焼け跡のひなまつり 後編
こうなると、やはり赤城に相談するしかないのだ。
廃材をのこぎりで切っていた赤城は、手を止めた。少しあきれている。
「人助けをしたいっていう心がけは立派だが、自分たちでは手に負えないことを安易に引き受けるのも、どうかと思うぞ」
「……わかってるよ。でも放っておけないだろ」
群青は言いにくそうにしながら、
「あいつのおふくろさん見てたら、思い出しちゃってさ……」
哲雄の母に、群青が自分の母を重ねていることは、赤城にも伝わっていた。
群青の母親・阪上スイは京城で芸者をしていた。軍や朝鮮総督府の偉い人たちのお座敷にもあがっていた。体が弱いということはなかったが、それでも夜の仕事でくたくたになりながら、女手ひとつで群青を育てるのは生半可ではなかったのか、時折、疲れた顔でため息をついていた。
その顔が、哲雄の母に重なって仕方ないのだ。
「戦争未亡人か……。家があるならまだしも焼け出されたとあっては生活も厳しいだろうな。だが遺族年金が出るはずだ。手続きはしていないのか」
「それが、二号さんだったみたいで……」
群青が肩入れするのは、それも理由のひとつだった。スイと同じで、妾だったのだ。
赤城は「そういうことか」と事情を察し、
「認知された子供なら年金をもらえる権利があるはずなんだが、その分じゃ、もらえてないようだな」
「どうしたらいいと思う?」
「まあ、本妻と話をつけて子の分の年金だけでもむしりとってやれ、というのが本筋だと思うが、事情もあるだろうしな。母親が働けるなら、働き口がないか、周りに声をかけてみてもいいが……」
赤城はこう見えて顔が広い。侠気があるのか、ひとがいいのか、困っている者を見かけるとつい手を貸してしまう。そうやって人助けをしているうちに、いつのまにかあちこちに顔なじみができている。
「そういや、霧島が事務まわりができる人間を探していたっけな」
「哲雄のおふくろさん、昔、会計係をやってたって言ってたよ」
適任かもしれない。さっそく霧島大悟に連絡をとってみることにした。
*
数日後、霧島大悟が母子寮へとやってきた。
案内したのは群青だ。なぜか赤城もついてきた。
大部屋の隅で封筒貼りをしていた哲雄の母は驚き、恐縮してしまっている。
「わざわざご足労いただいてしまい、すみません。私、高柳アサと申します」
哲雄の母――アサは、まさか仕事の斡旋までしてもらえるとは思わなかったのだろう。霧島から事務職の求人をしている話を聞くと、とてもありがたがり、ぜひに、と申し出たが、体の具合は思いのほか悪くて、赤城たちが見たところ、この体力で上野まで毎日通勤するのは難しそうだ。
「いいえ、働かせてください。こんなまたとないお話、受けないわけにいきません」
アサは無理をおしてでも働くつもりでいるが、さすがに赤城が止めた。
「やはり何か他の仕事を探しましょう。体に無理をかけない仕事を」
アサは涙ぐんだ。
「私が不甲斐ないばかりに哲雄には苦労をかけてしまい……。いま思えば、元気があるうちに田舎の実家に帰っておけばよかったんですわ」
「ご実家はどちらですか」
と赤城が尋ねると「青森です」と答えが返ってきた。
「若い頃、絵の勉強がしたくて東京に出てまいりました……。哲雄の父親と出会い、その弟子になりました。そのうちに哲雄を身ごもり、そのまま東京で産み、育てました」
哲雄の父親は画家だったという。東京の画壇では名の知られた画家で、アサは何人かいた弟子のひとりだった。
だが、画家は日中戦争で大陸に出征し、それきりとなってしまった。
哲雄は認知はされていたものの、妾を許さない本妻から冷たい仕打ちを受け、自ら働いてどうにか食いつないでいたという。
「実家の母からは青森に戻ってこい、と言われました。あちらで私に縁談がふってわいたのです。裕福な地主さんで、後添いを求めているとのことでした。子連れでもかまわないとのことでしたので、哲雄のためを思えば、あのとき、縁談を受けておくべきでした」
