吸血鬼と静かな隣人 最終回
見舞い客
入院して、じっと寝ていると、いつも半分眠って、半分起きているような気持ちになる。
久保山徹も、一体今が何時ごろなのか、さっぱり分からないまま、うつらうつらしていた……。
すると――顔に何か息がかかるような気配がして、目を開けた。
顔に、ほとんど触れそうな近さで、女の顔があった。
「ワッ!」
びっくりして声を上げると――。
「目が覚めてたの?」
と、その女が言った。
「――君か」
と、久保山は大きく息をついて、
「びっくりした。心臓が……」
「別に、驚かせて殺そうとしたわけじゃないのよ」
と、大津久美子は微笑んで、
「あなたが心臓の発作で入院したって聞いたんで、どんな様子かと思って見に来たの」
「見ての通りさ」
久保山はじっと天井を見上げて、
「あと何分か遅かったら、助からないところだった」
「そんなに? あなた、心臓が悪いなんて言ってた?」
「いや、今までは言われたことがない。でも、発作を起こすまで分からないってことはあるそうだ」
久保山は久美子を見て、
「どうしてるんだい、その後?」
と訊いた。
「ブラブラしてるわ。今のところ、まだ貯金もあるしね」
「そうか……。君にはすまないことをしたと思ってるよ」
「殊勝なこと言って」
と、久美子は笑って、
「私に別れるって言ったときは、もっと冷たかったわよ」
「まあ……僕も仕方なかったんだ。分かってくれ」
「もういいわよ。すんだことだわ」
久美子は肩をすくめた。
「その様子なら、すぐにこの世とおさらばしないですみそうね」
「どうかな。何しろ〈わら人形〉が……」
「〈わら人形〉? 何、それ?」
と、眉をひそめる。
「君のしわざじゃないよな」
久保山の話を聞くと、久美子は面白がっているように、
「凄いわね! 〈呪いのわら人形〉? 今どきそんなことする人がいるの。あなた、よほど人に恨まれてるんじゃない?」
「そんなつもりはないけどね……」
「自分じゃ分かってないのよ」
「でも、君は――」
「私、手先は不器用なの。そんなわら人形なんか作れないし、大体、釘を打つなんて、怖くって」
と、久美子は言った。
病室のドアが開いて、
「具合はどう? ――あら、久美子さん」
杉田綾子はびっくりして、
「よくここが……」
「会社の人から聞いたのよ。綾子さん、元気そうね」
「よく働いてくれるよ。杉田君なしじゃ、仕事にならない」
久保山の言葉は、久美子に「出て行ってくれ」と言っているのも同じだった。
久美子も、それを敏感に察したようで、
「それじゃ、お大事にね」
と、久保山へ言って、病室から出て行こうとした。
そこへ、
「あなた……」
と、病室へ入って来たのは、茜だった。
「ああ、どうした? 車がどうにかなったと……」
「急に燃えちゃったの。またクロロックさんに助けていただいたのよ」
当のクロロックが、病室へ入って来ると、
「大分顔色が良くなっとるな」
と、久保山を見て言った。
「やあ、凄くにぎやかだ」
久保山の娘のスズまでが顔を出す。
「奥様、ご主人の下で働いております杉田です」
「まあ、いつも主人がお世話になって……」
色々入り乱れて、挨拶が行き交う。
さらに、スズがクラスメイトの永原杏まで連れて来ていたので、ますます病室はにぎやかになった。
「それじゃ、久保山さん……」
杉田綾子と大津久美子の二人が一緒に病室から出て行った。
「ありがとう。――どうも」
久保山は笑顔になって、
「人気あるな、俺って」
「何を言ってるの」
と、茜が呆れたように言った。
「そうだよ、お父さん。〈呪いのわら人形〉は嫌われてるから作られるんでしょ?」
と、スズが言った。
「俺が目当てだっていうのか?」
と、久保山が渋い顔をする。
「車の火災も事故ではない」
と、クロロックが言った。
「真剣に考えることだな」
クロロックが病室を出ると、廊下の奥の方にいたエリカがやって来る。
「どうだった?」
と、クロロックが訊くと、エリカは手にしたスマホをチラッと見せて、
「大丈夫。しっかり撮ったよ」
と言った。
病院での見舞いからの帰りは夜になった。
スズは、付き合ってくれた永原杏に、
「ごめんね、遅くなって」
