【佳作】このちっぽけな青の向こうに(著:辻すずり)


‌〝世間は狭い〟
‌ 東真子(あずままこ)はこの言葉の意味を、ずっと勘違いしていた。
‌「なあ知っとる? 隣のクラスのアイちゃんさあ、(やま)(もと)さんのお兄ちゃんと付き合ったんじゃと」
‌「うそお。山本さんのお兄ちゃんって、中学んときはバレー部のリカ先輩と付き合っとったよなあ」
‌「あーそうじゃった。んで、リカ先輩は今、ほら、あたしの家の近所の、高専(こうせん)に行ったヒロシくんと付き合っとんじゃろ」
‌「そうそう。そんで、そのヒロシくんの元カノが
‌「隣のクラスのアイちゃん!」
‌ ()()(あさ)()が同時に「やばいよなあ!」と笑い合う。
‌ 一緒に聞いていた真子は、美希や朝子と同じように笑おうとしたけれど、顔が引きつって()()く笑えない。
‌ いやいや。笑い事なんか? それ。
‌ 真子は、目の前の二人と自分の感覚の違いに、うっすらと恐怖を覚える。
‌「いや、でもさ」
‌ 真子は(いち)()の希望を持って、思い切って二人に切り出してみた。
‌「関係狭すぎってゆーか、ちょっと怖いなーとか思わん? 自分がいつか今の話の登場人物になると思ったらさ
‌ 美希と朝子は、一瞬きょとんとした顔をした後、()(ちょう)気味に笑って顔を見合わせた。
‌「まあそうじゃけどさあ」
‌「しかたないっていうか、そーゆーもんじゃろ」
‌「そーそー。真子はほら、ちょっと(けっ)(ぺき)すぎるんよ。そんなんじゃ、この島じゃやっていけれんよ?」
‌ 二人に(さと)され、真子は「そっかそうよな」と力なく笑った。

‌「いや潔癖じゃねえわ!!」
‌ 真子は自分の部屋で一人、大声で叫んでいた。
‌ 間もなく、部屋の壁の向こうから、ドン!と壁を(なぐ)る鈍い音と、兄の(ひかる)の怒鳴り声がする。
‌「うっせーわ真子!」
‌「そっちのがうっせーんじゃ!」
‌ 真子も負けじと返す。
‌「寝とるんじゃけえ静かにせえ!」
‌「それはごめんじゃけど!」
‌ 真子は怒鳴りながらも素直に謝った。光は高校を卒業してすぐに救急救命士になり、今日は当直の仕事明けの休みなのだ。徹夜の仕事で疲れて寝ているのに騒がしくしたら申し訳ない。
‌ 真子は枕に顔を突っ伏して、行き場のない感情を消音でぶつけた。
‌ わたしがおかしいん? だって笑えんもん。気持ちわるいんじゃもん。近場で取っ替え引っ替え、パズル合わしとんか? なんなんよ。みんなが普通なん? わたしだけが変なんか?
‌〝世間は狭い〟
‌ 真子はこの言葉の意味をずっと勘違いしていた。正しくは、世間は広いようではあるが実は思いがけないところに人間関係のつながりがある、という場面で使う言い回しだが、真子はずっと違う意味だと思っていた。自分のような環境で育った人間が、自身の境遇を(なげ)いて使う言葉なのだと思っていた。
‌ 真子が生まれ育ったのは、()()(ない)(かい)にある小さな島だ。
‌ ただ、島といっても、本州からフェリーで五分しか離れていない。なんなら瀬戸大橋の先端と(つな)がっているので車でちょっと走れば本州だ。
‌ 本州との距離の近さが安心感を生むのか、便利さを求めて島を出ようとする人間はあまりおらず、若者もしっかり島に残っている。島民の地元愛はなかなかに強固で、それゆえに島民同士の繋がりも強い。
‌ 美希と朝子は、真子の幼なじみだ。島で育った子どもはほぼ全員、同じ小学校、中学校へと進学し、島に一つだけある高校に通う。
‌ 真子の世界は生まれたときからずっとこの島の中で完結していた。成長していくにつれ、真子はうっすらと自分の環境に違和感を覚え始めた。けれど、真子と同じように感じている人間は、周りに誰一人いなかった。
‌ 真子はむっくりと起き上がると、手を伸ばして(つう)(がく)(かばん)を引っ張り寄せた。中をごそごそと探し、一枚のプリントを取り出した。
‌ プリントには【新学期オリエンテーション】の表題があった。下に続く文章には、【新しいクラスで】という文字がある。
