【佳作】勇者の恋人(著:黒瀬かすみ)


‌『僕の(いと)しいミルシュカ。早く君に会いたいです。周りは軍人ばかり。大勢の人の中にミルシュカがいても誰も気にしないと思うのだけど、側近のシシリーが「大事な人を危険な目に()わせるな」と言うので我慢します。魔王討伐(とうばつ)がなければ僕は今頃、ミルシュカと幸せに暮らしていたはずなのに。そちらはどうですか。変わったことがあったら、すぐに知らせてほしいです』
‌ 何度も繰り返し読んでよれてしまった大切な手紙を、ミルシュカは安宿の硬いベッドに寝転んで、今晩もまたそっと開く。
‌ 窓から差し込む月の光を唯一の(ともしび)として、少女は愛しい人の文字を指でなぞった。
‌ 長い(まつ)()に縁どられたアイスブルーの瞳。()(ぼう)と呼ぶにふさわしい、けれどどこか寂しさをうかがわせる繊細(せんさい)な顔立ち。銀色の髪は朝日を浴びた蜘蛛(くも)の糸のように美しいけれど、ひどく短く切られている。寝巻用のワンピースは旅の途中で古着屋から買ったものだ。
‌『早く勇者なんかやめて、君と一緒になる日を夢見ています。また手紙を書きます。体に気を付けて』
‌ 一年前に届いたこの手紙を最後に、恋人からの便りはなくなった。
‌ 理由は何も知らされないまま。
‌ ミルシュカは窓の外を見上げた。
‌ 空に鎮座する夜の王は、手を伸ばしても触れられぬ距離で静かに地上を照らしていた。

‌「魔王」とは、王国に逆らい、人々を(しいた)げた魔法使いが自ら名乗った名だ。
‌ 代々、ログダーツ王家が大陸を統治してきたこの世界では、人ならざる力を持つ人間がごく(まれ)に生まれる。王家はその力を「魔法」と呼び、国の発展に欠かせない存在として保護してきた。
‌ 彼らは成長すると王家に仕える占術師、又は国王の軍に仕える魔法使いとなる。
‌ 一度は軍に仕えた魔王はその道から外れ、王家を憎み、人を恨み、天候を操り、地面を腐らせ、川を(にご)らせ、森を枯らした。
‌ 大陸の北端に位置する魔王の城を中心にその被害は拡大し、人々は(すみ)()を追われた。
‌ 被害の大きさを重く見た王家は、数度にわたって魔王討伐隊を編制したのだ、が。
‌ 過去二十年、未来を占う占術師に選ばれた勇者は五人。いずれも魔王に倒されている。
‌ 代わりに魔王の支配地域は拡大し、直近では実に大陸の四分の一を()めるまでになってしまった。
‌ そして、三年前。
‌ ミルシュカの恋人、バルナバーシュ・バルツァルが魔王討伐の新たな勇者として選定された。選定は王命によって行われる。よって、拒否などできない。
‌ 数度にわたる激しい戦いの末、勇者バルナバーシュは先日、ついにその使命を果たした。
‌ 王国は歓喜に沸き立ち、王都は勇者の帰還を待っている。

‌「よう、田舎(いなか)(むすめ)。今度の獲物は何だ」
‌ 労働者に仕事を紹介する建物《ハロフ》で、横合いから急に現れた若い男が三人、出口へ向かうミルシュカの行く手を(はば)んだ。
‌「せからしい(うるさい)わ。あんたらには教えん」
‌ 頭に青いスカーフを巻いたミルシュカは、肩から下げた布の(かばん)を背中に回して、相手を(にら)みつけた。
‌ 途端、男達が大げさに吹き出した。
‌「せからしい、だって。それ何語?」
‌「王国語を(しゃべ)ってくれなきゃ俺達わかんねえよ、なあ、カレル」
‌ カレルと呼ばれた最も体格のいい青年が、()(しつけ)にミルシュカとの距離を詰めてきた。
‌ 栗色の巻毛に黒の瞳、がっしりとした(あご)に広い肩幅。いかにも(けん)()が得意そうな粗野な動きは、相手を()(かく)するためのものだろう。
‌「どいてよ。外に出られんやろ」
‌「おいおい、こっちは質問してるんだぜ。可愛(かわい)い運び屋さんが今度は何を運ぶのかって」
‌ 白々しい相手に、ミルシュカはかっとなる。
‌「教えたら、また荷物を奪うっちゃろ。絶対教えん」
‌ 毛を逆立てた猫さながらのミルシュカに、仲間と顔を見合わせたカレルは大げさに肩を(すく)めた。
‌「俺達のせいって、何の証拠があって言ってんだよ。俺達は指一本も動かしてねえ」
‌「まこち(本当に)、しんきねぇ(腹立つ)ね! 私がハロフに依頼された手紙を持っちょったことは、あんた達以外には教えちょらん。それなのに、前の町で鞄の中のそれだけ()られたっちゃから、あんた達以外に考えられんやろ!」
‌ 恋人のバルナバーシュに会うため、ミルシュカは家族の反対を押し切って、大陸の南の端にあるトゥーマ村を飛び出した。
‌ それが半年前の話だ。
‌ 旅慣れない十九歳の少女が持って出たささやかな財産は、旅の最初で簡単になくなった。
‌ それでも諦めたくないと、二番目に寄った村のハロフに相談し、高価で軽い荷物を次の街へ運ぶ仕事を請け負うようになった。例えば、商会の重要機密が書かれた手紙、希少価値の高い宝石などだ。
‌ 依頼品が高価であればあるほど(ほう)(しゅう)は良い。が、危険度も上がる。ミルシュカは今までなんとか旅を続け、やっと勇者がいる一つ手前のこの村までやってきたのだ。
‌ しかし。
‌ カレル達に狙われてしまった。
‌ 風の(うわさ)でついに魔王が倒されたと聞いたのが約半月前。
‌ 勇者バルナバーシュが王都に華々しい帰還をするという話は聞かず、何らかの理由で未だ彼は魔王討伐の最前線の地に留まっている。
‌ せめてすれ違いになることは避けたくて、このところミルシュカは焦っていた。
‌「前の街で親切にハロフに案内してくれたからって、信用したのが間違いやった」
