レディ・マグノリアの生涯(著:白川紺子)

わたくしのお嬢様、レディ・マグノリアがお生まれになったのは、八十二年前の春のことでした。
お嬢様のお父上である伯爵の所領は、冬の寒さがとりわけ厳しい北方にあり、春といってもようやく街道に降り積もった雪がとけはじめた時分のことで、お屋敷の庭に咲く白いマグノリアの花は、まだうっすらと氷の冠をかぶっていました。曇天の雲間から差し込む陽光がその氷を輝かせ、とかしていったころ、お嬢様は産声をあげられたのです。
伯爵は長女の誕生を大いに喜び、ひと月ののち、国一番の大魔法使いを呼びました。
ええ、そう。
わたくしの父です。
父が分厚い毛皮のマントに身を包み、雪豹にまたがって伯爵邸の庭に降り立ったその日も、マグノリアの花は陽光に照らされて、たいそう美しく輝いていたそうです。ひどい二日酔いに頭がぐらぐらしていた父の目にも、それはまぶしく映ったそうで、その場でお嬢様の名は『レディ・マグノリア』と定まりました。このとき父の目に入ったのが美しい花でほんとうによかったと、わたくしは思います。父は名付けに関して、まったくてきとうでしたから。
生まれた赤子に魔法使いが魔法と名前を授けるという風習は、実際のところ、いったいいつからはじまったのでしょうね。真面目な魔法使いならともかく、父のようないいかげんな魔法使いにかかっては、分の悪い賭けをするようなものですよ。それが大魔法使いなどと持ち上げられて、その魔法と名前を王侯貴族はこぞって欲しがるのですからね。
父はその日、あまり調子がよくありませんでした。前の晩に深酒をして、その酒が抜けきっていなかったのです。きっとずいぶん酒臭かったことでしょう。なぜそれほど深酒をしたかといえば、母と大げんかをしたからです。
母も大魔法使いのひとりでしたから、大げんかともなれば、そのあたり一帯が嵐に見舞われたような状態になったのではないかしら。けんかの理由? 聞いておりません。どうせたいしたことではないでしょう。どちらかがよけいなひと言を言ったとか言わないとか、その程度のことですよ。それからもたびたび起こったけんかの理由は、たいていそれでしたから。
二日酔いで痛む頭と吐き気をこらえて、よろよろと伯爵邸へと赴いた父は、生まれたばかりの美しい赤ん坊に、祝福の魔法を授けました。
言うまでもないことですが、魔法というのは、繊細なものです。風邪をひいていたり、虫の居所が悪かったり、そんなささいなことで力のほどは左右されます。赤子に魔法を授けるという、このうえなく大きな責任を伴う細やかな仕事において、二日酔いなどとんでもないことでした。
自らの力を過信していた父は、お嬢様に魔法を授け、失敗したのです。
魔法とともにマグノリアという名が与えられたお嬢様は、激しく泣きだしました。乳母が抱えあげようとお嬢様に触れた瞬間のことです。乳母の手は炎に包まれました。父がすぐさま魔法で消火し、やけども治したため、事なきを得ました。父がその場にいなければ、おそらく乳母は大怪我をしていたでしょう。
お嬢様には、やけどひとつありませんでした。泣きつづけるお嬢様に、父は手を触れました。すると今度は、その手は凍りつきました。
つぎに手を触れると、茨に刺されたように血が噴き出しました。
赤子に授けられる魔法には、さまざまなものがあります。炎を生み出す魔法を授かる者もいれば、花を咲かせる魔法を授かる者、鳥と話せる魔法を授かる者……。伯爵は所領にふさわしく氷の魔法を、伯爵夫人は春風の魔法をそれぞれ授かっておいででした。魔法使いはどんな魔法も扱えますが、ひとは、その身にたったひとつの魔法を授かります。授ける魔法使いの力が強ければ強いほど、授かる魔法も強くなる。お嬢様にとって、それは皮肉でした。
お嬢様が授かった魔法は、『触れた者を傷つける魔法』です。
やけど、凍傷、刺傷、裂傷――お嬢様に触れると、いろんな方法で傷を負いました。過去に例を見ない魔法でした。
赤子のお嬢様が泣いていようがいまいが、魔法は触れる者を傷つけました。つまりは、当人の感情や意思による制御が不可能であることを示していました。それが赤子にとってどんな意味を持つのだか、考えてみるまでもありますまい。
どれだけあとで魔法による治癒が可能といっても、お嬢様にお乳をやろうという乳母はいませんでした。お嬢様の母である伯爵夫人も同様です。夫人は大いにお嬢様に同情しましたが、それ以上にそんな赤子を持ったご自身に同情しておいででした。
伯爵は当然、わが父に激怒しましたが、怒ったところでその魔法を取り消すことはできません。技術としてできないのではありません。当時の法律では、それが認められていなかったのです。
一度授けられた魔法を取り消して、新たに授け直す、などということがまかりとおれば、民の暮らしに混乱を来す――というのが議会の建前でしたが、本音では、それで大きな魔法を持つ庶民が出てきては困るといったところでしょうか。王侯貴族と違って庶民は大魔法使いから魔法を授かることはできませんでしたから、当然ながら大きな魔法を授かるのは王侯貴族と決まっていました。権力の箔付け、そうしたものをなにより大事にする貴族が、あのころはまだ多うございました。
このままではレディ・マグノリアは死んでしまう。伯爵も伯爵夫人も泣いたりわめいたりでたいへんでしたが――氷と風の魔法を授かっているご夫婦ですので、屋敷じゅう、それらが吹き荒れてめちゃくちゃになってしまったのです――、父は青ざめておろおろとしているばかりでした。急報を聞いた母は、そうなった原因が自分とのけんかにありましたから、いくらか責任も感じたのでしょう、当時遠方にいたわたくしを呼び寄せました。
わたくしは、まあ、ずいぶんとあきれたものでございます。事の次第もさることながら、それでわたくしに『どうにかしてくれ』というんですからね――父も母も、昔からそうなのですよ。細々とした面倒なことは、わたくしに任せればなんとかなると思っているのです。役所への届け出だの議会の承認だの女王陛下へのお使いだの、面倒なことはぜんぶわたくし。
当時わたくしは五十歳で――人間の見た目でいえば十五、六の小娘に見えたでしょうけれど――、父母は二百歳くらいでしたかしら。わたくしは、それなりの魔法使いとして独り立ちしておりました。父の不始末の尻拭いをしなくてはならぬ立場でもございません。けれど、ねえ、見捨てられるものでもないでしょう。赤ん坊ですよ。それがお腹を空かせて泣いているのですよ。わたくしには伴侶も子もありませんでしたが、目にしてしまうともういけません。ほうってはおけなくなりました。
