【入賞】名前のない『すき』(著:ばいお)


‌ 殺人的な暑さで夏の全国ニュースを騒がせる岐阜県東濃(とうのう)地方だが、今は十二月。()()(きょう)の湖面に雪が舞う。
‌ 何が悲しくて、こんな寒い日に遊覧船巡りをしているのだろう。須田(すだ)(あおい)は、ダウンの(えり)の中に首を埋めようとしたが、ポニーテールが引っかかった。
‌ 蒼はヘアゴムを解き、肩まで伸びた髪を首回りにおろした。これで少しは寒さが(しの)げる。何が悲しくて。蒼は通路を挟んだ向こうに座るパチャラの横顔を少しだけ(にら)んだ。この社員旅行を企画した幹事だ。

‌ 新酒の発表を前に社員一丸となって士気を高める、という清元(きよもと)酒造(しゅぞう)五代目社長、清元義郎(よしろう)の一声で社員旅行をすることになった。
‌「今年のクリスマスは皆に我慢してもらわなあかんけど、その代わりの旅行やで」
‌ 社長はそう言いつつ、忙しいから近場で、という注文を付けた。誰も幹事を引き受けようとしなかったその時、手を上げたのがこのタイ人、パチャラ・トンローである。
‌ パチャラは来日三年目。年は蒼より一つ下の二十三歳、と言っていた。
‌ チェンマイで出会った日本人のバック・パッカーに飲ませてもらった日本酒に(ひと)()、いや、(いち)()()れをし、その場で即、杜氏(とうじ)になる決意をし日本に渡って来た、そうだ。修業する場として、何故こんな田舎(いなか)を選んだかは知らない。日本のど真ん中やからな、といつか社長が言っていたが定かではない。
‌ どんな理由にせよ、その若きタイ人は、ここ恵那に来てからというもの、脇目も振らず、ひたすら修業に(いそ)しんできた。だから恵那以外の日本も、恵那人以外の日本人も知らない。従って、話す日本語も少しイントネーションの怪しい東濃弁だ。
‌ 近場とは言ったが、まさか恵那峡、というブーイングで一時、酒蔵は騒然となった。恵那峡まで会社から車で十分もかからない。
‌「ほんな社員旅行があらすか」
‌「ちゃっと行ってちゃっと帰って来るだけやが」
‌ 困った顔で(うつむ)くパチャラが気の毒で、蒼は助け舟を出した。
‌「遊覧船、私はいっぺんも乗ったことあらへんけど」
‌ パチャラが一変、誇らしげに胸を張った。
‌「ほうやら」
‌ 驚いたことに、社員十八人中、船に乗ったことのある者は一人もいなかった。ジモピーあるあるだ。

‌ 蒼は溜息をつく。あんなこと、言うんじゃなかった。今となっては後悔(こうかい)しかない。
‌ 船の内壁に『恵那峡イルミネーション』のポスターが貼ってある。桜も紅葉もないこの時期に観光客を呼び込むのは()(なん)であり、市役所はあれやこれやとイベントを打つのだが、その涙ぐましい努力もなかなか報われない。
‌ そんなわけで、本日の遊覧船は清元酒造御一行様の貸し切りだった。あれだけ文句を言っていた社員たちも、右に左に現れる巨岩に歓声をあげている。
‌ その巨岩のひとつに、蒼は一羽の鳥を見つけた。最初は岩に張り付いた(こけ)かと思った。その鳥は(あさ)()(いろ)の頭をすっと空に向け、舟が近づいても、微動だにしない。
‌「右手に見えます岩、つける名前が思いつかず、ついた名前が『名無し岩』でございます」
‌ 女性の運転士がアナウンスする。船内に笑いが起こる。蒼の心にすっと(すき)()(かぜ)が抜けた。名前のない岩に(たたず)む、名前も知らない鳥。
‌ パチャラは(とし)()()もなくはしゃぐ社員らにほっとしつつ、その中で口をきゅっと結び、じっと(せん)(そう)の外を見る蒼に首を(かし)げた。

