【入賞】名前のない『すき』(著:ばいお)
殺人的な暑さで夏の全国ニュースを騒がせる岐阜県東濃地方だが、今は十二月。恵那峡の湖面に雪が舞う。
何が悲しくて、こんな寒い日に遊覧船巡りをしているのだろう。須田蒼は、ダウンの襟の中に首を埋めようとしたが、ポニーテールが引っかかった。
蒼はヘアゴムを解き、肩まで伸びた髪を首回りにおろした。これで少しは寒さが凌げる。何が悲しくて……。蒼は通路を挟んだ向こうに座るパチャラの横顔を少しだけ睨んだ。この社員旅行を企画した幹事だ。
新酒の発表を前に社員一丸となって士気を高める、という清元酒造五代目社長、清元義郎の一声で社員旅行をすることになった。
「今年のクリスマスは皆に我慢してもらわなあかんけど、その代わりの旅行やで」
社長はそう言いつつ、忙しいから近場で、という注文を付けた。誰も幹事を引き受けようとしなかったその時、手を上げたのがこのタイ人、パチャラ・トンローである。
パチャラは来日三年目。年は蒼より一つ下の二十三歳、と言っていた。
チェンマイで出会った日本人のバック・パッカーに飲ませてもらった日本酒に一目、いや、一味惚れをし、その場で即、杜氏になる決意をし日本に渡って来た、そうだ。修業する場として、何故こんな田舎を選んだかは知らない。日本のど真ん中やからな、といつか社長が言っていたが定かではない。
どんな理由にせよ、その若きタイ人は、ここ恵那に来てからというもの、脇目も振らず、ひたすら修業に勤しんできた。だから恵那以外の日本も、恵那人以外の日本人も知らない。従って、話す日本語も少しイントネーションの怪しい東濃弁だ。
近場とは言ったが、まさか恵那峡、というブーイングで一時、酒蔵は騒然となった。恵那峡まで会社から車で十分もかからない。
「ほんな社員旅行があらすか」
「ちゃっと行ってちゃっと帰って来るだけやが」
困った顔で俯くパチャラが気の毒で、蒼は助け舟を出した。
「遊覧船、私はいっぺんも乗ったことあらへんけど」
パチャラが一変、誇らしげに胸を張った。
「ほうやら」
驚いたことに、社員十八人中、船に乗ったことのある者は一人もいなかった。ジモピーあるあるだ。
蒼は溜息をつく。あんなこと、言うんじゃなかった。今となっては後悔しかない。
船の内壁に『恵那峡イルミネーション』のポスターが貼ってある。桜も紅葉もないこの時期に観光客を呼び込むのは至難であり、市役所はあれやこれやとイベントを打つのだが、その涙ぐましい努力もなかなか報われない。
そんなわけで、本日の遊覧船は清元酒造御一行様の貸し切りだった。あれだけ文句を言っていた社員たちも、右に左に現れる巨岩に歓声をあげている。
その巨岩のひとつに、蒼は一羽の鳥を見つけた。最初は岩に張り付いた苔かと思った。その鳥は浅葱色の頭をすっと空に向け、舟が近づいても、微動だにしない。
「右手に見えます岩、つける名前が思いつかず、ついた名前が『名無し岩』でございます」
女性の運転士がアナウンスする。船内に笑いが起こる。蒼の心にすっと隙間風が抜けた。名前のない岩に佇む、名前も知らない鳥。
パチャラは年甲斐もなくはしゃぐ社員らにほっとしつつ、その中で口をきゅっと結び、じっと船窓の外を見る蒼に首を傾げた。
年の瀬を迎えても、初冬の雪は一向に止む気配がない。清元酒造の軒に吊るされた杉玉の外側だけを、うっすら雪が化粧する。新しい酒ができると、その杉玉も新しいものに替えられる。
清元酒造は来年創業百二十年を迎える。その記念すべき年明けに新しい酒を出そうと、清元社長以下、杜氏や蒼たち事務員も含め、慌ただしい年末を送っている。
店先にタクシーが止まり、中から出てきた着物姿の老人が乗り込んだ。社長と専務の立木は、タクシーが角を曲って見えなくなるまで、頭を下げて見送った。二人の頭や肩もあっという間に白いもので覆われた。