わたくしは傷を負わぬよう自らに魔法をかけて、お乳を哺乳瓶で与え、おむつを換え、あやしました。傷を負わぬようあらかじめ魔法を施すというのは、ひどく繊細で、難しいさじ加減がいります。父母はそういったことが苦手でした。大雑把なひとたちですからね。わたくしひとりでやらねばならないものですから、しばらくはろくに眠れもしませんでした。あのころがいちばんたいへんでしたよ。引き受けたことを後悔しましたし、何度も父を恨みました。
お嬢様は、美しい赤ん坊でした。そして、か細い声で泣く子でした。火がついたようにわっと泣くこともありましたが、たいていは、ひい、ひい、と消えそうな声で静かに泣くのです。いまにも儚くなってしまうのでは、と不安になるような。その声を聞くと、わたくしはいてもたってもいられぬような心地になるのです。あのころ、お嬢様は静かに泣きながら、必死に手を伸ばしていました。その手をとるのは、わたくしひとりしかおりません。本来であれば、乳母に母親に父親にと、多くの人々に抱きあげられ、頬ずりされていたはずの赤子です。伯爵は懸命に議会に働きかけて魔法の取り消しを求めておいででしたが、叶う様子はありませんでした。哀れなレディ・マグノリア。わたくしはお嬢様が手を伸ばすたび、その小さな体をそっと抱きしめておりました。
三、四歳になると、お嬢様は美しい子供になりました。子鴨のようにわたくしのあとをついて回る、愛らしい子供でもありました。
お嬢様が利発な子供であるのは、誰が見てもわかったでしょう。ふくふくとした丸い頬は赤く色づき、形のよいおでこは白く、はしばみ色の瞳は賢そうな光をたたえていました。やわらかな金の巻き毛は絹糸のようで、撫でるだけで幸せな気持ちになったものです。あまりに見事な髪なので、ときおり小鳥が巣材にしようとついばみにやってくるのを、追い払わねばなりませんでした。
ある日、わたくしがほんのすこしのあいだお嬢様のおそばを離れたときでございました。けたたましい悲鳴が聞こえて、わたくしはあわててお嬢様の部屋へ戻りました。お嬢様の悲鳴でないことはわかっておりました。部屋の扉を開けると、いたのはお嬢様と伯爵夫人でした。伯爵夫人の手は焼けただれておりました。
伯爵夫人は、わが子に触れようと試みたのです。かわいらしく成長したお嬢様を見て、抱きしめたくなったのです。それは母親として当然の情動でしたろう。夫人は、わたくしが何事もなくお嬢様に触れ、お世話しているのを見て、もう触れても大丈夫なのでは、と思ったそうです。しかし、お嬢様のかわいらしい頭を撫でようと手を置いたとたん、その手は炎に包まれてしまったのです。
伯爵夫人の手はもちろんすぐさま治療いたしましたが、夫人がふたたびお嬢様の部屋を訪れることはございませんでした。春風の魔法を授かった夫人はおやさしい気性の持ち主で、そして気弱なおかたでもございました。
お嬢様が領地の外れにある別荘へと移ることになったのは、六歳のときでした。伯爵夫人がご懐妊になり、なにかあってはいけないからと、お嬢様とは別々に暮らすことになったのです。わたくしはお嬢様とともに別荘へと移りました。従僕や掃除女中、下男などはおりましたが、お嬢様のお世話をするのはやはりわたくしでした。
しばらくして、伯爵夫人が無事に男児をご出産なさったという知らせが届きましたが、お嬢様が本邸へ呼ばれることも、伯爵たちが訪ねてくることもございませんでした。男児に魔法と名を授けたのは、わたくしの父ではなかったとも聞きました。当然でございましょう。そのころには、伯爵も議会へ魔法の取り消しを求めることはあきらめていたようでした。
以来、お嬢様は伯爵夫妻から忘れられたようにひっそりと暮らしておりました。わたくしはお嬢様のために、魔法で遊び相手を務めました。姿を消してのかくれんぼ、ぬいぐるみや人形を使っての追いかけっこ、庭に雪山をこしらえてのそり遊び。お嬢様はさびしいと泣くこともなく、癇癪を起こすこともございませんでした。まだ親を恋しく思う年頃でしょうに、こらえていたのでしょう。賢いかたでございましたから、自分の置かれた状況をよくご理解なさっておいででした。それがわたくしには心苦しく、お嬢様がいっそういじらしく思えて、大事にお育てしようという思いを新たにしたのでした。
十五、六にもなりますと、お嬢様はそれはそれはお美しいご令嬢に成長なさいました。
波打つ金色の髪は、陽光の下では金の粉をまぶしたように輝きを放ち、夜の闇のなかでは月光のように白々とつやを帯びてきらめきます。長い睫毛に縁取られた目は猫のよう。それは美しさと愛らしさを兼ね備えた目で、うつむけば灰色に、明るい窓辺では薄緑にも見えるはしばみ色の瞳とあいまって、お嬢様の容貌のなかでも際立って魅力的に映りました。きりりとした眉に、すっきりとした鼻筋、薄紅色のかわいらしい唇、なめらかな頬に形のよい顎……美しい箇所をあげてゆけばきりがありません。手足はほっそりとして長く、どんなドレスをお召しになってもさまになりました。あまり飾り気のない、上衣もスカートもほんのわずかばかりフリルとレースをつけたくらいのドレスが、お嬢様のお好みでした。わたくしの目にも、そうしたドレスはお嬢様のお美しさをいっそう引き立てているように見えて、満足でした。濃紺に花の地模様が入った立ち襟のドレスに身を包み、胸元に縞瑪瑙のカメオのブローチだけをつけたお嬢様のお姿など、ほんとうに見事なものでした。
わたくしは、写真家か、あるいは画家を呼ぼうと提案いたしました。お美しいお嬢様のお姿を残しておくためです。ですが、お嬢様は気乗りしないご様子で、「面倒だから、よしてちょうだい」とおっしゃいました。
「ですが、もったいのうございますよ。せっかくですもの、お写真でも撮って、伯爵夫妻にお届けしましょう」
「お父様たちに? そんなものを届けたって、しかたないでしょう」
「いいえ、きっとお喜びになりますわ」
「そうかしら……」
お嬢様は物憂げに眉をひそめておいででしたが、それでも強く反対はなさいませんでした。成長した姿を両親に見せたいと、お嬢様もお思いになったのかもしれません。さっそく腕利きの写真家を呼んで、お嬢様を撮っていただくことにしました。
「あなたと一緒でなくてはいやだわ」
