吸血鬼と真夜中の散歩者 第五回
契約
〈また心臓を奪われる!〉
〈三度めの犯行! 一千万円の支払いは〉
新聞の見出しを眺めて、クロロックは、
「困ったものだな」
と、ため息をついた。
「もう、これで三人も殺されたんだね」
と、エリカは言った。
沼田栄の父親、そして大学のサッカー部員に続いて、早朝マラソンの習慣のあった中年男性が心臓を奪われた。
その家族にも一千万円が届けられていた。
「お父さん、何か思い当たること、ないの?」
と、エリカに訊かれて、クロロックは、
「全くないこともない」
と、答えた。
クロロックは、沼田の通夜に行って、実際の死体を見ているのだ。
「――どうして五月に会いたいの?」
と、エリカは訊いた。
エリカとクロロックは、大学へやって来ていた。
昼休みが終わって、午後の講義が始まるので、学生たちが足早に、それぞれの学部棟へと向かって行く。
「あ、エリカさん」
と、五月がちょうど学食から出て来て、
「そちらが……」
「エリカの父、クロロックと申す」
「どうも。――私、これから講義で」
「それは万年筆かな?」
クロロックは、五月がバッグへしまおうとしているのを目にとめて、
「なかなか珍しい型のものだ」
「よく分かりますね! これは、夫に頼んで作らせてもらったんです」
と、五月は嬉しそうに、
「特別な手作りなんですよ」
「そうなの?」
と、エリカが言った。
「ええ。――私が喜多川の所に行くことになったとき、私、契約書にサインしたのね。そのとき、間に入った男の人が、私に万年筆を渡したの。それが何だか忘れられなくて、夫に頼んで、有名な職人さんの手作りで……」
「ちょっと見せてもらえるかね?」
と、クロロックが言った。
「ええ、もちろん。どうぞ」
クロロックは、木を削って作られたその万年筆を感心した風に見ていたが、キャップを外して、
「――ペン先が少し曲がっているね。君の書きぐせなのかな?」
「目がいいんですね! そうなんです。万年筆が好きなのに、うまい字が書けないの」
と、五月はちょっと笑った。
「――いや、ありがとう。いい物を見せてもらった。講義に遅れては申し訳ない」
「大丈夫です。少しぐらい」
「そうね。五月は真面目な学生で有名だもの」
「それじゃ私――」
と行きかけて、五月はピタリと足を止めると、大きく目を見開いて、
「まあ……友田さんだわ」
「知り合い?」
背広姿のその男性は、せかせかと校門へと歩いていたが、五月と目が合うと、一瞬当惑したように、
「どこかで……」
「忘れたの? 私に万年筆でサインさせた――」
「ああ! そうか。いや失礼しました。喜多川様の奥さんですね」
友田と名のった男は、少しわざとらしい口調で言った。
「大学にご用だったの?」
「大学の仕事も少しやっていてね」
と、友田は曖昧に言った。
「ここの大学生を、どこかに売り込んでるの?」
「そんなことは……。人聞きが悪いですよ」
友田は苦笑して、
「では、先を急ぎますので、これで」
と、足早に行ってしまった。
五月も講義に出るので立ち去ると、エリカは、
「お父さん、あの友田って人に何かしたでしょ」
と言った。
「大したことはしとらん。ちょっと注意をそらしてもらっただけだ」
クロロックはそう言うと、手にした万年筆を見せた。
「お父さん、いつから吸血鬼がスリになったの?」
「こんなものは、ちょっとした指の訓練でできる。――ともかく、この万年筆の書き心地を試してみたい」
と、クロロックは言った。
その女の子は若さとエネルギーに溢れていた。
「食べ過ぎた! 苦しい!」
と、フウッと息をついて、公園のベンチに腰をおろしていた。
まだ真夜中というほど遅い時間ではなかったが、もともと人通りの少ない道で、今も周囲に誰もいなかった。
「でもね……。おいしいものは食べずにいられない。そうよ! 食べる私が悪いんじゃない。おいしい食べ物が悪いんだわ」
すると、
「その通りだ」
と、声がして、黒ずくめの人影がいつの間にか彼女の前に立っていた。
「――何かご用?」
「腹ごなしに、ちょっと散歩しないかね?」
と、男は言った。
「散歩? ――うーん、してもいいけど……」
「何か気になるかな?」
「腹こなしちゃうと、また何か食べたくなるかもしれない」
「頼もしいね」
と、男は笑って、
「よし。腹が空いたら、何でも君の欲しいものをおごろう」
「おっさん、話分かるじゃない!」
と、女の子は立ち上がって、
「でも、この時間に、開いてるお店、ある?」
「見付けてみせるよ。さあ、行こう」
二人は腕を組んで、夜道を歩き出した。
少し行くと、男は足を止め、
「この先は車で行こう。ちょっと遠いからね」
「車で? それじゃ腹ごなしにならないよ」
「いいさ。私が用のあるのは、君のその頑丈な心臓だ」
と言うと、男は薬をしみ込ませた布をポケットから取り出して、女の子の顔へ押し当てた。
女の子はアッという間に気を失う――かと思えば、
「おっさん、この香水、何? いい香りだね」
女の子に言われて、男は焦った。
「こんな……こんなはずはない!」
と、口走ったが――。
「失礼ながら、君のハンカチは、ちょっとすらせてもらった」
「誰だ!」
「もう見忘れたかね?」
と、クロロックは言った。
「みどり、ご苦労さま」
エリカも現れると、その男を突き放したみどりが、
「うまくやった? じゃ、すき焼き二人前で」
エリカが男の黒い衣裳をバッとはぎ取る。
「友田さん、でしたね」
「心臓を取られた人間の家族にあてた手紙は万年筆で書かれていた」
と、クロロックは言った。
「その線には、ペン先のくせが現れていた。あの五月という子と同じくせだ。君の万年筆を使って、契約書にサインしたと五月君も言っておったからな」
「だから何だ! 私はただこの子と散歩しようと誘っただけだ!」
友田は言い返したが、焦りの色が隠せなかった。
「人の臓器を売買するとは、許されることではないぞ」
「吸血鬼だって、血を吸うだけだよ」
と、みどりが言った。
「――金だ」
と、友田は目を伏せて、
「金が必要だったんだ」
「だからって――」
「それも大金が。丈夫な心臓は外国の大金持ちに何千万もの金額で売れる……」
友田はぐったりと体の力が抜けたようにその場に座り込んでしまった。
「どうして金が必要だったか知らんが、そのために人の命を奪うことは――」
と、クロロックが言いかけると、
「おしまいだ!」
と叫んで、友田は突然立ち上がって駆け出した。
「待て! やめろ!」
クロロックが呼びかけたときには、友田は車の通る広い道へと飛び出していた。そしてそこへ走って来た大型トラックの前に――。
【つづく】