振って降られて吸血鬼 第三回

事件
ドアの外から、クロロックの声がした。
「エリカ、起きろ」
普通の人間の耳には全く聞こえない小さな声だが、クロロックの血をひいたエリカには聞き取れる。それに、エリカは、
「何か起こりそう」
という予感があって、ぐっすり寝入ってはいなかった。
「ちょっと待って」
と、こちらも囁くような声で答えると、素早くベッドから出た。
もちろん、千代子とみどりは深々とした寝息をたてている。
ドアをそっと開けて、廊下へ出る。
「何かあったの?」
「支配人が起こしに来た」
クロロックは、いつものマント姿だ。おそらく、何か起こると予想していたのだろう。
「それじゃ――」
「ミステリー小説なら、当然のことだがな。どうやら殺人事件が起きたらしい」
「え? 本当に?」
「ともかく、支配人が途方にくれておる。行ってやらねば」
エリカやクロロックの泊まっているのは二階の客室だ。――二人は階段を下りて行った。
ロビーは明かりが消えていたが、ダイニングルームの明かりが点いていて、開いたドアから明かりがロビーの三分の一ほどを照らしていた。
「――申し訳ありません」
支配人の川辺のぞみは、椅子から立ち上がって言った。
「おやすみのところを」
「いや、我々は一向に構わん。それで事件は……」
「はい。一階の客室にお泊まりの徳永須美子様です」
「奥さんが殺されたんですか?」
エリカはびっくりした。
「はあ、そのようで……」
「見に行きますかな」
と、クロロックが促して、三人はロビーへ出た。
「ご夫婦で、一緒にお泊まりでは?」
と、エリカが訊くと、
「別々でいらっしゃいます。どうも――ご夫婦仲が良かったとは言えないようで」
「それは誰の目にも明らかでしたね」
「お隣同士の部屋です。――こちらがご主人様の〈106〉。奥様は隣の〈105〉です」
「事件があったと、どうして分かったのかな?」
と、クロロックが訊いた。
「お電話がありまして、お部屋の電話で、フロントへかけて来られたんです」
と、のぞみは言った。
「私、フロントにおりましたので、すぐに出たのですが、何も言わずに切れてしまいました」
のぞみはマスターキーを取り出して、〈105〉のロックを外した。
「そこで、フロントから〈105〉へ電話してみたのです。でも、何度鳴らせても、お出にならないのです。それで心配になりまして、ここへ……」
〈105〉のドアが開いた。
ドアはもちろんオートロックで、閉じると自動的にロックされる。
部屋の中は、須美子の脱いだ服がソファの背にかけてある他は特に……。
「あんなことが……」
と、のぞみが言いかけて、言葉を吞み込んでしまった。
ベッドが人の形に盛り上がって、ちょうど心臓の辺りに、ナイフが突き立っていた。毛布の上から刺していて、そこに血がにじみ出していた。
顔はほぼ毛布で覆われていた。クロロックは歩み寄って、毛布をめくり上げた。
須美子は眠るように目を閉じて、穏やかな顔だった。――苦痛を感じる間もなかったのか?
エリカはちょっと眉を上げて、
「お父さん――」
「ああ、聞こえておる」
と、クロロックが言った。
「寝息がな」
「は?」
と、のぞみが言った。
「この女性は生きとる。――眠っているだけだ」
「でも――」
クロロックが、須美子の肩を揺さぶると、
「――え? どうしたの?」
と、須美子は目を覚まして、びっくりしたように、
「何かありましたの?」
と、クロロックを見て言った。
「まあ!」
のぞみが、体の力が抜けてしまったようにソファに座り込んでしまった。
「どうやら、あんたを殺したい人間がいて、いたずらを仕掛けたようだな」
クロロックの言葉に、須美子はいぶかしげに起き上がって、
「悪い冗談はやめて下さい」
と言ったが、毛布に突き刺さっているナイフに気付いて、
「キャッ!」
と、叫び声を上げた。
「お分かりかな?」
「私って――刺されてるんでしょうか?」
と、須美子は真顔で訊いた。
「私、警察へ連絡していなかったんです」
と、のぞみが言った。
「あのベッドを見てショックで……。でも、通報しなくて良かったわ」
「結果としてはそうだが、あれはただのいたずらとは言えない」
と、クロロックは言った。
ロビーに、須美子と、夫の徳永栄一郎もガウン姿で起き出して来ていた。
「それにしても、たちの悪いいたずらだ!」
と、徳永が言った。
「これは奇術用の、刃の引っ込むナイフね」
と、エリカが言った。
「ごていねいに、血らしいものを刃の周りに……」
「血の匂いがしなかったので、おかしいとは思ったが」
と、クロロックが言うと、
「ともかく、無事で良かった」
と、徳永が須美子の肩に手をかけたが、
「がっかりしてるんじゃなくて?」
と、須美子の方は冷ややかだった。
「でも、一体誰があんなことを?」
と、のぞみがため息をついて、
「寿命が縮まりましたわ」
「ともかく、一旦部屋へ戻られて、おやすみになることだ」
と、クロロックが言うと、須美子は不満げに、
「あの部屋はいやだわ。――あなたの部屋で寝ることにする」
「もちろん構わん。ベッドは二つあるしな」
須美子は、渋々という様子ではあったが、夫と一緒に〈106〉へと入って行った。
「――お騒がせして申し訳ありません」
と、のぞみはクロロックに詫びた。
「いや、一向に構わん」
クロロックはエリカと二階へ上がって行ったが――。
「妙だよね」
と、エリカが言った。
「部屋はロックされてたはずでしょ?」
「そうだ。それに、あの支配人が、こんな時間にスーツのまま起きているのもな」
「でも、今から大騒ぎするのも……」
「涼子を起こしてしまわないようにせんとな。――朝食の席で会おう」
エリカが、気付いたように、
「雨、止んだのね。音がしない」
と言って、欠伸をした。
「予報通りですわ!」
と、スマホを見ながら、岸野真子が満足げに言った。
――朝食のダイニングルームには明るい日射しが射し込んでいた。
「よく降ったわね、それにしても」
と、夫と一緒のテーブルについている須美子が言った。
ハムエッグ、トーストといった朝食は、むろんみどりには物足りないが、
「ここでは黙ってるんだよ」
と、千代子に言われていた。
「戻ったら、また昼ご飯にしよう」
「お騒がせいたしまして」
と、川辺のぞみがコーヒーを注いで回って、クロロックにそっと言った。
「それはいいが」
と、クロロックはダイニングルームを見渡して、
「あの森田という客はみえんようだが」
「そうですね」
と、のぞみが言って、
「お電話してみますわ」
しかし、森田が目を覚ますことはなかった。
今度こそ、ベッドで刺し殺されていたのである。
【つづく】