‌ 自分より体の厚みが二倍も違う相手と(たい)()するのは怖い。暴力を振るわれれば簡単に負けてしまうとわかっているから。
‌ でも、(くや)しさのあまりミルシュカは声を張り上げた。
‌「依頼された荷物を掏られて私は信用を無くす、掏った奴はハロフから謝礼金を(もら)う、荷物はなくならんからハロフの信用は落ちん。全部、あんたの計画通りやろ!」
‌ 木造の建物内にいる数人の労働者が何事かとこちらに視線を投げたけれど、それを気にしていられる余裕はない。
‌ カレルは刺青(いれずみ)の入った太い腕を見せつけるようにして組み、わざとらしく(うな)った。
‌「俺達は知らねえよ。()(ぎぬ)だ。だが、運び屋が荷物を掏られるなんて信用問題だな。よくここに顔を出せたもんだ。本当は出入り禁止扱いされてるんじゃないのか?」
‌ 深刻そうな顔で(ささや)く相手に、ミルシュカは唇を()んだ。
‌ 先ほど受付で「あなたの()(れき)には瑕疵(かし)があります。今回以後、何か問題があれば出入り禁止とさせてもらいます」と警告されたばかりだ。
‌ 国中に点在するハロフ同士の(つな)がりは強く、無力なミルシュカ一人など簡単に排除できる。そしてハロフから排除されたら収入を絶たれたミルシュカは旅を続けていられない。
‌ 恋人に早く近づきたいと焦り、前の村で親切にしてくれた彼らに感謝して軽々しく身の上を語ってしまった自分に、猛烈に腹が立つ。
‌ 薄暗い室内の灯りの下で、ミルシュカのアイスブルーの瞳が爛々(らんらん)と輝いていた。
‌ カレルは少しも取り(つくろ)うことなく笑うと、
‌「まあそうかりかりするなよ、田舎娘。俺達と一緒に来れば、旅も続けられるし贅沢(ぜいたく)もさせてやる。古臭(ふるくさ)い方言もすぐに抜けるさ」
‌ ミルシュカは顎を上げた。
‌ そして、最大限の誇りを持って首を振る。
‌「私の恋人が愛した故郷の方言や。あんた達のような、がんたれ(悪い奴)に何か言われる筋合いはない」
‌ 途端、カレルの横にいた男達が吹き出した。
‌「恋人! 出た、田舎娘の妄想!」
‌「私、勇者様と恋人でー。結婚の約束しててー。でも音信不通になったから田舎から勇者を追いかけてここまで来ましたー!」
‌「お前の真似(まね)、可愛くねえな!」
‌ 大口を開けて笑い(あざけ)る三人の男達を前に、ミルシュカの心は怒りよりも哀れみを覚えた。
‌ こんなの、相手をする時間が無駄だ。
‌ 少女は彼らの(すき)をついて走りだした。その身軽さと速さは、故郷の山で自然に身に着いたミルシュカの特技だ。
‌ 勢いに任せて木製のドアを押すと、激しい開閉音が響き、(すな)(ぼこり)が顔にぶつかってくる。
‌ 外に走り出たミルシュカの背中に「また会おう!」というカレルの声が追いかけてきた。
‌ 絶対に振り向くものかと、ミルシュカは人ごみの中へ体を滑り込ませた。

‌ 命が芽吹(めぶ)く季節は、人の動きも活発になる。
‌ 魔王を討伐した勇者が滞在しているクフトス村は、大陸の北端にある魔王の城に一番近い有人の村だ。
‌ クフトス村より魔王の城に近い村や町は六つあるが、そのどれもが住むには適さぬ土地となり、今や人の気配はない。
‌ クフトス村は対魔王戦に備え、強固な石の壁で四方を囲まれていた。
‌ ミルシュカが村の検問所に辿(たど)り着いたのは、人々が朝食を終え、働き始めた頃だった。
‌ 検問所には勇者をひと目見ようと物見客が押し寄せていた。その物見客相手に土産(みやげ)(もの)や食べ物を売る商売人もいて、周囲は大層(にぎ)わっている、が。
‌ つまり、検問所を抜けるためには数多(あまた)いる物見客の列の最後に並ばなければならず。
‌ この三日間、ほとんどを寝ずに旅してきたミルシュカは、心が折れそうになるのを堪えて地面を踏みしめた。
‌「お姉さん、キビのジュースはいかがか。七ウルでどう?」
‌「高いね。私の地元では二ウルで飲めたよ」
‌ 近寄ってきた十代半ばの赤髪の少女に元気いっぱいに声をかけられ、疲れた笑みで首を振る。(のど)(かわ)いているけれど、高い物を買えるほど(ふところ)に余裕はない。
‌ 少女はわかりやすく肩を竦めた。
‌「あいにく今の村じゃ、良心的な値段だよ。人が押し寄せて、物が足りてないんだ」
‌ ミルシュカは周囲を見回した。
‌ そして、なるほど、と納得する。
‌ 魔王討伐隊や元々の村の住人以上の人間がここには押し寄せている。いくら王国からの支援があるとはいえ、村のキャパシティは限界を大きく超えていることだろう。
‌「そっか。でも、結構」
‌ ミルシュカの答えに少女は慣れたように(うなず)いて、すぐに別の客に話しかけ始めた。
‌ 不安の種が増えたと鞄の中で財布を握りしめながら、ミルシュカは遅々(ちち)として進まない列に並び続けるしかなかった。
‌ それから村に入ることができたのは、半日が経っていた。乾燥果物で空腹を誤魔化(ごまか)してはいたものの、体はくたくただ。
‌「()よハロフに行こう。それが終わったら宿に泊まれるといいっちゃけど」
‌ 村の検問所を抜けてすぐ、座り込みたいのを堪えて、ほっと大きく息を吐いた。
‌ そのとき。
‌ 不意に背中に強い衝撃を受け、肩から下げていた布製の鞄を引っ張られた。ミルシュカは反射的に鞄を強く抱きしめる。相手はすぐに鞄から手を離し、謝罪も不満も発することなく足早に去って行こうとした。
‌ その手首を、ミルシュカはさっと(つか)んだ。
