吸血鬼に猫パンチ! 第二回
傷
「大変だね」
と、エリカは言った。
「スターは食べることもできない」
打ち上げのパーティは、やっとみどり待望の食事タイムに入っていた。
エリカとクロロックも少しは皿に取って食べたが、みどりに負けない勢いで食べまくっている人たちがいて、つい遠慮してしまう。
「――召し上がっておいでですか?」
宣伝の西野加江が気にしてエリカたちの方へやって来た。
「ご心配なく」
と、クロロックは微笑んで、
「料理がむだになることはなさそうだ」
「映画のスタッフの若い人たちは、こんなホテルの料理なんか、食べたことがないんで……」
「なるほど」
「アンジュさんたちも、食べていられません。取材と写真がパーティの目的ですから」
スターの一人一人を、取材陣が取り囲んでインタビューや写真撮影が入れ替わり立ち替わり。
「ところで――」
と、クロロックが言った。
「あの映画に出て来た黒猫は本物かな?」
「そうですね……。その件は秘密になっているんですけど、たぶんCGじゃないでしょうか。猫は思い通りに動いてくれませんから」
「なるほど。しかし、とてもリアルな猫だったな」
そのとき、取材陣に囲まれた少女――河辺ゆかりの所で、騒ぎが起きた。
「どうしたのかしら。失礼します」
と、西野加江が人をかき分けて行った。
「ゆかりさん! しっかりして」
エリカがついて行って覗くと、ヒロインの河辺ゆかりが、加江の腕の中で、ぐったりしている。
「貧血でしょう。控室へ――」
「任せなさい」
クロロックがフワリとゆかりの体を抱き上げると、人々の間をすり抜けて行く。
何かある。――エリカは、その父の様子がただごとでないのに気付いていた。
控室には誰もいなかった。
「バスルームもあるのだな」
「ここは楽屋としても使うので」
と、加江が言って、
「あの――救急車を呼びましょうか」
「それでは間に合わん」
「は?」
「いいか。ここは私を信じて任せてくれ」
と、クロロックは言って、
「エリカ、お前も一緒にバスルームへ入れ」
「うん。――西野さん、父を信じて。父には特別な力があるの。大丈夫だから」
「はあ……」
そう言われても、わけの分からない加江は呆然としているばかり。
エリカはバスルームに入ってドアを閉めた。
「どうなってるの?」
「首の傷だ」
「傷が何か――」
「ドレスを脱がせ、胸の辺りまで肌を出すのだ」
「分かった」
クロロックの表情は緊迫していた。
エリカはゆかりのドレスを脱がせると、上半身を裸にした。
クロロックは、スカーフを外して、首の傷を見ると、
「間に合えばいいが」
と言うなり、ゆかりの首の傷に口を押し付けた。
エリカもびっくりした。
クロロックはゆかりの血を吸い出しているのだ。口に含むと、傍のシャワールームの床へと吐き出した。
たちまち血が広がる。
何度かくり返すと――ゆかりが深く呼吸した。
「よし! ――悪いものはほぼ吸い出した」
と、クロロックは息をついた。
「お父さん。口の周りが血だらけ」
「うむ。このままでは本物の吸血鬼と思われてしまうな」
「本物でしょ」
ややこしい話はともかく、エリカがゆかりにドレスを着せている間に、クロロックはシャワールームの床の血を洗い流し、洗面所で口の周りの血を落とした。
「やれやれ。――女の子の血を吸ったのは久しぶりだ」
「何か毒が?」
「傷口から錠剤のようなものが押し込まれていたのだ。それが少しずつ血に溶けて、体に回ろうとしていた」
ゆかりが目を開けて、
「私……どうしたの?」
と、呆然としている。
「気分はどう?」
と、エリカはゆかりを支えて立たせた。
「ええ……。少しめまいがするけど……。ひどく苦しかったの。体がこわばるようで……。でも、それはもう何ともない」
「良かった! 西野さんが心配してるわ」
バスルームを出ると、加江が床に膝をついて、祈っているところだった。
「神様、仏様、ゆかりちゃんをお救い下さい……」
「もう大丈夫よ」
と、ゆかりが笑顔になって、
「打ち上げの会場へ戻りましょう!」
「少し貧血気味だから、何か食べた方がいいと思うぞ」
と、クロロックがゆかりの肩をやさしく叩いた……。
「どういうつもりなの!」
