吸血鬼と真夜中の散歩者 第四回
再会と再会
五月は迷っていた。
神代エリカから渡された、ケータイ番号のメモをじっと眺めて、何度か自分のケータイを手に取った。
でも――母が出たとして、何と言えばいいのだろう?
恨みごと? それとも冷たく、
「連絡して来ないで」
と言ってやるか。
どちらにしても、どう言えばいいか、覚悟を決めておかなくてはならない。
心を決めかねていると、
「おい、五月」
と、喜多川の声がした。
広い屋敷なので、各部屋にインタホンが取り付けてあり、主が呼べば、全部の部屋に流れる。
五月は自分の部屋のテーブルに置かれたインタホンへ、
「はい、あなた」
と答えた。
「風呂へ入る。背中を流してくれ」
と、喜多川は言った。
「はい、すぐに」
五月は、母に連絡するかどうか、決めるのを先に延ばして、むしろホッとした。
――大理石の広いバスルームに入ると、五月は喜多川を待った。
五分としない内に、喜多川はやって来て、五月が裸の上にバスローブだけをはおっているのを見て満足そうに肯いた。
「入ろう。――お前と入るのは久しぶりだな」
「ええ、あなた」
五月はバスローブをはおったまま、バスタブの前の洗い場で、喜多川の背中を流し始めた。
もちろん、バスローブもどんどんお湯を吸って重くなる。
「――もういい」
喜多川は振り向いて、
「湯へ入ろう」
と、立ち上がると、五月の濡れたバスローブを脱がせた。
この瞬間が楽しいようで、喜多川は微笑むと、
「若い体は滑らかだな」
と言って、五月と二人で大きなバスタブに身を沈めた。
「私は今七十歳だ。――いつまで生きていられるかな」
「お元気ですもの。私より長生きかも」
「それはないだろう」
と、喜多川は笑って、
「しかし、いつか私が死ねば、お前は若い男と再婚するだろうな。それを思うと、簡単には死ねん」
五月は、その喜多川の言葉に、冗談とは思えない響きを聞き取った。
「あなた。――どこかお悪いんですか?」
と、五月は訊いた。
「いや、別に」
と、喜多川はさりげなく首を振って、
「いつもの入浴剤を入れてくれ」
「はい」
五月は手を伸ばして、輸入品の高級な入浴剤のボトルを取ると、お湯の中に粉末を入れた。お湯が淡いピンクに染まり、花の香りがする。
喜多川のお気に入りで、確かに風呂から上がっても、体の内側から温かさが残るような気がする。
「気持ちがいい。――お前と入る気分は格別だな」
と言って、喜多川は心地良さげに目を閉じた……。
その真新しい病院の前には、ゆったりとした広場ができていた。
日射しが暖かく、病院へ来たわけではない親子連れも散歩したり、駆け回ったりしている。
五月は、その広場を見渡せるベンチに腰をおろしていた。
もちろん、白衣の医師や看護師も広場を通って行く。
「どうも、院長先生」
という声が聞こえて、五月はその方を振り向いた。そして――。
「お母さん……」
スーツ姿の母、佐和が、ベンチの方へやって来た。では……。
「――お母さん、この病院の院長なの?」
五月は真っ先にそう訊いていた。
「ええ」
と、佐和は肯いて、
「この〈K病院〉は、金山が建てたの。でも、去年、金山が病気で倒れてね。私が院長になったのよ」
そう言うと、佐和はベンチに五月と並んで腰をおろした。
「五月。――ごめんなさい」
と、目を伏せて、
「後のことはつい最近まで知らなかった。あの人がそんなひどいことを……」
「おばあちゃんは亡くなったよ。最後は高級な施設に入れられたけど、もう私のことも全く分かってなかった」
「何も知らなかった。――あなたは、それで今……」
「私、凄くぜいたくな暮らしをしてるよ。大学にも通ってる。今は喜多川五月」
「そんなことになってるなんて……。それで、喜多川さんはやさしくしてくれるの?」
「まあね。でも――七十だから、話が合わない。音楽の好みとかね」
五月は冗談めかして言った。
「許してほしいとは言わないわ。恨まれても当然ですものね」
と、佐和は言った。
「私は――自分の気持ちがよく分かんない。もう今の生活も三年目で、諦めてるというか、慣れちゃったというか……」
「そんなわけ、ないわよね。まだ十八なのに、あなたは」
と、佐和が言うと、
「あの……」
と、声をかけて来た女性がいる。
「何か?」
「病院の方ですか? 産婦人科はどこへ行けば……」
お腹が大分大きくなった女性である。
「そこの玄関を入れば、案内のカウンターがありますよ」
「そうですか。すみません」
「いえ、お大事に」
その女性がホッとしたように歩いて行く。
そして、待っていた男性を促して、病院の玄関を入って行ったが……。
「――お父さんだ」
と、五月が言った。
「え?」
「今、あの女の人と一緒に……。あれ、お父さんだよ」
「まさか……」
五月も、自分の目が信じられない思いだったが、
「でも――本当だよ」
佐和が立ち上がって、
「見に行きましょう」
と言った。
