吸血鬼と真夜中の散歩者 第一回
署名
「いいんだね」
と、その男は念を押すように言った。
五月は、少しためらったものの、どうすることもできないのはよく分かっていた。ゆっくり肯くまで、十秒とはかからなかった。
「よし、じゃ、ここに署名して」
と、男は折りたたんであった紙を押し広げると、万年筆を取り出して、キャップを外した。
男が差し出した万年筆を、五月は受け取るよりも珍しげに眺めていたので、
「どうしたんだ?」
「あ……。すみません」
と、五月は万年筆を受け取って、
「あんまり万年筆って見かけないので」
男はちょっと面食らった様子だったが、やがて笑った。
「確かにね。だけど、俺は万年筆が好きなんだよ。さ、そこに名前を」
「はい」
使い慣れていないせいで、何だか字の形が悪くなってしまったが、書き直すというわけにはいかないだろう。
〈藤野五月〉という文字が、自分の名前でないように見える。そんなわけはないのに……。
「これでよし、と」
男は万年筆にキャップをはめてポケットに入れた。そして、部屋の隅の方に座っている髪の白くなった男の方へ向いて、
「明日には、あんたの口座に間違いなく金が振り込まれる。信じてくれていい」
といった。
「よろしくお願いします……」
ボソボソと呟くようにいった後で、
「この子はどうすれば……」
「今日、俺と一緒に東京へ行ってもらう」
と、男は言った。
「心配はいらないよ。東京に行きゃ、借金取りに怯えることもない。のんびりした暮らしが待ってる」
「はあ。――どうぞよろしく」
五月は父親を見て、
「お父さん。お金入っても、もう賭けごとに使っちゃだめだよ」
と、言い含めるように言った。
「ああ。分かってるとも」
藤野広士は、娘から目をそらしながら、
「まあ……体に気を付けろ」
五月は立ち上がると、奥から、すっかり古ぼけた布のバッグを持って来て、
「いつでも、大丈夫です」
と言った。
「そうか。じゃ、早いとこ出た方が、東京に着くのが夜中にならなくてすむ」
男はそう言って立つと、さっさと玄関へ出て行った。
男について表に出た五月は、築八十年の古びた農家の庭に、まるで似つかわしくない、大きなリムジンの真っ白な車体を見て、びっくりして足を止めた。
「この車……」
「これで東京まで行く」
と、男は言った。
運転手は紺の制服に白手袋をはめて、五月の古バッグを受け取ると、
「トランクに入れておきます」
と言った。
「何かお入り用の物があったら、車を停めますので、おっしゃって下さい」
「どうも……」
五月は、他人から――それも十六歳の五月から見ればずっと「大人」から、そんなていねいな言葉を初めてかけられた。
車に乗った五月は、座席がまるで家の中の居間のように向かい合わせになっていることにびっくりした。車体が長いのはこのせいだったのか。
「――ゆっくり座っていなさい」
と、男が言った。
「あの……」
「私は前の方の席に座っている。何か用があれば、そこの小窓を開けて声をかければいい。では――たぶん、五時間くらいかかるだろう。眠かったら、横になって寝るといい」
「はい……」
ドアが閉まる。そして、車はいつの間にか走り出していた。
滑るような乗り心地だ。五月にとって、車とは伯父さんの小型トラックのことだったから、この大きな車はまるで別の乗り物に思えた。
でも――この先には何が待っているのだろう?
全く想像がつかないわけではなかったが、想像するのは恐ろしかった。
もうどうすることもできないのだ。流れに身を任せているしかない……。
父、藤野広士がこしらえた借金は、あの家と土地全部を売っても返せない額で、あと数日の内には、父も五月も、そして寝たきりの祖母もあの家から追い出される。
それを避ける唯一の方法。――それを、今車に乗っている男が伝えに来たのは、ひと月ほど前のことだった。
他に方法はない。五月も、もう疲れてしまっていて、どうでも良かった。
高校は退学した。そして、
「それでこの家から出て行かなくてすむよ」
と言われて、その通りにすることにしたのだった。
父も、「やめろ」とは言わなかった。
母が生きていたら、止めたかもしれないけれど、もう母はいない。
五月は毎日、食事の用意をし、掃除をして、祖母をお風呂に入れた。――疲れ切っていた。
今夜から、父はどうするのだろう?
