【閑話・おしまいのはじめに】

『史林、今ちょっといいかい』
『! 李遠殿下。いかがなさいましたか』
時を遡ること、十年ほど前。
皇宮の書庫番たる兪史林のもとには、しばしば人目を盗んでは、とある一人の、大切なお客様が訪れていた。
棚に積まれた竹簡の整理業務に勤しんでいた手を止め、史林はいそいそと出迎えに急ぐ。この埃っぽい一室は、いくつもある禁城内の書庫の中でも、とりわけ小さく重要度が低い。誰かが来ることは稀で、管理をしているのも史林一人。ゆえに気楽な身分だったが、我が国きっての最重要人物――皇太子殿下ともなれば、さしもの史林も緊張はする。
当初、こっそりと教育係や宦官たちの目を盗んで、この室に身を隠しにきた李遠の正体に気付かず。「近くに勤める官吏の誰かのお子さんが迷い込んだ」と勘違いした史林は、「小朋友、どうしましたか」と気軽に話しかけてしまった。
しばらく戻りたくないのだとごねる幼子をあやすため、「では、お暇つぶしにお話でも一つどうです。昔々、そのまた昔の大昔……」と、まるで妻や娘にやってきたように、物語を披露してしまったものである。
まさか皇太子殿下とも知らず、大変な無礼をしたものだが。咎められるどころか気に入られ、以後数年にわたり、彼は周囲の目を巧みにごまかしては、史林の書庫に通い詰めるようになってしまった。
それは、やがて彼が長じて――践祚を控え、そこそこ周りがきな臭くなってからも、変わらずだった。
『お待たせして申し訳ございません、殿下。何か御本をお探しですか』
その辺りの裏事情についての雑感は匂わせもせず――と言うより、史林にとってそもそも、「仲良くなった小朋友が、あまりおつらい思いをしないといいのだが」という一点を除き、宮廷内の勢力図だの政争だのなんだのは興味の外であったので――埃に汚れた手を拭きながら、史林が問うと。
『ううん、今日は史林に尋ねたいことがあったから』
柔らかな笑みを浮かべ、李遠は首を振った。奥の読めないその表情に、「もうちょっと昔は、もっとたくさん気持ちを自然に出していたのに」と史林は残念に思う。
彼はよく泣き、よく笑う少年だったはず。いつしか、環境がこの子から、素直に出せる喜怒哀楽を奪ったのだと。それを実感したから。思わずこぼれそうになるため息を喉奥に留め、史林は気を取り直し、彼の言について確かめることにした。
『私に尋ねたいこと……でございますか?』
『少し前に、この書庫に、男の子が二人来なかったかい』
『来ましたねえ』
――いかにも利発そうな、幼いながらに精悍で秀麗な面差しの、年上の少年と。女の子のような優しげな顔をした、可愛らしいが気の強い、年下の少年。
史林がそう告げると、「よかった」と李遠は胸を撫で下ろした。
『二人とも、君の物語を聞いていった?』
『はい』
『君のお手製のお菓子もつまんでた?』
『申し訳ございません、今は私ではなく、妻の残した食譜を継いで、娘が厨房に立つようになってきておりまして……。私が作っていた時より、火加減の調節も包丁の扱いも、よほど上手にやってみせます』
『わあ、娘さんはそんなに大きくなっていたのか』
李遠は――見た目は少なくとも――無邪気に手を叩いて喜んだ。そして、重ねて問うてきた。
『それで二人は、仲良くなりそうな雰囲気だったかい』
『はい、そりゃあもう』
特に、年下の細面の少年の方が、年上の美しい少年に、すっかり魅了されたようだった。
(確かに年上の少年は、見目良く賢いばかりでなく、人を惹きつける不思議な雰囲気の持ち主だった)
そういえば、「またいつでも遊びにおいで」と安請け合いしたくせに、どちらの子も名前を聞きそびれたな、と。史林が己の間抜けに気づいて、密かに焦っていると。
