骨を盗む日 第一回

キャンプファイヤーというものを、一度もやったことがない。けれど燃えさかる炎を眺めて踊り歌うと、こんな気分になるのかもしれない。そろそろ眠らないと明日に支障をきたす時間帯なのに、止まらない通知に目が冴えわたる。
何様だよ、男のほうが使えねえから、つけ上がるしか能がない生物、それが男……。ベッドに寝ころびながら、引用されていく投稿の数々を読み上げ私はほくそ笑んでいる。
〈たいした責任も負わないくせに発言だけはマジで一丁前だよな。ハラスメントだの権利だの言うなら使い物になるくらいの仕事をしてくれや。どうせたいしたことないのに生理休暇様様、家でのんびりするだけの育休様様。自分らにとって有利な「平等」を掲げる生物、女っていうんですけど〉
課長が考えていそうなことを露悪的に書いてSNSに投稿し炎上を誘うという趣味は、決して健康的とは言えないだろう。炎上といってもフォロワーがほとんどいない弱小アカウントでは気づかれることはそんなにないし、燃えてもほんの一瞬だった。これが最近の唯一のストレス解消法だなんて、自分でも情けないと思う。それでも、一瞬だけでも投稿が批判され断罪されていくさまが、私にはどうしても快感になる。
投稿元を擁護する声はない。世間ではこんなに正しい声が上がっている。けれどこの怒り狂っている正しい人たちに、いったいどこに行けば会えるんだろう。
〈一緒にごはん食べよう〉
トイレの個室でラインを確認すると、灯加からメッセージが届いていた。こちらの予定も聞かずに約束を取り付けようとしてくるのはいつものことだ。
最初のうちは暇人だと思われているのかといい気がしなかったが、どうもそういうつもりはないらしい。ただ自分の要望を伝えたいという気持ちが前面に出る性格なのだ。
とはいえ私がたいてい暇であるのは悲しいことに事実だった。仕事が終わってもネットを見るくらいで、そんな私を誘ってくる人は灯加をのぞいてこの数年ほとんどいない。
〈仕事終わってからならいいよ〉
そう送ると、やったーと喜ぶうさぎのキャラクターのスタンプが送られてきて、メッセージが途切れた。誘ってきたのは灯加なのだから、私から時間や場所を確認するのも癪で、まあそのうち連絡がくるだろうと予想をつけるだけに留めてトイレを出た。
二十四歳にして姉ができた。
半年前に、母が再婚した。その相手の娘が、笠井灯加だった。もう私も子どもではないし就職を機に一人暮らしをはじめていたし、相手にも娘がいると母に言われてもとくになにも思わなかった。年齢を聞けば二十八歳だというし、十代同士ならまだしもお互い二十歳を超えているならかかわりあうこともないだろうと、軽く母の話を聞いていた。
けれど予想に反して灯加はよく私に会いたがる。年上の、いちおう姉という肩書を持った人に対して適切ではないかもしれないが、懐かれてしまった、という表現がしっくりきた。
「健太郎このチャットって見た?」
「あーはい、セール期間が延びるっていう」
「そうそう。急なんだけど対応してもらっていい?」
私のとなりで矢島健太郎が課長に返事をしている。やれやれとでもいうようなため息まじりの声に優越感が潜んでいる気がする。
個人輸入の代行を行うECサイトを運営する会社で働いて約二年、ライター室という華やかそうな部署につられて入社したが、取り扱う商品はバイアグラだとかマカだとか育毛剤といったもので、ライティングも目下その手の薬の説明ばかりだから絶妙にやる気が出ない。
それにしても「このチャット」とは。スラックを確認しても、私のもとにはなんのチャットも届いていなかった。つまりいつものだ。同じ部署の社員であるのになぜか私が招待されていない他部署とのチャットグループが存在していて、そこでの話を、このふたりは堂々としているのだ。
「いつもサンキューね」
課長が矢島健太郎を労わるように言い席を立つ。そしてフロアにある自動販売機で缶コーヒーを買い、矢島健太郎に「これ面倒料」とわたした。「っす」と受け取る矢島健太郎。おお素晴らしき上司と部下の関係、美しいホモソーシャル!
