吸血鬼はペンの友 第二回

警戒
「どうなってるの?」
と、眉をひそめて言ったのは、橋口みどりだった。
「何かあるのね」
と、大月千代子がホテルのロビーを見回して、
「目につくだけでも、SPと分かる人が十人はいる」
Nホテルに入って来た二人は、入口の所で、
「手荷物を調べます」
と、止められて、バッグの中を調べられたのである。
「私たちだけじゃないわ。ほとんどの人はバッグを開けられてる」
「私なんか、バッグの中にアンパン入れてたのを見て、調べてる人が笑ってた」
と、みどりは口を尖らして、
「失礼だわ!」
そこへ、神代エリカがロビーの奥からやって来て、二人に手を振った。
「エリカ! 早いのね」
と、千代子が言うと、
「ラウンジの予約を早めにしといたの。一杯になるまでお客を入れないみたいだから」
「どうして?」
「今日、夕方から世界外相会議があるって。それで警戒してるのよ」
「そういうことか」
「私は、このホテルに父の知り合いがいて、今日のこと聞いたんで、急いで予約入れたの」
三人はラウンジの奥の方のテーブルについた。
「入りそこなうところだったのね」
と、千代子が言った。
今、イギリス風の〈アフタヌーンティー〉が人気で、平日でもなかなか予約が取れないのである。
三人は好みの紅茶をそれぞれ注文した。
神代エリカ、橋口みどり、大月千代子は同じ大学の親友同士。今日はここでお昼を食べてから、映画を観る予定である。
エリカが、もちろん、
「〈アフタヌーンティー〉三人ね」
と、注文して、
「紅茶は……私、ダージリン」
と言うと、
「私もダージリンにしよう。四人にしてくれ」
と、同じテーブルに加わったのは――。
「お父さん! 何してるの?」
と、エリカはびっくりして、父、フォン・クロロックに訊いた。
「そう驚くことはあるまい」
と、クロロックは黒いマントをフワリと広げて座ると、
「今日は宴会場の下見に来た」
「何かあるの?」
「同業者の会合だ。予約は入れてあるが、どんな会場か見ておきたくてな」
「でも、今日はそんなこと――」
「そうなんだ。前もって調べておけば良かったが、今日は下見を断られてしまった」
「それで、ついでに〈アフタヌーンティー〉を? ね、四人分おごって!」
クロロックはちょっと渋い表情になったが、
「まあ、そこは仕方ないな。任せておけ」
「やった」
と、エリカはニッコリ笑った。
「四人だと一人分タダ、とかないのか?」
「せこいこと言わないの」
――フォン・クロロックは、ヨーロッパ、トランシルヴァニア出身の「本家吸血族」である。
「おお」
と、クロロックはロビーへ目をやると、
「今入って来たのは、ルーマニアの外相だ」
「知り合い?」
「あの男の祖先とは知り合いだった」
SPにガードされて、でっぷり太ったその男はロビーを横切って行った。
続いて、長身の女性や、若々しいビジネスマン風の男性が入って来る。
「あの女性はドイツだな。若い男はフランスの外相だ」
「いいね、外国じゃ、女性や若い人が大臣になれる」
「確かに、ああいうメンバーの中に入ると、日本の政治家は老けとる」
と、クロロックが言ったとき、テーブルの間をせかせかと歩いて来た男が、クロロックの椅子の脚につまずいて、転びそうになった。
「失礼しました!」
と言ってから、
「あれ? クロロックさんですか」
「君はどこやらの記者だな」
「〈T新聞〉の草間です。先日インタビューを……」
「憶えとるよ。今日は仕事かね?」
「はあ……。半分仕事のような……」
と、草間は曖昧に言った。
「外相会議の取材か?」
そう訊かれて、草間は、
「そう言えないこともないのですが……」
と、口ごもった。
「何やら悩んでおるようだな」
「そうなんです!」
草間は思い詰めた様子で、
「クロロックさん! 話を聞いていただけますか」
「聞かんでもないが、あっちの方で、君に手を振っている可愛い女性がおるぞ」
「え?」
振り向いた草間は唖然として、
「――さゆり!」
「新婚の奥さんだな。この間、インタビューの最中にのろけとった」
「そう……でしたか?」
草間は赤くなって、
「失礼しました!」
と、あわてて仲のいい奥さん同士でテーブルを囲んでいるさゆりの方へと向かった。
「――何してるんだ?」
「見れば分かるでしょ。〈アフタヌーンティー〉よ。あなたも一緒にどう?」
「いや……。僕は……仕事がある」
「今日はお休みじゃなかったの?」
「休みさ。休みだけど……休めないんだ」
「分からないこと言ってないで、かけたら?」
草間は空いた席に座った。
「何だか変ね」
と、エリカは草間の様子を見て言った。
「ひどく不安がっているな」
と、クロロックは言った。
エリカたちのテーブルに、紅茶が運ばれて来た。
ロビーが少しざわついた。
「映画スター?」
と、みどりが腰を浮かす。
「違うよ。日本の外務大臣。長田玄だよ」
「何だ」
と、みどりはがっかりして、
「三十才若けりゃね」
「確か、あの人、六十五、六?」
と、エリカは言った。
「そうだろうな。しかし、日本の外務大臣にしては珍しく英語を話すぞ。それもイギリス英語だ」
「留学してたんだっけ」
と、エリカは言った。
六十五才という年齢にしては、長田は老けて見えた。髪がほぼ真っ白なせいかもしれない。
長田は、ロビーで足を止めると、先に入って来ていたフランスの若い外相と立ち話を始めた。
周囲のSPが苛ついているのが分かる。しかし、二人は楽しげにおしゃべりを続けていた。
すると――草間が立ち上がって、肩からさげていたバッグをつかむと、テーブルの間を駆けて行った。そしてバッグをロビーへと投げ込んで、
「危ない! 爆弾だ!」
と大声で叫んだ。
たちまちロビーは大混乱になった。
ラウンジの客もあわてて立ち上がる。
「お父さん――」
「あれはただのバッグだ。何かわけがあって、騒ぎを起こしたかったのだろうな」
と、クロロックは落ちついている。
SPが外相を囲んで素早く行ってしまうと、少しして、騒ぎはおさまった。
SPがバッグを上着で包んでロビーから運び出して行く。
「――誰がやった!」
と、SPがラウンジへ入って来て怒鳴った。
「誰か見た者はないか!」
突然のことで、誰もが呆気に取られていた。
SPは周りを見渡して、ムッとした様子で出て行った。
クロロックは、テーブルの下に潜り込んでいる草間を足でつついた。
「もう大丈夫だ。出て来い」
草間がそろそろと這い出して来た。
「どうも……」
と、クロロックにペコンと頭を下げて、
「助かりました」
「それはいいが、どんなわけがあったのかな? 君が暗殺者だとは思わんが」
「ありがとうございます! これには深いわけが――」
と、草間が言いかけたとき、
「あなた!」
と、甲高い声が飛んで来た。
「一体どういうことなのよ!」
「さゆり……。ちょっと――ちょっと待ってくれ」
「五秒以上は待てないわね。同じテーブルの奥さんたちは、みんな見てたのよ」
「すまん。他に方法を思い付かなかったんだ。――長田外相を救うのに」
それだけの説明では誰も納得できないことは明らかだった……。
【つづく】