【入賞】もう、好きちゃう。(著:杉本夏菜)


‌「卒業式終わったら、東京行くことなったわ」と(けん)に言われたとき、わたしは当たり前に旅行だと思ったから、「ええなぁ。いつ帰ってくるん?」と聞いた。
「お土産(みやげ)は、(とう)(きょう)ばな()以外にしてな。あれ、一回美味(おい)しいって言うたら、お父さんが出張に行くたびにこうてくるから、()きてもうたんよ。やけど、なかなか切り出せんくてさ。やから、お土産はそれ以外で」
「いや、いつまでとかないから。お土産もこうてこられへんわ」
「なんでなん?」
 わたしが聞くと、健はポテトを口に運びながら、苦虫(にがむし)()み潰したような顔をした。しなしなのポテト、好きなはずなのに。いつもは、「しなしなのやつは、全部俺のもんやから」って言いながら、「うまい、うまい」と食べているのに。
 わたしは、このあとに何か嫌なことを言われるんだろうなと察知したから、大好きなQooのすっきり白ブドウを飲みながら、心を落ち着かせた。(あま)()っぱくて、スカッとする。
 健は、「そんな子どもじみたジュースなんて飲めんわ」と強がってアイスコーヒーを注文するけれど、わたしが見ていないところでこっそりガムシロを入れているのを知っている。
 でも、わたしは知らないふりをして、「ブラック飲めるなんて、すごいなぁ」って()めて、「そうやろ? この苦味がええねん」と誇らしげな顔をする健を見るのが好きだった。
「もしかして、帰りの飛行機まだ予約できとらんの?」
「えっ?」
「健、計画性ないからなぁ。誰と行くん? (よし)()? それとも、ダンスの友達?」
「ひとりで行くんよ」
 そう言ったあと、健はアイスコーヒーをごくりと飲んだ。(のど)ぼとけが、上下に動く。
 わたしは、健の喉ぼとけを触るのが好きだ。自分の喉の手触りとは全然ちがうから、男の人って感じがしてときめく。
 それに、自分の身体(からだ)以外に、自由に触れていい他人の身体があるのが、なんだかうれしかった。いつも、「触んなや」って言ってきたけれど、健だってわたしのお腹を勝手にぷにゅっと(つか)んでくる。いつも、「お前、太ったやろ?」とイジられて、わたしは「高校生は、いちばん太る時期やねん」と言い返した。
 でも、その(じょう)(とう)()はもう使えなくなってしまう。
「俺、東京に住むんよ」
「なに、なんかのドッキリ?」
「ちゃう。俺、オーディションに受かってん」
「へえ、そんで?」
「そんで、東京に行くことになった」
「意味分からんのやけど」
「意味分からんくないやろ。俺、前から言っとったやん。ダンスを仕事にするなら、東京に行かなあかんって。行きたいって」
 わたしはイラッとしたから、健が自分の方に寄せているしなしなのポテトを奪ってやった。「おい、俺のやって!」といつもみたいに怒られることを期待したけれど、健はなにも言わなかった。
俺、夢叶ってん。うれしいんよ。なんで、(すい)は喜んでくれへんの?」
 健は、困ったように(まゆ)()を下げる。全然うれしそうじゃない。
「なんでうれしいのに、そんなテンションで言ってくるん?」
「それは、翠が寂しがると思ったから」
「寂しいのは、わたしだけなん?」
 わたしが聞くと、健はただただうつむいていた。1、2、3、4、5、6、7、8、9、10、11、12、13。わたしたちが付き合ってから、積み重ねてきた年月を、頭のなかで数えてみる。
 高校1年生の終わり、マクドで学年末テストの勉強をしていたら、健が「付き合ってくれへん?」と告白をしてきた。
 LINEで、【火曜日、一緒にテスト勉強せん?】【できれば、2人で】と言われたときから、なんとなくわたしのことが好きなのかなぁと思っていたから、そんなに驚きはしなかった。わたしは、健のことが好きなのかは分からなかったけれど、嫌いではなかった。だから、OKをした。
 17歳が近づくと、女の子たちは焦りだす。青春をしなきゃ。青春をするためには、恋愛をしなきゃって。
 親友の()(づき)が、隣のクラスの(かい)()くんと付き合い始めたとき、わたしは「好きやったん?」と聞いた。だって、一度も話に出たことがなかったから。
 美月とは好きなアイドルが一緒で、入学してすぐに仲良くなった。毎朝一緒に登校してたし、週に1回はサイゼのドリンクバーを飲みながら、推しについて語るのがお決まりになっていた。たまに、バスケ部の先輩がカッコいいとか、新卒で入った体育の先生がイケてるとか、そういう話になったことはあるけれど、海斗くんの話は聞いたことがない。
