吸血鬼と静かな隣人 第一回
釘
何だろう?
コン、コン、コン……。
――何かを叩いているような音。
それほど大きな音ではないが、茜の目を覚まさせるには充分だった。
隣のベッドでは、夫がいつも通りの迫力ある寝息をたてていて、こちらは少々のことでは起きそうにない。
どうしようか、とベッドに起き上がって迷っている内、その音は止んでしまった。
放っておいて寝てしまおうか、と思ったが、音はどう考えても、我が家の近くで聞こえていた。
気になりだすと、眠気なんかどこかへ行ってしまう。――仕方ない。
ため息をつくと、茜はベッドから出た。パジャマの上にバスローブをはおって、寝室を出る。
午前二時を少し過ぎている。こんな夜中にあの音は、どう考えても普通でない。
久保山茜は、寝室のある二階から、階段を下りて行った。――二階には夫婦の寝室と、娘のスズの部屋、そしてもう一つ、三畳ほどの部屋があるのは、もし二人目が生まれたら、という可能性を考えてのことだったが、茜は四十四才、夫の久保山徹は四十八で、スズも十六才、高校生になった。
二人目はないだろうというので、数年前から、三畳間は夫がパソコンをいじる部屋になっている。
――階段を下りると、一応用心のために、玄関脇の靴箱の上に置いてある野球のバットをつかむ。
玄関前の明かりを点けたが、何の物音もしない。――あれは何だったんだろう?
そっとロックを外して、玄関のドアを恐る恐る開けた。
冷たい夜気に包まれて、茜は身震いした。
左右を見回したが、誰もいないし、特に変わった様子もないようだ。
「――どうってことなかったのね」
と、呟くと、茜は寒さに首をすぼめて、急いで玄関の中へ入って行った。
それに気付いたのは、スズだった。
朝、いつもなら、
「行って来ます!」
と言ったときにはもう表の道へ飛び出しているスズだが、このときは、玄関を出て二、三歩で足を止め、
「いけね! お母さん!」
と、振り返ったのである。
「何? どうしたの?」
茜が一旦閉めた玄関のドアを開けて訊く。
「お金、ちょうだい。三千円」
「ええ? もっと早く言ってよ!」
茜が急いでお財布を取って来て、
「三千円ね? 前の日にちゃんと――」
「お母さん、これ、何?」
「――何が?」
「玄関の脇の……」
振り返ったので、スズの目に入ったのだ。
茜は外へ出ると、玄関の傍の、表札を取り付けた柱に、それが打ちつけてあるのを見た。
「こんな……。どうして?」
「知らないよ。今、気が付いて」
と、スズは三千円をしっかり財布へ折りたたんでしまうと、
「何かの冗談だね、きっと」
と言った。
「そうでしょ。――いやね、こんなもの!」
「行って来ます!」
スズが行ってしまっても、茜はしばらくそれを信じられない思いで眺めていた。
それは人の形をしたわら人形だった。
三十センチぐらいのものだろうか。「大」の字の格好で、わらを束ねて作ってある。
そしてその真ん中――お腹の辺りに、太い釘の頭が見えていた。
「これだったのね……」
と、茜は呟いた。
ゆうべの――というか、夜中過ぎの「コンコン」という音は、この釘を打つ音だったのだ。
「いやだわ!」
こんなもの、ご近所の人に見られたら――。
あわててわら人形を取り外そうとしたが、太い釘でしっかり打ちつけられている。
「あなた!」
茜はサンダルが引っくり返るのも構わずに、ダイニングキッチンへと駆けて行った。
朝食のミソ汁を飲みかけていた久保山徹はびっくりしてむせ返ってしまった。
「あなた! すぐ来て! 急いで!」
茜に腕を引っ張られて、
「おい……。何だよ、ミソ汁が……」
ゴホゴホとむせながら、玄関へと引っ張って行かれる。
しかし――久保山も、そのわら人形を見て唖然としてしまった。
「誰だ、こんなもの……」
「分かりっこないでしょ! ともかく、取ってよ! 駅に向かう人が家の前を通るんだから!」
出勤する人たちの、駅行きバス停への通り道なのである。
「分かった。しかし――しっかり打ちつけてあるな。何か――道具ないのか?」
「自分で捜してよ!」
茜の声は一オクターブ、高くなっていた……。