事務室では、蒼が机の上に積まれた年賀状の山に溜息をついていた。一枚一枚、細筆で宛名を書いていく。清元社長の意向で、お得意様に全て手書きの年賀状を送ることになった。それは、蒼のために社長が敢えて作った仕事だということもわかっているから、文句は言えない。
蒼はうーん、と伸びをして窓の外に目をやり、ぎくりとした。なんで? あっという間に老人を乗せたタクシーが去った。見間違いだろう、と思い直す。どちらにしても、もう関係はないのだし……。
小学三年生の時、蒼は近所の子供達と一緒に書道教室に通い始めた。母子二人の家庭で、習い事をさせるゆとりなどなかったが、教室のある土曜日、遊ぶ相手がおらず、ひとり公園でブランコを漕いでいた娘が不憫で、母の澄子は腹をくくった。
当時、蒼の手は小さかったが、細筆は好きになれなかった。たとえ紙の端に書く名前であっても、ちまちま書くのは性に合わなかった。筆の半分だけおろすように、と先生に何度も言われた。しかし蒼は、大筆の元までたっぷりと墨を含ませ、半分腰を浮かせ、小さな体を縦横に動かしながら、紙いっぱいに筆を走らせた。そのうち先生は諦め、苦笑いを浮かべるだけで何も言わなくなった。
その蒼が、今は細い筆の先に墨汁をちょんちょんとつけ、お得意様の宛名書きをしている。
肩でひとつ息をし、年賀状を裏向けた。中筆に持ち替え、『迎春』と一気に書く。無駄な抵抗か、と蒼は自嘲する。
「はる」
の声に振り返るとパチャラだった。くっきりとした二重瞼の目がまっすぐ蒼を見るから、一つだけ、心臓がどきんと鳴った。パチャラは『迎春』の字を指で指した。
「ああ、春、そっか。パチャラさん、漢字読めるようになったんや」
「蒼さんの字、ぬくい。春の気持ちするわ」
「この字が? ぬくい?」
パチャラが真面目な顔で頷く。『ぬくい』は漢字で書くと『温い』。あったかい、ということだ。字があったかいって、どういうこと? パチャラの方を向くと、もうこちらに背中を向け、蔵の方に行ってしまった。『微笑みの国』から来たくせにツンデレか。
でも……ぬくい、か。意味はよくわからないけれど、なんだか体の底の方が、ほんのりあったかくなるのを蒼は感じた。
事務室の壁にも、遊覧船にあったのと同じ『恵那峡イルミネーション』のポスターが貼ってある。
「はよ、蒼もカップル作って行って来いや」
どっかに貼っとけ、とポスターを差し出した後、社長が言った。カップル作るって、と苦笑しながら、蒼は妄想する。
湖面に映るクリスマスツリーのイルミネーションを岸から見つめる蒼、そして、その隣には……、パチャラ? いやいや、それはない。
蒼は頭を振る。ちょっと字を褒められたくらいで何を期待しているのだろう。パチャラは、近い将来ここから出ていく人なのだ。幻想など持ったら、後で痛い思いをしなきゃいけない。
「蒼――」
社長の少しどすの利いた声に、止まっていた蒼の手がピクリと反応する。
「そっちの区切りがついたら、こっちに手、貸してくれんか」
「はーい、行きます」
蒼は筆を置いて立ち上がった。
事務所に隣接する工場に甘い匂いが漂う。この米の匂いが蒼は好きだ。その米が人の手に触れ、時を重ね、やがて透明な酒になって桶から汲み出される。
新年に発売される新酒の瓶を社員総出で運ぶ。その中にパチャラの姿を蒼は無意識に探す。いた。この寒いのに、半袖Tシャツ姿で走り回っている。
筋肉の盛り上がったパチャラの腕に、自分の視線が留まっていることにはっとし、蒼は周りを見回す。良かった、誰も見ていない。動揺を誤魔化すように、敢えて声を張る。
「社長、そっちの箱も運びましょうか?」
「重いぞ」
「大丈夫です」
蒼は男達がするように、ケースを一つ持ち上げようとしてよろめき、思わず悲鳴をあげた。と、ケースごと体が抱えられた。