‌「私から、何を盗もうとしたと?」
‌ 問うと、しなびた風貌(ふうぼう)の年老いた男は手を振り払っていきなり走り出した。
‌ 検問所を抜けた広場は、村人と見物客と役人でごった返している。人ごみに(まぎ)れることなど簡単で、ミルシュカはあっという間に男を見失ってしまった。
‌ ミルシュカの背筋に冷たいものが走った。
‌「カレルに後をつけられたやろか。今回は絶対に失敗できんちゃから、早く行こう」
‌ カレル達の()(わざ)と決まったわけではないが、彼らにからまれるまでは貧しいながらもなんとか旅を続けてこられたのも事実。
‌ 最後の最後で変な(やから)に目をつけられてしまったとミルシュカはため息をついた。
‌「ぎょうさん(たくさん)大変なことがあったから、バルナに全部聞いてもらわんと割にあわん。早く会って、てげ(とても)びっくりさせちゃるからね」
‌ 検問所で聞いたこの村のハロフへと向かいながら、ミルシュカは心の中で恋人を想う。
‌ 三年前に国王の命令に従って村を出たバルナバーシュとは、ずっと手紙のやりとりをしていた。
‌ でも、最初は三日に一度だったものが、十日に一度になり、ひと月に一度になり、そして最後に届いたのは一年も前のことだった。
‌ 半年は待った。
‌ でも、待つのはそれが限界だった。
‌「待っちょっても手紙はこんし。会いに行った方が()えと思って、しゃっち(わざわざ)追いかけて来たけど、バルナが魔王を倒した方が早かったわ。やっぱりバルナはすごい」
‌ ミルシュカは目立つ短い髪を青いスカーフで隠し、歩きづめで痛む足を引きずりながら、そっと微笑(ほほえ)んだ。
‌ 大好きな人を思い浮かべることが、今のミルシュカの心の支えなのだ。
‌ バルナバーシュの黒髪は、太陽の光に当たるとやや深緑色を帯びる。瞳の色は成熟した麦の穂と同じ色をして輝き、端整な顔立ちは()(しゅう)の得意なお母さん似だ。
‌ 十六歳で基礎学校を卒業してすぐお父さんと同じ鍛冶(かじ)職人の道に入って、朝から晩までこき使われ働いていた。
‌ 毎日とても忙しそうで、それでも会えばミルシュカを笑わせてくれるお喋り上手(じょうず)で。
‌ ミルシュカは彼が大きな口を開けて陽気に笑うのが大好きだった。
‌ 同い年で基礎学校を卒業し、(とう)()()の娘として商売の役に立つことを望まれつつ、人が苦手で裏に回って馬の世話ばかりしていたミルシュカは、彼にいつも勇気と元気を分けてもらっていた。
‌ 結婚の約束は、基礎学校を卒業して三か月が経った頃。
‌ 生きるのに必要な水をくむ、井戸のそばで。
‌ 顔を赤くして一息に言ったバルナバーシュに、ミルシュカは泣き笑いで頷いた。ずっと好きだった人から告白と結婚の言葉を貰えて、嬉しくないはずがなかった。
‌ そのわずか一か月後に、バルナバーシュのもとに国王からの使いが来て、彼は急ぎ王都へと旅立って行った。
‌ いつだって不安だった。
‌ 彼の前に、五人の勇者が亡くなっている。新たに選定されたバルナバーシュが無事でいてくれる保証はない。
‌ だからせめて彼に再会するときは、花柄(はながら)の可愛い伝統衣装に身を包み、彼が好んだ青いサリアの花冠をつけ、初めての()(しょう)をして、一番の自分を見てもらおうと思っていた。
‌ そうできなかったのは、自分のエゴだ。
‌ どうしても、どうしてもバルナに会いたかったから。危険な場所にいる彼の手紙を待つだけなんて、耐えられなかったから。
‌ 今、望んだ姿ではないどころか、ボロボロのヨレヨレだけれど、後悔(こうかい)はしていない。
‌ この村でバルナバーシュに会えたらきっと彼は驚いて、ミルシュカを()めて、抱きしめてくれるはず。
‌ ミルシュカも、偉大な功績を打ち立てた彼をたくさん褒めてあげよう。笑わせるのは得意ではないけれど、彼が喜ぶことはなんだってやってみる。
‌ 伊達(だて)に半年間旅を続けてきたわけではないのだ。以前の引っ込み思案な自分より、たぶん、強くなれていると思うから。
‌「あ、あそこがハロフや」
‌ 声に出して(つぶや)くと、それに応えるように頭上から楽しげな小鳥の(さえず)りが聞こえてきた。
‌ それに微笑みを返して、ミルシュカはハロフの重い扉を肩で押した。

‌ クフトス村は歴史に名を(のこ)す勇者の帰還に沸きに沸いていた。
‌ 通り沿いに並ぶ木造の家は古びていて狭く、道にはところどころに穴があり、石の()(そう)はされていない。おそらく、南の端にあるミルシュカの村と同じように、細々と食いつないできた、歴史だけは長い村なのだろう。
‌ しかし今や、荷物を肩に(かつ)いだ行商や建物の壁に添って品物を並べた露天商が、あちらこちらで行き交う人々に声をかけていて、たいそう賑やかだ。それらの品物を眺め、楽しそうに買っていく客の身なりは上等で、明らかにこの村の者ではない。
‌ 村人と思われる(そで)が大きく(ふく)らんだ伝統衣装を(まと)った人々もまた、金を落とす見物客を大歓迎しているようで、新しく建てられた建物の前でこの地方の特産品を並べ、商売をしていた。
‌ 狭い道路は人、人、人。
‌ それを避けて歩きながら、ミルシュカは一人、焦っていた。
‌ クフトス村に来て、早三日。
‌ まだバルナバーシュに会えていない。
‌ 彼の滞在先が村長の屋敷だということは突き止めた。それは堅牢(けんろう)(てっ)(さく)にぐるりと囲まれた石造りの白い屋敷だったけれど、初日に訪ねて行ったところ、門前払いされた。
