吸血鬼に猫パンチ! 第一回
見せ場
少女は城壁の上に追いつめられていた。
吹きつける風が、少女の白いドレスを波うたせる。そして同時に迫りくる悪魔の黒いマントを翻らせるのだった。
「やめて……」
少女の震える声は風で吹き散らされてゆく。
「お願い……。来ないで……」
もう逃げ道はない。
勝ち誇って迫る吸血鬼の毒牙から逃れようとすれば、この城壁から身を投げるしかない。
それは「死」を意味する。
死か、あるいは吸血鬼の恐ろしい牙に身を任せるか……。
「ああ、神様!」
と、少女は叫んだ。
「助けは来ないぞ」
と、吸血鬼はニヤリと笑った。
「もう観念しろ。――お前は俺のものだ!」
長い指が少女に向かって――。
そのときだった。
少女と吸血鬼の間に、何かが飛び込んで来た。黒い塊のようなそれは――黒々とした毛のつややかな黒猫だった!
フーッと唸り声を上げると、黒猫は吸血鬼に向かって身構えた。吸血鬼がハッとして動きを止める。
黒猫の緑色の眼が、じっと吸血鬼を見つめると、突然甲高い鳴き声を上げて、前肢の鋭い爪が吸血鬼の脚を引っかいた。
「やめろ!」
と叫ぶと、吸血鬼は、
「おのれ! お前のことは諦めんぞ」
と言い捨てて、身を翻した。
少女は崩れるように座り込んで、
「ありがとう! 私を救ってくれて!」
と、目の前の黒猫に語りかけた。
「お前はどこから現れたの?」
しかし、黒猫は吸血鬼が去ると、もはや少女のことにも全く興味をなくした様子で、そのままタッタッと歩み去ってしまった。
「忘れないわ!」
と、少女は叫んだ。
「私は助けてくれた恩を、一生忘れずにいるわ!」
――エリカは、隣の席でウトウトしている父、フォン・クロロックを肘でつついた。
「うん?」
クロロックが目を開いて、
「もう終わったのか?」
「まだだけど――」
と、エリカは声をひそめて、
「居眠りしちゃ失礼でしょ。この後、スピーチ、頼まれてるのに」
「なに、半分眠っていたが、半分は起きとる。ちゃんと場面は分かっとったぞ」
と言うと、クロロックは大きな欠伸をした。
新作映画「吸血鬼vs狼男」のプレミアに、クロロックと神代エリカ親子は招待されていた。
客席は女の子が八割方で、「キャー」という悲鳴はほとんど起きず、にぎやかな笑い声がしばしば客席を満たしていた。
ホラー映画で、笑いばかりが起きるのでは困るような気が、エリカにはしたが、いざ映画が終わると、盛大な拍手が空間を埋めたのだった。
「面白い反応だね」
エリカと並んで座っている友人の大月千代子が言った。
「ねえ。ちっとも怖がってない」
「今どきの若い子は、何でも笑い飛ばしちゃうのが好きなのよ」
と、千代子が言うと、その隣の橋口みどりが、
「そうじゃないわよ」
と、意見を述べた。
「みんなお腹が空いて、早く食事したいから、終わって喜んでるのよ」
「みどりじゃあるまいし」
――プレミアの常で、主演したスターが挨拶に出て来る。
若い恋人同士を演じた男女のスターが、大きな拍手をもらっている。
そして――吸血鬼役を演じたのは、舞台のベテラン役者で、普通のスーツで現れた。
最後に、クロロックが登場。
「本家、トランシルヴァニアご出身でいらっしゃる、フォン・クロロック様です!」
と、司会の男性が紹介した。
マントを翻して、クロロックが現れると、客席からは、
「似合ってる!」
と、女の子の声が飛んで、クロロックはそれに答えるように、マントをサッと広げて見せた。
拍手が起こる。――エリカは恥ずかしくなって、目を伏せてしまった。
「吸血鬼も狼男も熱演だった」
と、クロロックはマイクに向かって言った。
「しかし、考えてみれば、吸血鬼は可哀そうな存在だな。苦手なものが多すぎる。そうではないか?」
と、客席を見渡すと、
「まず、昼間は棺の中で眠っていなければならない。あんな狭い所で、さぞ窮屈だろう」
笑いが起こった。
「十字架に弱い。聖水をかけられると、やけどする。ニンニクが苦手だ。水をかけられるのもだめ。それだけではない。一度その家の主に招待されないと、忍び込むこともできない。普通の人間がそんなことになったら、人権侵害だな。加えて、この映画で初めて知ったことだが、どうやら吸血鬼は猫にも弱いとみえる。これは新説かもしれんな。いずれにしろ、この世は吸血鬼にとって住みにくくなっておる」
