吸血鬼と逃げた悪魔 第四回
裏切り者
学食でランチを食べているエリカへ、
「ね、エリカ、聞いた?」
と、大月千代子が声をかけてきた。
「何のこと?」
と、エリカが食べる手を止める。
「北里君のこと。ほら、金持ちの坊っちゃんの――」
「ああ、北里徹君ね。彼がどうかしたの?」
「大変なのよ。あのね――」
と、千代子が言いかけると、学食の入口で、
「ふざけやがってよ!」
と、喚いている声がした。
当の北里の声だ。
「人が親切に拾ってやって、飯まで食わしてやったのに! 俺のポルシェを盗んでいきやがったんだ!」
誰に話しているわけでもなく、ただ怒りをぶちまけているのだった。
「盗まれたって、どうしたの?」
と、エリカが声をかける。
「やぁ。――全く頭に来るぜ」
と、北里はエリカの隣の椅子にかけると、
「知らない奴に親切になんかするもんじゃねえな。せっかく買ってもらったポルシェが……」
「どこかに停めといて盗まれたの?」
「そうじゃないんだ。くたびれた様子で歩いてたから、乗せてやったんだよ」
と、北里は事情を説明して、
「――そしたら、そいつ、いきなりポルシェを運転してっちまったんだ! しかも乱暴な運転でさ、あの調子じゃ、どこかにぶつけてへこませてるぜ、きっと」
「お気の毒。でも、目立つ車だもの。見付かるでしょ」
と、千代子が言った。
「傷だらけにされちゃかなわねえよ」
と、北里はむくれている。
「彼女に、ポルシェに乗せるって約束してたのに。――あのフランス野郎! 見付けたらただじゃおかないぞ!」
エリカは北里を見て、
「フランス野郎?」
「ああ、フランス人だったんだ。日本語はほとんど分からねえみたいだった」
「それ、どんな人だった? 若い?」
「いや、もういい年齢だった。何だかくたびれた変な上着を着てたよ」
「そのフランス人をどの辺で乗せたの?」
と、エリカは訊いた。
「どうしてだ? 心当たりでもあるのか?」
北里の説明を聞いて、エリカは、
「もしかすると……。でも、そのフランス人が私の考えてる男だったら、北里君、よく生きてたね」
エリカの言葉に、北里はわけが分からず、首をひねっていた。
「どう思う?」
と、エリカは言った。
「なるほど、フランス人か」
と、クロロックは肯いた。
「可能性はあるな」
「そう思う? もちろん、ポルシェを運転して逃げたっていうんだから、クーシェじゃないかな、って気もするんだけど」
〈クロロック商会〉の入っているビルの地階にあるティールーム。エリカは仕事中のクロロックに会いに来ていた。
「しかし、クーシェほどの男なら、その北里という男の子の運転しているのを観察して、覚えたかもしれん」
「もしそれがクーシェなら、東京に来ているってことになる?」
「そうだな。しかし、ああいう悪党は、自分の手は汚さないことが多いものだ。ニュースによく気を付けておくことだな」
エリカのケータイが鳴った。
「あれ? 北里君だ。――もしもし?」
「見付かったよ、車!」
と、嬉しそうな声。
「良かったね。無事だったの?」
「ああ。何とか、どこにもぶつけずにすんだみたいだ」
「で、そのフランス人は?」
「車だけ道の真ん中に置いてあったんだ。もう都内に入ってたけどな」
「逃げたってことね。別に警察に追われてたわけじゃなかったの?」
「それがさ、どうして捨ててったんだと思う? ガス欠なんだ。ガソリンが空になって停まったのさ」
エリカとクロロックは顔を見合せた。
男は――おそらくクーシェは、運転の仕方は見て覚えても、車がガソリンで走っていることまでは分からなかったのだ。
「おそらく間違いないな」
話を聞いて、クロロックは肯いた。
「そうだよね。でも――今はどこにいて、何してるのか……」
フランス人、というだけでは、さすがにクロロックも広い東京の中で見付けることは無理だった……。
「疲れたわ……」
口をついて出るのは、いつもそればかりだった。
八重子は、そろそろ夜が明けてこようというころ、重い足を引きずるようにして、アパートへの道を辿っていた。
古くなったコートは、明け方の寒さを防ぐのに不充分だったが、他にないのだから、仕方ない。
一体どうして……。こんな有様になってしまったのだろう。
いや、自分のことだ。分かってはいる。自分のせいなのだ。
ごく平凡なサラリーマンの妻だった八重子は、連日遅くまで飲んで帰って来る夫にうんざりして、スナックで知り合った年下の男と浮気した。
ところがその哲という男がとんでもないワルで、八重子につきまとってきた。夫にもばれて、家を追い出され、八重子はヤクザの下っ端だった哲と暮らすことに。
そして、「稼いでこい」と言われて、夜の盛り場で体を売るようになる。――それからもう二年。
すでに若くはない八重子にとって、客を取るのは簡単なことではなかった。一晩道に立って、やっと一人か二人……。
「――おい」
その声にギクリとした。哲が目の前に立っていたのだ。
「何なのよ……」
と、八重子は口を尖らして、
「くたびれてるの。帰って寝るのよ」
と行きかけた。
「ふざけるな!」
いきなり哲に殴られて、八重子は尻もちをついた。暴力を振るわれるのはいつものことだったが――。
「稼ぎをごまかしやがったな! 俺を甘く見ると承知しねえぞ」
よろけて立ち上がった八重子を、哲はさらに殴った。
「もう……やめて……」
「殴られたくなかったら、もっと稼いでこい!」
と、さらに手を上げると――。
その手首をつかんだ男がいた。そして、アッという間に哲を叩きのめしてしまったのだ……。
夜の女。――何百年たっても、こういう女はなくならないのだ。
クーシェは皮肉な笑みを浮かべた。
思いがけず、何百年も時を飛び越えて、「未来」へやって来たが、そこはどういう場所だったろう?
