【佳作】『と』はじめました(著:近藤太一)


 ゴウンゴウンと機械の稼働音が工場中に響き渡る。
 ライン内では青い液体がタンクに満たされ、同僚の作業員が重そうにそのタンクを傾け、液体を機械へと流し込む。その先、ベルトコンベアの上には、成形された青い四角形が次々と流れていく。また別の作業員が流れる四角を手際よくハンマーで叩き、丸い形に整えていく。
〈キデシマさん。そろそろ1番バルブをしめてください。ゆっくりと確実にお願いします〉
 私はデバイスに意思を伝えた。
 デバイスは〈1番バルブ。0,5回転締める確実に行うこと。作業速度、低速を推奨〉という情報をベテラン主婦パートのキデシマさんに送った。
〈了解〉
 すぐにキデシマさんからの意思が私に伝わった。
 キデシマさんは1番バルブを、キコキコと単調な音を立てながら回した。
 ライン上の排出口から、白い蒸気が蒸気口から勢いよく吹き付けた。
 指示を声に出すことはなかった。これも人々が会話を使わなくなって数十年が過ぎたからだ。今ではデバイスを用いるニューロリンクと呼ばれる電気信号での脳内会話で私たちはコミュニケーションを取っている。元々は相互意思疎通なんたら会話機器と呼ばれ、英語ではなんたらかんたらデバイスと長ったらしい名前があったが、結局一番呼びやすい『デバイス』に落ち着いた。それは小粒のパッチのように首筋に張り付けるだけの簡単な装置で、この方法を使えば、他言語同士の意思疎通も可能だった。それ以外にも道案内や調べものなど質問をデバイスに投げかけると回答をしてくれる機能も備えられている。とはいえ、デバイスは、思考や意図をダイレクトに伝える一方で、声に含まれる微妙な感情のニュアンス、抑揚、間の取り方といった情報が失われる。
 それが、決定的な誤解を生む原因となることを、私は今日、身をもって知ることになる。

 ライン長。というのが私に与えられた役職だ。本日与えられたノルマをこなせるように、ライン作業を整えるのが私の仕事だ。
 私は大学時代からこの工場でアルバイトをしていた。就職活動をろくにせず大学卒業が間近に迫ったある日、私はこの工場に就職することを決めた。将来特にやりたい仕事もなく、それ以外の選択肢を持っていなかったためだ。それから5年ほど経ち、前のライン長が退職したため、私がこのラインのライン長になった。
 しかし私はこの工場がいったい何を作っているのか、未だに知らない。大手のスーパーに作られた〝それら〟を卸しているという噂はあるが真相は定かではない。ただひたすら与えられた作業をこなしているだけだ。とはいえ、一人暮らしの私が、生きていくにはずいぶん贅沢ができるほどの給料をもらっている。なのでそれなりに責任をもって仕事をしていると自負している。
〈ワマモト。製造。遅延発生〉
 工場長が私に意思を伝えてきた。
 私はチラッと上を見た。大きな窓から工場長室が見える。そこに工場長がじっとこちらを見下ろしているのが分かった。
 午前中までのノルマが遅れていた。午後から速度を少し上げなければ、今日中のノルマに満たなくなり、生産性も低下する。私は少し焦っていた。だが作業員たちは、ほとんどがアルバイトやパートのため時給で働いていて、ノルマなど関係ないのだ。
 私は黙って、ベルトコンベアの速度を上げた。しかし、誰も速くなったと指摘することなく作業を続けていた。
 だが作業中にそれは起こった。
 ラインの一部でわずかな不具合が発生した。いつもより製品が柔らかい。おそらく事前加熱が足らなかったのだろう。このまま通常作業のままだと、たちまちすべて廃棄になるレベルの危機だった。そのためラインの最後の工程である蒸気加熱の度合いで調整してどうにか製品として成立するように調整してもらうことにした。
 蒸気加熱の担当をしているキデシマさんに私はデバイスで指示を送った。ベテランパートさんなら、今までもこういった不測の事態は対処できていた。