聞いていて、エリカはふき出しそうになってしまった。
客席の誰も――千代子とみどりを除けば――今、本物の吸血鬼が話しているのだとは思うまい。
クロロックの話は大いにうけて、プレミアは終わった。
「――私、父を待ってるから」
と、エリカは言った。
「じゃ、今日はありがとう」
と、千代子が言って、みどりを促した。
「え?」
と、みどりが不服そうに、
「晩ご飯は?」
と言った。
「映画見ただけでいいじゃない」
と、もめていると、
「――失礼します!」
と、スーツ姿の女性が小走りにやって来た。
「あ、宣伝の――」
と、エリカが言った。
「はい。〈M映画社〉の宣伝担当の西野加江といいます。今日はクロロック様においでいただいて……。お嬢様でいらっしゃいますね」
「エリカです」
「お隣のホテルで、ささやかですが打ち上げをいたします。軽食の用意もございますのでぜひ――」
軽食のひと言で、みどりの目の色が変わったのは言うまでもない。
そして、当然のことながら、エリカの「ご友人様」として、千代子、みどりも同行して、映画館から道一つのNホテルへと向かったのである。
「ささやか」なはずの打ち上げだったが、ホテルの宴会場を使って、立派なパーティだった。
立食形式ではあるが、料理も「軽食」とは言えない量で、みどりは、会場へ入るなり、張り切ってスカートを緩めた……。
「では出演者、並びに監督をご紹介しましょう!」
司会をしているのは、TVのバラエティ番組で顔を見る女性アナウンサーだった。
食事に入る前に、各々飲み物のグラスを手にしていた。壇上の面々を眺めて、
「知らん顔ばかりだな」
と、クロロックが呟いた。
エリカはちょっと父をつついて、
「失礼よ! さっきステージで並んでたじゃない」
「チラッとしか見なかった。画面ではもう少し美しいがな」
「そりゃそうでしょ。一応今人気のトップスターよ」
「グレタ・ガルボには負ける」
と、クロロックが言った。
「主演のお二人です! アンジュさん!」
拍手が起こり、前へ進み出たのは、端整な顔立ちの男性。クロロックは、
「フランス人か?」
と、エリカに訊いた。
「アンジュっていう芸名なの。最近は〈山田太郎〉とかいう名前は少ないのよ」
「そして、ヒロイン、河辺ゆかりちゃん!」
城壁で吸血鬼に追い詰められていた白いドレスの美少女は、やや役柄に近いイメージのワンピースで立っていた。
「確か、まだ十九だよ」
と、エリカが言った。
クロロックはちょっと眉を寄せて、河辺ゆかりを見ていた。
「――どうかしたの? あんまりジロジロ見てるとお母さんにばれるよ」
「いや……。スカーフで隠れているが、首筋に傷があるようにみえる」
「まさか、吸血鬼はかみついてないよ」
「分かっとる」
そして、吸血鬼役の役者が紹介された。
中年の渋い紳士で、もちろん今は地味なスーツ姿だった。
「吸血鬼役、坂口栄二さんです!」
舞台で長いキャリアのある役者は、黙って一礼しただけだった。
「そして、もう一人……。あら、いらっしゃいませんね」
と、司会の女性が言った。
「狼男役の……。狼男はどこに行ったんでしょう?」
わざとらしい口調は当然のごとく、仕掛けられたハプニングを――。
「グオーッ」
と、唸り声を上げて、映画のメイクのままの狼男が会場へ飛び込んで来た。
笑いと拍手が会場を包んだ。
クロロックは苦笑して、
「あれは映画のオリジナルだな。人間の顔をした狼の方がずっと怖い」
「でも、あのメイクは凄いね」
顔全体が毛で覆われて、カッと見開いた両眼は真っ赤だった。
そして何よりその身の軽さで、みんなをびっくりさせた。テーブルの上へ飛び上がると、他のテーブルを次々に飛び回る。
「確か、オリンピックの体操選手だよ」
と、エリカは言った。
「凄いですね! 狼男役の森克也さんです!」
と、司会者が言うと、狼男は壇上へと飛び上がり、さらに拍手が盛り上がった。
「――食事、まだ?」
と、みどりが呟いた。
【つづく】