骨を盗む日 第二回


 はじめて燃やしたのは自分の父だった。
 私の父は、それなりにクズだった。家にいればいつも偉そうで、よく母と私のことを馬鹿にしていた。私が高校生のときに不倫が発覚して、ぶっちゃけラッキーだと思った。離婚の大義名分ができて慰謝料ももらえるじゃん! 一も二もなく喜んだ私とは違い、母はそう単純ではないようだった。
「これからどうしたらいいんだろう」
 離婚調停に一年をかけたのち、引っ越し先も決まったという段になっても「離婚したくないな」と力なくつぶやく母には本当に驚いた。離婚さえすれば、もう父に振り回されなくて済むのに。馬鹿にされなくて済むのに。奴隷みたいに家事をしなくて済むのに。自由になるのに。そんな言葉で励ましても、母はため息ばかりついていた。
「お金の心配はあるかもしれないけど、奨学金もあるし自分で返すし大丈夫だよ」
 母も働いてはいたけれど、父よりも年収はあきらかに低かった。だからこそ父はいつも母を(あなど)っていて、()()っていた。そして母もそれがまるで当然だというふうに、父からの文句を受け入れていたのだった。
「お金のこともそうだけど、これからひとりでやっていけるのかなって。私のなにがいけなかったんだろう」
 母はたしかに前向きとは言えない性格だった。けれど父に裏切られたのはすべて自分の責任だとでもいうような言葉にはほとほと呆れた。
「お母さんにいけないところがあったとしたら、運が悪かっただけだよ。お母さんの時代は離婚したら女の人は大変だったんだろうけど、今はそんなことないでしょ」
 ずっと不思議だった。どうして母は世間の女性と違うんだろう。世間には、ひとりでも生き生きと暮らす女性がたくさんいるのに。離婚してよかったという声もたくさんあるのに。女性を励ます女性がたくさんいるのに。
 父のことをSNSに投稿したのは、仲間を見つけたかったという理由があったのかもしれない。もともと持っていたものとは別に新しいアカウントをつくったときは、だれかが慰めてくれたらいいなという軽い気持ちだった。
〈父。昔から家のことはなにもしない威張ってばかりの人だった。俺の稼ぎがあるからお前ら生きてるんだ、立場をわきまえろって怒鳴られたときは漫画かよってドン引きした。結局不倫して離婚。お母さんが自由になってよかった〉
 最初は同情や励ましのリプライがちらほら集まってくるだけだったけれど、あるアカウントが投稿を引用してから流れが変わった。三万近くのフォロワーを抱えるフェミニストで、一気に投稿が拡散されていった。そのうち私たちへの同情の声が、父へ、ひいては男性全体への非難に変わった。見知らぬ人からの攻撃的な言葉にはじめは気分が悪くなったけれど、それらはすべて私ではなく父に向けられたものだ。そう思うと、次第に気持ちよくなっていった。
 反応の数々を、私は揚々(ようよう)と母に見せた。世間にはこんなに味方がいる。母を励ます声がたくさん届いている。みんな父に怒っている。自分を責める必要なんてまったくない。そのことに母が気づいたらいいと思った。その投稿ひとつですべてが解決するなんて、さすがにそんな単純には考えていなかったけれど、それでも母を少しでも元気づけたかった。
 母は難しい顔でしばらく引用の数々を眺めていたけれど、最終的に「はあ」と低くつぶやいた。空気が抜けてしわしわになった風船みたいな声だった。期待していた反応とは全然違ったから、私はむきになった。
「世間にはこんなに味方がいるのに、いつまでも(しん)()(くさ)い顔しないでよ。だからずっとお父さんになめられてたんじゃん」
 私の言葉に、母はわかりやすく傷ついた顔をした。私は子どもで、たしかに母より苦労も責任もなく生きてきたかもしれない。けれど、私がなにもわかっていないとでも言いたげな顔をしてほしくなかった。私からすれば、わかっていないのは母のほうだった。
「でもこの人たちって、私になにもしてくれないよね?」
 母は、ただそれだけ言ってため息を吐き出した。そういうことじゃなくて、と言ったあと、私の言葉は続かなかった。情けなかった。男の人がいないと駄目だと思い込んでいる母も、母ひとり変えられない自分自身も、情けなかった。母が男だったら、こんなふうになっていなかったのかもしれない。母が男だったらよかった。一瞬よぎったそんな考えこそ、母への一番の()(じょく)だと思った。