「気イつけんとー」
変なアクセントの微妙な東濃弁。パチャラの胸の温度を背中に感じ、蒼は硬直した。
手を止めた社員らから、口笛と囃し立てるような声がかかり、蒼は慌ててパチャラの腕をすり抜けた。
「もう、なぶらんといてください!」
揶揄った男達に向けて、必要以上にきつい声が出てしまった。パチャラは自分が叱られたと勘違いして、しゅんと首を竦めた。
折り畳み式のテーブルが置かれ、お盆に猪口が並ぶ。清元社長が猪口に少しずつ酒を入れる。猪口の底に描かれた青色の二重丸がとろりと揺れる。見守る社員らが、一様にごくりと生唾を飲み込む。
「年の瀬に働かせて、皆、悪いな」
社長は言う程、悪いと思っていない。
「ちいとばか早いが、車やない人だけ、お屠蘇代わりに新酒の味見をしてくれや」
残念そうな数名の社員を尻目に、蒼もパチャラも手を伸ばす。
猪口からすっと流れ込む液体が、喉の奥できらきらと光を放つ。これが新しくできた酒。美味しい、香りも味も。蒼は目を閉じ舌に残る余韻に酔った。
「アローイ」
「はい?」
呼ばれたと思い、蒼は振り向いた。パチャラが首を横に振る。
「アオイ、違う。アロイ、美味しいの意味」
社長が嬉しそうに顔を綻ばせる。
「ほうやら。んでもって名前がええ」
社長は卒業証書を挟むような二つ折りの台紙を開き、そこに挟まれた半紙を、壊れ物を触るように取り出し、皆に見せた。蒼は一目見て、どきりとした。そこには『好き』と毛筆で書かれた文字があった。
「『好き』、新酒の名前や」
社長は自信満々の笑顔で言ったが、社員一同、ぽかんとした。慌てて専務の立木がフォローした。
「メインのターゲットは女性客やから」
蒼は周りに気取られないように息を吐いた。
「好き」
皆の視線が、目を閉じうっとりと微笑むパチャラに注がれた。
「ええ名前。春の、ぬくい感じ」
皆がどっと笑った。
「ちゃんとわかって言っとるんか?」
社長は上機嫌でパチャラの肩を小突いた。蒼も口角を上げようとした。でも笑えなかった。
片づけが終わった後、まだテーブルの上に置かれていた台紙を、蒼はそっと開け、その二文字を凝視した。
「専門家から見てどうや」
清元社長が揶揄うように蒼の顔を覗き込んだ。
「専門家やないです」
「年賀状の宛名書きなんて、つまらんことをやらせるな、っという顔やな」
「そうやないですけど」
「けど?」
蒼は毛筆の文字から視線を逸らした。
「平山先生にお願いしたんや」
「はい」
「やっぱりわかったか」
「会社にみえとったから」
「なんや、知っとったんなら、出て来て挨拶くらいすればええが。蒼の師匠やら?」
「元、です」
社長は台紙を閉じようとした。
「あの」
「ん?」
「それ、お酒のラベル、平仮名の『すき』に崩した方がいいと思います」
社長は『好き』の文字を見て首を傾げた。
「ほうか? 俺にはどっちでもええように見えるけど。まあ、ちゃんと名前の通った先生がこれがええ、って言うんやから、ええやら」
「名前の通った……」
「平山先生が書いたのが気に入らんのか」
「そういう意味や……」
「新酒には社運を賭けとるんや。ラベルもそれ相応に名前のある人に頼まんと、酒の品格ってもんに関わるしな」
蒼は唇を嚙んだ。そういう意味じゃない、と言いたいが言いきれない。でもそれだけじゃ……
「最近、お母さんの調子、どうや?」
話題を逸らす社長の気遣いが、却って辛い。
「今日は県で一番偉い書道の先生がみえるで、いつもみたいに悪さしたらあかんぞ」
書道教室に通い始めて三年たったある日、先生が子供達に言った。それから五十分くらいたって殆どの子が片づけを始めた頃、灰色の髭を蓄えた老人がやって来た。いつも威張っている先生が、腰を屈め、老人の後ろをへこへこと歩き、上ずった声で何やら話をしていた。