‌ 年の瀬を迎えても、初冬の雪は一向に止む気配がない。清元酒造の(のき)に吊るされた(すぎ)(だま)の外側だけを、うっすら雪が()(しょう)する。新しい酒ができると、その杉玉も新しいものに替えられる。
‌ 清元酒造は来年創業百二十年を迎える。その記念すべき年明けに新しい酒を出そうと、清元社長以下、杜氏や蒼たち事務員も含め、慌ただしい年末を送っている。
‌ 店先にタクシーが止まり、中から出てきた着物姿の老人が乗り込んだ。社長と専務の立木(たつき)は、タクシーが角を曲って見えなくなるまで、頭を下げて見送った。二人の頭や肩もあっという間に白いもので(おお)われた。
‌ 事務室では、蒼が机の上に積まれた年賀状の山に溜息をついていた。一枚一枚、細筆で(あて)()を書いていく。清元社長の意向で、お得意様に全て手書きの年賀状を送ることになった。それは、蒼のために社長が()えて作った仕事だということもわかっているから、文句は言えない。
‌ 蒼はうーん、と伸びをして窓の外に目をやり、ぎくりとした。なんで? あっという間に老人を乗せたタクシーが去った。見間違いだろう、と思い直す。どちらにしても、もう関係はないのだし
‌ 
‌ 小学三年生の時、蒼は近所の子供達と一緒に書道教室に通い始めた。母子二人の家庭で、習い事をさせるゆとりなどなかったが、教室のある土曜日、遊ぶ相手がおらず、ひとり公園でブランコを()いでいた娘が()(びん)で、母の澄子(すみこ)は腹をくくった。
‌ 当時、蒼の手は小さかったが、細筆は好きになれなかった。たとえ紙の端に書く名前であっても、ちまちま書くのは(しょう)に合わなかった。筆の半分だけおろすように、と先生に何度も言われた。しかし蒼は、大筆の元までたっぷりと(すみ)を含ませ、半分腰を浮かせ、小さな体を縦横に動かしながら、紙いっぱいに筆を走らせた。そのうち先生は諦め、苦笑いを浮かべるだけで何も言わなくなった。

‌ その蒼が、今は細い筆の先に(ぼく)(じゅう)をちょんちょんとつけ、お得意様の宛名書きをしている。
‌ 肩でひとつ息をし、年賀状を裏向けた。中筆に持ち替え、『(げい)(しゅん)』と一気に書く。無駄な抵抗か、と蒼は()(ちょう)する。
‌「はる」
‌ の声に振り返るとパチャラだった。くっきりとした(ふた)()(まぶた)の目がまっすぐ蒼を見るから、一つだけ、心臓がどきんと鳴った。パチャラは『迎春』の字を指で指した。
‌「ああ、春、そっか。パチャラさん、漢字読めるようになったんや」
‌「蒼さんの字、ぬくい。春の気持ちするわ」
‌「この字が? ぬくい?」
‌ パチャラが真面目(まじめ)な顔で(うなず)く。『ぬくい』は漢字で書くと『温い』。あったかい、ということだ。字があったかいって、どういうこと? パチャラの方を向くと、もうこちらに背中を向け、蔵の方に行ってしまった。『微笑(ほほえ)みの国』から来たくせにツンデレか。
‌ でもぬくい、か。意味はよくわからないけれど、なんだか体の底の方が、ほんのりあったかくなるのを蒼は感じた。
‌ 事務室の壁にも、遊覧船にあったのと同じ『恵那峡イルミネーション』のポスターが貼ってある。
‌「はよ、蒼もカップル作って行って来いや」
‌ どっかに貼っとけ、とポスターを差し出した後、社長が言った。カップル作るって、と苦笑しながら、蒼は妄想する。 
‌ 湖面に映るクリスマスツリーのイルミネーションを岸から見つめる蒼、そして、その隣には、パチャラ? いやいや、それはない。
‌ 蒼は頭を振る。ちょっと字を()められたくらいで何を期待しているのだろう。パチャラは、近い将来ここから出ていく人なのだ。幻想など持ったら、後で痛い思いをしなきゃいけない。
‌「蒼
‌ 社長の少しどすの()いた声に、止まっていた蒼の手がピクリと反応する。
‌「そっちの区切りがついたら、こっちに手、貸してくれんか」
‌「はーい、行きます」
‌ 蒼は筆を置いて立ち上がった。