 再婚しようと思うんだけど、と母に告げられたとき、おめでとうと思うよりも先に残念な気持ちが生まれたのは事実だ。離婚してから五年以上が経っていた。やっぱりひとりじゃ不安だからという電話口の口調が言い訳がましかったのは、私に非難されないように、という母の防衛反応だったのかもしれない。
 とはいえ再婚に反対したところで取りやめになんてならないし、そもそも個人の自由だし、結婚という制度自体を憎んでいるわけでもない。とりあえず「おめでとう」と伝えると、母は心底安心したように「ありがとう」と言ったのだった。
 その再婚相手が(かさ)()(なが)(ゆき)といった。永い幸せという名前は縁起がよさそうだと感じたけれど、初婚相手が数年前に病死したと聞いて、そんなことを思ってしまった自分を恥じた。
「いい人だよ」
 母にはそう言われたが、「いい人」って人となりを雑にあらわす便利なだけの言葉のようで、いまいち信用ならない。
「その石って本当に売れるの?」
 この家に来るのは三回目だった。一度目は母と(あい)(さつ)に来て、二回目は母に呼ばれて、そして今回は(とう)()に招かれた。母と笠井さんはふたりで出かけているらしく、家には灯加しかいなかった。
 一軒家というのは、それだけで立派なかんじがして妙に居心地が悪い。ずっと賃貸のアパートで暮らしてきた私にとって、嫌味のようにすら感じてしまう。
 リビングのテーブルに白い紙を敷いて、灯加は河原で拾ってきたといういくつもの石をひとつずつスマホで撮影していた。
「売れるときもあるし売れないときもある」
「ひとついくらくらいで売るの」
「これとかは、はなげさんなら千円くらいで買ってくれそう」
 はなげさん。ハンドルネームだろうか。名前ひとつで人を判断するのはよくないけれど、その名前からは(あや)しさしか伝わってこなかった。
 灯加がやっていることを仕事と呼称していいのかわからない。河原や海岸で拾ってきた石を個人で売る。小さなコミュニティみたいなものがあり、月に一度売買会を独自に開いているらしいが、フリマアプリで売ることがほとんどだという。灯加いわく「本当になんでも売れる」らしいが、懐疑的な気持ちになるのは否めない。
 灯加が写真に撮っていたのは、手のひらほどの大きさの角張った石だった。象牙色というのか、やわらかい色味にうっすらと白い縞模様が入っている。ベランダに続く窓辺から差し込む光を(まと)っていて、買いたいとは思わないがきれいだとは思った。
()(のう)は王道で、やっぱりそれなりに人気なんだよ」
「あ、この石が瑪瑙っていうんだ。そのへんにあるものなの?」
 名前くらいしか聞いたことがないが、素人(しろうと)が拾えるものなんだ、と意外に思う。
「うん。探してみるとけっこういろんなところにある。これは海岸で拾えた」
 てっきり灯加が例によって暇だから誘ってきたと思ったのに、来てみれば石の写真を撮ったり梱包したり、かと思えばベランダに出てやすりで石を磨きはじめたりする。紙やすりなんて小学校の工作ぶりに見た、とこぼすと、「これは耐水ペーパーで、厳密に言うと紙やすりとは違って」と熱のこもった説明が返ってきた。
 昨晩、一週間分のうっ憤を晴らすべく私はまた課長を炎上させようとした。〈女は単純だから限定とか書いとけばすぐ飛びつく。考えが浅いからマーケティングが楽だわ〉しかしとくに反応が得られずむなしくなっていたところに、灯加から明日うちおいでよと連絡が届いたのだった。灯加は妙にタイミングがいい。
「加工されてない石を欲しがる人もいるし、磨かれた状態で欲しいっていう人もいるんだよ」
 聞いてもいないのに、灯加が石を磨きながら話し続ける。開け放した窓から心地よい風が入ってきて、きんもくせいが香った。作業をする灯加の背中は、私より身長が低いためか、やけにこぢんまりとして見える。
「いつから石売ってるの」
「三年前くらいかなあ」
「笠井さんとか、なにも言わないの? そんな不安定な生活で」
「まあいつか結婚するだろうしねって」
 うんざりするような紋切型の言葉に「わお」と力なく声がこぼれた。しかしたしかに言いそうだな、と思えるからダメージは少ない。
