石のスープ (著:深緑野分)
ディストピア飯小説賞によせて 特別書き下ろし短編
「何食べてるんですか、博士」と助手は言った。
「うん? いいものだよ。実験が成功したお祝いだ!」
博士の手元には、パック入りの肉片がある。それは数がかなり減少して、希少生物となった牛という生物の肉のサンプルである。
「ずるいですよ! こんな贅沢品を食べるなんて!」
抗議する助手に、博士は自分の食べていた肉片を少し囓らせてやる。たちまち肉汁が口いっぱいに広がって、助手は満面の笑みを浮かべた。
「しかし私が若い頃はまだ、天然の肉牛や鶏や豚がそこらじゅうにいて、好きな時に好きなものを食べられたのだが」
「はあ。上の世代の話を聞かされましても、今はもう違いますからね。もう外の世界で生きるのは難しいですよ。棟で暮らしていれば食事には困りません」
「まあ、時代だろうな。そこでだ、素晴らしい発明を完成させたぞ。さて、どこから話をはじめようか」と博士は言った。
博士の後ろには彼の背丈を遥かに超す巨大なカプセルがあり、緑色と灰色と朱色を混ぜたような奇妙な色の蒸気が立ち上っていた。
若い助手は、「どこからでもどうぞ、ご随意に」と答えるしかなかった。何しろ博士の黄ばんだ歯と色の悪い舌が、話したくて仕方がない様子で、唇の隙間からもぞもぞちらちらと覗いているのだ。
博士は天才だと誰もが知っている。少なくとも国内に住んでいる人間ならば。けれどもこの若い助手は、博士を「ただの珍妙な人」だと思っていた。薄汚れた白衣の下に着ているのは、虫食いで穴だらけのセーターと、つぎはぎだらけのズボンだ。しかも今は両手に大きな青色のオーブンミトンを嵌めていて、なんとも言えず滑稽に見える。それにろくな発明をしない。博士を天才と見込んで研究所に入ったのが、運の尽きだった――助手はそう思っていた。
博士は助手が話を聞いてくれるというので、喜んでオーブンミトンを嵌めた手を叩いた。
「それじゃあ、まずはだ」と博士は言った。「君は、とある国の民話〝石のスープ〟を知っているかね」
「生憎ですが存じ上げないです」
助手は窓際にある水槽の金魚に餌をやりながら、適当に首を振った。民話なんか科学的研究と何の関係があるのだ。しかし博士は少し嬉しそうだ。「そうか、そうか。では話して進ぜよう」。えへん、と咳払いをして博士は話しはじめた。まずは昔話から。
「昔々あるところに、貧しい旅人がいた。お腹を空かせて民家を訪ね、どうか食事を恵んでくれないかと頼んだのだが、断られてしまう。そこで旅人は道ばたに転がっていた石を拾い上げると、再び民家を訪ね、こう言った。『ここに美味しい出汁の出る石があります。これを使って自分で料理するので、鍋と水を貸してくれませんか』と。民家の主は『石の出汁だって?』と少し興味を持ったので、鍋と水を貸してやることにした。旅人は更に、『塩を少々頂けますか。もっといい出汁が出そうなので』と言い、民家の主が塩を入れてやると、今度は『野菜屑を持ってきてくれ』、『肉片を持ってきてくれ』、と頼む。主がすべて用意してやると、見事な石のスープが出来上がり、みんなで舌鼓を打った――という話だ」
「へえ」
「へえとはなんだ、気が利いた話だと思わんか」
「気が利いていますか」
「当然だ。つまりだな、石から出汁が出るというのは大噓で、あらゆる具材を持ってこさせることによって美味い料理をまんまと食わせてもらう、という話なのだよ。野菜も肉も入っていれば栄養たっぷり、腹もいっぱいのスープになるさ」
なるほど、と若い助手はようやく合点がいく。しかしなぜこんな話を自分に言って聞かせたのだろうか? どこからでも話していいとは言ったものの。すると、助手の胡乱なものでも見るかのような目つきに、博士は更に嬉しそうになる。
「わかっている、わかっている。そう疑り深い顔をするでない」