そんなことは全くお構いなしに、蒼はいつも通り、小さな体を揺すりながら、紙一面に大筆を走らせていた。老人が蒼の横で立ち止まった。
それが平山三郎との出会いだった。
しまった。他事を考えながら書くから、また間違えてしまった。
翌日も蒼は年賀状の宛名書きをしていた。書き損じ賀状がまた一枚増えた。
昨日の『好き』が頭から離れない。あれはやっぱり違う。平山先生にこだわっていないと言えばうそになる。が、新しい酒の、あの舌の上で跳ねあがるような瑞々しさに、すっと寄り添える名前は、あの二文字ではない。
「泣いとるの?」
蒼の顔をパチャラが覗き込んだ。
「泣いとらへんし」
「蒼さんの字、泣いとる」
パチャラが、書き損じ賀状を顎で指した。
「泣いとらへんし」
もう一度蒼が言うと、パチャラは首を傾げた。
「蒼さんの字、蒼さんより正直や」
ぎくっとしたが、精一杯うそぶいた。
「どうせ年賀状なんか、形だけの挨拶なんやから。誰も真剣に見とらへんし、こっちかて真剣に書く気せんやろ」
パチャラが少し遠い目をした。
「お正月かて寂しい人がおる。その人が、カード貰って、蒼さんの字見て、ぬくい心になる。したら、ハッピー・ニューイヤー、やら?」
蒼は書き損じ賀状から一枚を手に取り見た。間違えたお得意さんの名前が、そうだ、確かに泣いている。私はこんな字じゃない、と訴えている。
蒼はコピー用紙を一枚出して、中筆に墨を含ませた。紙に『好き』と書いた。パチャラが得意げな顔をした。
「新酒の名前や」
蒼は頷き、もう一枚用紙を出し、筆を滑らせた。
パチャラが筆の動きに合わせ、唇を尖らせて読んだ。
「す、き」
蒼は『好き』と『すき』の二枚を両手に持って、パチャラの前に出した。パチャラは暫く二つを見比べ、そして、平仮名の方を指さした。
「僕、こっち好きや」
「そう?」
「口の中、アロイ、優しい味の感じ」
蒼は微笑んだ。わかる人がいてくれたら、それでいい。二枚の紙をくしゃくしゃと丸めてゴミ箱に捨てると、パチャラが慌てた。
「あ、捨てないで」
「いいの、ごみやから」
「ごみと違うやら」
パチャラはゴミ箱から『すき』の方の紙だけ拾い、皺を伸ばした。
パチャラの背後に『恵那峡イルミネーション』のポスターがあった。行け、と言う声が、蒼の後頭部の奥から聞こえた。
「パチャラさん、大晦日、仕事が終わってから、あれ、一緒に見に行かへん?」
言ってしまった。
パチャラは振り向いてポスターを暫し見た。蒼の方が当惑する程、パチャラの耳がどんどん赤くなっていった。
中学生になった蒼は、週一回、電車とバスを乗り継ぎ、二時間かけて平山の教室に通った。かなりの出費を伴ったが、蒼の書に向ける目の輝きに、母、澄子は弁当屋の夜のパートを増やした。
平山は蒼の書に対し、指導らしいことは何もしなかった。蒼にしてみれば、自由に好きなようにやらせてもらえることが、却ってありがたかった。
中でも蒼は、畳六畳ほどある大きな半紙に、大筆を振り下ろすパフォーマンスに魅了された。中腰になって裸足で半紙の上を縦横無尽に駆け回る。渾身の力を込め、全身全霊で文字と対峙する、体を突き抜ける熱いものに焦がされる、あの数分、生きている実感で満たされた。
平山は時々、蒼を連れて、展覧会に赴いた。行く先々で出会う大人は皆、あの書道教室の先生のように、平山にへりくだった。平山の後ろにいる地味な少女に目を向ける者はなかった。平山も蒼を誰かに紹介しようとしなかった。
中学三年になり、高校進学をどうするか、という時期になった。このまま書を続けたい、という思いはあった。しかしこの頃、澄子にリューマチが出るようになった。
そんな折、平山と親しくする神社の宮司から依頼があった。新年のイベントとして、境内で大筆のパフォーマンスを若い書家にやってもらいたい、作品は本殿に展示し、一年間参拝者に公開したい、と。平山は蒼にその役を命じた。