「どうして受けなかったんですか」
と群青が素直に尋ねた。すると、アサは寂しそうに微笑み、
「……さあ。どうしてかしら。きっと覚悟を決めてしまったからでしょうね」
「覚悟とは」
「あのひとが帰ってきたからといって本妻になれるわけではなかったけれど、あのひとと私は芸術というもので誰よりも深く繋がっている。そう信じていたから、妾として生きることを恥じたりはしなかった。胸を張ってこの子と生きよう。あのひとの芸術を誰よりも理解しているのは、この私だと信じていたから」
アサの言葉の存外な強さに群青は胸を突かれた。そのまなざしは、先ほどまでの弱々しい表情とは別人のように見えた。だが、矜持を口にした後で、自嘲するようにこうも言うのだ。
「……このような身の上になったのも誰のせいでもありません。すべて私自身が悪いのです。だけど、せめて哲雄にだけは立派な大人に」
痩せた肩を震わせている。群青たちはかける言葉もない。
「もしかして、……哲雄は何かよそ様にご迷惑をおかけしたのでしょうか」
群青は言葉に詰まってしまった。その反応を見て、アサは確信を持ち、
「やはり、そうなのですね。哲雄は何をしでかしたんです? 教えてください」
口ごもってしまった群青の代わりに、口を開いたのは赤城だった。
「哲雄君は……闇市で盗みを働いて捕まりかけたところを、この群青に助けられたんです」
アサはショックを受けていた。しばらく絶句して、青ざめ、
「……そう、だったのですね。何か様子がおかしいことはわかっていました。いくらなんでもこのご時世に、あんなに気前よく高価な石鹸や缶詰を分けてくれる方がいるはずありませんもの」
どうお詫びすればいいのか、と動揺している。
「人様のものを盗むなんて……そんなふうに育てた覚えは一度も」
「哲雄君も悪いことだとはわかってたって言ってました。でも食べてくため、仕方なく」
「いいえ。自分の息子をそこまでさせてしまったのは私の責任です。私が不甲斐ないばかりに」
「ご自分を責めないでください。確かに盗みはよくないことですが、母を思う子供にそこまでさせてしまう、この国が悪い。不甲斐ないのはあんたじゃない」
赤城が言い切ったので、アサはちょっと驚いた。
「自分を責めるこたぁない。それどころか、あんたには、この国を引っ張ってきた不甲斐ない連中を責める権利がある。この役立たずどもが、と叫んでやればいいんです」
赤城の言葉に、胸の底にある憤懣やるかたない気持ちを代弁してもらった気がしたのだろう。アサは顔をあげて、ぼうぜんとしている。
「哲雄君を責めないでやってください。それよりも、もう二度と哲雄君にそんなことをさせずに済む方法を考えましょう。我々も手を貸しますから」
アサはこらえきれず、涙を流した。そんなふうに声をかけてやれる赤城に、群青はまたしても感服の念を抱いてしまった。
赤城はアサの手元にある糊やはさみに気づき、
「いまも絵は描かれるんですか」
アサは涙を拭って、
「いえ……もうだいぶ長く筆はとっておりませんの。数年前までは、食べていくために広告会社でポスターデザインなどを手がけたこともあったんですが」
「ポスターデザイン。広告の、ですか」
「ええ、マッチ箱などのラベルを扱ったこともありましたわ」
霧島が「マッチ箱?」と反応した。弁当箱のような四角顔を突き出して、
「包装デザインを手がけていたのですか」
「ええ。……ひとつだけ、手元に」
と風呂敷包みの中から取り出したのは、どこかの飲食店の名が入ったマッチ箱だ。しゃれたランプの絵がデザインされている。文字の形もハイカラで色合いも目を惹く。今で言うところのグラフィックデザインの仕事を手がけていたようだ。
これだ!
