第5回
手が震えていることに気がついた。それだけではない。ずっと詰めていた息をフッと吐き出すと、思い出したかのように体が酸素を求め、肺を膨張させた。
最後の一文まで読み終えて、脳のビリビリとした感覚が全身に広がるなか、どこか冷静さを保ったままの思考が「良い読書体験だった」とスタンディングオベーションをしている。
本作は、読者をそのようにならしめる「ものすごい」一冊である。「ものすごい」なんて口語は、作品の魅力をお伝えする本連載には足らない、且(か)つカジュアルな言葉かもしれないが、最上級の敬意をもってこの言葉を使いたい。
何が「ものすごい」のか。
まずはストーリー。今よりも進んだ時代の人類は、より良い人間を残すことを自分の価値とし、遺伝子の特性を選んで子供を産む。そんな時代に、四組の夫婦が豪華客船の試験航行に乗客として参加している。しかし、彼らが試験航行だと思っていたそれは、何者かに仕組まれた殺されるまで逃げ続けなければならないゲームの舞台だったのだ。
乗客の一人である主人公のマイラの視点で、この恐ろしい設定が自分のなかにストンと落ちてくる頃には、読者も登場人物同様、もう逃れることはできない。思えば、この辺りからページをめくる指先は震えていた。
そして、登場人物も「ものすごい」。
「従順」という遺伝子を選択されて生を受けたマイラは、その特性に応えるように観察眼に長けている。四組の夫婦それぞれにも遺伝子に基づいた雰囲気の違いがあり、海の上のデスゲームに緩急をつけている。
マイラが船内で見つける、異国の言葉を話す青年のテグについても語らずにはいられない。遺伝子や言葉にとらわれずに、感覚を研ぎ澄まして生きている彼の姿は、この物語における息継ぎのような役割を果たしている。
こんなにも「ものすごい」要素が重なるなかでも、私が一番「ものすごい」と感じたのはこの小説をスッと貫く独自の空気感である。
行間にも染み渡る殺人者の気配は、小説を手にしている私たちの背後まで回り込むようだし、遺伝子の特性によって人を判断してしまう世界は、先天的に恵まれるものと後天的に得られるものの差に対するざらりとした違和感をまとわせる。
読書とは、文字やストーリーを目で追うだけのことではない。読んでいる時に心が揺れること、著者が作品に込めたメッセージを自分だけの言葉にして刻むこと。それらが伴ってようやく読書だといえるのではないだろうか。
この「ものすごい」物語は、濃い空気感のもと、私たちに極上の読書体験を与えてくれるのだ。