焼け跡のひなまつり 前編


 ことの起こりは、きんちょうやみいちでのことだった。
‌ さかがみぐんじょうはこの日、妹分である近江おうみをつれて買い出しにやってきた。とある店の前を通りかかったとき、佳世子がふと足を止めてこう言った。
‌「あ、おひなさま」
‌ 見ると、日用雑貨に埋もれるようにしてひなにんぎょうが置いてある。闇市ではありとあらゆるものが売っているけれど、その雛人形は異彩を放っていた。
‌ びなだった。
‌ とても古い雛人形のように見えた。のっぺりと白いほそおもてに、小さいがきれいなぎょくがんがはまっていて、おちょぼ口にさしたべにがまるで梅の花のように上品だ。だが、みぎほおにはすすの跡があり、きんらんほどこされた赤いじゅうひとえもほつれがひどく、薄汚れてしまっている。それでも、幾重にも布を重ねてふっくら綿入れしたそでは、熟練の人形職人が手がけたもののようで、細やかな技が感じ取れる。
‌「おだいり様がいない」
‌ 店先に並んでいるのは、女雛だけだった。
‌ 店番をしていた老齢男性に尋ねると、
‌「おだいり様は焼けてしまったんだよ」
‌ 去年の三月十日の空襲で家ごと焼けてしまった中で、この女雛だけがなんとか無事で見つかったという。だが、女雛だけでは雛飾りにならない。仕方なく、日用品と共に売ってしまおうと思いたったのだという。
‌「もしびなだけ残った家があったらめとってもらえるかもしれないからねぇ」
‌ 帰り道で、佳世子はしきりに「かわいそう」と言っていた。家に戻って、佳世子の兄の近江ゆうきちにその話をしたら、さもありなん、と同情していた。
‌「人間だけでなく雛人形まで未亡人か。つくづく戦争ってやつは」
‌ 夫が戦地で死んでしまった戦争未亡人は、いまの日本には大勢いる。
‌ その無念を、焼け出された女雛に重ねて、気の毒だな、と近江は言った。
‌「雛人形は男雛女雛を一組にして売るものだからなあ。片方だけ買うっていうのは」
‌ かわいそう、と佳世子がまた言った。
‌「あのまま売れずに捨てられちゃったら、かわいそう。ねえ、あんちゃん。あのおひなさま、うちにお迎えしてあげようよ」
‌「女雛だけのひな飾りなんてえんが悪いだろ」
‌ 商売を始めたばかりで日々ふところ具合はカツカツだ。佳世子もあきらめるしかなかった。
‌ だが、女雛の行方ゆくえがずっと気にかかっていたようで、闇市で見かけるたび、佳世子は「かわいそう」を繰り返す。女雛の境遇に寄せて、昔を思っている。まだ家族がみんな生きていた頃、家で桃のせっを祝った。戦争が激しくなる前の幸せな思い出が、佳世子を切なくさせているのだ、と群青は理解した。
‌「もうすぐ、ひなまつりか

‌ りっしゅんを過ぎて、復興途上の東京にも日に日に春の気配が感じられるようになってきた。
‌ 阪上群青にとって、初めて内地で迎える春だ。
‌ 去年の夏に終戦を迎え、大陸に住んでいた日本人は海を越えて内地に引きげてきた。日本の植民地だった朝鮮半島の、朝鮮総督府があったけいじょうで生まれ育った群青にとって、内地は初めての土地だった。「見知らぬ祖国」に「引き揚げ」てきて、空襲で焼け野原となっていた東京にやってきたのは、ほんの三ヶ月前のことだった。
‌ 内地に知り合いはいない。
‌ 母親は引揚船の上で行方不明になった。
‌ 生まれつきの母子家庭で、他に頼れる者もいなかった群青は、引揚港だったはかにひとり上陸することになってしまった。身寄りもなく、これからどこに行けばいいのかすらわからず、立ち尽くしていた群青に「ついてこい」と声をかけてきたのは、赤城壮一郎という男だった。
‌ じょうも知れないその男に、ついていくしかなかった。
‌ 東京へとたどり着いたものの、あてにしていた赤城の養父母は行方不明で、空襲で焼かれたその土地には近江勇吉・佳世子兄妹が勝手に小屋を建てて暮らしていた。見つけた時は危うく刃傷沙汰になるところだったが、色々あって一緒に住むことになり、今に至る。
‌ 群青にとって赤城と近江兄妹は今ではもう、終戦の混乱を共に生き抜くサバイバル仲間だ。
‌ ついこの間まで赤の他人だった赤城たちとバラックで寝起きして、ひどい食糧不足の中、互いに知恵をしぼり合い、どうにか食いつないできた。
‌「群青、手がいているなら、そこの板、持ってきてくれ」
‌ その赤城は、建て増し中のバラックに新しい部材を釘打ちしているところだった。
‌ ほんじょかいわいは空襲で大方焼けてしまい、焼け野原が広がっていたが、ぼちぼちと家も増えてきた。防空壕の穴蔵暮らしからようやく脱せた人達もいて、ここが町だったことを思い出せるくらいにはなってきたようだ。
‌ 雨風をしのぐだけだった廃材小屋は日に日に家らしい形になってきて、不慣れだった大工仕事もだいぶ板についてきた。群青はリヤカーから廃材を運びながら、赤城の広い背中を眺めている。
‌ うなじにまでかかる縮れ髪がオオカミみたいだ、と群青が最初に抱いた印象は、いまも変わらない。満州の荒野をゆく旅人のようなちで、ふうぼうは一匹狼のようだが、その中身はきょうしんがあって群れの仲間を大切にする、根っからの「兄貴」体質だ、と群青は思う。