そう言うと博士は、背後にあった巨大なカプセルの扉を開けた。一気に蒸気が溢れ出て、助手は思わず咳き込む。ひどい臭いだ。何かの化学物質を焦がしたような臭い。刺激に涙ぐむ目をしぱしぱさせながら、若い助手が博士に向き直ると、博士はちょうどオーブンミトンでカプセルから何かを取り出したところだった――丸まったウサギほどの大きさの、何やら黒いものである。
近寄ってよく見てみれば、この黒いものは、石以外の何ものにも見えない。こんなものを入れておいて何をするつもりだったのだ? 助手はいますぐにでも研究所を辞めてもっと無難な職業に就こうと思った。
「ちゃんと見たか? 石だよ」
「当たり前でしょう、わかりますよ。こんなものの何が珍しいんです?」
すると博士は胸を張った。あまりに威勢よく胸を張ったので、鼻の穴が丸見えになった。
「私は、本物の〝石のスープ〟を完成させたぞ。野菜屑も肉片も塩もいらない、本当にこれだけでスープが作れる石をな!」
助手はぽかんと口を開けた。いったいこの人は何を言っているんだ? 得意満面の博士の手の中にある石を、あらためてじっくり観察する。全体的に流線型をしているが、完全に滑らかではない。二カ所に丸い穴が空いていて、火山岩に少し似ていた。そして、じっと見つめていると、なにやら液体がじわじわとしみ出してくるようだ。
「何だか妙に濡れていますね、これはどういう仕掛けなんです?」
「まあいいから来たまえ」博士はそう言うと、疑り深い助手の袖口を引いて研究室を出た。向かった先は、研究所がある建物の二階、第三棟食堂室だった。
この研究所がある建物は、第三棟という。他に第一棟から第五棟までがあり、すべて、〝上層部〟によって管理され、人々は安全に暮らしていた。学校があり、会社があり、工場があり、農場や畑があり、食料貯蔵庫があり、また、胃袋を満たし栄養管理もしてくれる食堂がある。棟の外の世界は危険で、食料の確保もろくにできなくなっていた。
第三棟食堂室は、白い壁と白い床に、オレンジ色のテーブルと椅子がずらりと並び、清潔で、なかなか美味と評判の料理を出す場所であった。供される定食は二種類しかなく、肉か魚のどちらかを選ぶのだが、一番人気の第一定食――すなわち肉定食――は、少々量が控えめとはいえ、嚙むと肉汁がたっぷり溢れ出る肉片を食べることができた。
今の時間はちょうど昼食の後片付けが終わって間もなく、客はひとりもおらずがらんとしている。博士と助手が厨房に入っていくと、厨房長は嫌な顔をした。
「もう飯は終わっちまったんですがねえ。鍋もすっからかんですわ」
「その鍋と水とコンロだけ貸してくれないか。ちょっとした実験をしたくてな」
「実験ですと?」厨房長は真っ黒く太い眉をぎゅっと上げた。「そういうことは研究室で行ってください。ここで危ないことはなさらないで頂きたいですな」
「危ないことなどありゃせんよ、ただ湯を沸かして、この石を茹でてみたいだけなのだ」
博士は厨房長のむっつりした顔を無視して、棚に並んでいた鍋をひとつ、強引に取り出した。そして蛇口から鍋いっぱいの水を注ぎ、コンロの火に掛ける。厨房長は呆れた様子で両手を広げて肩をすくめ、「わかりましたよ、お好きにすればいい」と言った。
水を張った鍋に、博士はそうっと、まるで卵を扱うように優しく、石を入れる。厨房長と助手は互いに顔を見合わせ、小さくため息をついた。石を入れた鍋はやがてぐらぐらと煮立ち、底から泡が湧きはじめた。
「石がエキスを排出しているのだ」と博士は言う。「嗅ぐがいい、この香りを。なんとも不思議だろう」
「不思議というか、どちらかというと嫌な臭いですよ。何だってこんな石ころを茹でるんです」
鼻をつまんで顔を背ける厨房長に、助手が石のスープの説明をしてやると、大声で笑い出した。
「いくらなんでもそんなことは不可能だ! 学者先生は料理のなんたるかをまったくわかっていない!」
