黙って最後に回る人(著:似鳥 鶏)
オレンジ文庫創刊10周年記念「魔法のある日常」リレー短編 第1弾
1
最寄り駅の改札を出るあたりで何か胸騒ぎを覚えたので、今日は本屋に寄らず、まっすぐ帰ることにした。駅ビルに入っているいつものカフェで医療倫理Ⅲのレポートの概要を決めるという計画もキャンセル。ジャガイモと固形コンソメが切れていたはずだが、スーパーの買い物もパスだ。うちのアパートは四階建てにもかかわらずエレベーターが設置されているが、それも無視して階段で三階に上がる。
玄関を開けても物音がなく、明かりもついていない。だが暖房の余波が廊下にまで流れてきていて暖かいことから、アキがもう帰っていると分かった。ということは――と考えながら左足の靴をまず脱いだところで、アキの部屋から呻き声が聞こえた。
やっぱりだ。またやったらしい。
お人好し極まる従兄のアキは最近、魔法を使う。能力、と呼んだ方が近いだろうか。
他人に降りかかる「災厄」を「苦痛」に変換し、引き受ける能力。他人は「災厄」の運命を免れ、かわりに引き受けたアキは、一定時間の苦痛に襲われる。
その苦痛のレベルがわりと洒落にならないのだった。呻き声のトーンからして意識はある程度鮮明なのだろうが、詳しい状態は分からない。右足の靴を脱ぎ、手を洗うのも後回しにしてアキの部屋のドアを開ける。いつも綺麗に掃除してある部屋の真ん中にアキのリュックが打ち捨てられており、打ち捨てた本人はベッドの上で体を縮め、がくがく震えながら細い声で呻いていた。いや、呻いているのではなく歌っているようだ。痛みのコントロール法として冷やしたり温めたり、呼吸法を試したりと一緒にいろいろ探したのだが、アキとしては一番しっくりくるのが「歌をうたう」だったらしく、今では本当に余裕がない時を除き、苦しい時は何かしら歌っている。たいていは親の影響で讃美歌だ。余裕がある時は〈喜べや讃えよや(130番)※[1]〉とか〈歌いつつ歩まん(402番)〉とかなのだが余裕がなくなるにつれて〈御神とともに進め(445番)〉〈戦い疲れた民に(373番)〉となり最後には〈血潮したたる(136番)〉に至るので苦痛の度合いが曲でだいたい分かる。本人によると無意識なのだそうだが今は〈主よみてもて(285番)〉なのである程度の余裕はあるのだろう。もっとも、能力の使用時は体全体が青く発光するので、その光の強さで「代償」となる苦痛の程度もおおよそ判断できるのだった。ただ単に本物の傷病が発生して苦しんでいる、という可能性もあるから、この光はありがたい。
※1 表彰式でメダルを授与する時に流れるやつ。
とりあえず深刻な事態ではないことが分かって安心した。だが苦しいことには変わりがないし、ベッドから落ちて怪我をしたり力を入れすぎてどこかが痙攣したりすることもあるので一応様子を見つつ、汗で湿った背中をさすり囁く。
「ただいま。……大丈夫? 水飲む?」
「いい。ありがとう。まだいける。余裕」
アキは親指まで立ててみせるが無理はしなくていい。エアコンで暖めてある部屋の空気からかすかに汗のにおいがするということは、そこそこ長時間、苦痛が続いているのだろう。だが返答はしっかりしているので、ハンカチで顔の汗を拭いてやり、いったん洗面所に移動して手を洗う。洗いながら呟く。
「シルシュエル」
一回では出てこなかった。もう少し大きな声で呟く。「おい、シルシュエル!」
後ろで青い光が収束し、洗面台の鏡の中に、美しい金髪の男が映った。同時に俺の体内に――今回は胃の下あたりだ。絞られるような苦痛が走る。ん、と歯を食いしばって耐えると数秒で収まった。
シルシュエルが微笑んで首をかしげる。「お呼びですか。晃佑さん」
「もう少し楽に出てきてほしいんだけど」
契約しているアキ本人のところにはすぐ出るくせに、俺が召喚しようとすると「代償」とかで苦痛が来る。今回は胃の下なので腹をさする。それを見たシルシュエルは微苦笑を浮かべる。「私としても、もっと気軽に呼び出していただきたいのですが」
「気軽に呼び出してチェスでもすんのかよ。天使とチェスとか、かっこよすぎだろ」それにしても、相変わらず無駄に綺麗な顔をしている。天使だから当然かもしれないが。「アキ、今回は何?」
「『骨折』ですね。二丁目の『かえで公園』で遊んでいた四歳の男の子が、複合遊具から落下して骨折する運命でした。それを駅から帰る途中で検知したようで」シルシュエルは壁の向こうのアキを透視するように視線をやり、嬉しそうに頰を紅潮させる。「流石は秋留さんですね。幼子と見るや即座に能力を発動し、御自分は他人に心配をかけないよう、苦痛に耐えながらすぐ自室に戻られました。おかげで幼子は母親にキャッチされて無傷です」
「災厄の規模は」
「17.8です」
シルシュエルはアキが引き受けた災厄のサイズを数字にして教えてくれる。いちいち訊かなければならないのは癪だが、頼るしかなかった。「幼児の骨折だろ。治りも早いのに、なんでそんなでかいんだよ。常連なんだから割引とかあるだろ」
「その力は私にはありません。それに『骨折』はあくまで『骨折』であって、聖人も罪人も等しくこのくらいの数値ですよ」
「子供は引き受け対象外にしろよ。汚ねえぞ」
「最もか弱い幼子の受難は看過しろと?」
シルシュエルは俺の目を見つめ、ふふふ、と上品に笑った。「冗談です。そんないい顔をなさらないでください」
本当に無駄に美しい。頰はそれこそ天井画とかに描かれる赤ちゃん天使のように滑らかだし、長い睫毛は天井のLED電球の光すら神々しく反射させて光っている。だが、いちいち近い。受胎告知のガブリエルとかはもっと距離感があるのに。
「アキが検知したの、いつだった?」
「三十分ほど前でしょうか」
俺も四限休めばよかった、と思う。休んでいれば一緒にいて、能力の発動を止められたかもしれない。もっとも四限の解剖学は休めないが。
「秋留さんは素晴らしいですねえ。幼子のために苦痛を引き受け、自らは恨み言ひとつ言わずただ耐える。この献身。人間の美しさそのものです」
シルシュエルの方は実に嬉しそうだった。そう。この天使は人間の「自己犠牲」が大好きなのである。「特に、苦痛を隠しつつすぐ自室に向かわれたところが美しい。苦痛を引き受けつつ、周囲に悟られないように隠す。心配をかけたくないのでしょう。ああ、この忍ぶ姿。『耐え忍ぶ』とはよく言ったものです。耐えるだけでない。忍ぶことが犠牲をより美しくする」
手近なタオルを二枚ほど引っぱり出して濡らし、キッチンに移動して電子レンジにかける。
「興奮するな気色悪い」
だがシルシュエルは全く意に介していない様子で空中をついてきつつ、こちらを見つめる。「そう仰るあなたも美しい。大事な兄弟のため、いつも苦痛を乗り越えて私を呼び出そうとする」