‌ 大陸ではまんてつ(南満州鉄道株式会社)に勤めていたという。社員十万人以上を抱えていた巨大企業で、鉄道だけでなく、鉱業からホテルまであらゆる業種を扱っていたが、赤城がどんな仕事についていたのかは、わからない。
‌ だが、ただの面倒見のいい兄貴などではない。
‌ 母親のかたきかもしれない男だ。
‌ 俺は見たぞ。
‌ 群青の耳には「片眼の潰れた男」の証言がこびりついている。
‌ あの船の上で、あいつがおまえの母親を海に突き落としたのを。
‌ 引揚船でのことだった。あの日、群青は真夜中の甲板で「どぼん」と何か重たいものが海に落ちる音を聞いた。見ると、黒い海面には水柱のあがった痕跡が残っていた。船のへりに立ってその痕跡を凝視していたのは、赤城だったのだ。その足下には母のまもりが落ちていた。
‌ 赤城が母を殺したのではないか。
‌ 片眼の男の「証言」を聞いて一時は疑念と憎悪でり固まってしまった群青だったが、右も左もわからない内地で、赤城と行動をともにし、その人柄に触れていくにつれ、次第に男の告げ口のほうを疑うようになっていった。だが
‌ 君のお母さんは戻ってこない。もう二度と。
‌ 赤城に博多港で呼びとめられ、そう言われた。母から預かったという手紙には、遺言とおぼしきメッセージが記されてあった。

‌〝ごめんね。群青。
‌ 強く生きていくのよ〟

‌ なぜ、母は赤城にそれを預けたのか。
‌ なぜ、二度と戻ってこないと断言できるのか。
‌ 自ずと答えは出た。赤城は、母が引揚船から消えた真相を知っているのだ。
‌ だが、聞き出せない。
‌ 聞き出す勇気が持てないまま、赤城はいつしか、群青が生きていく上で、なくてはならない人間になっていた。
‌「女雛を引き取りたがっている? カヨちゃんが」
‌ 群青からいきさつを聞き、赤城はかなづちを置いてやかんの水を一口飲んだ。
‌「なるほど、未亡人雛ってことか。カヨちゃんの気持ちはわかるが、確かにひなまつりに飾るには、ちょっとなあ
‌ 桃の節句の雛飾りは、男雛と女雛が揃ってやっと形をなす。女の子のすこやかな成長と幸せを祈る祝いの席だ。戦争で家族を亡くし、ただひとり生き残った大事な妹には、元気に育って、いずれは良縁を得て結婚し、健やかな家庭を築いてほしい。そう願う近江にとって、やはり女雛のひとり飾りは「縁起が悪い」。
‌「まあ、そのとおりなんだけどさ。カヨちゃんは優しいから、生き残ってひとりぼっちになったお雛様の気持ちがわかっちゃうんだよ」
‌ とは言え、しょせん、人形だろう、とは赤城は言わない。せんさいで思いやりのある佳世子は、物言わぬ動物や人形にも感情移入ができてしまう。そのおかげで群青と赤城はここにいられるとも言える。初めて出会った時、近江が追い払ったふたりを「気の毒だ」と言って呼び戻してくれたのは、他でもない、佳世子だったからだ。
‌「近江のアニキは、カヨちゃんはひなまつりがしたいだけだろ、なんて言ってるけど、きっとそういうことじゃないんだよな
‌「よう、赤城。群青」
‌ 玄関先から声をかけてきた男がいた。
‌ らくだ色のがいとうに身を包んだ、四角い顔のいかつい男だ。
‌「きりしまじゃないか。どうした、珍しいな」
‌ 霧島だいは赤城の同僚だ。元満鉄社員で同じく引揚者だった。赤城の仲立ちで錦糸町の菓子工場と手を組み、うえのガード下であめの製造販売を始めたところだった。
‌「近くまできたもんだから、どうしてるかと思ってな」
‌「商売のほうはどうだ。順調か」
‌「おかげさまで飴の売り上げは右肩上がりだ。群青ありがとな」
‌ 当初は氷菓子を売っていた。寒くなって売れなくなり、困っていたところに群青が「アイスキャンディーが駄目なら飴を売ったら?」と提案したのがきっかけだった。
‌「アメンボ団の連中もよく頑張ってくれてるしな。これも近江が格安でサトウキビを売ってくれるおかげだ。ほら、群青。みやげだ」
‌ と紙袋を渡す。開けてみると、中に入っていたのはポン菓子だ。
‌「わあ、どうしたんだい? これ」
‌「菓子工場に焼け残ってたバクダンを修理したんだ」
‌「不発弾か」
‌「はは、ちがうちがう。こくもつぼうちょうのことだ」
‌ 穀物を入れた釜に圧力をかけ、フックをハンマーで叩くと一気に圧力が解放されて、穀物がふっくらふくれる。その時の「ぼん」という大きな音が、まるで爆弾のようだというところからそう呼ばれた。
‌「いまは米が貴重品だし、客のほうから持ち込まれでもしない限り、当面ポン菓子には使えんが、代わりにひえあわで作れないかと思ってね。なんとかかき集めて試作してみたんだ。味見してくれ」
‌ 群青が口に運ぶ。米よりも小粒でそこまでフカフカしてはいないが、雑穀の風味にほんのり甘みもあり、ポン菓子特有の歯触りも楽しめる。
‌「うん、まあまあうまいよ。もっと甘いと、なお、いいけど」
‌「いまはこれが限界だな。来月は桃の節句だろ。こいつで一丁、ひなあられでも作って売り出してみようかと。ん? どうした?」
‌ 赤城と群青が微妙な反応をみせたので、霧島が理由を尋ねた。群青が佳世子の話をすると、