涼子の声が鋭く夫・クロロックに突き刺さった。
「何もしとらんぞ。どうしてそんな怒っとるんだ?」
と、クロロックも面食らっている。
「あの子の証言があるわよ!」
涼子がTVで再生したのは、〈吸血鬼vs狼男〉プレミアのワイドショー報道。
インタビューのマイクを向けられた河辺ゆかりが(立ち直った後のことだ)、共演者についての印象を訊かれて、その答えの最後に、
「あと、共演者ではありませんが、ステージで一緒に挨拶して下さった、フォン・クロロックさんが、本当にやさしい、すてきな方でした。それをぜひ申し上げたいと……」
そのワイドショーをわざわざ録画した涼子のことも、エリカはびっくりしたが、
「この子が、どうしてあなたのことを、こんなに――」
と、涼子がかみつきそうな様子なので、
「お母さん、心配しないで」
と、エリカは言った。
「ゆかりちゃんが貧血を起こしたとき、お父さんが元気づけてあげたの。それだけよ」
涼子は、それでもブツブツ言っていたが、
「いいわ。その代わり、今度の日曜日は、私たち夫婦だけのために空けておくのよ」
と、命令した。
やれやれ。――夫婦だけの時間、ということは、虎ちゃんの面倒をエリカが見なくてはならないのだ。つい、ため息も出る。
「――いや、助け舟をありがとう」
と、クロロックはエリカと二人になったときに言った。
「でも、お父さん。あれですんだわけじゃないよね」
「あの河辺ゆかりに傷を負わせ、毒物を仕込んだ犯人のことか」
「もちろん。あれがうまくいかなかったら、また他の手を考えるかも」
「その心配はある」
と、クロロックは肯いて、
「しかし、私は何しろ〈妻〉という絶対的な支配者の下にいるのでな」
「情けないこと言わないでよ」
と、エリカは苦笑して、
「あの映画の舞台挨拶がもう一度あるんでしょ?」
「ああ。公開初日だ。しかし、どうしても出なければいかんというわけでは……」
「お母さんにゆかりちゃんを紹介してあげればいいよ。親しくなれば、お母さんだって、変に気を回したりしないから」
「それはそうだな。しかし……」
「虎ちゃんは私が見てるから大丈夫」
エリカとしては大サービスだった。
エリカは、自分の部屋へ入ると、あの映画の宣伝担当、西野加江に電話した。
そして、「家庭の事情」について、ごく簡単に説明してから、
「そういうわけで、今度の公開初日ですが、うちの父だけでなく、〈ご夫妻〉としてご招待いただけるとありがたいんです」
「ええ、そんなこと、お安いご用ですわ」
と、加江は快く言って、
「今夜にでも招待状をお届けします」
「どうかよろしく」
礼を言って、エリカはホッと息をついた。
「本当に世話が焼けるよ……」
つい、グチが出てしまうエリカだった。
「でも……これじゃすまないよね」
河辺ゆかりに傷を負わせたのが誰なのか、調べる必要がある。
ゆかり当人に訊いても、本当のことは言わないかもしれない。
何といっても、あの首筋の傷は、誰かが首にキスしてつけたとしか思われない。ゆかりにそういう恋人がいるのかどうか。
加江にこっそり訊いてみるのがいいかもしれない。
「あの共演者の中の誰か?」
可能性はあるだろう。何といっても、年齢に幅はあってもスターたちだ。
一番可能性があるのは、やはりアンジュだろう。若いし、美形で、女の子がひと目惚れしてもおかしくない。
吸血鬼役の坂口栄二? 中年だが、若い子にも人気がある。ハンサムなアンジュより、坂口の方がいいという女の子は珍しくない。
狼男? ――エリカは、あのメイクの下の顔をよく知らないのだが、いつもメイクだけで何時間もかかると聞いていた。
森克也は、五十才前後だろう。もともと役者ではないのだから、ゆかりを誘惑しようとするのは無理があるという気がする。
もちろん、他にも――監督やプロデューサーなど、あの映画に係わった男性は大勢いるわけで、ゆかりがひかれた男が誰であってもおかしくない……。
「でも……待ってよ」
男だけとも限らない。ゆかりが女性に恋してるってことも、ないわけではないかも……。
ああ! 考えてるときりがない!
エリカは、いくら考えても事実が分かるわけではなく、くたびれてベッドに寝転がってしまった……。
【つづく】