蒼のパフォーマンスは新聞でもテレビニュースでも大きく取り上げられた。しかし平山は蒼に取材を受けさせなかった。蒼は平山の目に微かな嫉妬を見た。
松の内が明け、初詣客も途絶えた頃、蒼はその神社に澄子と二人で行った。澄子はパフォーマンス当日、体調を崩して来られなかったため、後日作品だけでも見ようと訪れたのだった。しかし、本殿にも拝殿にも、どこにも蒼の書は見当たらなかった。
蒼は平山に聞いた。
「由緒正しきお社に、名前のない者の書など、どうして掲げられる。お前は何か勘違いをしているようだな」
それが平山の答えだった。
蒼は家から一番近くにある実業高校に進学することに決めた。部活動には入らなかった。澄子のリューマチを理由に平山の所に通うのをやめた。平山は蒼を止めなかった。ただ一言、
「他所の門を叩いても無駄だぞ」
と言った。
大晦日も定時までしっかり働き、終わらなかった分は、年明けに持ち越された。それでもなんとか新酒発表会は、予定通りいけそうだ。最後に社員全員が集められ、社長から一人ずつ、特別ボーナスが渡された。
他の社員に気取られないように、パチャラが退社した後、十分待ってから、蒼は事務室を後にし、自転車に跨った。
雪は止んでいた。会社から恵那峡へは、普通なら自転車で三十分。でも、雪がまだ道に残っているから、蒼は慎重にペダルを踏んだ。ここでこけてしまっては、折角、がだいなしになる。
折角、の何だろう。冷たい風に頬を切らせながら思う。折角のデート、いや、あっちはそう思っていないかもしれない。折角の二人の時間、それはもっと違うか。ただのお疲れさん会、と自分に言い聞かせながら、口元は緩んでしまう。結局我慢できず、最後のスロープは、両足を広げて一気に滑り降りた。
駐輪場に自転車を停め、肩で一息つく。落ち着け、こちらの気持ちをパチャラに気付かれてはいけない。
入口に向かう蒼は違和感を覚えた。いやに静かだ。いくら省エネでも、イルミネーションというには、あまりに暗い。
ゲートの暗がりで人影が動いた。
「休み」
え? パチャラがもう一度大声を出した。
「お休み、みんな、紅白歌合戦!」
ダム湖に突き出した広いデッキは、今日降った雪で覆われていた。足跡をつけないように、縁の方を歩いて、湖に一番近いベンチに蒼とパチャラは並んで座った。薄暗い外灯が所々にあるものの、目の前にはただ真っ黒な闇が広がり、時々そこに、二人の吐く息がふわりと白く浮かんで消える。
デッキの下から伸びている木の幹に、針金が巻かれている。本当なら、そこに付けられた電飾が、ダム湖の水面に反射して、ロマンチックな演出をしてくれるはずだった。ロマンチック、その言葉が頭に浮かんだ瞬間、蒼はくしゃみをした。
パチャラがリュックからカップ麺をふたつ取り出し、蓋をめくった。水筒から湯を注ぎ、慣れた手つきで、割り箸の先の方で蓋とカップを挟んだ。
「去年は、社長の家で、蕎麦食べて、紅白歌合戦見たんや」
「日本人より日本の大晦日しとる」
「去年より、ちょっとしょぼい蕎麦やけど」
三分間待つ間、パチャラはデッキから突き出した木の下に行った。
「見てみ」
パチャラが蒼を招いた。パチャラの指さす方に顔を向けた。細い枝に雪がかかって、所々しなっている。
「あそこ、桜の花」
「嘘、雪やら」
「違うって、ほれ」
驚いた。目を細めてパチャラの指を辿った先に本当に一輪だけ、桜の蕾がほんの少し綻んでいる。
「なんで?」
パチャラは胸を張った。
「チェンマイで酒飲ませてくれた日本人が言っとった。冬に咲く桜がある。それどこや、聞いたら」
パチャラが桜を指した同じ指を、「ここ」と言うように下に向けた。
