吸血鬼と真夜中の散歩者 第三回
生死
「凄い」
と、素直に感想を述べたのはみどりだった。
もちろん、エリカも「大した屋敷だわ」とは思っていた。
しかし、何といっても、父クロロックはトランシルヴァニアの「城主」だったわけで、確かにこの大邸宅も広くて立派だが、何百年もの歴史を刻んだ本物の古城とは「格の違い」があるのだ。
「いらっしゃい!」
広い玄関ロビーへ出迎えてくれたのは、もちろん五月である。
「図々しくやって来たわよ」
と、エリカは言った。
ここは五月の夫、喜多川右近の邸宅である。
「――ゆっくりしていってね」
広々とした居間で、五月はエリカとみどり、千代子を迎えて、早速お手伝いさんが二人、ケーキとコーヒーを出してくれる。
みどりはケーキにフォークを使いながら、
「迷子にならない?」
と訊いた。
五月はちょっと笑って、
「来たばかりのころは、結構迷いましたよ」
「木の香りとか、新しそうね」
と、千代子が言った。
「ええ。ここは私がもらわれて来てから、一年かけて建てたの」
「へえ……」
みどりが目を丸くして、
「五月のために?」
「もちろんだとも」
と、声がして、いつの間にか白髪の老紳士が立っていた。
「ようこそ。五月のお友達は大歓迎だ」
「神代エリカといいます」
「ああ、聞いている。ヨーロッパ生まれのお父上がおいでとか」
「はあ。トランシルヴァニアの出身で」
五月が、三人を紹介すると、
「夕食も一緒に。いいでしょ、あなた?」
十八歳の五月が、七十は過ぎていようという喜多川を「あなた」と呼ぶのは何だか妙だったが、
「もちろんだとも。では〈R〉のシェフを呼んで作らせればいい。私から連絡しておく」
「ありがとう、あなた」
「私は色々仕事がたまっておるので、失礼するが、どうぞゆっくりしていって下さい。五月も友人が少なくて寂しがっているのでね」
そう言って、喜多川は居間を出て行った。
「――何だか変でしょ。私が『あなた』って呼ぶの」
と、五月が少し恥ずかしそうに言った。
「でも――まあ、夫婦ですものね」
と、エリカは言った。
「ええ。『あなたと呼べ』って、ここに来た日に言われたの」
それは他人の口を出すことではないだろうが……。
大学のことや、教授たちの話など、あれこれ話した後、エリカは、
「五月さん、ちょっと二人だけで話したいことがあるの」
と言った。
「私はもちろん構いませんけど……」
少し戸惑っている様子の五月は、居間の隣にある応接間にエリカを連れて行った。
「――あの二人は、色々変わったことに慣れてるから大丈夫」
と、エリカは言って、ソファに座り直すと、
「実はね、つい数日前、あなたのお母さんだという人に会ったの」
「え?」
五月は唖然として、
「母に、ですか?」
「お母さんの名前は〈佐和〉さんとおっしゃるの?」
「そうです」
「今、〈金山佐和〉というお名前で――」
エリカはケータイを取り出して、あの女性と一緒に撮った写真を五月に見せた。
「――本当だ! お母さん!」
「間違いない?」
「ええ。――いなくなったのは私が十四歳のときだから、ちゃんと憶えてる。でも――てっきり死んだとばかり……」
「崖から海に飛び込んだんですってね」
「そうです。崖の上には母の靴が、きちんと揃えてあって……。どこかへ流されてしまったとばかり……」
「それが、お話ではヨットに乗っていた人に助けられて、危なかったけれど、命は取り止めたそうよ」
「それじゃ、私たちのことを見捨てて……」
「一度は死んだと思って、新しい生活をやり直そうと決心されたそうなの。そのヨットの人は金山さんといって、大きな病院の院長さんだった。佐和さんは回復すると、その病院で働くことになり、その内、金山さんと結婚することに……」
「そんな勝手なこと!」
と、五月は叫ぶように言った。
「私もおばあちゃんも大変だったのに」