「従兄だよ」
レンジのタイマー表示を確認しつつ一度止め、タオルの温まり方を確認してまたスイッチを入れる。あと三十秒でほどよくなるだろう。とりあえず「蒸しタオルで体を拭く」のは、およそどんな状態の人間に対しても苦痛を軽減させる効果がある。
アキの部屋に戻ると、アキは歌をやめてぐったり弛緩していた。意識レベルが下がったのではなく苦痛がおおむね去ったことによる、疲労を嚙みしめる弛緩のようだ。シャツのボタンを外して脱がせ、まず顔を、それから首まわりと背中を拭く。普段はきっちりしていて自分のことはすべて自分でやっているアキだが、今は黙ってされるがままになっている。苦痛に耐えきった時点で精魂尽き果てた、といったところだろう。
「……もう能力、使うのやめろよ」
「うん……」
アキは拭かれながら呻くようにそう言うが、肯定の「うん」ではなく先延ばしのための応答に過ぎないことは分かった。いつもこうなのだ。ズボンを脱がせたら、さすがに下半身は自分でやると言ってタオルを受け取った。シルシュエルはというと特に手伝ってくれるわけではなく、俺たちをすぐ後ろから見て「やはり清拭がいちばん愛を感じますねえ」などと感極まった声で漏らしつつ、こちらの後頭部に切なげに吐息をかけてくる。近いわボケ、と思う。
この変態、もとい慈天使シルシュエルは突然、俺たちの前に降臨した。約五ヶ月前、五月十日の夜十時過ぎだ。日付も時刻も覚えている。
光とともに突然アパートのリビングに出現した、白いローブと天使の輪をつけた男。しかも当然のように浮遊している上、影がない。突然のことに驚くも驚かないもなかったわけだが、こうまで目の前で明らかに奇跡を見せられると信じるしかなかった。何をしにきたのか尋ねると、アキにある魔法の力を授けにきたのだという。それがこの能力だった。
余計なもの授けやがって、と思う。聖書の時代から、天使はいつだって一方的だ。
道を歩いている時、講義を受けている時、ベッドで寝ている時。アキはある程度の範囲内にいる人間にこれから降りかかる「災厄」を検知する。どんな災厄なのか内容までは分からないが、おおよその規模は感覚で分かるらしい。今回の場合は「遊具から落ちての骨折」で規模は17.8。代償となる苦痛はおおよそ胃痙攣と同程度といったところか。苦痛が体のどこに来るかはランダムなようだが、大きなものになると全身を襲い、痙攣で舌を嚙んだりするおそれがあった。代償はあくまでただの苦痛であり、それ自体直接、体に害をもたらすものではないようだが、「落下事故で骨折」→「胃痙攣クラスの苦痛」ではコスパがいいとは言いがたい。やめるように言っているのだが、アキはその時は頷いても、いざ他人の災厄を……いや、これから災厄が降りかかる運命の人間を検知すると、つい能力を発動してしまうらしい。
そういう性格なのだ。昔から。小学校の頃はせっかくジャンケンで勝って人気の放送委員になったのに、投票でクラス委員にされてしまった子が絶望した顔で俯いているのを見たらあっさり放棄して替わってしまった。中学では修学旅行の時、体調が悪くなった人にずっとくっついて看病していたせいで自由行動のほとんどを駅の救護室で過ごした。極めつきは大学受験で、試験会場に向かう途中、交通事故を目撃した上、周囲の通行人が誰も足を止めようとしなかったらしく、負傷者の救護と事故状況の証言のため現場に残り続け、試験には遅刻して半分の時間しかなかった。滑り止めだったからまだよかったものの、自分が受験生で、試験会場に向かう途中である、ということさえ言わなかったらしい。どうしてそこまでするのか、と何度も訊いたが、回答らしきものはこれまで「気になってしまうから」というたった一言しかない。
だがその一言で、俺にはだいたい分かってしまうのだった。一度気になってしまうと、何日も何日も「あの時のあの人はどうなっただろうか」と悩み続けてしまう。クラス全員でカラオケに行ったとして、盛り上がっている三十数人より浮かない顔の一人が気になり、まったく楽しめずに気をもみ続ける。そういうタイプの人間がいるのだ。アキは能力を使って苦痛を引き受けている時、どこかほっとしたような顔をすることがある。俺には分かる。安心しているのだろう。これで災難に遭う人はいなくなった、今一番つらいのは自分で、これよりつらい人はいないのだ――と。
たぶんシルシュエルは、アキを選んで降臨した。アキのような性格の人間でなければ、こんな力を与えても使おうとしないからだ。
アキはすっかり元気になって起き上がり、脱いだシャツのブランドについてシルシュエルと盛り上がっている。アキ自身はこの自称「慈天使」となぜか打ち解けており、帰宅すると一緒にマリオカートをやっていたりするのだが、俺はどうにも馴染めなかった。こんな力を与えられたせいで、アキは本来なら味わわなくていい苦痛を何度も味わっている。対して、引き受けてもらった他人は引き受けてもらったことすら気付かずに生活している。不公平だ。確かにシルシュエルが言うとおり、人に襲いかかる「災厄」がアキ言うところの「ただ苦しいだけで一過性」である苦痛に置き換わるなら、人類全体としてみれば、この力に多くの人が救われていることになるのだろう。それに対して公平・不公平という観念で不満を持つのは医を志す人間としてふさわしくない気もする。アキ自身も、能力を授けてくれたことには感謝しているようだ。だがそれでも俺は納得していなかった。シルシュエルが天使なのにマリオカートが異常にうまく、スタートと同時に見えなくなり、そのままゴールまでずっと見えないままだったとかそういうことも含めて、この天使とは合わない。
シルシュエルがアキに手を振り「また、いいものを見せていただきました」と涙を拭いつつ空中に消えていく。だがそもそもこの天使、飛ぶときに出す翼が変だ。右は純白の羽毛だが、左は明らかに分厚い質感をした蝙蝠の羽根なのである。本当に天使なのだろうか。慈天使という階級も胡散臭い。そんなのあるのか。
「シルシュエルさん帰っちゃったね。夕飯に鶏腿、三人分作れるパック買ってたのに」
「あ、買い物行ってたのか。連絡くれよ」
「ごめん。忘れてた」
「飯はやるから寝てろよ。大丈夫になったら風呂入れ」
「ありがとう」
キッチンに入り、エプロンをつけて野菜室の在庫を確認しながら思う。一緒に住んだのは正解だった。アキの性格は両親も知っていたから、一人暮らしで東京の大学に通う、となった時に、同じ大学に行くから俺が一緒に住もうか、と提案したら、伯父さんと伯母さんは身を乗り出して二つ返事で「そうして!」と応じ、家賃を全額出すと約束してくれた。経済的には大正解だったし、それに。
