吸血鬼と真夜中の散歩者 第二回
失踪
「今どき、そんなことがあるのか」
と、フォン・クロロックが朝食をとりながら言った。
「ねえ、借金があるからって、身売りなんてひどい話ね」
と、涼子が虎ノ介に、
「はい、アーンして」
と、シリアルを食べさせているが、
「ワオ! ワオ!」
と、虎ちゃんは不満らしい。
「もっと普通のものを食べさせていいんじゃないの?」
と、エリカが言うと、
「そう! そうよね! さすがはエリカさんだわ。よく言ってくれた」
エリカより一つ年下の母親涼子は、そう言うと、
「じゃ、これから虎ちゃんのご飯はエリカさんが作ってね」
と、ニッコリ笑った。
「私、そういうつもりで言ったんじゃ……」
と、エリカは抗議しようとしたが、やめた。
間に立って、父、クロロックが困るのが分かっていたからである。
何百年も生きて来た本物の吸血族、クロロックも、若い後妻、涼子には逆らえないのだ……。
「それで、どうしてその子は父親を殺すとか言っとるんだ?」
クロロックが話題を戻した。
「うん。お父さんの借金を払ってくれるっていうんで、五月さんは喜多川右近に買われたってわけ。それでお父さんは心を入れかえて真面目に働いてるとばっかり思ってたら、一年ぐらいして連絡が取れなくなって……」
「私、故郷の家へ行ってみたの」
と、五月は言った。
「そしたら、家は跡形もなくて、父もどこへ行ったか分からなかった」
「どういうこと?」
「調べてみて分かった。父は私を売ったお金が入ると、お祖母さんを施設へ入れて、家と土地を売り払ったの。そして自分は、元から関係のあった女の人と、どこかへ姿をくらましちゃった」
「ひどい話ね」
と、聞いていたみどりも、さすがにケーキを食べる手を止めて言った。
「初めからそのつもりだったのよ。私をあの老人の所へやって、できるだけ高く売ろうと……」
「喜多川さんはそのことを……」
「詳しいことは知らないでしょ。私のことは、修学旅行で私が東京に行ったとき、見かけてたんですって。秘書に私のこと調べさせて、お金に困ってると分かったので……」
「それにしたって、いくらお金持ちでも、女の子を買うなんて、許されないわ」
と、エリカは言った。
「でも――私はもう三年近くも喜多川の所で暮らしてるし、十八になったとき、正式に入籍した。もうあそこにいるしか……。一度遊びに来てちょうだい、三人で」
「行く!」
と、みどりはすっかりその気。
「今の内に来てくれないと」
と、五月は微笑んで、
「父を見付けたら殺してやろうと決めてるから」
「――なるほど」
クロロックは肯いて、
「それは確かに、殺したくなるのも分かるというものだな」
「ねえ。ひどい父親もいるものね」
「こんなにいいお父さんもいるのにね」
と、涼子が言うと、クロロック、
「それは特別よくできた奥さんがいるからだ!」
と、妻を抱き寄せてキスした。
エリカはため息をついた。――玄関のチャイムが鳴って、立って行くと、
「――神代エリカさんですか?」
インタホンの映像に映っているのは、スーツ姿の中年女性だった。
「そうですが……」
「伺いたいことがありまして」
虎ちゃんの朝食中の所へ上がって来てもらっても……。
エリカは自分がマンションのロビーへ下りて行くことにした。
「突然申し訳ありません」
上等なスーツの、仕事のできそうな女性である。四十代だろう。
「私、こういう者です」
渡された名刺には、〈金山佐和〉とあった。
エリカは、
「お医者様ですか?」
「いえ、〈K病院〉の経営をしています」
「はあ。それで……」
「今、同じ大学に、藤野五月という子が通っていませんか」
「藤野――ですか?」
「大学で一緒に話をしておられたと聞きまして」
「ああ! 五月さんのことですね」
元は藤野というのだった。
「ご存じですか」
「知り合ったばかりですが。あなたは……」
その女性は顔を赤く染めて言った。
「私は五月の母親です」
今の大都会は、夜中でも本当に真っ暗になることはない。
夜中に仕事をしている人間も珍しくないのだ。
「ああ……。やれやれ」
と、公園のベンチに腰をおろしてため息をついた中年男。
沼田恒夫は四十八歳。本来なら、そうくたびれ切っている年齢ではないが。
「何もすることのない時間は長いよ……」
と、缶ビールを飲みながら呟く。
することがなければ、家へ帰ればいいようなものだが、沼田の場合、そうはいかない事情があるのだった。
沼田は〈S生命〉という、生命保険会社としては中堅どころの企業の社員だった。過去形で言わなければならないのは、沼田が二週間前、〈S生命〉をクビになっていたからである。
〈リストラ〉と言えば聞こえはいいが、会社を追い出されることに変わりはない。
しかし、四十八歳の沼田には、三つ年下の妻も、十八歳の女の子もいる。来年には大学である。
私立で、高校からそのまま大学へ上がれるのだが……。入学金は取られる。内部生だからといって、割引はない。
「暮れのボーナスで何とかなるだろう」
と、楽観していたのだが、突然のリストラ通告。
妻と娘にどう言えばいい?
