魚の神さま(著:三浦しをん)

ほとんど日の光を浴びない私は、深海魚のような生活を送っている。
注文を受けたおにぎりの数にもよるが、だいたいは日付が変わる前後に起き、活動を開始する。家屋の一階に下り、コンクリート敷きの土間になっている厨房で、鮭の切り身やタラコを大量に焼いたり、付けあわせの白和えを作ったりする。
この建物では、もともと祖父母が小さな印刷工場を営んでいた。いまや築六十年以上になろうかという物件で、一応は鉄骨二階建てのはずなのだが、なんだか全体が傾いできているような気もする。居住部分へつながる階段は神経を逆撫でする鍵盤と化し、一段踏むごとに、みし、めき、と素っ頓狂な音が鳴る。二階の廊下もむろんうぐいす張りだし、風呂場の窓は閉じきらない。
でもまあ、防犯対策と換気対策が万全になったと前向きにとらえ、いまのところ建て替えは考えずにいる。私は兄とともに、子どものころからこの家で暮らしているから、なんとなく愛着があるのだ。
祖父についで祖母が亡くなり、古ぼけた印刷機械ごと土地と建物を相続することになったときには、もちろん困惑した。しばらく使われていなかった機械類は、黒光りするオイルに埃が分厚く付着し、磯にある濡れた巨岩みたいだった。
あちこちに電話をかけまくったおかげで、一番大きな機械は、祖父母とつきあいのあった同業他社に引き取ってもらえることになった。再稼働には調整が必要だが、うまく動かなかったとしても、解体して部品をストックしておきたいという意向だった。機械自体がすでに製造中止になっており、先方の工場でも、「うちで使ってるものが故障したら、修理をどうすればいいんだろう」と戦々恐々としていたらしい。一番古くて小さな機械はドイツ製で、いまとなってはめずらしいものだそうで、印刷関係の博物館が寄贈を受けつけてくれた。祖父母はそんな骨董品みたいな機械で、チラシやら名刺やらを刷っていたのかと私は驚いた。
大半の機械はゴミとして運びだされ、トラックに積まれてスクラップ工場送りとなった。祖父母の印刷工場の収支は、機械の処分費やらなにやらで、最終的には少々のマイナスとなった。赤字の人生。それでも祖父母は、文字や絵を刷りつづけて私と兄を育ててくれたのだ。足りなかった処分費は私がなけなしの貯金をはたいて支払い、土地と建物は兄と半々で相続した。
がらんとしたコンクリート敷きの土間に立ち、「おにぎり屋を開こう」と私は決意した。というのも私は当時、スタイリストとして、主に雑誌の撮影に参加していたのだが、ロケの場合、早朝からはじまることが多い。必然的に、深夜と言っていい時間帯にターミナル駅周辺に集合し、みんなでロケバスに乗りこんで撮影現場へ行くことになる。その際に活躍するのがおにぎり屋で、集合場所におにぎり弁当を届けてくれる。モデルやスタッフは移動中のロケバスのなかで、軽くおにぎりを食べ、撮影に向けて腹ごしらえする。
おにぎりの出来が士気にかかわってくるので、これは大切な仕事だと私は感じていた。スタイリストとして働くのも楽しかったが、生活リズムがどうしても不規則になるうえに、大勢のひととかかわらなければならず、どうも自分には不向きなのではないかと感じはじめてもいた。私は一カ所に根を下ろし、一人で黙々と働くほうが性に合っているのではないか、と。もっと早くに気づけという話だが、なにごともやってみなければ本当のところはわからないもので、専門学校時代も、働きはじめてしばらくのあいだも、ただただ目のまえのことに夢中かつ必死で、自分の適性についてなど考えもしなかったのだ。
以来、私はますますスタイリストの仕事に打ちこみ、再びコツコツとお金を貯めた。最終盤では、既存のおにぎり屋のアルバイトと掛け持ちし、保健所の講習を受けて食品管理責任者の資格も取らなければならなかったので、本当に過労死するかと思ったが、なんとか七年かけておにぎり屋「にぎりん」の開店に漕ぎつけた。我ながら執念深さが怖い。厨房に改装した土間に並ぶ業務用冷蔵庫やガス台は中古で買ったものばかりだったが、私はやる気に満ちておにぎりを握りはじめた。
それからまた七年が経ち、いまに至る。スタイリスト時代の人脈もあって、「にぎりん」は軌道に乗り、四十代半ばとなった私のやる気もおかげさまで減退することなく、おにぎりの新たな具を考案する日々だ。
そもそも「にぎりん」は立地がよく、京王新線の幡ヶ谷駅から北東へ徒歩十五分ほどの場所にある。夜明けまえならば道も空いているので、おにぎり弁当を積んだバンを走らせれば、新宿、池袋、品川といった大きな駅にもすぐだ。まわりは住宅街で、印刷工場だったころは機械の音が響くのではと気をつかったものだが、おにぎりは騒音を立てないうえに、近所の住人が昼に弁当を買いにきてくれる。近年は口コミが広がったのか、ちらほらある中小企業の従業員や道路工事のひとなども、昼ご飯の調達に立ち寄るようになった。
すべてが順調だ。私はふっくらと焼きあがった鮭の切り身を箸でほぐし、慎重に小骨を取り除いていく。大型のガス炊飯器で、折よく白米が炊けたところだ。蓋を開け、ほこほことした甘い香りを肺いっぱいに嗅いでから、エンボス加工の調理用手袋を装着する。はじめて手袋をしておにぎりを握ったときは、うまく感触をつかめず、力加減や塩の量がまちまちになってしまったものだが、もう慣れたものだ。大ぶりのおにぎりを手早く握っては、見映えよく海苔を巻いたり、とろろ昆布をまぶしたりしていく。
本日の具は、定番の鮭と、タラコをほぐしてたっぷりのカツオブシを混ぜ、マヨネーズで軽く和えたものだ。ドラマの撮影隊と、雑誌のロケ隊から注文が入っているので、合計三十八人ぶん、七十六個のおにぎりを作る必要がある。幸いにも、二件とも出発地は新宿駅近く、配達希望時間も似たようなものなので、あせりは禁物だ。つやつやのお米をつぶさぬよう、しかし、握りかたがゆるくて食べにくくならないよう、熱々のご飯で鮭を包み、両手できゅきゅっと三角形をこしらえていく。