‌ 事務所に隣接する工場に甘い(にお)いが漂う。この米の匂いが蒼は好きだ。その米が人の手に触れ、時を重ね、やがて透明な酒になって(おけ)から()み出される。
‌ 新年に発売される新酒の(びん)を社員総出で運ぶ。その中にパチャラの姿を蒼は無意識に探す。いた。この寒いのに、半袖(はんそで)Tシャツ姿で走り回っている。
‌ 筋肉の盛り上がったパチャラの腕に、自分の視線が留まっていることにはっとし、蒼は周りを見回す。良かった、誰も見ていない。動揺(どうよう)誤魔化(ごまか)すように、敢えて声を張る。
‌「社長、そっちの箱も運びましょうか?」
‌「重いぞ」
‌「大丈夫です」
‌ 蒼は男達がするように、ケースを一つ持ち上げようとしてよろめき、思わず悲鳴をあげた。と、ケースごと体が抱えられた。
‌「気イつけんとー」
‌ 変なアクセントの微妙な東濃弁。パチャラの胸の温度を背中に感じ、蒼は硬直した。
‌ 手を止めた社員らから、口笛と(はや)し立てるような声がかかり、蒼は慌ててパチャラの腕をすり抜けた。
‌「もう、なぶらんといてください!」
‌ 揶揄(からか)った男達に向けて、必要以上にきつい声が出てしまった。パチャラは自分が(しか)られたと勘違いして、しゅんと首を(すく)めた。

‌ 折り(たた)み式のテーブルが置かれ、お盆に(ちょ)()が並ぶ。清元社長が猪口に少しずつ酒を入れる。猪口の底に描かれた青色の二重丸がとろりと揺れる。見守る社員らが、一様にごくりと(なま)(つば)を飲み込む。
‌「年の瀬に働かせて、皆、悪いな」
‌ 社長は言う程、悪いと思っていない。
‌「ちいとばか早いが、車やない人だけ、お屠蘇(とそ)代わりに新酒の味見をしてくれや」
‌ 残念そうな数名の社員を尻目に、蒼もパチャラも手を伸ばす。
‌ 猪口からすっと流れ込む液体が、(のど)の奥できらきらと光を放つ。これが新しくできた酒。()()しい、香りも味も。蒼は目を閉じ舌に残る()(いん)に酔った。
‌「アローイ」
‌「はい?」
‌ 呼ばれたと思い、蒼は振り向いた。パチャラが首を横に振る。
‌「アオイ、違う。アロイ、美味しいの意味」
‌ 社長が嬉しそうに顔を(ほころ)ばせる。
‌「ほうやら。んでもって名前がええ」
‌ 社長は卒業証書を挟むような二つ折りの台紙を開き、そこに挟まれた半紙を、壊れ物を触るように取り出し、皆に見せた。蒼は一目見て、どきりとした。そこには『好き』と毛筆で書かれた文字があった。
‌「『好き』、新酒の名前や」
‌ 社長は自信満々の笑顔で言ったが、社員一同、ぽかんとした。慌てて専務の立木がフォローした。
‌「メインのターゲットは女性客やから」
‌ 蒼は周りに気取られないように息を吐いた。
‌「好き」
‌ 皆の視線が、目を閉じうっとりと微笑むパチャラに注がれた。 
‌「ええ名前。春の、ぬくい感じ」
‌ 皆がどっと笑った。
‌「ちゃんとわかって言っとるんか?」
‌ 社長は上機嫌でパチャラの肩を小突いた。蒼も口角を上げようとした。でも笑えなかった。