今さら心配しても仕方ない。
五月は、車の広い窓のレースのカーテンを開けて外を見た。もう五月の知っている町並は通り過ぎようとしていた。
住み慣れた町とはいっても、店はほとんどが閉まり、昼間から人の姿がなく、閑散としている。町を出るのは、寂しくも何ともなかった。
大きく息をついて、五月は座席のクッションに身を任せた。
五月は誰とも知らない人に買われたところだった……。
「あれ、誰?」
学食でランチを食べながら、橋口みどりが言った。
「何のこと?」
と、神代エリカは食事の手を止めて、訊いた。
「ほら、あそこの隅の席」
と、みどりが目をやった方へエリカは振り向いた。
ポツンと一人で食事している女の子がいる。
「――一年生ね、きっと」
「見たことない子よね」
二人の話を聞いていた大月千代子が、
「知らないの? 喜多川五月っていうのよ、あの子」
「へえ。千代子、どうして知ってるの?」
と、みどりが言った。
「同じ講義取ってるから」
「そうか。何だか友達なさそうね」
「他の子から聞いたけど、色々複雑な子らしいわよ」
「どういう風に?」
と、みどりが身をのり出す。
「今年編入してきたの」
と、千代子がチラチラとその子の方へ目をやりながら、
「何でも学長がじかに入学を許可したって」
「じゃ、よっぽど成績悪いとか?」
「そんなことないと思うよ。ともかく熱心に聴いてるし、レポートもしっかり出してるし。頭のいい子だと思う」
「ふーん。でも、何だか凄くブランド品持ってない? 着てるものとかも」
「まあね。――喜多川右近って知ってる?」
エリカが食事の手を止めて、
「それって、美術品集めたり、政治家にも寄付したりして、有名な資産家じゃない?」
「その喜多川右近よ。あの子……」
「その娘?」
「娘じゃない」
「あ、そうか。確か喜多川右近って、七十歳ぐらいだよね。じゃ孫か」
と、エリカが言うと、千代子は、
「孫でもない」
と、首を振って、
「妻だって」
それを聞いて、一瞬、エリカもみどりもその女の子の方へ目をやった。
視線を感じたのか、彼女の方も目を上げて、エリカたちを見た。目が合った。
みどりはあわてて目をそらしたが、エリカは目を合わせたまま、ゆっくり会釈した。
向こうも、ちょっとの間迷惑そうな表情を見せていたが、エリカと顔を見合わせる感じで、小さく肯き、微笑んだ。
エリカは「こっちへ来ない?」と言うように手招きした。
五月はスッと立ち上がって、トレイを手に三人のテーブルへとやって来たのである。
「あなた方三人組のことは聞いてるわ」
と、ランチの後、コーヒーを飲みながら、五月は言った。
「私たち、そんなに有名?」
と、みどりが言った。
「みどりの食欲がね」
と、千代子が真顔で言った。
「エリカさんのお父さんって、とってもすてきな人ですってね」
と言われて、エリカは、
「まあ、ちょっと人と違うところはあるけど、家じゃ奥さんに頭の上がらないマイホームパパよ」
「それってすばらしいじゃない!」
と、五月がため息をつく。
「そう?」
「そうよ! 奥さんと子供を大切にする。それ以上の男性はいないわ」
「父に言っとく」
「それに、色々事件を解決してるんですってね」
「たまたまね」
「じゃあ……いずれ私のことも」
「あなたのことって?」
「今から、よく憶えといて、私のこと」
「どうして?」
「その内、私を逮捕することになるかもしれないから」
と、五月はアッサリと言って、
「私が父を殺したらね」
と、コーヒーを一気に飲み干した。
【つづく】