「キデシマさん。最終工程は焦らず、ゆっくりと、慎重に2番バルブを半周だけ締めてください。急ぎすぎると逆にラインを破壊する恐れがあるため、ゆっくりとです!」
 口に出してセリフにするならば、こんな感じだ。強い注意と確実性を求め、冷静かつ厳格なトーンを込めていた。
 しかし、デバイスを通じてキデシマさんに送られたのは、極めて正確なデータだった。
〈2番バルブ、0,5回転締める。確実に行うこと。作業速度、低速を推奨〉
 指示内容そのものは完璧に伝わっていた。だが、私の伝えたかった「慎重に」「ゆっくりと!」という微妙な感情の抑揚やニュアンスは、デジタル情報として正確に再現されていなかったのだ。
 キデシマさんがベテランだったという私の過信もあったが、キデシマさんのデバイスにはその指示が日常的に送られてくる無数の「確実」「推奨」を求める業務連絡の一つとして処理されたのだろう。彼女は「いつもの微調整だ」と受け止め、推奨速度が「低速」とあっても、それは単なる推奨事項に過ぎず、自身の判断で「通常速度でも問題ない」と解釈したのかもしれない。彼女は急ぐことなく、また普段のルーティンワークと同じような感覚で、通常の速度で作業に取り掛かった。
 既に手遅れだと気付いたのは、今日のノルマを達成した直後のことだった。
 その後、どうにか残業をしてくれたパートさんたちのおかげで、ノルマは達成された。しかし、廃棄の数は甚大で、私の年収をはるか超える分の損失が予想された。
 工場長からはデバイスで直接連絡が入った。冷静なトーンで告げられたメッセージは、私の脳内に直接響く。
〈被害甚大。次回から気を付けるように〉
 その言葉に、胸を撫で下ろすと同時に、ここが大手工場でなければ、注意喚起で終わることはなかっただろう。だがキデシマさんへの自分の伝達が不十分だったのではないかという、深く重い感情が胃を締め付けた。

 18時になると、工場からはゾロゾロと帰っていく作業員のパレードが始まる。私もその一人だ。おおよそのライン作業がこの時間に終わる。いつもならそのまま自宅へ帰るのを習慣としているが、今日に限っては違った。落ち込んだ自分を慰めるには、やはり飯しかない。先週はラーメン。先々週は寿司。どれも自分で選んで入った店だ。デバイスに頼れば、瞬時に必要な栄養素を得られる店を教えてくれる。だが、これだけは頼りたくなかった。私は勝手気ままに歩き出した。
 閑静な住宅街で、あたりは次第に暗くなっていく。ずいぶんと駅から離れてしまったが、飲食店の気配さえしない。それでも〈知っているチェーン店より見知らぬ個人店〉という美食家の格言が頭をよぎり、私はこの歩みを止めることはなかった。
 しかし、一向に明かりが見えない道のせいで、少々不安が募る。
 一度戻るか? いや、進む。足を止めずに前に進むことが私の人生も前進させることと同義だと言い聞かせた。十字路に差し掛かった。分かれ道か。この選択が、今夜の私の腹を満たす運命を決める。私は右の道を曲がった。
 デバイスを使えば絶対に通らないであろう狭い道に出た。ふと前方をみると、看板のある建物が見えた。どうやら住宅の一階部分を改装したかのようだ。入り口からは温かい明かりが漏れていた。
『まごころの味とお酒 しるべ』
 店名から察するに小料理屋かと思えるような雰囲気を漂わせている。中を覗こうとするが、入り口からは店内が見えない。正直、常連ばかりだったら入りづらい。周りが閑静な住宅街ゆえに、そう思ってしまうのも無理はなかった。しかし、これ以上探す気力も空しい。迷いをあらわにしながら入り口を見つめる私の目の前に、看板の文字が飛び込んできた。
【『と』はじめました】
 奇妙な好奇心を掻き立てられる。「『と』とは何だ?」つい店の扉に手をかけた。
 扉を開けると、こじんまりとしたカウンター席とテーブル席がある、和風に装飾された店だった。一言で言えば小料理屋といったところで、特に珍しい内装ではない。カウンターには常連客らしき客がちらほらと座っている。
