吸血鬼と静かな隣人 第二回
まさかのとき
ぎりぎり、会社へ滑り込んだ久保山徹は、しばらく席を立てなかった。
「久保山さん、大丈夫?」
と、声をかけて来てくれたのは、同じ課の杉田綾子だった。
「どうしたの? 寝坊?」
と訊かれて、久保山は、
「いや、それがとんでもないハプニングでね……」
と、首を振って、
「会議、九時からだっけ?」
「大丈夫。課長が外を回って来る用事ができたから、って、十時からに変更」
「そうか。助かった!」
と、息をついて、
「分かってりゃ、もう少しのんびり出て来たけどな」
「ハプニングって何?」
杉田綾子は、久保山の勤める〈K商事〉の営業第二課の同僚である。四十に近いが独身で、「何ごともマイペース」の生き方を貫いている。
四十八才の久保山よりも十才近く年下だが、落ちつき払った雰囲気は、むしろ年上のお姉さん的である。
「いや、それが馬鹿げてるんだけどさ」
久保山は、今朝の〈呪いのわら人形〉騒ぎを、ちょっと大げさに脚色して話して聞かせた。
「へえ! 今どき〈呪いのわら人形〉? ずいぶん長いこと聞いたことないわ」
「どうせいたずらだよ。でも、子供がやったにしては、あの人形といい、太い釘を打ちつけたことを考えると、子供にゃ無理じゃないかな、って……」
「それにしても……。久保山さん、何か恨まれてるんじゃないの?」
「冗談じゃない!」
そう、とんでもない!
俺には恨まれる覚えなんか、これっぽっちも……。
まさか、彼女が?
そんなはずはない! 彼女はそんなことをする女性じゃない……。
「でも、いたずらにしちゃ、手がこんでるわね」
と、杉田綾子が言った。
「まあ、気にしてても仕方ないよ」
と、ことさら明るく言って、久保山は、
「今日の会議の資料、どこだっけ?」
「私、作っておいたわ。久保山さんの分も」
「そいつはありがたい」
「今、持って来てあげる」
綾子が自分の机へ戻ると、ファイルを手にして、
「さ、これよ」
「すまないね、いつも」
と言って、久保山はファイルをパラパラとめくった。
「久美子ちゃんがいればね」
と、綾子が言った。
「え?」
と、久保山が手を止める。
「大津さんよ。大津久美子」
「ああ……。しかし、彼女は辞めたんだし……」
「ねえ、どうしたのかしら? 急なことだったでしょ」
「それは確か、ご両親の面倒を――」
「そう言って辞めていったけど……」
と、口ごもる。
「どうかしたのかい?」
「田舎へ帰ってるはずが……」
と、綾子は言った。
「見かけたの、都心でね」
久保山はちょっと間を置いて、
「――それは人違いじゃないのかい? 都心の人ごみの中じゃ、よく似た人はいくらもいるさ」
と言った。
「いいえ、人違いじゃないわ」
「本当に?」
「久美子ちゃんがよく行ってた、お気に入りのベーカリーがあるんだけど、そこで見かけたのよ。パンが並べてある棚の合間から顔が見えたの。それに、向こうも私のことに気が付いた。目が合って、何だかあわててる様子だったわ」
「声をかけたの?」
「いいえ。私もトレイにパンを取って、のせてたから。あといくつか欲しかったし」
と、綾子は首を振って、
「レジで一緒になるかな、と思ったんだけど、彼女、二、三個買っただけで、レジをすませて、先に店を出て行っちゃったみたいなの」
「そんなことが……」
「ねえ、何かよほどの事情があったのかしら」
「そうかもしれないね」
と、久保山は言った。
「さあ、そんなことより、今日の議題だ。何か特別なものがあったかな?」
ファイルのページをめくっても、少しも頭に入って来ない。
まさか。――まさかとは思うが。
大津久美子は、久保山の「彼女」だった。
いかにもインテリで、常に冷静沈着な印象の女性だった。
美人ではあったが、やや近寄りがたい雰囲気があって、社内の男性たちも手を出そうとしなかった。
しかし、一旦そういう仲になってしまうと、久美子はびっくりするほど情熱的で、久保山の方が面食らってしまうほどだったのである。
そして、正直なところ、久美子との関係が、久保山にとって重荷になっていった……。
杉田綾子が机の電話を取ると、