海苔を巻いた鮭にぎりが、銀色のトレイにずらりと並ぶ。つぎはタラコ&カツオブシだ、と思ったところで、厨房の一画にある合板ドアが細く開き、削ったカツオブシが満載になった小型バケツが、ことりとコンクリートの土間に置かれる。
合板ドアの向こうは兄の部屋だ。四畳半ほどで、かつては祖父母が、印刷工場の休憩スペースとして使っていた。住宅街の狭い道路に面しているので、現在は腰高窓の外に庇と簡易カウンターを取りつけ、「にぎりん」の昼の弁当販売所にもなっている。
もともと、兄は二階の一室、私の部屋の隣で寝起きしていたのだが、私があまりにも頻繁に「働かざるもの食うべからず」と言ったものだから、辟易して一階に避難したのだ。以降、カツオブシを削ることと、弁当を買いにきた客に、昼寝の片手間にお釣りを渡すことに全力を傾けている。つまり、ほぼニートだ。
私たち兄妹は、四十代半ばになっても一緒に暮らしつづけている。まさかこんな人生になるとは予想していなかった。私がこの家の建て替えを考慮しないのは、ノスタルジーのためだけではない。ひとつの不動産を半々で遺産相続してしまったがゆえに、身動きが取りにくいという側面がある。土地を売却することも、兄を叩きだすこともできない。せめてもうちょっと「にぎりん」を手伝ってくれれば私のいらだちも収まるのだが、兄はカツオブシ削りの腕前を上げる以外のことをしようとしない。
かすかな望みをかけて一度、
「お兄ちゃん、結婚の予定とかないの」
と尋ねたら、
「俺は重要な使命を背負っていて、忙しいんだよ若菜」
と至極真剣な表情で兄は言った。「そういう世俗的な行事は、したいんならおまえがしなさい。そしたら兄ちゃん、一人でのびのびとこの家で暮らすから」
クソ兄貴。怒りがぶり返し、タラコ&カツオブシ握りが雪玉のように固くなってしまいそうだったので、慌てて手をゆるめた。悔しいことに、兄が削るカツオブシは均一に薄くうつくしい。削りパックの購入を何度も検討したのだが、やはり削りたては香り高さがちがうので、兄に任せてしまっている。
「にぎりん」はこだわりのおにぎり屋で、梅干しも高菜などの漬物も私が手づくりしている。だから顧客を獲得できたのだと思うが、年中なにかを漬けなければならず、私はてんてこまいだ。にもかかわらず、兄は一日に一度カツオブシを削るだけで、「生活費ぶんの働きはした」とばかりに惰眠をむさぼっているのかと思うと、今度はおにぎりが鉄球と化しそうだ。
いけない、いけない。私は心を落ち着けてタラコ&カツオブシ握りにゆかりをまぶし、バケツに半量残ったカツオブシを鍋に投入して、出汁を取った。だし巻き玉子と、サービスで昼の弁当につける味噌汁に使うためだ。
配達用のおにぎりが冷めるのを待つあいだに、下味をつけておいた鶏肉に軽く衣をつけ、唐揚げを大量に作る。大型の四角いフライパンを振るい、何度かにわけてだし巻き玉子も何枚も焼く。手首を痛めないよう、適度に力を抜くコツもすでに身に染みついた。最後に小松菜のゴマ和えをこしらえて、配達ぶんのおかずは完成だ。
昼の弁当用の米を研ぎ、ガス炊飯器のタイマーをセットする。これまた昼の弁当用に、唐揚げに使う鶏肉と、西京焼きにする小ぶりのタラの切り身に下味をつけ、冷蔵庫で寝かせる。
そうこうするうちに、配達用のおかずからも熱が取れるので、おにぎりとともに彩りよくプラスチックの弁当パックに収める。おにぎりの具を記したシールを蓋に貼り、完成だ。割り箸とお手拭きを添え、いくつかのレジ袋に弁当をまとめて入れ、厨房に隣接したガレージに停めてあるバンの後部座席に積む。これも中古で買ったおんぼろバンで、つぎの車検を通るかそろそろ危うい。飯を大量に食うだけの生き物がいなければ、いまごろは新車に買い替えられていたのにと、また怒りがこみあげる。
しかしあたりはまだ暗いので、怒りに任せることはせず、狭い道に面したシャッターをそろそろと押しあげる。冷えた外気が一気にガレージになだれこむ。ふと横を見ると、兄の部屋の窓の電気は消えていた。カツオブシを削り終え、早くも二度寝に突入したのだろう。私の怒りは鎮まるタイミングを得られず、燃え盛りつづける。
とにかく新宿へ向かうべく、バンに乗りこみ、夜と朝の狭間の甲州街道へと走らせる。光の気配はどこにもないのに、遠くで鳥が鳴き交わしはじめている。
「暖房の利いたロケバスに長時間置いておかず、早めにお召しあがりください」と、いつもの注意事項を告げて注文主におにぎり弁当を手渡し、帰宅したら昼用の弁当づくりに勤しむ。おにぎりとおかずを冷ますあいだに、翌日の下ごしらえ、伝票整理、漬物の漬かり具合の観察など。息つく暇もないが、体は流れるように動く。
やっと休めるのは朝の十時ごろで、味見も兼ねて作りたての豆腐の味噌汁と、試作品の高菜と明太子のおにぎりを食べる。うん、今日も味噌汁は出汁がよく取れていておいしい。高菜に明太子を合わせるのは、ちょっとしょっぱすぎるかもしれない。高菜とツナをご飯に混ぜこみ、味噌マヨネーズを薄く塗って、焼きおにぎりにしてみるのはどうだろう。焼きおにぎりは手間がかかるが、たまにラインナップに加える程度なら問題ないのではないか。
ちなみに味噌も自家製だ。近所に住む幼なじみの美恵子ちゃんと、年に一度、大樽に仕込むのだ。味噌は美恵子ちゃん一家にも好評で、「もうスーパーで買うものでは満足できない」と言ってくれている。美恵子ちゃんは生家の一軒家で、両親と夫と暮らしている。目下の悩みは、京都で大学生活を送る一人息子の聡くんが、どうも進級できそうにないということだ。
「あの子、親の目がないのをいいことに遊びほうけてるらしくてさ」