しかし負けてはいられない。「えっセール期間変わるんですか! 共有きてますか?」とやや大きな声を出して会話に入り込む。馬鹿なふりをする自分にむなしくなるが、これには共有ができていませんよ無能めという嫌味の意図もある。
「あ、深澤さんには関係ないですよ、矢島くんは運営にもかかわってるので。でも一応スラックで共有しておきます」
ノールックの華麗な一蹴。関係ないと臆面もなく宣えるその豪胆さ! なるほど第二ラウンドだ。
「というかサイトに載せるセール用の文言、これだと訴求力が弱くないですか」
最大10%オフまたは500円引きクーポン配布中! 課長が考えたらしいセンスのないドシンプルなセール文言。
「もっと限定感のあるワードを加えたほうがいいと思うんですが」
「でもいつもこれでやってるので。うちのサイトの顧客は男性がほとんどなので、あからさまに媚びるよりこれくらいがいいんですよ。そういうのって、女性は食いつくけど男性には通用しないんですよ」
男性は女性と違って高尚な生き物だとでも言いたいのか?課長はいつも女性を馬鹿にしている。あとわざとらしい敬語が鼻につく。
昨夜ネットで燃えたくせに。まったく悪びれない堂々たる態度、やっぱり本物は違うぜ……。怒りとむなしさをごまかすように芝居じみたせりふを浮かべながら、向かいの席の三津田さんに個チャを送る。モニターに阻まれて彼女の顔は見えないけれど、私ほど複雑な顔はしていないだろう。
〈聞きました? 関係ないってどういうことだと思いますか……?〉
〈まあいつものことですww〉
案の定、三津田さんの返事は軽い。私との温度差をだいぶ感じる。
課長、矢島健太郎、三津田さん、そして私という少数チーム。五つのデスクからなる島で、課長が上座、その手前に矢島健太郎、そのとなりに私、そして私の向かいに三津田さんが座っている。矢島健太郎の向かいは、私が入社したときから空席だ。
〈私たち差別されてますよね?〉
絵文字もつけず送れば少しは私の本気度が伝わるだろうか。そう考えたけれど引かれるのも嫌で、結局汗をかいて苦笑している絵文字を末尾に添えた。
〈差別ww〉
笑えるようなことを言ったつもりは毛頭なかった。その返事に、なにかがすり減るような感覚がした。私が靴底だったら、かかとの部分はもうほとんどないだろう。
課長がたしか五十歳、矢島健太郎二十五歳、三津田さん三十二歳、私が二十四歳。新部署設立のため人員を募っていたときに、課長以外の私たち三人はほぼ同時に入社している。対応に差がある理由が年齢でも入社歴でもないのなら、性別しか考えられない。
いや健太郎いつも助かるわあという課長のご機嫌な声をかき消したくて、わざと強めにタイピングをする。
〈ていうか課長ってナチュラルにミソジニストですよね?〉
今度は怒っている顔の絵文字をつけてみたが、どうしてもコミカルさが滲み出る。もっと見る者すべてを慄かせるような絵文字があればいいのに。
〈まあ面倒な仕事ふられなくていいんじゃないですかw〉
そりゃあ私だって社畜になりたいわけじゃないし、楽して給料をもらえるならそれに越したことはない。しかし単純に腹が立つ。
〈そういう人だって割り切ったほうが楽ですよw〉
いや割り切れないからこんなに怒ってるんですけど、と返信をしようとしたとき、課長が「健太郎ちょっと一服してくるね」と席を立った。だからなぜ矢島健太郎だけに報告をする。
定時になって退勤しても、灯加から追加の連絡はきていなかった。相変わらず「やったー」のスタンプで終わっている。予想は裏切られるという予想だけが当たり、秋めいた日没後の空気が疲労と一緒に肩のあたりに垂れかかる。
もしかして今日の話じゃなかったのか? 電車に乗る前に電話をしたほうがいいのか? でも向こうから誘ってきたのになぜ私が……と考えているうちに駅につき、定期券を出そうとしたところで「春子ちゃん」と声をかけられた。灯加だった。
以前たしかに職場がある駅を教えたことがあった。けれどまさかなんの連絡もせず直接来るとは思わない。すぐに反応できずにぼんやりしていると、灯加が長い黒髪を揺らしながら駆けてくる。
「え、なんでここにいるの」
にこにこ笑っている灯加に聞くと、逆にびっくりした顔をされた。