しかし博士はどこ吹く風、「スープが煮えたぞ」と手を擦り合わせると、お玉で湯をすくい、ずずっと音を立てて啜った。そして頰を紅潮させ、にんまりとした笑顔でふたりにお玉の湯を勧める。博士がスープだと言い張るものは、うっすらと茶色っぽい色が付いていて、コンソメスープに見えなくもなかった。
助手と厨房長は無言で互いに譲り合い、結局は厨房長が先に飲むことになった。眉根を寄せ、髭をゆがめて口をすぼめ、そうっと啜る――「なんだこれは」。
「どういうことですかな、博士。ここには何の変哲もない石と水しかない。だのに、にんじんの味がする。タマネギの味がする。肉の味がする」
慌てて助手も、厨房長からお玉を引ったくって湯をすくい、飲んでみた。
「……本当だ。これはスープだ!」
お玉が手から滑り、床に転がり落ちる。わなわなと手が震える。まさか手品だろうか? しかしお玉を拾い上げた助手が、何度水を替え鍋を替え試してみても、石は同じように、ただの水をスープに変身させるのだった。
「だから言ったろう」と博士は言った。
「私は〝石のスープ〟を完成させたと。栄養素を計測したが、ビタミン、ミネラル、タンパク質、脂質、炭水化物、その他人間に必要な栄養素すべてがこの中にぎゅっと凝縮されているのだ。これで我が国の民は、どのような食糧難に陥ろうとも、生き延びることができる。いや、それ以前に、まず食料を無駄にしないはずだ。この石のスープさえあれば、生き物を殺して食べる必要もなくなり、みんなが平和に暮らせる」
助手は博士の演説に魅入られ、先ほどまで「いますぐにでも研究所を辞めてもっと無難な職業に就こう」と思っていた自分を恥じた。
管理された棟の中だから飢えることはない、と人々は安心している。けれどもこの石と水さえあれば、食料貯蔵庫に頼らずとも、人間が生きていくのに必要な栄養素を摂取できるのだという。本当に天才だ。この博士は、天才なのだ。
三人は誰からともなく手を取り、手を繫いで輪になった。幸せな発明の完成を目撃した瞬間だった。しかし厨房長だけは微妙な顔をしている。
「けれどもですね、博士」そう厨房長が言った。「これじゃあ皆は満足しないでしょう」
「何だって?」
聞き返すふたりの前で厨房長はお玉からもう一度スープを啜り、渋い顔をする。
「味がですね……素材そのまますぎるんです。野菜の青臭さと肉の生臭さが主張しあって、しかもなんとも化学的な焦げ臭さと砂利っぽい臭いが気になって、ええ、率直に申し上げると美味しくないんです」
厨房長は自分のコック帽を直しながら言った。長年厨房に立ち、客からわがままや不平を被りながらも、第三棟食堂室で料理をふるまい続けてきた者の自負である。料理というものは食材だけで成り立っているものではない。調味料や火加減、あらゆる料理法のハーモニーなのだ。そして人間の味覚への執着たるや……そう厨房長は主張したが、博士は聞き入れなかった。
「君の主張はよくわかった。確かにこのスープは美味くない。が、味付けを変えることは許さんぞ」
「なぜです?」
「塩を入れたら塩が無駄になるからだ。肉も野菜も然り。この石だけで作ったスープそのままでなければ、発明の結実である〝節制〟の意味がない」
確かに博士の言うとおり、スープを美味にするために調理食材を入れてしまえば、この発明の意味は薄らいでしまうだろう。助手はそう考え、博士に賛同した。納得していないのは厨房長だ。
「味は、まあわかりましたが、量はどうします。いくらスープを飲んだって腹いっぱいにはなりゃしませんよ。固形物を摂取しないと満足に働くこともできないでしょう。せめてパンを付けなければ……」
「ならばスープに食べ応えを付けてやればいいわけだな? なるほど、よし。それは厨房長、君にやってもらおうじゃないか」
それで、厨房長がこの石のスープの加工を担うこととなった。