いざ写真機を前にすると、お嬢様はそう言ってだだをこねました。
「わたくしなどと……」
「一緒じゃなきゃ撮らない」
結局、わたくしと一緒に写ったものと、お嬢様おひとりが写ったもの、それぞれ撮ってもらうことにして、どうにか撮影はすみました。
後日、できあがった写真を見ると、輝くばかりにお美しいお嬢様の隣に、その影のように地味な女が立っているのがどうにも場違いで、わたくしは恥ずかしい思いをいたしました。ですが、お嬢様はこの写真をことのほか気に入ったご様子で、何枚も現像させました。真鍮の豪華な写真立てに入れて暖炉の上に飾ったり、すみれの花飾りがついたかわいらしい写真立てに入れて枕元に飾ったり。どうかすると屋敷中に飾ろうとするので、あわてました。
「おひとりでのお写真を飾ったほうがよろしゅうございますよ。そんな、わたくしまで写ったものなど見栄えが悪うございます」
「いやよ。これがいいの」
お嬢様は頑として譲らず、わたくしが折れました。お嬢様には、こうした頑固なところがおありでした。
いつだったか、まだお嬢様が幼かったころ、わたくしはお嬢様に子供の遊び相手を用意しようと考えたことがございました。別荘地の村に住む子供たちです。うっかりお嬢様に触れては怪我をしてしまいますから、遊ぶといっても触れ合うことのない遊びで、もしもの場合に備えてわたくしがそばについておりましたが。
お屋敷のこまごまとした雑務――食料の配達だとか雪かきだとか――を引き受けている村人に頼んで、お嬢様の遊び相手になる年頃の子たちに来てもらいました。人形遊びに、影絵当て、すごろく。子供たちはよく遊んでくれたと思います。無邪気ないい子たちで、見ているだけで明るい気持ちになったものです。わたくしはお礼にケーキやお菓子を毎度用意しておりましたが、子供たちはそれも大いに喜んでくれました。ですが、肝心のお嬢様はお気に召さなかったようで、どの子にも関心を示すことなく、どの遊びもつまらなそうにしておりました。何度目かに子供たちと遊んだあと、「もう誰も呼ばなくていいわ」とおっしゃったのでした。
「子供の遊び相手なんていらない。退屈だし、邪魔だわ。あなたとの遊びのほうがずっと楽しい。わたくしはあなたがいたらそれでいいわ。よその子には来てほしくないの」
お嬢様と所領の村の子とでは、打ち解けるのは難しかったのやもしれません。以来、お嬢様はどうおすすめしても遊び相手をお望みにはなりませんでした。幼いときから、一度こう、と決めたら覆さぬかたでした。
――伯爵から呼び出しを受けたのは、お嬢様のお写真をお送りしたあとのことです。
「あなたはまるで変わらないのだな」
伯爵は本邸の応接間でわたくしと相対して開口一番、そうおっしゃいました。お会いするのは別荘に移って以来ですので、およそ十年ぶりでした。伯爵は十年ぶんお年を召していらっしゃいましたが、わたくしはさして変わらぬ見た目をしておりました。外見は小娘でも、実際には伯爵よりずっと年上、伯爵の母親に近い歳なのです。畏怖と薄気味悪いという感情を貴族らしい冷ややかな品のよさで覆い隠した顔で、伯爵はわたくしを見ておいででした。それはさまざまなひとがわたくしども魔法使いに向ける感情ですので、品のよさやひとのよさで隠そうとしても、よくわかるのでございます。
「あの子は昔のままかね」
わたくしがごあいさつを述べようとするのも待たず、伯爵は性急にお尋ねになりました。
「すばらしいご令嬢におなりです」
「そういうことではない。やはりあの子の魔法は、あのままかという意味だ」
わたくしはうなずきました。「赤子に授けた魔法が成長によって変化することはございません。魔法使いがいまの魔法をとりあげ、新たな魔法を授けぬかぎりは」
伯爵はため息をついて長椅子の背にもたれかかりました。落胆がありありと出ておりました。
「あれほど美しい娘だというのに……あまりにも不憫な」
わたくしは沈黙しました。言えることなどなにもありはしません。伯爵はじろりとわたくしをにらむと、身を乗り出しました。
「国一番の大魔法使いの授ける魔法であれば、間違いがないと思ったのに。あなたのお父上さえしっかりしていてくれたら、いまごろあの子はこの屋敷でなに不自由なく過ごして、来年の春には社交界にデビューして、よい結婚相手に巡り会えたであろうに。こともあろうに、二日酔いで赤子に魔法を授けるとは。大魔法使いが聞いてあきれる。よくも大事なわが娘を……」
言いつのるうち、伯爵の周囲は急速に冷えてゆき、彼の眉毛に霜が張りつきました。感情が乱れると伯爵はまわりを凍らせてしまうのです。室内はすっかり冷え切り、わたくしも凍えましたが、魔法であたためることはしませんでした。そんなことをすればよけいに伯爵を怒らせるからです。伯爵から怨嗟の言葉を投げつけられるのは、はじめてではありません。彼からしてみれば当然でしょう。不幸の元凶はわたくしの父です。父がすべて悪いのですから。
「あなたに言ったところで詮ないことだが……」
凍えて小刻みに震えるわたくしを見て、伯爵はうなるように言ってうなだれました。霜が消え、寒さも和らぎます。これもいつものことでした。娘の不幸を嘆き、父の代わりにわたくしを責め、けれどわたくしを責めたところで状況が変わるわけではなく、わたくしを責めたことに罪悪感を覚え、いたたまれなくなるのです。
「父が愚かであったばかりに、申し訳ございません」
わたくしが返す言葉も、いつもおなじでした。これ以外に言えることはないのです。
伯爵はため息をついて、かぶりをふりました。この話題はもうおしまいだという合図です。
「そんなことより、さきのことを考えねば」
「さきのこと……でございますか」
「私はいま一度、議会に魔法の取り消しについて議題を提案するつもりだ。どうにかして、あの子にまともな人生を与えてやりたい」
成長したお嬢様のお写真を見て、伯爵はその熱意がよみがえったようでした。
「問題は例の侯爵だ。今回もきっと邪魔をしてくるだろう。昔からわが一族とはそりが合わないうえ、彼にも年頃の娘がいる。私の娘が社交界に出られるようになれば、とてもかなわないだろうからな。あの家は公爵の孫を娘の結婚相手にしようと躍起になっているんだ」