「一緒にごはん食べようって約束したでしょ」
「連絡してよ」
「スマホを使わずに会えるかなって思って挑戦してみた」
なんだそりゃ、と呆れる。たしかに南口と北口しか出入り口がない小さな駅ではあるけれど、気づかないまま私が電車に乗る可能性だって十分あるのに。それを指摘すると、会えなかったらそのときはそのときで、とあっけらかんと返してくる。
「いつから待ってたの?」
「一時間くらい前。見逃さないようにずっと目を凝らしてたよ」
暇人めと毒づくと、暇人ですよと楽しげに言う。灯加には嫌味が通じない。
結局そこから一緒に電車に乗り、私のアパートの最寄り駅で降りてファミレスに入った。
仕事なにしてるの、と灯加に聞いたのは出会ってすぐのことだ。連絡先を交換してからというもの、日も時間も選ばず彼女は連絡をしてきたから。
「石売ってる」という答えが返ってきたときは、一瞬、なにを言われたのかわからなかった。いし? と脳内で漢字に変換することもできないまま聞き返すと、「河原とかで石を拾って、売ってる」と、それがとても当たり前の職業であるかのように灯加は言ったのだった。
「春子ちゃんって友だちとか恋人、ちゃんといる?」
「なにその質問」
「忙しいとか言いながら、誘ったらいつも会ってくれるよね。姉として心配だよ」
テーブルに備え付けてあるタブレットでメニューを吟味しながら、灯加が言う。形だけの姉なのに、灯加は妙に姉ぶる節がある。というか、灯加のほうこそ私によく連絡してくるけど、人のこと言えないんじゃないか。
私に恋人はいないが、友だちはいる。ラインの「友だち」をカウントしていいのなら。
「いやほら私って大学一年でコロナ禍になって、授業もほとんどリモートだったから。遊ぶ機会が減って気づいたら卒業してたし。いまさら会ってもなに話せばいいのかわからない子が多いというか、そもそも路上飲みとか信じられなかったしね。ワクチン打たないでイベントとか行ってる子もいたし。あのとき私とは考えが違うなと思ったし……」
うんうんと灯加が軽く相槌を打つ。ちゃんと伝わっているんだろうか、私の真意は。見栄を張っているとかではなく、正しく生きてきたからこその現状だ。
「春子ちゃんは世間体を気にするからね」
なんか含みのある言い方だな、と思ったけれど灯加に悪気はなさそうだった。
「あ、サラダも頼もう。エビとアボカド、春子ちゃんも食べる? 食べるならレギュラーサイズにする」
「食べる」
灯加の石を売るという仕事は、収入が安定しているとは言い難い。月に二万円の収入があればいいほうで、運がよければ三万円だという。それでもお金に困ってなさそうなのは、ずっと実家で暮らしていて、父親のすねをかじっているからだ。
「かじりすぎてお父さんのすね、もうほとんど骨になってるかもしれない」
危機感なさそうに話しているのを聞いても、私は灯加の父親、つまり私の母の新しい夫、そして私の義理の父親になった笠井永幸に同情の念はわかなかった。
お料理をお持ちしました、とそのとき配膳ロボットがサラダを運んできて、灯加が手を伸ばした。
「ありがとーにゃるめ」
料理を受け取ったあと、灯加がよしよしと頭(でいいのかわからないが)をやさしく撫でる。
「にゃるめっていうのこいつ」
「知らない。わたしがつけた名前」
「あ、そうなんだ……」
おなかがすいていたから箸はするすると進み、サラダはメインが運ばれてくる前に半分以上なくなった。私が残り三つになった小エビを取ったとき、灯加が「なんか入ってる」とこぼした。そのままエビとレタスの隙間から、一本の短い糸のようなものを器用に箸でつまみ上げる。
箸を私の眼前に掲げ、「なにかな」と灯加が問うてくる。非難めいた口ぶりではなく、ただ純粋に疑問に思っているといった口ぶりだった。
「服の糸とかじゃない? どっちかのが入ったのかも」
灯加も私もブラウスを着ていたから服の糸が混入することはなさそうだったが、店側の過失かどうかも微妙なところだった。まあほとんど食べ終わってるし、と気にせず残りのサラダに手を伸ばした私をよそに、灯加はちょうど席の横を通りかかった店員に声をかけた。あ、と思う前にはもう、
「糸が入ってたんです」