‌ こんな最悪な気分の中でも、真子にはひとつだけ楽しみにしていることがあった。
‌ それは、クラス替えだった。真子は高校二年生の新しいクラスで新学期が始まることが楽しみだった。それは新しいクラスメイトの名前が並ぶ掲示板の中に〝ある人〟の名前を見つけたからだった。
‌〝(きり)(もと)(しゅん)
‌ 真子はこの桐本瞬という男子と同じクラスになれたと知ったとき、一人心の中でガッツポーズを決めた。
‌ ちなみに漫画やアニメでよくあるような、学校で人気のイケメンと同じクラスにというようなやつではない。
‌ 桐本瞬は極めて目立たない生徒だ。
‌「きりもとぉ? そんなやつおったっけ?」
‌「あーあたし知っとるよ。親の仕事で転勤族とかで、高校からここらに越してきたんじゃろ? 何年かしたらまたどっかに引っ越すとか聞いたことあるわ」
‌「思い出した思い出した。入学してすぐのときちょっと話題になっとったな。東京から越してきた人が入ってきたって」
‌「でもさあ、あの人が話しとるとこほとんど見たことないよなあ。どーせすぐ引っ越すけえ、はなからうちらと絡む気ないんじゃろ」
‌ 桐本瞬の名前を出したときの美希と朝子の反応は以上のとおり。
‌ 真子はもう話題を切り上げてもよかったけれど、美希と朝子はかまわずしゃべり続けた。
‌「一年のときはクラス違ったし、集会んときとか何回か見かけただけじゃけど、桐本ってあれよな」
‌「うん、わかるわ」
‌ 美希と朝子は顔を見合わせながら口々に言った。
‌「こわい」「暗い」「キツそう」「標準語なんかこわい」「てか東京がそもそもこわい」「うちらのこと田舎(いなか)もんとか思ってそー」「プライド高そう」「頭悪い女無理とか言いそう」「めっちゃわかるそれ」
‌ ひとしきり桐本瞬の悪口を言ってから、朝子がくるりと真子のほうを向いた。
‌「てか、なんでいきなり桐本?」
‌ 突然会話のボールがこっちに来て、真子は慌てて受け取る。
‌「あ、いや、ほら新しいクラスの名簿見てさ、桐本って誰じゃったかなーって」
‌ 真子が適当にごまかして答えると、美希は「あーね」と納得した顔をした。
‌「でも桐本ってめちゃくちゃ頭良いよな。テストの順位、いっつも一番じゃろ」
‌「え! そーなん。知らんかったあ」
‌ 美希は驚きの声を上げたけれど、それは真子も知っていた。
‌ 朝子は思い出したように付け加えた。
‌「たしか、あの人って父親が裁判官とかじゃなかったっけ」
‌「え、裁判官?」
‌ 真子は驚いて繰り返した。真子の横で、美希も「うわやばあ!」と声を張り上げる。
‌「そんなんもう遺伝子から賢いやつじゃ。こんな島におったら頭悪くなるよ桐本~」
‌ 美希は大げさに天を(あお)ぎながら叫んだ。
‌ 真子にとってこれは新情報だった。桐本瞬の父親が裁判官ということは、まったく知らなかった。
‌「父親のこととか、よお知っとるね。どっから聞いたん?」
‌ 真子が朝子に尋ねると、朝子は思い出すように斜め上のほうを見た。
‌「えー、誰が言いよったかな。お母さんかも」
‌ 出た。島の(じょう)(ほう)(もう)。これが怖いんよなあ。
‌ 真子は顔に出さないように、胸の中でげんなりした。
‌「要は桐本はうちらとは違う世界の人間ってこと。それよかさあ、次のクラス、うちら三人一緒になってほんまに良かったよなあ!」
‌ 朝子が言うと、美希がすかさず同調する。
‌「ほんまそれ! 一年んときは真子だけ違うクラスじゃったけえ、ほんまに寂しかったよお」
‌「二年はイベント多いし、三人で楽しもー!」
‌ 美希と朝子が楽しそうに笑い合っているのを見て、真子もちゃんと同じように笑った。けれど、頭の半分は桐本瞬のことを考えていた。
‌ 桐本くんの父親が裁判官? ほんまの話なんかな? ほんまだったらすごいな。
‌ テレビの中だけの存在だと思っていたものが、突然手が届くところまで近づいたような感覚に、真子は密かに胸が高鳴っていた。