「最初はわたしも(はる)()ちゃんみたいに会社で働いてたんだけど」
 そう言われて驚いた。灯加が会社で働いている姿は、なんだか想像できない。
「でも、なんか駄目だったんだよね」
 灯加はいつもゆっくりとしゃべる。それはだいたいのんきな調子に聞こえるけれど、今回は少しさびしげに響いた気がした。
「言われたことすぐ忘れるし、指示の意味がわからなかったりして、使い物にならないってよく怒られたよ」
 灯加がなんでもないことのように笑うので、胸に引っかかりをおぼえた。どう考えてもパワハラ発言なのに、燃えるべきなのに。灯加はだれを責めるでもない口調で、淡々と話している。
「なんで笑ってんの」
 そう発した声が予想以上に鋭くて、自分自身に(ひる)んだ。なかなか離婚に踏み切らなかった母を思い出す。私は、母のことも灯加のことも責めたいわけではない。
 ときどき自分が怖くなる。男性への怒りが募れば募るほど、怒りに同調しない女性を嫌いになりそうで。
 私の言葉に灯加は作業の手を止め振り返る。母みたいに傷ついた顔はしていなかった。ただ、困ったように眉尻を下げていた。
「そういうの、ちゃんと怒らないと駄目だよ」
「うーん。わたし、怒るのって好きじゃない。怒るのって疲れない?」
「疲れるよ」
 けれど怒らないと、本当になにも伝わらない。それに、世間に顔向けもできない。
 でもこの人たちって、私になにもしてくれないよね? 母の空虚な一言が遠くのほうで聞こえた。仲間が欲しかった。私の気持ちをわかってくれて、一緒に怒ってくれる仲間が。
「でも怒らないと駄目なんだよ。どうしてわからないの?」
 ただの八つ当たりだと自覚していても、そう言うのを止められなかった。困った顔をしたままの灯加に「ごめんね」と謝られて、よりいっそう自分の言動が幼稚なものに思えてくる。私は正しいことを言っているはずだ。けれど取り扱えない正しさは、ただの凶器になる。
「いや、私もごめん。いきなり怒鳴っちゃって」
 私の謝罪に、灯加は「うん」と静かにうなずいた。それからとつぜん手に持っていた石を差し出してきた。写真に撮っていた瑪瑙とは違う、楕円形の平べったい石だった。
 唐突な行動に「なに?」と聞くと、「さわってみて」と言う。セメントみたいな色をしている、と思ったあと、逆だと気づいた。セメントが、石からできているのだ。じゃあこの石は、何色とあらわすのがいいのだろう。色を表現できないまま石に触れると、指がするりとすべった。灯加はそのまま私の手に石を握らせた。
「さわってると落ち着かない?」
 灯加は自信ありげだったけれど、正直なところよくわからなかった。石だな、とそれだけ思った。これがもしも貴重な天然石とか鉱石だったとしても同じだったかもしれない。私は、石にそれほど思いを馳せたことがない。
「石はなにもしゃべらないでしょ」
 灯加がゆったりと、口をひらく。
そりゃあ、石だからね」
「でも、ちょっとやそっとのことじゃ壊れないよね」
「まあ、かたいからね」
「だからそういう石みたいな重厚? 荘厳な? 生き方春子ちゃんも、石みたいになったらいい。穏やかに、怒りに振り回されないような」

 人生はたとえるなら山だ、みたいなことを堂々と言うやついるよな、と思った。それも登山なんて一度もしたことがないやつに限って名言(づら)をする。灯加はなにかうまいことを言いたかったんだろうけれど、つまり説得力がなくとくに響いてこなかった。
「石は寡黙だから美しいって、はなげさんも言ってたよ。しゃべらないからこそよさがあるんだって」
「いや知らないから、その人のことは」
 再び登場した謎の人物に脱力する。灯加の言葉に説き伏せられたわけではないけれど、先ほどまで感じていた怒りは次第に引いていった。
「ていうか、なんで石売ってるの?」
 右手をひらいて、握らされた石を眺める。石の表面はすべらかで、少し癖になった。
「もともとはお母さんが石を集めてたんだよ。持ってると心が落ち着いたり力をもらえるんだってよく言ってた」
「パワーストーン的な?」
「そういうのとは違ったような単純に石が好きだったんだよ。よく拾ってきてベランダに積み重ねてた。でも、亡くなってから石を捨てることになって。けっこう数があったから