‌ 当然だ。彼に会いたい大勢の人が、村長の屋敷を鉄柵越しに何重にも並んでいる。彼の恋人を自称して会おうとする人なんて、ミルシュカの前に何人もいたのだろう。
‌「どうしよう
‌ 他に行く場所もなく、少女は今日もまた村長の屋敷の前まで来てしまった。
‌ 人垣(ひとがき)から少し離れた建物の陰に立ち、ただただ途方に暮れる。
‌「この村に来さえすれば、バルナバーシュに会えると思っていたのに
‌ 季節は春、とはいえ、未だ冷たい風が吹く。
‌ ミルシュカは退色して薄くなった青色のシャツの(えり)()き合わせた。荷物は最小限しかないので、体を温める毛皮も持っていない。
‌ 無事にクフトス村のハロフで依頼料を受け取れたとはいえ、数少ない宿屋は満室、または予想の二十倍の値段だった。とても泊まることなどできない。
‌ それでもなんとか方々を回って(うまや)の片隅を借りることができたけれど、それでも普通よりも高い宿賃を取られてしまって、痛い出費となった。
‌ おまけに。
‌「お姉ちゃん、昨日もここにいたな。誰かを待ってるのかい」
‌ 髪を緑や青に染めた柄の悪い青年が五人、声をかけてきた。この村の男達なのか、外から来た男達なのかはわからないが、関わり合いになりたくない。
‌ ミルシュカは深く(うつむ)いて、相手と視線が合わないようにした。目を合わせただけで気があると思われて、余計に面倒なことになったことがここに来て数度あったのだ。
‌「知り合いを」
‌「へえ、どんな知り合いか、聞かせてくれるか。ちょうどあそこが飲み屋なんだ。待ってる間に、一緒に飯でも食わねえか」
‌ 青年達が「そうだそうだ」「危ないことはしねえから」と口々に誘ってくる。
‌ 正直、一食浮く! と気持ちが揺れたことは否定しない。だが旅に慣れた今のミルシュカは、それに素直についていくほど世間知らずではないのだ。
‌「結構や。せからしい(うるさい)のは好かん(嫌い)。あっち行って」
‌ 男達は鈴の音にも似たミルシュカの声に目を見張り、継いでその方言に顔を見合わせた。
‌「へえ。その(なま)り、よほどの田舎から出て来たな。この村の女ではなさそうだが俺達、暇してたんだ。一緒に楽しいことしようぜ」
‌ その物言いに、彼らがこの村の出身者でないことがわかる。人が集まる村に(もの)()()(さん)に来たはいいものの、暇すぎて遊んでいるといったところか。
‌ ミルシュカはじり、と後退った。力では(かな)わない相手の前では逃げるに限る。
‌ しかし、それを実行に移すよりも早く、不意に伸びてきた男の腕が、ミルシュカの頭に巻いていたスカーフをはぎ取った。
‌ 途端、大げさなため息が聞こえてきた。
‌「顔は美人なのに、髪は短いなんて残念」
‌「国教会で働くガキよりも短いじゃないか。さてはどこかの屋敷で失敗をして、罰として切られたんだろう」
‌ 女性は長髪であることが当たり前であるといわんばかりに、大げさに(なげ)く男達。
‌ ミルシュカは青いスカーフを奪い返し、さっと頭に巻きつけた。
‌「ここまで来てあんた達に好かれたいなんて、爪の先ほども思っちょらん。どいて」
‌「ここまで? お前、どこから来たんだ?」
‌ 片耳に鳥のイヤリングをつけた男が問う。
‌ その声が心底不思議そうで、ミルシュカは試しとばかりに答えてやる。
‌「トゥーマ村って、知っちょる?」
‌ 青年達は顔を見合わせた。そして、戸惑い気味に一人が呟く。
‌「それって、勇者様の出身の
‌「じゃが(そう)」
‌「お前、遠くから来すぎだろ。勇者の追っかけにしても程があるぞ」
‌ 囲まれた五人全員に思い切りドン引きされて、ミルシュカは一瞬、(ひる)んだ。しかしすぐに言い返そうとして身を乗り出した、そのときだった。
‌「勇者様が出てこられたぞ!」
‌ うおぉぉぉぉ!
‌ 鉄柵にしがみついていた人々の大歓声に、地面が揺れた。
‌ 熱気を巻き上げるように強い風が吹き、ミルシュカははっと振り返る。
‌ 鉄柵の門の向こう、遠くに見える館の両開きの扉が開いている。
‌ ミルシュカは慌てて人垣へと走った。
‌ しかし、目の前を埋め尽くす二重、三重の人の壁を前に、屋敷から出てきた誰かの姿を見ることは叶わない。
‌ それでも諦めきれず、ぴょんぴょんと飛び跳ねていると、肩を叩かれた。
‌ 振り(あお)ぐと、先ほど声をかけてきた青年達が()(わい)(そう)な子を見る目でミルシュカを見下ろしている。
‌「仕方ねえなあ。ほらよ」
‌「きゃっ」
‌ イヤリングをしている青年はそう言うなり、ミルシュカの脇に手を入れ、少女をまるで小さな子どものように持ち上げた。いわゆる、高い高い、だ。
‌ それは、まばたき三回分の時間。
‌ 一瞬というには長く、恋人の姿を目に焼き付けるには短い、時の欠片(かけら)
‌「重! やっぱ子供じゃねえのな。重いわ」
‌ ミルシュカを持ち上げてくれた青年が、両手を振りながら顔を(しか)めている。その後ろでは他の青年達が大笑いしていた。それに「バカ、女の子相手に何を失礼なこと言ってんだい!」とたまたま隣にいた初老の女性が(しか)りつけ、周りはミルシュカを中心に更なる爆笑の(うず)に巻き込まれた。
‌ しかし、ミルシュカはそれどころではない。
‌「上げてくれて、ありがと、だけど、あれは誰?」
‌ すぐ横に立つ青年の袖を引き、少女は既に人の壁の向こうへ消えてしまった恋人の姿を(まぶた)の裏に描く。
‌ 遠目からでも、すぐにわかった。
‌ 彼は赤を基調にした、立派な軍服のようなものを着ていた。堂々と胸を張る凜々(りり)しい姿は、バルナバーシュその人しかあり得ない。