「――分かりました。伝えます」
と言って、
「久保山さん、受付にお客様です」
「え? 誰だろ? 約束、あったかな」
「クロロックさん。ほら、吸血鬼みたいなスタイルの」
「ああ、あれか!」
と、久保山は笑って、
「変な奴だよな」
「でも、すてきよ。礼儀正しいし、インテリだわ」
「しかし――会議だしな。どうせ大した用じゃないんだ。忙しいって言って、出直してもらってくれよ」
「そんなの失礼よ!」
と、綾子が眉をひそめて、
「ちゃんと約束したんでしょ。相手が誰でも約束は守らないと。それが社会人の常識ってものよ」
綾子に意見されると、久保山も無視できない。
受付へ出て行くと、マント姿のフォン・クロロックが立っていた。
「これはどうも」
と、久保山は言った。
「クロロックさん、申し訳ないんですが、今日ちょっと会議が急に。いや、約束を忘れてたわけじゃないんですよ。ただ……」
と言いかけたとき、久保山は急に胸に激しい痛みを覚えて、呻いた。
「――どうされたのかな?」
と、クロロックが言うと、久保山はまともに返事もできず、
「胸が……苦しい……」
と、とぎれとぎれに言うと、床に倒れたのである。
「久保山さん!」
と、綾子が駆けつけて来る。
クロロックは、倒れた久保山の方へかがみ込んでいたが、
「これはいかん」
と、綾子の方へ、
「この近くの病院は?」
と訊く。
「近くですか? 大きな病院は、ここから三ブロック北へ。そこが一番近いと思いますが……。ともかく救急車を呼びます」
「間に合わん」
「え?」
「その病院の名前は?」
「ええと……。〈R総合病院〉です。確か」
「そうか」
クロロックは両手で軽々と久保山を持ち上げると、
「行ってくる」
と、ひと言、クロロックたちの姿が消えた。
「あの――」
と、綾子は言いかけて、
「どこへ行った?」
と、しばし呆然としていたが、やがて我に返って、
「救急車を……」
と、空しく呟いていた……。
「いや、危ないところでしたよ」
と、その医師が言った。
「あと数分遅かったら、手遅れでした」
「ありがとうございます!」
知らせを聞いて、あわてて病院へ駆けつけて来た久保山の妻、茜は言った。
「ともかく間に合って良かった」
と、クロロックが肯いた。
そして、
「では、仕事の話はまた後日」
と、杉田綾子へ言ってから、マントを翻して立ち去った。
クロロックを見送って、茜は綾子へ、
「杉田さん、あの方はどういう……」
と言った。
「え……。あの、うちの取引先の社長さんなんですけど……。フォン・クロロックさんとおっしゃって、たぶんヨーロッパのどこかのご出身で……」
「さっき、看護師さんにうかがったら、あの方が主人を運んで来られたと」
「ええ。私、クロロックさんが社を出て、すぐこの病院へ電話したんです。番号を調べたりしましたけど、二、三分後には電話したと思うんですよね」
と、綾子は少しためらって、
「でも――もうそのとき、クロロックさんはここへ着いていたんです。一体どうやって……。空でも飛んで来たとしか思えません」
「まあ……。でも、もう少し遅かったら、主人は死んでいたそうですから。――あの方のおかげなのね……」
いかにふしぎな出来事でも、「現実に起こったこと」なのだから、納得するしかなかった。
「久保山さんは前から心臓が悪かったんですか?」
と、綾子が訊いた。
「いえ、そんな話、聞いたことがありません。もちろん、ていねいな検査はしていなかったと思いますが……」
「そういえば、何だか今朝、お宅に〈呪いのわら人形〉が――」
「そうなんですよ! しっかり太い釘で打ちつけてあったので、外すのが大変でした」
「いやですね、いたずらにしても」
「本当に……」
と、呟くように言ってから、茜はふと思った。
あのわら人形の釘は胴体の真ん中辺りに打ってあった。まさかそのせいで心臓が……。
「まさか、そんな」
つい口に出して言っていた。
「奥さん、どうかしたんですか?」
「いいえ、ちょっとひとり言を」
と言ってから、茜は、
「そうだわ。主人の入院手続しなくちゃ」
と、足早にナースステーションの方へ歩いて行った……。
【つづく】