「いいよ。まだ八時じゃない。いつももっと遅くなる」
――母の茜は、夫の面倒をみるのにもう少し残ることにしたが、スズと杏と三人で、病院の近くで食事をした。
そのせいで、こんな時間になったのである。
「お父さん、ずいぶん元気そうだったじゃない」
と、杏が言った。
「うん、そうだね。でも……」
と、スズが口ごもる。
「何かあったの?」
「見舞いに来てた女の人……。大津さんって、もう会社を辞めてるんだけど、あの人、お父さんの恋人だったんだ」
「へえ!」
「私には内緒にしてたけど、分かるよね。何となく」
「そうだね。でも、よく見舞いに来られたね。お母さんとも顔合わせるのに」
「お父さんはずっと秘密にしてるつもりだったけど、お母さんだって分かってた。病室でそんな話、できなかったんでしょ」
「そうか……。もう一人、女の人、いたよね」
「杉田さんね。あの人はお父さんの同僚で、とってもいい人。お母さんもよく知ってるんだよ」
「そう……」
杏が何か考え込んでいる様子。
「杏、どうかした?」
「ううん。ただ――私、杉田さんって人の方が、お父さんの恋人かな、って気がしたの」
「え? どうして?」
「そう訊かれると答えられないけど……。何となく、お父さんのこと見る目、とか」
「そう? 私、全然気が付かなかった」
と、スズは言った。
「ただの印象だから」
と、杏は言ったが、
「ね、そこの家……」
二人は、あの「引越して来た家」の前にさしかかっていたのだ。
「何も分からない。住んでる人、見たこともないし」
と、スズが言ったときだった。
窓にパッと明かりが点いた。そして、カチャリと音をたてて、玄関のドアが細く開いたのである。
一瞬、スズはゾッとした。何か人間でないものがそこから出て来るような気がしたのである。
しかし――何も出ては来なかった。ドアは細く開いたまま止まっていた。
そして――ピアノの音が聞こえて来た。
「呼んでる」
と、スズが言ったので、杏がびっくりして、
「どうしたの、スズ?」
「私のこと……呼んでる」
「え? 誰が?」
「あの家が。ドアを開けて、さあ、おいでって言ってる」
そう言って、スズはその玄関のドアへ向かって歩き出した。
「危ないよ! やめなよ、スズ!」
と、杏が止めたが、
「行かなきゃ……。招かれたのに、行かなかったら、失礼だよ」
「誰か、悪いことしようとしてるかもしれないじゃないの。だめだよ、行っちゃ!」
しかし、スズは見えない手に引かれているかのように、
「行くね。――杏は来なくていいよ。もう帰って」
「だって……。ねえ、スズ!」
杏には止められないと分かった。――でも、一人で行かせるなんて。
杏はとっさに思い付いたことがあった。そして……。
「誰かいますか!」
と、スズはその屋敷へ上がり込むと、声をかけた。
しかし、返事はない。そしてピアノは鳴り続けている。
スズは正面の扉を開けた。――広い居間には人影がなかった。
スズは玄関ホールからゆるやかに上がっている階段を見上げると、上り始めた。
「だめだよ、スズ!」
と、杏は呼んだが、スズはそのまま上って行く。
杏は仕方なくその後を追いかけて行った。
――二階へ上っても人の姿は廊下にはなかった。
左右に閉じたドアが並んでいる。
「――もう帰ろうよ」
と、杏はスズの腕に手をかけたが、
「ピアノ、その部屋だわ」
と、スズは閉じたドアの一つの前に立った。
「開けない方が――」
と、杏が言ったときには、スズの手はもうそのドアを開けていた。
ピアノの音がくっきりと聞こえて来る。
そこにはグランドピアノが置かれていた。それが鳴っている。
でも――誰も弾いていない。
「自動ピアノだ」
と、杏は言った。
「でも、誰がこんなこと――」
と、杏が言いかけたとき、二人の背後でパタン、とドアが閉まった。
「スズ、ドアが――」
杏はドアを開けようとしたが、びくともしない。
「ごめん、杏。来るべきじゃなかったね」
スズは我に返ったように言った。ドアを力一杯叩いたり、
「開けて!」
と叫んだが、何の反応もない。
「窓は?」
と、杏が窓の方へ駆け寄ってカーテンを開けた。
「見て!」
その部屋の窓は、外から板が打ちつけられていたのだ。――閉じこめられた!