‌ 片づけが終わった後、まだテーブルの上に置かれていた台紙を、蒼はそっと開け、その二文字を凝視した。
‌「専門家から見てどうや」
‌ 清元社長が揶揄うように蒼の顔を(のぞ)き込んだ。
‌「専門家やないです」
‌「年賀状の宛名書きなんて、つまらんことをやらせるな、っという顔やな」
‌「そうやないですけど」
‌「けど?」
‌ 蒼は毛筆の文字から視線を()らした。
‌「平山(ひらやま)先生にお願いしたんや」
‌「はい」
‌「やっぱりわかったか」
‌「会社にみえとったから」
‌「なんや、知っとったんなら、出て来て挨拶(あいさつ)くらいすればええが。蒼の()(しょう)やら?」
‌「元、です」
‌ 社長は台紙を閉じようとした。
‌「あの」
‌「ん?」
‌「それ、お酒のラベル、(ひら)()()の『すき』に崩した方がいいと思います」
‌ 社長は『好き』の文字を見て首を傾げた。
‌「ほうか? 俺にはどっちでもええように見えるけど。まあ、ちゃんと名前の通った先生がこれがええ、って言うんやから、ええやら」
‌「名前の通った
‌「平山先生が書いたのが気に入らんのか」
‌「そういう意味や
‌「新酒には社運を()けとるんや。ラベルもそれ相応に名前のある人に頼まんと、酒の品格ってもんに関わるしな」
‌ 蒼は唇を()んだ。そういう意味じゃない、と言いたいが言いきれない。でもそれだけじゃ
‌「最近、お母さんの調子、どうや?」
‌ 話題を逸らす社長の気遣いが、(かえ)って(つら)い。

‌「今日は県で一番偉い書道の先生がみえるで、いつもみたいに悪さしたらあかんぞ」
‌ 書道教室に通い始めて三年たったある日、先生が子供達に言った。それから五十分くらいたって(ほとん)どの子が片づけを始めた頃、灰色の(ひげ)(たくわ)えた老人がやって来た。いつも威張っている先生が、腰を屈め、老人の後ろをへこへこと歩き、上ずった声で何やら話をしていた。
‌ そんなことは(まった)くお構いなしに、蒼はいつも通り、小さな体を揺すりながら、紙一面に大筆を走らせていた。老人が蒼の横で立ち止まった。
‌ それが平山三郎(さぶろう)との出会いだった。
‌ 
‌ しまった。他事を考えながら書くから、また間違えてしまった。
‌ 翌日も蒼は年賀状の宛名書きをしていた。書き損じ賀状がまた一枚増えた。
‌ 昨日の『好き』が頭から離れない。あれはやっぱり違う。平山先生にこだわっていないと言えばうそになる。が、新しい酒の、あの舌の上で跳ねあがるような瑞々(みずみず)しさに、すっと寄り添える名前は、あの二文字ではない。
‌「泣いとるの?」
‌ 蒼の顔をパチャラが覗き込んだ。
‌「泣いとらへんし」
‌「蒼さんの字、泣いとる」
‌ パチャラが、書き損じ賀状を(あご)で指した。
‌「泣いとらへんし」
‌ もう一度蒼が言うと、パチャラは首を傾げた。
‌「蒼さんの字、蒼さんより正直や」
‌ ぎくっとしたが、精一杯うそぶいた。
‌「どうせ年賀状なんか、形だけの挨拶なんやから。誰も真剣に見とらへんし、こっちかて真剣に書く気せんやろ」
‌ パチャラが少し遠い目をした。
‌「お正月かて寂しい人がおる。その人が、カード(もら)って、蒼さんの字見て、ぬくい心になる。したら、ハッピー・ニューイヤー、やら?」
‌ 蒼は書き損じ賀状から一枚を手に取り見た。間違えたお得意さんの名前が、そうだ、確かに泣いている。私はこんな字じゃない、と訴えている。
‌ 蒼はコピー用紙を一枚出して、中筆に墨を含ませた。紙に『好き』と書いた。パチャラが得意げな顔をした。
‌「新酒の名前や」
‌ 蒼は頷き、もう一枚用紙を出し、筆を滑らせた。
‌ パチャラが筆の動きに合わせ、唇を尖らせて読んだ。
‌「す、き」
‌ 蒼は『好き』と『すき』の二枚を両手に持って、パチャラの前に出した。パチャラは(しばら)く二つを見比べ、そして、平仮名の方を指さした。
‌「僕、こっち好きや」
‌「そう?」
‌「口の中、アロイ、優しい味の感じ」
‌ 蒼は微笑んだ。わかる人がいてくれたら、それでいい。二枚の紙をくしゃくしゃと丸めてゴミ箱に捨てると、パチャラが慌てた。
‌「あ、捨てないで」
‌「いいの、ごみやから」
‌「ごみと違うやら」
‌ パチャラはゴミ箱から『すき』の方の紙だけ拾い、(しわ)を伸ばした。
‌ パチャラの背後に『恵那峡イルミネーション』のポスターがあった。行け、と言う声が、蒼の後頭部の奥から聞こえた。
‌「パチャラさん、(おお)晦日(みそか)、仕事が終わってから、あれ、一緒に見に行かへん?」
‌ 言ってしまった。
‌ パチャラは振り向いてポスターを(しば)し見た。蒼の方が当惑する程、パチャラの耳がどんどん赤くなっていった。