と先週、美恵子ちゃんは唐揚げを揚げながら言った。注文が多いときや、私があちこちに配達しなければならないとき、美恵子ちゃんは臨時バイトとして、会社の出勤まえに「にぎりん」を手伝いにきてくれる。
「二年生にもなれないって、まったくどういうこと⁉ あ、揚げ具合、これでいい?」
「うん、完璧。まあ、ほかに楽しいことがあるんでしょ」
「そりゃそうだろうけど、年間で百万以上、学費かかるんだよ。入学したからには、ちゃんと四年で卒業してくんなきゃ、こっちだって困る」
美恵子ちゃんはその後、息子にガツンと言えない夫への愚痴に移行しつつ、マシンのように正確に、油のなかから唐揚げを網杓子ですくいあげつづけた。美恵子ちゃんの夫はとても穏やかで優しいひとで、だからこそ妻の両親との同居もうまくいっているのだと私は見ていたが、比較的円満そうな家庭にも、当然ながら些細な不満や不安の種はあるものなのだろう。新たな家庭を自分で一から構築することをせず、もともといる家族である兄に脛をかじられっぱなしで骨が露出しそうな私には、到底わからない機微だ。
その兄はといえば、私が朝ご飯だか昼ご飯だかわからぬ食事を摂っていると、必ず部屋からのそりと出てくる。本日も同様で、勝手に味噌汁を椀によそい、おにぎりを二個取りわけておいた皿を持って、厨房の片隅にあるテーブルについた。私は向かいに座った兄の手もとを見て、
「ちょっと、克夫!」
と思わず声を上げた。
「なんだい、ワカメ」
「若菜な。なんで唐揚げまで取ってきてんのよ。昼用のお弁当のおかずがたりなくなっちゃうじゃない」
「たまには肉を食わないと、克夫兄ちゃんはカツオブシのように干からびてしまいますよ」
「干からびればいい。好きなんでしょ、カツオブシ」
「まあね」
スウェット姿の兄は飄然と言い、唐揚げを一口で食べた。
使った食器を兄が洗うあいだに、私は兄の部屋へ味噌汁の鍋を運んだり、窓辺のカウンターに弁当を並べたりする。昼の時間帯の弁当販売は兄の担当だ。と言っても、お代はカウンターに置いてあるクッキーの空き缶に客が入れ、お釣りの小銭がたりないときだけ、声をかけてもらう。サービスの味噌汁も、IHの卓上調理器に鍋を載せておいて、客が自分で保温カップによそう仕組みだ。だから兄は、室内でほとんどボーッと座っているだけで済む。
兄の部屋はいつもながら、ものがほとんどなにもなかった。畳んだ布団が隅に寄せられ、そのうえに四角い箱型のカツオブシ削り機が載っている。実はひそかに株の取引をしているとか、人気ゲームのランキング上位者だとか、なんらかの裏の顔と稼ぐ手段を持っていてくれたらと願うのだが、ノートパソコンすらない。スマホはかろうじて所持しているはずだが、たまに出先からかけてもつながらない。たぶん充電が切れている。
以前の兄は、もう少しましだった。一応は大学を出て、携帯電話の販売代理店に就職した。ノルマがきついとかですぐに辞めてしまったが、それからも日雇いの仕事に出かけてはいた。解体現場で廃材を運んだり、建設中のマンションの上階の部屋へバスタブを担ぎあげたりするのだそうだ。そちらのほうが肉体的にきついのではないかと思ったが、接客業よりも兄の性には合ったらしく、現場で知りあった作業員のおじさんと、たまに飲みにいったりもしていた。日雇いの仕事にありつけなかったときは、祖父母の工場を手伝ってもいた。
でも、私がいよいよ「にぎりん」を開店しようかというころ、兄は働かなくなった。最初は具合でも悪いのかと心配したのだが、「兄ちゃん、もうすぐ四十だろ? さすがに腰がきつくてさ」とか、「低気圧のせいかなあ。痛風が疼いて」とか、適当なことをへらへら言うばかりだった。ちなみに兄は痛風ではない。単に、私の脛にかぶりつく方針に転換しただけのことである。
昼の弁当販売は午後二時までだ。兄が窓辺で店番という名の置物になっているあいだに、私は駅前の銀行へ行ったり、スーパーで買い物をしたりする。業者が届けてくれる食材を受け取ったりもする。
そうこうするうちに、兄がからになった味噌汁の鍋を持って厨房に出てきて、カツオブシ用の小型バケツを持って、また自室に引っこんでいく。私は調理に使った道具を入念に洗い、厨房を掃除して、夕方の四時ごろに二階の部屋へ戻る。その直前に、残り物で夕飯を済ませ、配達ぶんの弁当用に米を研ぎ、ガス炊飯器の予約をセットする。
風呂に入ったあと、ベッドにもぐりこんでスマホで配信ドラマを見たり、音楽を聞いたりするうち、いつのまにか眠っている。ルーティンという言葉がこれほどふさわしい生活もなく、ときどき、私はおにぎりを握るために開発されたロボットなのかもしれないと思う。しかし、私が求めていたのはこの規則正しさで、規則性を破るのはいつも兄だ。たまに、兄が風呂を使う物音で睡眠を妨げられることがあり、暗い部屋で私のいらだちは頂点に達する。
けれど私は、兄を本格的に家から叩きだすことも見放すこともできない。兄がちょっと変わっているのは昔からで、心のどこかで諦めがついているのだろう。
兄が繰りだしてくる「仕事をしない言い訳」のひとつに、「やっぱり家で集中して、この世界の安定を念じないと。そうしろって、俺は神から命じられたわけだし」というものがある。いろんな意味で大丈夫なのかな、と案じる時期はとうに過ぎた。兄は中学生のころから、
「俺たちを見守ってくれてる神さまがいるから、なんとかなる」
とよく言っていた。「だからめそめそすんなよ、若菜」
特段の信心はない家だったので、兄がしばしば口にする「神さま」がなんなのかわからず、
「神さまって、どんな神さま?」
と、小学生だった私はしつこく尋ねた。そんなものがいるのなら、ぜひ会ってみたいと思ったし、正体不明の存在に見守られているというのは、ちょっと気味が悪くもあったからだ。
兄は、「まあ、神さまは神さまだ」とか、「なんかこう、漂ってる」とか、適当にはぐらかす。私はいよいよ「神さま」への想像をたくましくした。光り輝く尊いおじいさんの姿なのか。それとも、心霊写真のように私たちの背後でぼんやりと霞んでいるのか。