と霧島が大きな声をあげたので、大部屋にいる母子たちが一斉にこちらを見た。
「こういうのがほしかったんだよ」
群青と赤城には意味がわからない。霧島は興奮して、
「高柳さん、うちの商品の包装紙をデザインしてもらえませんか。子供たちの目を惹く、明るくて元気が出るやつがいい。そいつを今度発売するポン菓子の包装紙にしたいんです」
アサは目をぱちくりしている。
どういうことだ、と赤城が問うと、霧島は拳を固め、
「うちもまだ立ち上げたばかりで資材不足だが、いずれは販路を広げて東京中の菓子屋の店先でうちの商品を売っていくつもりだ。他の菓子より味はもちろんのこと、包装が目立つ商品を作らないといけない」
霧島は元満鉄の社員たちと一緒に菓子製造会社を立ち上げたところだ。今はまだ飴ぐらいしか作っていないが、錦糸町の菓子工場と手を組んだことで、飴以外の菓子も作っていく計画だという。
今はガード下の店で飴の量り売りをするのがやっとだが、いずれは袋や箱に入れて他の店舗でも扱ってもらう予定だ。その包装デザインを、アサに頼みたい、と言い出した。
「試しに来月発売するひなあられの包装紙を描いてもらえませんか。もちろん、お代は支払います。画材が必要ならこちらで購入します。いかがですか」
「も、もちろん、やらせていただけるなら喜んで」
「本当ですか。よかった。こういうのができるひとがいなくて困ってたんですよ」
センスが問われる仕事だ。その点、霧島たちは門外漢だった。
あれよあれよ、と話が進み、アサは新作ポン菓子の包装紙を引き受けることになった。
*
「すごいよ、これ……。とってもハイカラだよ」
霧島の作業場にやってきたリョウは、アサが手がけた版画絵を見て、感心しきりだった。
センス良くデフォルメされた一組のお雛様が描かれて、大きく「ひなあられ」と文字が入っている。アサは木版画が得意で、自ら板を彫り、包装用の絵を仕上げてきたのだ。
霧島に呼び出されたアメンボ団の今日の仕事は、この版木を使って、ひなあられ用の包装袋を刷ることだ。群青も手伝いにやってきた。
「見ろよ、群青。この作風、教育紙芝居なんかでよく見かけたやつだ。あの手の紙芝居にしちゃ珍しくセンスいいなあって思ってた。哲雄のおふくろさん、すごいひとだったんだなあ」
「センスのよしあしなんて、おまえにわかんのかよ」
「俺を誰だと思ってる。呉服屋の跡取りだぜ? 色や柄のセンスがないと務まらないんだよ」
「よーし、作業始めるぞー」
霧島がどこからか用意してきた墨とバレンを机の上に置いた。流れ作業でどんどん刷っていく。子供たちは学校の工作の時間を思い出して大はしゃぎだ。
そこへ現れたのは、じゃがいも頭の少年だ。
「哲雄じゃないか。手伝いにきてくれたのか」
「か……かあちゃんに言われたんだよ」
気まずそうにしていたが、作業している群青たちを見ると、
「なんだよ、その手つき。バレンの使い方はそうじゃねえ。そんなんじゃ色がまんべんなくのらねえだろ。かわれ、俺がやる」
というと、群青からバレンを奪い取って自ら版木の前に立った。哲雄は母親の木版刷りを手伝っていたことがある。その経験を生かして皆に自ら指示を出し始めた。
哲雄は慣れた手つきで手際よく、母が彫った版木をどんどん刷っていく。部屋に張り巡らせた紐には刷ったばかりの紙がいっぱい干され、まるで運動会の万国旗だ。
「やっぱり、母ちゃんの版画はすごいなあ」
母親を誇りに思う哲雄の気持ちがこもっている。
「なあ、すごいだろ。群青」
「ああ、早くたくさんのひとに見せたいな」