「いてて……」
久保山は左手を振った。
たかが釘一本、と思ったのだが、太く長いその釘を柱から抜くのは容易ではなかった。
今どき、カナヅチなんて物は、家に用意されていないことが多いだろう。
何とか太い釘を抜こうと、あれこれやってみたが、なかなか抜けない。最後にはしびれを切らした茜が、
「わら人形をバラバラにしてしまえばいいわ!」
釘だけが残ったのなら、何があったのか分かるまい。
久保山も、出勤時間を過ぎてしまって、焦っていたので、茜の言うようにするかと思った。
しかし、そのとき、久保山家の愛車(?)のトランクに、確かレンチのような物が入っていたことを思い出した。――かくて、ようやくわら人形は、玄関脇の柱から外されたのである。
「大丈夫、あなた?」
と、茜が言った。「少し遅れて行く?」
まだ朝食を食べ始めたばかりだった夫のことを、多少気づかう余裕ができたのだ。
「いや、朝一番で会議がある」
と、久保山は言った。「お茶をくれ。ご飯にかけて食べる」
正直、釘と格闘して汗もかいていたが、今は仕方ない。
「それにしても、いやね!」
と、茜が今になって腹を立てている。「誰のいたずらかしら」
「まあ、世の中、妙な奴はいるよ」
「でも……。わら人形に五寸釘って、〈呪い〉のためなんでしょ」
「〈呪いのわら人形〉か? 馬鹿げてる!」
と、久保山はお茶漬をかっ込むと、「――俺は人に呪われるような悪いことはしてないぜ」
「私だって!」
と、茜は言って、居間のテーブルの上のわら人形へ目をやった。
「俺はもう行く」
と、久保山は食卓から立ち上がった。
あんなことがあったので今朝ばかりは、茜も、
「ちゃんと食べて行ってよ!」
と、夫に文句をつけるわけにはいかなかった。
「――じゃ、行って来る」
と、せかせかと久保山徹は出かけて行った。
「全く……」
と、意味もなく呟くと、茜はダイニングの椅子に腰をおろして、すぐには片付ける気にもならなかった。
――いやがらせにしても、手がこんでいる。
あのわら人形だって、そう簡単に作れないだろう。
とても器用な人間の仕業?
でも――なぜ〈呪いのわら人形〉なのだろう。
「気にすることないんだわ」
と、茜は自分に言い聞かせるように呟いた。
そうよ。誰からも「呪われる」覚えはないわ。私はそんなに人から嫌われていない。
ご近所ともうまくやっているし、スズの通っている高校の父母会でも、仲のいい母親たちと、いい感じでお付き合いしている。
そうよ。私のことを恨んでる人なんか、いるわけが……。
でも……まさか……。
茜は、かすかな不安の影がさしていることに、気付いていた……。
「へえ! 今どき、〈わら人形に五寸釘〉?」
「五寸釘だったかどうか知らないけどね」
と、久保山スズは言った。
「でも、それってさ、誰かを呪うためにやるんでしょ?」
同じ電車で高校へ向かっている、スズのクラスメイト、永原杏が言った。
「そんなの、映画じゃ見たけどね」
と、もう一人、同じ学年の子が言った。
「あれって、色々条件がうるさいんだよ」
と、杏が分かったように、
「夜中の何時に打ちつけるとか、周りを何回回って祈るとか……」
「うちじゃ回れないよ」
と、スズは笑って、
「ただ、あんな人形、作るのも大変じゃないかな。それに、釘を打つのも簡単じゃないよね。ただのいたずらだと思うけど、いたずらにしちゃ、手がこんでるよね……」
――同じ車両に乗っていた神代エリカは、高校生たちの話が、聞く気がなくても耳に入って来るので……。
〈呪いのわら人形〉か。――今でもそんなことをやる人がいるんだ、とエリカは思った。
エリカは大学へ行く途中だった……。
現役女子大生、神代エリカ。
父はルーマニアのトランシルヴァニアからやって来た、正統な吸血鬼。母は日本人だが、亡くなってしまい、父、フォン・クロロックはうら若い涼子と再婚。
虎ノ介が生まれた……。
エリカも父譲りの、人間にはない能力に恵まれている。父ほどではないが。
〈呪いのわら人形〉が、これからどんな展開になっていくのか、電車でたまたま耳にしただけのエリカには知る由もなかった……。
【つづく】