吸血鬼と逃げた悪魔 第二回
時の迷子
エリカは目を覚ました。
「何かしら、今の?」
ベッドに起き上がって、パジャマ姿で欠伸しながら寝室を出た。
「――お父さん、起きたの?」
「ああ。何だか騒がしいのでな」
と言ったのは、フォン・クロロック。
トランシルヴァニア出身の、正統な「吸血族」の一人である。もっとも今は棺の中で寝ているわけではなく、若い妻、涼子と一粒種の虎ちゃん、こと虎ノ介と一緒にベッドで寝ている。
従って今も吸血鬼ファッションの黒いマントでなく、ガウンを着ていた。
「水の音がしたな」
と、クロロックは言った。
「その奥の池かしら?」
「誰かが落っこちたかな。しかし、こんな夜中に?」
「虎ちゃん、寝てるの?」
「ああ、スヤスヤとな。涼子もぐっすりだ」
エリカは、クロロックと日本人女性の間に生まれた二十一才。母親は亡くなり、今の継母はエリカより一つ年下である。
「お前の友人たちも起きてこないようだな」
エリカの一家は、大学の夏休みに、この避暑地へやって来た。
コテージは、真ん中のリビングダイニングを四つの部屋が囲んでいて、その一つにはエリカと同じ大学生の二人、大月千代子と橋口みどりが泊まっている。
「ともかく様子を見に行くか」
「そうだね。待って。私もガウンはおらないと、外は寒いね」
エリカとクロロックはコテージを出た。
森の中に点在するコテージには、さすがに夜中の三時ごろなので、明かりが見えない。
少し大きめの池があって、この宿泊施設では、〈湖〉と呼んでいる。
照明があるので、足下は大丈夫だが……。
「水面が泡立っとるな」
と、クロロックが言った。
「何かしら?」
「どうも、この池にはどこか普通でないところがある」
「どういうこと?」
「水面から立ち上っている空気に、何か古いかびのような匂いがするのだ。もしかするとこれは……」
と、クロロックが言いかけたとき、
「お父さん! 誰かが」
エリカが指さしたのは、池のほぼ反対側で、大分離れているので、よく分からなかったが、誰か人影が林の中へと駆けて行ったのである。
「池から上がって、駆けて行ったようだな。妙なことだ」
「こんな夜中に池で泳ぐ?」
「いや……。どうやらもっととんでもないものがやって来そうだぞ」
「え?」
すると、池の中から、何か大きな箱のような物がザーッと音をたてて現れた。
「――お父さん、これって」
「うむ。どうやら馬車のようだな」
浮かび上がったのは、どう見ても昔風の造りの馬車。馬はいないが、扉が開いている。
「また沈むよ」
一旦浮かび上がった馬車は、再び沈もうとした。すると――。
「誰かいる!」
開いた扉をくぐり抜けるようにして、誰かが出て来た。しかし、泳げないのか、必死で水をかきながら、沈みそうだ。
「やむを得ん」
と、クロロックは言った。
「エリカ、二人いるぞ」
「ええ? この格好で?」
「放っておけまい。行くぞ」
しょうがない! 人が溺れるのを見捨ててはおけない。
クロロックに続いて、エリカも思い切って池へと飛び込んだのだった……。
「一体どうなってるの?」
涼子が不機嫌なのも無理はない。
夜中に溺れかけた男女を、クロロックとエリカが運び込んで来たのだから、当然、クロロックたちもずぶ濡れ。
「救急車を呼ぼう」
と、エリカが言った。
「そうだな。あの水に浸っていたのでは、体温が下がっていよう」
エリカがここの管理事務所に連絡して、「池で溺れた人が」と言った。
「あそこは〈湖〉です」
と向こうは訂正して、
「どうしてこんな夜中に泳いでたんです?」
「知りません! ともかく病院へ運ばないと」
渋っている管理人に何とか救急車を手配することを承知させて、エリカは、
「私、寒い! 熱いシャワーを浴びてくる!」
と、あわててバスルームへと駆け込んで行った。
クロロックも濡れたままではいられないので、着替えたが――。
「どういう人たち?」
と、涼子が眉をひそめて、
「どうしてこんな格好してるの?」
男の方は昔の貴族を描いた映画に出てくる召使のような服装。そして女の方は、やはり貴族社会の女性のような――しかし、ドレスではなくその下の肌着姿。