アキは昔から、俺には素直に「ありがとう」と言って任せる。そばにいれば、他人の災難を進んで引き受けたがるこの困ったお人好しを、可能な限り助けられるだろう。
2
携帯の画面にキーボードを表示させたまましばらく悩んでいたが、不意に思いついた。日付で検索をかければいいのではないか。五月十日。なぜあの日だったのか。アキや俺の誕生日でもないし、知る限りどの宗教の祝祭日でもないし、天体だの天気だのに異変があったわけでもない、普通の日にシルシュエルは現れた。この日付に、何か俺の知らない意味があったのかもしれない。
そう思いつくと検索対象は無数に出てくる。五月十日に何かがあった可能性。俺はベッドの上で体を起こし、フリック入力のミスに悩まされながら色々と検索ワードを打ち込んでみた。「五月十日 話題」「五月十日 天使」「五月十日 事件」。だがそもそも何を探せばよいのか分からない探しものだ。手応えはよく分からないまま検索結果をスクロールしていく。
ドアがノックされ、アキが顔をのぞかせた。「コウ、まだ起きてるの」
「ん。……ああ」携帯を置き、机の上の目覚まし時計を見る。そろそろ日付が変わる。「もう寝る。明日、早いし」
「うん」
「あ、そういえばmeronicaさん、つうか今さん、やっぱり新千歳空港まで来てくれるって。北広島駅まで行かなくてよくなった」
「そうなんだ。なんか悪いね」
「『手土産とか不要ですので!』って念押された」こちらが学生だということを伝えたからかもしれない。一度、ちょっとだけビデオ通話で話したのだが、印象通りいい人そうだった。
アキも頷いて微笑む。「楽しみだね」
今さん――今夏希さんは、ネット上で見つけて知り合った「仲間」である。同じようにシルシュエルの降臨を受け、他人の災厄を自分の苦痛に変えて引き受ける魔法を授けられたらしい。もっともアキのように見境なく引き受けてはいないようで、もっぱら二人の娘さんとその周囲のためだけに能力を使う、と限定しているとのことだったが。
そして明日は飛行機で北海道に行く。北海道在住の人なのだ。今さんは交通費を出すと言ってくれたが、なるべく安い便を選んだので、朝は早い。
「なんか、この能力のいい使い方とか知ってるといいな」
「この間のは失敗したからね」
アキは笑う。そう。アキの能力は、他人に襲いかかる「災厄」を検知できる。それを何かに利用できないか、というのは、試してみたことがあるのだ。たとえば俺が大量に宝くじを買う。それが外れて貯金を失う、というのは「災厄」と言えるのではないか。それを能力で回避すれば宝くじが当たるのではないか――といったふうに。
だが結論は「不可能」だった。そもそもギャンブルはもともと期待値が1未満になるものだから、何か不幸な外的要因によって勝つはずの勝負で負ける、といったことでない限り「災厄」として検知されないのだ。そしてそれ以前に、「検知」の能力はあくまで「引き受け」の諾否を決めるために用いるものであって、検知で得た情報だけを他の目的に利用することは不可能だと、やや呆れ顔のシルシュエルから説明もとい説教されたのである。
「まあ、そういう悪い話は、明日はちょっとな。今さん、お子さん二人も連れてくるって言ってたし」中学生と小学生だったか。二人ともすでに母親の能力のことは説明し、納得しているらしい。「二人、なんかすごいこっちに会いたがってるらしいよ」
「了解。じゃ、なおさら元気な顔で会わないとね。……おやすみ」
「おやすみー。それもそうだな。早く寝るわ」
アキがドアを閉じる。俺は検索中のブラウザを開いたまま携帯を充電器につなぎ、部屋の明かりを消した。
今さんには是非会いたかった。どういうふうに考え、自分の気持ちを整理して、能力を使う対象を限定したのか。そしてできれば、アキもそうするよう説得してほしかった。俺の説得では駄目なのだ。こういうのは客観的な第三者の、それも大人の説得が望ましい。
シルシュエルには言っていないが、俺は夏ごろから少しずつ動いていた。アキの魔法の解明と対策。どうすればより能力の使用頻度を下げられるか。あるいは、能力自体を無効にする方法はないか。それを探している。もちろんアキ自身には、その目的自体は話していないが。
今さんのような「仲間」を探したのもその一環だった。ウェブ上で書き込みを続けていたのだ。あらゆるSNSや掲示板、コミュニティサイトなどに、書き込みを続けていた。
シルシュエルが何天使なのか御存知の方、連絡をください。
たとえばこういったメッセージだった。もちろん、たまにある返信はすべてクソリプで「尻」「屁」「痔」などくっだらないネタばかりだったのだが、先週、一件だけ「もしかして慈天使のことでしょうか? 私も知っています」という返信があった。それから連絡先を交換し、身分を明かしあい、今に至る。子供がいるからなのか、今さんは終始、アキの体調を心配していてくれた。子持ちの大人だというのが心強かった。
数ヶ月探して、やっと見つけた希望だった。一人が二人になれば相談ができるし、比較対象ができる。サンプル数として考えるに、一と二の差は非常に大きい。そして今さんは言っていた。この分なら、日本国内だけでも同じような能力者がまだいるのではないか。「コミュニティっていうか、団体を作れるといいですね。個人と団体では発信力も違うし」との話だった。いずれ団体ができれば、この能力を公開し、世界中の大学などに依頼して研究してもらうことも可能になる。一人二人では門前払いだろうが、「団体」になれば違うからだ。そうすれば魔法は魔法でなくなる。能力の消し方も分かるかもしれない。それに今さんは「なるべく早く公にした方がいいと思う」とも言っていた。フィクションめいているが、アキの力が一部の「裏」にだけ知れ渡った場合、悪い権力者が私利私欲のために独占しようと考える可能性もあるのだ。そうなった場合、最悪、俺は消され、アキは一生奴隷、ということにもなりかねない。そうならないよう、能力者同士で足並みを揃える必要もある、と今さんは言っていた。およそ考えにくいことだが、能力の悪用を防止する効果もある。たとえどんな能力であっても「魔法」である以上、うまく見せればカルトの教祖になることは可能なのだ。
このまま個人的なことに能力を使い続けて終わるつもりはなかった。何より、今のままの生活を続ければ続けるほど、アキは消耗していく。なるべく早く、能力を解明したい。
3
