吸血鬼と逃げた悪魔 第三回
逃亡者
「アンリ……」
「ジャンヌ! 生きてたんだね」
「お互いに……」
「うん。――色々聞いたよ。でも、とても信じられない」
ジャンヌは車椅子でアンリの病室を訪れていた。
「僕らは、何かの魔法にかけられてるんじゃないか」
と、アンリは言った。
馬車から抜け出すときに、足首を骨折していたのだ。ジャンヌは、車椅子ではあるが、特にひどい傷などはなかった。
「そうね……。でも、エリカさんの話を聞いて、外の様子を眺めてみたら、信じないわけにいかないでしょ」
と、ジャンヌは首を振って、
「馬のつないでない車が走り回ってるし、空には大きな鳥の化物みたいな乗り物が飛んでる……。あれに何百人も乗ってるそうよ」
「どうなってるんだ!」
アンリの方は、なかなか目の前の現実を受け容れられずにいるようだ。
「一つ、気になってることがあるの」
「気になってること? 一つどころか、百も二百もあるよ」
「真面目に聞いて! 私たちと一緒に馬車に乗ってた男のことよ」
「クーシェか! 忘れてた。でも、この病院には僕ら二人しか……」
「ええ。あの人はどうなったのかしら」
「きっと、二百年も飛び超えて来られなかったのさ」
「そうかしら……。だといいけど」
ジャンヌが不安げに言ったとき、
「失礼」
と、声がして、クロロックが入って来た。
「あ……。エリカさんのお父様ですね。エリカさんには本当にやさしくしていただいて……」
と、ジャンヌが言うと、
「今、話が耳に入ったのだが、『クーシェ』と言ったかな?」
「ええ……。あの馬車で一緒だったんです」
「それはもしかしてジョゼフ・クーシェのことか? 秘密警察の長官だった」
ジャンヌとアンリはびっくりした。
「そうです」
と、アンリは肯いて、
「クーシェをご存じなんですか?」
「歴史の中に名をとどめておる。国王の配下でいながら、革命が起こると、貴族たちを捕らえて次々に断頭台へ送った」
「そんなことが伝わっているのですか! 卑劣な悪党め!」
「アンリ、落ちついて」
と、ジャンヌはなだめて、
「クロロック様――でしたかしら。私たちがあの池から出て来たとき、クーシェはいませんでしたか」
「はっきりはしないが、二人の前に、誰か一人が、水から上がって、林の中へ駆け込んだようだった」
「じゃ、もしかして、クーシェが?」
「かもしれんな。この付近で、不審なフランス人を見かけた者がいないか、調べてみよう」
「お願いします! あれは、とても恐ろしい男なのです」
と、ジャンヌは言った……。
「ジョゼフ・クーシェ?」
と、エリカが言った。
「その名前なら、本で読んだよ」
「うむ。――私も、フランスの方の事情は直接見ていないからな」
と、クロロックは言った。
二人は、ジャンヌとアンリの入院している病院の近くで昼食をとっていた。
もう一家は東京へ戻っている。しかし、ジャンヌたちを放り出して行ってしまうわけにもいかない。
「入院費用は、とりあえず私が何とかするしかないな」
クロロックとしては「お金」の問題もある。
「そのクーシェは、どこにいるのかしら?」
「一緒に現代へやって来たとすると、いささか心配だな」
「見付けられるんじゃない? フランス革命の時代のフランス人なんて、そういないでしょ」
「それはそうだが、悪党ほど、生きのびる力を持っているものだ」
と、クロロックは言った。
「あの二人と比べて、おそらくずっと早くこの時代に慣れてしまっているだろう。そうなると捜すのは大変だ」
「どこを捜せばいいの?」
「この近くにいればいいが。――もし、大都会へ出てしまったら、容易なことでは見付けられん」
「それじゃ……」
「心配なのは、それだけではない」
「どういうこと?」
「クーシェのことは評伝にも残っている。ということは、もっとフランスで長く生きていたということだ」
「あ、そうか」
「あの二人の話を聞くと、まだ革命が始まったばかりの時代からやって来ている。しかし、クーシェが暗躍していたのは、その後だ」