前にお嬢様の魔法の取り消しを訴えたとき、それが退けられたのは、貴族たちの頭が固いのに加えて、その侯爵一派の反対があったからでした。娘の結婚がかかっているとなったら、いっそう猛反発するでしょう。貴族同士の結婚というのは思った以上に面倒があるようで、いちばんの難題は、ちょうどよい年頃の相手が豊富にいるわけではない、ということでした。家柄の釣り合いや、血縁の近さも気にしなくてはなりません。そんななかでいま注目されているのは、公爵家のなかでもとりわけ歴史の古い、筆頭の地位にある公爵家の青年でした。眉目秀麗だという噂のその青年は公爵の嫡男の長男で、つまりゆくゆくは公爵位を継ぐ人物です。祖父である公爵からとりわけかわいがられているという彼は現在、勉学と経験を積むため大陸旅行に出かけており、国内にはおりません。彼が帰国したら、貴族のご令嬢がたはいろめきたつことでしょう。
そんな事情があるので、議会の承認を得るため貴族たちを切り崩してゆくのは一筋縄ではいかないのです。それでも伯爵は意欲を燃やしておいででした。そうするだけの価値がお嬢様にあると見なしたのでしょう。
「ともかく私はなんとかして魔法の取り消しを実現させる。それまであの子をよろしく頼むよ」
言われるまでもないことでした。お嬢様に会いには来ないのかと、尋ねることは控えました。伯爵夫人は、一度も顔をお見せにはなりませんでした。
「お父様は、なんのご用だったの?」
別荘へ帰ったわたくしに、お嬢様はそうお尋ねになりました。わたくしは正直に、「お嬢様にかけられた魔法の取り消しを、ふたたび議会に求めるそうでございます」とお答えしました。
お嬢様は肩をすくめて、
「どうしてそんなことをするのかしら。わたくしはいまのままでじゅうぶんなのに」
「お嬢様のお幸せをお考えなのですよ」
「お父様は、いまのわたくしは不幸だとお思いなのね。困ったこと。お父様の思いどおりの暮らしをしていないと、まともな人生じゃないとお思いなんでしょう」
わたくしはなんともお答えできませんでした。お嬢様はいまの暮らし以外を知りません。母親とともに馬車で出かけることも、ご令嬢がたとお茶をすることも知りません。幽閉のごとく別荘に押し込められて、日々接するのはわたくしくらい。まともな魔法が授けられていれば、こんな暮らしを送ることはなかったのです。
「ほかの貴族令嬢のような暮らしができないからといって、わたくしは不自由だとは思わないわ」
わたくしの考えを読んだように、お嬢様はおっしゃいました。ときおり、お嬢様は鋭い勘でもってわたくしの意図を察するのです。
「わたくしは毎日楽しくて幸せよ。ほかの暮らしを知りたいとは思わないわ。だって、そこにあなたはいないでしょう」
お嬢様は目を細めてわたくしを見ました。
「あなたは昔からちっとも変わらないのね。いまにわたくしの見た目はあなたを追い越してしまうわ」
お嬢様がわたくしを見る目は、伯爵とは違って、あたたかく、やわらかいものでした。
だからでしょうか。わたくしもあたたかい気持ちになって、お嬢様をこのままずっとおそばで見守りたいと思ってしまうのです。ですが、それはお嬢様にとって、正しい道ではございません。わたくしは伯爵の訴えが議会で通るよう、祈っておりました。
しかし、祈りに反して伯爵の運動はあまりうまく進んでいないようでした。わたくしとお嬢様は、あいかわらず別荘で静かに過ごしておりました。
変化が訪れたのは、その年の春先のことでした。
その日は朝から春本番のようなうららかな日差しが降りそそいでいたのですが、昼過ぎからにわかに曇りだし、北風が吹きつけてきました。ここ数日、あたたかい日がつづいて雪はほとんどとけており、地面はひどくぬかるんでいました。北風に地面は凍り、降りだした雪はあっというまに吹雪へと変わりました。道を行く馬車もひとも、難儀したことでしょう。別荘の玄関扉がたたかれたとき、最初は吹雪の音だと思いました。ですが、「お助けください」という悲鳴じみた声が聞こえて、驚いたお嬢様が扉を開けるよう命じました。開いた扉から、吹雪とともに倒れ込むように入ってきたのは、ひとりの青年でした。髪にも服にも雪が積もり、がたがたと震えていました。青年は震える指で外を指さしました。「う……馬が」声は聞きとりづらかったのですが、どうやら乗ってきた馬を庭木につないだようです。それを助けてほしいということでしょう。お嬢様は下男に命じて馬を厩へとつれてゆき、世話をさせました。
「あなたの馬は無事よ」
と、お嬢様は青年に声をかけました。青年はそれを聞いてほっとしたのか、気を失ってしまいました。わたくしやほかの使用人たちはおおわらわで、青年を介抱しました。客間の暖炉に急いで火をおこして室内をあたため、服を脱がせて濡れた体を拭いて毛布でくるみ、暖炉のそばの長椅子へ寝かせました。
「そのひと、大丈夫そう?」
介抱が落ち着いたころ、お嬢様はやってきました。毛布にくるまれた青年の寝顔を見やり、「顔色はよくなったわね」とおっしゃいました。
「もう大丈夫でしょう。今朝はいい陽気でしたから、遠乗りに出かけてみたら、吹雪に見舞われた、といったところでしょうね。お気の毒に」
「あれがこのひとの上衣?」
お嬢様は、暖炉の前の柵にかけた上衣を指さしました。上等な乗馬服です。この青年がアッパーミドル以上の身分であることは明白でした。なにしろ顔立ちも品がよく、優美です。お嬢様は上衣に顔を近づけてしげしげと眺め、「どこかの貴族のお坊ちゃんのようね」とつぶやきました。
金の釦に紋章が入っているというのです。見れば、たしかに釦には貝と鎖の紋章が彫り込まれておりました。この紋章はたしか――と、わたくしは貴族名鑑を持ってきて、紋章と見比べました。さる由緒ある男爵家の紋章でした。しかしその男爵家は直系が途絶え、女子相続人の血を引く公爵家に名跡が受け継がれておりました。例の筆頭公爵家です。公爵家ともなれば数々の爵位を併せ持っているものですが、その男爵位は公爵の直系男子の孫に与えられる決まりのようです。つまり――。
公爵の孫。大陸旅行から帰国したら、社交界の中心人物となるのは必至であろう、眉目秀麗な青年。そのひとでした。
すこし癖のある黒髪に、くっきりとした二重瞼の下には灰色がかった青い瞳、その瞳は暖炉の火明かりにやわらかく輝いておりました。公爵の孫である青年男爵は、目を覚ますと丁寧に礼を述べ、「このご恩は忘れません」と生真面目におっしゃいました。
男爵は、わたくしどもが推測したように、いい陽気に誘われ遠乗りに出たはいいものの、吹雪に遭遇してしまったのでした。従者ともはぐれてしまっていたのですが、その者は村人の家に無事保護されておりました。