何か空気が透き通っているなあ、と思う。一日の発着枠、400便以上。年間利用者数6000万人以上。羽田空港というのはもっと混みあっているものだと思っていたが、まだ朝の八時台のせいか行列とか混雑とかいった感覚は皆無だった。スーツケースを脇に従えてひとかたまりに集まっている家族連れがちらほら。その間を一人旅の男性が早足で通り過ぎていく。大聖堂のごとき巨大さの出発ロビーからゲート前に移動したものの、全面ガラス張りのむこうに青空が広がり、待機する巨大な飛行機の腹の下でコンテナ牽引車が忙しく走り回る。これ楽しいな、と思う。「はたらくじどうしゃ」の図鑑を擦り切れるまで読んでいた小さい頃を思い出した。
それからまた携帯に意識を戻す。昨日「五月十日の日付で検索する」と思いついてから、暇があればずっと携帯をいじってしまっており、そろそろアキが何か言いたそうにしている。何か見つかるのではないか、と期待があり、つい検索してしまうのだ。wikipediaには歴史的な大事件しか載っていなかったが、大手紙のデジタル版、NHKのサイト、地方紙と、探す場所は無数にあった。記事など無料では最初しか読めないものが多かったが、シルシュエルに関係のありそうなものを探しているだけなのだからそれで充分だ。スポーツ選手へのインタビュー。都内に出没したサル。市長選挙の情勢分析。五月十日の事件記事は昨夜のうちに探しつくし、めぼしいものがないと分かったので、その後二週間まで範囲を広げている。このままだとどんどん範囲が広がってきりがなさそうではあるが……。
「あ」
……見つけた。
「突然倒れ、うめき声をあげていた」越谷男子学生不審死、医師が語る奇妙な状況
検索画面には記事の冒頭部分らしきものも表示されている。
五月十日午後四時頃、埼玉県越谷市南越谷駅前の路上で、男性20が突然……
表示されていたのはそこまでだった。だが指が止まった。五月十日。まさにその日付だ。だが読もうとしたら肩を叩かれた。飲み物買ってくる、と言っていたアキが戻ってきた。
「お待たせ。結局マッ缶※[2]なかった」
「ないだろ。どこまで行ってた?」
「なんか次の自販機なら売ってるかも、って思って結局、反対側まで行っちゃった」アキは広いターミナルを振り返る。反対側と簡単に言うがすごい距離だ。「どうしよう。あれないと寝ちゃうかも」
「高尾まで行ったりしないから平気だろ※[3]。それよりアキ、光ってない?」
「ん。ああ……うん」アキは自分の掌を顔に近付ける。ごくわずかな光なので、明るい空港内ではそうしなければ確認できない。「規模的にはすごい小さいんだけど」
「4.26です」いきなりすぐ後ろにシルシュエルが出た。「あそこにいる方の、手土産の袋が破れて中身が散乱します」
「近えよ」
なんでいつも吐息をかけてくるのか。シルシュエルの姿は俺とアキにしか見えないし、声も聞こえないから、周囲を驚かせるようなことはないが。
俺は突っ立っているアキを見上げる。「……やるの?」
「ん。一応……かわいそうだし」
そんなふうに窺われると許可せざるを得ない。「もうすぐ出発だけど」
「それまでに終わると思う」
結局、アキは出発前に五分ほど「顎関節の痛み」に耐えることになった。その介抱で時間がなくなった俺は、機内で読もうと思い、さっきの記事をオフラインで表示できるようダウンロードしておいた。
※2 鈴木コーヒーの缶飲料「MAX COFFEE」の略称。分類的には缶珈琲の一種だが、「珈琲入り砂糖飲料」と言われるほど甘く、そもそもミルク入り缶珈琲より「コーヒー牛乳」の味を意図して開発されている。唯一無二の存在であるため関東圏では広く愛され、こればかり飲む愛好家も多数存在する。
※3 東京のローカルネタ。JR中央線下りで乗り過ごして終点まで行ってしまうと「新宿に行くつもりが、目が覚めたら高尾駅だった」ということになる。さっきまで大都会だったのに急に山が近くて大変驚く。
――えー御搭乗のお客様に、操縦室からご案内……す。えー……本日も……。……ありがとう、ございます。当機は現在……えー……。…………。28000フィート、です。
アナウンスで目が覚めると、飛行機は雲の上にいた。エンジン音が低く続き、機窓から見えるのは青空だ。上昇中に眠ってしまったためか気圧の変化の対応ができておらず、鼓膜が詰まって痛い。三列シートの真ん中だが、通路側の人と共有の肘掛けを占領してしまっていると気付いて腕を下ろす。それから機内モードにした携帯を出す。機はもう高度を下げ始めているようで、予定通りなら、あと二十分ほどで着陸である。シートの上で伸びあがって通路のむこうを見るが、アキの席は離れていて見えない。だがシルシュエルが消えているところをみるとアキも眠っているようだ。
エコノミークラスのシートベルトに固定されていてはやることがなく、携帯でさっきダウンロードした記事を見る。そう。まさに五月十日のことについて書かれた記事があったのだ。
五月十日午後四時頃、埼玉県、南越谷駅前で、ベンチに座っていた若い男性が突如、呻き声をあげ始め倒れたという。男性は近くに住む学生のOさん20だが……。
スクロールさせる指が止まった。
Oさんはかなり苦しいようで、悲鳴をあげ、のたうち回るようにしていたという。
一瞬、ベッドでうずくまって「代償」に耐えるアキの姿が浮かんだ。能力発動時の青い光も俺とアキにしか見えないから、通行人にはただの急病人に見えるだろう。だが記事はその後に、このOさんの死が不可解である、と続けている。変死である以上、解剖され死因の特定が試みられたそうだが、Oさんの体にはどこにも異状はなく、持病もなく、健康体そのものだった、というのである。これについては医師の談話が載っている。
突然死ですから、まず考えられるのは虚血性心疾患か脳血管障害なわけです。しかしこれらは解剖すれば分かります。死までの短い時間に何らかの要因によって原因となった血栓が取れてしまったとしても、血栓ができていたのだろう、という推測ぐらいはできる。しかし本件の場合、その推測すら不可能だったようなのです。こんなことは通常、考えられません。
――若い人が突然死する、いわゆる「ポックリ病」というやつですか?
ポックリ病の原因は致死性不整脈とされていますが、この方は亡くなる二週間前に健康診断を受けているんですよね。心電図も見ましたが、完全に正常波形なんです。いわゆるブルガダ症候群とか、そういったものを示す兆候もない。
――では、考えられる死因は何でしょうか。
正直に申しますと、分かりません。あとはもう「毒物」の可能性しか。検出されない新種の毒物を投与された可能性というのは、ゼロではありませんが。
記事は「新種の毒物」という単語に食いつき、最終的には陰謀論に近いところまで行ってしまっている。だがそこはどうでもよかった。原因不明の死。のたうち回るように苦しんでの死。それが「五月十日」。偶然だろうか?