 あのへん、と灯加がベランダの隅を指さした。ガーデンチェアがひとつだけ、だれかの忘れ物みたいにたたずんでいる。
「それで、河原に捨てに行ったら、石を拾ってるはなげさんに出会って」
「出た」
「その場でいくつか石を買ってくれて、そのまま石のコミュニティに誘ってくれて、売るようになったんだ。ちょうど会社も辞めたときだったし」
 その日暮らし、行き当たりばったり、向こう見ず。そんな言葉が浮かび、けれど直接伝えることはできず、自分の手にある石を再び眺めた。どれだけじっくり見つめてみても、やはりそれはなんの変哲もない石で、力は(みなぎ)ってきそうもない。
()()()さんの、骨のことだけど」と、私は言った。家に誘われた時点で話が出るものだと思っていたが、灯加から切り出される気配はなく、結局私から話題を振ってしまった。
「仮にね。盗んだら、そのあとどうするの? この家に置いとくのは、私は違う気がするんだけど」
 夫と一緒の墓に入りたくないから骨を盗んでほしいと頼んだのに、結局同じ家にいるというのは本末転倒だ。しかも再婚相手までいる。私の母の立場から考えても嫌だろう。
「そこまで考えてなかった。春子ちゃんだったらどうしてほしい?」
「ええ
 そんなの考えたこともないから(とっ)()に答えが出ない。ドラマとかで海にまいてほしいなんてせりふは聞いたことがあるけれど、あれは骨ではなく遺灰か。
「加奈子さんの実家のお墓とか?」
 そう提案してみたものの、そうなるとさすがに笠井さんに話がいくだろう。
 気づいたら自分の思考が骨を盗むほうへと向いている。意外と簡単に盗めそうだったよなとか、骨壺の中身だけ抜いてておけばバレないだろうなとか、考えてはいけない。
 結局、現実的な答えが出ないうちに母と笠井さんが帰ってきた。あ、来てたんだと私を見てもさして驚かなかった母は、どうやらそれなりにこの家になじんでいるようだ。灯加にも、ただいまと軽く声をかけている。
 買い物に出かけていたらしい母と笠井さんは、大きな紙袋とエコバッグを(かか)えていた。笠井さんの冬物のコートを買い、帰りがけスーパーに寄ってきたのだという。
「おお春子さんいらっしゃい」と目を細める笠井さんは、たしかに「いい人」なのだと思う。小柄なほうだし、離婚した父と違って横柄な態度をとることもない。けれど当たり前のように荷物を母に片付けさせて自分はさっさとリビングのソファに腰掛けている。悪気なくそれが当然と感じていそうなところはどうしても気になる。
「灯加に石を見せてもらってたんです」
 くつろぐ笠井さんに、私は素直に笑いかけることができない。どこか信用ならなくて、無意識のうちに顔が引きつる。母はきっと、そんな私の態度に気づいている。
「ああ、石ね
 あ。今、鼻で笑った気がする。灯加のことを、馬鹿にした気がする。
 骨を盗まれても知らないからな、と気づいたら内心で毒づいている。毒づくだけなら自由だ。
「灯加と仲良くなってくれたみたいでうれしいよ」
 とくに腹が立つことを言われているわけでもないのに、笠井さんが発言するたび、私は(いら)()っている。悪態をつきたくなる。
 四十代だった父、そして現在は五十歳を過ぎている父。そのくらいの年齢の男の人を見ると、どうせお父さんみたいな人なんだろうと決めつけてしまう。私はもしかして、無条件でこの年代の男性を嫌うようになっているんじゃないだろうか。それって結局、女性差別をする男性と一緒じゃないか。
 けれど、母に再婚してほしくなかったというのも事実だった。笠井さんでなくても、疑いようもなく「いい人」であっても、同じ思いを抱く自分を想像できる。なんとか粗を探して、男はやっぱり嫌な存在だと吐き捨てたい。男を許したくない。怒ってきたこれまでの自分を裏切りたくない。
「春子、ごはん食べていく?」
 リビングとつながっているキッチンから母が顔を出す。この家は、笠井さんが建てたという。私の父にはなかった甲斐性というものが、笠井さんにはたぶんある。
 母が立つキッチンには、かつて加奈子さんがいたのだろう。毎日が不幸まみれだったわけじゃないと思う。楽しい時間だって、あったと思う。この人と結婚してよかったと感じる瞬間もあったと思う。けれどその奥に、だれにも知られることのない怒りを抱えていたんだろうとも思う。