天候が回復し、ひと休みすると、男爵は従者とともにお帰りになりました。しかし、はや翌日、男爵は改めてお礼にとやってきたのです。たくさんの贈り物を持参して。
大陸で女遊びにうつつを抜かしていたといったふうもなく、いたって口数のすくない、お嬢様を前にすると伏し目がちになってしまうような青年でした。背が高く、がっしりとした体つきの堂々たる青年ですのに、お嬢様の前では内気な少年そのものです。ときおりお嬢様を見ては耳まで赤くなり、まばたきのたびに睫毛の周囲でかすかな光が明滅します。彼の持つ魔法でしょう。おそらく光を灯すことができる魔法です。その光は男爵の姿をほのかに照らして、お嬢様に見とれる彼の瞳をひときわ美しく飾り立てていました。
対するお嬢様はそっけないもので、贈り物にも通り一遍の礼を口にしただけでした。男爵がせいいっぱい会話をつなごうとしても、ろくに言葉もお返しになりません。それでも男爵は気分を害した様子はありませんでしたが、すこしさびしげな顔をなさいました。
「こんなところにおひとりでお住まいで、退屈ではありませんか」
男爵が気遣うように言うと、お嬢様は片眉をあげて不愉快さを示しました。
「ひとりではございません。このとおり侍女がおりますし、ほかの使用人たちもおります」
侍女というのはわたくしのことです。男爵は自分の過ちを謝罪しました。
「申し訳ありません。そういう意味で言ったのではないのです。ようは、ご家族と離ればなれでお気の毒だと――」
男爵はすでにじゅうぶんにお嬢様のご事情をご存じのようでした。
「しかたのないことです。わたくしはひとを傷つけてしまいますから」
お嬢様は淡々とした感情のこもらない口調でおっしゃいました。
「それに、不自由も退屈もしておりません。わたくしの侍女は有能なのです」
男爵は、ちらとわたくしを一瞥しました。まるで、置物だと思っていたものが生き物であるとはじめて知ったようなまなざしでした。
「たしかに、優秀な魔法使いだとお聞きしておりますが……」
「わたくしは彼女がいなくては生きていなかったでしょう。わたくしの命の恩人であり、親であり、友人ですわ」
お嬢様の声音には、親愛の情がこもっておりました。それまで無色であったお嬢様の声に、あたたかい色がついたようでした。わたくしは男爵の手前、無表情でおりましたが、内心では喜びに打ち震えておりました。
男爵は黙り込み、お嬢様とわたくしとを見比べておいででした。ふいに咳払いをすると、男爵は背筋を伸ばし、改めてお嬢様のお顔をごらんになりました。
「レディ・マグノリア、気が早いとお思いでしょうが、私はあなたに求婚したいと思っております」
いずれそう来るのだろうと予想はついておりましたが、昨日の今日で男爵自ら拙速に口にされるとは思っておりませんでした。
「わたくしはどなたとも結婚いたしません。わたくしの魔法はご存じでしょう」
「レディ・マグノリア、私はあなたを助けたい」
男爵は身を乗り出しました。その顔には真摯な熱意があふれています。反対に、お嬢様は眉をひそめておいででした。
「こんなひどい魔法が授けられてもどうにもできないなど、おかしい。すぐさまなんらかの救済措置がとられて当たり前の事例です。あなたは貴族たちの体面や権力争いの犠牲になっている。ひどい話です。とても放ってはおけません」
真面目な口調で言いつのる男爵の顔は、きりりとして頼りになりそうでした。
「私は貴族院の議席を持ってはいませんが、父や祖父を通して議会に働きかけます。人道に外れた魔法はなくすべきだ」
貴族であれば成人したと同時に貴族院の議席が与えられるのですが、男爵であっても公爵の孫である彼にそれは与えられていません。彼の父も同様ですが、下院議員になる資格は有しているため、彼の父はそちらの議員です。彼の祖父も父も、議会における有力者でした。お嬢様のお父上と反目している侯爵一派などものともしないほどの。
「待っていてください。いまに魔法の取り消しを認めさせて、あなたを助けてみせます」
男爵は瞳を輝かせてそう宣言すると、意気揚々とした様子で帰ってゆきました。彼の後ろ姿を、光が照らしだしていました。その魔法にふさわしく、美しく清らかで、まっすぐなおかたです。
お嬢様は、男爵の言葉にもさして表情を動かさず、終始醒めた表情をしておいででした。
「あのかたでしたら、ほんとうに実現してくださるやもしれませんよ」
わたくしがそう言うと、お嬢様は不愉快そうに眉をよせて、
「だからって、なにも変わりはしないわ」
とおっしゃいました。期待をして実現しなかったらつらいから、あえてそうおっしゃるのかもしれない、とわたくしは思いました。ですので、それから男爵について話題にすることはやめました。それでも情報は勝手に入ってきます。新聞です。男爵の行動は、お嬢様に対する愛ゆえの献身であると、美辞麗句によって讃えられていました。美しくも一途な青年男爵に民衆は味方し、祖父は孫かわいさに貴族たちを説き伏せ、なによりものを言ったのが、女王陛下が関心を示されたことでした。潔癖な女王陛下は貴族たちの奔放な色恋沙汰を嫌悪しており、一途な愛が大好きなのでした。それでもう決まったも同然です。男爵の父は議会をまとめあげ、『人道にもとる魔法の授与は無効とする』という法案を通したのです。お嬢様のお父上、伯爵が歓喜したのは言うまでもありません。なにせ、娘の魔法をなくせるうえ、公爵の孫が娘婿になるのですから。
ところが――。
「わたくしは魔法の取り消しなんて求めないわ」
お嬢様はまるで関心のない顔でそうおっしゃいました。
ことの次第を知らせに来たお父上の伯爵は――思えば伯爵が別荘へおいでになったのはこのときがはじめてでございました――、しばし唖然としておりましたが、気を取り直したように笑顔を貼り付けました。
「拗ねているんだね、わが娘よ。かわいいマグノリア。いままでどうにもできなかったのは、ほんとうにすまないと思っている。だが、もう苦しまずともいいのだよ。おまえの魔法はなくせるんだ」
お嬢様はため息をつくと、静かに椅子から立ちあがり、伯爵のほうへと手を伸ばしました。伯爵はぎょっとした様子でお嬢様の手を避け、その拍子に椅子から転げ落ちました。お嬢様は、伯爵を冷ややかなまなざしで見おろしておいででした。