『ああ、よかったよかった、仲良くなりそうだったか。ちなみに……年下の子が、年上の子に夢中だった?』
まるで見てきたような李遠の言に、史林はポカンとした。
『よく、おわかりになりましたね』
『うん。そうなるかなと思って、僕が引き合わせたから。本人たちには知らせてないけど。わざと同じ時間に落ち合えるようにして』
『……え』
『その二人はね、きっと将来、この悠を率いる、大切な者たちになるよ』
不思議な色を浮かべた眼で、李遠はこちらを見た。不思議なのはまなざしだけではなく、その言葉もだ。
(国を率いる? それは……近い未来にご即位が決まっている、李遠殿下こそでは)
この少年は、今はなんでもない顔をして、史林に話しかけているけれど。本来ならば、こんな皇宮最辺境の書庫などにいるべきではない、至上の存在なのだ。
けれど、その雲上人の李遠は、緩やかに首を横に振った。
『僕がこれから言うことは、誰にも明かしたことはない本心だから。君もどうか、誰にも言わないでほしい』
『……殿下?』
『僕は今後、この悠に禍根を残すことになると思う。そして、君のところに来た、あの二人にも、それぞれに一生消えない傷をつける』
『な……殿下、それは、どういう……?』
驚く史林に、李遠は淡く笑んで続けた。
――将来、この国に起きることで。彼らは何も知らないまま、そして、互いに秘密を抱えたままに。きっとそれぞれに、自分を責め続けることになるだろう、と。
『だからこれは、僕の小さな懺悔だよ。なんのことか、今はわからなくて構わない。そのうちに必ず、知る日は来るから』
『……どうして、その話を私などに』
『史林なら、きっと誰にも言わないからだよ』
そう言って、子供らしからぬ大人びた趣で、穏やかに、静かに浮かべられていた、あの日の李遠の微笑みを。
史林は生涯きっと、忘れることはないだろう。
そこから、たったの十年も経たぬうち。
建世帝の即位と、急激な変節。死後は傾世帝とあだ名されるまで、国が乱れに乱れた果ての、革命と、新帝即位。
悠という国は、まさに動乱の時代を迎えた。
かくして稀代の名君である新帝・玲翔の元で、いざ世が平らかに定まってくると。その革命における影の立役者にして、玲翔の右腕だったはずの汪然は、なぜか表舞台から姿を消し、宦官に身をやつしている。
――先帝だった李遠、そして、その謎の寵妃だった人物にまつわる裏事情について。李遠から懺悔という体裁の不可思議な予告を受けていた史林は、どうしてもその真意が気に掛かり、独自に革命の経緯を追っていくうちに、隠された真相に気づいてしまった。けれどそのまま、史林は秘密を守るつもりでいた。
潮目が変わったのは、玲翔が即位後、史林の書庫に再び顔を出すようになったときだ。最初は「お懐かしい。小朋友が来てくださった」と喜んでいた史林だが、玲翔が沈鬱な面持ちで切り出した言葉に、ハッとさせられたのだった。
――史林。お前にだけ、本音を打ち明けさせてほしい。
それは奇しくも十年前、李遠が告げたのと、よく似た前置きだった。
――汪然にすら同意を得られないが……俺は、李遠兄上の急な変節には、隠された事情があると思っている。それがどうしても知りたいんだ。
玲翔はさらに、こう重ねた。
――もっと正直な話……このまま、兄上の返り血を浴びた己が、この国の頂点にいてはよくないのではと思っている。汪然に自宮を禁じたのは、いずれあいつに禅譲するためだ。情勢如何では、すぐにでも。弟の汪然に、帝位を継がせたい。
(これはだめだ。あのおかたは、文字通り命を捧げてまで、陛下に帝位を引き継いだのに。陛下にだけは、真実を知られるわけにはいかない。それがこのおかたを、どれだけ傷つけるか。だが、私などでは……聡明なこのおかたに、隠し事を続けていられるとは、到底思えない……)