‌ 真子が桐本瞬の存在を知ったのは、高校に入学する直前だった。
‌「東京から越して来る奴が入ってくる」
‌ そんな(うわさ)が、突然同級生の間で広まった。
‌ 島には子どもの移住者などほとんど来ないので、小・中・高と通じて転校生のような存在はめったにいない。そんな中、高校入学のタイミングで突然東京から島に引っ越してきたのが桐本瞬だった。
‌ 噂を耳にしたときからずっと、真子は瞬と話してみたかった。けれど、一年生のときはクラスが離れてしまい、瞬とは学校での接点が(まった)くなかった。かといってわざわざ違うクラスに出向いて瞬に話しかけるほどの勇気は真子にはなかった。
‌ 真子がたまに(ろう)()ですれ違う瞬は、いつも一人で歩いていた。姿勢が良く、いつも真っ直ぐに前を見て歩いていた。真子には瞬の周りだけ空気が違うような気がした。島の人間に変に()びへつらったりしない淡々とした(ふん)()()を感じた。
‌ そんな瞬とついに同じクラスになったのだ。真子は今度こそ瞬と会話をしようと意気込んでいた。

‌ しかし現実はそんなに甘くはなかった。
‌ 真子は高校二年生になり、新しいクラスでの学校生活がスタートし、教室の中には瞬の姿があった。しかし、実際に真子が桐本瞬に話しかけられたのは、新学期が始まってから一ヶ月後だった。
‌ その日、真子は瞬とペアで日直当番になった。
‌ 真子は、このタイミングを逃したらたぶん自分は卒業まで瞬に話しかけられないだろうと思った。実際、新クラスになってから一ヶ月間、真子は未だに瞬と挨拶(あいさつ)すら交わせていなかった。
‌ 放課後、当番の仕事をするために真子と瞬は教室に二人きりになった。
‌ 黙って日誌を書く瞬に向かって、真子は意を決して言った。
‌「き、桐本くんってさ、転勤族ってほんま?」
‌ なんて話しかけようか迷いに迷った末に、真子はそんなふうに声をかけた。内心は相当緊張していた。同年代の男子はほとんど小さい頃からの(かお)()()みなので、話したことのない男子に自分から声をかけたのは初めてだった。
‌ 瞬のほうはあまり動じていないようだった。真っ直ぐに真子を見返して答えた。
‌「そうだけど」
‌ あ、標準語じゃ。こわ。
‌ 真子は一瞬ひるみそうになる。
‌「い、今までいろんなとこに引っ越ししてきたんじゃろ? どこが一番住みやすかった?」
‌「べつに。住むぶんにはどこもあんまり変わんないよ」
‌「そ、そっかあ」
‌ 突き返されるような口調に、真子は(おじ)()()いた。
‌ やっぱりあんま他人と会話とかしたくない人なんかな
‌ 真子が話しかけたことを後悔(こうかい)しかけていると、瞬が淡々とした口調で言った。
‌「でも、()()(がら)みたいなやつはあると思う。住んでる人の感じも、地域によって違ったりするよ」
‌「え? ああ、そーなんじゃ
‌ 真子は少し驚きながら返事をした。標準語だと硬い感じがして最初は少し怖かったけれど、落ち着いて聞いたら別に怒っているわけではなさそうだった。
‌「なら、ここの島の人たちってどんな感じなん?」
‌「結束力が強くて、内気」
‌ 瞬は即答した。真子は一瞬きょとんとした後、思わず噴き出してしまった。
‌ ほんまにそのとおり。
‌「桐本くんて、しゃべるんじゃね」
‌「しゃべるよ、そりゃ」
‌ 瞬は当然のことように言った。
‌ ああそーか。話しかけたら普通にしゃべるんじゃ。
‌ そのとき真子は朝子の言葉を思い出した。
‌ どーせすぐ引っ越すから、はなからうちらと絡む気ないんじゃろ。
‌ そっか。今までずっとほとんどしゃべらんかったのは、誰にも話しかけられんかったからか。
‌「わたし、ずっと桐本くんとしゃべってみたかったんじゃ」
‌ 真子は素直に言った。
‌「あのさ桐本くんのお父さんって裁判官って聞いたんじゃけど、ほんま?」
‌「そうだよ」
‌ 瞬はあっさりと(うなず)いた。
‌「すごほんまなんじゃ。裁判官ってほんまにおるんじゃ。テレビの中だけの人かと思っとった」