‌「おひなさままで戦災未亡人か。なんな世の中だな」
‌「雛人形を買う余裕もないし、うちのひなまつりはまた来年かな
‌ 今日を生きるのに精一杯な赤城たちにとって「来年」なんて遠い未来すぎて想像もつかない。
‌「ひなあられか。白酒のほうがありがたいかもな」
‌ 赤城も稗ポン菓子を口に放り込んで、うっすらとした甘さをかみしめるように味わった。

‌         *

‌ それでも一番こくな季節は乗り越えた。
‌ まだまだ朝晩は凍える寒さだが、降り注ぐ日差しには春の気配が感じられるようになり、寒さも確実にゆるみつつある。空襲で焼けずに残ったどこかの庭の梅が、れんな花をつけるようにもなった。
‌ そんなある日のことだった。
‌ いつものように錦糸町の闇市に買い出しにきた群青たちが、例の未亡人雛の店先を通りかかると、まだ売れ残っている。さすがに買い手はつかないとみえる。
‌ と、そのときだ。
‌「お嬢ちゃん、この雛人形もらってくれないかい」
‌ 店の主人が佳世子に声をかけてきた。代金はいらない、という。
‌ 売れなければ捨てることになる。さすがに忍びないので、もしよかったら、もらってやってくれないか。
‌ 申し出に群青は困惑した。女雛だけしかない雛人形を押しつけるのは、さすがに常識外れだし、無礼だとも感じた。きっぱり断ろうとしたのだが、
‌「実は、この人形は初孫のものだったんだがね、空襲で母親と一緒に行方不明になってしまって。家に置いておくのもつらいものだから」
‌ 通りがかるたび気にかけてくれた佳世子の姿を覚えていたのだろう。
‌ 群青は「帰るぞ」と手を引いたが、佳世子は動かなかった。
‌「わかりました。もらいます」
‌ ぎょっとしたのは群青だ。すぐに止めたが、佳世子は耳を貸さなかった。
‌「そのおひなさま、私が連れて帰ります」

‌ あんじょう、近江が怒った。激怒した。
‌ 人様のうちからお古の雛人形をもらってくるなんて、どういうつもりだ。しかも空襲で死んだ子供のものだと? そうでなくても「未亡人雛」なんて縁起が悪いにもほどがあるというのに。
‌「そもそも信用ならん。孫の形見を売ろうとしたんだぜ?」
‌「高く売りたくて持ってきたんじゃないって言ってたわ。もしどこかにおだいり様だけ残った家があったら、お嫁入りさせてもらおうと思ったって」
‌「雛人形がほしいなら、そのうち俺が新品を買ってやる。今はまだ無理だが、いつか買う余裕ができたら」
‌「いや。このおひなさまがいい。このおひなさまでないとイヤ」
‌ 近江は頭を抱えた。佳世子は心根の優しい子だが頑固なところがある。こうと決めたら絶対にゆずらないところは群青とも似ている。
‌「もういい。勝手にしろ」
‌ 佳世子はさっそく女雛を飾った。空襲で焼け出された古い箪笥たんすがあったので、その上を片付けて居場所とした。女雛の乱れた髪をくしですき、顔と衣をきれいにぬぐって、梅の枝をぎゅうにゅうびんにさしてやると、少し雛飾りらしくなった。
‌ とは言え、やはり女雛一体だけでは、寂しい。
‌ 群青と赤城は顔を見合わせた。こうなっては仕方がない。
‌「男雛を探してやるか」

‌         *

‌「おひなさまののちいを探してる? なんだよ、それ」
‌ 群青が真っ先に頼ったのは、上野の戦災孤児リョウだった。
‌ 上野駅周辺で寝起きする戦災孤児のグループ「アメンボ団」のリーダーで、群青が内地に来て初めてできた友でもある。
‌ 上野駅は東北方面から来る汽車の終着点であり、玄関口でもある。行き交う人々で活気にあふれる駅前には、戦争で家や家族を失った戦災孤児が多くたむろしていて、汚れた身なりですぐにそれとわかる。シケモクを集めたりくつみがきなどをして小銭をかせぐ者もいるが、中にはひどい悪さをする者やヤクザの使いっ走りになる者もいた。
‌ リョウがひきいる「アメンボ団」は犯罪には手を染めないことを信条としていて、団結が強い。リョウは群青と同い年の中学生だが、その華奢きゃしゃな体つきときれいな顔立ちからは想像できないほどおとこのある少年で、子供はもちろん大人たちからも信頼が厚い。今は霧島大悟の菓子製造会社で荷運びなどの手伝いをしており、稼いだ小遣いで団員の小さな子供たちを食べさせている。
‌ 上野のやみいちはこのあたりでは一番大きい。ここでなら「男雛」を探せるのではないか、と群青は考えたのだ。リョウは声をあげて笑った。
‌「後添いって、ふつうは後妻のことだろ。男女が逆じゃないか」
‌「逆でも、他に言いようがないだろ」
‌「未亡人雛に再婚相手を探すだなんてさすが群青。面白いこと考えるもんだなあ」
‌「カヨちゃんのためだよ」
‌「もうすぐひなまつりだもんな。うちにも七段飾りの立派なおひなさまがあったよ。昔ははまぐりと菜の花のお吸い物で祝ったもんだなあ
‌ え? と群青は聞き返してしまった。
‌「おまえ姉妹がいたのか? ひとりっこじゃなかったっけ」
‌ リョウははっとして、慌てて両手を振り、
‌「ううちは呉服屋だったから店で飾ってたんだよ」
‌ ふうん、と群青はあっさり納得している。