兄が「神さま」を引きあいに出すたび、「ねえねえ、どんな神さまなの」と期待に満ちて問いただしたら、あるとき兄は観念したのか、
「神さまはな、魚なんだ」
と厳かな口調で言った。
「金魚みたいな?」
「そんな派手じゃない。もっとごつごつしてたし」
「カツオブシみたいな?」
私は卓袱台に向かって座る祖父のほうを見た。工場での仕事を終えた祖父が、ちょうど晩ご飯のためにカツオブシを削っているところだった。祖父のうしろでは、そのころはまだ二階にあった小さな台所で、祖母が大根を切っていた。
「うん。もっとでかいけど、カツオブシっぽかった」
カツオブシに似た神が私たちを見守っていると言い張った兄は、中年となったいまに至るも、カツオブシに似た神に世界の安定を祈念しているらしい。案じるだけバカらしくなる。
もちろん私もそんな言い訳を許すはずがなく、「いいから働け。働かないなら出てけ」といった旨、何度も通告した。
「若菜と『にぎりん』のために、兄ちゃん毎日働いてるじゃないか」
と兄はカツオブシを削りながら言う。
「かかってる負荷が全然ちがうんだよ。私は一日中、コマネズミみたいに動きまわってんのに、あんたは一日十五分しか稼働してないでしょ」
「十五分ってことはない。俺はカツオブシの保管にも、カツオブシ削り機のメンテナンスにも気を配っている」
兄の手もとで、ざーこざーこと薄く削られたカツオブシがバケツに降り積もっていく。「この刃を研いで、削りたい厚さと面積に合わせて装着するの、けっこう大変なんだぞ。カンナの扱いと同じで、熟練の職人技が要求される。カツオブシのカビを取り除いて、どの角度で削り器に当てるかも、兄ちゃんは細心の注意を払って見きわめている。そもそもカツオブシにオスとメスがあること、知ってるのかい、ワカメよ」
「若菜な。それ、あんたの神さまなんでしょ? 神を削っていいのかよ」
「やむをえない」
兄は苦渋の表情を作ってみせる。「かわいい妹のおにぎりのためだ」
「克夫がカツオブシを削るから、世界は今日も戦争と紛争と飢餓であふれかえってるし、私もいらいらしっぱなしで新車を買えない生活を送らなきゃならないんだと思う!」
たいがい私が怒鳴ることで、不毛な会話は終わりを迎える。兄はすべての欲を削ぎ落としたような部屋で、寝癖を揺らしながらざーこざーことカツオブシを削りつづける。
今夜も「水垢離か?」という勢いで、兄は風呂場で水音を立てている。目が覚めてしまった私は、ベッドのなかでため息をつく。
子どものころの私にとって、兄はヒーローだった。
私たちの両親は仲が悪く、私が物心ついたときから両親の会話は怒鳴りあいで形成されていた。ときには皿やぬいぐるみが室内をびゅんびゅん飛び交うこともあった。両親ともに、相手や子どもを殴ったりするようなひとではなかったのは幸いだが、大事にしているモンチッチが宙を舞う姿を見るのは、充分にたまったもんじゃない。
両親の喧嘩がはじまると、兄は私と手をつないで表に連れだしたり、隣室に避難させたりしてくれた。私たち親子がそのころ住んでいたのは、世田谷区内の都営住宅で、戦後のバラックをそのまま流用したのかなと思うほどボロボロの平屋だった。砂利敷きの敷地内に、同じ規格の平屋が八軒ほど点在しており、間取りは四畳半の茶の間と六畳の寝室、小さな台所と汲み取り式のトイレ。風呂はなくて、近所の銭湯に通っていた。
いまだったら、「うちってちょっと貧乏なのかな」と子ども心に引け目を感じてしまうかもしれないが、私の感性がにぶかったのか、当時はどの家も似たようなものだったのか、親が凶暴だろうが家がボロくて狭かろうが、私はほとんど意に介さず、兄に誘われるがまま道路にロウセキで落書きをしたり、角の折れたトランプでババ抜きをしたりした。二人でババ抜きをして、なにがおもしろかったのかわからないが、私たちは茶の間から聞こえる両親の怒鳴りあいをBGMに、飽かず対戦を繰り返した。
都営住宅には、兄の友だちも私の友だちもいたし、道をちょっと歩けば学校の友だちに行きあいもしたので、私たちは学年に関係なく一緒になって、雑木林に秘密基地を作ったり、原っぱでドングリを拾って勝ち抜きドングリゴマ合戦を開催したりもした。兄は遊びのリーダー格で、その日になにをするかを提案し、みんなを導いた。
そう、私たちが住んでいたあたりは、「住宅街」と言うには空き地や畑が多く、自然もたくさん残っていたのだ。夏は虫採りもしたし、浅いドブ川に裸足で入って、ぬめぬめする水草を踏みしめながら、あてもなく下流へ向かって歩いてみたりもした。
でも夏休みに入ると、子どもの数が一気に減る。母の実家は、渋谷区幡ヶ谷の印刷工場だったし、父の故郷がどこだったのか私は知らない。帰省という概念のない兄と私は都営住宅に取り残され、夜はあいかわらず両親の喧嘩の声を子守歌に就寝し、起きたら長い昼間を二人だけでやり過ごさなければならなかった。
あまりにもやることがなくて暇すぎるとき、兄が連れていってくれたのが「角紅のプール」だ。近所の雑木林を抜けたところに、総合商社角紅の社宅があった。真っ白な四階建てのマンションで、付近には古い一戸建てかバラックに毛が生えたような都営住宅しかない土地柄だったので、宮殿みたいに輝いて見えた。大人たちも、「さすが角紅だねえ」と言っていた。
角紅は二十五メートルの立派な屋外プールも造り、近隣住民にも開放していた。社員とその家族はタダ、それ以外のひとも、大人は一回百円、子どもは一回五十円で、プールに入れる。兄が母の財布からくすねた小銭を軍資金に、私たちはちょくちょく角紅のプールへ行った。早めに昼を食べて向かえば、あとは夕方まで、水遊びをしながら夏の一日を涼しく快適に過ごせる。おかげさまで兄も私も真っ黒に日焼けしたが、紫外線の害を云々するものなど、だれもいなかった時代の話だ。