‌「普通に実在するし、なんなら父さんはここの島出身だよ」
‌「え!?」
‌ 真子は驚いてうわずった声を上げた。
‌「俺が今住んでる家は、父さんの実家だよ。今父さんは広島に(たん)(しん)()(にん)してて、ばあちゃんちに住んでるのは俺と母さんだけだけど」
‌ 真子がぽかんとしていると、瞬は事情を簡単に説明してくれた。
‌ 瞬の話によると、父方の祖母が去年膝の手術をしたので、リハビリが終わるまでは瞬と瞬の母親が同居することになったという。裁判官である父親は、平日は単身赴任しており、週末だけ島に帰ってきているらしい。
‌ 説明を聞き終わった真子は、しみじみと言った。
‌「ほんまに桐本くんのお父さんはこの島の人だったんじゃ。わたし、この島から裁判官になった人がおるなんて、ぜんぜん知らんかった。すごいな、桐本くんのお父さん。一人でこの島から出て、裁判官になって、今日本中で仕事しとるなんて」
‌「島の人は父さんのことはあんまり知らないみたいだね。あの人あんまり島での人脈は広くなかったみたいだから。それに父さんは子どもの頃からずっと島を出たかったらしいよ」
‌「え?」
‌ 真子はどきりとした。
‌「でも勇気あったなとも思う。俺もここで暮らしてみて、ここの人たちの郷土愛というか、土着の強さにけっこう驚いたから。ばあちゃんちの中の父さんの部屋を見たとき、ああ相当島から出たかったんだろうなって思ったよ」
‌「そんなん、部屋見ただけでわかるもんなん?」
‌「うん。わかったね。なんていうか怨念(おんねん)を感じるというか」
‌「お、怨念?」
‌ 真子はおどおどと繰り返した。
‌「怨念が残るほど島を出たかったゆーこと?」
‌ 瞬は真子の反応を見て、少し考えるように黙った後、言った。
‌「気になるなら、見にくる?」

‌ 真子は正直、展開の早さについていけなかった。
‌ 瞬と会話をすることが目標だったはずなのに、気づけば瞬に連れられて、瞬の家に行くことになっていた。
‌「母親もばあちゃんもいるけど」
‌ 瞬の家の前まで来たとき、瞬がそう言った。
‌ 真子は怖気付きそうだった。男子の家に入るなんて、小学生の頃ぶりだった。加えて、一人でお邪魔するのは人生初だった。
‌ 緊張する。いたたまれたい。でも、そんな気持ちよりも、瞬の父親の部屋の中を見てみたいという興味が(じゃっ)(かん)(まさ)っていた。
‌「き、急にお邪魔して平気なん? お母さんにびっくりされん?」
‌「うーんびっくりはするかもだけど、たぶん大丈夫だよ」
‌「ほんまに?」
‌ 真子は不安でいっぱいだった。けれど、瞬はかまわずに家のドアを開けてしまった。
‌「クラスメイトの東さん。父さんの仕事に興味があるらしくて、父さんの部屋の中を見たいっていうから連れてきた」
‌ 瞬は玄関先まで出てきた母親に真子のことをそう伝えた。
‌ 瞬の母親は最初は驚いていたものの、真子がたどたどしくも丁寧(ていねい)に挨拶をすると、安心したように笑った。
‌「好きなだけ、ゆっくり見ていってね。瞬、後で飲み物持っていくからね」
‌「わかった。ありがとう」
‌ 瞬は平然としていたが、真子は緊張のあまり手足が冷たくなっていた。
‌ それから真子は瞬に案内されて二階へ上がった。途中の階段で、真子は小声で言った。
‌「ちょわたしべつに裁判官に興味があるわけじゃないんじゃけど」
‌「ああ言ったほうがわかりやすいよ」
‌ 瞬に悪びれた様子はまったくなかった。真子が文句を言おうとしたとき、瞬は廊下の奥の部屋の前で立ち止まった。
‌「ほら、ここが父さんが高校まで使ってた部屋だよ」
‌ 瞬が開けたドアの奥の光景が真子の目に入った瞬間、真子は文句を言おうとしていたことも忘れてしまった。
‌「うわあ」
‌ 真子は思わず声を()らした。
‌「すごかっこええ
‌「かっこいい?」
‌「うん
‌ それはまるで異世界のようだった。壁際の大きな本棚(ほんだな)には(すき)()なく本が立てられてあり、そこから(あふ)れた本やノートが大量に床に積み上げられていた。
