吸血鬼と逃げた悪魔 第一回
群衆
地響きは、さしもの宮殿の建物をも揺るがすばかりだった。
「宮殿内へ入って来ました!」
と、アンリが叫んだ。
「ジャンヌ、逃げましょう!」
「でも、アンリ――」
と、ジャンヌはためらって、
「私にはお役目が……」
「今となっては、そんなことを言っていられません!」
と、アンリはジャンヌに黒いショールを頭からかぶせ、
「急ぎましょう! こっちへ近付いて来る!」
ドドド……。
床を伝わってくるのは、数え切れないほどの人々の足音だ。この宮殿の豪華な廊下を埋め尽くすばかりにして近付いて来た。
「逃げるといって、どこへ?」
と、ジャンヌが怯えたように、
「どこへ出ても、大勢の人が待ち構えているでしょ」
「秘密の抜け道が」
「そんなもの――本当にあるの?」
と、ジャンヌが目を丸くする。
アンリは壁に堂々とした存在感を見せている石造りの暖炉へ駆け寄って、前枠を作っている石柱のどこかをいじった。
すると、暖炉が滑らかに開いて来たのだ。
ジャンヌは唖然として言葉もなかった。
「さあ、早く!」
と、アンリが促す。
ジャンヌはそこにポカッと開いた穴の中へと、頭を下げて駆け込んだ。アンリがそれに続くと、暖炉は元の通りに閉じられた。
間一髪だった。数秒後、その部屋のドアは叩き壊され、人々がドッとなだれ込んで来た。
1789年。
フランス革命は数多くの貴族の命を奪った。
しかし――今、地下道を逃げている二人、アンリとジャンヌは貴族ではなかった。
ジャンヌは農家の娘。そしてアンリは宮殿に仕える従者だった。
それでも逃げなくてはならないのは、ジャンヌが王妃マリー・アントワネットとそっくりのドレス姿だからだ。
ジャンヌは、たまたま顔立ちがアントワネットとよく似ていたので、「替え玉」として雇われていたのだ。
「急げ!」
と、アンリが荒い息で言った。
ジャンヌも、もともと畑仕事をしていた娘である。ドレスは邪魔だが、体力はある。
暗いトンネルは、壁に取り付けられた燭台の明かりに何とか照らされていた。
「――まだ走るの?」
「僕だって知らない! 初めてなんだ!」
と、アンリが答える。
「階段だわ!」
地上へ上がれる石段らしい。二人は、それを上がって、重い木の扉を押し開けた。
「ここは……」
と、汗だくになりながらジャンヌが言った。
「厩だ」
アンリは中を見回して、
「馬車がある! あれで逃げよう」
逃走用に用意されていたのだろう、二頭の馬がすでにつながれて、いつでも走れるようになっていた。
「でも――こんな馬車じゃ、すぐ見付かっちゃう」
馬車には王家の紋章が付いていた。
「仕方ない。夜だから見えないよ。君は馬車の中に。僕が走らせる」
アンリは御者台に上ろうとして、足を滑らし、地面に落ちて泥だらけになってしまった。ジャンヌが呆れて、
「何やってるの! 馬車を走らせたこと、あるの?」
「だって僕は――司祭の息子なんだ」
と、アンリがやっと立ち上がる。
「私がやるわ!」
「ジャンヌ――」
「私はね、農家の娘。馬車なんか毎日乗ってたのよ」
ジャンヌはカツラを取って投げ捨てると、ドレスを脱ぎ出した。アンリが焦って、
「おい、そんな格好で……」
「何よ! 命の方が大切でしょ!」
ドレスを脱いでも、その下に何重にも肌着をつけている。ジャンヌは馬車の中にあった毛布をまとうと、御者台に上がった。
「行くわよ!」
「待ってくれ!」
アンリがあわてて馬車に乗り込む。
「行け!」
ジャンヌが手綱を取って声をかける。
馬車は厩の戸を押し開けて、夜の闇へと走り出した。
「どっちへ行けばいいの!」
と、ジャンヌが怒鳴った。
「知らないよ!」
アンリは怒鳴り返したが、
「ともかく、宮殿から離れるんだ!」
「じゃ、こっちね! ヤア!」
ジャンヌだって、馬車を猛スピードで走らせたことはない。しかし、必死の思いが馬にも伝わったのか、馬車はほとんど飛ぶような勢いで――もちろん、ジャンヌの感覚からすれば、だが――木立の間の道を突っ走って行った。
しかし――馬車の中にいたアンリは、突然自分だけが「乗客」でないことに気付いた。
「誰だ!」
座席にうずくまって、毛布をかぶっていたので、暗い中では気付かなかったのである。
「お前こそ誰だ?」
と、毛布の下から現れたのは、鋭い目つきの初老の男だった。
「僕は宮殿の従者だ」
「そうか。馬車を走らせているのは女か?」
「ああ。あんたは――」
「同じ方向へ行く者さ。つまり、群衆から逃げる」
「貴族か? そんな格好でもないけど」
「逃げるには色々理由がある。ともかくこのまま突っ走れ!」
ジャンヌは馬車の中から聞こえて来る声に気付いて、速度を緩めると、
「アンリ、誰と話してるの?」
と、声をかけた。
「もう一人、客がいたんだよ」
「誰なの?」
「その声には聞き覚えがあるぞ」
と、男は言った。
「もしかしてジャンヌか? 王妃の身替わりの」
「あなたは?」
「分からないか?」
少しして、ジャンヌは息を吞んだ。
「あなた――クーシェね! 秘密警察の長官の」
「その通り。君らと同様、革命とやらに熱中している連中に見付かったら殺される身だ。さあ、馬車を飛ばせ」
「クーシェだって?」
アンリが青ざめた。
「あの――悪逆非道な秘密警察の?」
「今はただの逃亡者だ」
と、クーシェは言った。
「君らも生きのびたいんだろう? それなら私の言う通りにすることだ。私はいつかこんなこともあろうかと思って、隠れ家を用意してある」
「人がいる!」
と、ジャンヌは言った。
行く手に、明るく火をたいて、人々が集まっている。クーシェは窓から顔を出して前方を覗くと、
「まずい! おい、脇道へ入れ!」
「道なんかないわよ!」
人々が馬車に気付いた。
「止まれ!」
と、前をふさぐ。
「止まるな!」
と、クーシェが怒鳴った。
「止まったらおしまいだ! 殺されるぞ!」
ジャンヌは馬にムチを当てた。馬車が人々を押しのけて突っ走った。
「追いかけろ!」
「逃がすな!」
という群衆の声が背後に聞こえる。
ジャンヌは必死で馬車を走らせたが――。
「キャッ!」
と叫び声を上げた。
暗い夜の中、馬車は道を外れて、林の中へ突っ込んでいた。
「どこへ行くんだ!」
「知らないわよ!」
馬車が大きく跳びはねた。そして――気が付くと、目の前から地面が消えていた。
馬車は、崖から空中へと飛び出し、遙か下の湖面へと落ちて行った。
そして、馬ごと水へと突っ込んだのだ……。
【つづく】