シートベルトを外し、両隣の客に頭を下げて通路に出る。機内後方のトイレに駆け込み、重いスライドドアを後ろ手で閉めてロックをかけた。
「……シルシュエル!」
右目の奥にとげとげのボールをねじ込まれたような痛みが走り、シルシュエルが現れる。機内のトイレは狭いので、便器の上に降り立つ天使、という構図になった。「……どうしました?」
俺はその顔の前に携帯を突き出した。「見ろ。……この記事。このOさんを知ってるな?」
シルシュエルは俺の携帯を覗き込み、指でいくらか画面をスクロールさせると、ああ、と言って微笑んだ。「これは石川丈太郎さんのことですね。もちろん知っています」
「……なんで死んだ」
「能力者ですから」
「聞いてないぞ。能力の代償か? 副作用みたいなものがあるのか」シルシュエルを見上げる。「契約の時に『死ぬ』なんて話は一つもなかった。地獄の堕天使だって契約の条件ぐらいは正直に言うぞ」
挑発するつもりで言ったのだが、その必要はなかった。シルシュエルは微笑んだまま、すんなりと答えた。
「副作用のようなものはありませんよ。丈太郎さんは、純粋に『引き受け』による苦痛が肉体の許容量を超えて、亡くなったんです」
噓だろ、と思った。だが天使は噓をつかない。そして一切悪びれない。
俺はまだ学部の二年生に過ぎないが、医学的に「苦痛そのもののショックで死ぬ」などということは考えにくいのは知っている。だがそれが起こった。急激な激しいストレスによる自律神経失調、神経原性ショックによる不整脈。能力の代償としての苦痛は、肉体が起こすそれの限界を超えてくる。
シルシュエルはその時のことを思い出したのか、あらぬ方向を見て「はあッ」と身を震わせた。「あれはとても美しかった。丈太郎さんが検知したのは、百メートルほど離れた旧日光街道での自動車事故です。複数台がからみ、うち一台がビルに突っ込む大事故で、死者は四名、重軽傷者が六名にのぼるはずでした。……丈太郎さんは、その災厄を、数値にして4019の苦痛を、一身に引き受けることを選ばれたのです。その時の悲壮な表情。ありありと思い出せます。ああ、ゴルゴダ」
「ふざけんな」
「これほど真剣な話はありませんよ。丈太郎さんは見ず知らずの十人のために自らの命を投げうったのです。完璧な自己犠牲。しかも本能による自動のそれではなく、自らに降りかかる苦痛も死もすべて理解した上での、決意の自己犠牲です。これができるのは人間だけであり、人間を人間たらしめるもの、魂の存在証明です。これこそが人間の美しさ」
「人間の美しさを人外が決めるな」
「なぜ怒るのですか? 四人が死ぬはずのところを、一人の死で済ませたのです。四引く一は三。本来なら失われているはずの、三人もの命が救われたのですよ」
やはり、と思う。こいつは人間とは違う。
「……その丈太郎さんが死んだから、アキのとこに来たってのか」
「はい。もともとこの能力に相応しい人間は限られていましたからね。目星をつけておいたのですよ」
引き継ぎに六時間。手際がいい方ではある。
知らずに視線が下がった。機内トイレの清潔な壁と、独特の狭い便器が視界に入る。
「……アキもいずれ、そうなると思ってるのか?」
「いずれ、と言いますか……」シルシュエルは、笑顔でトイレのドアを見た。「もうすぐ、そうなりますよ」
「……何?」
シルシュエルは何を言っているのか。その意味を理解するより先にドアを開けていた。通路に飛び出し、アキの席の方を……。
見ようとした瞬間、激しい光に目がくらんだ。青い光。だが指の隙間から見てみると、乗客もCAも、誰一人としてその光に気付いていない。他人には見えない光。眩しくて目を開けていられないほどの。
後ろからシルシュエルが囁いた。
「もうすぐこの飛行機全体に、災厄が来ます。アキさんは検知したようですね」
「な……」
シルシュエルは興奮で上気した顔をしていた。「とびきりの災厄、とびきりの自己犠牲です」
「何を言ってる?」
「この飛行機はこれから墜落します。乗客、乗員合わせて404名が全員、死亡します。能力で引き受けが可能ですが……」
シルシュエルは興奮のためか、翼を大きく広げた。右は純白の羽毛の翼。左は漆黒の被膜の翼。
「……災厄のサイズは386322です」
4
客席は車のハイビームで照らされたように眩い。エンジン音が低く続いている。足下から突如、小刻みな振動が伝わってきてぞっとした。
「……冗談、だろ」
「真実です」
シルシュエルは言った。天使は噓をつかない。そして一切、悪びれない。「山地にでも墜落するのでしょう。もともと飛行機事故では、生存率は著しく低いですから」
「ふざけるな」思わずシルシュエルの胸倉を摑んでいた。「なんで飛行機が落ちるんだ。何をした?」
「私は何も。……するはずがないでしょう」
噓つけ、と言いかけ、噓ではない、と思い直す。だが。
現代の飛行機はあらゆる交通機関の中で圧倒的に安全なはずだった。事故による死亡率は0.00048%。0.9%と言われる自動車の二千分の一だ。たった一つの不注意が死亡事故につながる自動車と違い、航空機にはいくつものフェイルセーフがある。何重もの安全装置。自動操縦装置。訓練を受け健康診断をしたパイロットが二人、乗務し、機体はプロの手で何重にもチェックされ、到底事故につながらないような些細な異変で修理がなされる。だから、飛行機事故というものは通常「起こるはずがない」ものなのだ。
だが、それでもごくたまに発生する。何十年かに一度。
それが今、ここだと、青い光が告げている。
「ですが、ご心配はいりませんよ」シルシュエルは眩しくないらしく、アキの方を見ている。「秋留さんは間違いなく引き受けるでしょう。能力なら、どんなに大きな災厄でも引き受けが可能です。あなた方は全員、助かります」
……じゃあ、アキはどうなる。
訊くまでもなかった。17.8で胃痙攣並み。4019で死んでいる。
逆光の中に飛び込んだ。腰を座席の肘掛けにぶつけながら進む。薄目を開けて手を伸ばし、肩を摑む。「アキ!」
摑んだ肩が汗で湿っていた。アキがこちらを見上げたようだ。
「……コウ」
「アキ、よせ! 絶対無理だ。死ぬぞ!」
アキは答えなかった。数拍の沈黙の間に、エンジン音が低く唸っている。遠くから「お客様?」と呼ぶCAの声が聞こえた。
「……アキ」
「……コウ。分かってるだろ。僕はもう死んでいるんだ」アキは前を向いたまま言った。「引き受ければたぶん死ぬ。でも引き受けなかったら、どっちにしろ墜落で死ぬんだ」
アキの声は静かだった。こんな時なのに、まわりの乗客を気にしているのだろうか。
「心配いらないよ」アキは手を伸ばし、俺の手を包むように握った。「絶対に引き受けきってみせる。誰も死なせないから」