「それで、恵那に、こんな所に来たの?」
パチャラは頷いた。
「恵那、正解」
ベンチに戻るパチャラの背中を見る。恵那に来て良かったと言われれば、嬉しくないことはない。ただ……、蒼はふっと寂しくなる。それでもいつかは……
「パチャラさん、いつまでここで働くの?」
ベンチに腰を下ろしながら蒼は聞いた。
「まだまだ、僕、しょぼいやら?」
しょぼくなくなったら、どうするの? とは何となく聞けなかった。聞けなかったのに、言われてしまった。
「でも、いつか、タイで僕の酒、皆に飲ませる」
その日は来る、そうだ、来なきゃいけない。
「パチャラさん、夢があるもんな」
「うん」
「偉いな」
「蒼さんは?」
え? 声にならない音が蒼の喉にひっかっかった。
「蒼さんの夢、筆の字、アーティストやら」
「もういいかな?」
蒼はカップ麺の割り箸をはずし、蓋を開けた。
パチャラもカップ麺を手に取った。二人とも黙ったまま、麺を啜った。ぬくい。じんと体の芯に沁みる。
遠くの方から微かに除夜の鐘が聞こえた。蒼は麺を啜るのをやめ、耳を澄ませた。
「ゴーン」
「何?」
パチャラが不思議そうに蒼の顔を見る。
「知っとる? あの鐘が一つ鳴るごとに、一つ欲しいもんが消えるんや」
パチャラが目を瞬かせる。
「欲しい物、消える? 困るそれ、悲しすぎ」
パチャラにとってはそうだろう。欲しい物がはっきりしていて、今はそのためだけに生きていられる、そしてもう少しでそれに手が届く。でも私は……。
「初めっから欲しい物なんてなかったら、悲しくなんかならへんのにな」
蒼はカップ麺をベンチに置いて一息つき、努めて何でもないように言った。
「消したんや」
「何を?」
「字のアーティストになる夢、消したんや」
何でもないように言えた、のに、結局蒼は下を向いてしまった。パチャラの影で、自分の顔が見えないようにと、蒼は心から祈った。
「トライ、した?」
「……んな、無理やし」
「なんで?」
蒼は少しむっとした。
「アートはお金がかかるの。うち、貧乏やから」
「金、いくら?」
「パチャラさん、くれるの?」
「……今は無理やら」
「いいよ、期待しとらへんし」
「そやけど……」
その次の言葉がくしゃみに撥ね飛ばされ、パチャラは身震いをした。
「冷えてきたね、もう帰ろか」
「ちょっと、トイレ」
パチャラが見えない位置まで去ったのを見計らい、蒼は上を向いた。除夜の鐘が鳴った。
欲しい物がまたひとつ消えた。蒼は鼻を啜った。上を向いたのに、目から涙が溢れて、頬を伝い、耳たぶを濡らした。
夢を捨てた人間に、今追いかけている自分の夢を語ることが、「君の夢は?」と聞くことが、どれほど残酷なことか、パチャラはわかっていない。そうして、パチャラはパチャラの夢を叶えるために、私のことも、今日ここに来たことも、きっと全部忘れて行ってしまうのだ。
「お待たせですわ」
「何、それ」
パチャラが箒を持って立っている。
「大きな筆、トイレから借りた」
呆気にとられる蒼に構わず、パチャラはその箒を、雪の上で不器用に動かし字を書いた。
パチャラが何を書こうとしたかはわかる。でも『す』も『き』も鏡文字で、左右がひっくり返っている。くすりと笑う蒼に、パチャラがむっとした顔を見せた。
「下手って思ったやら」
パチャラは自分が書いた字を足で消した。
「下手っていうよか」
パチャラは箒を蒼に差し出した。
「書いて、あそこ」
「は?」
「蒼さんの『すき』、蒼さんのぬくい字、あそこ、デッキの真ん中、書いてみ」
箒を蒼に持たせると、パチャラはさっと後ろの方に退いた。
蒼の前に、真っ白なデッキが広がる。大きな半紙みたい、あの時の。蒼は目を閉じた。