余分なものはなるべく――できれば一切何も――入れてくれるなという話だったので、ひとまず厨房長は、固形にするためにスープを凍らせてみた。しかしそれではシャーベットになるばかりで、真夏ならまだしも、真冬に食べたら栄養価どころの騒ぎではなく、みんな凍えてしまうだろう。
次に試してみたのは煮こごりだった。スープを少し冷やしてみると、これがうまくいった。もともと石からエキスとして排出されていたらしいゼラチン質が固まって、ぷるぷるとしたゼリー状のものになる。これならばある程度の加工ができる。厨房長は喜んで、石のスープの煮こごりの型抜きをはじめた。
にんじんの型を作って煮こごりを抜き、白い皿に盛ってみると、なんとも可愛らしい前菜になった。次のスープはそのままあつあつで提供する。その次は、ビーフステーキを象った型を作って煮こごりを固めてみた。見た目は薄茶色だし、ビーフステーキに見えなくもない。ナイフはかろうじて通ったがフォークで刺すとばらばらに崩れてしまう。スプーンで食べるビーフステーキというのも一興だろうと考えた。最後はデザートである。大小の違う円形の型で抜いて、三段に重ねたケーキもどきを作った。
試行錯誤を経た料理の数々を喜んだのは、もちろん、博士である。
「素晴らしい! 厨房長、君は創意工夫の天才だな!」
一方、食堂のオレンジ色のテーブルの向かいに座った助手は、形が違うだけで、何を食べても同じ味がする薄茶色のフルコースにうんざりし、口の端についた煮こごりの欠片をナプキンで拭い取った。
博士の喜びようたるやすさまじいもので、まず国家の上層部に知らせるべしと大急ぎで研究所へ戻っていった。
上層部の答えはなかなか返ってこなかったが、十と七日が過ぎようという日、ようやく連絡があった。時代遅れのファクシミリが唸りながら吐き出したその答えには、こうあった。〝実験の結果を祝福す。ついては、実験の第二段階に移ること。本日より第三棟住民の食事をすべて、石のスープにすべし〟と。
急遽、第三棟厨房の食材は第一、二、四、五棟に配送され、厨房長の手の中に残ったのはあのウサギくらいの大きさの黒い石ひとつだけとなった。調理部員たちはみな、出来上がった石のスープを順番に煮こごりにし、型抜きに励んだ。
博士はその他の研究をやめ、毎日厨房に通って、厨房長や調理部員の誰かがうっかり石を壊してしまったりしないように監視した。それはもう、睡眠不足で目が血走るほどの時間を監視に費やした――なにしろ第三棟にいる住民たちは一千人を超える人数で、彼らの分のスープを作る間ずっと起きていなければならなかったのだから。
かくして実験台となった第三棟の食堂室には、第一定食〝肉の煮こごり〟と第二定食〝魚の煮こごり〟の二種が供されることになったが、どちらも結局は同じ味で、ステーキ型で抜いているか魚の切り身型で抜いているかの違いしかなかった。
反響は博士の期待するものとは大きく異なった。
「何を食べても同じ味がする。こんなものは肉じゃない。不当だ」
「こんなに悪臭のする煮こごりなんてはじめてです。味付けをもっと考えては」
「まったく腹に溜まらない。せめてパンがあればいいのに、それもないだなんて」
第三棟の人間たちは、石のスープの料理に一週間も耐えられなかった。非難囂々、大勢の人々が食堂室に詰め寄り、元のメニューに戻すよう訴えた。その抗議の列は食堂室から廊下をはみ出し階段へ続き棟を出て中庭を過ぎ、大通りにまで飛び出していた。
しかしこの反対意見の多さにも、国の上層部は実験の第二段階継続を引っ込めなかった。第三棟を使っての実験は継続、食堂室は相変わらず、同じ味の煮こごり、それも微妙に化学臭と砂利の臭いが混じったような風味の代物を出し続ける羽目になった。なぜなら、〝節制〟の文字は上層部にとって何よりも価値あるものだからだ。