と、灯加はためらいもなく口にした。
声をかけられた若い女性の店員の顔が瞬時にゆがみ、同時に、もっ、と慌てたような声が上がった。
「申し訳ございません」
「いえいえ」
「こちらのお料理は……」
店員の言葉がそこで途切れた。料理を下げてほしいのか、交換してほしいのか、はたまた返金してほしいのか、こちらの要望をうかがっている。けれど灯加はとくになにも言わない。困った店員が今度は私に助けを求めるように視線を向けてくる。
こんなことで返金対応なんて心が狭すぎるし、いまさら新しいサラダを食べる気もないし、そもそも原因は私たちかもしれないのに。灯加が余計なことをしたせいで、無駄に気まずい時間が生まれている。
灯加は、「こちらのお料理は……」の続きを待っているようだった。沈黙がたたずむ三すくみの状態を打ち破ったのは、「お料理をお持ちしました」というにゃるめのゆるい声だった。そこで店員が意を決したように「お料理は、いかがいたしましょうか……」と切り出した。
「え、いや、いかがもしなくて大丈夫です」
なんだその日本語、と思いながら店員に同情する。いかがもしなくていいなら最初からクレームなんて入れてくるなよと、彼女は思っているだろう。
「報告したかっただけです」
報告したかっただけ、という灯加の理屈を理解できなかった。相手が嫌な思いをするかもしれないと、想像できないんだろうか。
「すみません気にしないでください」
なぜか私が謝る羽目になっていた。はあ、と困惑する店員に軽く頭を下げ、にゃるめからグラタンを受け取った。にゃるめは任務を終え満足そうに厨房へ戻っていく。
灯加が本当になにも要求してこないことを確信したらしい店員は、おずおずと席を離れていった。
テーブルにあった紙ナフキンに糸をつつんだあと、灯加は何事もなかったかのように食事を再開した。
「このくらいのこと黙っててよ。気まずいじゃん」
「お店のために言ったほうがいいのかなって思って」
「お店の人も忙しいんだし。そもそも私らの服の糸だったかもしれないのに」
「でも店員さんの不注意の可能性だってあるよ」
「それでも言わないでよ。どちらにしろ言われた相手は申し訳なくなるだろうし。配慮してよ」
私が言うと、灯加が「配慮って、お母さんと同じこと言ってる」とうれしそうにした。
唐突に出てきたお母さんという言葉に、首筋のあたりがひやりとする。灯加が言う「お母さん」とは、彼女の、数年前に病死したという実母のことだ。私はその話を、どういう心境で聞けばいいのかわからない。
「はじめて会ったときから思ってたんだよ。春子ちゃんってお母さんに似てる。いつも不満そうな顔してるのに、なにも言わない」
「え、なに、悪口?」
「他人の気持ちを考えられる人なんだね」
今のはそういう文脈だっただろうか。ただディスられているだけだった気もするが。
「ちなみにうちの家族は料理に異物が入ってたら、お母さんは黙ったまま、わたしは報告する、お父さんは文句を言う」
「ああ……」
母の再婚にあたって何度か会ったことがある灯加の父親はたしかにモラハラの気があって、店員に文句を言う姿が簡単に想像できた。挨拶をしに家へ行ったとき、私たちが持参したケーキを灯加にそのままわたし、「紅茶と一緒に出して」なんて雑に指示をしていた。あのとき抱いたこの男を炎上させたいという気持ちは今でもすぐに思い出せる。
「わたしは駄目なんだよ、人の気持ちがわからなくて。いつも失敗しちゃうんだよね」
私は慎重にうなずく。そんな悩みを吐露するアカウントを見たことがある。ここは配慮が必要な場面。
「春子ちゃんだったらお母さんの気持ちがわかったのかな」
これはなんの話だ、と戸惑いながらもとりあえず再びうなずいた。奥歯でやわらかいエビを嚙む。
「実はお母さんの遺言があって」
突然の厳かな言葉にびくりとする。灯加の顔は、いつになく真剣だった。
灯加がなにを言おうとしているのか予想ができなくて、エビってあらためて見ると不可思議な色をしているなあと、どうでもいいことを考えていた。頭部をもぎとられ胴体と尾だけの姿になっていても、赤と白のからだは健康的だ。人間は、死んだら真っ白になるのに。
「お母さんね、自分の骨を盗んでほしいんだって」
「ほね」