角紅の社員は忙しく働いていて、プールどころではなかったのだろう。利用者は小学生が大半で、あとはプールサイドに監視員のバイトをする大学生が一人二人いるばかり。プールの底はゆるやかに傾斜していて、足がつかない場所もある。兄はプールで友だちと出会うと、バカみたいに猛然と早泳ぎ対決をしていた。顔見知りがいないときは、私と「どっちが長く潜っていられるか対決」をした。兄は水中で変顔をするので、たいてい私の負けだった。
けれど私は、一人で水に潜って、頭上にある明るい水面を見上げているのが好きだった。音が遠のき、無数の小さな気泡がきらめきながら上っていく。日差しが水中で白く揺れている。ずっとずっと水の世界にいたいのに、息が保たない。水面に顔を突きだして、ぶはっと呼吸をすると、膜を破ったように蟬の声と太陽の熱が脳天に降り注ぐ。
どうして人間は魚になれないんだろうと、そのたびに悲しくなった。みんな死に絶えたみたいに静かな水中のほうが、ずっと居心地がいいのに。
私が小学四年生だったその日、夏だというのに気温が低く、空は灰色に曇っていた。父はまた仕事を辞めたようで、朝から茶の間で寝そべり、高校野球の中継なぞ見ている。兄と私は目と目を見交わし、そっと家を抜けだして角紅のプールへ向かった。いまにも雨が降りだしそうだったから、プールには客がだれもいなかった。監視員の大学生も一人だけで、水着のうえから長袖のシャツを羽織り、
「本当に泳ぐの? 今日は寒いよ」
と心配そうに言った。私たちにはほかに行く場所はない。兄は二人ぶんの料金として、監視員に百円玉を渡した。
そろそろと水面に足をつける。痺れるほど冷たい。
「入っちゃえば大丈夫」
と兄が言って、私たちはプールが熱い風呂であるかのように慎重に、肩まで水に浸かった。もちろん、心臓が縮みあがりそうになり、いつまで経っても「大丈夫」にはならなかった。自然とカチカチ歯が鳴った。兄の唇はあっというまに紫色になった。きっと私の唇も同じ色をしていただろう。
兄は意地になったのか、体を動かせばあったまると思ったのか、北極海みたいなプールを不恰好なクロールで泳ぎはじめた。心細くなった私はあとを追おうとして、
「お兄ちゃん……」
と言いかけたところで、脚が攣ってガボッと水中に沈んだ。
水はふだんよりも薄青く澄んでいた。私の口から、真珠のネックレスみたいに白い球がつぎつぎに生みだされる。もがく腕からも、粉雪のように細かい気泡が振りまかれる。それらは鈍く光りながら水面へ上っていく。いや、水中から水面に向けて、逆向きに降っていく。命の危機にもかかわらず、きれいだなあと私は思った。いまなら、水のなかでも呼吸ができる生き物に生まれ変わって、ずっとずっとここにいられるんじゃないかなあと。
試しに息を吸ってみようと思った瞬間、なにかが私の尻をはたいた。ついで、腕をつかまれ、強い力で引っぱりあげられた。気づいたら私は水面から顔を出し、げほげほとむせていた。充分に足がつく水深しかない場所だった。
私の正面に立つ兄は、私の腕をつかんだまま鬼気迫る表情で、
「しっかりしろ若菜!」
と言った。監視員の大学生も、シャツも脱がずにプールに飛びこみ、兄と私をプールサイドに押しあげてくれた。大学生は、私がほとんど水も飲まず、正常に呼吸できているのを見て取って、プール帽に包まれた兄と私の頭を撫でた。
「よかった、無事で。勇敢だったな、お兄ちゃん」
大学生は百円玉を兄に返した。「今日はもう帰って、お風呂であったまったほうがいいよ」
うなずいた兄は、私に薄いバスタオルをかぶせ、しばらくプールの水面を眺めていた。片手で百円を、もう片方の手で私の手を握って。うちには風呂がないとは言えず、私も黙って立っていた。私を飲みこもうとした水は、小雨がぱらつきだした空を映して灰色に染まり、静かだった。
私たちはつぎの年の春、母と一緒に、幡ヶ谷の祖父母の家に引っ越した。両親が離婚したからだ。それきり父とは会っていないし、保険の外交員として働きっぱなしだった母も、私が高校一年生のときに病気であっというまに亡くなった。母の生命保険のおかげで、兄は大学に、私は専門学校に進学できたのである。
引っ越してしばらくのあいだ、私は友だちが恋しくて、雑木林や原っぱのあった世田谷とはまるでちがう環境に戸惑って、ひそかにしょっちゅう泣いていた。幡ヶ谷の中学に入った兄は、天性の「なにも考えてない力」を発揮し、
「俺たちを見守ってくれてる神さまがいるから、なんとかなる」
と慰めにもならないことをよく言った。
私が泣かなくなったのは、近所の美恵子ちゃんが、小学校への登校時や友だちとの遊びの際に、私をこまめに誘いにきてくれたからだ。
もしかしたら兄と私は、かわいそうな子どもだったのだろうか。客観的には、そうだったのかもしれない。貧乏で、親が離婚して、見守っているのは魚の神さまだなんて。
それでもたしかに、あのころ兄は私のヒーローだった。私と手をつないで諍いから遠ざかり、ときに私の腕をつかんで、生の世界へと引っぱりあげてくれた。
だから私はいまも、なんとなく兄を邪険にしきれないのだろう。美恵子ちゃんが聞いたら、「あれで邪険じゃないの⁉」と笑う気がするけれど、兄には充分な温情を施している。
兄に感化され、何度も何度も「カツオブシに似た神さま」を想像するうち、溺れかけたときに私の尻をはたいたのは、大きな魚の尾びれだったのではないかと思われてきた。もちろん、そんなものはあとづけの空想に過ぎない。実際は、水中で緩慢に振りまわされる私の腕をつかもうとして、兄の手が当たっただけだろう。
でも私の頭のなかでは、透きとおって優雅な尾びれが、私の尻を水面に向けてはたき上げるさまがありありと浮かぶ。プールに棲む魚。兄の神さま。
ねえ、私たちはかわいそうだった?