「全然、好きちゃうよ。やけど、わたし4月生まれやん? もうすぐ17歳になってまうんよ。やから、16歳のうちに初彼氏作りたかってん。ちょうど告白してくれたから、ええかなって」
 美月は、そう言っていた。だから、わたしも健に告白されたとき、とりあえず付き合ってみてもいいかなと思った。初彼氏をGETしておけば、〝1〟にはなる。「今まで、何人と付き合ったことあるん?」と聞かれたとき、「誰とも付き合ったことないねん」と言うよりも、「1人、付き合ったことあるけどすぐ別れてもうたわ」と言う方が、なんかいい気がした。
「ええけど、なんか上からやない?」
 わたしが言うと、健は焦った顔をして、「どこが? どこが上からやった?」と聞いてきた。
「付き合ってくれへん? って。なんか、亭主関白っぽいわ」
「ほんまに? ごめん」
 健があまりにも焦っているのが可愛(かわい)くて、わたしはついつい意地悪をしたくなった。
「もう1回。やり直し」
「翠ちゃん、あれやな。プロポーズとか、やり直しとか言うてくるタイプちゃうん?」
「ん? なら、付き合うのやめとく? 引き返すなら、今やで」
「嫌や」
「ん?」
「嫌や!」
「なら、もう1回言ってくれんと」
 健は姿勢を正して、グッとわたしの瞳を見て、「僕と、付き合ってください」と2度目の告白をした。
「なんで、標準語なん?」
「優しい感じがするかな、と思ってん」
 とりあえず作ってみた彼氏、のはずだったのに。わたしは、思いのほか健のことを大好きになってしまった。
 四六時中、一緒にいたい。それまでは、美月とサイゼで語ったり、カラオケに行ったり、プリを撮ったりするのがいちばん楽しかったのに、健以外の人間に時間を()くのがもったいない気がした。
 ()いた時間があるのなら、すべてを健のために使いたい。健は、ダンスを本気でやっていて、週に6回はレッスンに通っていたから、デートもなかなかできなかった、というのもあると思う。わたしは、余計にすべての予定を健に合わせるようになった。
 美月と遊ぶ約束をしていても、健に誘われたらドタキャンをした。「ごめん、海斗がこの日しか空いてなくて。遊ぶの、別の日に変えられたりする?」と言われたとき、ちょっぴりイラついた経験があるから、わたしはふつうに嘘をついた。
【ごめん、熱が出ちゃって。コロナだったら困るから、今日は家にいるわ、、】とLINEをすると、美月は本気で心配をして、コロナになったときの病院の行き方みたいなのを調べて送ってきてくれた。申し訳ないな、と思ったけれど、そんなことよりも健と会える喜びの方が大きくて、罪悪感はすぐに消えてしまう。
 健がいれば、それでよかった。わたしは小さいころ、「お母さんが死んでもうたらどうしよう」とよく泣いていたらしい。それは、高校に入ってからも続いていて、さすがに泣くことはないにしろ、お母さんがいなくなったら生きていけないだろうから、わたしも死のうと思っていた。
 でも、健と出会って、親が死ぬことへの恐怖が消えた。お母さんが死んでも、健がそばにいてくれたら、その悲しみを乗り越えられるかもしれない、と思えた。それよりも、わたしが死んで、健がほかの女の子を愛する方が嫌だと思った。それくらい、わたしは健に依存していた。
「俺も、寂しいよ。寂しいに決まっとるやん」
 健は、カリカリのポテトを手に取り、ティッシュに押し付ける。
 映画デートの帰りにマクドに寄ったとき、「こうすると、カリカリがしなしなになるんよ」と得意げに言ってきたのを思い出す。
 わたしはカリカリの方が好きだったし、正直あんまり変わらないなぁと思ったけれど、「ほんまや! 世紀の大発見ちゃう?」と健を盛り上げた。嫌われたくなかったから、わたしはいつも自分の気持ちに嘘をついていたような気がする。
 わがままも言ってきたし、健はそれを聞いてくれた。でも、根本なところで、わたしは健に甘えることができなかった。今も、「行かないでよ」と言いたいのに、グッと堪えて「健も寂しいって分かったから、それでええわ。大阪から東京なんて、新幹線で3時間もかからんで着くんちゃうん? そんなんさ、遠距離って言えんよな。近距離恋愛よな」なんて笑ってしまう。
「ほんまやな。近距離恋愛やん。なんか、そんな映画なかったっけ?」
「えっ、あったっけ?」
「うん。なんか姉ちゃんがDVD持ってた気する」