石のスープは量産体制に入り、やがて第三棟には〝石のスープ工場〟が出来、住民たちはここで働くことになった。これで食料貯蔵庫の節制ができると踏んだ上層部は、石のスープは第三棟だけでなく、第一から第五棟まですべての食堂室で供すように、と命じた。そして再び、住民たちの反対運動が起きる。まったく、こんなにまずいものは食べられない。いつもの定食を食べさせろ、自由に味を選べる権利をと、人々はプラカードを掲げて列を作った。
さすがの博士もがっかりした。これほど熱心に研究を重ね、大量生産をしても、自分の発明は認められないのだと、大いにがっかりした。がっかりしすぎて、研究所の荷物をまとめ、工場の運営も止めて、郷里に帰ってしまったくらいだった。ほとんどの実験道具は若い助手のために残された――ただあの黒い石だけは、小さな密閉容器の中に入れられ、博士と共に故郷に帰ることとなった。
仕方なく、上層部は再び食堂室のメニューを元に戻した。人々は喜び、抱き合った。そしてしばらくの間、石のスープの存在は忘れ去られていた。若い助手自身も、自分の研究で手一杯で、いなくなった博士のことに思いを馳せるような暇はなかった。
ところがしばらく経ってみると、嫌な噂が聞こえはじめてきた。
食料貯蔵庫の中にある食料がどんどん目減りしている。第一棟から第五棟までをまかなえる量の食物が危機に瀕しているというのだ。
もう助手ではなくなった若い博士も、その窮状を確認した。確かに食料貯蔵庫からはものがなくなっていた。それも、いくら穀物や肉類、野菜類を棟農場から補充しても、どこかへ消えてしまうのだ。
第三棟の食堂室のメニューも、もはや二種類ではなくなり、一種類、それも野菜と屑肉を合わせた薄いスープとパンだけになっていた。薄い茶だけは豊富にあるので、棟で暮らす住民たちは茶を飲んで腹をいっぱいにした。ある時、子どもが「このお茶を固めたらあの煮こごりのようになる?」と訊ねた。両親ははっとして子どもに「しいっ」と言って大人しくさせたが、まわりにいた住民たちは、あの何を食べても同じ味がする煮こごりを食べた後、不思議と体に力が漲ってきたのを思い出した。あれはとても栄養価の高いものだったのかもしれない。そうに違いない。
もう助手ではなくなった若い博士は、今度こそあの石のスープの出番であると理解し、博士の郷里を訪ねることにした。
棟しか存在しない世界を出たことはこれまで一度もない。もう助手ではなくなった若い博士は、緊張と興奮で心臓をばくばくと脈打たせながら、装備を万全に調え、博士の郷里であるところの西の土地へと向かった。
ひたすら西へ歩いて、三日と半日、保存用に確保しておいた石のスープの乾燥粉末を溶いて飲みながら、どうにか前に進んだ。いつだったか研究室で、若い頃はそこらじゅうに牛や鶏や豚がいて美味い肉が食べられたと言っていた博士のことを思い出したが、獣一匹たりとて見かけない。山を越え、谷を越え、棟での暮らしを拒んだ〝自然派〟と呼ばれる人々の民家がぽつぽつと増えはじめた頃、耳が痛くなるような冷たい空風が吹き、くしゃくしゃの新聞紙が飛んでいった。
博士の郷里には、棟のような背の高い建物はなく、赤茶けた荒野に数軒の民家が立っているだけだった。万が一のためにと研究室に残された博士の住所が書かれたメモを頼りに、もう助手ではなくなった若い博士は歩き出した。
乾いた土地に、井戸がひとつ、他にはごくごく小さな畑を見つけた。村の人は警戒心が強く、道を尋ねてもなかなか教えてくれなかったが、三軒目の家では、「あの白衣を着ている変わった人でしょう? 次の井戸のそばの家に住んでいるよ」と教えてくれた。
そのとおり、次の井戸の向かいに家があった。しかし様子が妙だった。若い博士は帽子を脱ぎ、胸にあてがいながら恐る恐るその家に向かう。