‌ 本棚には、信じられないくらい分厚い本がいくつも並んでいる。真子は無意識に言葉を漏らした。
‌「読んでみたい
‌「読む?」
‌「え、ええの?」
‌ 瞬は頷いた。真子は本棚に近づき、目についた分厚い一冊を手に取った。手にずっしりと重く、両手で開くと、むわりと紙のにおいがした。
‌「わかる?」
‌「いっこもわからん」
‌ 真子が即答すると、瞬は笑った。
‌「俺も難しくて理解できない本あるよ」
‌「そうなん? 桐本くんでも?」
‌「うん」
‌ そっかあ。桐本くんが読めん本を、わたしが読めるわけないわな。
‌ 真子の中には、諦めのような感情の奥に、なぜかうずうずと胸がむず(がゆ)いような感覚があった。
‌「何の本かもわからんけど、これ、ちょっと読んでみたいなあ。いや、読めるわけないんじゃけどさ」
‌「それ、六法だよ」
‌「ロッポー?」
‌「法律が書いてある本。憲法、民法、商法、民事訴訟法、刑法、刑事訴訟法、で、六法」
‌ すらすらと難しい言葉を並べる瞬を、真子はあっけにとられて眺めた。
‌「桐本のお父さんは、これ全部覚えてるん?」
‌「それ、俺も同じこと聞いたことあるな。全部は覚えてないらしいよ。よく使うやつは覚えちゃうらしいけど。法律は覚えるものじゃなくて、使えるようにするものだから」
‌ 瞬は淡々と言った。真子はなんだか違う世界の話を聞いているような気分だった。
‌「桐本くんも、将来この六法を使うような仕事するん?」
‌「うん。したいと思ってる」
‌ 瞬は迷いなく答えた。
‌「そっかあかっこええなあ」
‌ 真子は素直な気持ちをつぶやいた。
‌「俺、たぶん来年から関東に引っ越すし、大学もそっちに行くよ」
‌「へえなんかすごいなあ。話の規模がでかいわ」
‌「なんで? 単に進学のタイミングで上京するとか普通じゃない?」
‌「ふつーじゃないんよそれが」
‌ 真子は自嘲気味に笑った。それから、話を()らすように部屋の中を見渡した。
‌「この部屋さ。桐本くんは怨念って言っとったけど、これは怨念っていうか、執念じゃな」
‌「執念?」
‌「そう。島から出たい執念」
‌「ほんまにすごいよ。桐本くんのお父さんは。この部屋でずっと一人で勉強しとったんじゃろ。島を出たい気持ちもパワーにしてさ。かっこええわ。憧れる」
‌「憧れる?」
‌「うん。あーでも、はなから頭の作りがわたしとは違うけえ、そんなん言うんもおこがましいけどな。まあ、島を出たい気持ちだけは、めっちゃわかるよ」
‌「東さんも、この島出たいの?」
‌「あーうん、まあ、できるもんならなあ」
‌「出たらいいじゃん。高校卒業のタイミングとかで」
‌「ええ? むりむり」
‌ 真子は手をひらひらと振るジェスチャーをした。
‌「だって親も親戚(しんせき)も、口を開きゃあ〝手に職を〟よ? 要は食いっぱぐれんように、なんでもええから資格を取れゆーこと。じゃけえ高校出たら、専門か、なんか資格取れるような短大? とかしか行かしてもらえんって。しかも一人暮らしは金がかかるけえ、原則自宅通いよ」
‌ 真子はぺらぺらとしゃべりながら、なぜだかどんどん胸がしめつけられていた。これは誰のための、なんのための弁解なんだろう。
‌「(しょう)(がく)(きん)があるじゃん」
‌「いやいや。そんな、奨学金借りてまでとか
‌ 瞬が真っ直ぐに真子を見ていた。その視線があまりに痛くて、真子はぎこちなく視線をそらした。
‌ それ以上は、瞬はこの話題を深掘りしてくることはなかったし、真子も話さなかった。
‌ 帰りがけ、真子は迷った末に瞬に言った。
‌「あ、あのまたここに来たいんじゃけどその、もしだめじゃなかったら」
‌「いいよ」
‌ 瞬はあっさりと(しょう)(だく)した。真子が帰る前に、リビングにいた瞬の母親にも話すと、母親も(ほが)らかに受け入れてくれた。
‌「もちろん。いつでもいらっしゃい。わたしはだいたい家にいるから。来る前に連絡くれたらいつでも大丈夫よ」
