振って降られて吸血鬼 第二回

豪雨


「何よ、これ!」
 エリカが思わず口走った。
「どうなってるの?」
 エリカは車のスピードを落とした。
 それは突然のことだった。
「正に〈ゲリラ豪雨〉ね」
 と、が言った。
のんなこと言ってないでよ!」
 エリカは必死で前方に目をこらした。
 あのサービスエリアを出るとき、空が真っ暗になって、「大雨」の予感はあった。しかし、これほどとは
 国道を走り出して十五分ほどしたとき、いきなり車の前がまったく見えなくなるほどの勢いで雨が降って来たのである。
 ハンドルを握るエリカも焦った。前の車がどれくらい離れているのか、全く分からない。ということは、エリカたちの後ろの車も同様なわけだ。
すごいね」
 と、みどりが目を丸くして、
「バケツを引っくり返したような、っていうの?」
「それどころじゃないよ」
 と、エリカは言った。
たきつぼに突っ込んだみたいだね」
「でも、きっと長くは続かないよ」
 と、千代子が外へ目をやって、
「局地的でしょ、どうせ」
 すると
「予報通りだわ」
 と言ったのは、エリカたちの車に同乗したきしだった。
 そして常に手にしたスマホを眺めて、
「降り出しは一分十五秒しか違ってない。正確だわ」
 と、感心したように言った。
「それじゃ、この豪雨はいつまで続くんですか?」
 と、エリカは訊いた。
 とくながえいいちろうが自分のベンツで、真子を残して行ってしまったという事実を、真子が認めるのには約二十分かかった。
 それでも、徳永のことを、
「きっと何かよほどのわけがあったのよ」
 と、かばっていた。
 もちろん、エリカたちとしては、真子を車に乗せなくてはならない義理はないのだが、といって、サービスエリアに真子を置いて来ることもできなかった。
「どうせ東京に戻るんだし」
 というわけで、エリカの運転する車に同乗することになったのだった
「予報じゃどうなってるんです?」
 と、エリカは真子に訊く。
「気象庁の予報は間違いないわ」
 と、真子はスマホをいじって、
そうね、この豪雨は当分続くわ」
「当分、って。この降り方のまま?」
「予想雨量からみると、たぶん変わらないでしょうね」
「それはどうも」
 と、エリカは言った。
 ともかく、このまま走り続けるのは危険だった。雨が弱くなるまで、道の端に車を寄せて待つのがいいとも思ったが、他の車も同様なら、道の端で追突してしまうかもしれない。
どうする、エリカ?」
 と、千代子が言った。
「困ったね! こんなひどい雨って、初めてだよ」
 そのときだった。雨に塗り潰されるような視界に、ある文字が
「『〈ホテルR〉この先百メートル左折』だって」 
 チラッとだがその看板が見えたのである。
「百メートルって
 果たして、左折する道が見えるだろうか?
 エリカは慎重に車を走らせた。そして、
「あそこだ!」
 かすかに矢印の標識が見えた。エリカはハンドルを切った。