「映画のロケでもやってたのかしら」
と、涼子は言った。
すると、女の方が身動きして、何か言った。
「――何ですって?」
と、涼子は面食らって、
「何語を話したの?」
「フランス語だ」
と、クロロックは言った。
「しかし、今どき使わないような、昔風の言い回しだ」
涼子は肩をすくめて、
「じゃ、きっとタイムマシンで過去からやって来たんでしょ」
「うむ。――さすがは我が妻! その推理は当たっているかもしれん」
クロロックが真面目そうに言うので、涼子は呆れて、
「私は寝るわよ。虎ちゃんが寝不足だと機嫌が悪いのよ」
涼子は欠伸をして、自分たちの寝室へ戻って行った。
男の方が喘ぐように息をして、何か叫ぶように言った。
――エリカがシャワーを浴び、生き返った気分でやって来ると、
「二人ともまだ?」
「何か呻いとった」
「何て?」
「女の方は、『王妃様はお逃げになって……』と言って、男の方は、『あいつはどこだ!』と叫んでおった」
「何語で?」
「フランス語だ。それも十七、八世紀ごろの言い方だった」
「フランス人だね、見たところも。病院に運ばれても、向こうが困るかも」
「うむ。我々が付き添って行かねばなるまい。お前はこの女性のそばにいてやってくれ」
「仕方ないね。人助けって、大変だ」
「詳しいことが分かれば、もっと大変かもしれん」
ここでひと言。――突然だが、エリカはドイツ語だけでなく、フランス語も理解し、しゃべれるようになった。
少々無茶だが、何しろ吸血鬼の娘である。人間離れした能力を持っていてもおかしくない(ということにする)。
コテージの電話が鳴って、救急車が着いたことを知らせてきた。
突然のことだった。
まだ当分は目を覚まさないだろう。エリカはそのフランス人女性のベッドのそばで、椅子にかけてウトウトしていた。
夜中に病院に運び込んでからほぼ半日。――病室には午後の日差しが入り込んでいる。
すると――いきなり、その女性が何か叫んだのである。びっくりして目が覚めたエリカは、
「気が付いた?」
と、フランス語で言った。
その女性は頭を強く振って、
「ここは……どこですか?」
と訊いた。
「病院よ。ずいぶん弱っていたけど大丈夫。特に悪いところはないそうよ」
「病院……」
「病院だってことは分かるでしょ?」
「ええ……。でも、こんなに明るくてきれいで……。これは?」
と、自分の腕に針が入って、点滴を入れられているのを見て、怯えたように、青ざめた。
「心配ないわ。あなたの体力が戻るように、栄養を入れてるの。動かないで。針が抜ける」
「あの……そうだわ。王妃様は! 王妃様はどうなりました?」
と、声を震わせて訊く。
「王妃様って……」
「マリー・アントワネット様です、もちろん」
エリカは彼女の手を取って、
「気の毒だけど、マリー・アントワネットはフランス革命のとき、断頭台で処刑されたわ」
それを聞いて、女性は「ああ」と声を上げた。そして、
「王妃様!」
と、悲痛な叫び声を上げた。
「申し訳ありません! 私が代わりに死ななければいけなかったのに。恐ろしさに逃げ出してしまいました!」
「あなた、マリー・アントワネットの影武者だったの?」
エリカはびっくりした。あの衣裳はそのせいか。
娘は「ジャンヌ」と名のった。二十才を過ぎたところらしい。
王妃の代わりとしては若過ぎるだろうが、あの時代、民衆は王妃をじかに見たり、写真を見てもいないわけで、年齢が違っていても気にしなかったかもしれない。
ひとしきり泣いて、ジャンヌは、
「――あの、一緒に逃げたアンリという男の人が……」
「この病院にいるわ。助かったわよ」
「そうですか!」
と、涙を拭って、
「あなたは……見慣れない服を着てらっしゃいますね」
と、改めてエリカを眺めた。
「びっくりするでしょうけど……」
と、エリカはかんで含めるように言った。
「あなたの生きていた時代から、もう二百年以上たっているのよ。ここは東洋の日本という国」
ジャンヌはキョトンとしているばかりだった。
【つづく】