「それは申し訳なく思っておられるようだったわ。あなたのことを調べて、今の大学に入っていると知って……」
「でも――どうして私に会いに来ないの? すまないと思ってるのなら……」
五月は何とか怒りを抑えているようだった。エリカは、メモをテーブルに置いて、
「佐和さんのケータイ番号。電話してほしい、と言っておられたわ」
五月は、しばらくそのメモをじっと見ていたが、
「――分かりました」
と言うと、メモを手に取って、二つにたたんだ。
「一応もらっておく。でも、かけるかどうか分からない」
「それはあなたが決めて」
「はい」
五月は笑顔になって、
「夕ご飯、楽しみにしてね。きっとおいしいわ」
「みどりが舌なめずりしてるわ、きっと」
と、エリカは言った。
「凄かった!」
エリカは帰宅すると、「ただいま」と言うより早く、そう言っていた。
「わざわざ一流フレンチレストランのシェフを呼んで、こしらえてもらったのよ、夕ご飯。ああいうお金持ちは、考えることが普通じゃないね!」
と、居間へ入ると……。
何だか重苦しい空気になっていた。
「ごめんなさい。お客様と知らなくて」
と、エリカは言って、ソファに座っている女の子を見ると、
「あら……。あなた、栄ちゃんでしょ」
「どうも……」
エリカが大学の文化祭の展示を担当したとき、貴重な資料が〈T女子学園〉にしかないと分かり借りに行った。そのとき、資料捜しを手伝ってくれたのが高校生の沼田栄だったのである。
「どうかしたの?」
エリカがコートを脱いでソファにかけると、難しい顔で腕組みしていたクロロックが言った。
「お前もニュースで見ただろう。心臓を奪われて死んだ男性のことを」
「ああ、ひどい話よね」
と、エリカは言って、栄が涙ぐむのを見ると、
「もしかして……」
「ええ。殺されたの、父なんです」
と、栄は言った。
「母は寝込んじゃって。ショックで」
「そりゃそうよね」
――エリカもニュースで、四十八歳の男性が心臓を奪われて死に、家族の下に小切手で〈代金〉が払われたということは知っていた。ただ被害男性の名前は公にされていなかったのだ。
「――一千万円?」
話を聞いて、エリカはびっくりしたが、
「人一人の命でしょ。大体、そんなの殺人よね」
「でも……お父さん、自分も承知したって遺書を……」
「まさか!」
「ずっと勤めてた生命保険会社をリストラされてたんです。それで絶望してたのかも……」
「だからって……」
「人の弱い心につけ込んだのだろうな」
と、クロロックは言った。
「卑劣なやり方だ。健康な心臓なら、いくら出しても買うという金持ちが、あちこちにいるというからな」
「でも、そんなお金、受け取れません」
と、栄が訴えるように言った。
「当然よね」
「だけど……どこで調べたのか、お父さんの名前も、うちの住所もSNSに出てしまって。〈一千万円で親を売ったのか〉とか、〈よほど家で嫌われてたんだな〉なんて投稿が……。お母さん、それで参っちゃって」
「被害者をさらに痛めつけて喜ぶという、いやな世の中になったものだ」
と、クロロックはため息をついた。
「私たちで何か役に立てる?」
と、エリカが訊いた。
「ちょっと待て」
と、クロロックが言った。
「お父さんの遺体は今どうなっている?」
「あの――検死が終わって、やっと戻って来ました。今夜が通夜で、明日告別式を――」
「そうか。では我々もお邪魔するとしよう」
エリカには父の考えていることが分かった。
吸血族の一人として、クロロックは人間とは全くレベルの違う耳や鼻を持っているのだ。
沼田恒夫の死体を直接見れば、何か犯人の手がかりが得られるかもしれない。
「ありがとうございます」
と、栄は涙ぐんで、
「エリカさんに相談したら、何か分かるかもしれないと……」
「少しでも早い方がいいな」
と、クロロックは肯いて、
「幸い、私のマントは黒だしな」
【つづく】