきたら、自分はここを追い出されるのだろうか。‌
戻ってこなければいいのに」‌
 小さく呟く。‌
「ヒマワリさん、おやつの用意ができてますからねー」‌
 アオが手を振っていた。‌
「はーい」‌
 手を振り返す。‌
 彼がクロと一緒に行かないということは、クロ一人で大丈夫だと判断したのだろう。今日の来訪者は、軍艦の大群などではないということだ。‌
「おやつ~おやつ~なんだろな~」‌
 ヒマワリは歌いながら跳ねるように、丘を下っていく。‌
 ここに来た初めの頃は、どこかへ帰らなくては、と強く焦りを感じた。だが今は、不思議とそうは思わない。‌
「ふにゃらら~ん、てってろり~、むむにゃむ~ん」‌
 適当に口ずさみながら、古井戸を通り過ぎる。‌
 聞き覚えのない、大きな声が響いた。‌
「大魔法使い、シロガネ様はいらっしゃいますか!」‌
 誰かが叫んでいる。‌
 ヒマワリは城の扉を開ける前に、林の向こうに目を向けた。‌
 クロが崖の上から、砂浜を見下ろしている。‌
 彼の声が、静かに耳に届いた。‌
魔法使いは、留守にしております」‌

【つづく】‌