「どうしてわたくしが苦しんでいるとお思いになるの? そばで見てきたわけでもないのに。それに、そのようにお思いになっていたのなら、どうして一度もこちらへおいでになることなく、手紙のひとつも寄越さずにいられたのかしら。――いえ、いいのよ、お父様。わたくしはそれでいいと言っているの。いままで無関心であったのなら、ずっとそうしてくださるとうれしいわ。わたくしはそのほうが幸せです。おわかりになる? 放っておいてほしいの。わたくしの苦しみを勝手に思い描かないで。わたくしにはこの魔法をとりあげられることのほうが、耐えがたい苦しみなのよ」
伯爵を見おろして、お嬢様は淡々とおっしゃいました。伯爵の顔は青ざめ、得体の知れないものを見る目で娘を見あげておりました。
「わたくしはここでひっそりと暮らしたいの。結婚もしません。おわかりになったら、さっさとお帰りになって」
「マ、マグノリア――」
「おわかりにならない? この魔法がある利点をお教えしましょうか? いまのようにぐずぐずと居座っている客を痛めつけて追い出すことができるのよ」
お嬢様が伯爵に近づこうとすると、伯爵はかすかに悲鳴をあげて立ちあがり、あとずさりました。血走った目をわたくしに向けて、憎々しげににらみつけてきます。
「どういうことだ。あなたはいったい、この子にどんな教育をしたんだ? あなたのせいだぞ、こんな――」
わたくしが口を開く前に、お嬢様が伯爵に駆け寄ろうとしたので、わたくしはあわててお嬢様をとめに入りました。お嬢様の手が伯爵に触れるすんでのところで、わたくしはお嬢様を抱き留めました。
「いけません、お嬢様」
「放してちょうだい。お父様には直にお教えしないとわからないのよ。わたくしはこの魔法があって不満どころか、大いにありがたく思っているの。わたくしから魔法をとりあげるなら、許さないから。そんなことをしたら、死んでやるわよ」
「お嬢様!」
伯爵は悪夢を見たような顔で帰ってゆきました。
「なんてことをおっしゃるんです」
わたくしもまた、ひどい顔をしていたことでしょう。お嬢様が口にした『死んでやる』という言葉が、わたくしの胸に突き刺さっていました。
「『死んでやる』だなんて、いくら脅し文句でも、言ってはなりません。おやめください」
お嬢様はわたくしを見て、ばつが悪そうな顔をしました。
「悪かったわよ。ああ言うのがいちばん効くと思ったのよ」
「本心ではないのでしょう? 魔法の取り消しを求めないなどと」
お嬢様は目をみはりました。
「本心よ。どうしてあなたまでそんなふうに言うの? わたくしはいまのままがいいの」
「ですが、お嬢様――」
「あなたはわたくしの魔法がなくなったら、お役御免でしょう?」
お嬢様はうつむいてつぶやきました。
「わたくしの心配をしてくださっているのですか。大丈夫です。お嬢様が嫁いだら、わたくしはまたもとのとおり、ただの魔法使いに戻るだけです」
わたくしはほほえみかけましたが、お嬢様は暗い顔をしたまま、わたくしのほうを見もしませんでした。
それから数日、お嬢様はひどく不機嫌なご様子で、ろくに口も開きませんでした。むっつりと押し黙り、書斎の本を一心に読みふけったり、なにか考え事をなさっておられました。
「ねえ、あなたの一生は、わたくしなどよりずっと長いのでしょう?」
ふいにお嬢様は、そんなことをお尋ねになりました。
「さようでございますね」
「平均で五百年ほど生きるって、ほんとう?」
「それほどでは。まれにとんでもなく長命の者がおりますので、平均値をあげてしまうのです。だいたいは三百年足らずでしょう」
「ふうん。それでもわたくしの三倍は長生きね。わたくしが長生きすればだけれど」
「お嬢様は長生きなさいます」
思わずそう言いましたが、根拠があったわけではございませんでした。
お嬢様は、ふっと微笑しました。親しみのこもった、わたくしにだけ見せる笑いかたです。
「あなたが言うのなら、そうなんでしょうね。長生きさせてちょうだい」
「はい」とわたくしはうなずきました。わたくしを見るお嬢様の目にさっときらめきが走りました。
「絶対よ。約束したわよ」
その念押しに戸惑っていると、
「わたくしはあなたがそばにいないと長生きできないと思うわ。あなたがわたくしの三倍生きるなら、その三分の一はわたくしのためにそばにいてほしいの」
お嬢様はそう懇願しました。
「魔法を取り消したあとも、わたくしを侍女として雇いたいということでしょうか」
「魔法は取り消さないわ。だって結婚させられてしまうじゃないの」
わたくしはお嬢様のお顔を眺めました。
「男爵と結婚なさりたくないと?」
お嬢様はかぶりをふりました。
「誰とも結婚したくないの」
「そんな――せっかく魔法の取り消しが可能になって、これまでできなかったことも、望めなかったことも叶うというのに、お嬢様」
「わたくしは一度も望んでいないわ」
ぴしゃりとお嬢様は吐き捨てました。
「わたくしが一度でも頼んだことがあって? どうか魔法を取り消してと、助けてちょうだいと。誰にもそんなことを訴えはしなかった――誰もそんなことを訊いてもこなかったわ。お父様だって、わたくしのことなどとうに忘れていたくせに、白々しい。それをいまになって、自分たちの都合でわたくしからとりあげようとする。わたくしはこの魔法でなくすばかりではなかったわ。この魔法があるからこそ、得られたものがあるの。どうしてそれを考えてはくれないの?」
お嬢様の目から、はらりと涙がこぼれました。その泣きかたは、お嬢様の小さいころを思い起こさせる、とても静かな泣きかたでした。わたくしは当時から、お嬢様のこの泣きかたには弱かったのです。
「お嬢様……」
そのとき、扉がノックされました。男爵がやってきたと従僕が知らせます。お嬢様は袖口で涙をぬぐい、「応接間で待たせておいて。着替えなくてはならないわ」と告げました。
お嬢様によくお似合いの冴えた青の昼用ドレスを着せて、青白い頬に軽く頬紅を刷き、薔薇色の口紅を塗るあいだ、お嬢様はなにもおっしゃいませんでした。応接間に向かうころには、泣いていたのが嘘のように冷えびえとしたいつものお嬢様のお顔になっておりました。
男爵は、応接間に入ってきたお嬢様を、青ざめて緊張した面持ちで迎えました。
「魔法を取り消すおつもりがないとうかがったのですが、ほんとうでしょうか」
こわばった口を動かし、男爵はかすれた声でそうお尋ねになりました。
「ほんとうです」と答えたお嬢様の声には、なんの感情も含まれておりませんでした。
