吸血鬼はペンの友 第三回

口から口へ
「首相が外相を殺させる?」
と、さゆりが言って、
「そんな馬鹿な話、聞いたことないわ」
と、腕組みして夫をにらんだ。
過ぎてしまうと、ラウンジも、さっきの騒ぎは何だったのか、という雰囲気。
クロロックたちのテーブルに椅子を足して、さゆりたちのグループが加わっていた。
「まあ、ご主人もそう変な人とも思えないわね」
「そうね、足は短いけど」
と、奥さんたちの評価は様々だった。
「お父さん、今の首相に会ったことあるんだっけ?」
と、エリカが訊いた。
「ああ、里井首相か。経済人の集まりに顔を出して、五分足らずで帰って行ったな」
と、クロロックは肯いて、ちょっと笑うと、
「スピーチをしたのだが、隣の宴会場での会合と間違えて祝辞を言っていた。みんな気付いていたが、誰も口にはしなかったな」
「じゃ、そのまま?」
「うむ。スピーチがすむと、さっさと出て行った。秘書が一人残って、『ただいまの談話につきましては、口外されないようお願いします』とくり返していた」
「里井首相に、長田外相を殺させるような理由があるの?」
と、エリカは言った。
「やっぱりあなたの見た夢だったんじゃないの?」
と、さゆりが言った。
「でも、もし本当だったとしたら……」
エリカは考え込んで、
「どこでどう狙われるか、全く分からないんだものね」
「そうなんですよ」
と、草間はため息をついて、
「ロビーで、ずっと立ち止まっていたでしょう? 今狙われたら、とても助からないと思って、つい……」
「その話が事実かどうかはともかく――」
と、クロロックは運ばれて来た〈アフタヌーンティー〉の小さなサンドイッチをつまみながら、
「実害はなかったわけだ。君のバッグには、身許の分かるものが入っているのかね?」
「いえ、そういう類のものはポケットに……」
「では、この席にいる人間は、みんなその暗殺の話については口外しないこと。もちろん分かっておいでだと思うが」
クロロックが見回すと、一杯に詰めて座った奥さんたちは、それぞれ顔を見合わせて、
「それはもう……」
「もちろんですわ! ねえ?」
「そうそう。そんなことに係わったら、何かと面倒ですものね」
「私、何も聞かなかったことにしますわ」
「私も、首相暗殺なんて、とんでもないお話で……」
「奥様、暗殺されるのは外相でしょ」
「あ、そうだったわね! でも似たようなもんでしょ」
会話はにぎやかな笑いで終わった。
奥さんたちが席を立つと、
「こちらのテーブルと合わせて、私がごちそうしましょう」
と、クロロックが言ったので、
「まあ! そんなこと、申し訳ないわ!」
「ねえ。いくら社長さんだからって……」
と、声も上がったが、誰も遠慮しようとは言わなかった。
「その代わり、ここでの話は絶対に秘密ですぞ!」
と、クロロックが念を押す。
さゆりを残して、奥さんたちが行ってしまうと、エリカは、
「でも、ちゃんと秘密にしておいてくれるかしら」
と、首を振った。
「無理に決まっとるだろう」
「え? でも――」
「誰だって、『絶対秘密』と言われたら、人にしゃべらずにはおられんさ」
と、クロロックは微笑んで、
「そうして、人から人へと話が広まれば、いずれニュースになる。そうなれば――」
「軽々しく暗殺なんてできない、か。確かにね」
「要は、暗殺を阻止できれば、当面は大丈夫だろう。――時間が稼げれば、その間に計画について捜査できる」
「本当です!」
と、草間は感激の様子で、
「クロロックさん! 何とお礼を申し上げたらいいか……」
「ただし、思いの他、噂の広まるのが遅かったりすると、長田外相が狙われんとも限らんが」
と、クロロックは言った。
「まあ、今は各国の外相が集まっている。この厳重な警備の中では、まず暗殺しようという物好きはおるまいがな」
「あなたがちゃんと話してくれないから……」
と、さゆりがむくれている。
「だって、僕も果たして本当なのか分からなかったんだよ」
と、草間が言った。
「ともかく、夫婦としては仲良くやってくれ」
「はい!」
さゆりが、〈アフタヌーンティー〉のプチケーキを、一度に二つ口へ入れて、エリカたちを唖然とさせた。
「――君が目を覚ました、何とか飯店という店では、そんなに遅い時間に客を入れておるのか?」
「それは聞いていません」
「おそらく、特別の客なのだろう。店の従業員にでも当たってみることだ」
「そうでした! あれこれ悩むより、実際に捜査する方が先でしたね」
すると、ロビーがまた騒がしくなった。
クロロックはロビーを見て、
「見た顔だな」
