吸血鬼に猫パンチ! 第三回
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満月の夜
「嘘みたい!」
庭へ出ると、しのぶは思わず言った。
「これって本当の夜景?」
と、分かり切ったことを訊いたのは、満月の月明かりがあまりにまぶしくて、昼間のように見えていたからだった。
「凄く明るいね」
と、あまり感動している様子でなく言ったのは、しのぶのデート相手のヤスオだ。
もともと、ヤスオはロマンチックな感覚に欠けるところがある。まあ、人はいいので、しのぶとしては不満なところには目をつぶっているのだが……。
「月が作り物みたいだわ」
見上げる夜空に満月がみごとに輝いていた。
確かに、こんなにくっきり見えると、あれが球体だと思えない。丸く輝く板みたいだ。
「――すてきな庭ね」
と、しのぶは言った。
本当なら、夜間は入れない有名な庭園なのだが、しのぶの知り合いのお父さんがここの管理人をしていて、特別に入れてくれたのである。
散歩道は白い砂利が敷きつめられていて、今はそこも月明かりの下、道が白く光っているようだ。
「凄いね」
と、ヤスオが言った。
「手入れするのに、お金がかかるだろうな」
「――そうね」
しのぶは、ちょっと引きつったような笑みを浮かべた。
この人、美しいものに感動する心を持ってないのかしら?
二人が広い庭園のほぼ真ん中辺りに来たときだった。
「ここ、入るのにいくら取るの?」
と、ヤスオが言い出して、しのぶがため息をつく。
そのとき――何かの影が、月明かりを遮って飛んだ。
「――今の何?」
と、しのぶが言った。
「え……。何だろ。――鳥じゃねえの」
「もっと大きいものだったわよ」
しのぶは周囲を見回した。しかし、庭園の中にいるのは二人だけだ。
「何だか怖いわ」
と、しのぶは言って、
「もう戻りましょ」
と、ヤスオを促した。
しかし、ヤスオは、
「せっかく入れてくれたんだぜ。ね、写真、撮ろうよ。入ったって証拠に、さ」
「そう……。じゃ、急いで撮りましょ。それで出れば――」
「OK。じゃ、自撮りにして……。もっと寄ってよ。それじゃ入らない。――うん、それじゃ撮るよ」
シャッター音がした。そのとき、何かが二人の背後を駆け抜けた。
「キャッ!」
と、しのぶは声を上げた。
「見た? 今、すぐ後ろを何かが――」
「感じたけどね。でも見えなかったよ。野良犬か何かじゃないの?」
ヤスオはのんびりしている。
「行きましょう、早く!」
しのぶが庭園の出入口へと小走りに向かった。
「おい、待てよ! そんなに急がなくたって――」
と、ヤスオが追いかける。
しのぶは、庭園に出入りする柵のある所までやって来ると、息を弾ませて、
「行くわよ、ヤスオ」
と振り返った。
しかし――ヤスオの姿はなかった。
「ヤスオ? どこ? ――わざと隠れてるのなら、許さないからね!」
と、大声で言ったが、ヤスオはいない。
「冗談やめてよ……。ヤスオ、お願い、出て来てよ」
しのぶの声は震えていた。
すると、何かが空中を飛んで来て、しのぶの近くに落ちた。――スマホだ。ヤスオのだろう。
「え……。どうして……」
しのぶは歩み寄って、身をかがめると、そのスマホを拾い上げた。しかし、
「え? 何、これ?」
手にべっとりとまとわりつく感触があった。
思わず、拾ったスマホを投げ出した。
スマホをつかんでいた右手が、真っ赤だった。――血だ。
数秒置いて、しのぶは悲鳴を上げた。
長い、長い、サイレンのような悲鳴が、満月の夜空に響き渡った……。
「〈満月の夜の惨劇〉だって」
エリカが、朝刊を開いて言った。
「うむ……」
ゆっくり寝ていて、昼近くにやっと起き出してきたクロロックは、自分で焼いたトーストを食べながら、
「確かに、ゆうべの月は普通ではなかったな」
「そんな……。月が人を狂わせるなんてことがあるの?」
「もともと、狂うべき素質を持っている者にとっては、月がきっかけになることもあろう」
「でも……男の子の首が引きちぎられてたんだってよ」
と、エリカは首を振って、
「凄い力だよね」
「それこそ狼男の出現か」
「記事にもそう出てる。――映画の宣伝か、なんてひどいこと、書いてあるよ」
「若い男の子なのだろう?」
「まだ二十才だって。一緒にいた女の子は、しばらく悲鳴を上げ続けてたらしいよ」
「女の子はやられなかったのか。良かったな。何かを見たのか?」
「チラッと影を目にしただけらしい。警察は付近を捜索しているって。――まさか空を飛んでったんじゃないよね」
「吸血鬼じゃあるまいし」
とクロロックは真顔で言って、コーヒーを飲んだ。
そこへ、
「あなた!」
と、涼子が甲高い声を上げて、やって来た。
「何だ? 何かあったのか?」
クロロックは、若い奥さんに叱られるのが一番怖い。思わず腰を浮かしたが――。
「これ、どう? 似合うかしら?」
涼子がサッと真っ赤なドレスを取り出して、体に当てて見せた。クロロックは面食らって、
「ああ……。もちろん似合っとるが……。どこへ着て行くんだ?」
「いやね! 何言ってるの? 映画の公開初日に招待されてるじゃないの」
「ああ、そうか」
初日は明日だ。しかし、涼子は別に舞台挨拶するわけではない。
だが、そこはクロロックも愛妻の扱いには慣れている。
「明日舞台に出るスターたちは可哀そうだな。どう見ても、お前の方が目立っている」
「そうかしら? あんまり目立っちゃ申し訳ない?」
「構うものか! 美しさばかりは変えられない」
涼子がクロロックに抱きついてキスする。
「ウワー」
と、虎ちゃんが声を上げて、スプーンでテーブルを叩いた。
やれやれ……。
エリカはキスする二人から目をそらした。
心配になっていることがある。
あの河辺ゆかりの、首の傷のことだ。
しかし、人気者のゆかりは多忙で、エリカもゆっくり話す機会がない。
「明日は、千代子とみどりが虎ちゃんを見ててくれるって」
と、エリカは言った。
「あら、そうなの?」
涼子がちょっとつまらなそうに、
「じゃ、エリカさんも一緒に来たらいいわ」
「ボディーガードにね」
邪魔はしないよ、というつもりで言うと、
「それじゃ、エリカさんは普段着でいいわね。何ならパジャマにする?」
と、涼子が真顔で言った……。
【つづく】