「つまり……クーシェは、また過去へ戻ったってことね」
「戻るすべがあるのかどうか……。あの〈湖〉に、時間を行き来するトンネルのようなものがあるのかもしれん。しかし、そんなものがあれば、これまでも、他の時代からやって来る者があっただろうしな。おそらく、様々な偶然が重なって、こんなことになったのだろうが……」
「クーシェが、この世界でも何か悪いことをする?」
「それを心配しておる」
そう言いながら、クロロックはしっかりスパゲティを平らげていた。
ポルシェは快適に走り続けていた。
「やっぱり、乗り心地が違うよ!」
念願のポルシェを買ってもらって、まだ三週間。ともかくどこへ行くにもポルシェ。
歩いて五分のコンビニでもポルシェで行ったりする始末。
「――あれ?」
林の中の道を走らせていると、外国人の男性が一人、疲れた様子で歩いているのが目に留まった。
別にヒッチハイクをしているわけではないようだったが、新しい車で気が大きくなっていたせいもあってか、その男のそばへ車を寄せて停めた。
「ハロー」
と、北里徹は言った。
男は、
「ボンジュール」
と返して来た。
「ボンジュール」がフランス語だってことぐらいは、北里徹にも分かっていた。
「フランス人? どこへ行くんですか? 乗って行きます?」
と、日本語で言った。
大学ではフランス語を取っているのだが、「ボンジュール」と、「アイ・ラブ・ユー」に当たる「ジュテーム」くらいしか憶えていない。
しかし、相手は北里の言うことを、口調や事情で察したのか、
「メルシー。アリガトウ」
と言って、助手席に乗って来た。
「じゃ、どこか近くの街まで。オーケー?」
とフランス語などどこへ、というところ。
中年の、少し老けた男である。来ているのはずいぶんくたびれたジャケットとズボン。
車が走り出すと、男は、
「ベリーハングリー」
と言った。
英語の方が北里に通じると思ったのだろう。
「腹減った? オーケー、オーケー。俺もハングリーだから、近くで何か食おう」
と、北里は言った。
五、六分走ると、広い国道へ出て、サービスエリアがある。
そこで車を停め、北里は男と一緒に中の食堂に入った。
「手っ取り早く食べるなら、カレーライスだな。カレー、オーケー?」
何でも良かったらしい。男は黙って肯いた。
そして、セルフサービスでテーブルに運んだカレーライスを、男は北里が呆れるようなスピードで食べ終えてしまった。
「――よっぽど腹減ってたんだね」
と、北里は笑って、
「え? お金? いいよ、これぐらい」
と言って食べ始めた。
男は何も言っていないのだが、北里は男の表情を見て、勝手に解釈したのである。
「――俺、東京まで行くんだけど、あんた、どこまで?」
と、北里は訊いて、
「俺と同じ? 東京? オーケー」
相手は微笑んで肯いている。
早々に食べ終わると、二人は再びポルシェで出発した。
北里は、ともかく運転に夢中で、助手席のフランス人のことなど忘れかけていた。
その男は、黙って半ば目を閉じていたが、眠っているわけではなかった。
細く開いた目は、車を運転する北里の、手と足の動きをじっと見つめていた。
――一時間ほど走らせて、北里はバス乗り場の付近に一旦停めた。
「連絡しとかないとな……」
ケータイを取り出して、彼女にかける。
「もしもし。――ああ、今ポルシェに乗ってるんだぜ! やっぱり凄いよ! ――え? ――ああ、夕方には着くよ」
しゃべりながら、北里は全く隣のフランス人のことは忘れていた。
フランス人の右手が、古びた上着の内側へ入った。そして、手の中に隠れるように取り出したのは、小型のナイフだった。
「うん。あと一時間半くらいかな。――そうだな。いつもの店で。――ただ、ワイン飲めないぜ、車だ」
北里はドアを開けて、ポルシェから降りた。
ずっと運転していたので、腰が痛くなったのである。
「うん。ちっとも構わないよ。――じゃ、今夜は家に帰らないことにするよ。それでいいだろ?」
と、北里は笑った。
フランス人が寄って来たのには、全く気付かなかった……。
【つづく】