――〈案内カウンター〉の女性の一人に、産婦人科の場所を訊いている男女。
「そのエレベーターで三階へお上がりになると――」
と、案内の女性が言いかけたところへ、
「いいわ。私がご案内するから」
と、佐和が言った。
「はい、院長先生」
振り向いた男女が、佐和を見て、
「まあ、院長さんでいらしたんですか」
「わざわざそんな――」
と言いかけた男性、藤野広士が、愕然として佐和を見つめた。
それだけではない。佐和の後ろに立っている五月にも気付いて、ただ呆然としている。
「ご案内しますわ。こちらへどうぞ」
妊婦の方は、藤野の様子に一向に気付かず、
「恐れ入ります」
と、佐和について行く。
藤野が、あわててその後に続いた。
エレベーターには他に何人も乗っていた。
藤野はどうしていいか分からない様子だったが、三階でエレベーターを降りると、佐和が
「初診ですね?」
と、確認し、
「そちらへ行って、お名前など記入してから、椅子にかけてお待ち下さい」
「ありがとうございます! あなた、一緒に書いてよ」
「ああ……」
藤野は彼女と一緒に〈初診受付〉に並んだ。
「――何てふしぎなことでしょ」
と、佐和が呟いた。
「本当だね」
「あの女の人が……」
「私は会ったことないもの。でも、たぶんお父さんと一緒だった人でしょ」
と、五月は言った。
必要な書類に記入すると、その女性を長椅子に座らせて、藤野は二人の方へやって来た。
そして――三人とも、しばらく言葉がなかった。やっと藤野が咳払いして、
「頼む。今は……。少し待ってくれ。逃げも隠れもしない」
と言って、拝むように手を合わせた。
五月はごく自然に、母と目を合わせていた。
「女の人のお腹の子は、あなたの?」
と、佐和が訊いた。
「――そうだ」
と、藤野は肯いて、
「のぞみというんだ。今、三十八で、どうしても子どもが欲しいと言って……。俺は気が進まなかったが」
佐和は、長椅子で、渡された注意書を熱心に読んでいるその女性を見ていたが、
「――妊娠中の女性は、精神的に不安定になりがちよ」
と、藤野へ言った。
「今は何も言わないわ。あの人の体を第一に考えてね」
「すまん」
と、藤野は言ってから、五月の方を見て、
「すっかり大人っぽくなったな。元気そうだ」
「そりゃ、お金持ちの奥さんだからね」
と、五月は言った。
「いいもの食べて、楽してるよ。お父さん向きの生活だね」
その痛烈な皮肉は、藤野の胸に刺さったようだった。
「お前にも本当に謝らないと――」
「もういいから。落ちついたら連絡して」
五月はケータイ番号の入った名刺を、父に渡した。
「必ず連絡する。悪いな」
佐和は、
「行きましょう」
と、五月を促した。
「うん」
五月は母について行こうとして、藤野の方を振り向くと、
「子供は男? 女?」
「え……。ああ……女の子だ」
「そう」
五月は肯くと、言った。
「その子は売らないでね」
「ビールでも、ウイスキーでも持って来い! いくらだって飲んでやるぞ!」
辺りかまわず、大声を上げているのは、大学のサッカーチームの選手。
ライバル大学との一戦に勝って、全員が夜の町にくり出した。
そして、もう午前三時。
さすがに最後まで飲んでいたのは数人で、それも外へ出るとバラバラになって、その一人が、静かな公園で喚いているのだった。
「おい……」
ベンチで寝ていた「先客」が、
「でかい声出すなよ。眠れないじゃねえか」
と、文句をつけたが、
「何だ? 俺を誰だか知らねえな? 天下のN大サッカー部だぞ!」
と、ますます調子に乗ってくる。
「勝手に騒いでろ」
と、先客の方は閉口して他のベンチを捜して行ってしまった。
しかし――公園そのものがあまり広くないので、他のベンチが見付からず、仕方なく戻ろうとして……。
あの大声の主がベンチで寝ているのを見て舌打ちした。
あのまま眠ってしまったら、どうしたって起きないだろう。
すると、黒い人影が、どこからともなく現れて、その大学生に、
「元気そうだな」
と、声をかけたのである。
「元気? 当たり前だ! 天下のN大サッカー部だぞ!」
「それはいい。さぞ心臓も丈夫だろう」
と、黒い人影が言った。
「少し酔いざましに散歩しないかね?」
「散歩? どこへ行くんだ?」
「いい場所がある。飲み直そうじゃないか」
「本当か? そいつは結構だね。おごってくれるのか?」
「もちろんだ。ワインでもどうだ? いい年代物が入っている」
「付き合うよ」
と、大学生はベンチから立ち上がると、
「俺はね、今日の試合で2得点もあげたんだぞ……」
「それは大したものだ」
その人影は、大学生の肩に手をかけると、
「では、少し歩こう……」
と言って、公園から出て行く。
ベンチが空いて、「先客」は茂みのかげから出て来ると、喜んでベンチに寝転んだ。
何だか――少し遠い所で、叫び声がしたようだったが、まるで気にならず、すぐに寝入ってしまったのだった……。
【つづく】