吸血鬼に猫パンチ! 第四回
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緑の眼
「これはどうも」
と、クロロックと握手したのは、〈吸血鬼vs狼男〉の監督、迫田順治だった。
四十代の働き盛り。TVドラマの仕事も多く、映画でもテンポの速さと音楽の使い方はTV的と言われる。
それでも、中世ヨーロッパ風の雰囲気がうまく表現されているのは、映画の世界に長いカメラマンや照明の力が大きかったようだ。
舞台挨拶に出るメンバーは、映画館の事務室で控えている。
「クロロックさん!」
と、河辺ゆかりが駆け寄って、
「私、怖いわ! あんな恐ろしい事件があって……」
と、すがりつく。
「まあ、落ちつきなさい」
この場に涼子はいないが、それでもクロロックはゆかりをなだめて、
「我々はちゃんと守られている」
「ええ……。でも、クロロックさんもそばにいてね」
エリカは、父についてここまで入って来ていた。もちろんパジャマではなく、パンツスーツを着ていた。
「どうも、お初にお目にかかります」
と、中年の紳士がクロロックと握手した。
「どちら様かな?」
と、クロロックは微笑んで、
「たぶん、『お初に』お目にかかるわけではないと思うが?」
「いや、さすがだ」
と、その紳士は笑って、
「狼男の森です」
「体のバネはすばらしいですな」
「恐れ入ります。しかし、とうていクロロックさんには及びません」
と、森は言って、ゆかりに、
「ゆかりちゃん、クロロックさんは本物の吸血鬼並みの超能力をお持ちなんだよ」
「へえ! でも、私、クロロックさんになら血を吸われてもいいわ」
「めったなことを言うものではない」
と、クロロックがたしなめて、
「世間にはヤブ蚊が飛び回っておるからな」
エリカは聞いていてふき出しそうになった。――父からは、
「ゆかりと仲良くなって、首の傷のことを訊いてみろ」
と言われている。
「そろそろ舞台挨拶の時間です」
と、西野加江が声をかけた。
そこへ――。
「ニャー……」
と、猫の鳴き声が聞こえて来た。
「まあ、あの猫が」
と、ゆかりが言った。
映画に登場した黒猫だった。
「本物だったのだな」
と、クロロックが呟くように言った。
「遅くなりまして」
黒猫を抱いているのは、やはり黒のスーツに身を包んだ女性だった。
「おとなしいんですね」
と、エリカが言った。
「ええ。とてもよく人の言うことを聞きわけます。――私は佐田秀代と申します。この子は文字通りで〈ブラック〉」
黒猫はじっとクロロックを見つめていた。
スタッフが、
「では、その猫ちゃんにもステージに出ていただきましょう!」
と、声を上げた。
「一番最後に出ていただけますか」
「この子だけでは……」
と、佐田秀代が言うと、
「よろしければ、私が抱いて行こう」
と、クロロックが言った。
「ブラック君にご不満がなければな」
「それでは、よろしくお願いいたします」
と、佐田秀代がブラックをクロロックに渡した。
つややかに濡れたように光っている黒猫は、クロロックの腕の中に、静かに納まっていた。
「――まあ、珍しい」
と、佐田秀代が言った。
「めったに人になつかない猫なんですよ」
エリカは、あの黒猫に、どこか普通の猫と違うものを感じていた。エリカが感じるのだから、クロロックはおそらくもっと強く感じているだろう……。
初日の舞台挨拶は、何ごともなく終わった。
今日はさすがに食事は出ない。――みどりが来ていなくて良かった、とエリカは思った。
「そちらへお返ししよう」
クロロックがブラックを秀代へ渡すと、
「クロロックさん、実は――」
と、秀代が小声で言った。
「ご相談したいことが。――もしよろしければ、この後、少しお時間をいただけないでしょうか」
「私も、お話ししてみたかった」
と、クロロックは快く肯いて、
「ただ、社長業をしておりますのでな。夕方仕事が終わってからでよろしいかな?」
「もちろんです!」