鉢巻を締め、たすき掛けをした袴姿のあの日の蒼がそこにいた。境内に広げられた真っ白な紙。右手に大筆、左手に墨の器を持つ蒼に、カメラのフラッシュが盛んにたかれる。自分の心臓の音が聞こえる。蒼は目を閉じる。周りの歓声が消えていく。やがて心臓の音も聞こえなくなる。蒼は瞼を開く。大きく息をひとつつき、蒼は腰をさっと落とした。
今、蒼は立つ。漆黒の闇の真下に、一面の雪の上に。音が消えた。あの時と同じように。
蒼は湿ったスニーカーを靴下と一緒に脱いだ。箒の柄を握り直して振った。箒の先から水滴が滴り、街灯の光を反射してきらりと光った。
蒼は腰を落として、雪の半紙に対峙した。『す』の最初の横棒をさっとひいた。右端の止めで少し力を抜き、つま先に体重をかけ、真っすぐに下におろす。途中左肩を入れスピードを緩め、カーブを描き、そのまま左にはねる。雪が裸足の指先から熱くなった体を通って天へと昇華する。蒼は息を止め、一気に『き』の字を書き上げた。
デッキを覆う雪は、蒼の足跡と『すき』の字のところだけ、丁度墨が入ったように黒くなった。靴を履く蒼は、まだ肩で呼吸をしていた。
「新酒のラベルの字、これがいい」
パチャラが雪の上の『すき』をじっと見て言った。
「もういいわ。もう、有名な先生が書いたんやし」
パチャラは首を横に振った。
「これがいい。お客さん、これ、蒼さんの『すき』のラベル見る、心の中の好きな人、思う。この酒飲みたい、思う、絶対」
パチャラはつまりながら必死で言葉を繋ぐ。
「ほんで、酒、飲むやら。したら、蒼さんの字と同じ味する。心、ぽっ、ぬくい、春が来た」
蒼は吹き出した。パチャラを見た。パチャラは笑っていない。真面目な顔をして、蒼を正面から見た。
「ほんとに好きな物、消したらあかん」
蒼の顔から笑いが消えた。もう一度、デッキに書かれた『すき』の字を見た。涙が出てきた。でもさっき流した涙とは違うしょっぱさだ。
その時、岸辺のホテルから宿泊客のカウントダウンをする声が聞こえた。
「三、二、一、明けましておめでとう!」
遠くの空で花火が上がった。蒼とパチャラは顔を見合わせた。顔を見合わせて同時に笑った。蒼は声をあげてひとしきり笑った。笑って、笑って、涙を拭った。そしてパチャラを正面から見て言った。
「私、やってみる。新酒のラベル、『すき』のラベル、書いてみる。書いて、私の字を使ってくださいって、社長に言ってみる」
「ファイト」
蒼は笑いを堪えて言った。
「うん、だから、……」
パチャラが首を傾げた。
「そばで言っとって」
「何、言っとって?」
「私の字、好きって」
「蒼さんの字、好き」
「うん」
「ずっと言っとる。百回言う。蒼さん、大大大大大好きやー」
ダム湖に向けてパチャラが叫んだ。ちょっと待て。蒼は胸の高鳴りを隠して、揶揄い口調で言う。
「私やなくて、私の字、やら」
パチャラは、あっと言ってもじもじした。もじもじして、それから思い切ったように蒼に向き直った。
「僕もお願い、あるわ」
「何?」
「僕の酒できた時、名前のラベル、蒼さん書いて」
「なんて名前?」
パチャラは箒を手に取り、デッキに向かった。動く箒の先を見ながら、蒼は一字ずつ読んだ。
「あ、お、……って」
書き上げたパチャラは、どや顔で蒼を見る。デッキには『あおい』と書かれている。あおい? 酒の名前が? 蒼は戸惑いとどきどきと嬉しいを呑み込んで、精一杯毒づいた。
「馬っ鹿じゃない、そんな酒、売れへんわ」
パチャラは真面目な顔で首を振った。
「『あおい』、アロイ、絶対美味しい。間違いなし」
雪の上の文字が『あおい すき』になっているのに、パチャラは気付いているだろうか。
漆黒の恵那峡に蒼は目を凝らした。見えないけれど、あそこに名前のない岩がある。その岩に、名前の知らない鳥が、きっと頭を上げて立っていた。私も、と蒼は空を見上げた。
また一つ花火が上がった。光の粒が雪の上の五つの文字に降って来た。
【おわり】