答えは返らない。風呂場からは、盛大に湯があふれかえる音が聞こえてくる。兄が体を洗い終え、湯船に浸かったようだ。節約しろといつも言っているのに、なぜ湯を汲み足す。
明日も説教だと思いながら、私は再び眠りに落ちる。
角紅のプールに思いを馳せたのには、理由がある。世田谷区の砧にある撮影所へ、昼食用のおにぎり弁当を五十個届ける仕事が入っていたからだ。
「にぎりん」では基本的に、早朝のロケ弁配達と昼の弁当販売しかしていない。その中間の時間帯に、大量のおにぎりを作って届けねばならないとなると、準備も人員確保も大変だ。だが、「以前にドラマのロケで食べて、おいしかったのでぜひ」と頼まれればうれしいし、撮影所内で評判になったら販路拡大にもつながるかもという下心もくすぐられ、引き受けることにしたのだった。
砧という地名を聞いて、子どものころ住んでいた場所の近くだ、とすぐにピンと来た。注文を受けて以降、私は兄が使う風呂場の水音で目が覚めるたび、角紅のプールを連想するようになった。撮影所への配達のついでに、あのプールを見にいってみよう。いまは冬だから泳げないけれど、暑い季節になって、また撮影所で仕事をするひとたちから注文をもらえたら、一泳ぎして帰ることができる。いい機会だから下見をしておこう、と。
その日は深夜から、厨房の炊飯器もガス台もフル稼働だった。兄もいつも以上に大量のカツオブシを削り、力つきたのか、いつもどおり二度寝に取りかかった。私は夜明けまえに新宿と品川にロケ弁を合計二十六個配達に出かけ、午前六時半に「にぎりん」に戻った。
厨房では美恵子ちゃんが、スーツのうえから割烹着を着て、唐揚げを揚げているところだった。
「おはよう。ごめんね、出勤まえに」
「おはよう。いいのいいの。会社では事務仕事ばっかりだから、『にぎりん』はいい気分転換になるし」
「兄は?」
「ピンポン鳴らしたらシャッター開けてくれたけど、また寝るって」
「許すまじ」
「家族に対しては、諦めがつかないもんだよね」
ふふ、と美恵子ちゃんは笑い、こんがり揚がった唐揚げを油切り用のトレイに並べた。「お昼のぶんも、今日はもう揚げちゃっていい?」
「うん、お願い。諦めがつかないって、どういう意味?」
第二陣のご飯の炊き上がりまで、あと十五分だ。私はだし巻き玉子の作成に取りかかる。
「他人だったら、『まあしょうがないか』で済むことも、家族だとそうはいかないってこと」
美恵子ちゃんは、下味を染みこませておいた鶏肉を追加で冷蔵庫から出し、手早く衣をまぶしはじめる。「私も聡にどうしても期待しちゃうもん。『もうちょっとちゃんと大学に通ってくれるようになるんじゃないか』って。こっちの願いなんか知らん顔で、あの子、あいかわらずサボってるみたいだけどね」
ぬぐぐ、と力の入った美恵子ちゃんの手の下で、鶏肉が高速で転がされる。
「衣はもう少し薄めだとありがたいかも……」
と私はおずおずと申し入れる。
「そうだ、若菜」
美恵子ちゃんは衣をはたき落としながら言った。「今度の土曜、予定あいてる?」
「うん」
出版業界もテレビ業界も、以前よりは労働時間の制限が守られているようで、土日は動きがないことが多い。それに合わせて、「にぎりん」も週末が定休だ。休みといっても、私はたいてい二階でごろごろするか、たまに新宿へ映画を見にいくかぐらいだが。
「じゃあさ、沼津へ行こう」
「沼津。なんで」
「気分転換だよ」
じゅわ、と美恵子ちゃんは鶏肉を油に投じた。「家にいたって、『大学行け』って悶々と聡に念力送るぐらいしかできないし、もういやになった。若菜だってそうでしょ」
美恵子ちゃんが兄の部屋の合板ドアに視線をやる。まあそうだね、と私はうなずく。
「たまにはパアーッと海鮮丼でも食べよ。沼津には魚市場があってにぎわってるって、テレビでやってた。あと、深海魚の水族館もあるみたい」
「へえ、いいね」
ふだん、残り物の唐揚げばかり食べているので、海鮮という響きに心惹かれた。たまには週末に遠出するのもいいだろう。私は店のバンを出すと言い、美恵子ちゃんと沼津行きを約束した。
美恵子ちゃんは百五十個ほど唐揚げをこしらえたのち、出勤のため慌ただしく「にぎりん」をあとにした。私はひたすらおにぎりを握りつづけ、完成した弁当をバンに積みこみ、砧の撮影所へ向かって出発する。そのまえに兄の部屋のドアを叩き、
「兄貴、お昼の弁当とサービスの味噌汁、できてるから。時間が来たら自分で運んで、販売して」
と言ったのだが、室内から聞こえてきたのは、寝言か気弱な犬のうなり声かわからぬような返事だった。任せて大丈夫なのか。大丈夫じゃない。私はいらいらしながらバンを発進させる。
おにぎりを冷ますのに少々時間がかかったので、時刻はすでに九時半をまわっている。撮影所への配達は、十時半から十一時のあいだでと指定されていたので、充分まにあうとは思うが、私は念のため、渋滞しそうな甲州街道と環八を避け、なるべく裏道を行くことにした。スマホの地図アプリを何度も眺め、何通りものルートを頭に叩きこんである。自由奔放に日々を空費する兄を思うと、妙に生真面目な自分がいやになってくる。やはりいま私に必要なのは沼津だ。