‌ それはいい。一方で。
‌ その隣に、これまでに見たこともないほど美しい女性が寄り添っていた。
‌ 着ているものこそ地味な黒いドレスだったけれど、炎のような赤い巻毛も真っ白い肌も整った顔立ちも、華やかで見目(みめ)(うるわ)しい。美女は、ほっそりとしたその腕をバルナバーシュの腕に絡めていた。
‌「お前、勇者様を追いかけてきたくせに、勇者様の顔も知らねえのか」
‌「それは知っちょる。あの、勇者様の隣にいる()(れい)な人は、村長の娘さんやろうか?」
‌「ちげえよ。魔法使いのシシリー様だよ。勇者様と同じくらい有名な方だぞ。すげえ(べっ)(ぴん)だよな」
‌ 鼻息も荒く、青年の一人が説明してくれる。
‌ 魔法使いシシリー。
‌ ミルシュカは「あ」と声にならない声を上げた。
‌ バルナバーシュの手紙に時折出てきていた。彼の側近として、魔王討伐に貢献した人だ。荒くれ者が多い軍の魔法使いということだったので、男性だと勝手に思い込んでいた。
‌「なんでも、勇者様は魔王に呪いをかけられて、シシリー様は傍でずっとその手当をしてたらしいぜ」
‌「えっ?」
‌ ミルシュカは大きく目を見開いた。
‌ イヤリングをつけた青年は、ムキになったように言い(つの)る。
‌「嘘じゃねえよ。本当なら、魔王を倒してすぐ王都に向かうはずだったのに、呪いがなかなか解除できなくて、この村に留まってたんだ。出てきたってことは、呪いがついに解けたんだろ」
‌「シシリー様のおかげだ。あの人は王都一の魔法使いだ。その上、王都一の美人」
‌ だよなー、と顔を見合わせ頷き合う青年達に、ミルシュカは何も返すことができない。
‌「俺もちょっとでいいから、ああやって体を支えてもらいたいもんだぜ」
‌「ばか、お前。分不相応、身の程知らずって言葉、知ってるか?」
‌「夢くらい見させてくれよ!」
‌ 青年達は、大口をあけて笑っている。仲が良さそうな彼らの姿に、故郷で共に学んだ友人達の姿が重なる。
‌ 胸の中の言いようのないざわつきを、ミルシュカは深呼吸を繰り返すことでおさめようとした。しかし。
‌「あいにく二人は恋人同士だ。お前にシシリー様が触る日なんて、一生来ねえよ」
‌ 誰かが誰かに向かって吐いた、その言葉が。
‌ ミルシュカの心をざっくりと傷つける。
‌ 少女は(あえ)いだ。
‌ 足元がぐらついて、今、自分がまっすぐ立っているかどうかわからなくなる。
‌ そのとき。
‌「皆さん、俺はこのとおり無事です! 俺達の勝利を祈ってくれて、感謝します! 皆さんに(さち)多からんことを!」
‌ 不意に、力強い声が聞こえた。
‌ 勇者の声を聞いた群衆は、再び()(たけ)びを上げ、歓喜に沸いた。あまりの空気の震えに、耳が痛くなるほどだった。
‌ その騒ぎに紛れて、ミルシュカは人ごみの中から逃げ出した。
‌ 違う。
‌ 舞い上がった埃が口の中に入り、数度()き込む。
‌ 違う。
‌ 彼は、違う。
‌ バルナは自分のことを「僕」と言う。故郷でも手紙でも「僕」だった。あの人は、「俺」と言った。服だってよく似合っていたけれど、きっと故郷の仕立屋の十倍以上のお金で作られている。バルナバーシュはそんな無駄遣いしない。顔色は健康そうで(はだ)(つや)もよく、呪いを受けていたなんて嘘だ。きっと、違う人が挨拶(あいさつ)に出てきただけだ。
‌ ミルシュカは苦しさに顔を歪めた。
‌ 頭は、ひと目見た彼を否定する言葉でいっぱいだった。
‌ それなのに、彼のことしか考えられない。
‌ 息が切れ、足がもつれて転びかけ、ミルシュカはとうとう立ち止まった。
‌ いつの間にか、村長の屋敷からずいぶんと離れ、小さな路地に立っていた。人の姿はほとんどなく、古びて壊れそうな木造の住居が延々と並んでいる。
‌ きっとこれがこの村の本来の姿だ。
‌ ふらついて、とっさに壁に手をつくと、乾いた木の粉がてのひらについた。
‌ 同時にミルシュカの瞳から、ぼろっと涙が(こぼ)れた。
‌ 壁についた手だけでは支えきれず、体まで預けてずるずるとその場に座り込む。
‌ 零れた(しずく)は地面にいくつも染みを作り、ミルシュカの執着を形にしたようだと思った。
‌ ただバルナバーシュに会うために。
‌ 大陸の南端から、夢と希望を持って故郷を出た、はずなのに。
‌ その行きついた先で、バルナバーシュとシシリーが恋人同士だと聞かされるなんて。
‌ 自分はなんて、(こっ)(けい)なのだろう。
‌ バルナバーシュに会えば、(もろ)()を挙げて歓迎されると、勝手に思っていた。
‌ 会うことができれば、他には何の問題もないと。
‌ 全部、ミルシュカの勝手な希望だ。
‌ 偉業を成し()げたバルナバーシュの恋人に相応(ふさわ)しいのは、田舎(いなか)(むすめ)のミルシュカではなく、才能と()(ぼう)に恵まれたシシリーだと誰もが思うだろう。ミルシュカだって、そう思う。
‌ 故郷の言葉を聞きたいと手紙に書いてあったから、今までずっと(かたく)なにトゥーマ村の方言を貫き通して来たけれど。
‌ それに意味があると思っていたのはミルシュカだけで、本当は手紙が来なくなった一年前から彼らは恋人同士だったのでは。
‌ 不毛だと思っても、疑念は膨らむばかりで。
‌「バルナバルナ
‌ 怒りとも悲しみともつかない気持ちは渦を巻き、言葉まで攪拌(かくはん)されて、もはや彼の名前しか呟けない。
‌ 新緑の季節だというのに未だ空気は冷たく、太陽が空の高い所にあってさえなお肌寒い。