‌ リョウは桃のせっの楽しさを語り出した。そんなリョウは空襲で両親を亡くし、家も焼けて帰るところを失った。しんせきも見つからず、頼れる者もなく、それで上野駅に住み着いた。桃の節句を楽しく迎えられた頃のリョウは、そんな自分に上野の地下道で寝起きする未来が待っていようとは思いもしなかったはずだ。
‌ 他の浮浪児に比べれば、リョウたちは身なりこそ薄汚れているけれど、まだマシなほうといえる。霧島の菓子屋を手伝った小遣いで少ないながらもなんとか飯にありつける。たまに銭湯にも行かせてもらえる。闇市の知り合いから売れ残りの古着をもらえたりもする。それらの恩恵はすべてリョウの才覚によるものだ。運も良かった。
‌ ほとんどの浮浪児はひどいものだ。風呂など入れないからあかだらけで肌が黒ずみ、男女の区別もつかない。髪は汚れとあぶらで張り付いて、服にはシラミをびっしり住まわせ、近くにいるだけでそれとわかるきつい悪臭を放っている。そのために野犬のような扱いを受けている。
‌ 少し前まではリョウたちもいや、戦災孤児だけでなく復員兵や引揚者も皆似たような状況だった。が、ここにきて個々の状況に差が生まれ始めている。うまくいっている者とそうでない者の差が、目に見えるようになってきていた。
‌ マシなほうとは言え、地下道暮らしが過酷であることに変わりはない。リョウたちは毎晩身を寄せ合って真冬の寒さをしのいでいるのだ。そんな彼らに比べれば(小屋に毛が生えたようなものとはいえ)屋根のある家に住める群青は恵まれている。
‌ リョウが楽しい思い出を語るほど、いまを生きるか死ぬかで必死な彼らに、のんきな頼み事をしている自分が、だんだん無神経に思えてきた。
‌「やっぱり、ごめん、こんなことをおまえたちに頼むのはおかどちがいだよな。自分で探すよ」
‌「なんで? 面白そうじゃないか」
‌ リョウは全く気にしていなかった。
‌「カヨちゃんにはドラム缶風呂で世話になったし、皆の服をせんたくしてもらってたりしてるしな。桃の節句を楽しませてあげたいじゃないか。おだいさま探し、アメンボ団が引き受ける」
‌ リョウは一度心を開いた相手にはとことん気前がいい。過酷な路上生活にあって心をすさませないすべも知っている。そんなリョウだからこそアメンボ団を率いるリーダーであれるのだ。
‌「しかし、いくら上野の闇市は百貨店並とは言え。男女一組の内裏びななら探せば出てくるかもしれないが、男雛だけ譲ってくれとは言えないぞ」
‌ 確かにそれでは略奪婚になってしまう。
‌ だが運が良ければ、あるいは、と思い直し、群青はリョウと上野の闇市を探して回った。人形自体を置いている店はいくつかあったが、いちまつ人形や木彫り人形ばかりで、尋ねてみてもかんばしい返事は返ってこない。
‌「いっそ雛人形じゃないもので代用してみるのはどうだ? たんの節句のしょう人形とか」
‌ それなら単体だし、手に入る確率はあがりそうだ。
‌ 背に腹は替えられない。桃の節句までいくらもないし「代用致し方なし」と決め、アメンボ団の皆には闇市に並ぶ人形の情報を集めてもらうことにした。
‌ 瞬く間に、どこの店に何の人形があるか、情報が集まった。博多人形にセルロイド人形、ぬいぐるみ、きょうがんに土人形、大小様々なものが候補にあがった。
‌ 雛人形と大きさが近い三つに絞られた。祭りしょうぞくの博多人形、こぶりな武者人形、どこかの神社の御神像。ここからは作戦会議だ。
‌ アメンボ団の集合場所である地下道からの上がり口で、リョウとタケオと群青は、額を付き合わせて議論した。祭り装束の博多人形は、値段はぼちぼちだが、はっぴにふんどし姿で、じゅうひとえびなと並べると少々しょみん的すぎる。武者人形は端午の節句用で、雛人形と同じとうがしら、作風もよく似ているが、よろいっていてやたらと高価だ。最後の御神像は木像のかんそくたい姿で、見た目は男雛にそっくりだが、出所がはなはだ怪しい。神社からの盗難品だったらバチが当たりそうだ。
‌ タケオは勇ましい武者人形を推し、群青は笑顔が福々ふくぶくしい博多人形を推した。
‌「一番釣り合いそうなのは武者人形だが、何せ値段が高すぎる」
‌「そんなの値切りゃなんとかなるさ」
‌「簡単に言うな。半額になったって簡単には手が届かないぞ」
‌「やっぱり博多人形にしとこうよ。楽しそうでいいじゃないか」
‌「しかし十二単の隣にふんどし姿はちょっと、なあ」
‌ 結局決めきれず、明日また他の闇市もあたってみることにした。
‌ 夕方、群青が家に帰ってくると、何やらいさかいをしている声が聞こえてくる。 近江と佳世子が言い争っている。あの兄妹がけんかとは、珍しい。
‌ ちゃぶ台の上に、見慣れない木彫り人形が置かれている。一刀彫りの小さな雛人形だ。男女揃った一組の立雛だった。
‌ 外で魚を焼いていた赤城に言い争いの原因を尋ねると、近江が闇市で見つけて買ってきたという。だが、そのせいで佳世子が怒り出してしまったのだ。
‌「おまえが雛人形をほしがってるからせっかく買ってきたのに、なんで怒るんだ」
‌「あんちゃん全然わかってない。私は雛人形がほしいんじゃないの。このおひなさまをつれて帰りたかっただけなの」