‌ 
‌ それから、真子は頻繁(ひんぱん)に瞬の家に通うようになった。いつも真子が思い立ったときに、瞬の家の固定電話に連絡した。電話をかけると、だいたい瞬の母親が出た。
‌「今から行ってもいいですか?」
‌ 真子がそう言うと、いつも瞬の母親は快諾してくれた。
‌ 真子が瞬の家に行くと、いつも瞬が先に父親の部屋にいて本を読んでいた。真子を待っていたのか、たまたまなのかは、真子にはよくわからなかった。真子はいつも瞬と軽く挨拶を交わして、部屋に入り、目についた本を読んだ。
‌ 瞬の父親の部屋にある本は、難解な法律学の本から、法律の初学者向けの本までさまざまあった。
‌ 真子が読んでいてわからない言葉が出てきたときは、いつもすぐに瞬に尋ねた。瞬が答えてくれるときもあれば、瞬にもわからない言葉もあった。そういうときは、二人でその言葉の意味を探すために別のいろんな本を開いてみたりした。その回り道のような作業が、真子は楽しかった。
‌「いつも一人で読んでたけど、こうやって誰かと一緒に読むのも楽しいな」
‌ 瞬にそう言われて、真子は素直に嬉しかった。
‌「わたしも楽しい。わからんとこを理解できるまで粘るとき、なんか宝探しみたいでおもしろいな」
‌「宝探しか。そう言われればそうかも」
‌ 瞬は柔らかく笑った。その笑顔が思ったより優しくて、真子はどきっとした。
‌「東さんって刑法好きそうだよね。こっちに読みやすいやつあった気がする」
‌ パラパラと本をめくる瞬の横顔を眺めながら、この顔が一番好きだな、と真子は思った。
‌ 真剣に、何かを考えているときの瞬の顔。真子のほうを向いているときよりもずっと好きかもしれない。
‌「進路、法学部は考えてないの?」
‌ 突然瞬に言われて、真子は一瞬何のことかわからなかった。
‌「え? 法学部? ああ、そうじゃねそりゃ行けるもんならでも無理よどうせ」
‌「なんで?」
‌「なんでってこの島出て、一人でさいろいろ()(ぼう)っていうか
‌「無謀? わかんないな。普通にみんなやってることなのに」
‌ 瞬に淡々と言われて、真子は少し苛立った。
‌「桐本くんはわかっとらんのんよ。この島の人間じゃないけえ。東京行ってもさあ、もし帰ってくることになったりしてみぃ? 出戻り女って目で見られるんよ」
‌「戻ってこなきゃいいんじゃないの?」
‌「いやいや。そんなん、向こうでくたばったらどーするん。知り合いも誰もおらんのにさ」
‌「じゃあ、この島で一生過ごすの?」
‌ 真子は言葉に詰まった。けれどすぐに語気を強めて言い返した。
‌「そんな、まるでそれが悪いことみたいに言うなや。そんな人間この島によーけおるわ」
‌「違う。他の人の話をしてるんじゃない。〝東さんは〟この島で一生過ごすのかって聞いた」
‌「は?」
‌「他の人じゃない。〝東さんは〟どう思ってるの?」
‌「わたし?」
‌「そう。東さんの気持ちの話だよ」
‌ 〝東さんの気持ち〟
‌ 真子の頭の中に瞬の言葉が響く。
‌ 気づいたら、ほとんど無意識に言葉がこぼれていた。
‌「嫌じゃ」
‌ 一言こぼれたら、後はもう、せきをきったように溢れ出た。
‌「ほんまは嫌じゃ。地元は嫌いじゃないけど、わたしはみんなみたいになれん。子どもの頃から顔見知りの人と、この先もずっと関わりながら、小さい世界で人生が回っていくんが嫌じゃ。わかっとる。島の人たちだってちゃんと生きとる。周りといい関係保って、困ったときはお互い助け合いながら生きていっとる人たちはすごいって思うとる。それをやりたくないってただこねとるんもわかっとる」
‌ 息を吸った。ひゅう、と笛のような音がした。
‌ 真子は顔を上げた。目の前で、瞬が真っ直ぐに真子を見ていた。
‌「でも、嫌じゃ。(きゅう)(くつ)なんよ。ここじゃあ息がしにくいんよ。わたしが変なん? わたしがおかしいん?」
‌「べつになにもおかしくないけど」
‌ 瞬は静かに、けれどはっきりと言った。