あとは糊付けをしてできあがりだ。新商品のひなあられは、あとは店頭に並ぶのを待つだけとなった。
「こりゃ見事な出来だ」
群青が作業場から持ち帰った「刷り損ない」を見た赤城も、木版画の見事なできばえに驚嘆している。
「アサさん、さすがだな。こりゃ、袋だけで売れるぞ」
「おしゃれだろ。デパートの紙袋にも負けないよ。うちで作る石鹸の包み紙もさ、アサさんに描いてもらおうよ」
「あ……ああ。石鹸もまともに作れてないうちから言うのもあれだが」
「カヨちゃんはどこだい? 見せてやりたいな」
「お向かいさんちだ。折り紙を習ってくると言って」
佳世子は最近お向かいの家族と仲良くなって、時折、裁縫や炊事の仕方を教えてもらったりしている。タンスの上には未亡人雛が飾られている。それを見て、群青は「おだいり様の代理」探しが難航していることを思い出した。
「もう今年は間に合わないかも……」
「必死に探してたおまえたちには悪いが、カヨちゃんはあまり気が進まないようだ」
新しい婿とりのことだ。群青は、てっきり佳世子はパートナーとなる男雛と並べることを望んでいるのだと思っていた。
――私たちが押しつけていいのかなあ。おひなさまは今も、前のおだいりさまが好きなんじゃ……。
群青は肩を落としてしまった。カヨのやつ……。
「……おひなさまの気持ちまでは普通は考えないって」
「カヨちゃんは小説家になれるな。小さい頃から人形遊びが好きだったそうだから、自然に感情移入してしまうんだろう」
確かにおひなさまのほうからしてみたら、新しい婿を押しつけられて「幸せなひなまつり」と祝われても困惑するだけだろう。
「とは言っても、やっぱりおひなさま独りだけじゃ……」
待てよ、と群青がはたと思いついて、手を叩いた。
「俺にいい考えがある」
*
こうして三日が過ぎた。
朝からいい天気で、顔を洗いに外に出ると、土を持ち上げた霜柱がきらきら光っている。いつものように手漕ぎポンプをがしゃがしゃ押して井戸水を汲み、顔を洗う。
「今日は三月三日か……」
桃の節句だ。と言っても特別何かをするわけでもないが、佳世子は佳世子なりの「ひなまつり」を考えているようだった。
石鹸作りのために「工場」にこもっていた群青が、昼時になって家に戻ってくると、佳世子が何やらちゃぶ台に向かって作業をしている。
正方形に切った新聞紙で折り紙をしている。見ると、折り紙で作った雛人形ではないか。
「カヨちゃん、これは……?」
「お向かいのアキコさんが古新聞を分けてくれたの。私、折り紙は得意なのよ」
小器用な佳世子が作る「折り紙の雛人形」は自立できて、テーブルの上に蓮の花でも咲いたみたいに無造作にちりばめられている。数えると八体ある。
「これはもしかして、三人官女と五人囃子……?」
「ううん、ちかうの。これはグンちゃん」
「え? 俺?」
「これは壮一郎兄さん、これは勇吉兄ちゃん。こっちはリョウさんでタケオさんで……」
できあがった折り紙人形をひとつひとつ、女雛のそばに置いていく。今度は女雛の周りに蓮の花が咲いた。小さな紙人形たちに囲まれるようにして女雛が鎮座している。
「つまり……俺たちは召使いなの?」
「ちがうわよ。みんな友達、仲間、家族なの。ほらね、こうすれば、おひなさまもさびしくないでしょ」
ほんとうだ。小さな紙人形に囲まれて、なんだか盆踊りみたいに賑やかになった。佳世子がしようとしていたことを、群青はやっと理解した。
「何も好きでもないひとに嫁がなくたって、みんなといっしょなら、全然さびしくないでしょ。ほら、おひなさまもうれしそう」