現に、秘密があること自体は、あっさりと気取られてしまった。最後まで口をつぐみ、全てを守り切るには。彼が真実を知り得る前に、この命を断つしかない。
皇帝の深い悩みを知り、史林は煩悶の末、自決の覚悟を決めた。
しかし、服毒でも自刃でも、その死に不審を持たれるやり方では、必ず怪しまれてしまう。どうすればいいものか。
そんな悩みを悶々と抱えていた矢先に、秦家が企図した謀反の知らせが耳に入った。当然、史林は無関係のことである。
情報をもたらしたのは汪然だった。彼が、「念のために訊くが、お前は関わっていないな?」と史林に確認をとることで、初めてその事件を知ったのだ。仰天した史林は、まずは玲翔の身を案じ、無事であったことを知って喜んだあと、はたと思い直した。
『やっぱり、加担していたことにしてくださいませんか』
『は? 史林。お前、何を言い出すんだ』
突拍子もないことを言い出した史林に、当たり前に、怪訝顔を見せた汪然だったが。
史林が、己の知る情報を明かすと、途端にさっと顔色を変えてみせた。己の知ることを誰かに共有したのは、この時が初めてだ。
汪然と先帝だけの秘密を知っていること。玲翔が、先帝の変節に疑念を抱いていること。
相談もされているが、なんでもすぐ顔に出るし腹芸が不得意な自分では、たぶん隠し通せないこと。
――汪然さま。ご自身で始めた物語を、責任を持って終わらせなさい。陛下にだけは、知られてはなりません、と。
秘密を守って死ぬのは賤吏にすぎぬ己に任せ、最後まで玲翔のそばにあり、彼と国を助けてほしい。代わりに、唯一の心残りである娘の星蓮の命だけは守ってもらえまいかと申し出る史林に、もちろんそれはそうしようと、ためらいつつも汪然は承知してくれた。
得意な物語を理由に、娘を玲翔に勧め、後宮入りさせてその身の安全を保つことは、この時点で、二人で決めてあったのだ。豪勢な後宮入りの支度を整えるのは、せめてもの汪然からの気遣いだった。
(……諸々、水泡に帰してしまったけれども)
李遠と、汪然を止めることができなかった咎を、自らに科し。せめて、玲翔には何も知られないでいようと。史林は、秘密を呑んで死ぬはずだった。
(けれど、星蓮が、命を賭して救ってくれた命なんだ)
――たとえ天に許されずとも。あたう限りは生きようと、今はそう思っている。
幼少時、宗室に連なる兄弟が、三人とも全員こっそり、入れ違いに己のところに息抜きをしにきていたこと。小さなお客様たちを、それぞれ大切に思っていたのに。途中で風向きがおかしくなって、国を巻き込んだ血みどろの顛末に発展したこと。
その事実は、思い出すたび史林を深く悩ませる。
(どうにかして自分に、何か御三方を止める手立てはなかったのだろうか……。あの日、李遠殿下の言わんとしていた真の意味に、気づいてさえいれば……)
後悔は尽きない。
そして玲翔と汪然のみならず、皇太子だった李遠からも、書庫への訪問をしばしば受けていたこと。
けれど、その李遠から「ここに来ているのは内緒にして」と頼まれてもいた史林は、律儀にその約束を守って、上官や同僚どころか妻子にすら、一度もそれを口外した事は無かった。
(最後まで、守り通せなかった秘密はあるけれど――お約束は、きちんと今後も守ります。ご安心を、李遠殿下)
汪然が、己が唆したと思い込んでいる李遠こそが、偶然を装い、次弟と末弟との仲を取り持ったこと。
そしてそれが、――末弟が次弟にたちまち心酔して、いずれ自身に牙を剥くであろうことを、あらかじめ織り込んでのおこないだったと。
察しとったその真実だけは。
史林は、今度こそ墓の下まで持っていく腹づもりでいる。
【おしまいのおわり】