‌ 真子は(ぼう)(ぜん)と立ち尽くした。生まれて初めて本音を吐き出して、それを受け入れられたことが、まだ信じられなかった。

‌ 瞬と別れて家に帰ってからも、夜寝るときも、真子はどこか現実味を持てなかった。瞬に本音をぶちまけた自分が、()()(ごと)のように感じた。
‌ けれどそんなふわふわした感覚は、次の日の朝に(いっ)(そう)された。
‌「これ。ビギナー向けのやつ。父さんに聞いたら初めて読むならこれがいいって」
‌ 朝、真子がいつもと同じように登校し、教室の自分の席についてすぐだった。瞬が真子の席までやってきて、真子に本を差し出しながらそう言った。
‌ 瞬が持っている本には、大きく「刑法」の文字があった。真子は一瞬で冷や汗をにじませた。
‌ 真子のそばには、朝子と美希がいた。二人がどんな表情をしているかは、直接見ずとも真子には手に取るようにわかった。
‌「え? なに急に。びびるんじゃけど」
‌ 朝子が驚いた顔で言った。
‌「えー桐本ってしゃべるんじゃ。しゃべる機能ないんかと思っとったあ」
‌ 美希も笑いながら言った。
‌「なに? 真子になんか用?」
‌ 真子はとっさに黙り込んでしまった。頭の中は(うず)を巻いたように混乱していた。
‌ いやいや。なんで今来るんよ。こんなこと今までせんかったろーが。わざとか?
‌ 真子はちらりと瞬の顔を見た。その瞬間、すぐに確信した。
‌ ぜったいわざとじゃ。
‌「うそ。真子、まさか桐本と仲良かったん?」
‌「え! そーだったん! ぜんぜん知らんかったんじゃけど」
‌ 美希と朝子に詰め寄られて、真子はぎくりとする。
‌「えっといや
‌ まごまごと言い(よど)む真子を見て、瞬は、はあ、とため息をついた。
‌ 瞬は本を差し出した手を引いた。そして黙ったまま真子に背を向けて、自分の席に戻って行った。
‌「いや、なんなんあれ」
‌ 美希が苦笑いしながら言った。
‌「急に真子に絡みたくなったんじゃないん?」
‌「えっ、ストーカーなん?」
‌「なんそれこわぁ」
‌「真子、うちが話してきちゃろーか?」
‌ 朝子が真面目(まじめ)な顔で真子に聞いた。
‌「ええって。ええからもう」
‌ 真子は小さく言った。
‌ そのとき、壁のスピーカーからチャイムの音が響いた。教室のドアが開いて、担任の教師が教室に入ってきた。教師は、生徒たちに早く席に着くように言い、朝子と美希は慌てて自分の席に戻った。
‌ ホームルーム中、真子はずっとうつむいていた。頭の中は瞬のことでいっぱいだった。なぜかものすごく、逃げ出したいほどに恥ずかしかった。
‌ わたし、かっこわるすぎじゃろ。でも、だって、美希や朝子がいたから。そうだ。後から、放課後とか、誰もいないときにもう一回こっちから話しかければ
‌ その瞬間、(のう)()に瞬の言葉がよぎった。
‌ 他の人じゃない。〝東さんは〟どう思ってるの?
‌ 瞬間、冷たい水をかけられたように頭の熱が冷めた気がした。
‌ なにやっとんじゃ、わたしは。
‌ 真子は机の下で拳をぐっと握りしめた。
‌ ホームルームが終わるチャイムが鳴った。その瞬間、真子は勢いよく立ち上がった。いくつかの周りの目が真子を見た。けれど真子は気に留めなかった。
‌ 真子は真っ直ぐに瞬の席まで歩いた。そして瞬の目の前で、はっきりと言った。
‌「桐本くん。やっぱさっきの本貸して。あと、わからんとこ後から聞くけぇ連絡先教えて」
‌ 突然の真子の行動に、周りが少しざわめいた。一番驚いていたのは朝子と美希だった。
‌「は? 真子? あんたなんで桐本と、」
‌「友達になったけぇ話しとるだけ!」
‌ 真子は(さえぎ)るように言い切った。
‌ 朝子と美希はあっけにとられていた。真子は何も気にしなかった。胸がすかっと晴れた感覚だった。

‌ その夜、真子は意を決した。
‌「わたし、東京の大学行きたい」
‌ 自宅のリビングで、真子は両親に向かってそう言った。
‌「はあ?」
‌ テレビを見ていた父親が、聞き間違えたみたいな顔で振り返った。真子はかまわずに続けた。