群青はすっかり毒気を抜かれてしまった。これはつまり、佳世子なりの「幸せの構図」なのだ。未亡人になってしまったおひなさまは、無理に再婚などしなくても、仲間に囲まれてさえいれば、幸せになれるのだという。
「見ててね。今からぼんぼりと菱餅を折るから。何でも折れるのよ。すごいでしょ」
そこへ赤城も帰ってきた。外で洗った顔を手ぬぐいで拭いながら、タンスの上の折り紙飾りに気づき「これはカヨちゃんが?」と尋ねた。群青が説明すると、
「なるほどな。カヨちゃんが言いたかったのは、こういうことか」
佳世子は満面の笑みを浮かべた。
「このおひなさまはね、私。私なの。みんなと一緒なら、さびしくない」
「佳世子……」
振り返ると、近江がいる。
佳世子の雛飾りをみて、呆然と立ち尽くしている。
「おまえってやつは……」
また怒られるか、と思い、佳世子がおひなさまをかばうように立つと、近江は駆け寄ってきて、佳世子の小さな体を感極まったようにひしと抱きしめた。びっくりした。群青たちの前で近江がこんなあからさまな愛情表現をしたことがなかったからだ。
「そういうことだったのか。そういうことだったのか、佳世子……」
ようやく伝わったらしい。佳世子が言いたかった「幸せ」の意味が。
「すまん……、佳世子。俺は本当にできの悪い兄だ」
「ううん、謝るのは私。兄ちゃん、みて」
佳世子は大きな女雛の前に、近江が買ってきた小さな木彫りの立雛一組を並べ、その両脇に折り紙のぼんぼりを置いた。
「私のためにおひなさまを買ってくれてありがとう。大切にするね」
「佳世子……」
近江は男泣きしてしまう。おんおん泣き出した近江を見て、慰める佳世子はまるでお母さんだ。
小さな男女の立雛を、大きな女雛が後ろから見守る様は、あたかも母親のようで、その目元の微笑みもひどく慈しみ深く見えてくる。そうなると、木彫りの男雛と女雛は夫婦ではなく、兄と妹であるように群青の目には見えてきた。
これはもしかしたら佳世子の心象風景なのか。
「うん……。そうだな、佳世子。これでいいんだな」
「よくないよ」
と言ったのは群青だった。困り果てて眉を下げている。
「おかげで俺の出番がなくなっちゃったじゃないか」
「おまえの出番? どういうことだ?」
群青がばつが悪そうに引き出しから取り出したのは、半紙を丸めた筒だ。
佳世子に「ほら」と差し出す。開いてみると、そこに描かれていたのは、
「わあ、おだいりさまだ」
男雛の絵だ。とても美しい日本画の筆遣いで描かれている。
「とても素敵! どうしたの、これ」
「アサさんに頼んで、描いてもらったんだよ」
群青は照れ隠しのようにそっぽを向いた。
「だって後添いのおだいりさまは、いやなんだろ? だったら、と思って、焼けてしまったほうのおだいりさまを描いてもらったんだ」
この女雛と元々一組だった「対の男雛」だ。
むろん、アサはその目で見たわけではないから顔立ちや装束などは実際とは違っているだろう。とはいえ、桐塑頭の雛人形といえば、おおよそこのような姿形なので、想像で描くのはむずかしいことではなかった。
なによりアサには画心があった。
白い細面は高貴を湛え、切れ長の瞳は本物のように繊細だ。薄墨を使った淡い色合いも上品で、かぐわしい香気が漂ってくるようだ。名のある画家に師事して腕を磨いただけあって、その画力は高く、素人目にも見事な筆遣いで、赤城と近江もちょっとびっくりしてしまったほどだ。
「隣に貼れば、おひなさまも喜ぶかなって思って、さ」
「ありがとう、グンちゃん。とってもすてき……」
佳世子は目に涙を浮かべている。
「きっとこんなだよ……これがこの子の旦那様だよ」