その家からはあの異臭がしていた。緑色と灰色と朱色の入り混じったおかしな色合いの蒸気が、窓や家壁の隙間から溢れ出ていた。何よりその家は、村の他の家々よりも何倍も大きく、まるで集会所といった風情だった。そして中からはこんな声が聞こえてきた。
「ありがたや、石のスープ」「これで今日の糧を得られます。気分上々、体力もりもり」「博士の恩恵です」「ありがたや、石のスープ」
もう助手ではなくなった若い博士は、帽子をぎゅっと握りしめながらえへんと咳払いし、家の玄関のドアをノックした。すると念仏のように唱えられていた声がすっと消え、ややあって、閂が開く音がし、ドアが開いた。
「やあ! 君か!」と博士は言った。
もう助手ではなくなった若い博士は、ひとまずほっと安堵した――博士は相変わらずだった。白衣姿に、穴の空いたぼろぼろのセーター、そして青色のオーブンミトン。ミトンを嵌めた右手にはお玉を持っている。
「お食事の最中でしたか、失礼しました」
「いやいや、遠慮することはない。どうぞ入りたまえ」
いざなわれるまま、若い博士は博士の後に続いて家の中へ入った。室内は、あの石のスープの刺激的な臭いが充満している。部屋の中央には五十人ほどは腰掛けられそうな巨大なテーブルとベンチがあり、そこに人々がいて、スープ皿を前に、若い博士のことを穴が空くほどじいっと見つめた。
「どうぞ召し上がってください」と若い博士は言った。「僕のことはお気になさらず」
博士は若い博士を奥のベンチ――すなわち自分の隣の席に案内し、座らせると、若い博士の分のスープをよそった。若い博士は以前と違い、スープの香りを芳しいと思った。実際、スープは何も変わっていなかったのだが、それほどまで腹を空かせていたのだ。
若い博士はスープを一気に飲み干すと、体中がぽかぽか温まり、力が漲ってくるのを感じた。やはりこの石のスープはすごい。これがあれば、きっと棟の人間たちも救われるに違いない。
「博士。第一棟から第五棟までの人々は飢えています。食糧難が訪れました。今こそあなたの助力が――この石のスープが必要です」
しかし博士はきらりと油断なく光る目で若い博士を見た。
「私はな、同じ轍は踏みたくないのだよ、君。またどうせまずいだの同じ味がするだの言われるんだ。追い出されるんだ」そう言って、食卓に着いている他の村人たちを見た。
「彼らは違う。もともとこのあたりは上層部に管理されていないから、食料がろくにないのだ。だからこそ彼らは、滋養があると理解して、私のスープを味わい、飲み干してくれる。そういう人たちに飲ませられればそれでいいのだ。この村の人たちだけじゃない。腹を空かせた、よその村からも人はやってくる。私はたくさんの人にスープをふるまった。もう今の生活だけで充分だ」
「そんな……お願いです。食料貯蔵庫にどんなに足しても、なぜかどこかへ消えてしまうのです。今、この石のスープがあれば、博士はきっとぴかぴかの勲章を与えられるでしょう。どうしても博士が嫌なら、せめて石をひとつ貸してくれませんか。僕が持ち帰って、スープを作りますので」
若い博士は、これだけすごい研究ならば、当然石をいくつか作っているものと思っていた。しかし博士はきょとんとした顔をしている。
「私の石はひとつしかない。最初から今まで、ずうっとこれひとつだけだ」
そう言って博士は立ち上がると、コンロの上の大きな鍋の蓋を開けた。若い博士が覗き込むと、そこには、例のウサギくらいの大きさの黒い石が、相変わらず底に沈み、薄茶色の液体を吐き出していた。二カ所に穴が空いてはいるが、その穴の大きさも場所も、ひとつも変わっていない。
「最初から今までずっとこれひとつだけ、ですか」若い博士は何か引っかかるものを感じながら言った。「まったく大きさも形も変わっていない」
「それがどうした」
「おかしいですよ、博士……石は栄養素を吐き出します。ということは、どこかが削れていないとおかしいです……どんなものでも使えば減るわけですから。骨のスープも、骨髄が流れ出して減っていく」