‌ 原因は近江の勘違いだ。自分が買ってきた男女一組の雛人形を飾って、未亡人雛は処分しろ、などと言い放ったものだから、佳世子が激怒してしまったのだ。
‌ むりもない、と群青は思った。妹の幸せを願う兄の気持ちもわかるけれど、未亡人雛にことのほか深い思い入れがある佳世子にとって、処分するなどありえない。
‌「わがままもいい加減にしろ! 新品の雛人形なんて今の俺たちが買えるわけないじゃないか。この小さいのでがまんしろ」
‌ 近江のまとはずれなしっせきに、群青と赤城は「そりゃまずい」ととりなしにかかった。
‌ 案の定、兄の不理解に絶望した佳世子は、大きな瞳に涙をためて、未亡人雛を抱きかかえると、
‌「あんちゃんなんて大嫌い!」
‌ 家から飛び出していってしまった。驚いた群青が追いかけようとしたが、
‌「ほっとけ、群青。あんなわがまま娘、少し頭を冷やせばいいんだ」
‌ 近江は不機嫌になって、闇市で買ってきた木彫りの雛人形を箱にしまっている。どうやら「新品の高級品でなかったから気に入らなくて怒ったのだ」と勘違いしている。
‌ しかし、外はもう暗い。街灯は大通りにしかなく、小学生の夜歩きは心配だ。
‌ 赤城が腰をあげた。
‌「おい、連れ戻さなくていいぞ、赤城」
‌「そんなわけにはいくか。おまえこそ、もう少しカヨちゃんの気持ちを考えてやれ」
‌ 生焼けの魚を残して、赤城も出ていってしまった。近江はふてくされ、かわりに七輪の前に座った。どいつもこいつも、とぼやいて、うちわをはたく。
‌ 取り残された群青は、弱り顔だ。
‌ 牛乳瓶にさした梅のつぼみはほころびはじめている。

‌ 家を飛び出した佳世子に、赤城は橋の手前でようやく追いついた。
‌ 佳世子は未亡人雛を抱きかかえて、泣きじゃくっている。
‌「大丈夫か、カヨちゃん」
‌ 追いかけてきた赤城に気づいた佳世子は、たまらず赤城にしがみつくと、大きな声でワンワン泣き始めてしまった。赤城はなだめるように背中をさすってやり、佳世子の顔をのぞき込むようにしゃがんだ。
‌「ありゃあ、近江が悪い。カヨちゃんの気持ちも考えないで、あんな言い方はないよな」
‌ 佳世子は何度もうなずきながら、しゃくりあげている。小さな手で女雛を抱えている。
‌「あんちゃんみたいなわからずや、大嫌い。私、おひなさまと一緒にリョウさんのところにいく」
‌「それはだめだよ。カヨちゃん」
‌「もううちには帰らない。アメンボ団に入る」
‌ 頑として聞かない佳世子にさすがの赤城も手を焼いた。
‌「カヨちゃんがいなくなったら俺と群青がさびしい」
‌「。でも帰ったらあんちゃんにおひなさま捨てられちゃう」
‌「そんなことはさせない。近江が何と言おうと、俺がおひなさまを守ってやるから」
‌ ほんと? と佳世子が大きな瞳で見つめ返してくる。赤城はうなずいた。
‌「俺が近江を説得する。だから、今日のところはうちに帰ろう。な?」
‌ ようやく落ち着いた佳世子は、赤城と手をつないで帰途についた。あたりは日も落ちてもう真っ暗だった。き地を埋める小屋のような家々から漏れる明かりが不思議と温かい。家路を急ぐ人々を乗せた路面電車とすれ違った時、佳世子が言った。
‌「壮一郎兄さんとグンちゃんがいてくれてよかった」
‌「俺たちを呼んでくれたのはカヨちゃんだからな。感謝してるよ」
‌「ううん、あのおうちはもともと壮一郎兄さんのお父さんたちのだもん。居候してるのは私たちのほう」
‌ 佳世子は赤城の大きな手をぎゅっと握り、
‌「勇吉兄ちゃんは私を守るので必死なの。ありがとうって思うんだけど、時々、なんだかずれちゃってて、悲しくなっちゃう」
‌ それは赤城も感じている。近江は、こと佳世子に関しては、自分が死んだ両親の代わりにならねば、との気負いがある。兄としての責任感から「妹をどこに出しても恥ずかしくない人間にせねば」と厳しく接する一方で、「人並みの幸せ」を与えてやりたいと願っている。何も持たない自分は「人並みではない」と不甲斐ふがいなく思っているからこそ、余計にだ。こだわるあまり、佳世子の気持ちを時々置いてけぼりにしてしまう。
‌「壮一郎兄さんやグンちゃんのほうが、ずっと私の気持ちわかってくれてる」
‌「肉親だからこそ見えないこともあるんだよ」
‌「そういえば、壮一郎兄さんの本当のお父さんとお母さんは?」
‌ 本所に住んでいたのは養父母だった。父方の遠いしんせきだった。
‌「うちは父親が病気で早死にしてしまってね。母親の再婚相手が連れ子を嫌って、俺は養子に出されたんだよ。養父母は裕福だったが、折り合いが悪くて、あまり家にはよりつかなかった。大学に行かせてもらったことには感謝してる」
‌「お母さんは生きてるの?」
‌「いや、五年ほど前に病気で。俺は満州にいたから葬式には出られなかった。そのうち落ち着いたら墓参りにもいかないとな」
‌ 母親と別れたのはもう二十年以上も前だ。子供心の寂しさから、一度、再婚先にこっそり会いに行ったことがあったが、夫の目を気にした母親からけんもほろろに追い払われてしまった。以来、一度も会っていない。