女雛の隣の壁に貼ってみた。大きさも揃っていて、男雛の水墨画から醸し出される雰囲気が女雛の雰囲気ともよく合っている。
「やっとふたり揃ったね」
「ああ、いい感じだ」
四人揃ってしみじみと見入っていると、何やら外が騒がしくなってきた。窓から覗くと、リヤカーに小さな子供たちを乗せたアメンボ団の面々がいるではないか。
「リョウ! みんなもどうしたんだ」
「ああ、今日ひなまつりだろ。みんなでカヨちゃんのおひなさまを見に来たんだ」
ここに来る前にわざわざ銭湯に行ったのか、全員やけにこざっぱりしていて、洗いざらしの服を着ている。
どやどやと子供たちが狭い家に押しかけて、雛飾りに群がった。小さい子供たちは歓声を上げ、リョウたちも奇妙な雛飾りに興味津々だ。
「どうしたんだ? この絵」
いきさつを話すと、リョウは感心した。
「そういう発想は俺にはなかったよ。さすが群青だ」
「カヨちゃん、これ」
後ろからシホコが何かを差し出した。小さな手のひらにあるのは、陶製の犬だ。
「これも飾って」
この犬を? と不思議そうにしていると、リョウが横から、
「シホコんちでは、ひなまつりに飾るのは雛人形だけじゃなかったんだって」
家にある人形をありったけ集めて一緒に飾る。みやげで買った人形や動物の置物、大小様々、なんだっていい。庶民の家ではそうやってひなまつりを祝う。
「……ということで、俺たちも」
リョウとタケオが差し出したのは、おかめとひょっとこの土人形だ。
「どうしたんだよ、これ」
「こないだ霧島の旦那んとこで働いた駄賃でな。よかったら飾ってくれよ」
いつも腹を空かせて、食べるのもやっとだというのに、空腹を我慢してわざわざ買ったというのか。群青が感激のあまり打ち震えていると、子供たちは手に手に人形を差し出してきて「これもこれも」と騒ぎ立てる。
「気にすんな。こいつらのはみんな拾ったり闇市の連中からもらったりしたやつだから」
さっそく女雛の周りに並べて置いたら、タンスの上がぎゅうぎゅうになってしまった。
子供たちは大喜びだ。
赤城と近江もそれを見て、目を細めている。
「思いのほか、いいひなまつりになったな」
「だな。よし、ガキども。ひなまつりだから、皆に大盤振る舞いだ」
近江が取り出したのは大きな巾着袋だ。中にはポン菓子がいっぱい入っている。
「わあ、バクダンだ!」
子供たちは大好きなポン菓子に大歓声をあげた。新聞紙を皿代わりにして山盛りにすると、子供たちが一斉に手を出してむさぼり始める。甘いものなどほとんど口にできていなかったので、皆、大興奮だ。
「霧島のやつがアサさんを紹介してくれた御礼にってな。俺たちにはこいつを」
と近江が差し出したのは酒瓶だ。中身が白く濁っている。
「白酒か?」
「どぶろくだ。ないしょだぞ」
子供たちは声をそろえてひなまつりの歌を歌う。
赤城と近江も、久しぶりの酒に「少し白酒めされた」右大臣のように顔を赤くしながら、子供たちの笑顔を眺めている。その中には群青と佳世子の姿もある。
佳世子がはじけるような笑顔を見せたのは何年ぶりのことだろう。
おひなさまも笑っている。
*
後日、群青は赤城と共に日暮里母子寮を訪れた。
アサに御礼をするためだ。
「まあ、わざわざありがとうございます。カヨちゃんに喜んでもらえてよかったわ」
母子寮の大部屋でアサは哲雄と一緒に頭を下げた。あれからアサは少し顔色もよくなって精がついてきたようだ。霧島から張り合いのある仕事を任されて、気持ちが上向いたおかげだろう。
「それで……これ、画の御礼です。うちで作った石鹸なんです。一番うまくできたやつを持ってきたんで、安心して使ってください」