確かに目を疑うような、数々の「道具」は出現していた。遠くの人間と話のできる機械、馬車の何倍もの速さで走れる車。そして鳥のように空を飛ぶものまで。
しかし、一旦そういう世界に慣れて、生きている「人間たち」を見れば、自分が生きていた時代から、どれだけ幸せになっているだろうか。
富める者がいて、貧しい者たちがその何百倍もいる。
生きるすべを持たない女たちは、体を売るしかない。
人の暮らしは、少しも変わっていないではないか。
クーシェは、初めの内、とんでもない世の中へ来てしまったと青くなったが、まぶしいような表の世界の裏側に、「闇の世界」が息づいていることを知って、安心した。
これは俺のよく知っている世界だ。こういう所に生きている連中のことなら、誰よりもよく分かる……。
「早く逃げて」
と、八重子はくり返した。
「奴らに殺されるわよ」
しかし、その奇妙な外国人には通じないようだった。
「助けてくれたのはありがたいけど、あいつが仲間を連れて戻って来るよ」
それでも、その外国人はニヤリと笑うだけだった。
八重子は、自分のアパートに帰った。外国人もついて来た。
いくら言っても、分かっちゃくれない。――八重子はもう諦めていた。
どうなったって知らないわよ。私のせいじゃないし。
八重子は肩をすくめて、コートを脱いだ。
どうやら、この男は日本語がまるで分からないらしい。それでは、何と忠告してもむだなことだ。
アパートの部屋に入ると、男は中を見回して、何か呟いた。
「――フランス語?」
と、八重子が訊くと、男は黙って肯いた。
「そう。――でも私、フランス語は分からないから」
「ワイン?」
「え? ああ、ワインね。一応あるわよ。安物だけどね」
八重子はグラスを取り出して、赤ワインを注いだ。
男は一気に飲み干すと、
「メルシー」
と言った。
それぐらいは八重子にも分かる。
「だけど……。早く逃げないと、哲が仲間を連れて来るよ」
といっても、フランス語で、どう言えばいいのか……。
二十分ほどして、ドタドタと足音がした。
「来たわ!」
八重子は壁に身を寄せて、
「ああ……。お願いよ、哲に謝って」
と言ったが、そのとたん、ドアが開いた。
哲が仲間を四、五人連れて来ていた。
「そこにいやがったのか。覚悟しろ!」
「哲。ねえ、この人フランス人なのよ」
「だから何だ? どこの奴だっていい。すぐ袋叩きにしてやる」
と、部屋へ上がり込む。
男は少しも怖がる風でなく、哲たちを見ていた。哲は、
「やっちまえ!」
と怒鳴った。
すると――男は拳銃を取り出したのである。
「――何だ? そんな物、怖かねえぞ!」
オモチャだとでも思ったのか、哲は嘲笑った。
次の瞬間、バン、と短く乾いた破裂音がした。
哲は、自分の服の胸の辺りにポツンと浮かび上がった赤いしみが、見る見る内に広がって行くのを、わけが分からないような表情で見下ろしていたが、やがて、
「おい……何だよ……」
と、戸惑ったように言った。
「何しやがったんだ……。俺は……どうして……」
そこまで言って、哲はガクッと膝をつき、倒れ込んだ。
哲の体の下に、血だまりが広がっていくと、八重子が、細い声で悲鳴を上げたが、すぐに途切れた。
哲について来た男たちは、ただ呆然として突っ立っているばかりだった……。
【つづく】