 着物を着た女将が、私に気づいた。
「いらっしゃいませ」
 それは、言葉だった。
 私は、驚きに固まった。まるで、遠い昔の記録映像か、教科書でしか見たことのないような、生の言葉が、そこにあった。
 私は人差し指を立てた。
「おひとりさまですね。よかったらテーブル席どうぞ」
 女将がにこやかに言う。案内された4人掛けのテーブル席には、メニュー、箸箱、ソースや塩などの調味料が並んでいる。タッチパネルもなく、配給ロボもいない飲食店というのは極めて珍しい。そして人による接客、しかも声を発している。それらを除けばいたって普通の飲食店と言えるのだが、女将がおしぼりを持ってきたところを見ると、やはりここは極めて珍しい飲食店であることが確認できた。
「お飲み物、どうされますか?」
 女将の声が、再び私に問いかける。喉を震わせ、「ビールを」などと言うくらいなら、デバイスで『ビール』と意思を伝える方が早かった。だが、デバイスに頼りすぎるとコミュニケーション能力の低下が起こる、という研究者の実験結果が脳裏をよぎる。しかし、今更、喉をふるわせ口を開けて音声言語を発するなど、到底考えられなかった。昔はそれを自然とやっていたのだろうが、今の私にとって、声を口に出すのは意識しないとできない行為だ。私は生まれたときに「オギャァ」と声を上げてからデバイスを付けられ、それ以来、学校での義務教育による『会話』の授業で形式的に発声した以外、声を発してこなかったのだ。
 女将の返事には、少々、間があった。やはりとは思ったが、女将はデバイスを装着していない。私の不安が一気に駆け上がった。これでは、意思を伝えることができない。注文といえば、タッチパネルもしくは、デバイスからの意思送信で済むはずだった。しかし、ここでは前時代的な、声に出しての注文しか受け付けていないとでもいうのだろうか?
「えーと、ごめんなさい、お飲み物
 女将がやや催促気味な態度をとってきた。ああ、やはりそういうことか。すでに私の中には初見でここに来たことへの後悔が、ひざ元まで積もりつつあった。
「と、とりあえず、ビールをください」
 久しぶりに喉を震わせて、音声による会話を試みた。しかも、とりあえずビールなどという枕詞的な「とりあえず」を反射的に付けてしまった。昔、亡くなった祖父が良く言っていたのだ。家族でごはんに行くと「とりあえずビール」と。まだ会話がたくさん残っていた時代だったが、これも、何かの名残なのだろうか。
しかしながら女将は祖父のように高齢ではなかった。正直、若女将という方が適切だった。
「ビールですね。今スピードメニューで刀ならすぐに出せますけど」
刀? また聞きなれない単語がとびかった。
「そ、それはどういうものでしょうか?」
 私はまた声によって疑問を女将に投げかけた。
「えっと、ごま油と醤油で和えたものです」
 いや、調理法ではなく刀が何かを聞いたんだがまあいいか。
「では、それもください」
「ありがとうございます」と女将はキッチンの方へと去って行った。
 そういえば〈調べ空ごと、味はまこと〉という言葉がある。デバイスで調べるより、まずは目で見た方がよりその形や感触がわかるはずだという意味だ。卓を見るとメニューがあった。私はメニューを開くと、スピードメニューに「枝豆」「たこわさ」などの他に「刀」があった。写真を載せていなかったため、やはりそれの正体はわからなかったが、メニューを熟読することは文学作品を読むことと似ている。何があり、作り手の伝えたいものを読み手に想像させるのだ。
「お待たせしました。ビールと刀です」
 女将がやってきた。ビールジョッキと小鉢を置いていく。
 さて、刀とは何だろうか?
 小鉢を見る。中には小さい刀剣が出汁と一緒に小魚のように入っていた。
 本当に刀じゃないか。大丈夫なのか? これは食べられるのか?