‌ 中学生になった蒼は、週一回、電車とバスを乗り継ぎ、二時間かけて平山の教室に通った。かなりの出費を(ともな)ったが、蒼の書に向ける目の輝きに、母、澄子は弁当屋の夜のパートを増やした。
‌ 平山は蒼の書に対し、指導らしいことは何もしなかった。蒼にしてみれば、自由に好きなようにやらせてもらえることが、却ってありがたかった。
‌ 中でも蒼は、(たたみ)(じょう)ほどある大きな半紙に、大筆を振り下ろすパフォーマンスに魅了された。中腰になって裸足(はだし)で半紙の上を(じゅう)(おう)()(じん)に駆け回る。渾身(こんしん)の力を込め、全身全霊で文字と(たい)()する、体を突き抜ける熱いものに焦がされる、あの数分、生きている実感で満たされた。
‌ 平山は時々、蒼を連れて、展覧会に(おもむ)いた。行く先々で出会う大人は皆、あの書道教室の先生のように、平山にへりくだった。平山の後ろにいる地味な少女に目を向ける者はなかった。平山も蒼を誰かに紹介しようとしなかった。
‌ 中学三年になり、高校進学をどうするか、という時期になった。このまま書を続けたい、という思いはあった。しかしこの頃、澄子にリューマチが出るようになった。
‌ そんな折、平山と親しくする神社の(ぐう)()から依頼があった。新年のイベントとして、境内(けいだい)で大筆のパフォーマンスを若い書家にやってもらいたい、作品は本殿に展示し、一年間参拝者に公開したい、と。平山は蒼にその役を命じた。
‌ 蒼のパフォーマンスは新聞でもテレビニュースでも大きく取り上げられた。しかし平山は蒼に取材を受けさせなかった。蒼は平山の目に(かす)かな(しっ)()を見た。
‌ (まつ)(うち)が明け、(はつ)(もうで)(きゃく)も途絶えた頃、蒼はその神社に澄子と二人で行った。澄子はパフォーマンス当日、体調を崩して来られなかったため、後日作品だけでも見ようと訪れたのだった。しかし、本殿にも拝殿にも、どこにも蒼の書は見当たらなかった。
‌ 蒼は平山に聞いた。
‌「(ゆい)(しょ)正しきお(やしろ)に、名前のない者の書など、どうして(かか)げられる。お前は何か勘違いをしているようだな」
‌ それが平山の答えだった。
‌ 蒼は家から一番近くにある実業高校に進学することに決めた。部活動には入らなかった。澄子のリューマチを理由に平山の所に通うのをやめた。平山は蒼を止めなかった。ただ一言、
‌「他所(よそ)の門を叩いても無駄だぞ」
‌ と言った。