袋には棒状の石鹸が入っている。まるで金塊のようだ、と哲雄は興奮し、アサはあまりのありがたさに涙を浮かべている。
「貴重な石鹸を、こんなにたくさん……。ありがとうございます。本当に何から何まで」
「いえ、御礼を言うのはこっちです。いただいた作品は大切にさせてもらいます」
「ほらな、うちの母ちゃんの絵は日本一……いや、世界一なんだ」
哲雄が胸を張ると、アサから「こら哲雄」と叱られた。
「あなた、群青くんに助けてもらったんでしょ。御礼を言いなさい」
「そんなのしらねーよ。覚えてねえよ」
と言ったら、アサが哲雄の耳を引っ張り、強引に頭を押さえつけて下げさせた。盗みのことはその後、すべて白状したらしい。
「お店の方々にお詫びをしなければならないのですが、どうすれば」
ふたりは顔を見合わせた。彼らも被害にあった店のひとつだったが、
「ああ……いや、今となってはどこの店かもわからないんで。闇市への出店はそもそも違法ですし、警察にも通報はされてないはずなんで」
それより、これからどうするんです? と赤城がアサに問いかけた。
「霧島はぜひアサさんにまた包装のデザインをお願いしたいそうですよ」
「とてもありがたいお話なのですが」
アサはそう言って、慎ましげに三つ指をついた。
「青森に帰ることにしました」
赤城と群青は意表をつかれた。
「ご実家に戻られるんですか」
「はい、霧島さんからお仕事をいただいたおかげで、幾ばくかの汽車賃もできたので、これを機に……。実家はリンゴ農家をしているので、それを手伝いながら、この子と一緒に励んでいこうと思います」
ひなあられの包装紙はとても評判がよく、あっというまに完売したので、てっきり霧島のもとでデザインの仕事を続けるだろう、と思っていた群青は肩を落とした。
「そうですか……」
「田舎ですので、口さがない人たちからはいろいろ言われるかもしれませんが」
「母ちゃんは俺が守る」
哲雄が真剣な顔で宣言した。
「陰口たたかれようが石投げられようが、俺が母ちゃんを守り抜く。リンゴで稼いで、いつか東京の八百屋にもたくさん卸しに来るさ。その時は俺たちのリンゴ、たくさん買ってくれよな」
「もちろんだよ」
群青が手を差し出した。
「そん時ゃ、俺たちも日本一の石鹸屋になってる。負けないぞ」
固く握手をして互いの健闘を祈りながら「元気で」と言う。
群青たちは名残を惜しみつつ、高柳親子に別れを告げた。
外に出ると、ほんのり暖かい風に乗って沈丁花の甘い香りがした。
日は西に傾き、線路沿いの道にはふたりの長い影が伸びていた。駅に停まる電車のパンタグラフ越しに、真っ赤な夕陽が春霞に溶けて散乱している。
仕事帰りの背広男性が足早に過ぎるその向こうでは、ガード下で寝泊まりする復員兵が煮炊きをしている。リヤカーを引いて家路をたどるどこかの親子は晩飯の献立を当て合っている。
残念だな、と群青はずっとぼやき続けていた。
「うちの石鹸の包み紙も、きっとアサさんに描いてもらおうと思ってたんだけどなあ……」
「仕方ないさ。先のことより目の前の生活だから」
霧島の事業は立ち上げたばかりでまだまだ小さい。アサたち母子の生活を支えられるほどの依頼ができる状況でもない。正式に雇って給料を払えるまでになればいいが、それはだいぶ先の話だろう。
「才能があるだけに惜しいが、いつかきっと青森の地元でも、その才能を発揮する機会があるさ」
「あんちゃんは、ほかの意味で〝ちょっと残念〟だったんじゃないの?」
群青がいたずらっぽく言って、赤城の腕を肘でこずいた。