 いや、疑問を抱く前に、まずはビールだ。喉を潤すのが先決だ。
 私はジョッキからビールを少しずつ、喉がびっくりしない程度に流し込んだ。本当はひとっ風呂浴びたいが、ビールは口の中を爽快にさせた。ゴクリと飲み込むと、体の内側をシャワーで洗い流した気分になった。
 これで準備万端。箸を持ち、恐る恐る「刀」をつまんで口に入れた。
 咀嚼。ふむ、何だこれは。かなり歯応えを感じる。噛み切るのに苦労しそうだ。まるで歯と刃がつば競り合いをしているかのようだった。コリコリでもガリガリでもない食感。出汁はかつお節の出汁だろうか。つまり、なんと言えばいいのか、触感と相まってこれは、ものすごくブシブシしているとでもいうのだろうか。
 ふと、壁に視線をやると【『と』はじめました】の張り紙が見えた。そうだ。私は『と』が気になっていたんだ。
〈すみません〉
 また忘れていた。デバイスで意思を伝えようとしても女将はこないのだった。
 女将はどうやら食べ終わった客の食器を下げている。今度こそ、声を出して女将を呼ばなければならない。 しかし、何をどう言えばいいのか。どう発音すればいいのか。喉の奥がひきつるような感覚に襲われる。私はテーブルの下で、誰にも気づかれないよう、小さく「すみません」と喉を震わせ、唇を動かす練習を始めた。
「すみません」
 声に出してはみたものの、私の声は小さく、店内の和風なBGMにかき消された。
やはり言葉は不便なものだ。さらに恥ずかしさが、顔に熱を集めていく。
すっかり意気消沈ぎみで、私は女将をじっと見ていた。常連客と他愛ない会話を終えると、私の視線に気が付いたのか、女将は私の元へやってきた。良かったと安堵した。
「『と』をください」
 私は小声で練習した言葉を、再び女将に届けた。
「はい、『と』ですね」女将はにこやかに頷き、キッチンへと消えた。
 待っている間は、刀をビールと一緒に味わっていた。カウンターの向こうでは、料理を作っている板前がいた。その前には常連客であろう客が座り、会話が聞こえてくる。「お、今年も『と』はじめたんですね」
「まあ。毎年のことですから」
 やはり、ここの人たちはデバイスを使わず、口で会話をしている。だが、それはまるで心地の良いBGMのようだった。
「おやっさんの『と』を食べるのが毎年の楽しみだよ」
「ありがとうございます」
 常連客が言うのならば間違いない。私の選択は正しかったと言えるだろう。これは期待がますます高まる。
 その会話を肴に、私はビールを半分ほど飲んだ。
 そして女将がやってきて「お待たせしました。こちら『と』です」
 女将は『と』が入ったどんぶりと、小さな七輪の鉢をテーブルに置いた。七輪に火をつけ、その上に網を乗せていく。
「『と』は少し焼き色がついたらお召し上がりください。あと、お好みでそちらの濁点をつけてくださいね」
 なんと! 『と』はまさかの焼き料理だったのか。どんぶりの中にはうどん半玉分ほどのシンプルな『と』が入っている。これが『と』か。意外にもそのままというか、思ったよりも『と』の形をしている。
 スルメイカのように網の上に『と』を乗せる。
 ほのかな期待をいだいていると、ほんのり『と』がこげ茶に色づき始めた。そろそろ食べごろだろう。私は箸でつまんでみた。見事な形の『と』だった。一画目はすっと差し、二画目は一歩間違えれば、『く』になってしまうところを、まるみを帯びたゆるやかなカーブを描いている。一口でいけそうだとわかると、口の中に放りこんだ。
その瞬間、味の戸が開かれた。舌の上で溶けるたび、豊かな旨味が波のように押し寄せる。まるで未知の都へと誘われるようだ。その風味は、一口噛むたびに深くなっていき、気付けば、森の奥の杜を徒歩で探検していた。飲み込んだ後も、舌に残った『と』の味わいが心地よく広がった。なんという美味さだ。
 そういえば、女将が「濁点をつけて」と言っていたのを思い出した。卓上に置かれた調味料は、醤油、塩、酢、ソースと基本的なものが揃う中、『゛』と書かれた瓶があった。
 これが濁点か。いったいどうなるんだ?
