吸血鬼はペンの友 第一回

夢かうつつか
「ただいま……」
と言ったつもりだったが、実際には「ウォウァウァ」としか聞こえなかった。
何だ……。いやに暗いな。
もう寝ちまったのか?
うん。いつも俺が言ってるからな。
「俺はいつも帰りが遅いから、先に寝てていいんだぜ」
と……。
当然、妻のさゆりは先に寝てしまっているのだろう。――あれ? 妻の名前って……さゆりだったよな?
うん、そうだ。俺はさゆりと結婚したんだからな。
草間京平は酔っていた。
夜、十二時過ぎまで仲間と飲んで、その後は、たまたま居酒屋で一緒になって気の合った女の子たちと二軒目に行った。
そしてさらに三軒目……。誰と行ったか、よく分からない。
もともと酒好きの草間ではあったが、このところは少し控えていた。
何といっても、結婚してまだ三か月しかたっていない。独身のころは連日夜中まで飲んでいたが、さすがにさゆりとの生活が始まって、反省した。
そして――今夜は「たまには思い切り飲まなきゃ」ということになってしまったのである。
そして、ごくたまにのことではあったが、とことん飲んでしまうと、草間は自分がどこにいるのか分からなくなるというくせがあった……。
「うん……。寝室はどこだ?」
真っ暗な中、草間はフラフラと歩いて行った。
そして、何かに行き当たった。
これは……きっとベッドだな。うん、そうだ。確かこの辺にあったものな。
可愛いさゆりがベッドに寝てる。いや、起こしちゃいけない。
今夜はこのまま、おとなしく寝よう……。
草間はその「ベッド」へと倒れ込んだ。
そして眠った。だが、やたら喉が渇いて、目が覚めてしまった。
「水……。水はどこだ?」
ブツブツ言いながら起き上がったが――。
あれ? ここ、どこだ?
ともかく手探りで歩いて行くと――。
「殺すしかないだろう」
やけにはっきりと、その言葉は聞こえた。
「しかし、先生……」
「放っとけば、もっと事態が悪くなる。殺す以外に道はない」
「そう簡単には……」
「簡単にいかないことをうまくやるのが、お前の役目だ。そうだろう」
と、何だかやけに偉そうな男が言った。
「――承知しました」
と、もう一人が言う。「ですが、これは容易なことではありません」
「だからこそやるんだ。いいか、今度の日曜日に、奴は世界外相会議に出席する」
「知っております。確かNホテルで……」
「そうだ。Nホテルでは裏の宴会場入口に車が着く。つまり、車は表通りでなく、裏の一方通行を通る。そこは狭いから車もスピードを落とす」
「しかし……警備は厳重でしょう」
「当たり前だ。だからこそ油断している。いいな」
「はあ……」
「まだためらっているのか?」
「何といいましても、現役の外務大臣を殺すというのは……」
「俺がやれと言ってるんだ。それで国の役に立てる」
「そうでしょうか」
「疑うのか?」
「いえ、総理、とんでもない」
「お前は実行すればいいのだ。考えることは俺がやる。いいな」
「はあ……。ただ一つお願いが……」
「何だ? 言ってみろ」
「このお仕事に関しましては、いつもの分にプラスして、充分にいただきませんと……」
「何だ、金の話か」
と、男は笑って、「心配するな。ちゃんと考えてある」
「恐れ入ります」
「では、もう行くぞ。朝までには帰っていないとな」
「では、総理……」
――総理だって? 何の「総理」だ?
草間は首をかしげた。
「そうり」というと、「総理」、つまり首相のことだとしか思えないが……。
しかし、今の話は……。
草間は〈T新聞〉の記者である。だから今の会話はしっかり耳に入って来たのだが、
「だけど……どうして俺の家で、そんな話をするんだ?」
と、草間は思った。
そうか。――夢なんだ。そういう夢を見たんだ。
草間は納得した。納得すると、安心してまたそのまま眠ってしまったのである。
「おい、ちょっと!」
と、ひどく揺さぶられて、草間は目を覚ました。
「何だよ! 乱暴だな」
と、呻くように言うと、
「困るじゃないか! こんな所で寝てられちゃ」
それはガードマンだった。
「何だと? 俺が俺の家で寝て、何がいけないんだ」
と、草間は目をこすって、辺りを見回したが……。
「あれ? どこだ、ここ?」
「何言ってるんだ! ここは〈N飯店〉の個室だよ。一体どうやって入ったんだ?」
と、制服のガードマンは草間をせかして、
「さあ、早く出てってくれ! 夜中に侵入者があったなんて、上にばれたらクビだよ」
「はあ……。おかしいな……」
ブツブツ言っている内に、外へ押し出される。
もう朝になっていた。――草間はフラフラと歩き出した。
「いやねえ、もう」
と、ハムエッグの皿をテーブルに置きながら、さゆりが言った。
「いや、申し訳ない」
コーヒーを飲みながら、草間は言った。
「どうしてそんなお店にいたの?」
「さっぱり分からないんだ。ともかく家へ帰って来たつもりだった。でも、真っ暗で、どこがどうだか分からなくて……」
「さ、食べて。もうお昼よ。会社に行かなきゃいけないんでしょ?」
「うん、そうなんだ。でも――そう急ぐことも……」
あれは何だったんだろう? あの暗がりの中で聞こえた会話は。
夢だったのか? それにしちゃ具体的な話だったが。
しかし――そんな馬鹿なことが!
首相が外相を殺せと指示する? そんなスリラー映画みたいな話があるわけがない。
それでも、忘れてしまえないのは、あの会話の内容が……。次の日曜日に、世界の主な国の外相会議がNホテルで行われることは事実だったからだ。
だが、そんなことが起こるわけはない。この平和な日本で、暗殺なんて。
「――どうしたの、あなた?」
と、さゆりが言った。
「何だかボーッとしちゃって」
「え? ああ、いや……、二日酔いだよ。何しろあんなに飲んだのは久しぶりだったからな」
「体こわさないでね」
――草間京平は今三十才。妻のさゆりは二十六才だった。
〈T新聞〉にアルバイトで来ていたさゆりと半年ほどの付き合いで結婚したのが三か月前。
新居は中古だが、造りのしっかりしたマンションで、八階建ての一階〈105〉。
一階なので、エレベーターに乗らない。だから気付かなかった、ということもあるだろう。
「旨かった!」
と、草間は伸びをした。
「呑気ねえ」
と、さゆりが呆れて、
「私がアルバイトしてたときだって、みんな午前中に出勤してたわよ」
「分かってる。もう出かけるよ」
と、立ち上がった草間へ、
「あなた! まだひげも剃ってないわよ!」
と、さゆりはあわてて言った。
「そうか、忘れてた」
草間は改めて顔を洗い、ひげを剃って、ボサボサになった髪を、半ば強引になでつけた。
草間が玄関へ出て行くと、さゆりが、
「今度の日曜日って、何かあるの?」
と訊いた。
「え? どうしてだい?」
「あなた、寝言で、『日曜日だ……Nホテルだ』って言ってたから」
「そんなこと言ったか?」
「まさか、他の女性とNホテルで会おうっていうんじゃないでしょうね」
と、さゆりが、冗談まじりに草間をにらんだ。
「そんなわけないだろ」
と、草間は苦笑して、
「ああ、日曜日に世界外相会議がNホテルであるからな。そのことを考えてたんだよ」
「酔って、家がどこかも分からなかったのに、仕事のことを考えてたの? 怪しいわね」
「おいおい。もっと信用してくれよ」
「分かってるわ、冗談よ」
そう言うと、さゆりは素早く草間にキスした。
【つづく】