「助けを呼ぼう」
と、スズがスマホを取り出した。
そのとき、ドアの下から白い煙が……。
「煙だ!」
と、スズが叫んだ。
そのとき、ドアが開いて来た。――そこは火の海だった。
廊下が炎に包まれている。二人は部屋の奥へと後ずさったが、火は部屋の中へ広がって来た。
火の熱と煙で、二人は激しく咳き込んだ。
「どうしよう?」
と、スズが言った。
「きっと助けが――」
と、杏が言いかけたときだった。
窓の一つがバリバリと音をたてて壊されると、ガラスと窓枠が飛び散って、クロロックが現れた。
「つかまれ!」
「クロロックさん!」
「手をのばせ!」
クロロックが両手に一人ずつの腕をつかむと、そのまま外に向かって飛んだ。
窓がなくなったことで、部屋を風が抜ける。炎が一気に部屋を横切って、窓から外へと吹き出した。
間一髪、クロロックとスズ、杏は庭へと落下して、炎をよけられたのだ。
「――クロロックさん! ありがとう!」
と、スズが言った。
「お友達に感謝することだな」
と、クロロックが言った。
「え?」
スズが杏を見る。
「階段を上る前に、スマホでクロロックさんに発信してたの。聞いていてくれたらと思って」
「大急ぎで駆けつけたのだ」
クロロックも、さすがに息を弾ませている。
「――お父さん!」
エリカがクロロックを追って、駆けつけて来た。
「良かった! 間に合ったんだね!」
クロロックが、どこから、どれくらいのスピードで駆けつけたか……。
「まあ、あの屋敷が……」
と、茜が呆然として、すっかり焼け落ちてしまった洋館を眺めた。
「消防車が駆けつけたときは、もうすっかり火に包まれてた」
と、スズが言って、
「私と杏も危なかったのよ。クロロックさんに助けてもらった」
「本当に――度々ありがとうございます」
と、茜はクロロックへ向かって頭を下げた。
――朝になっていた。
あの屋敷はほぼ形をとどめないほど焼けてしまって、今は何台かの消防車が道に停まって、まだ少し白い煙の出ている所へ放水している。
タクシーが続けて二台やって来た。
降りて来たのは、久保山の同僚の杉田綾子と大津久美子だった。
「奥様! 大丈夫でしたか?」
と、杉田綾子が焼け跡へ目をやって、
「すっかり焼けてしまったんですね……」
「娘も危なかったみたいですが、無事でした」
「良かったですね!」
大津久美子もやって来ると、
「お隣と聞いてたので、お宅へ燃え広がってるんじゃないかと心配で……」
と言って、
「間に公園があって、良かったですね」
「ええ、本当に……」
と言ってから、茜は、
「大津さん。主人はあなたと親しくお付き合いしていたんですね」
と言った。
「奥さんに本当のことを打ち明けようと思ってやって来ました」
と、久美子は言った。
「主人とお付き合いを。そうなのね」
「申し訳ありません」
「いいえ、責任は主人の方に。お仕事を辞めなきゃいけなかったんでしょう?」
「一緒にいるのも辛かったんです。どこかで思い切らないと……」
と、久美子は言った。
「あなた……〈呪いのわら人形〉はあなたが?」
と、茜が訊く。
「いいえ! そんなことしていません。――確かに、ご主人のことを、少し恨んではいますけど、恋してる間は幸せでしたから」
「この火事も、誰かが火をつけたのだな」
と、クロロックが言った。
「恐ろしいわ」
と、杉田綾子が息をつく。
「娘さんが焼け死ぬところだった」
と、クロロックは言うと、エリカの方へ、
「エリカ、スマホを見せてくれ」
「はい」
と、エリカがスマホをクロロックへ渡す。
「おい、ちゃんと見られるようにしてから渡せ」
「少しはスマホを使いこなさないと。昔のヨーロッパにはなかったけど」
エリカが撮った動画を出して見せた。
「失礼ながら、久保山氏の病室から帰るところを撮らせてもらった」
「クロロックさん、どうしてそんな――」
と、茜が訊く。
「病室を出たとき、自分の表情に戻る。それが見たかったのだ。――大津久美子さんはほとんど表情が変わらない。だが、杉田綾子さんは……」
「私? 私が何かしたと?」
「そう。久保山氏が死にかけたことで、複雑だったのだろうな。〈わら人形〉のせいで、まさか、と不安だったことが表情に出ておる」
「そんな……。間違いです!」
「そして申し訳ないが」
と、クロロックは綾子の髪へ目をやって、
「ご自分では気付いておるまいが、髪の何本かが焦げている」
綾子がハッとして髪に手をやる。
「それに、油をまいて火をつけたろう。油がまだ指先に残っている」
綾子は青ざめて、
「私……。私は……久美子さんがずっと久保山さんと関係を持っていたことを知ってました。どうして久美子さんが……。私だって、久保山さんを愛してたのに、見向きもされなかった……」
「〈わら人形〉はともかく、火をつけたのはいかんな。娘さんは危うく命を落とすところだった」
「わけが分からなくなっていたんです。――久保山さんが愛してくれないのなら、久保山さんの大事なものを奪おうと……」
「あなた……」
と、茜は言って、綾子の手を取ると、
「主人にも罪はあります。幸い、娘たちも無事だったわ。どうか自首して下さい」
「奥さん……」
綾子は涙ぐんで、
「私をひっぱたいてもいいのに……」
「私、そんなに力がないの」
と、茜は言って、
「よくあの太い釘を打てたものね」
綾子は涙を拭って、
「父が大工だったので……」
と、苦笑した。
「これから警察へ行くつもりでした」
彩子はそう言ってからクロロックへ、
「娘さんを助けて下さって、ありがとうございます」
と、頭を下げた。
「やり直すことだ。まだ先は長い」
と、クロロックが言うと、綾子は一礼して、やって来ていたパトカーの方へと歩き出した。
「――火事も、よそへ燃え移らなくて良かった」
と、クロロックが言った。
「杏の直感の方が正しかったね」
と、スズが言った。
「でも……誰でも恋をするとあんなことになるのかな」
「そうじゃないだろうけど……」
スズは自分のスマホを手にして、
「あのピアノの曲、何だったんだろ?」
と、録音しておいたのを再生した。
「それは〈亡き王女のためのパヴァーヌ〉だな」
と、クロロックが言った。
【おわり】