沼田は当然のことながら、もう出社していないのだが、毎日、以前のように朝早く家を出て、夜遅く帰るということを続けているのである。
しかし、いつまでもこうしているわけにはいかない。次の仕事を探すか……。
沼田はすっかり「やる気」を失っていた。――どうにでもなれ、という気分である。
「歩こう」
突然そういう声がして、沼田はびっくりした。
いつの間にか、目の前に黒いコートを着て帽子を真深にかぶった男が立っていたのである。
「――何です?」
と、沼田が言うと、
「することがないのだろう」
「そりゃまあ……。大きなお世話ですよ」
と、口を尖らす。
「歩こう」
と、男はくり返した。
「歩くって……。どこへ行くんですか?」
「歩けば分かる。――もっといいことが待っているよ」
何だか分からなかったが、沼田は自分でも気が付かない内に立ち上がっていた。
「散歩はいいものだ」
「はあ……」
「付き合ってくれたまえ。――決して損はないよ……」
「いいですよ。どうせすることもないし……」
沼田はその黒ずくめの男と並んで、暗い夜の中を歩いて行った……。
「何かしら……」
と、沼田洋子は欠伸をして起き出して来た。
「おはよう」
と、キッチンでトーストを食べているのは娘の栄。
「お父さん、どうしたの?」
「え?」
「帰ってないんじゃない? 私、起きたときも、いなかったよ」
「まあ……。そうなの?」
妻の洋子は、このところいくら眠っても寝足りない気分。四十五歳という年齢からくる体の変調期でもあるのかもしれない。
「栄、あなた、お弁当は……」
「いいよ。今から作れないでしょ」
高校三年生の栄は、母親が具合悪くなって、自分がご飯の仕度をしなくてはいけなくなっては困る、と心配していた。
「でも、変ね。あの人、どんなに遅くても帰らないことはないのに」
と、洋子は首をかしげた。
「でも、このところ、お父さん、様子がおかしいよね」
と、栄がコーヒーを飲みながら言った。
「そう?」
「友達のママがね、昼間お父さんが公園にいるのを見たって」
「公園に? まさか。人違いでしょ」
「でも、お父さんと父母会で一緒だったって。どう見てもお父さんだったってよ」
「変ね。そんなこと……」
「お父さん、あれじゃないの? リストラ」
「ちょっと! 怖いこと言わないで」
と、洋子が目を見開いて、
「あ、そうだ。玄関で音がしたの。何かしらって思ったんだけど……」
洋子が玄関へ出て行く。
栄は、母が気付いていなくても、父親からすっかり生気が失せていると感じていた。
本当にリストラだったら……。
「いやだな。来年大学なのに」
と、栄は呟いた。
ふと気が付くと、母がすぐそこに立っている。
「何だったの?」
と、栄が訊いても、洋子はボーッとしているばかり。
「何、それ? 手紙?」
洋子の手から封筒と手紙らしいものが落ちた。栄はそれを拾って――。
「封筒にまだ何か入ってるよ」
と、取り出してみて目を丸くした。
「これ――小切手だ! ――一千万円!」
栄は手紙を手に取った。
〈沼田恒夫様より、心臓一つ、確かにちょうだいいたしました。代金一千万円を同封します〉
「これって……。お母さん!」
洋子が気を失って倒れた。
【つづく】