口に入れたレタスが舌にぴったりと張りついたような気がした。なにもかもうまく飲みこめない。
「骨を、盗んでほしい……?」
なにを言ってるんだよと一蹴するにはセンシティブな話題な気がして、鸚鵡返ししかできなかった。灯加は変わらず真面目な顔で、冗談を言っているようには見えない。
「笠井家の墓に自分の骨が置かれ続けるのは嫌なんだって。理由を聞いても教えてくれなかったんだよ」
春子ちゃんは理由わかる? 首をかしげる灯加に、簡単にうなずいていいものなのか迷った。理由を言わなかったのは、灯加に対する母親なりの配慮だろうか。
灯加の父親である笠井さんを、私は気に入っていなかった。下の名前で呼ぶほど親しくなりたいと思わないし、お義父さんなんてもってのほかだ。それでも灯加にとっては父親なのだし、彼女たちの家に行ったときは親しそうな親子に見えた。
「灯加のお母さんとお父さんって、仲良くなかったの?」
「そんなことないよ。喧嘩もなかったし」
「でもいつも不満そうな顔してたんでしょ。それってつまり、笠井さんに対して、なにか思うところがあったんじゃないの」
「なにかって?」
「や、なんか、笠井さんって、家父長制引きずってるかんじするじゃん。実の娘の前で悪口言うのはあれだけど」
「かふちょうせい……」
はじめてその言葉を聞いたというような灯加の反応に少し苛立った。
「だから、死んだあとくらい夫と別々になりたいってことじゃないの」
「え、そうなのかな」
「知らないけど……」
灯加がそこで黙った。途端に場が静かになる。店内はそれなりに混んでいたから騒がしかったけれど、このテーブルだけ空間に音が吸収されたみたいだった。
それにしても骨を盗んでほしいとは、大胆な遺言をのこす母親もいるんだなと恐れ入る。と、同時に敬意のような気持ちも芽生えた。私の母だったら、きっと言わない。
グラタンのマカロニにフォークを通すと、「春子ちゃんがお母さんの娘だったらよかったんだろうな」と灯加が言った。その言葉はマカロニの空洞をすり抜けて、私の胸元あたりをとすっと叩く。しんみりされて困っていると、灯加が俯けていた顔を上げた。
「できると思う?」
私たちが座るテーブルの横を、料理を載せたにゃるめが通り過ぎていく。私の「え?」という声が、となりのテーブルで発せられた「お料理をお持ちしました」と重なった。
「できるってなにが」
「骨を盗むことだよ」
なにを言ってるんだ本当に。思わず倒置法の突っ込みが湧き出る。できないよと言いかけて、本当にできないのだろうかという思いが一瞬頭をかすめた。いやいや、とその考えをかき消す。いやいや、ふつうにできない。
「できないよ」
「でも遺言はかなえてあげたいよね? わたしはお母さんの娘だし」
それにしたって私は関係ないだろう。……関係ないはずだ。義理の姉の母親というのは、遠い関係性だ。たぶん。
「とりあえず土曜日一緒にお墓に行かない?」
「いやいや、行かない」
「行こうよ」
またしても私が土曜日に予定がないという前提で灯加はしつこく誘ってくる。まあ予定はないが。
テーブルの上の料理がなくなるまで、私は「行かないよ」と言い続けた。なんならそれぞれ会計をしているあいだも、店を出て駅まで歩いているときも言っていた。けれど灯加はそのたびに「とりあえず行くだけだから。なにもしないから」と妙に下品に聞こえる返事をし、聞く耳を持とうとしない。
「行かないからね」
流れで改札まで灯加を見送るかたちになって、さいごに駄目押しで告げた。灯加は「いや春子ちゃんは来る」と、なんとかの母と呼ばれる占い師ばりの口調で予言めいた一言を残し、改札の奥へ消えていった。
そして土曜日、私は灯加と寺院に来ているのだった。笠井家之墓と刻まれた墓石の前で秋風に吹かれる私は、完全に即落ち2コマ状態だった。
ここに来る気なんてなかったはずだった。べつに強引に連れてこられたわけでもない。灯加からは朝、この場所の住所が送られてきただけでメッセージが連投されるとか何度も電話がかかってくるとかはなかった。けれどなぜか、私はここに来ていた。
それは昨日、また課長と矢島健太郎が私と三津田さんを抜いて仕事の話をしていたからかもしれないし、SNSでまた他人のミソジニー的投稿を目にしたからかもしれない。