桜上水を過ぎたあたりで甲州街道から逸れ、住宅街の狭い角を何度か曲がって、ずどーんと一直線な水道道路に出た。この道の下に、多摩川の水を杉並のほうへ送る水道管が通っており、だからまっすぐなのだと祖父から昔聞いたことがあるが、本当かどうかは知らない。水道道路に沿って南西方向へ進めば、撮影所の近くに出られるはずだ。
ちょっとした渋滞は何度かあったが、信号運もよく、三十分ほどで撮影所に着いた。駐車場で少し時間をつぶしてから、受付で担当のADさんを呼んでもらう。ADさんはすぐに台車を押して現れたので、駐車場へ誘導し、バンから弁当を積み替えた。受領のサインをもらって、任務は完了だ。
帰りがけに遠回りをして、かつて住んでいたあたりをバンで走ってみた。雑木林も畑もなくなっていて、地表のすべては小さな建売住宅とマンションで覆いつくされていた。道すらも記憶にあるものとはちがっていて、住宅街のあいだを新たににょろにょろと這っていた。道路のくせに、五月の植物の枝のように旺盛な生命力だ。
すっかり迷子になった私は、適当なコインパーキングにバンを停め、車を降りた。途端に家々のあいだから冷たい風が吹き寄せ、手にしていたジャンパーを羽織る。昼近くになっていたが、曇り空のせいか煙ったような雰囲気で、道を歩くひとの姿もない。しばらく住宅街のなかをうろつき、ようやく、都営住宅があったと思しき場所を見つけたが、そこには「パレスハイツ」が建っていた。アパートとマンションの中間のような、白い二階建ての集合住宅だ。
では、と見当をつけて、角紅の社宅とプールの方向へ足を向けてみたが、行けども行けども似たような建売住宅がつづくばかり。兄と私が遊んだ町並みはどこにもなく、狐につままれたようとはこのことだなと思った。
玄関先に三輪車がある家を横目にしつつ、私はとうとう探索を諦めた。あの家の子は幸せだろうか。なんとなく、幸せなんだろうという気がした。二階のベランダには洗濯物が干してある。曇天のもと、小さな靴下が風に揺れている。
両親の怒号も、兄とババ抜きをした狭い部屋も、私が溺れかけた角紅のプールも、この世から消え去った。
プールに棲む兄の神さまも。
なんとなくしおれた思いでバンを運転し、帰宅して残りもののおにぎりを食べていると、兄が部屋からのそりと出てきた。
「どうしたの、店番の時間帯でしょ」
「でも、今日は若菜が飯食わなかったもんだから、兄ちゃんも腹がへって……」
「店番しろ。ハウス!」
と厳命すると、兄は厨房に取っておいた新作の高菜とツナの焼きおにぎりをちゃっかり手にし、しおしおと部屋に戻っていった。
しおたれ兄妹になったうえに、いつだって食欲に忠実なのもご同様なんだなと、思わず一人で笑ってしまった。
土曜日の早朝、美恵子ちゃんと私はバンに乗って沼津へ日帰り旅行に出かけた。正確に言えば、美恵子ちゃんは本当に乗っているだけで、運転は私の担当だ。
「だって私、二十年以上ゴールド免許だよ」
と美恵子ちゃんは言った。「ペーパードライバーだから」
「はいはい」
美恵子ちゃんは途中のサービスエリアで買ったホットドッグを助手席でかじりながら、
「海が見えない」
と不満を述べる。
「高速だからね」
「今度は電車で熱海に行こうか。温泉旅館で一泊なんていいじゃない」
夕飯を食べながら翌日の夕飯になにを食べるか考えるみたいな、美恵子ちゃんの明るく前向きなところが私は好きだ。試しに、
「美恵子ちゃんさ、過去が全部消えちゃったら、どうする」
と聞いてみた。
「なに、急に」
と笑った美恵子ちゃんは、「せいせいする」と言った。
「でも、消えないでしょ。私が全部忘れちゃったとしても、若菜だって聡だっているわけだし。私や私の過去のこと、だれかが覚えてるでしょ」
行楽客の渋滞がはじまるまえだったので、途中のサービスエリアで休憩しても、二時間半ほどで沼津に行くことができた。漁港の近くにあるだだっ広い駐車場でバンを降りると、潮の香りがした。
「寒いけどいい天気」
「おっきな食堂街があるね」
しかし食堂街も、その一角にある深海水族館も、営業は午前十時からのようだった。私たちは三十分ほどひたすら付近を歩きまわって暇をつぶし、開館と同時に深海水族館に入った。
館内は薄暗く、チンアナゴやら巨大なタカアシガニやらメンダコやらが水槽のなかで蠢いていた。うつくしく奇妙な生き物の群れ。二階はシーラカンスコーナーになっていて、巨大な剝製が展示されていた。
「『一九八〇年代に、日本の調査隊がコモロ諸島で捕獲したものです』だって。シーラカンスってとっくに絶滅したのかと思ってた」
「コモロ諸島ってどこだろう」
「アフリカの東海岸みたい。マダガスカル島とのあいだあたりだね」