帰る」
 遠慮しなくていいのに、と笠井さんがやさしくほほえむ。その言葉は、食事を用意する母が言うべきだ。
「笠井さんがごはんをつくってくれるんですか?」
 馬鹿なふりをしてそう質問してみると、笠井さんはもっと馬鹿っぽい顔をして「え?」と聞き返してきた。
 その返答に対して思ったのは、家のことずっと女に押しつけてきたんだろうな、ではなく、なんで嫌味が伝わらねえんだよ、でもなく、お母さんもこの人と一緒の墓に入るかもしれないのか、だった。
 母が亡くなったら、笠井家と刻まれた墓石の前で、私は手を合わせているかもしれないのか。
 そのとき、私はやっぱり怒っているんだろうか。
 灯加が玄関まで見送りに来て、「また連絡するね」と言う。今日は結局、なんのために呼ばれたのかわからない。
「私、石みたいにはなれないよ」
 母は、前よりも表情が明るくなっていた。母に不満はないのかもしれない。静かに理不尽を受け流して、いやむしろ理不尽だとも気づかずにいれば、穏やかに生きていけるのかもしれない。石みたいに、美しいなんて称賛されるのかもしれない。
「寡黙だから美しいってなんだよ。そんなのは、ずるいよ。どうして一緒に怒ってくれないの」
 同じ女なのに。そうこぼしてから、これこそ理不尽だよなと自嘲する。女だから同調しろ、なんてただの圧力だ。
「だって怒る以外の方法で人とつきあいたいから」
 静かな声で灯加が言った。妙に落ち着き払った表情が、姉っぽいなと思った。ただのイメージだけど。
「でも、わたし春子ちゃんの姉になったから、わたしにできることならなんでもするよ」
 灯加は、女としてではなく姉として、私の力になろうとしてくれているのか。その単純な理屈に不覚にも泣きそうになった。灯加は私の知っている世間にいない。でも、だれよりも今、私の一番近くにいる。
今度また、にゃるめの店に行こ」
 私が言うと、灯加がうれしそうにうなずいた。
 家を出て、駅までの道をひとりで歩いているとつま先になにかがぶつかった。前方で、石が転がっていくのが見えた。
 歩くうちに石に追いつく。親指ほどしかないこの石は、もとはもっと大きな石だったのかもしれない。なんの理由もなかったけれど、私はその石を拾ってポケットに入れた。

 翌日の始業十五分前、一階のエレベーターホールで()(じま)(けん)()(ろう)とばったり出くわした。
 あ、おはようございます、と互いに一瞬だけ目を合わせて短い挨拶をする。雑談が発生しそうな気配はなかった。
 エレベーターに乗ったのは私たちだけだった。三階分の上昇が、やたらと長く感じる。なにか話しかけたほうがいいだろうか、でもとくに話題ないなと(しゅん)(じゅん)しているうちに、矢島健太郎のほうが口をひらいた。
「そういえば、チームで飲み会やろうかっていう話が一瞬出たんですけど」
 なめらかに動いてゆくエレベーターのなかで、建設会社の広告が流れていた。マイホームお任せくださいと歌いながら社員たちがステップを踏んでいる。社員の比率、男性八割、女性二割。
「飲み会
 心躍らないワードにぼんやりと受け答えをすると、「あーいやいや」と矢島健太郎がおおげさに右手を振る。
「ほんと一瞬出ただけなんで。(ふか)(ざわ)さんは来ないすよね。会社の飲み会とか嫌いなタイプだと思ったんで断っときました」
 はあ、と腑抜けた声が出た。矢島健太郎は、偉大なことをしたとでも言いたげに胸を張っていた。
 たしかに飲み会なんて興味ないけれど。誘われても参加しなかったけれど。それでもこちらが辞退する前にそう決めつけられるのは納得いかない。
「課長もそのへんわかってるみたいだったんで。配慮しようねって」
 排除の間違いじゃないですか、という言葉が身体(からだ)の奥底から生まれたのに発せない。石みたいにはなれないよ、と灯加に放った自分の言葉こそ、石みたいに喉元に引っかかる。
 エレベーターが三階に到着する。「開」のボタンを押さなくても十分間に合うだろうに、矢島健太郎はわざわざボタンを押し私を促す。その行動が恩着せがましいと感じるのは、さすがにひねくれすぎだろうか。