‌「思えば、家族ってやつには縁が薄かったな
‌ 赤城の淋しさが想像できたのか、佳世子は赤城の手を握る手にぎゅっと力をこめた。
‌「私たちは壮一郎兄さんの家族よ。ずっといっしょよ」
‌ 佳世子の言葉が胸にしみた。ああ、とうなずき、
‌「カヨちゃんは俺たちの妹だ」
‌ 赤城たちの家が見えてきた。少し前にようやく裸電球がひとつ灯った。家かられる明かりは、小さな灯台のようだ。
‌「群青たちがびなのかわりになる人形を探してる。桃の節句までにはきっと新しいお婿むこさんを迎えられるよ」
‌ 佳世子の表情がぱっと明るくなったが、ふとかげり、
‌「でも、私たちが押しつけちゃっていいのかなあ。おひなさまは今も、前のおだいりさまのことが好きなんじゃ
‌ 赤城ははっとした。失った男雛の代わりがあればいい、と単純に考えたが、それは飾るほうの勝手な都合で「おひなさまの気持ち」などという視点は全くなかった。佳世子にとって雛人形はただの「形」ではない。生きている者と同じ「心を持つ存在」なのだ。
‌ 飾って眺める側は満足できても、当人はどうなのか。
‌ だが、こればかりは雛人形に尋ねても答えは返らない。
‌ 焼け跡の街によいみょうじょうが輝いている。

‌         *

‌ 赤城が「守る」と約束したものの、佳世子は気が気でなかったようだ。
‌ 近江のことだ。目を離したすきに女雛を捨てられてしまうのではないか、と警戒して、佳世子はすっかり「おひなさま警備隊」となってしまった。赤城からもきつく釘を刺された近江は、立場が悪い。これで雛人形を捨てたりした日には大暴動が起きて、佳世子が家出するどころか、近江が三人から追い出されかねない。
‌ そんな中、群青はリョウに会うため再び上野に向かった。
‌ 途中、やみいちの雑踏でアゴの姿を見かけた。相変わらず青白い顔をしてひとのつり目がカミソリみたいに鋭い。群青は帽子のつばを深く下げ、コソコソと人混みにまぎれて、なんとかリョウたちと合流した。
‌「武者人形、値切り交渉してみたが全然だめだ。二千円だぜ、強気すぎて話にならねぇ」
‌ あのごうつくばりめ、とタケオは悪態をついている。リョウも肩をすくめ、
‌「博多人形は昨日売れてしまったそうだ」
‌「えーっ。じゃあ、残りはあの御神像しか」
‌「あれだけは気が進まない。絶対ばちがあたるぞ」
‌ お内裏様の代理探しはすっかり行き詰まってしまった。
‌ 群青がゆうべ起きた兄妹けんかのてんまつを話したところ、リョウは佳世子にいたく同情した。
‌「近江のだんも時々ぼくねんじんなところがあるからなあ。女心がわからないんだよ」
‌「おまえにはわかるのかよ」
‌「わかるさ。それくらい」
‌「ちぇっ。リョウはきっと将来、色男になるよ」
‌ そんな話をしていたときのことだった。
‌「あっ。あいつ」
‌ リョウの目線が駅の方から闇市に向かう丸刈りの少年に釘付けになった。真冬だが半ズボンの学校服を着て、丸刈りの頭はじゃがいものような形をしている。自分たちよりひとつふたつ年下と見える少年は物色するように店先を覗き込んでいる。
‌「あいつ、もしかして前にせっけん盗んだやつじゃないか?」
‌ 闇市の店先から石鹸を盗んで、主人に捕まってしまったところを群青が助けたことがある。おかげで群青まで追いかけられるはめになったが、それがリョウたちとのなれそめにもなった。
‌ その前には群青たちの店からも売り物の調味料を盗んでいる。間違いなかった。
‌「見ろ群青。あいつ、しょうりもなくまたやる気だぜ」
‌「まだ盗みをしてるのかよ」
‌「こないだもパクの手下に捕まってボコボコにされたってのに、ほとぼりが冷めた頃にふらっとやってきて、懲りずに店のもん、かっぱらってくんだ。このかいわいじゃ見ない顔だから、どっかよそからやってきてる。いい加減、面が割れてるし、そのうちきにされて不忍池しのばずのいけに沈められるぞ」
‌ 警察に捕まるほうがまだマシだ。闇市を仕切るパクという元締めの下にはわかがしらのアゴを筆頭に気の荒い実動部隊がいて、ルールを破る者にはようしゃしない。たとえ子供でもだ。
‌ 少年は狙いを定めている。またしても石鹸だ。闇市の石鹸はこのところ、値段がぼうとうしている。今や簡単には手に入らないぜいたくひんだ。
‌「あいつ、やるぞ」
‌「止めよう、リョウ」
‌ だが下手へたに関わってとばっちりにうのは困る。しゅんじゅんしているうちに少年が雑踏に紛れて店先に近づいた。店の主は他の客とのやりとりに気をとられている。リョウが舌打ちして動いた。群青も動いた。少年が石鹸を手にとった瞬間、その手をつかんだのは、リョウだった。
‌ ぎょっとした少年の耳元に「いい加減にしろ」とささやいた。
‌「おまえ、今度見つかったら殺されるぞ」
‌ 店の主がこちらに気づいたので、群青が機転をかせ、
‌「すすいません。財布忘れたのでまたにします」
‌ 途端に少年がリョウの手を振り切って逃げ出した。すぐに後を追いかけた。少年は人混みをかきわけ必死に逃げるが、闇市はリョウたちの庭だ。口笛を吹くと、どこからともなくアメンボ団の仲間が現れ、追跡に加わる。とうとう少年を捕まえた。