「なぜです? 私と結婚したくないというのでしたら――」
お嬢様はゆるくかぶりをふりました。
「わたくしは、どなたとも結婚するつもりがないのです」そして、いくらかおやさしい口調で付け加えました。「あなたにはなんの瑕疵もございません。それは世間に公表してくださってけっこうですわ」
「なぜです」男爵はだだっ子のようにくり返しました。うちしおれた少年のようです。
「あなたは自由になれる。あなたを縛っていたひどい魔法から解放されて、どこへでも行けるのですよ」
お嬢様は、おそらくはじめて、じっと男爵の顔を見つめました。
「ほんとうにそうお思いになるの?」
男爵はうろたえて瞳を揺らしていました。光がぱちぱちと目の周囲に飛びます。
「あなたの妻に収まって――あるいはべつの貴族かもしれないけれど――それでいまのわたくしが解放されると? 逆ではなくて? いま、わたくしはとっても自由よ」
お嬢様は唇を吊り上げ、冷ややかな笑みを浮かべました。作り物のような美しさのある笑みです。
「他人に触れられないことの、どこが自由ですか」
男爵はお嬢様の美しさに怯みながらも、そう反論なさいました。
「触れられる相手ならちゃんといるわ」
お嬢様の視線がわたくしに向けられました。男爵も、鈍い動きでこちらを向きます。急に話の矛先を向けられて、わたくしは戸惑いました。
「魔法使いですか」
明るくまっすぐな光をたたえていた男爵の瞳が、ふいに翳りました。
「レディ・マグノリア。あなたは――」
男爵はうつむき、言葉を濁しました。次いで、ふたたびわたくしに目を向けます。その瞳はやはり、お嬢様に向けるのとは違い、暗く澱んでいました。
「あなたは、それでいいとお思いですか?」
問いかけられて、わたくしは返答に困りました。
「あなたは、レディ・マグノリアの教育係でもあるのでしょう? いまのレディ・マグノリアは、あなたなしでは生きられなくなっている。それでいいのでしょうか。彼女には新しい道を、選択肢を与えるのが正しいとは思いませんか」
男爵の言い分はもっともでしたが、その口調はじっとりと湿っていて、光の魔法を持つ彼にはそぐわないものでした。
「正しいか、正しくないかで言えば、男爵のおっしゃることが正しいとわたくしも思います」
そうお答えすると、男爵の目が動き、光を帯びたようでした。
「ですが、わたくしはお嬢様がどうしてもいやだとおっしゃることを、強いたくはありません」
男爵の顔が、さっと紅潮しました。
「レディ・マグノリアをそういうふうにしてしまったのは、おまえだろう!」
張りのある声が響き、男爵のまわりで光が明滅しました。彼の額には青筋が浮き、目は血走っています。激昂しているのは明らかでした。光がふくらみ、波打ち、泡がはじけるような音を立てています。彼の魔法はおそらく攻撃に使える――いかなる魔法も加害するために使ってはならないという法はございますが、かっとなったらどうしようもないでしょう。そうなったら正当防衛で、こちらも魔法を使わざるを得ません。
ですが、わたくしが身構えるよりさきに、いつのまにか男爵のそばにいたお嬢様が、彼の手をつかみました。
男爵の悲鳴が響き渡りました。
男爵は手にひどい裂傷を負いましたが、わたくしの治療は拒みました。
血のしたたる手を押さえて、傷の痛みよりも心の痛みに傷ついた目をして、男爵は別荘から立ち去りました。
のちのちまで、男爵のその傷痕は残っていたと聞いております。きれいに治そうと思えばできたはずですが、男爵はそれを望まなかったそうでございます。その胸中を推し量ることを、わたくしはいたしません。男爵はおいやでしょうし、あれこれ申しあげるのは侮辱にもなりましょう。
事態を表沙汰にはしなかったので、お嬢様は処罰を受けることはございませんでしたが、むろんのこと、結婚話は消えました。男爵は破談についてなにも語らなかったようですが、周囲は騒ぎたてました。新聞の社交欄でも、一途な恋に破れた男爵に同情し、薄情だとお嬢様を責める記事がひところは頻繁に出ておりました。
伯爵は当然激怒しているようでしたが、ふたたび別荘に来ることはございませんでした。新たな縁談が用意されることもなく、お嬢様はもとのように、忘れられた令嬢としてひっそりとした暮らしにお戻りになりました。
刺繍をしたり、編み物をしたり、寄付を頼まれれば書類に署名をして、ときおり別荘地にある孤児院や婦女子の更生施設への慰問に出かけ、村人の要請に応えて街道や橋を整備する費用を出してやる。そうした貴族婦人らしい日々を送り、お嬢様は歳を重ねてゆきました。
「もうすっかり、あなたの見た目を追い越してしまったわね」
三十歳を過ぎたころ、お嬢様はそうおっしゃいました。わたくしは八十を越えておりましたが、二十歳程度の娘にしか見えません。お嬢様は歳を重ねたぶんのお美しさをお持ちでした。
そのころからでしょうか。お嬢様と過ごせる日々があとどれだけあるのか、ふと考えてしまうことが増えたのは。
かつてお嬢様がおっしゃったように、魔法使いは人間の三倍は長生きです。ひとは三倍の速さで歳をとってゆきます。子供はあっというまに大人になり、年老いてゆく。気づけばあのひとも、このひとも死んでいる。そんなふうです。
お嬢様の髪に白髪が交じり、だんだんとそれが増え、体の不調を訴えることが多くなり、億劫そうに身動きなさるようになりました。
朝、お嬢様の髪をくしけずりながら、あるいは夜、お嬢様がお休みになるまで暖炉の火の番をしながら、思い起こされるのは男爵のことでした。どうして彼のことを思い出すのか、あるときわかりました。傷です。彼がその身に残している傷痕のことを考えていたのです。男爵は、わたくしには知りようのない傷の痛みと、その痕を得ているのでした。
ときおりわたくしは、燃えさかる炎のような激しさを胸に覚えました。風にうねり、乱れ、火の粉を散らす炎に心が焼かれて、喉がふさがるような……。
お嬢様は、か細くなってゆきました。肉が落ち、そのぶん皮膚はたるみ、弾力を失い、皺のよった肌の下に静脈が透けて見えます。それでもあいかわらずお嬢様はお美しい佇まいをお持ちで、朝陽に輝くマグノリアの花のようでした。
「あなたを見ていると、わたくしもまだ若い娘であるような気がしてくるわ」
寝台に横たわり、お嬢様はほほえみました。ここ数日は、起き上がることもままならぬようになっておいででした。しゃべることすら億劫そうで、ひと言ずつ、ゆっくりとお話しになります。
