吸血鬼と静かな隣人 第三回
引越し
「だから、お父さんはしばらく入院するの。何かあんたにも手伝ってもらうことがあるかもしれないから、分かってね」
と、茜は言った。
「うん、分かった」
と、スズは肯いて、
「ねえ、お母さん」
「なあに?」
「学校やピアノの月謝、大丈夫かな」
と、スズは心配そうだった。
「大丈夫よ。それぐらいの貯金はあるわ」
と、茜は安心させようとして言ったが、スズの方は、
「貯金、いくらぐらいあるの?」
と、かえって不安になったようだ。
「スズったら……。お父さんだって、治ったらまた働けるんだから。あんたはいつも通りにしてればいいの。分かった?」
「うん……」
学校から帰って、父の入院を聞かされたスズは、それでも何だか安心できない様子だったが、茜が、
「今日は入院の手続とかで、夕ご飯の支度をしてられなかったの。お寿司でも食べに行く?」
と言うと、やっと笑顔になった。
すぐに着替えたスズは、茜と二人、よく行くお寿司屋さんに出かけた。
そして、玄関を出ると、スズが思い出したように、
「そうだ。ね、知ってる?」
「何を?」
「お隣、引越して来たんだよ」
茜はちょっと当惑顔だったが、
「お隣って――あの、古い家のこと?」
「うん。朝、学校に行くときに、トラックが停まってた」
「本当? 気が付かなかったわ」
茜は首を振って、
「じゃ、お寿司の帰りに、ちょっと覗いてみましょ」
と言った。
「お隣」といっても、久保山家の隣には小さな公園があり、その向こうのことなので、家からはほとんど見えない。
もうずいぶん前に住む人がいなくなったと聞いていた。「お屋敷」と呼びたくなるような、古い洋館だが、人が住まないと傷みが早くなるもので、
「その内、取り壊してマンションになるらしい」
という噂が流れていた。
空家のままにしておくのは不安で、茜の家でも、「マンションがいいね」と話していたのだ。
ところが、誰かがそこに引越して来た?
「――お腹一杯」
と、お寿司屋さんを出ると、スズは父の入院の心配も忘れたように言った。
「学校のお弁当は何か買ってくれる? 二、三日したら作れるようになると思うわ」
「うん、いいよ。コンビニで何か買うから」
と言ってから、
「お母さん、お隣を見に行くんでしょ?」
「あ、そうだったわね。忘れてた」
二人は一旦自宅の前を通り過ぎて、道を先へと辿った。
「――まあ、本当だわ」
茜が目を見開いた。
黒々とした建物の窓に明かりが見えている。
それは何だか、夜の中、じっと身を潜めている巨大な黒い野獣の両眼が光っているかのように茜には見えた。
二人はしばらく道に立って、その黒い塊を眺めていたが……。
「いやに静かね」
と、茜が言った。
確かに、引越して来たばかりなら、色々家具を並べたり、動かしたりする音でもしそうである。
しかし、今、館はひっそりと静まり返っていた。
「――見てても仕方ないわね、戻りましょ」
と、茜が促して、二人は自宅へと歩みを進めた。
そして、玄関の鍵を開けたときだった。
「――お母さん!」
と、スズが言った。
「どうしたの?」
「聞いて」
耳を澄ますと、かすかに、だがピアノの音が聞こえて来た。
「――あの家ね」
「そうだよ」
「何の曲?」
「分かんない」
そうはっきり聞こえているわけではなかったが、それはどこかふしぎにメランコリックな哀愁を帯びていた。
スズは、スマホを取り出すと、流れてくる曲を録音した。
「後で聞いてみよう、じっくりと」
と、スズは言って、
「今日のお寿司、おいしかったね! また行こうね」
静かな隣人のことはもう忘れてしまったかのようだった……。
「本当に主人がお世話になりまして」
と、久保山茜はくり返し言った。
「いやいや、あれはたまたまのことでしたからな」
と、クロロックは言った。