「駄目だ」アキの手を振り払う。「やめろ。引き受けるな。俺たちが死ぬなら、それが運命だ。もういいから」
「コウ」
「だってそうだろ? こんなのおかしい。なんでお前だけ、いつも」
そうだった。いつも、いつも。ジャンケンで勝ったのに放送委員を譲って。体調が悪い人のために自由行動を全部使って。それだけじゃない。アキは、いつも。
「……不公平だ。なんで優しい奴だけがいつも、つらい思いをするようになってるんだ」
「コウ」
「俺は」
……俺はいつも、何もできなかった。中学の時も、大学受験の時も、みんな後から知ったのだ。それが不甲斐なくて、だから一緒に住んで、少しでもアキを護るつもりだったのに。
何もできなかった。いや、それどころか。
頭の中に重い闇が垂れ下がった。……俺が何もしなければ。今さんに会いに行こうとしなければ、この飛行機に乗ることもなかったのではないか。
「コウ」アキは強い口調になった。「僕は今、納得してるんだ。だってそうだろ? たった一人で403人の命を救えるなんて、そうそうできることじゃない。英雄だよ。……僕なんかにはもったいないくらいの、光栄な役目だ」
噓だ。いくら英雄になったって、そのことを誰も知らないのでは意味がない。いや、そもそも自分が死んでしまっているのでは、英雄になろうが語り継がれようが何の意味もない。あるのは死ぬ直前のわずかな自己満足だけだ。命の対価としては全く釣り合わない。その程度のことを分からないほど馬鹿なアキではない。
なのに、あえて馬鹿になろうとしている。それがはっきり分かってしまう。
それに、泣いている。
「素晴らしい」後ろからシルシュエルの声がした。「英雄。そう、英雄です! 他者の災厄を背負い歩む、無垢なる魂。これこそ」
「黙れ」
シルシュエルの首を摑む。「お前、少し黙れ」
お客様、とやや切迫した声が近付いてくる。舌打ちし、シルシュエルの首を摑んだまま後方へ逃げた。浮いている分、軽い。
「お客様」
「ちょっと体調悪いんで」
再びトイレのドアを開け、シルシュエルを押し込んで後ろでドアを閉める。何もできないのかどうかは、まだ分からない。
「シルシュエル」首を摑む手に力を込める。「なんとかしろ。でなければ殺す」
「私が天使だということを理解していますか?」
「知るか」だから何だ、と思う。こっちはどうせ死ぬのだ。「あとで組織が報復するぞ、ってんなら洪水でも何でも勝手に起こしとけ。でも、やらなければお前は今殺す」
「素晴らしい」シルシュエルは目を細めてこちらを見る。なぜか全く苦しくないようだった。「今のあなたは本当に死を、いや、それ以上に未来永劫続くかもしれない業火を恐れていない。隣人のために恐れを捨てている。やはりあなたと秋留さんはセットで選んで正解」
「いいから早くしろよ」
「ですが不可能です。私にそのような権限はありません」シルシュエルはこちらを見つめている。その奥にあるのは憧憬のようでも食欲のようでもある。「あれば、とっくにあちこちで使い倒しておりますよ。慈天使ですから。……私の権限は、この能力についてだけです」
「なら、アキから能力を剝奪しろ!」
「あえて露悪に走る、そのお顔もそこそこ美しいですが」シルシュエルは落ち着いていた。「あまり褒められたものではありませんね。自分を含めた403人を殺すおつもりですか?」
「知ったことか」
「1列A席の中村義朗さんは法事に向かうところです。故郷のお母様のもののようですね。中村義朗さんは学生時代、いわゆるバンカラで落第もしましたが、何があっても笑顔で支えてくれたお母様に対してだけは頭が上がらず、その影響で子供たちにとっても絶対に味方であり続けようとし、三人のお子さんたちにはとても慕われています。趣味はゴルフで、現在、ドライバーを新調しようかどうか悩み中。体幹の筋力低下のせいか余計な力が入ってしまい、ダフリがちになることが課題になるようです。ゴルフ仲間の鈴木氏とは馬が合い、もっと会いたいと思っているのですが、住所が遠いのでなかなか機会がない様子。お孫さん、特に三男のところのお子さんが可愛い盛りで、彼女の描いた、まだ具体物になっていない絵をリビングに飾っています。好物は塩辛ですが、奥様が高血圧を気にされていて」
「やめろ」
「あと402人分、続けましょうか? 最終章はあなた自身、という演出で」
手の力が抜ける。想像がつかない。そう。403人分の命など、もともと個人の手に負える大きさではない。天使に選ばれ、魔法を授けられたアキと違い、俺はただの一般人なのだ。
何もできない。
いや、諦めるわけにはいかない。ただの人間でも、できることはあるはずだった。手段と末路さえ選ばなければ。
俺はシルシュエルの首から手を離し、トイレの中を見回した。
「……何をしているのですか?」
「武器になるものを探してる」機内のトイレには何もなかった。滑らかな曲線でつるりと設計されており、どこかを壊して武器にすることもできない。
それなら、と思った。たしか荷物の中にボールペンがある。あれでもいい。
「晃佑さん」
「今からこの機をハイジャックする」トイレのロックを外す。「CAを一人、人質にとって操縦席を開けさせる。パイロットに高度を下げるよう要求する。海上に不時着させれば墜落はしない」
トイレから出る。異状を察知したのか、CAの一人がすでにこちらに来ていた。あの人を拘束する。まず席まで戻って、鞄の中に。
そこで突然、急速に思考が鈍化した。鞄の中に、どうするのか。ハイジャックをしなければならないのだ。……どうすればいいのだったか。なぜか考えがまとまらない。おかしい。さっきはまとまっていたはずなのに。今、考えていたことを忘れ、思い出そうとしている間にその周辺の記憶が逃げていく。
「言ったでしょう。無理ですよ」シルシュエルが言った。「あなたがたがよく見る契約書にも書いてあるでしょう。個人情報の取扱方針です」
「……何を言ってる」
「『取得した個人情報は、当アプリの運営のためにだけ使います』ですよ。秋留さんの力は『予知』ではなくあくまで『災厄の引き受け』です。未来の災厄に対して介入できるのは『引き受け』だけですし、『検知』で得た情報を他の目的に流用することもできません」
シルシュエルは無表情で、淡々と言っている。それゆえにかえって真実味があった。能力以外で墜落を回避することはできないのだ。アキが死ぬか、全員が死ぬか。
最悪だった。何が慈天使だ。シルシュエルは発光するアキの方を見て、感動で涙を流さんばかりになっている。
「お客様、何かございましたか」
CAが一人、心配そうな顔で駆け寄ってくる。墜落すればこの人も死ぬ。