 確かに、〈ホテルR〉はそこにあった。
 激しい雨の中だったが、さすがにその建物は見分けられた。
 正面の車寄せに車を入れる。車の屋根を叩いていた雨音が消えて、一瞬、誰もが沈黙した。
「着いた!」
 と、エリカは息をついて、
「ホテル、大丈夫かな? 雨で溶けてない?」
 ジョークにもなっていなかった。
 ホテルから誰かが出て来て
「え? どうしてここに?」
 エリカが思わずそう口走ったのは当然だったろう。
「よくここまで運転して来たな」
 と、ドアを外から開けて言ったのは、
「お父さん!」
 と、エリカは目を丸くして、父、フォン・クロロックを見た。
「いや、我々もこの雨で車を走らせるのが危なくなってな。幸いこのホテルが目についたので、立ち寄ったのだ」
「我々って
「むろん、りょうとらちゃんだ」
 と、クロロックは言って、
「車はホテルの人間が駐車場へ入れてくれる。ともかく中へ入れ。どなたかお客が?」
「うん。成り行きでね。説明は後でするよ」
 エリカは車から降りて息をついた。
「ちょっと普通じゃない雨だね」
「うむ。私もそう思っておった」
 と、クロロックはうなずいて、
「他にも雨から逃れて来た人がおる」
 そう大きくはないが、モダンで洒落しゃれた建物だった。
 ロビーへ入って、エリカは肩を回して、
「ハンドル、ずっと緊張して握ってたら、肩がこっちゃったよ」
 エリカたちについて、岸野真子もロビーへ入って来たが
 気が付いたのは千代子だった。
「あれ? 徳永先生だ」
 ロビーのソファには、かなりひどく濡れた徳永栄一郎が座っていたのである。
「先生!」
 と、真子が進み出ると、ソファにかけていた女性が立ち上がって、
「こんな所で会うなんて、偶然ね、岸野さん。主人に何か用?」
 と言った。
 真子は足を止めて、
「奥様
 とつぶやくように言った。
「やあ、君たち、ご苦労様」
 と、徳永は、わざとエリカたちの方へ声をかけて、
「無理なことを頼んですまなかった。これは、家内のだ」
「ちょうど、ここで雨を避けていた、この人とバッタリ!」
 須美子はわざとらしく笑って、
「あなたたちもM大の学生?」
「いえ、違います。ご主人とはたまたま
「どうでもいいわ。ともかく、主人のことは諦めてちょうだい」
「おい、何を言い出すんだ」
 と、徳永があわてて言った。
どうして、そんなに濡れてるんですか?」
 と、千代子が徳永に訊いた。
「ベンツが雨もりでも?」
「いいえ。何だかね、急にシャワーを浴びたくなったらしくて」
 と、須美子は真顔で言った。
「雨の中へ飛び出して行ったのよ。私は止めようとして追いかけたんだけど
 徳永は無言だったが、誰もが、須美子に引っかかれそうになった徳永が、逃げ回ったあげく、豪雨の中に駆け出して行かざるを得なかった光景を思い描いたのである。
「ともかく、先生、着替えないと風邪かぜひきますよ」
 と、千代子は言った。
「私たち、泊まれる部屋はあるのかしら?」
 エリカがフロントで交渉して、三人で泊まれる広めのツインルームを借りることができた。
夕食は七時だそうだ」
 と、クロロックが言った。
「じゃ、それまで部屋でひと休みするよ」
 と、エリカは伸びをして、
「そのころには、雨はどうなってるかしら」
 別に問いかけたわけではないのだが、真子が素早くスマホを見て、
「雨は今夜一杯降り続くという予想です」
 と言った

「もしかしたら、川の中で魚つかまえて食べなきゃいけないかもしれないって心配だったけど」
 と、みどりがステーキにナイフを入れながら、
「まともな料理が食べられて幸せだわ!」
「みどりはオーバーだよ」
 と、エリカが笑った。
 ダイニングで、エリカたち三人と、クロロックたち三人で、隣のテーブルで夕食をとっている。
 予報は当たっているようで、ガラス越しに見ると、雨は相変わらず降り続けていた。
 そのとき、
「もう一人、この雨の中、お客様がおいでになりました」
 という柔らかい女性の声がした。
 このホテルの支配人、かわのぞみである。四十才くらいか、落ちついたふんの女性だ。
 男性が一人、ダイニングへ入って来た。
 スラリと細身で長身の男。どこか外国人のような印象である。
「お邪魔します。もりという者です。雨の中、このホテルに出会えて助かりました」
「そちらのテーブルへどうぞ」
 案内されて、一人席につく。
雨は止む気配がないかね」
 と、クロロックが言った。
「そうですね。一時ほどの降りではありませんが
 と、森田は言った。
「明日は晴れてくれるといいが」
 クロロックはワインを飲みながら言った。
「お父さん、どこへ行くつもりで出て来たの?」
 と、エリカが訊いた。
「この先の温泉だ。お前たちも行くか?」
「一日ぐらいなら、付き合ってもいいよ」
「明日は晴れる予報です」
 と、一人で食事していた岸野真子が、スマホを見て言った。
「ありがとう」
 と、エリカは言った。
 ずぶ濡れになった徳永栄一郎は、ホテルが用意してくれた服に着替えていたが、派手で、およそ似合わなかった。
エリカ」
 と、千代子がそっと言った。
「気が付いた? あの森田さんっていう人を見て、徳永先生の奥さん、ギョッとしてたよ」
 エリカは黙って肯いた。どういう関係なのだろうか
「ともかく
 と、エリカはガラス越しに見える外の様子へ目をやりながら、
「この雨が止んでくれるといいんだけどね
 と言った。

【つづく】