若い博士はトングを取り、石を持ち上げた。重い。記憶にある重量のまま、石は存在し続けていた。
「……これはどういうことですか。少なくとも第三棟の実験だけでも、一千人分のスープを三食、何カ月間も作りました。今だってこの村の人たちだけでなく、よその村人にもふるまっているんでしょう? それだけ大量に作っていれば、少しくらいこの石に変化があってもおかしくありません」
すると博士は困った顔をした。
「ふうむ。そうは言ってもな、私もどうしてこれが出来上がったのか、実のところわからんのだ。だから第二、第三の石を発明することはできない」
「何ですって?」
「あの妙なカプセルをいじくっていたら、突然、石がこうなったのだ。出汁が出るようになった」と博士は言った。
なんと博士自身、この成果物がどのように出来上がったのか理解していなかった。もう助手ではなくなった若い博士は台所に石を置き、ありとあらゆる方向から観察しつつ、ぶつぶつと何やら呟きはじめた。難しい数式、仮定法、帰納法、その他学問にまつわる云々かんぬんを……そして、ひとつの結論に達した。
「……わかりました。これは……この石の謎は……穴です。石に空いているこの二カ所の穴。これはタイムホールだ!」
「何だって?」驚いたのは博士の方だった。「君、タイムホールだなんてそんな、何を言い出すんだ」
「それ以外に説明がつきますか? あなたは実験を繰り返すうちに、この石の時空を歪めて、タイムホールを生み出してしまったんですよ! それも棟の食料貯蔵庫との間に! そのせいで食料貯蔵庫の在庫が減っているんだ!」
だから食材そのままの味がしたのである。土から掘ったばかりのような泥臭い野菜、何の加工もしていない肉の味がしたのは、貯蔵庫に置かれただけの食材からエキスが抽出され、直接転送されてきていたからなのだ。化学的な妙な臭いがつきまとうのは、タイムホールが熱せられて生まれた臭いなのかもしれない。
「し、しかし君。私が石のスープを作りはじめた時、異変は何もなかった。食料貯蔵庫の中は減っていなかったぞ。それは間違いない。だから上層部も許可を出したんだ」
博士が恐る恐る訊ねると、かつて助手だった若い博士は胸を張ってこう宣言した。
「未来です。少し先の未来の食料貯蔵庫と、現在を繫いでいます」
博士はぽかんと口を開け、その口がなかなか塞がらない。なんとも間抜けな元上司だと思いながら、元助手は博士に指を突きつけた。
「つまりあなたは、未来の食料貯蔵庫の食材を、この石を通じて転送させ、それを石から出た出汁だと言い張ったわけです」
タイムラグ――だからすぐにはわからなかったのだ。石のスープを使っても、未来の食材を使っているのであれば、目の前の貯蔵庫にある在庫は減らない。
「よく考えてみれば、何の変哲もない石に味など付けられるはずがない。それも永久に出る出汁だなんて……この石を使えば使うほど、未来の貯蔵庫の食材がなくなるんです! だから第三棟工場で大量生産した分のツケが今、回ってきているんだ。この石は結局、あの民話と同じなんです。野菜や肉を未来から借りているだけで……」
若い博士の勢いと説得力に、博士はよろよろとよろめき、うっかりスープの中に手を突っ込むところだった。
「な、なんということだ……!」
「すでに棟では食糧難がはじまっています。僕はあちこち見てきました。もうこれ以上この石を使ってはなりません!」
そう言って若い博士は、トングで石を摑んだまま外へ飛び出し、地面にごろりと転がすと、近くの切り株に置きっぱなしだった金鎚で何度も何度も石を打った。しかし、石はびくともしない。
村の若い者、屈強な者、あらゆる人間を連れてきて石を割らせようと試みた。博士は博士で、例の珍妙なカプセルをいじくりまわし、この石に開いたタイムホールを塞ごうとした。村だけでなく、棟まで持って帰って、あらゆる手段を尽くした。国の上層部も最新式兵器でこの石の破壊を試みた。