「課長も大変なんですよ。もう辞めちゃったんですけど、前に女性社員にセクハラだって訴えられたことがあったらしくて。いやなにも体さわったとかじゃないですよ。その女性の年齢的に結婚とか出産の予定はあるのかって聞いたってだけで。セクハラとかじゃなくて、責任者として社員の状況を把握したいっていうのもあったんですよ。でもそれでかなり上から怒られたらしくて。減給? もあったのかな。正直それでセクハラっていうのは女の人のほうが気にしすぎっていうか、受け流しとけばいいのにって俺は思いますけどね」
 エレベーターホールにほかに人はいない。けれど矢島健太郎は声をひそめてそんなことを言い連ねる。
「深澤さんもそういうところ男性を敵視してる感あるじゃないですか。けっこう職場の空気悪いときありますよ。女性もわがまま言わずにおじさんに配慮してあげてもいいんじゃないですかね。必要じゃないですか配慮、今の時代」
 今の時代だけでなく、配慮はいつの時代も必要だ。私が男を敵視するのは、そもそも男が女を敵視しているからだ。わがままではなく、正当なことだ。
 燃えるよな、きっと燃える。
 自分に言い聞かせる。「世間」なら、矢島健太郎の発言は燃える。
 そうすることですべてが丸くおさまるとでもいうように矢島健太郎が肩をすくめ、フロアのほうへ歩を進めていった。その背を数秒見つめ、私も続いてフロアに入る。すでに課長は席に座っており、私がおはようございますと挨拶をする前に、「そういえば課長」と矢島健太郎が口をひらいた。
「やっぱりセール用の文言、もう少しひねってもいいんじゃないですか。ほら、前に深澤さんが提案してくれた、限定感を出すってやつ」
 え、と矢島健太郎のほうを見る。目が合わない。とつぜん自分の名前を出されたが、私はなにも聞いていない。
「あー、そうね、それもいいかもね」
 え、と今度は課長を見る。やはり目が合わない。私が提案したときは却下したのに、なぜあっさりと受け入れている? 「っす」と矢島健太郎が返事をし、パソコンの電源を入れる。パスワードを入力したあと一瞬だけこちらを向いて、したり顔でうなずいた。
 もしかして今、私は矢島健太郎に配慮されたのか? 私の提案を自分が言うことで課長に承諾させてやりました、とかそういうことなのか? これって感謝すべきことなのか? 救いを求めて()()()さんに視線を送る。モニターに阻まれて顔が見えない。

〈いい石見つけた〉
 昼にトイレに立ったときにスマホを確認したら、灯加から写真つきでメッセージが届いていた。岩みたいにごつごつしている石を手のひらにのせている。おそらく加工などしていない石の写真は、日の光のおかげで露光量を調整したようにまぶしかった。
 トイレの小窓から外を見ると、すっきりと晴れている。あまりにも透き通った青色だから、つい手を伸ばしそうになる。
 朝の一件から悔しさが消えなくて、キーボードを叩きまくることでなんとか気をそらしていた。
〈今日はいい天気だねー〉
 そんなこちらの気も知らずに、灯加はのんきにメッセージを送ってくる。けれどそののんきさを、不快には思わなかった。加奈子さんもそうだったのかもしれない。だからあんな(ゆい)(ごん)をのこしたのかもしれない。灯加には、なんだか期待したくなる。灯加は、私の知る「世間」と違うところにいるから。正しさに振り回されずに生きている気がするから。
「盗もう」
 気づいたら灯加に電話をかけていた。
 死んだあとに骨を盗めなんて大層な遺言をのこした女の人。もしも生きていたら、私たちが出会っていたら、仲間になれたのではないかと密かに思う。同じ怒りを共有できたんじゃないかと思う。
「骨。盗もう」
 まるで私がそう言うことを見越していたかのように、灯加はあっさり「うん」と返してきた。
 いつだったか灯加は、私が加奈子さんの娘だったらよかったなんて言っていた。けれど灯加が娘だったからこそ、私は加奈子さんに出会えた気がする。
 灯加は、これからも怒らずに生きていくんだろうか。怒らなくてもいいような、そんな場所で、いつか私たちは生きられるんだろうか。
「じゃあ、お彼岸が過ぎた十月の一週目かな」
 やはり灯加は私の都合も聞かずに話を進める。助かるよー、と軽やかに添えられた一言は、骨を盗もうとしている人のものとは到底思えなかった。相変わらずこの姉は配慮がない。そう考えたら、うっかり頰がゆるんだ。

【つづく】