振って降られて吸血鬼 第一回

嵐の予感
予感は、冷たくじっとりとした空気の中にあった。
「台風が急に進路を変えたらしいわよ」
サービスエリアで軽くサンドイッチなどつまみながら、岸野真子はスマホを見て言った。
ラーメンを食べていた徳永栄一郎は、ちょっと小馬鹿にしたように、
「お前、本当に天気のことばっかり気にしてるんだな」
と言って、
「もしかして気象庁にでも恋人がいるのか?」
と、からかうように笑った。
真子は、自分の「恋人」のはずの徳永栄一郎を、チラッと眺めたが、何も言わずに、スマホに表示された天気図を見ていた。
「――それで、どうなんだ? 台風がこっちに来てるのか?」
と、徳永は言った。
「このままだと直撃だわ。かなりひどい嵐になりそう」
「そうか」
「少し早目に東京に戻った方がいいんじゃないかしら」
「あわてることはないさ」
と、徳永はラーメンを食べ終えると、
「コーヒーを飲むよ。口の中がサッパリしないからな」
「持って来ましょうか?」
「いや、いいよ。ついでにトイレに寄る」
と言って、徳永は椅子をガタつかせて立ち上がった。
岸野真子は、またスマホの〈台風情報〉にじっと見入った。
――徳永は、振り返って、真子がスマホを見つめているのを確かめると、ちょっと冷ややかな笑みを浮かべた。
サービスエリアは、かなりの混雑で、その中に紛れたらまず分かるまい。
徳永栄一郎は三十五才。M大学の最も若い教授である。評論家として、TVにもときどき顔を出していた。
こうして遠出して来るときは、サングラスなどかけて、却って目立ったりする。
岸野真子はM大の大学院生で、二十四才。当然徳永栄一郎のゼミにいる。
教授と女子学生という、至ってありふれた関係だが、泊まりがけで出かけるような仲になってから、一年余り。
正直、徳永は真子に飽きて来ていた。
今年入学して来た女の子たちの中に、徳永の目をひく子がいた。講義の後、さりげなく声をかけてみると、充分に手応えがあった。
すぐにも誘いたかったが、本業が忙しく、時間が取れない。それにもう一つ、もっと大きな問題があった。
岸野真子がやたらやきもちやきなのである。――真子と別れておかないと、面倒なことになる。
今日、別れ話をしよう。徳永はそう決めていた。
しかし、どこでどう話を切り出すか……。
――外は少し暗くなりつつあった。
「徳永栄一郎だ」
と、大月千代子が言った。
「え?」
「ほら、あのサングラスの」
「――本当だ」
と、神代エリカは肯いて、
「千代子、よく分かったね」
「大学の用事で、会いに行ったことがある。もちろん、先生と一緒だけどね」
それを聞いて、橋口みどりが、
「あ、知ってる」
と、ホットドッグを食べながら、
「可愛い学生にすぐ手を出すって、有名だよね」
「それは噂でしょ。今はそんなことできないよ」
と、千代子はコーヒーを飲みながら言うと、
「それに、会ったけど、別にちっとも魅力があるとは思わなかった」
「そりゃ、千代子は怖そうだもん」
「どういう意味?」
と、千代子が言い返したが、エリカが、
「千代子、その先生が千代子のこと、見てるよ」
「え? 本当?」
千代子が見ると、徳永はカウンターでコーヒーを注文していた。
「私は、TVでしか見たことない」
と、エリカは言った。
――神代エリカ、橋口みどり、大月千代子。
同じ大学の仲良し三人組で有名な存在である。
むろん、ご承知のように、三人の中で、神代エリカは少し「人間離れ」している。父親、フォン・クロロック。トランシルヴァニアからはるか日本にやって来た吸血族。
エリカもその血をひいて、何かと危ない目にあったりしている。
「――外が少し暗くなって来たね」
と、エリカは言った。
「何だか、台風が来てるみたいじゃない」
と、千代子は言った。
「雨が降るかな」
エリカが車を運転して、三人でドライブの帰り道だった。
「夕飯はどこで食べる?」
と、何より食事のことが心配なみどりが言った。
「今、ホットドッグ食べたじゃないの」
「こんなの食事の内に入んないよ」
と、みどりは主張した。
すると、そこへ、
「失礼」
と、割って入ったのは、サングラスの徳永だった。
「君らは大学生かね?」
「そうです」
と、エリカが肯く。
「僕は徳永栄一郎という者だ」
「存じてます」
と、千代子が言った。
「一度、M大へお伺いしたことが」
「ああ! やはりそうか」
と、徳永はホッとした様子で、
「見憶えがあると思ったんだ。――君らにちょっと頼みがある」
「何ですか?」
エリカは、無茶な頼みなら断ってやろうと思っていた。
徳永の態度には、「有名だから、頼みを聞いてくれて当然」という印象があったのである。
「これを――」
と、徳永は折りたたんだメモらしいものをテーブルに置いて、
「あの奥のテーブルで、スマホを見ている女性に渡してやってほしい」
「ご自分でお渡しになれば?」
と、エリカは言った。
「それができないわけがあるんだ」
と、徳永は言って、
「僕はこれからすぐ表に行って、車で出発する。それを確かめてから、これを彼女に渡してくれ。よろしく頼むよ!」
そう言い捨てると、徳永はさっさと行ってしまった。
「――感じ悪い」
と、みどりが言った。
「放っておけば?」
「そうもいかないでしょ」
と、千代子がメモを手に取って、
「もう行っちゃったね、あの先生」
「今出てったベンツが徳永さんの車? 大したもんだ」
と、みどりは肩をすくめた。
「ともかく、これをその女の人に持って行こう」
三人は、それらしい女性のテーブルへとゾロゾロ歩いて行って、千代子がちょっと咳払いすると、
「あの、失礼ですが……」
しかし、その女性はスマホから目を離さない。千代子が困っていると、エリカが、
「徳永栄一郎先生のお連れの方でしょうか?」
と訊いた。
その女性は、
「そうですけど、何か?」
と答えたものの、目はスマホを見つめたまま。
「徳永先生が、これを渡してくれ、と」
メモが目の前に置かれると、さすがにその女性も目を上げてエリカたちを眺める。
「それって……。先生はどこ?」
「車で出て行きましたよ」
と、エリカが言うと、その女性はちょっとの間、ポカンとして、それから笑った。
「そんなわけないじゃない! 何の冗談? あなた方は――」
「大学生ですが、M大生ではありません」
と、エリカは言った。
「このメモ、何なの?」
「知りません。渡してくれ、と言われただけで」
「そんな……」
その女性はメモを手に取ると開いて、
「あの人の字だわ。――え?」
短いメモを、何度もくり返し読んだ。
それから、エリカの方を怖い目で見上げると、
「あの人はどこなの?」
と訊いた。
「ですから車で、もう……。どこへ行ったかは分かりません」
その女性はパッと立ち上がり、椅子はその勢いで倒れた。そして、出口の方へ、人の間をかき分けるように走って行った。
「もういないって言ってるのに……」
と、エリカはそのメモを手に取って見ると、
「え?」
と、声を上げた。
〈真子へ。君とはもうやっていけない。二人の仲は今日でおしまいだ。分かってくれるね。帰りは、このメモを君に渡した学生たちが送ってくれる。それじゃ〉
千代子とみどりもそれを読んで、
「〈送ってくれる〉って……どういうこと?」
と言ったのだった……。
【つづく】