‌ 大晦日も定時までしっかり働き、終わらなかった分は、年明けに持ち越された。それでもなんとか新酒発表会は、予定通りいけそうだ。最後に社員全員が集められ、社長から一人ずつ、特別ボーナスが渡された。
‌ 他の社員に気取られないように、パチャラが退社した後、十分待ってから、蒼は事務室を後にし、自転車に(またが)った。
‌ 雪は止んでいた。会社から恵那峡へは、普通なら自転車で三十分。でも、雪がまだ道に残っているから、蒼は慎重にペダルを踏んだ。ここでこけてしまっては、(せっ)(かく)、がだいなしになる。
‌ 折角、の何だろう。冷たい風に(ほお)を切らせながら思う。折角のデート、いや、あっちはそう思っていないかもしれない。折角の二人の時間、それはもっと違うか。ただのお疲れさん会、と自分に言い聞かせながら、口元は(ゆる)んでしまう。結局我慢できず、最後のスロープは、両足を広げて一気に滑り降りた。
‌ 駐輪場に自転車を停め、肩で一息つく。落ち着け、こちらの気持ちをパチャラに気付かれてはいけない。
‌ 入口に向かう蒼は違和感を覚えた。いやに静かだ。いくら省エネでも、イルミネーションというには、あまりに暗い。
‌ ゲートの暗がりで人影が動いた。
‌「休み」
‌ え? パチャラがもう一度大声を出した。
‌「お休み、みんな、紅白歌合戦!」

‌ ダム湖に突き出した広いデッキは、今日降った雪で覆われていた。足跡をつけないように、縁の方を歩いて、湖に一番近いベンチに蒼とパチャラは並んで座った。薄暗い外灯が所々にあるものの、目の前にはただ真っ黒な闇が広がり、時々そこに、二人の吐く息がふわりと白く浮かんで消える。
‌ デッキの下から伸びている木の幹に、針金が巻かれている。本当なら、そこに付けられた電飾が、ダム湖の水面に反射して、ロマンチックな演出をしてくれるはずだった。ロマンチック、その言葉が頭に浮かんだ瞬間、蒼はくしゃみをした。
‌ パチャラがリュックからカップ麺をふたつ取り出し、(ふた)をめくった。水筒から湯を注ぎ、慣れた手つきで、割り(ばし)の先の方で蓋とカップを挟んだ。
‌「去年は、社長の家で、蕎麦(そば)食べて、紅白歌合戦見たんや」
‌「日本人より日本の大晦日しとる」
‌「去年より、ちょっとしょぼい蕎麦やけど」
‌ 三分間待つ間、パチャラはデッキから突き出した木の下に行った。
‌「見てみ」
‌ パチャラが蒼を招いた。パチャラの指さす方に顔を向けた。細い枝に雪がかかって、所々しなっている。
‌「あそこ、桜の花」
‌「嘘、雪やら」
‌「違うって、ほれ」
‌ 驚いた。目を細めてパチャラの指を辿(たど)った先に本当に一輪だけ、桜の(つぼみ)がほんの少し綻んでいる。
‌「なんで?」
‌ パチャラは胸を張った。
‌「チェンマイで酒飲ませてくれた日本人が言っとった。冬に咲く桜がある。それどこや、聞いたら」
‌ パチャラが桜を指した同じ指を、「ここ」と言うように下に向けた。
‌「それで、恵那に、こんな所に来たの?」
‌ パチャラは頷いた。
‌「恵那、正解」
‌ ベンチに戻るパチャラの背中を見る。恵那に来て良かったと言われれば、嬉しくないことはない。ただ、蒼はふっと寂しくなる。それでもいつかは
‌「パチャラさん、いつまでここで働くの?」
‌ ベンチに腰を下ろしながら蒼は聞いた。
‌「まだまだ、僕、しょぼいやら?」
‌ しょぼくなくなったら、どうするの? とは何となく聞けなかった。聞けなかったのに、言われてしまった。
‌「でも、いつか、タイで僕の酒、皆に飲ませる」
‌ その日は来る、そうだ、来なきゃいけない。
‌「パチャラさん、夢があるもんな」
‌「うん」
‌「偉いな」
‌「蒼さんは?」
‌ え? 声にならない音が蒼の喉にひっかっかった。
‌「蒼さんの夢、筆の字、アーティストやら」
‌「もういいかな?」
‌ 蒼はカップ麺の割り箸をはずし、蓋を開けた。
‌ パチャラもカップ麺を手に取った。二人とも黙ったまま、麺を(すす)った。ぬくい。じんと体の芯に()みる。
‌ 遠くの方から微かに(じょ)()の鐘が聞こえた。蒼は麺を啜るのをやめ、耳を澄ませた。
‌「ゴーン」
‌「何?」
‌ パチャラが不思議そうに蒼の顔を見る。
‌「知っとる? あの鐘が一つ鳴るごとに、一つ欲しいもんが消えるんや」
‌ パチャラが目を瞬かせる。
‌「欲しい物、消える? 困るそれ、悲しすぎ」
‌ パチャラにとってはそうだろう。欲しい物がはっきりしていて、今はそのためだけに生きていられる、そしてもう少しでそれに手が届く。でも私は
‌「初めっから欲しい物なんてなかったら、悲しくなんかならへんのにな」
‌ 蒼はカップ麺をベンチに置いて一息つき、努めて何でもないように言った。
‌「消したんや」
‌「何を?」
‌「字のアーティストになる夢、消したんや」
‌ 何でもないように言えた、のに、結局蒼は下を向いてしまった。パチャラの影で、自分の顔が見えないようにと、蒼は心から祈った。
‌「トライ、した?」
‌「んな、無理やし」
‌「なんで?」
‌ 蒼は少しむっとした。
‌「アートはお金がかかるの。うち、貧乏やから」
‌「金、いくら?」
‌「パチャラさん、くれるの?」
‌「今は無理やら」
‌「いいよ、期待しとらへんし」
‌「そやけど
‌ その次の言葉がくしゃみに()ね飛ばされ、パチャラは身震いをした。
‌「冷えてきたね、もう帰ろか」
‌「ちょっと、トイレ」
‌ パチャラが見えない位置まで去ったのを見計らい、蒼は上を向いた。除夜の鐘が鳴った。
‌ 欲しい物がまたひとつ消えた。蒼は鼻を啜った。上を向いたのに、目から涙が(あふ)れて、頬を伝い、耳たぶを濡らした。
‌ 夢を捨てた人間に、今追いかけている自分の夢を語ることが、「君の夢は?」と聞くことが、どれほど残酷(ざんこく)なことか、パチャラはわかっていない。そうして、パチャラはパチャラの夢を叶えるために、私のことも、今日ここに来たことも、きっと全部忘れて行ってしまうのだ。