けれどもどのような手を打っても、石はひとかけらも崩れず、割れず、タイムホールの穴が塞がることもなかった。じわじわとしみ出してくる出汁が止まることもなかった。博士と若い博士はぜいぜいはあはあと息を荒げながら、そのままひっくり返った。
「土に埋めたら養分になるだろうか……」
畑に置いてみると、養分は確かに土に染みこんだが、栄養過多で腐ってしまった。
「この石から溢れ出している養分は、やはりスープにするしかありませんよ。みんなに飲ませる方がまだ効率的です」
若い博士は濡れた石を持ち上げた。無限に湧いてくるスープの源。これさえ飲めば、飢えつつある棟の住民たちを満足させることができるだろう。しかし、この石がそもそもの元凶なわけで………若い博士は迷った。迷いに迷った。永遠に出汁が出続けるのであれば、誰かが食べなければもったいない。石は破壊できない。
その時、第一棟から第五棟までの人々が立ち上がった。今度のプラカードに書かれたものは、以前とは正反対に、「石のスープを私たちの口へ!」とあった。「未来を無駄にするな!」「未来の資源を再利用しよう!」人々は飢えの前に、もはや味などと言っていられる状態ではなかった。
ことは一刻を争う。博士と若い博士は決断した。第三棟の工場を再び稼働させ、スープの量産体制を整え、食料を少し先の未来から前借りしつつ現状の飢えを解決するという、自転車操業に打って出た。
石のスープは飢えていた人々の胃袋を満たし、温め、体力を養った。住民たちはみな満足し、博士に感謝した。博士は幸福だった。
ともあれ、飢えは克服したものの、貯蔵庫の問題は解決していない。タイムホールは開いたまま、未来の食料は石に吸われ続け、人々は前借りした食料を日々石のスープとして食べ続ける他、選択肢はなかった。
第三棟のあの厨房長は腕によりをかけて、スープを少しでも美味しく、腹持ちもよくしようと、煮こごり以外のメニューを考えた。水饅頭、スープの中の穀類成分だけを抽出した水浸しのパン、肉のように表面を炙ったミディアム・レアの煮こごり――こうした料理の工夫は、第一棟から第五棟までのすべての厨房長が行った。
人々にとって石のスープの味は、不動の味となった。何十日、何百日、何千日と同じものを食べる間に、彼らの舌の方が鈍感になり、今までにあったあらゆる料理や食材の味を忘れていったのである。
そうして何十年もの月日が経ち、不思議な石のスープの料理が何世代にもわたって食べられ、博士はとうの昔に亡くなった頃のこと。若かったかつての助手、今はすっかり年老いた博士が、死ぬ間際の最後の願いとして、特別なことを願い出た。あってはならない願い事ではあったが、石のスープの工場長として働き続けた功労のおかげで、それは聞き届けられ、非常にこっそりと、秘密裏に行われた。
それは肉片だった。すでに滅んだ牛という生き物の、サンプルとして残しておいた肉片だった。かつて若かった、今は年老いた博士は、人払いをすると、ベッドの上にバーナーを置き、その牛の肉片の両面を炙った。奇妙な臭いがした。
「いったいこれは何の臭いだ」
記憶の中にある肉の香りは、胃袋を躍らせ、口の中を唾でいっぱいにしたものだった。しかし今は、まるで宇宙から来たゲテモノでも焼いているかのようだ。
老人は炙った肉片を口にした。目に浮かぶのは、上司であった博士の白衣と、穴だらけのセーター、オーブンミトンの滑稽な姿。そもそもの元となった石のスープの民話を「気が利いた話だと思わんか」と自慢げに語っていた、ありし日だった。
「さて……とんだ気が利いた話ですよ、博士」と、かつて若かった、今は年老いた博士は言った。
【おわり】
◆初出:WebマガジンCobalt 2021年11月26日更新