鬱屈と怒りを感じながら、私は墓に眠る灯加の母親のことを考えていた。言いたいことを言えないまま亡くなってしまったのかなあとか、もしも同じ会社にいたら私の気持ちをわかってくれたのかなあとか。そして、義理とはいえ家族になった礼儀として墓参りくらいはしたほうがいいのかもしれないという気持ちに、いつのまにかなっていたのだった。
墓に供えられている花は枯れていた。灯加はうさぎのイラストがプリントされたトートバッグに、新しい花とブラシを入れて持ってきていた。手際よく墓地の入り口にあった手桶に水を注ぎ、ブラシで墓石を磨いている。
「さくらさんも一回お参りに来てくれたよ」
さくらとは、私の母のことである。そうなんだ、と返しながら三人の共同生活を想像してみるがピンとこない。
「うまくやってるの? 三人で」
「やれてると思うよー。さくらさんやさしいし」
母と私はあまり似ていない。母のやさしさは、気の弱さからくるものだ。灯加に突拍子もないことを言われても、とりあえず笑ってなんとなく受け入れているんだろう。
「いつも灯加がお墓をきれいにしてるの?」
そう聞くと、「お父さんは仕事で忙しいらしいからね」と不満も怒りもこもっていない声が返ってくる。ふうん、という私の相槌のほうが、よっぽど不満げに響いた。
「骨はこのなかにしまってあるんだよ」
花を入れ替え、灯加が正面の墓石を指した。香炉の手前に、石が二つ積み重なっている。
「実はこの石、めちゃくちゃ重い」
動かそうとしたことはあるのか。ちょっと持ってみてと灯加が言うのでしぶしぶ石に手をかける。ひとりの力では、本当にまったく動かなかった。私と灯加、ふたりがかりでも動かせるか怪しい。
「どちらにしろ協力してくれる人は必要だったんだよね。お父さんはそんなことできないよって言うし」
「笠井さんに言ったの!?」
驚いて大きな声が出てしまった。私の大きなリアクションに、灯加が「え、うん」と視線をさまよわせながらうなずいた。
「駄目だった?」
「……いや、私が駄目とか決める権利ないけど、でも、灯加のお母さんは言ってほしくなかったんじゃないかな」
「でもお母さんはそんなこと言ってなかったよ」
「それは、なんというか、察するというか」
「察するっていうの、わたしすごく苦手なんだよ」
眉尻を下げる灯加を責める気にもならず、苦手ならしょうがないな……と押し黙る。
「あ、でもお父さんに言ったのはだいぶ前だし、もう忘れてると思うけどね」
母親が亡くなってすぐに伝えたらしく、それならもう五年前だ。しかし忘れるというのも、どうなんだろうというかんじではある。妻が自分の家の墓に入りたくないと言っていたと娘に聞かされて、自身を省みるとかそういうことはあったんだろうか。
「ていうかやっぱり骨って盗んだら犯罪? 窃盗罪?」
いやべつに盗むつもりはないけどね、と補足しながら灯加にたずねる。
「どうなのかなあ。でも、窃盗罪になるのって被害届が出されるからだよね?」
「被害届が出されなくても罪は罪だよ」
「でもどちらにしろ被害届はだれも出せないよね?」
灯加の問いかけの意味が、一瞬わからなかった。窃盗罪とか被害届とか不穏な言葉を並べている奇妙さは忘れて、その言葉の真意をつかもうとする。
「被害届を出すのは、その所有者でしょ? でも、お母さんの骨はお母さんのものだよね」
死んだあとの骨の所有権なんて、考えたこともない。道理的に考えると、この墓の所有者である笠井さんのものなのか? けれど骨になったら自分以外の人の所有物になるなんて、それはやっぱり違う気がする。
「骨を盗んだら、お母さんのこと少しはわかってあげられるかな」
笠井家之墓と刻まれた場所に、もとは笠井ではなかった人が眠っている。そのことに違和感をおぼえた。まるで存在ごと、笠井家の墓に吸収されてしまったような。
「灯加のお母さんって、なんて名前なの」
「加奈子。灯加の加はお母さんからとってるんだよ」
灯加が墓石に手を合わせたので、私も続いた。けれどどんなことを語りかければいいのかもわからず、もしも骨を盗んだとしても化けて出たりしませんよね、と、私はそんなことを考えてしまっているのだった。
【つづく】