‌「お待たせですわ」
‌「何、それ」
‌ パチャラが(ほうき)を持って立っている。
‌「大きな筆、トイレから借りた」
‌ (あっ)()にとられる蒼に構わず、パチャラはその箒を、雪の上で不器用に動かし字を書いた。
‌ パチャラが何を書こうとしたかはわかる。でも『す』も『き』も鏡文字で、左右がひっくり返っている。くすりと笑う蒼に、パチャラがむっとした顔を見せた。
‌「下手(へた)って思ったやら」
‌ パチャラは自分が書いた字を足で消した。
‌「下手っていうよか」
‌ パチャラは箒を蒼に差し出した。
‌「書いて、あそこ」
‌「は?」
‌「蒼さんの『すき』、蒼さんのぬくい字、あそこ、デッキの真ん中、書いてみ」
‌ 箒を蒼に持たせると、パチャラはさっと後ろの方に退いた。
‌ 蒼の前に、真っ白なデッキが広がる。大きな半紙みたい、あの時の。蒼は目を閉じた。

‌ 鉢巻(はちまき)を締め、たすき掛けをした(はかま)姿(すがた)のあの日の蒼がそこにいた。境内に広げられた真っ白な紙。右手に大筆、左手に墨の(うつわ)を持つ蒼に、カメラのフラッシュが盛んにたかれる。自分の心臓の音が聞こえる。蒼は目を閉じる。周りの歓声が消えていく。やがて心臓の音も聞こえなくなる。蒼は瞼を開く。大きく息をひとつつき、蒼は腰をさっと落とした。