いえ、何も、すいません、とか言いながら、ゆっくりと席に戻った。どうせもう目立ってしまっている。たいしたことはできないだろう。ならばせめて、アキの隣にいるべきだろうか。もう、何もできないのだろうか。
無意識に拳を握っていた。
……違う。断じてそんなことはない。諦めるな。アキは403人の命を救おうとしている。俺も最後まで戦う。最後まで考える。何か、方法を。
「御気分が悪いですか?」
「いえ、大丈夫です」
CAにそう答えた瞬間、思いついた。
……そうだ。もしかしたら。
会話を引き延ばそうと反射的に口にしていた。「いえ、俺は大丈夫なんですが……」
思考が加速する。脳が加熱する。本当にできるのだろうか? だが可能性はある。どう言えばいいだろうか。相手はプロのCA。俺はただの医学生。……医学生。
「すみません」囁き声にしてCAに言った。「『レピノーマウィルス感染症』って、御存知ですか」
「いえ」
CAは一瞬、きょとんとした表情をした。当然だ。そんな名前の感染症など存在しない。
だが「感染症」という単語に反応したようだった。「それが何か」
「機内に感染者がいる可能性があります。俺、医学部でして、ちょうど習った直後だったので」
CAがさっと客席に視線を走らせる。「あの、それはどういった」
「麻痺です。通常は手足など末梢なのですが、まれに脳が麻痺するケースがある。兆候として、まず舌がよく動かなくなり、頭がぼうっとします。ろれつが回らなくなる」俺は機内前方を見た。「言おうかどうか迷ってたんです。でも、ヤバいかもしれない。これから着陸ですよね?」
CAの表情がさっと厳しくなった。鋭い人だ。それとも訓練の賜物か。
「……機長のアナウンス、聞きましたよね。様子がおかしくなかったですか?」
そう。これは本当だった。アナウンスは途切れ途切れで、しかもところどころ、言うべき単語が出てこない様子で間延びしていた。
本当は脳卒中等、脳血管障害の兆候だった。だがそれを正直に言っては駄目なのだ。脳卒中だと言えば、CAは対応するだろう。そしておそらく彼女自身が操縦室に入り、機長の様子を確認し、副機長に操縦を交替するよう要請する。それでは駄目なのだ。
「機長が、たぶん危険な状態です。普通に脳卒中かもしれません。でもレピノーマウィルスかもしれない。感染症なんです。操縦室って密閉空間ですよね? 副機長も感染していた場合、そちらにも症状が出るかもしれません」
CAは「それは……」と言って沈黙した。普通ならありえない申し出だ。だが、機長も副機長も、というのは絶対に避けたい致命的な事態のはずだった。何よりこの人自身もさっきのアナウンスに異常を感じていたのだろう。迷っているようだった。
「見せてください。習ったばかりだから、たぶん症状が出てるかどうかだけなら確認できます。機長は安静にして、副機長が感染してないか、確認しないと」
横に天使がいるのに神に祈っていた。どうか納得してくれ。俺とアキを操縦室に入れてほしい。
「……かしこまりました。よろしくお願いいたします」
CAは完璧なお辞儀をし、俺を促す。他のCAに確認もしないのは、こういう緊急時には一人で判断するようマニュアルがあるのか、それともこの人がこの機の責任者なのか。
早足で通路を歩きながら頷く。いずれにしろ助かった。あとは。
「アキ」
手で光を遮りつつアキの肩を叩く。「一緒に来てくれ。助かるかもしれない」
囁き声で言い、こちらを振り返るCAにも無言で頷き、俺とアキを交互に指さす。アキは理学部だが、二人で診断した方が確実、という言い訳でなんとか通せるだろう。とにかく、アキを操縦室に連れていかなくては意味がない。涙を拭きながらアキが立ち上がる間に、CAはこちらに来た別のCAに小声で何か説明している。周囲の目線があるのだろうが、アキの光に目を細めながらなのでよく分からない。座席にぶつからないようにCAについていくだけで精一杯だった。
だがCAは、操縦室の白くて分厚いドアをすんなり開けてくれた。
「コウ……」
躊躇するアキの腕を引っぱり、CAに続いて操縦室に入る。青い光で照らされた操縦室は思ったより広かったが、操縦席の前に横に天井にずらりと並ぶスイッチ類、いくつものモニター、計器類の数に圧倒され、素人が近付いていいのか、と気おくれしたのは俺も同じだった。こんなの、操縦士でなければ絶対に扱えない。どれが何なのか全く分からず、そもそも「操縦桿」の時点でそれらしいものが各席に一つずつと真ん中に一つあって、どちらがそうなのか分からない。
だが、左側の席に座っているらしき機長の様子がおかしいのはすぐに分かった。手をだらりと下げ、背もたれにぐったりと体重を預けている。CAが声をかけると、初老の機長は呻き声のようなものを出しながら、こちらをゆっくり振り返った。だが目が合わない。それに、実際に見た瞬間、はっきり分かった。人間の顔の筋肉というものは通常、片側だけ動いたりはしないものなのだ。だが機長の顔は、明らかに右側だけが「下がって」いた。脳卒中の特徴だ。
まさかとは思っていたが、本当に症状が出ていた。だがこれはもう、どうにもならない。
副操縦士がCAを振り返った。「酒井さん。機長が」
CAは頷き、こちらを振り返る。俺は副操縦士に「脳卒中の可能性が大きいです。空港に救急の準備を」とだけ言い、アキを振り返った。
「アキ、検知してくれ」
可能性はこれしかない。だが青い光が眩しく、アキの表情が分からない。
「……え?」
「検知だ。この機長か副操縦士の人に何か来てないか?」
しっかりしろ、しっかりしろ、と頭の中で繰り返す。検知で得た情報で、さっきのような思考停止を起こさず、どこまでやれるかは分からない。だが俺の考えの通りなら、これは「ルール違反」ではないはずなのだ。「どっちかに『災厄』が来てるはずなんだ。どうだ?」
「あ……」アキはようやく反応した。「機長さんに、一つ。……10くらいだけど」
やった。見つけた。
「それだ! 頼む、それを引き受けてくれ。今すぐ!」
アキは一瞬戸惑ったようだったが、引き受ける、ということに関してはあまり躊躇がない。アキの発光に押されて見えにくかったが、機長の体も一瞬、弱く光ったのが見えた。アキの方は頭痛が来たらしく、頭を押さえて壁にもたれた。
機長の体がぐらりと右に傾き、スイッチの並ぶコンソールの上に倒れ込む。CAがそれをさっと抱き止めた。
その瞬間、アキの光が消えた。操縦室内の情景が普通に戻った。
あまりに急に発光がやんだので、視界にはまだらの残像が躍っている。だがアキを振り返ると、弱い光を出すだけで、さっきまでの強烈な発光は本当にやんでいた。今の弱い光はこれまでも見てきた、10クラスのものだ。今はアキの顔がはっきり見える。アキ本人が一番驚いているようで、頭痛すら忘れている様子だった。「……消えた?」