「アサさん、きれいなひとだったもんなあ。うまくいけば、あんちゃんのいいひとになれたかもしれないのに」
「ばか。なに言ってんだ」
「とぼけなさんな。さっきだってやけに熱いまなざしでアサさんのこと、じーっと見てたくせに」
群青の観察眼に、赤城は少々うろたえながら、
「あれはそういう意味じゃない」
「じゃあ、どういう意味だよ。白状すれば? このひとをお嫁さんにできたらなあ、なんて思ってたんだろ」
「おふくろを思い出してた」
ニヤニヤとからかっていた群青が不意に真顔になった。
「あんちゃんの、母さん?」
「うちも父親が早死にして、母は若くして未亡人になってな。その後、金持ちの男の後添いになったんだ」
「あんちゃんはおふくろさんが生きてたのに養子に出されたの?」
赤城は暮れていく隅田川に映る夕焼け空を眺めて、遠い目をした。
小舟の航跡が広がって岸に打ち寄せるさざ波となる。そこに子供の頃の記憶を映している。
母恋しさに訪ねていった自分を、すげなく追い返した母は、鬼のような顔をしていたと記憶していたが、いま思えばあれは、うろたえて、泣き出す寸前で涙をこらえるために歪んだ口元が、鬼の面のように見せただけだったのかもしれない。
「捨てられたと思って子供心に恨んだこともあったが、あの母子を見ていて、当時のおふくろの心情が、少しだけわかった気がした」
子供を抱えて女がひとりで生きていくのは、困難な時代だった。
赤城の母親のように、生活のためにやむをえず、心に添わぬ縁談を受ける者も少なくなかった。好きでそうしたわけでもないだろう。それも生きるためだ。生きるための選択だ。
「よその男の妻になっても、亡き父を心の中でずっと想っていたのなら、もう、それで許そうと思ったんだ」
当時ですら、そうだった。今はもっとだろう。母子寮の大部屋で赤子を抱いていた母親の疲れ切った表情が目に焼き付いている。手に職をつけて自立できていたはずのアサですら、この終戦の混乱を乗り切るのは難しかった。
群青は佳世子の雛飾りを思い浮かべた。
絵に描かれた男雛の姿はまるで出征軍人の遺影のようでもあった。皆が皆、どうにかしてこの苦境から這い上がろうと、道を探している。生き続けるということの過酷さを、こんなに大勢の人間が一度に味わった時代は他になかった。
「それでもいつか、自分の人生は幸福だった、と言える日が来るよう、前に進んでいかないとな」
「来るのかな……。そんな日が」
「来るさ、きっと。それまであがくだけ、あがこう」
赤城はそう言って群青の肩を強く叩いた。
「霧島の菓子屋に負けないよう、俺たちも本腰入れて石鹸を作らないとな。また明日から小屋にこもるぞ」
「うん」
「そうだ。そろそろ石鹸の名前も考えておかないとな。群青、何かいい案はあるか」
薄ぼんやりとだが、群青にはイメージがあった。
冷たい夜の深い闇を払う朝焼けだ。闇が溶けて藍色になり、地平線の裂け目から空を赤紫色に焦がして朝を連れてくる。この手でつかむのだ、夜明けを。そんな石鹸が作れたらいいと思っている。
「考えとくよ」
赤城を見上げて笑った群青の頭を、赤城がまた大きな手でガシガシとかき混ぜた。
その手は相変わらず分厚かった。
佳世子の雛人形はそれから毎年、桃の節句がやってくるたびに赤城家の居間に飾られた。
その隣には、きれいに額装された男雛の絵が必ず添えられた。
ひなまつりが来るたびに、佳世子はそれを見てうれしそうにしている。
霧島製菓のひなあられは、それから長きにわたるロングセラーになっていったが、その包装に使われた雛人形の絵だけは、いまも創業当時から変わることはない。
【おわり】