‌ 視界の端を、物言わぬ猫が通り過ぎた。
‌ 通りすがりが物珍しげに視線だけをくれる。
‌ やがて。
‌ ミルシュカは静かに泣き止んだ。
‌ バルナバーシュはここに、この村に今、ミルシュカがいることを知らない。
‌ ミルシュカはゆっくりと立ち上がった。
‌ 手のひらで何度も(ほお)を擦り、最後に一度、ぱんと両頬を叩く。
‌「トゥーマ村に、帰ろう」
‌ 呟けば、それが一番良い選択に思えた。
‌ すでにこの村では三日分の宿代を使っている。潤沢とはいえない懐事情を考えるのなら、決断は早い方が良い。
‌「村に帰りついた頃なら、たぶん気持ちも整理できちょっと思う。苦しいのは、今だけ」
‌ ミルシュカは小さく呟いて、なお潤みそうになる目を何度もこすった。
‌ そのとき。
‌「おーおー、田舎娘がこんなところで何してるんだ。かくれんぼか?」
‌ ぎくりと体が震えた。
‌ 振り返らなくてもわかる。
‌ 前の村のハロフでも、その前の前のハロフでもからんできた、嫌な奴。
‌「無視するなよ、おい」
‌ 俯いたままでいると腕を摑まれ、強引に引き寄せられた。
‌ 振りほどきたいのに、そうできない己の無力さに腹が立ち、ミルシュカはせめて泣きはらした目でカレルを(にら)みつけた。
‌ カレルは相変わらず、ミルシュカを見下す視線を向けてくる。そこに()(じん)もミルシュカを気遣う色はない。
‌ ミルシュカは、投げやりな気持ちのまま口を開いた。
‌「今日は一人ね。誰かと一緒じゃないと、何もできんかと思っちょったわ」
‌「ああ?」
‌「あんたのこと、せからしい(うるさい)上に、へとんしれん(つまらない)男達じゃち思っちょった。こっちをわずらわせんでよ。てげ(すごく)しんきな(腹立たしい)」
‌「王国語を話せと、言ったはずだ」
‌ 摑まれた右手首に意図的に力を込められ、痛みにミルシュカの顔が歪んだ。このままでは骨が折れてしまうかもしれないと、恐れが心を怯ませる。
‌ もがくミルシュカと、忌々(いまいま)しげに舌打ちをするカレルが睨みあう。身長は頭一つと半分違う。肉体の大きさも大人と子供だ。
‌ でも、絶対に屈したくないと思った。
‌ 少しの間を置いて、カレルはあいた手で自身の栗色の髪を()でつけつつ、猫なで声でミルシュカに(ささや)いた。
‌「男のような短い髪のお前を相手してくれる男なんて、俺以外にはどこにもいない。こんな(へん)()な村に来る男もな」
‌「執念深いのも大概(たいがい)にしぃ。なんで私に構うと? 誰も頼んじょらんし」
‌「お前に頼まれるかどうかは問題じゃない。俺がどうしたいか、だ。従順な女より、多少生意気な猫の方が好みなんだよ」
‌ にやりと笑ったぶ厚い唇にぞっとする。
‌ ミルシュカはとっさに口を開いた。
‌ 腕力で敵わないのなら、せめて声を出そうと思ったのだ。しかし、
‌「お前がここで大声を出したところで誰も来ないぞ。村の奴らは勇者の物見客相手に商売するのに忙しくて、ここに残ってるのは老人ばかりだ。老人に俺が負けると思うか?」
‌「そんなの、叫んでみらんとわからんわ。試してみようか」
‌「だいたいお前、勇者にはシシリー様がいるのに、どのツラ下げてここにいるつもりだ? 恋人ですーって言ってたのはやっぱり嘘だったんだな。田舎娘で嘘つきなんて、最低じゃないか」
‌ その言葉が、ミルシュカの胸を(えぐ)る。
‌ 本当に、心臓をどうにかされたかと思うくらいに胸が痛んで、ミルシュカは全身から力が抜けそうになった。
‌ その(すき)を、カレルは見逃さない。
‌ ミルシュカの腕を引いて歩き出す。抵抗しても、びくともしない力をもって。
‌「とにかく、その(ほこり)くせえ体をどうにかしろ。俺の宿屋はお前の泊まっているところの百倍はいい。風呂に入れ」
‌ ミルシュカは土の地面を見つめ、ひきずられるように歩かされる。
‌ 心は傷つき、だらだらと血を流していた。
‌ これからどうするのが最善なのかわからず、バルナバーシュの変化を受け入れることこそが彼の幸せにつながるのではないか、こんな自分は消えたらいいのにとさえ思う。
‌ 俯いた視線の先には、ボロボロになった革のブーツ。シシリーの美しさとは正反対だ。
‌ ふと、甲高(かんだか)い鳥の囀りが聞こえた。
‌ ()(まく)を震わせるその悲鳴にも似た声に、ミルシュカは無意識に顔を空へ向ける。
‌ その、視界に飛び込んできた青の(まぶ)しさに。
‌ ぽかんと開いた口から入ってくる、冷えた大量の空気に。
‌ このまま、カレルについて行っていいのかと、もう一度己に問いかけた。
‌ 答えは、(いな)だ。
‌ 自分の都合のいい相手を好む人間が、都合が悪くなったとき、ミルシュカのことを大事にしてくれるとは思えない。
‌「手を、離して」
‌ 足を踏ん張り、摑まれている手を振り払おうと暴れた。
‌ 怒りに顔を歪めたカレルが振り返る。
‌ でも、負けるつもりはなかった。ミルシュカは必死にカレルの手に()みついた。カレルは摑んでいる手と反対の手を振り上げた。ミルシュカは反射的に目をぎゅっと閉じた、そのとき。
‌「われ(お前)、何しちょっとや!」
‌ 張りのある声が、聞こえた。
‌ 信じられない。
‌ 何度も何度も、故郷でも、夢の中でも聞いた、ずっと追い求めてきた人の声。
‌ おそるおそる目を開けると、肩で息をするその人は、カレルの太い腕を摑み、その肩を乱暴に押した。
‌ カレルのごつい手がミルシュカから離れ、少女はふらりとよろける。