美恵子ちゃんが説明書きの地図を見ながら教えてくれたが、私はほとんど上の空だった。シーラカンスの剝製に目が釘付けだったからだ。黒い鱗に覆われた固そうな体。ところどころに斑点のように、白い鱗も混じっている。全体のフォルムはずどーんとしており、尾っぽのつけ根にもくびれがない。なんとなくカツオブシに似ている。
カツオブシに似た魚……。私は心を落ち着かせるため、かたわらになぜか展示されていたハリモグラを眺めた。こちらは剝製ではなく生きており、ハリネズミに酷似した姿だった。砂のなかに半ば埋もれるようにして、眠っているらしい。呼吸のたび、おなかがかすかに動いていた。おがくずとおならの臭いが混合したような、かすかに甘く籠もった動物の体臭がする。そこではじめて私は、動物園とちがって、水族館とはあまりにおいがしない施設なんだなと気づいた。
美恵子ちゃんは、掲示された「シーラカンスクイズ」に目を通しつつ、どんどんさきに進む。あとを追うと、冷凍シーラカンスコーナーに行き着いた。調査のときに捕獲したという、これまた巨大なシーラカンス二匹が、ガラスケースのなかでかちんこちんに冷凍保存されている。口をがばっと開け、なかなか迫力ある姿だ。凍っているため、さきほどの剝製よりも全身がうっすら白っぽい。
カツオブシ……!
そして間近で見るシーラカンスの尻尾は、栗に似た形といおうか、丸っこくて先端がとがっており、エキゾチックな団扇のようだった。
私は今度こそ本格的に衝撃を受けた。これだ、角紅のプールで私の尻をはたいたのは、シーラカンスの尻尾だ。兄の言う魚の神さまは、シーラカンスだったんだ。
むろん正気を保っていたので、すぐに「いやいや、まさか」と自分の着想を否定することはできた。どうして、角紅のプールにシーラカンスがいるのだ。シーラカンスの故郷はアフリカの東海岸らしいが、深海は水温がとても低いだろう。あの日はたしかに寒かったが、夏のことだ。プールは深海ほどの冷たさではなかったはずだし、そもそも海水ではなく真水である。もっと言えば、角紅のプールは子どもでは足がつかない場所もあったとはいえ、深海ではない。あたりまえのことすぎてバカらしくなってくるが、とにかく角紅のプールにシーラカンスがいるわけがない。
しかし否定すればするほど、あのプールに棲んでいたシーラカンスが私を助けてくれたのではないか、優雅に尻尾をひらめかせるその姿を兄も見て、魚の神さまなどと言いだしたのではないかと思われてくるのだった。
だとしたら兄は、シーラカンスに囚われ、呪われている。シーラカンスを恋うるあまり、いい年をしてカツオブシを削るだけの無気力な日々を送っているのだ。
なんでだよ。自分で自分にツッコミを入れてしまった。シーラカンスに思い入れを抱き、神とまで思っているのに、なんでシーラカンスに似たカツオブシを削るんだ。我ながら論理が破綻している。しかし、人間は論理だけで生きるものではなく、特に兄は理性理屈論理筋道といったものと縁遠い生き物なので、そういうこともあるかもしれないとも思える。太るとわかっているのに唐揚げを食べるように、神と崇めるシーラカンス似のカツオブシを削る。それがシーラカンス教徒の信心の表しかたなのかもしれない。
とりあえず兄の神さまを発見した記念に、ミュージアムショップで靴下をお土産として買った。美恵子ちゃんはオウムガイ柄、私はダイオウイカ柄、兄にはもちろんシーラカンス柄を選んだ。いずれもイラストがかわいい。
「なんか無口になっちゃったけど、どした?」
深海水族館を出て、食堂街のなかの一軒で海鮮丼を食べているとき、美恵子ちゃんが心配そうに聞いてきた。「私だけビール飲んでるから、怒ってる?」
「ううん、存分にお飲み」
「あ、そう? すみませーん、ビールもう一杯ください」
海鮮丼に載ったウニもマグロもシラスもブリも、とろけるように舌に馴染む。沼津で採れたのではないものもある気がするが、海はつながっていると思えば些末なことだ。
まわりは家族連れが多い。小学生ぐらいの子ども。お父さん、お母さん、おじいちゃんおばあちゃん。みんな幸せそうに見える。
ねえ、私たちはかわいそうな子どもだった?
たぶん。でも、かわいそうなままではいなかった。兄はいつだって私を助けてくれた。私は兄をヒーローだと思っていた。私たちはきっとあのとき、同じ魚を目撃した。
魚の神さまが、兄と私を見守ってくれていた。
過去は全部消えた。私たちが住んでいた家も、角紅のプールも、そのころの友だちも、父も母も祖父も祖母も、みんな。
でもいま、私のまえでは美恵子ちゃんがおいしそうにビールを飲んでいる。兄と私はあいかわらず一緒に暮らし、祖父母の印刷工場は「にぎりん」となって、それなりに繁盛している。
だれが私たちをかわいそうだと言えるだろう。
「つぎは熱海だね」
夕暮れの高速道路をバンで走りながら、私はつぶやく。答えは返らない。美恵子ちゃんは助手席で眠っている。にじむ街の明かりが雪のように背後へと降り去っていく。
兄にシーラカンス柄の靴下をあげたら、どんな反応をするかなと考えてみる。おお、我が神よ……! とはならない気がする。
「気が利くな、ワカメよ」
で決まりだ。若菜な。
【おわり】