「あの人、朝ドラでギャングやってた人?」
と、みどりが訊くと、千代子が呆れて、
「何言ってるの。あれ、今の首相じゃない」
「そうだっけ?」
首相の里井はそろそろ七十になろうとしている。
政治力より、党内の人間をうまく動かすのが得意と言われているようだ。
「――首相も出席するのかな」
と、草間が言った。
「出席してもおかしくはない」
と、クロロックが言った。
「そうね。何といっても主催国の首相ですものね」
と、エリカが肯いて、
「みどり、ケーキ、全部食べちゃったの?」
「全部なんて! せいぜい三分の一……いや、二分の一かな」
「半分じゃないの、早く言えば」
「まあね」
「プチケーキを奪い合っている場合ではあるまい」
と、クロロックが苦笑して、
「草間君は記者として仕事をするべきだな。もっとも、奥さんには別の思いもあるかもしれんが」
「私は別に……」
と、さゆりはちょっと恥ずかしそうに、
「ただ……お休みの日は、夫婦でゆっくり過ごそうね、と結婚したとき約束しましたので」
「夫婦の約束は神聖なものだ」
いつも若い妻の涼子に気をつかっているクロロックとしては、そう言わざるを得なかっただろう。
そのとき、エリカのスマホにメールが着信した。そのニュースを読んだエリカは、
「まさか!」
「何かあったのか?」
「〈外務大臣狙われる〉だって! もうニュースになった」
「早い! もう話が広まった?」
誰もが一瞬唖然としたのだった……。
「長田様」
と、会議中に、ホテルの宴会係が声をかけた。
「――何だ?」
長田外相は振り向いた。
「今、会場の外にお客様が」
「客? ――会議中だが。まあいい」
と、長田は席を立った。
ちょうど議長が「休憩」を宣言した。
会議は何時間にも及ぶ。出席している各国の外相の中には、七十代の者もいて、休憩を挟まないとやっていけないのである。
座りっ放しで腰を伸ばしたくなった人たちがゾロゾロとロビーへ出て来る。
ロビーには、飲み物や軽い菓子などが用意されていた。
「やあ」
里井首相が長田に声をかけた。
「総理! いつおいでに?」
「つい今しがただ。順調かね?」
「議長が慣れていないので、進行は少々苛々しますが、今のところはそう問題なく……」
「それは結構。では私は少し挨拶して回るよ」
里井はそう言って、ジュースのグラスを手にすると、顔見知りの外相たちの方へと人の間を歩いて行った。
「客はどこだ?」
大勢出て来てしまったので、どこにいるのやら……。すると、
「何かお飲み物をお持ちしましょうか?」
と、女性の声がして、
「いや、今は――」
と振り向いた長田は目を見開いた。
「君……」
OL風のパンツスーツだが、顔立ちは若い。
「盛会ね」
「しかし――どうして入れた?」
と、長田はチラッと左右へ目をやった。
「止められたわ、SPの人に」
「それで……」
「私、長田外務大臣の娘です。パパに用があって、と言ったのよ」
「それで入れたのか?」
「信じていい人間だと思われたのよ、きっと」
「しかし……。気を付けてくれ。取材の記者も大勢いる」
「あら、却って堂々としてる方がいいのよ。こそこそ隠れたりしたら、怪しまれるわ」
――本田ユリア。K大学の三年生である。
長田のガールフレンド。特別な関係ではないが、たまに二人で食事しながらおしゃべりする。
「今夜は会えない?」
と、ユリアは気軽に訊いた。
「おい……。この会議中だよ。出られないだろ」
「分かってるわよ。言ってみただけ」
と、ユリアは明るく笑った。
正直なところ、長田はユリアのこの明るさに惚れているのだ。しかし、もちろん今どきのSNSは怖い。
「今夜はレセプションね」
と、ユリアが言った。
「よく知ってるね」
「このホテルには知り合いがいるの。――ね、レセプションに出たい!」
「そんなこと、無理だよ」
「いいの! あなたに迷惑はかけないわ」
そう言うと、ユリアは、いたずらっぽく笑って、
「私が勝手に出席するの。それならいいでしょ?」
「しかし、レセプションには――」
「奥さんも出席する。そうでしょ? 大丈夫よ。私は透明人間になってみせるから」
ちょっと謎めいた言い方をすると、ユリアは、
「それじゃね!」
と、ひと言、アッという間に人の間に紛れて見えなくなった。
長田は苦笑して、
「困ったお嬢さんだ」
と呟いた。
しかし、本田ユリアの、ああいう何ごとにもものおじしないところが、長田は気に入っているのだった。
「ミスター・オサダ」
アフリカの小さな国の外相が話しかけてきて、長田はにこやかに相手をすることにした……。
【つづく】