‌ その体を、麻の平民服を着た青年が抱き寄せた。
‌ 力の強さに、懐かしい(にお)いに、ミルシュカの涙腺(るいせん)が一瞬で壊れる。
‌ カレルは突然現れた黒髪の乱入者に、青筋を立てて怒鳴った。
‌「おい、お前、何だいきなり!」
‌ 青年はミルシュカよりも背が高いが、カレルより小柄だ。
‌ 勝算があると踏んだのか、カレルがこれ見よがしに厚い胸板を見せつける。しかし、
‌「そんげ(そんなに)力があり余っちょるなら、軍のフェルディナンド将軍に口をきいてやろか。てげ(とても)がらるっど((しか)られるよ)」
‌ 含み笑いの声に、ふと動きを止めたカレルが(まゆ)をひそめる。
‌「お前、何を言って
‌「ミルシュカもわれ(お前)みたいな、へとんしれん(つまらない)男に目をつけられて、もぞなぎぃ(可哀想な)こつ(ことだ)。みやがっちょっと(調子に乗ってると)ろくなことにならんじ」
‌ ミルシュカをかばうように立つ青年は、挑発的に右手をひらひらとさせる。
‌ カレルが何かに気づいたように、目を見開いた。そして迷うようにこぶしを握って振りかぶり、しかし、
‌「な、何言ってんのか、わかんねえよ!」
‌ そう吐き捨て、走り去っていった。
‌ 確かに、故郷の方言は言葉の意味もイントネーションも王国語とは違う。初めて聞く人は、同じ国の言葉とは思えないだろう。ミルシュカも旅に出てそうと知るまで、自分は王国語を話していると思っていた。
‌ ただ、カレルのその、とてもわかりやすい捨て台詞(ぜりふ)はあまりにも幼い子どものようで。
‌ 少女は思わず吹き出してしまった。
‌「あれ、ミルシュカ、笑ってる? って、なんで! どうして泣いちょっと?」
‌ 片腕にすっぽりと収まったミルシュカの顔を(のぞ)き込んで、バルナバーシュがおろおろとそれはもうわかりやすく狼狽(うろた)えた。
‌ 端整な顔つきは三年前より精悍(せいかん)になり、後ろで結んでいた黒髪はすっきりと短くなっていた。見上げた顔は記憶にあるよりも高い位置にあり、それでも、ミルシュカを見つめる小麦色の瞳も、その(まな)()しの優しさも、三年前と変わらない。
‌「ごめん、だって、バルナが、って思ったら、捨て台詞が」
‌ 頭がついていけていなくて、混乱したまま言葉が出てくる。
‌ これではいけないと頭を振り、必死にバルナバーシュを見上げた。
‌「本物?」
‌ 震える声に、遠く馬の(いなな)きが重なる。
‌ ミルシュカの怖れを、バルナバーシュは快活に打ち消した。
‌「本物やが。ミルシュカこそ、本物? 俺が会いたすぎて見る、幻覚じゃないやろうね」
‌ ミルシュカはもう声も出せず、バルナバーシュにしがみついた。
‌ バルナバーシュも同じくらい強い力で、ミルシュカをただ抱きしめた。

‌「一年前、手紙を出したすぐ後に魔王から呪いをかけられて、下半身が石にされちょったと。軍の魔法使いが総出で(かい)(じゅ)に取り組んでくれて、石でも足を動かせる魔法を上からかけてくれたりして、ぎりぎり魔王を()てたけど、足が石にされちょる間、俺は皆に甘えちょったて思い知らされることばっかりで」
‌ 苦笑交じりの低い声を、ミルシュカは身じろぎもせず聞いていた。
‌「皆に迷惑をかけちょる身分で、戦場で恋人(あて)の手紙を書くなんてできんかった。ごめん」
‌「心配したとよ」
‌「そうやね。ごめん」
‌ 道の端にある乾いた用水路に足を投げ出し、二人はぴったりとくっついて座っていた。
‌ くっついたところから伝わる熱に、これほどの幸せがあるのかとミルシュカの目は自然に潤む。
‌「勝手に追いかけてきて、ごめんね」
‌「何、言いよっとや! ミルシュカは俺の一番大事な人やっちゃから、むしろこっちがごめんねやわ。ここまで来るの、てげ(とても)大変やったやろ」
‌ すぐに返ってきた声に思わず顔を上げて隣を見ると、バルナから軽く頬にキスされる。目を丸くすると、わずかに照れたように視線を()らされた後、すぐに開き直ったように、お日様よりもまばゆい笑顔を向けられた。
‌ 欲しかった言葉。
‌ 欲しかった温もり。
‌ 欲しかった笑顔。
‌ 今日は、涙腺が簡単に崩壊する日だ。
‌ バルナバーシュはミルシュカの涙を指で(ぬぐ)いながら、切れ長の目を柔らかく細めた。
‌「ここまで会いに来てくれて、本当にありがとう、ミルシュカ。足の解呪も完全に成ったし、王都で王族が祝賀会の用意をしちょるってことやから、そろそろ帰る手はずになっちょる。一緒に帰ろう、ミルシュカ」
‌ 苦労して、苦労してここまで来た。その苦労が報われた瞬間とはいえ。
‌ 確認しておきたいこともある。
‌ 自然、ミルシュカは俯きながら、
‌「いつから自分のこと、俺って言っちょるとね」
‌「ああ、足を石にされて覚悟が決まったっていうか、自分が変わらんと永遠に戦いは終わらんってあのときに思って、変えたとよ。変やろか」
‌「ううん、全然。じゃあ、し、あの、こ、ええと、あたら恋、び、と」
‌ 聞きたいことは明確なのに、それを言葉にしようとするとためらってしまう。今の流れから、大丈夫だとは思っていても。
‌ 口ごもるミルシュカの顔を、バルナバーシュは心配そうに覗き込んだ。
‌「何が聞きたいと? 何もおじぃ(怖い)こた(ことは)ねえ。質問には正直に答える。嘘はつかん。三年も離れちょったっちゃから、いっぱいミルシュカの声が聞きたいわ」
‌ 額と額をこつんとぶつけるバルナバーシュ。
‌ 故郷で、一緒に井戸の傍で隣に座っていたあのときが重なる。