 私は濁点を『と』の上からふりかけた。まるで待っていたとでも言うかのように、『と』はいっそう焦げ目を帯びて、その存在をアピールしてきた。小さな『゛』の点々が振りかけられ、見ると『と』が『ど』に変わっていた。
 そのまま『ど』を先ほどと同じように一口。
 ど、どういうことだ。俺の胃袋がどどめいた。これは味覚の新しい扉が開かれたみたいだ。度肝を抜かれるような勢いだった。怒りがこみ上げるほど体が熱くなったかと思えば、その直後には安堵に包まれる。まさに弩級の衝撃だ。自然の土に還ったかのような味わいは、単なる旨味を超えていた。まるでうまみの始まりを告げるかのような『ど』だった。『゛』は塩気でも甘味でもなく、二次元だった味覚が三次元になる、立体的な味わいを醸し出していた。『と』のポテンシャルを最大限に引き出す、まさにふさわしい存在だ。すでに私は『と』、いや『ど』の虜になっていた。
 一気に残りを食べ進め、あっという間に完食した。
「ごちそうさまでした」
 私は自然と口に出していた。
「お口に合いましたでしょうか?」
 女将が私の元へやってきて、そう尋ねた。
「はいおいしい。とてもおいしかった!」
 デバイスではなく言葉を発することによる意思。そうだ、私は女将に、これほどまでにおいしいものを食べたという感動を、この声で伝えたかったのだ。デバイスでは、ここまで繊細な感情を伝えることはできない。だからこそ、私は言葉を口に出すことを選んだ。普段、食べること以外で口を動かすことはなかったが、何年振りかに、私は声を出すために、自らの口を動かした。
「こんなにおいしいものは、生まれて初めて食べました」
「ありがとうございます。また来てくださいね」
「また来ます。必ず」
 店を出たときには、雲に隠れていた月が、煌々と光を放っていた。

 翌日、工場の作業が開始された。ゴウンゴウンと機械の稼働音が鳴り響く。
 いつものルーティン。いつもと同じ機械音。だが、私の中には、昨日までの自分とは異なる、確かな変化が生まれていた。
 昨日の不具合は今日も起こっていた。事前加熱が足らない。柔らかい製品がまぎれこんでいる。やはりだ。昨日から加熱器が故障していたのだ。だが、昨日と同じようにキデシマさんに指示をしたところで、また同じ過ちを繰り返すわけにはいかなかった。
デバイスではない。私の意識は別の方向へ向かっていた。喉の奥が、僅かにひきつる。
 昨日の夜、あの小料理屋で経験した、あの感覚。
 私は大きく息を吸い込んだ。肺いっぱいに工場の空気が満たされる。
「キデシマさん!」
 喉の奥から絞り出した声は、工場中の轟音にかき消されそうになったが、それでも、確かに外へ放たれた。
 キデシマさんが、わずかに反応してこちらを振り向く。
「キデシマさん! どうやら加熱が足りていないようです。蒸気工程は焦らず、ゆっくりと、慎重に2番バルブを半周だけ締めてください。ゆっくりとです!」
 私の声は、機械音に負けないよう、全力で発せられた。荒々しく、感情が乗った生の言葉だった。
「は、はい」
 キデシマさんは、一瞬戸惑ったような顔を見せたが、反射的に言葉で返してきた。
 次の瞬間、まるで何かに突き動かされるかのように、勢いよく2番バルブへと駆け寄った。彼女の動きは、昨日とは比べ物にならないほど慎重だった。
 白い蒸気吹きかけられる。繊細な手さばきはベテランがなせる業だった。この蒸気の具合なら、このまま製品として出荷できるものになるだろう。
 不具合の兆候が収まっていく。ラインは正常に戻った。
 キデシマさんが私の方を見て、小さく頷いた。彼女の顔に浮かんだのは、デバイス越しでは決して見ることのできない、理解と、ほんのわずかな驚きの表情だった。
 私の喉はガラガラだったが、胸の中には、昨日とは違う、温かい充実感が広がっていた。言葉は不便で、感情は時にノイズとなる。それでも、この「声」が持つ、直接的な力。それは、デバイスでは決して伝えきれない、人間同士の「何か」を確かに動かしたのだ。
 工場は回り続ける。私が休みの日でも、私がこの場所からいなくなったとしても、それは変わらないだろう。
 だが、私がここにいる間だけでもミスを減らすために、私は時折、声を出して相手に指示を伝えるようになった。そして、また『と』を食べに行ったときには、「おいしかったです!」と、以前よりもきっと大きな声を出すことを心に誓った。

【おわり】