 この間、引かれるのを承知で美月に「わたし、健の家族になりたかった。健と血がつながってたらよかったのに。そしたら、縁が切れることはないやろ? 結婚したとしても、紙切れ一枚で他人に戻れるわけやろ? そんなん嫌やねん。わたしは、健と永遠につながっていたいんよ」と言ったら、「わたしも、海斗のこと好きやけど、そこまで考えたことはないわ。ほんまに、健くんのこと好きなんやね。そんなに誰かのこと思えるって、すごいよ。誇ってええよ」と返された。
「でも、血縁やったら、エッチできんよ? それでもええん? エッチできるのは、彼女と妻の特権やから」と言われて、それもそうやなと思ったけれど、健との関係が途切れてしまいそうないま、そんなことはどうでもいいから、絶対に切れない確かなものがほしいと思ってしまう。
「なあ、結婚せん?」
 わたしが言うと、健は今までに見たことがないくらいに目を丸くして、「はっ?」と言った。(ふた)()(はば)の大きな目が、さらに大きくなる。
 健と結婚したら、絶対に女の子を産みたいなぁ。目がクリクリの女の子に、ナルミヤのお洋服を着せたい。退屈な授業のときは、ノートに〝(あい)(ざわ)〟に合う可愛い名前を考えたりしていた。気が早すぎるかもしれないけど。
「俺たち、まだ高校生やで」
「あと2ヶ月もしたら、卒業やん」
「やからって、翠は大学行くやろ?」
「ってか、健はダンスの先生になるんやなかったん?」
「オーディションに受かったこと伝えたら、もちろんそっちを選ぶべきやって言ってくれた。おめでとうって、祝ってくれた」
「わたしより先に、その人たちに言ったんやね」
「それは、進路とか。いろいろあるから。それに、翠には言うタイミング見計らっててん」
「うれしいことやのに? いちばんに報告したいと思わんの?」
「俺にとっては、うれしいことやけど、翠にとっては違うと思ってん」
「そんなことない」
「嘘や」
 健は最後のポテトを手に取り、茶化すようにわたしの顔を指す。
「嘘ちゃうし」
「じゃあ、おめでとうって言ってや」
 健の瞳には、涙が浮かんでいた。トレイの上に置いてある紙には、笑顔を浮かべたお姉さんの写真が載っている。ちょうど、そのお姉さんの瞳の部分に健の涙が落ちて、水滴の跡が広がってく。
おめでとうございます」
「なんで、標準語なん?」
 それが、最後に見た健の笑顔だった。

 健が所属するダンスボーカルグループ『reverse』は、紅白歌合戦に出場するほどの人気を誇るようになった。健は、なぜか大阪出身なことを隠している。付き合っていたころに、理由を聞くと「都会的なイメージにしたいんだって。だから、関西弁も使わないようにしてる」と言っていたけれど、意味が分からなかった。どうして、イメージのためにバックグラウンドを消さなければならないのか。
 電話でしか話せないのに、電話の健は健じゃないみたいだった。東京の言葉をしゃべってくるから、「わたしと話すときは、関西弁にしてよ」とお願いしたら、「いま、(きょう)(せい)中だから。関西弁、使わないようにしてんだから」と言われた。
 しばらく経つと、健は地上波の音楽番組にも出演するようになった。
「reverseのKENです! よろしくお願いしまーす!」
 そう言って、ファンの女の子たちに愛想を振り()く健は、わたしの前でポテトを(しぼ)って食べていた健ではなくなっていた。
 健が動くたびに、歓声が上がる。なんだか、アイドルみたい。健は、本当にこんなふうになりたかったのだろうか。
「健、仕事楽しいん?」
 電話で聞いたとき、健は「超楽しい! ダンスしてお金もらえるなんて、最高すぎる!」とうれしそうに言った。
 その瞬間、わたしには夢がないことに気づかされた。お母さんに「大学はちゃんと行くんよ」と言われたから、適当に勉強していれば入れる地元の大学に入学したけれど、とくにやりたいこともない。
 本を読むのが好きだから文学部に入ったけれど、卒業生の進路(らん)を見たらほとんどが文学から離れた企業に入ってて笑ってしまった。
 そりゃ、そうだ。こんなFラン大学から、大手の出版社に入れるわけがない。高3の担任の()()(がわ)先生は、「やりたいことがないなら、とりあえず大学に行けばええよ。そしたら、やりたいこと見つかるやろ」と言われたけれど、大学に入った瞬間に可能性は狭められる。
 わたしが描く将来、っていうのは、どんな仕事をしたいかじゃなくて、どんな家庭を持ちたいかで、その相手は健だといいなと思っていたし、健以外は考えられなかった。
 (うめ)()あたりに戸建てを買って、健と一緒に暮らす。子どもは2人くらい産んで、年に4回くらいは家族みんなでユニバに行く。大型連休にはディズニーランドに行くのもいい。