‌ 今、蒼は立つ。(しっ)(こく)の闇の真下に、一面の雪の上に。音が消えた。あの時と同じように。
‌ 蒼は湿ったスニーカーを靴下(くつした)と一緒に脱いだ。箒の柄を握り直して振った。箒の先から水滴が(したた)り、街灯の光を反射してきらりと光った。
‌ 蒼は腰を落として、雪の半紙に対峙した。『す』の最初の横棒をさっとひいた。右端の止めで少し力を抜き、つま先に体重をかけ、真っすぐに下におろす。途中左肩を入れスピードを緩め、カーブを描き、そのまま左にはねる。雪が裸足の指先から熱くなった体を通って天へと昇華する。蒼は息を止め、一気に『き』の字を書き上げた。
‌ デッキを覆う雪は、蒼の足跡と『すき』の字のところだけ、(ちょう)()墨が入ったように黒くなった。靴を()く蒼は、まだ肩で呼吸をしていた。
‌「新酒のラベルの字、これがいい」
‌ パチャラが雪の上の『すき』をじっと見て言った。
‌「もういいわ。もう、有名な先生が書いたんやし」
‌ パチャラは首を横に振った。
‌「これがいい。お客さん、これ、蒼さんの『すき』のラベル見る、心の中の好きな人、思う。この酒飲みたい、思う、絶対」
‌ パチャラはつまりながら必死で言葉を(つな)ぐ。
‌「ほんで、酒、飲むやら。したら、蒼さんの字と同じ味する。心、ぽっ、ぬくい、春が来た」
‌ 蒼は吹き出した。パチャラを見た。パチャラは笑っていない。真面目な顔をして、蒼を正面から見た。
‌「ほんとに好きな物、消したらあかん」
‌ 蒼の顔から笑いが消えた。もう一度、デッキに書かれた『すき』の字を見た。涙が出てきた。でもさっき流した涙とは違うしょっぱさだ。
‌ その時、岸辺のホテルから宿泊客のカウントダウンをする声が聞こえた。
‌「三、二、一、明けましておめでとう!」
‌ 遠くの空で花火が上がった。蒼とパチャラは顔を見合わせた。顔を見合わせて同時に笑った。蒼は声をあげてひとしきり笑った。笑って、笑って、涙を(ぬぐ)った。そしてパチャラを正面から見て言った。
‌「私、やってみる。新酒のラベル、『すき』のラベル、書いてみる。書いて、私の字を使ってくださいって、社長に言ってみる」
‌「ファイト」
‌ 蒼は笑いを堪えて言った。
‌「うん、だから、
‌ パチャラが首を傾げた。
‌「そばで言っとって」
‌「何、言っとって?」
‌「私の字、好きって」
‌「蒼さんの字、好き」
‌「うん」
‌「ずっと言っとる。百回言う。蒼さん、大大大大大好きやー」
‌ ダム湖に向けてパチャラが叫んだ。ちょっと待て。蒼は胸の高鳴りを隠して、揶揄(からか)い口調で言う。
‌「私やなくて、私の字、やら」
‌ パチャラは、あっと言ってもじもじした。もじもじして、それから思い切ったように蒼に向き直った。
‌「僕もお願い、あるわ」
‌「何?」
‌「僕の酒できた時、名前のラベル、蒼さん書いて」
‌「なんて名前?」
‌ パチャラは箒を手に取り、デッキに向かった。動く箒の先を見ながら、蒼は一字ずつ読んだ。
‌「あ、お、って」
‌ 書き上げたパチャラは、どや顔で蒼を見る。デッキには『あおい』と書かれている。あおい? 酒の名前が? 蒼は戸惑いとどきどきと嬉しいを()み込んで、精一杯毒づいた。
‌「馬っ鹿じゃない、そんな酒、売れへんわ」
‌ パチャラは真面目な顔で首を振った。
‌「『あおい』、アロイ、絶対美味しい。間違いなし」
‌ 雪の上の文字が『あおい すき』になっているのに、パチャラは気付いているだろうか。
‌ 漆黒の恵那峡に蒼は目を()らした。見えないけれど、あそこに名前のない岩がある。その岩に、名前の知らない鳥が、きっと頭を上げて立っていた。私も、と蒼は空を見上げた。
‌ また一つ花火が上がった。光の粒が雪の上の五つの文字に降って来た。

‌【おわり】