‌「どうすれば行かしてもらえるん? 条件を教えてや」
‌「条件って
‌ 父親は話が()み込めていない様子だった。
‌「いや、なに言うてんのあんた。東京って」
‌ ダイニングテーブルで雑誌を眺めていた母親も、驚いた顔を真子に向けた。
‌「決めたんよ。東京の大学目指したい。お金のこととか、成績とか、いろいろ条件あるじゃろ。その話したい」
‌ 真子ははっきりと言った。両親は黙って顔を見合わせた。母親は(あき)れた顔で言った。
‌「真子、あんたね冗談やったらたいがいにしときぃ」
‌「冗談なんかじゃないじゃろ」
‌ 唐突(とうとつ)に割って入ってきたのは、光だった。
‌「親なんじゃけえわかるじゃろ。こいつがつまらん冗談言ったりせんことくらい。なあ? 本気なんじゃろ、真子」
‌ 光にそう言われ、真子は深く頷いた。
‌ 光、ありがとな。後でお菓子持ってお礼に行くわ。
‌ 真子は光に目で感謝を伝えた。

‌ 真子の決心は揺るがなかった。そんな真子の本気に、両親も折れざるをえなかった。
‌ 真子は成績を大幅に上げることを条件に、上京することを許された。
‌ それから、真子は人が変わったように勉強に打ち込んだ。周囲が部活や遊びに夢中になる中、真子は一人、自分で決めた目標のために勉強に(はげ)んだ。
‌「わたし、東京行きたいんじゃ。そんで法律を学びたい。桐本くんと話しとったのは、法律の話とか勉強の話とかを聞いたりしとったけえなんじゃ」
‌ 真子は美希と朝子にそう説明した。美希も朝子も、初めは驚いていたが、真子の気持ちを理解してくれた。
‌「そんなん、もっと早く教えてや」
‌「ほうよ。水くさいわ」
‌ 二人とも、どこか寂しそうにしながらも、真子を応援する言葉をかけてくれた。

‌ 真子は変わらず、瞬の家にも通い続けた。瞬と法律の本を読んだり、瞬に勉強を教わることも増えた。
‌ そうやって、あっという間に一年が経った。瞬は高校三年に上がる前の春休みに東京へ引っ越すことになった。
‌ 瞬と別れる日、真子は駅まで見送りに行った。
‌「駅の見送りって、なんか映画みたいだね」
‌「まさか自分がこれをやるとは思わんかったわ」
‌ 真子は笑った。
‌「東京の生活、頑張ってな。桐本くん、二年も島で暮らして、もう立派な田舎もんじゃけえ」
‌「そうだね。頑張るよ」
‌ 瞬は小さく笑った。
‌「次の学校では、自分からクラスメイトにしゃべりぃよ。黙っとったら友だちできんけえな」
‌「うん。わかったよ」
‌ 真子は、もごもごと言い淀んだ後、早口で言った。
‌「あとか、彼女とかつくらんでよ」
‌ 言ってしまってから、頭が真っ白になった。
‌ どうしよう。なんで? って聞かれたらどーしよ。答えなんも用意しとらん。なんて答えたらいいかわからん。というかなんでこんなこと言ったんじゃろう馬鹿わたしのバカ。
‌「つくらないよ。東さんがいるし」
‌「えっ」
‌ 真子がすっとんきょうな声を出したのと同時に、ピ、という甲高(かんだか)い音が鳴り響いた。
‌「ちょ、それどういう」
‌ 真子が言ったが、瞬は笑って答えなかった。
‌「おい! なんとかゆえやコラ」
‌「黄色い線の内側までお下がりくださーい!」
‌ 駅員の叫び声が響く。
‌「ほら東さん、怒られてるよ」
‌「いや、それよりさっきのどーゆう」
‌ プルルルル、という音と共にドアが閉まった。
‌ 閉まったガラス窓の向こうで、瞬が何かを言っていた。
‌「いやなんも聞こえんわ!」
‌ 瞬はガラス越しに笑いながら、スマホを取り出して指をさした。
‌ 新幹線が動き出した。真子を残して、あっという間に線路の向こうに走っていった。
‌ 真子が呆然と立ち尽くしていると、ポケットの中のスマホが鳴った。
‌ 取り出して画面を開くと、瞬からのメッセージが届いていた。
‌《東さんがいないとつまんないから、早く来てよ》
‌ 真子は携帯に向かってつぶやいた。
‌「待っとけよ。すぐ追いついちゃるけえな」

‌【おわり】