‌「おまえ、ずっと前から、かっぱらいやってたろ。知ってるんだぞ」
‌ リョウに叱責された少年は、ふてくされている。浮浪児というほど身なりが汚れているわけではないが、いい家の子供でもない。すそがほつれたがいとうはだいぶ着古したものでくつにも穴が開いている。ガード下の壁際でアメンボ団に囲まれて観念したのか、開き直った態度に、群青もカチンときて、
‌「かっぱらいはもうよせ。こないだだってアゴの手下にボコボコにされたんだろ。それとも誰かから指図されてんのか」
‌「そんなんじゃねーよ」
‌「だったら二度とやるな。死にたいのか」
‌「おまえらだってさんざんやってんだろ。かっぱらいだのタタキだの。上野のフロウジはくせが悪いって有名だもんな」
‌「俺たちはやらねーよ。そのへんの悪ガキと一緒にすんな」
‌ 体の大きなタケオが胸を張る。きょうがある。が、少年はふてぶてしく、
‌「どうだかね。どうせヤクザの使いっ走りで小銭かせいでるんだろ」
‌「おまえがどう思おうと勝手だが、仲間をじょくするのはこの俺が許さん。それでも言うなら二度と口きけなくさせてやろうか」
‌ リョウがおどす時は本気だ。大きな黒い瞳に殺気がみなぎる。この上野で身を持ち崩さずに生き抜く彼らは、覚悟がちがう。その眼力に少年はされてしまった。リョウはリーダーの威厳を見せつけて、
‌「今回は助けてやったが、次はもうない。最後の警告だ。二度とかっぱらいはやるな。いいな」
‌ 少年はすごすごと逃げていってしまった。
‌ だが、素直に忠告を聞くようには思えない。
‌「何か事情があるのかも。俺、あとをつけてみるよ」
‌「ほっとけ、群青。深入りしてもいいことないぞ」
‌ そうだけど、気になるのだ。
‌ 群青が最初に見つけた時、少年が口走った言葉が耳に残っている。
‌ 母ちゃんに石鹸これを使わせてやりたかったんだよ!
‌「ちぇっ、しょうがねえなぁ」
‌ リョウは頭をかいて群青と共に少年のあとをつけることにした。
‌ 少年は上野の闇市を抜けて日暮里にっぽり方面に歩いていく。一時間ほど歩いただろうか。
‌ 少年が入っていったのはこのあたりでは珍しい鉄筋コンクリートの建物だ。玄関口にかかげられた表札を見て、群青たちは驚いた。
‌「日暮里母子寮
‌ 行き場のない戦争未亡人とその子供たちが入る施設だ。
‌ 軍人だった夫が戦死し、住む家も失った母子を保護するための一時施設だということはリョウも聞いたことがあったが、あの少年も戦争で父を亡くした子供だったのだろう。
‌ 親を失ったり離ればなれになったりした戦災孤児が多いように、この時代、行き場をなくした母子もちまたあふれていた。母子寮と言っても個々の部屋などはない。まるで避難所だ。薄暗い粗末な大部屋に何家族も寝起きして、かろうじて暮らしをつないでいる有様だった。
‌ 玄関は開け放たれて、誰でも出入りできる様子だ。群青とリョウは中に足を踏み入れた。ろうには幼子の声が響き渡っている。広い講堂のような場所が母子のすみかだった。
‌「リョウ、あそこ」
‌ 群青が大部屋の隅を指さした。
‌ あのじゃがいも頭の少年がいる。薄い布団をたたんだ上に荷物が載っていて、そのそばにもんぺ姿の女性がいる。
‌「もしかして、あれがあいつのおふくろさんか」
‌ 見るからに粗末な身なりで荷物も風呂敷で背負えるほどしかない。ほつれ髪が青白いほおにかかり、顔も体もせ細っているように見える。それでも、じゃがいも頭の少年に話しかけられると微笑ほほえみながらうなずいている。
‌「きっとあの母親に言われてやってるにちがいない。俺がガツンと言ってやる」
‌「待て、リョウ」
‌ 群青が腕をつかんで引き留めた。
‌「もしそうじゃなかったら、どうする」
‌「やけにあいつの肩をもつな。自分から盗みを働いたっていうのか」
‌ これは群青の勘だが、おそらく、あの少年が自らやっていたのだ。親子は見るからにこんきゅうしている。生活物資も足りているようには見えない。それをおぎなうために母親には内緒で盗みに手を染めたのだろう。
‌「だとしたら、なおさら、母親に言って、あいつの盗みをやめさせないと」
‌「それじゃ告げ口になる。あいつはおふくろさんにだけは、知られたくないはずなんだ」
‌「なに甘いこと言ってんだ。命にかかわることだぞ」
‌ 大部屋の入口で言い合っている群青とリョウに、親子が気づいたようだった。
‌ じゃがいも頭は「あっ」という顔をして、血相を変えてこちらに駆けてきた。群青とリョウにくってかかり、
‌「おまえら、こんなとこで何してんだ。つけてきたのか」
‌「おまえに盗みをやらせてる親玉に話つけにきただけだ」
‌「なんだと? そんなもん、ここにはいねえ」
‌「じゃあ、どこにいるんだ」
‌「どこにもいねえ。あれは俺が」
‌ どうしたの? てつ
‌ と部屋から母親らしき女性が声をかけてきた。
‌「まあ、お友達? どうぞこちらに」
‌ リョウと群青は顔を見合わせた。粗末な身なりの女性は微笑みを浮かべて手招きをしている。
‌「ちがうよ、母ちゃん。トモダチなんかじゃないよ、こいつらは」