「でも、フォン・クロロック様のおかげで、主人は一命を取りとめたのです」
茜は、〈クロロック商会〉を訪ねて来ていた。
夫は入院中だが、ともかく一度お礼に――。
というわけで、茜はお菓子など持って、お礼に訪れていたのだ。
「その後はどうかな、ご主人の具合は?」
と、クロロックが訊いた。
「はい。まだ絶対安静ですが、前よりは安定して来ていると……」
「それは良かった。五分遅かったら危なかったと……」
「ええ。お医者様もそうおっしゃっています」
お菓子ぐらいはもらっても良かろう、とクロロックは思った。
「――どうもありがとうございました」
茜は自分で車を運転して来ていた。
クロロックは車の所まで見送りに来て、
「ではご主人をお大事に」
「どうも……」
茜が車に乗る。
エンジンをかけ、車は走り出したが――。
クロロックが突然、
「止まれ!」
と、大声で言った。
鋭い声にびっくりして、茜が車を停める。
クロロックが駆け寄ると、
「車を降りろ!」
と言った。
「急げ! ガソリンが洩れている!」
「はあ……」
突然のことで、茜がすぐには動けないでいると、クロロックは運転席の側のドアをつかんで、
「ヤッ!」
と引っ張った。
ドアが取れて来る。クロロックはドアを投げ出すと、茜の体をつかんだ。
そのとき、車の下でパッと炎が広がった。
クロロックがシートベルトを引きちぎり、茜を抱えて車から離れると、同時に車はアッという間に火に包まれた。
「まあ……。こんなことが……」
「危なかった」
と、クロロックは言って、
「少し髪が焦げておるな」
「本当だわ……」
茜は、今になって恐怖で青ざめると、その場にしゃがみ込んでしまった……。
「主人だけでなく、私までも救っていただいて……。何とお礼を申し上げていいか」
と、茜は言った。
「車は災難だったな。修理しても使えまい」
「はい。命と引き替えにしてまでは……」
〈クロロック商会〉の会議室である。
茜は紅茶など出してもらって、それを飲むと、ホッとした様子だった。
「――でも、どうしてあんなことが?」
と、茜は嘆いた。
「やっぱり〈呪いのわら人形〉のせいでしょうか?」
「そうは思えんな」
と、クロロックは首を振って言った。
「ガソリンが洩れるように細工したり、引火させることは、〈呪い〉ではできまい」
「それでは――」
「誰か、人間のやったことだな。それも車に詳しい人間が」
「そうですね……」
茜は改めて命拾いしたことに気付き、ゾッとした。
「でも、クロロックさんはどういうお方なのですか? 車のドアをはぎ取ったり、シートベルトを引きちぎったり……。とても人間業とは思えません」
「なに、『火事場の馬鹿力』という言葉があるだろう。誰でも、いざとなると、とんでもないことをやってしまうものだ」
「はあ……」
それにしても程度問題だろう、と茜は思ったが、これ以上訊いたところで、クロロックは答えてくれないだろうと分かった。
「――その後、〈わら人形〉は出現しておらんのかな?」
と、クロロックは訊いた。
「はい、今のところは。ただ……」
「何かあったのか?」
「お隣に引越して来た人が……」
「ほう」
「いえ、そんなの、珍しくも何ともないことですよね」
「だが、何か気にかかることがあるのだな?」
「おっしゃる通りです」
と、茜は言った。
「人の姿を全く見かけません」
古い洋館であることなどを聞いて、クロロックは、
「夜になると窓に明かりが灯るのだな?」
「はい。そしてピアノの音がします」
「すると、誰かが住んではいるわけだ。幽霊はピアノを弾かんだろう」
と、クロロックは言って、
「何か変わったことがあれば言って来なさい」
「ありがとうございます!」
と、茜は嬉しそうに、
「クロロックさんにそうおっしゃっていただけると……」
クロロックは微笑んだだけだった。
【つづく】