‌ ミルシュカはこくりと(のど)を鳴らした。
‌ そして、勇気を(しぼ)り出し早口で問いかけた。
‌「私、まだバルナの恋人でいいっちゃろうか」
‌ 沈黙が辺りを支配する。
‌ ミルシュカが恐る恐る伏せていた(まぶた)を上げると、ぽかんとした彼の顔が間近にあった。
‌ ややして、
‌「まだ? ミルシュカは俺の恋人やろ。そりゃミルシュカは美人で動物好きで大人しいけど芯は強くてモテるかい、他の奴がちょっかいをかけんか心配でまさかミルシュカ、実はこの三年の間に他に好きな人ができて俺に言い出せんかったとか。あ、さっきの男」
‌「違うわ!」
‌ 予想もしなかった方向の心配をされて、ミルシュカは思わず大きな声を出した。
‌ バルナバーシュはびくりと肩を揺らす。
‌ 背が高く、見た目は大人になったとはいえ、そんな仕草は故郷にいたときのバルナバーシュと同じで、ミルシュカの体からふっと力が抜けた。
‌ そのままするりと頭に巻いていたスカーフを取る。故郷を出たときには腰まで届いていた銀髪は、二ヶ月分の宿代になった。バルナバーシュが褒めてくれて、村を出る日にそっと唇を寄せてくれた自慢の髪だったのに。
‌「私、旅の途中でお金が足りなくて髪を売ったと。今よりももっと短く、ぎりぎりの長さに切ってもらって、できるだけたくさんのお金にしてもらった。服も、ボロしかない」
‌「ミルシュカ」
‌「シシリー様の方が美しくて綺麗で才能があって魔法も使える有名な方で
‌「何が言いたいと?」
‌ 眉をしかめたバルナバーシュに、ミルシュカはぐっと両手を握りしめて問いかけた。
‌「シシリー様が、恋人って聞いたんやけど」
‌「シシリーが恋人」
‌ さっき、恋人とちゃんと言ってくれた。それでも、確かな否定が自分に向けて欲しいと思うのは愚かなことだろうか。
‌ だって、目の前にいるのはこの国を魔王から救った英雄だけど、ミルシュカのたった一人の恋人なのだ。恋人の心変わりをバルナバーシュが心配していたように、ミルシュカだって心配していた。信じても、いたけれど。
‌ 長い(まつ)()に縁どられたアイスブルーの瞳で、じっとバルナバーシュを覗き込む。青年は咳払(せきばら)いを一つすると、
‌「俺は、ミルシュカが美人で素敵で綺麗で才能があるって知っちょる。どんな見た目でもミルシュカが俺の一番可愛(かわい)い恋人や。今の髪も似合っちょる。可愛い」
‌ はっきりと言い切った。そして、とろけるような笑顔でミルシュカを見つめる。
‌ その眼差しは雄弁で、ミルシュカの頬が熱くなった。
‌ バルナバーシュは「それに」と続けた。
‌「シシリーは確かに才能(あふ)れる魔法使いやけど、彼女の恋人は別におる。ちなみに未婚で子供が五人。父親は全部、別」
‌ 思わず少女が「えっ」と驚きの声を上げたのと同時に、元気のいい鳥の(さえず)りが響いた。
‌ 思わず鳴き声のした方をふり(あお)ぐと、低い屋根の(ひさし)の部分に小さな白い鳥がちょこんととまってこちらを見下ろしていた。 
‌「見張られちょっじ。まあ、ミルシュカの居場所を教えてくれたのはシシリーやし、昨日まで解呪が続いていたから心配しちょっちゃろうね。足が石になったときも、ずっと隣で歩くのを支えてくれちょったし。まあ、その(くせ)が今もなかなか抜けんみたいやけど」
‌ さっきも見たやろ、と。
‌ しみじみと肩を(すく)めたバルナバーシュに、ミルシュカは呆然(ぼうぜん)と視線を戻した。
‌「私がこの村に来ちょって、知ってたと?」
‌「さっき、屋敷の門の前におったやろ。一瞬やったかい、幻覚やと思ったって言ったやろ」
‌ 自慢げに言うバルナバーシュの、膝に置いた手をミルシュカはそっと取る。
‌ 記憶の中の彼の手より、ずっと大きく、硬く、(たくま)しくなっている。
‌ 足は石になっていてやっと完全に治ったと聞いたばかりだ。他にもきっと、魔王討伐(とうばつ)には(つら)く、苦しいことがたくさんあったに違いない。
‌ 今、この瞬間にも、血の通った彼に触れられることをミルシュカは神に感謝し、その手を強く額に押し当てた。
‌「ミルシュカは、故郷のかざ(匂い)がする」
‌ 優しくミルシュカを抱き寄せたバルナバーシュが、耳元で囁いた。
‌ ミルシュカはその広い背をそっと撫でる。
‌「トゥーマ村を出て、もう半年以上経ったが。かざ(匂い)は消えちょる」
‌ くすりと笑ってしまえばもう、泣くことはできなくて。
‌ バルナバーシュはゆっくりとミルシュカから体を離すと、柔らかなその頬に触れ、今までで一番、優しい笑みを浮かべた。
‌「じゃあ、ミルシュカが俺の故郷やわ。ミルシュカが俺の帰る場所や」
‌ その言葉に。
‌ その眼差しに。
‌ 旅の最中にあった辛い出来事はすべて、価値あるものに変わった気がした。
‌ 言葉に詰まったミルシュカは、再び目を潤ませながら、ただ微笑(ほほえ)んだ。
‌ まるで月光の下、密やかに(つぼみ)を解いて大輪(たいりん)の青い花を咲かせるサリアの花のように、静かで(あで)やかな笑みだった。
‌ バルナバーシュはうっとりとミルシュカを見つめながらその額にキスをした後、
‌「トゥーマ村に戻ったら結婚式しような! いや、どうせなら王都で挙げた方が派手にやれるやろうか。ミルシュカは俺の! て、皆に見せびらかしたい!」
‌ ミルシュカは声を上げて笑った。そして、
‌「バルナ、大好き」
‌ 心の中全てを贈りたいくらいに。
‌ バルナバーシュは派手な音を立てて、恋人にキスをした。
‌「俺は、愛しちょるよ!」

‌【おわり】