 でも、そんな普通の家庭を、reverseのKENは築くことはできないだろう。そして、そんな小さな幸せを彼は求めていない。
 reverseが売れていくことを、喜べなかった。いつか喜べるようになるはずと言い聞かせてきたけれど、わたしは心のどこかで「健以外の誰かが()(しょう)()でも起こして、解散になればええのに」と思っていた。それで、健は大阪に帰ってくる。「もうあんな華々しい世界はええわ」って言ってくれないかな? と毎日願っていた。
 解放させてあげなきゃ、と思った。こんな人間が近くにいるのは、reverseのKENのためによくない。わたしも、いちばん好きな人の幸せを願えない自分のことが嫌になってきた。

 健が東京に行って1年が経ったころ、わたしは電話で「やっぱ、遠距離は無理やわ」と別れを告げた。すると健は、「俺も、そう思ってた」と安心したようにつぶやいた。「なら、なんでそっちから振らんかったん? もしかして、変な振り方したら逆恨みして週刊誌に売られるとか思った? わたしのことそんな女やと思ってたん? やから、泳がせてたん?」って言いそうになったけれど、そんなことを言ったら楽しかった思い出まですべてが黒く塗りつぶされてしまいそうだったから、やめた。
 あっけない。あんなに好きだったのに。高校1年生のおわりから、大学1年生のおわりまで。3年間も、健に(つい)やしてきたのに。すべてを捧げてきたのに。なんだか、ぽっかりと穴が()いたような気分になった。
 わたしは、ペンの色さえも自分で選べなくなっていたことに気づいた。
 ピンクのペンとブルーのペン、どっちがいいかな? と思ってスマホを取り出した瞬間、もう健には意見をもらえないことに気づく。健に、「ええやん」と言ってもらえないと、不安になる。美容院に行っても、何を基準にカラーを決めればいいのか分からない。今までは、健が好きそうな色に染めてもらってきたから。
 でも、3ヶ月も経つと新しい生活に慣れてしまった。しばらくは、テレビに健の姿が映ると、苦しくなってチャンネルを変えていたけれど、5年も経ったいまでは普通に観られるようになった。

 この春、わたしは結婚をする。健と別れるとき、「俺、しばらくは翠のこと忘れられないかも」と言われたから、もしかしたらまだわたしのことを思っていたらどうしようという淡い期待が、心のなかを(うず)()き、ちょっとしたマリッジブルーになりかけた。
 でも、結婚式を迎える1週間前、reverseのKENに熱愛報道が流れた。相手は、同い年の朝ドラ女優。なんだ、なんだ、そんなもんかと思った。そんなもんか、と思ったらちょっぴりラクになった。
 その女優さんの名前を、Wikipediaで検索する。『大阪府出身』という文字を見た瞬間、なぜだか涙があふれてきた。健は、大阪を捨てていなかったんだ。大阪を嫌いになったわけじゃないんだ、と思ったらなんだか泣けてきた。
 reverseのKENも、この人の前では、ただの相澤健に戻れていたらいいな。この人も、テレビで関西弁をしゃべっているのを見たことがないけれど、健と同じように東京弁のトレーニングをしたのだろうか。
 健は、どんな告白をしたのだろう。関西弁で、「俺と付き合ってくれへん?」って言ったのかな。それとも、東京弁で告白したのだろうか。分からないけれど、幸せになってほしい。なんて、美月に言ったら、「別れた直後は、わたしと幸せになってくれないなら、一生不幸でいてほしいって言ってたのにね。大人になったね」と笑われるだろうか。
「翠ちゃん」と呼ばれて振り向くと、「愛してんで」と言いながら(たわ)ける彼がいる。
 わたしは、彼がいなくても生きていけるだろう。あんなに好きだった健のことを忘れて、彼を愛しているように。彼がいなきゃ生きていけないと思える恋愛は美しいけれど、(もろ)い。
 雑貨屋さんに入り、ペンを選んでいると、彼が「翠ちゃんは、緑の方が似合うやろ」と言ってきた。わたしは最初にいいと思ったイエローのペンを手に取り、「いや、こっちやな」と言いながらレジに向かう。
「翠ちゃんは、自分の芯を持ってるところが好きやわ」
「わたしも、好き」
「自分で言うなや」
 彼が、わたしの脇腹をむにゅっとつかむ。喉ぼとけを触り返すと、「やめろや」と言いながら、笑っている彼がいる。幸せだなと思った。この幸せができるだけ長く続くように、努力をしていきたい。
 店内にreverseの楽曲が流れる。わたしは心のなかで、「もっと、もっと売れてな」とつぶやいた。

‌【おわり】