「三分の一……」
つぶやいて、お嬢様は、ふふっと笑いました。
「三分の一、あなたは、くれたわね」
――あなたがわたくしの三倍生きるなら、その三分の一はわたくしのためにそばにいてほしいの。
かつてお嬢様がおっしゃったことです。
「お嬢様」
わたくしは思わずそう呼びかけたものの、それ以上、言葉は出てきませんでした。喉がふさがるようなあの感じにおそわれ、なにも言えなくなるのです。胸が熱くて痛い。幼い時分からずっと慈しんでいたものが、消え去ろうとしています。その事実がわたくしを耐えがたく苛み、鞭打つのです。
「お嬢様――」
わたくしはふたたび呼びかけ、お嬢様の顔をのぞき込みました。お嬢様の呼吸は浅く、速くなっておりました。緩慢に瞳を動かし、わたくしのほうをごらんになりますが、もう口をきくのは難しいようでした。
「三分の一だけでなく、残りもすべて、お嬢様にさしあげます」
考えて口にした言葉ではございませんでした。考えはもうまとまりません。胸に吹き荒れる熱がそう言わせたのです。
お嬢様は、唇をほんのわずか動かしました。笑みを浮かべたのだと、わたくしにはわかりました。
「ですから、お嬢様もわたくしにくださいませんか。――傷を」
わたくしは手を伸ばし、お嬢様のか細い手に触れました。お嬢様の瞳がすこし揺れて、ゆっくりとまばたきをなさいました。うなずきの代わりでしょう。お嬢様の指がぴくりと動きました。わたくしはお嬢様の手を持ちあげ、自分の手の甲に重ねました。お嬢様の指は、震えながらわたくしの手の甲をなぞりました。わたくしはその瞬間、自身にかけた魔法をといたのです。
奥歯を噛みしめ、悲鳴が口から洩れるのを抑えました。炎がわたくしの皮膚を焼いています。熱い。その炎は、わたくしの胸中に吹き荒ぶ熱のようでした。皮膚が焼けて破れ、血が吹き出ます。胸の奥まで焼かれているようでした。
火が消えたときには、お嬢様はもう息をなさっておりませんでした。
お嬢様は、伯爵家の墓所ではなく、この別荘の庭に葬られることになりました。わたくしがそう希望したからですが、その求めに当代の伯爵――とうにお嬢様のお父上は亡くなり、弟君が跡を継いでおられました――はさして関心を示さず、あっさり了承してくださいました。
お嬢様を埋葬した場所のそばに、わたくしはマグノリアの木を植えました。まだ花をつけるまでには成長しておりません。ゆっくりと見守るつもりでございます。
*
しゃべり終えて、伯母は紅茶を口に運んだ。その手の甲にはひどいやけどの痕がある。か細い指が触れたような痕だった。
「退屈だったでしょう? こんな長いお話……」
そう言って笑う伯母は三十過ぎくらいにしか見えないが、これでも齢百を軽く越える魔法使いである。
「いえ、レディ・マグノリアのことをお聞きしたいとお願いしたのは私ですから。とても興味深いお話でした。ありがとうございます」
甥である私に向ける伯母のまなざしはあたたかい。
伯母はレディ・マグノリアを看取ったあと、長年の奉仕への褒賞として、じゅうぶんな年金とこの別荘を伯爵から賜った。とはいえ、長命である魔法使いがその後の一生を過ごすには、ここはあまりに退屈すぎるだろう。
「父が、一度故郷に戻ってきてはどうか、と心配しているのですが……」
私の父の姉が、この伯母である。レディ・マグノリアに仕えてからというもの、伯母はまったく故郷に帰っていない。そのあいだに祖父母――父と伯母の両親である大魔法使い夫婦は相次いで亡くなり、いまや父が大魔法使いの名を継いでいる。
「わたくしは、ここを離れるつもりはないのですよ」
伯母は穏やかに微笑する。その手は、無意識なのだろうか、手の甲にある傷痕をなぞっている。
「しかし……おひとりで、退屈でしょう」
「いいえ。村人との付き合いもございますし、庭の手入れもございますからね」
伯母の目は窓のほうへと向く。応接間の大きな窓から庭木が見えた。マグノリアの若木だ。
「このさきずっと、レディ・マグノリアの墓守をして暮らすおつもりですか」
そう尋ねる私の声音には、わずかながら軽蔑と非難が含まれていただろう。伯母は優秀な魔法使いである。レディ・マグノリアの侍女を務めることができたのも、難しい匙加減のいる魔法を難なく操れたからだ。こんな場所でひっそりと隠居するには惜しい。父よりよほど大魔法使いの称号が相応しいと思う。父もそう思っているから、帰郷するよう求めているのだ。
しかし、伯母の瞳はすこしも揺らぐことなく静かで、「そうですよ」と答えた。
「そんな……。だって、レディ・マグノリアのために一生の三分の一を費やしたのなら、もうじゅうぶんじゃありませんか」
「わたくしがそうしたい、というだけのことでございます」
私は伯母の手を見た。ひきつれた傷痕。レディ・マグノリアが遺していった楔――伯母をここへつなぎとめる楔に思えた。
「レディ・マグノリアはたしかに心底、あなたを愛していたのでしょうが、死後もそれに縛られることはないのではありませんか」
伯母は目をしばたたく。そこにはかすかな戸惑いがうかがえた。
「愛……。さあ、そういった思いであったのかどうか、わたくしにはわかりませんが」
「なにを言うんです」私はすこし笑ってしまった。「三分の一は自分のためにそばにいてほしい――レディ・マグノリアはそう言ったのでしょう。それが愛の告白でなくてなんなのです」
その求めに応え、いまも、これからもそばにいようとする伯母もまた、深い愛情ゆえではないか。――不思議なことに、伯母は、そのどちらもよくわかっていないようだった。他人から見てよくわかることほど、当人はわからないものなのかもしれない。
伯母は黙って手の甲の傷痕を眺めていた。その傷痕を指でなぞり、瞳にはうっすらと潤んだ膜が張っているように見える。
紅茶はすっかり冷めてしまった。立ちあがり、窓辺に近づく。整然と刈り込まれた植え込みに囲まれて、レディ・マグノリアの墓がある。石碑が建てられ、そこに名前が刻まれている――『麗しきレディ・マグノリア、ここに眠る』。
石碑のかたわらには、まだ背の低いマグノリアの若木が、すんなりとした姿で佇んでいた。たしかに、この木が花をつけ、美しく咲き誇るところを見てみたい、と思う。
冬の雪に耐え、春先、凍りついた白い花弁を朝陽が照らしだす。
それはきっと、レディ・マグノリアのように美しいのだろう。
【おわり】