‌ 少年が訂正するのをさえぎって、リョウがズカズカと母親のもとに近づいていった。
‌「おい、おばさん。あんたがこいつにやらしてんのかい。こいつは上野の闇市で」
‌ 言いかけた口を群青が慌ててふさいだ。「なにすんだよ」と引きがそうとするリョウを後ろに押しやって、群青が前に出た。
‌「は、はじめまして。友人の阪上群青と言います。こっちはリョウ」
‌ まあ、と母親は柔らかい微笑みを満面に浮かべ、ふたりに向かって深く頭を下げた。
‌「はじめまして。哲雄の母です。いつも息子がお世話になってます」
‌ じゃがいも少年の名だった。哲雄はリョウにばらされるのを恐れて、気が気でないのか、目が泳いでいる。
‌「うれしいわ。哲雄がお友達をつれてくるなんて。ごめんなさいね、お菓子のひとつも出してあげたいところなのだけれど、このとおりの有様で」
‌ 母子が生活しているのは、ほんの二、三じょうほどの狭い空間だ。ろくに仕切りもなく、他の母子たちのあけすけな話し声が聞こえてくる。
‌「どちらで知り合ったの?」
‌「し新聞配達してる店のやつらなんだ。近くまで来たから立ち寄ったって」
‌ 哲雄は慌てて取りつくろって、堂々と嘘をつく。そう、と母親は微笑んで、
‌「あなたがたも新聞配達をしているの? えらいわね。学校は?」
‌ 群青とリョウは顔を見合わせ、
‌「行ってないです。それどころじゃないもんだから」
‌「そう。うちの哲雄もなの。早く学校に行けるようにさせてあげたいのだけど」
‌ ちゃぶ台代わりにしているらしい木箱の上には、のりとはさみと封筒の山が置かれている。内職をしているのだとわかった。
‌「いいんだよ、母ちゃん。俺がうんと働いて稼ぐから」
‌ 青白くこけた頬を見れば、母親が病弱であることはすぐにわかった。薬代もなく、体に力をつけようにも、この食料難のご時世では、ろくに栄養もとれない。
‌ それで内職をしているというわけだ。
‌「すずめの涙ほどでも、しないよりは、ね。哲雄を雇ってくださっている配達の親方には感謝しているの。この間も、配給ではなかなか手に入らない貴重な石鹸を分けてくださったり、缶詰や食材をくださったり
‌ 群青が、ちらり、と見ると、哲雄は身を細らせている。群青たちは事情を察してしまった。その石鹸や缶詰は、哲雄が闇市から盗んだものだ。母親は、哲雄の盗品を、新聞配達の親方から分けてもらっているものと思い込んでいる。
‌ この分では、息子が盗みの常習犯などとは思いもよらないだろう。
‌ 群青たちはあいまいに話を合わせていたが、長居するとボロが出ると思い、ほどよいところで切り上げて、そそくさと母子寮を後にした。
‌ 玄関を出たところに、哲雄が追いかけてきた。
‌「おまえら、絶対に母ちゃんには言うなよ」
‌「言わないけど、本当にかっぱらいはやめたほうがいいぞ。おふくろさんにはおまえしかいないんだろ。おまえの身になんかあったらどうする」
‌ わかってるよ、と哲雄はうなだれた。
‌「こんなこと続けていいとは思ってねぇ。だけど、やらないと母ちゃんにまともなもんも食わせてやれないんだよ」
‌ 体を壊した母親に栄養のあるものを食べさせたい。石鹸で体を洗って清潔でいさせてやりたい。願うことは簡単にはかなわないご時世だ。
‌ まだ終戦から一年も経っておらず、国も国民も、敗戦の後始末と仕組みの作り替えでおおわらわになっていて、困っている者への支援が行き届いていない。頼りにできるあてもない。
‌「俺しかいないんだよ。俺がやらないと」
‌ 群青には哲雄の気持ちは痛いほどわかった。自分も母子家庭で育った。母ひとり子ひとり、幼い頃からずっと「自分が母を守るのだ」と心に誓っていた。
‌ もし母と一緒に博多港に降り立つことができていたとしたら、群青たちも哲雄母子と同じ境遇になっていたかもしれない。母は内地の実家とはえんしんせきにも頼れない事情があったようだし、行き場がなくて、どこかの母子寮に入っていたかもしれないのだ。とてもごとには思えなかった。
‌ なんとかなるものなら、力になってやりたいが
‌「わかったよ。どっかにいい働き口がないか、つてを当たってやる」
‌ リョウが言った。
‌「だから、もう二度と盗みはするな。今度やったら俺がおふくろさんに言いつける。おふくろさんを泣かせたくなかったら、二度とやるな」
‌ 恩に着る、と哲雄は目に涙を浮かべた。
‌ そうは言ったものの、だ。中学生でも雇ってもらえるいい働き口なんて、あるものなら自分がそこで働いている。霧島のところの仕事を分けるわけにもいかない。リョウはアメンボ団の子供たちを養うので精一杯なのだ。そもそも大人だって仕事につくのに苦労しているというのに簡単に見つかるわけがない。
‌ 線路沿いの道を歩きながら、リョウは弱り果てた様子で「どうしたものか」とうなった。
‌「盗みをやめさせたはいいが、もし働き口が見つからなかったら、今度はあいつ体を売り始めかねないぞ」
‌ 上野の山にいる街娼パンパンの中には、女装した男もいる。
‌ 群青も途方にくれた。
‌ 何か、いい手立てはないだろうか。

‌【つづく】