そう。消えた。386322の災厄が。
だがまだ終わりではない。機長は脳卒中の発作を起こしているのだ。CAを手伝い、体を支えながら考える。「ええと、AEDと毛布を持ってきてもらってください。毛布が来たらそこに寝かせます。ゆっくり」
座席の後ろにはわずかにスペースがある。脚を伸ばさなければ横になれるだろう。それから、と考え、機長の首元に手を突っ込んでネクタイを、それからベルトを弛める。あとは何だったか。「ゆっくり動かしてください。頭が前屈しないように」
「……考えましたね」
声がして、気がつくと後ろの空中にシルシュエルが来ていた。邪魔なのでどいてほしい。
だがアキも、頭を押さえながらこちらを見ている。「……コウ、どういうこと? 助かったの?」
「そうですよ」シルシュエルが代わりに答えた。どこか鼻白むような態度だ。「墜落という災厄は発生しなくなりました。あなたが今、機長の災厄を引き受けたためです」
頭を押さえながら怪訝な表情のアキに、シルシュエルが説明した。どうやら、俺が考えた「ズル」は全部バレていたらしい。
飛行機事故はめったに起こらない。自動車事故などと違い、何重にもセーフティがかけられているからだ。CAが機内からドアが閉じているところを確認する動画というのがあったが、力一杯(閉じる時は間違いがないよう手動である)引いて確認した後、複数あるロックをすべて確認し、しまいにはドアの縁に隙間ができていないか手でなぞっていた。ドアの開閉一つとってもそのレベルで安全確認がされているのだ。
それではどういう場合なら墜落等が起こるかというと、例外なく「複数の要因が不幸にも重なったケース」である。たとえば1997年の大韓航空機801便墜落事故では、豪雨という悪条件に加え、「警報システムの一部をオフにしていたこと」「管制塔のミス」「機長の操縦ミス」「ブリーフィングの不充分さ」「副操縦士の提案を機長が却下した」等、一つ一つでは墜落にまでは至らないはずの要因がいくつもいくつも重なってしまっている。
逆に言えば、航空機の墜落事故というものはいくつもの要因が「悪い方向に奇跡的に」がっちり嵌まっていないと発生しない。その中の一つでも欠けたら発生しないものなのだ。
であれば、その要因のうちどれか一つでも「災厄」として検知できるものがあれば、それを排除すればいい。シルシュエルが言った。機長は脳卒中で意識を失う際、コンソールの上に勢いよく倒れ込んで頭蓋骨折をするはずだったらしい。それにより飛行設定が変わってしまったこと、機長が大量に出血し、機長の体をどかしながら血まみれのコンソールを操作しなければならなかったことが副操縦士のパニックを招き、機体の着氷(これにも、着氷防止装置の不具合というもう一つの要因が必要だった)による姿勢変化、さらに滑走路周辺の気流と相まって墜落に繋がるはずだった、と。アキが機長の「倒れ込んで頭蓋骨折」という災厄を引き受け、CAが機長の体を支えたことで、墜落まで繋がっていた因果の鎖が切れたのだ。
シルシュエルは言っていた。「引き受け」の能力以外で、検知で得た未来の運命に干渉はできない、と。逆に言えば、能力を使っての干渉なら可能だということだ。
別のCAがAEDと毛布を持ってきてくれた。アキと二人で機長の体を座席の後ろに横たえ、回復体位をとらせる。
CAが言った。「ありがとうございます」
副機長もこちらを振り返った。
「着陸態勢に移ります。問題ありません。ご安心ください」
※
着陸したらしたで、当然その後も大変だった。
まず地上に待機していた救急車で機長が緊急搬送。意識はあり、発作が出てから約四十分後に病院に到着したというから、まだ希望はもてた。
副操縦士が見事に着陸させた機はその間、待機することになり、新千歳空港内にもアナウンスが流れたらしい。今さん一行には随分と気をもたせてしまった。能力の関係上、「まさか」ということが常に考えられる立場でもある。
俺とアキはというと、とにかくなるべく黙ることにして逃げた。後に航空会社からの礼状と、大臣か誰かからの表彰は受けなければならなかったようだが、能力のことを話せない以上、経緯の説明を求められるとどうしても不自然になる。そもそも俺は医学部の二年生に過ぎなかったし、アキに至っては噓をついて医学生だと言っていた。そのあたりのことは最初にささっと白状し、感謝賞賛ムードのうちに逃げきれたようではあるのだが、冷静に考えると「墜落」の未来を誰も知らなかった以上、問題にされかねないやり方であり、東京に戻ってからも、いつか警察が来るのではないかとひやひやした。
ちなみに、肝心の今さんとの邂逅では、期待した成果は半分になってしまった。着陸後のどさくさを終えて新千歳空港のターミナルで座っていた俺たちのところにシルシュエルが降りてきて、宣言したのである。
「今日をもって、秋留さんからは能力を剝奪します」
二人とも疲れ切っていたが、さすがにこれには二人同時に「えっ」と身を乗り出した。「なんで」
「あなたのせいですよ。晃佑さん」シルシュエルは不満げに言った。「あなたが先程やったことは、いわば『裏技』です。あの手を今後もやられると、能力の『収支』が合わなくなってしまう」
「……いいだろ、それは」
「よくはありませんね。主は、人間が知恵を回して『収支』をごまかすことをお認めにならないでしょう。あの力の『趣旨』は、そういうものではないのですから」
「やった。それはありがたい」俺は言った。「糞食らえですって言っといて」
シルシュエルは、ふふん、と口角を上げ、突き出した手から青い光を出した。収束してビーム状になった青い光が俺とアキの体を貫通し、体が全く動いていないのに激しく揺すぶられるような感覚があった。何か体が軽い。これまで、気付いていないうちに重しをつけられていたかのようだ。
シルシュエルは羽毛と被膜の翼を大きく広げた。
「ですが、あなた方は面白い。また何か、いいのがあったら持ってきますよ」
「……いいよ。来んな」
シルシュエルは首をすぼめてふわりと浮き上がり、消えた。少し楽しげに見えたのは気のせいだろうか。
だが、これでおさらばだ、と思っていたのは俺だけで、シルシュエルは普通に翌週の月曜日に現れ、アキと世間話をして帰っていった。その後も時々うちに来ている。別に何か新しい能力を持ってきたわけでもなく、それどころか特に用があるわけでもなく、帰宅するとアキとマリオカートをやっていたりする。
そして相変わらずスタートと同時に見えなくなる。何だあいつは。
【おわり】