秀代はホッとした様子だった。
「よくおいで下さいました」
迎えてくれた佐田秀代は、穏やかに言って、
「どうぞお入り下さい」
――ちょっと圧倒されるような邸宅だった。
少し郊外にあるとはいえ、高い塀に囲まれた屋敷は、かなりの広さである。
「娘も一緒に伺いました」
と、クロロックが言った。
「こいつも、場合によっては役に立つことがありますのでな」
「もちろん、いらしていただいて嬉しいですわ」
と、秀代は微笑んで、
「簡単なお食事を用意させていただきました。よろしければどうぞ」
広いダイニングで、エリカたちは秀代と食事を取った。食事は、量こそ多くないものの、とても「簡単」ではない、立派な味だった。
「ヨーロッパでの暮らしが長かったのでしょうな」
と、クロロックは言った。
「ええ。クロロックさんほどではありませんが」
と、秀代は言った。
「主人がルーマニアの人でしたので。もう大分前に亡くなりましたが」
「そうですか。それで、どこか親近感を覚えるのですな」
「どうぞ、コーヒーを居間で」
食後のコーヒーを、クラシックな家具の揃った居間でもらうと、
「――ブラック君のことで、何か」
と、クロロックが切り出した。
「ええ。あの猫はとてもふしぎで、主人が亡くなって数日後に、どこからともなくやって来たのです。当時はまだドイツに住んでいたのですが……」
ブラックが、いつの間にかそこにいた。
「まるで、私のことをずっと前から知っていたかのようで、呼びもしないのに、私の膝の上にやって来て、心から安心している様子で寛ぐのです」
と、秀代は続けて、
「もちろん、主人がブラックに生まれ変わったとは思いませんが、何かふしぎなつながりを覚えて……。日本へ帰って来たときも連れて来たのです」
「お気持ちはよく分かります」
と、クロロックは肯いて、
「しかし、今は何か不安を感じておられる。そうですな?」
「ええ、それが……」
秀代は手を伸ばして、ブラックの黒い毛並みを撫でると、
「この子の眼の色にお気付きでしょう」
と言った。
「鮮やかな緑色ですな。暗がりで光に当たると緑色に光ることはあるが、これほどはっきりした緑色の眼は珍しい」
「そうなのです。でも、この子の眼が緑になったのは、ごく最近のことで」
「ほう」
「たまたま、この子をご覧になった動物プロダクションの方が、今度の映画の黒猫役にぜひと言ってこられて。――監督の迫田さんもひと目見て、すっかり気に入られて……。この一本だけということで承知したのです」
「そのことが――」
「ええ。映画のスタッフ、キャストの方たちとの顔合わせのとき、この子の眼が緑色に。ヒロイン役の河辺ゆかりちゃんが、『きれいな緑色の眼!』と、声を上げるのを聞いて、初めて気付きました」
「つまり――ブラック君の眼が緑になったのは、何かを感じたから。あえて言えば、危険を察知したからではないか。そうご心配なのですな」
クロロックの言葉に秀代は肯いた。
「そうなんです。もちろん、私の直感でしかないのですが」
「人の直感は時として、どんな警告より確かです」
と、クロロックは言った。
「ありがとうございます。実は――あの庭園で起きた殺人事件ですが、あの夜、ブラックは姿が見えなかったのです」
秀代は不安げに、
「もちろん、まさか……。ブラックに、あんなことができるとは思いませんが」
「その心配はあるまい。あんな事件を起こしていれば、血の匂いをまとっているはずですからな」
「そうおっしゃっていただくと、安堵します」
「それよりも、むしろ、ブラック君は誰かの身を案じていたのではないかな」
そのとき、エリカのケータイが鳴った。
「――もしもし。ゆかりちゃん?」
エリカは向こうの話に耳を傾けていたが、
「――分かった。私もすぐそっちに向かうよ」
「河辺ゆかりさんからですか?」
と、秀代が訊いた。
「ええ。お父さん――」
「分かった。では一緒に出よう」
と、クロロックは立ち上がった。
ブラックの眼が緑色に怪しく光った……。
【つづく】